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判断は情報に依存する。
ゆえに情報源の不正は不公正な判断を導く。
判断ではなく、情報源が善悪を決定する。
Re-anger主催(キタノ)北の系2005

20050102 宮台真司氏講演:メディアの影響とメディア規制

宮台真司氏講演:メディアの影響とメディア規制

センセーショナルに報じられた殺人事件を機に、一部のメディア関係者が学問的に説明のつかない不合理な理由で、マイナーメディアあるいはマイナーな嗜好をバッシングするという状況*1が発生しています。

現在では科学的にその実証が疑問視されている強力効果論仮説を前提にした性表現や暴力表現(を伝えるメディア)の悪玉論は、結局のところ自分とは無関係な他者に「帰属処理」をし自分とは無関係な他者を問題の原因とすることによって自分だけを安全な立ち位置に置こうとする「切断操作」をしているにすぎないと宮台氏は指摘します。

また、そのような情緒的で非科学的な態度こそが、その態度をとっている者自身に対する規制、すなわちメディア規制を招いているとも宮台氏は述べています。

というわけで、ビデオニュース:宮台真司氏の講演記録を暫定公開。ここでは主なポイントを抜粋引用します。

 

ビデオニュース:宮台真司氏講演 メディア影響論

http://d.hatena.ne.jp/kitano/20040115

私がこれから申し上げるようなことを言うのは、私は“恥ずかしくて”たまらない。

たとえば、暴力的なメディアが暴力的な子どもにするのかという研究は、過去80年間に渡って“膨大な”蓄積が存在して、その結果そのような考え方は否定されているのであります。

さらにですね、死刑、あるいは死刑のようなもの、あるいは重罰化によって殺人のような凶悪犯罪を抑止できるウンヌンカンヌンというようなことについても、膨大な国連刑事統計があって、実際のところどうなのかと言うようなことはもうはっきりしているわけです。

仕方ないのでお話をいたしますが(苦笑)、実は「暴力的なメディアが人を暴力的にする」ということを、「強力効果論」とマスコミ効果研究の伝統の中では申します。

「強力効果論」は、1920年代から実証が試みられてきましたが、実は残念ながら実証に失敗し続けてきました。

つまり「暴力的なメディアが人間を暴力的にする」ということは、証明できない。そのような証拠はいささかもあがらないのであります。

実は1930年代1940年代ほぼ20年間に渡ってきわめてインセンティブなマスコミ効果研究を行ったアメリカのクラッパーという有名な学者がいます。そのクラッパーが膨大な調査研究の末いくつもの膨大な本を書きましたけれども、その中で実証されたのは「限定効果論だけである」とこういうふうに言っております。

「限定効果論」というのは、一口で言えば「もともと暴力的な性質を持つ人間が暴力的なメディアによって引き金をひかれる可能性がある」ということです。

これはですね、「引き金をひくなら悪いじゃねーか」と皆さん思うでしょうが、いい悪いは別といたしまして、問題はその先にあるんですよね。じゃあその引き金になるからといって暴力的なメディアを規制したとして暴力的な性質を持った人間は引き金をひかれないかと言えば、そういうことは“まったく無い”んですね。マスコミがひかなければ別の者が単にひくだけの話し。単なる確率論的な問題です。

ですからクラッパーは、いくつかの本の中で繰り返し「人間が暴力的になる理由は、メディアの悪影響によるというような単純なもので考えることはできない。そのために必要な考察、調査研究はこれは膨大なものであって、そのようなものを強力効果論のごとき単純な図式で覆い隠してはいけない」というふうに言いつづけてきたわけであります。暴力的なビデオの研究も同じような結果を出しているわけですね。

暴力的なビデオが、これは2年間の長期にわたる調査ですけれども、子どもを暴力的にすると言う結果は得られなかった。ただ、カンフー映画を見てアチョーっていってロッカーを蹴るような短期的行動は存在した。僕もそうです。僕もロッカー蹴ってました。僕が空手部に入ったのは「燃えろドラゴン」の影響でしたけれども、そういうことは起こり得るかもしれませんね。これが学問的なデータです。

実は、クラッパー以降マスコミ効果研究が注目しているのは、「受容文脈論」というものです。引き金をひくひかないという話をしましたけれども、暴力的なメディアが暴力的な人間の引き金をひくのかというと、そういうことは“無い”んですね。

一般に、暴力的なウンヌンカンヌンに限らずメディアの影響と言うのは、「受容文脈で変る」というのが今日の学問的な常識です。

たとえば具体的には、テレビやゲームを享受する場合に、一人でやる場合、テレビでは一人で観る場合、知らない人と観る場合、友達と観る場合、家族と観る場合とでは、それぞれ影響が違うんです。一般的にいえば、親しい人間と一緒に観る場合では間接化され、独りで観る場合にはアブソーブルされて…要するに飲みこまれてダイレクトな影響を受けやすいという傾向があります。

理由は簡単ですね。人と一緒に観ていると、たとえばテレビを観ていてとなりにいる家族が「これはヒドイ番組だね」とか「くだらないね」とか「いい番組だね」というとすると、「おおこれはクダラナイのか」とか「これはいいのか」というふうに一端距離化されて再定義されるわけですね。

これがダイレクトな影響を阻む理由だと言うふうに考えられていますが、このように「受容文脈」によって一般にメディアは良い影響も悪い影響も変ってくるわけであります。

・・・・・

僕は思うんですよ。十年前に和歌山県の変な主婦が「有害コミックが子どもをダメにする」という運動を始めてですね、「その子どもは?」って聞いたら「30代」なんですけれども(笑)「なんなんだお前は?」っていう問題はさておいて、これは規模が全国化いたしまして、テレビではそれこそ草野厚みたいな奴が「やっぱりこういうメディアは規制しなければなりませんよねー」と言いまくっているんですよコメンテーターを始めとして。

あのような態度の、エロ系暴力系マンガに相当するようなものとテレビとは違うと勝手に思いこんでいるんですね。自分に関係ないと思うものは「規制しろ!」と。「こういうマンガがあるから若い人はダメになるんですね」とか言って、同じロジックが自分に適用されているだけなんですよ!

・・・・・

いずれにしても、そのようなかたちでわれわれメディアの側は非常に稚拙な「帰属処理」をしてきた。「帰属処理」というのは、なにかわけのわからないことが起きたらとりあえず「誰かのせいだ!」というふうに吹きあがることによって「カタルシス」=感情的な浄化を獲得するという「帰属処理」を行ってきました。

その場合多くの「帰属処理」は、自分に帰属するんじゃなくて、カッテングアウトオペレーション、「切断操作」と言いますけれど、自分と関係のない者に帰属して胸をなでおろす。こういうことをやってきたわけです。

「こいつら鬼畜だ」というのもそうだし「こいつら病気だ」というのもそうです。「自分は鬼畜ではない」しあるいは「自分の子どもは病気ではない」、「関係はない」というわけです。

ですから、病名探索が行われる理由も、そういうエゴイズムが背景にあります。

「この犯罪を起こした人間は正常か異常かということでいえば、あるいは正常か病気かということでいえば完全に正常です。まったく病気ではありません。でも平気で人を殺します」、こう言われたら多くの人間は「うちの子もまったく普通で正常だ、ということはアブナイかもしれない」とか言って頭を抱えちゃいますよね。そういう番組を作ればいいのですが、作らないわけです。

・・・・・

先ほど申し上げましたように、なぜ少年は動機不明な凶悪犯罪を犯すのか。「凶悪なメディアが増えているからだ」。そうですか? そのような図式をずうっとメディアが反復してきたんです。

ですからそういうメディアが、まさに刃が自分に向いて、あるいは吐いた唾が自分に降りかかってくるというのは、文字通り「自業自得」であるわけです。

で、冒頭に申し上げた意味はわかりますよね。こういうふうにここ二年間、広くとって五年間、こうした(メディア規制の)動きが喧しくなった背景には、メディアの責任があります。

要所要所で別の選択をメディアが果たすことが出来れば世論形成はちがっていた可能性があります。その証拠に、個別の番組では結論を押し返すことができる。これは僕が経験的にわかっているからです。そうした世論形成をメディアが怠ってきた。その結果、まったく同じメカニズムが自分に向いているだけの話です。

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*1:報道被害奈良女児誘拐殺人事件における、マスコミのオタクバッシングまとめサイト http://www.geocities.jp/houdou_higai/ 参照


 

疑うことをやめること。
それがもっとも真実から遠い行為だ。

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