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四月惨変(日本茶ダウン中につき、暫定的に転載) |
ノンポリ |
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2005/05/05 00:31 |
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(この投稿も、「シベリア出兵 革命と干渉1917-1922」(原暉之・著 筑摩書房)より全面的に引用させていただきます)
シベリアの革命派は、コルチャーク軍などの白色テロ集団や日本など列強の干渉軍を撃破しながら広く勢力を伸ばしていきました。日本が支援していたコルチャーク軍の軍事独裁政権の崩壊に伴い、コルチャークは「イルクーツク軍事革命委員会」にて裁かれ、1920年2月処刑されました(どこの国でも売国奴の末路というのは哀れなもんです)。
さらにアメリカが「チェコ軍の救援」という派兵の目的を達成できたとしてシベリアから完全撤兵することを宣言したことは、日本にとっては「脳天からの一撃」でした。
ちょうどそのころアメリカ政府に対し、状況に応じてシベリア干渉軍を増派することについての同意を取り付ける覚書を手交し、またアメリカとの協調関係の下で「極東露領三州を以て自治的一政治地域と為す」ことを画策していましたが、これらが水泡に帰してしまったのです。
(大戦末期にアメリカとソ連の共同作戦が準備されていたことも知らずにソ連に対し和平工作を求めたり、6ヶ国会議では一部の狂信的集団の圧力に屈して拉致問題を主要な議題として取り上げようとしたものの他の出席国から一蹴されるなど、この国は今も昔も「場の空気を読めない」国のようです)
こうしてイギリス・フランスに次いでアメリカもシベリアからの撤兵を宣言する中で、日本国内でも異常な軍事費の膨張と相まって撤兵世論が高まっていきました。「大阪朝日」は1920年1月20日の紙面で「増兵は不可、現状維持も無意味、全部撤兵の外はない」という見出しのもとに、前日ウラジオストックから帰国した派遣軍政務部附大蔵省事務官の次のような談話を掲載しています。
「一個師団でも一億円要るが一億円の金を投げ出して得る所のものは何もない」
さらにはウラジオストック派遣軍広報局主幹の頭本元貞という人が「何で(いかで)速かに撤兵の議を決せざる」という意見書を政府に提出します。
「今より考へて見れば最初米国と協定以外の出兵を為したのが抑もの間違であったので、ただちに之が為米国政府に対して日本外交の信用を堕したるのみならず、終に今日の如く進むに進まれず、退くに退かれないような破目に陥ったのである。・・・・・・・此の上兵力を増してセメノフ軍カルムイコフ軍の如き良民より蛇蝎視せらるる者と提携して大いに活動するに於ては、露人の悪感は愈々其の骨髄の達し、徒に千万の利権を護るも何の益かあらんと云ふ結果になるのは明白である。・・・・・他国の民心を度外視し、否之を踏みつけて徒に領土に勢力圏を拡張せんとする政策の、自殺的結果を生ずるものなることは、現に支那に於て苦き経験を嘗めつつまるではないか。然るに更に同一の失敗を西伯利に繰返さんとするは愚の至りではないか」
このようにシベリア派遣軍のスポークスマンすら、撤兵を主張していたのです。シベリア出兵は自衛だなんて馬鹿げた妄言は、当時の軍内部の人間すら吐かなかったのです。
前述のように議会では野党の憲政党が激しく政府を追及していました。こうして「進むに進まれず、退くに退かれない」状態に陥った政府は、「政策変更に非ずして寧ろ守備線整理」であるという方針を示し、アムール州とザバイカル州からの撤兵を決定しました。
しかし、後に尼港事件が起きたニコラエフスク、中東鉄道(「東清鉄道」のこと。「中国東北」鉄道。ロシアが敷設権を得て、中国東北部を縦断してウラジオストックに達した)沿線、そして「沿海州」南部には駐留を続けることになりました。
「沿海州」とは読んで字の如く、日本海沿岸の州です。閣議決定では、
「帝国と一衣帯水の浦潮(ウラジオストックのこと)方面も全然過激派の掌中に帰し、接壌地たる朝鮮に対する一大脅威を現出すると同時に同派は進んで北満に侵入し来るの虞ある処、此の如きは帝国の自衛上黙視難き所たり」
となっています。「自衛」と言えるかどうかはともかく、日本海の対岸が社会主義国の領域になることは恐ろしかったのでしょう。こうして日本軍はアムール州などから撤退する代わりに沿海州に集結しましたが、そこでは革命パルチザンと混在することになり一触即発の状態が続きました。
ところで沿海州では急激な新体制への移行は行なわれませんでした。1920年1月、中道派・革命派は協議の上、この州を「緩衝国家」とすることを決定し、レーニンもこれを了承しました。列強のこれ以上の干渉を上手くかわそうとしたのです。
しかし日本軍はこの曖昧な状態を、革命派に大打撃を加えるチャンスだと見てしまったのです。おりしも同年4月1日、アメリカ軍の最後の部隊がウラジオストックの港を発ち、アメリカの撤兵が完了しました。現地の大井司令官は後に、
「私は一々細かいことまで衝突しても仕方がないから隠忍して居れ、其のうちに時機が来れば私が命令して総決算をするから十分準備して置いて其の時には思ふ存分にやれと言って時機を狙って居った。併し米国軍が縺れて面倒になるから、同国軍が撤退したら大いに過激派を叩いて摩擦の根元を一掃せねばならぬと意を決して居った処、三月尽日までに米国軍は引揚げた。そこで過激派軍は鉄道沿線から三十粁距った所でなければ置かぬと云ふやうなことを主にした数個の条件を我が軍から提出し、これは絶対的のものであると強硬に交渉させた」
と述懐しています。「怖いアメリカ軍がいなくなったから、ここは一つやりたい放題にやっちまえ!」って感じですね。
早くも翌日には、軍高級参謀高柳少将は沿海州政府に対して「我軍の駐留に必要なる諸般の事項即ち宿営、運輸、通信等に関し支障なからしむ」ための6項目の要求を交付しました。4月4日土曜日の深夜には、日本軍はウラジオストックなど州内各地の沿海州政府軍に対し突然武装解除を命じました。こうして日本軍と沿海州政府軍の間に戦端が開かれ、日本軍側は総計約500名、沿海州政府軍側は2000名以上の死者が出たそうです。また日本軍は「白衛派(反革命派)」を釈放するだけでなく、一部の革命派幹部を逮捕して「白衛派」に引き渡しました。彼らは極めて残忍な方法で処刑されたそうです。
世界をあきれ返らせたこの日本軍の暴挙は「四月惨変」と呼ばれています・・・・・
領事団会議に於いて日本は、チェコやアメリカだけでなくイギリス・フランスからも激しく糾弾されました。日本がどういうつもりでシベリアに居座り続けるのかが露わになってしまったのです。(実際にコルチャーク政権は、日本は「中東鉄道」南部支線の獲得、森林・鉱山資源での利権獲得を望んでいることを推測し、それに応じる構えでした。また大井司令官は決起の前夜に、元コルチャーク政権の高官数名に日本軍が成立させようとする新政権の代表となることを打診し、全て断られたため民衆から「蛇蝎の如く」忌み嫌われているセミョーノフを擁立しようとしたそうです)
こうして日本軍は、「道義的に完全に権威を失墜し、連合国内部でいっそう孤立を深め」ることになります
ところで「四月惨変」の被害に遭ったのはソ連人だけではありませんでした。沿海州に住んでいた朝鮮人独立運動家も激しい弾圧を受けたのです。
・・・・1910年に朝鮮は日本の植民地となってしまいましたが、朝鮮人の抵抗が消えることはありませんでした。朝鮮半島内では極めて困難だった独立運動は、シベリア・中国在住の朝鮮人によって継続され、ウラジオストックの「新韓村」は独立運動の拠点となっていました。1918年8月に日本軍が市内の目抜き通りに派遣軍司令部を設置したときも、同じ市内の「新韓村」では独立運動のデモが行なわれていました。彼らは港内に停泊中の日本軍の艦船も恐れなかったのです。また、菊池総領事が「新韓村」を訪れ「韓民学校」に200ルーブルを寄付しようとしたところ、女教師はそれを破って焚き火の中に投げ入れたそうです。
そして翌年朝鮮半島で起こった三・一独立運動はウラジオストックにまで飛び火しました。菊池総領事からの要請によって市当局が示威運動を禁止したのにも拘らず、ウラジオストックに住む朝鮮人は大極旗を打ち振るって市内を行進しました。またニコリスクなど州内の他の都市でもデモが発生していました。三・一独立運動は極東の各地に波及していたのです。朝鮮半島の現状を知らない日本人も、朝鮮人の絶えることが無い独立への願いを思い知らされたでしょう。
また、革命パルチザンに身を投じて日本軍と戦う中国人や朝鮮人もいました。祖国の独立のためにも、日本のシベリア侵略を撃退しなければならないと感じたのでしょう。
こうしたシベリアでの朝鮮人の動きは、日本軍当局にとっては実に苦々しい思いだったでしょう。「鮮人の分際で皇国に逆らい独立を祈願するとは、いわんや露人の過激派に与するとは、何事ぞ!」と、怒り心頭に達していたことでしょう。
「白衛派」を一掃して成立した沿海州政府に対しても、日本軍は朝鮮人の独立運動を取り締まるように要請していました。しかし沿海州政府は独立運動を支援しており、そのため日本軍は独自に必要な措置を取ると通告しました。
現地の参謀部が作成した「朝鮮人取締要綱」によると、
「鮮人は凡て帝国臣民(帰化非帰化を問はず)として取り扱うものとす」として、独立運動やパルチザン闘争を取り締まり、「軍事上に関係を有する」行為だけでなく、皇室侮辱など「我軍の権威と両立せざる性質」の行為についても、「日本軍臨時軍法会議」にて処罰する、と規定されました。
つまりは、「鮮人は、どこの国に住んでいようが、どこの国に帰化しようが、日本人なんだよ!だから独立したいとほざいたり、陛下を侮辱した奴ぁ、日本人として処罰してやっからな、おぼえてやがれ!」ってな感じですね。ここまで身勝手な論理は珍しいもんです。
そして沿海州政府軍への攻撃開始とほぼ同時である4月5日午前4時、日本軍部隊は「新韓村」へ突入し、独立運動家60余名の逮捕し、ウラジオストックの朝鮮人居留民社会のセンターである「韓民学校」を石油を撒いて焼き払いました。ニコリスクでも、「排日鮮人」を捜索し70余名を逮捕し、その中の指導者4名を連行中逃亡を企てたとして射殺しました。4月21日の第二次「新韓村」捜索の際には、逮捕された朝鮮人はソ連人の回想によると「彼らはひとまとめにして首に古レールをつけられ、ウラジオストックに近いウリス入江に沈められた」そうです。総督府派遣員すら「村民は挙て日本の悪辣なる手段に憤慨しつつあり」と報告したそうです。
このように日本は朝鮮半島外に於いても、朝鮮人の独立運動を武力で弾圧していました。そしてこの年日本軍は、中国の間島地方に於いても同じように朝鮮人の独立運動を弾圧するために残虐な行為を行なうのです。
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シベリア出兵(日本茶ダウン中につき、暫定的に転載) |
ノンポリ |
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2005/05/05 00:29 |
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アイルランド出身のロックバンド“U2”の“Sunday Bloody Sunday”は大好きで、今でも車の中で聴いています。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/2209/u2-01.html
この曲は1972年1月30日、北アイルランド・デリー市で起きた「血の日曜日」と呼ばれる虐殺事件をテーマにしています。アイルランド人のデモ隊に向ってイギリス軍が自動小銃で攻撃し、13名が亡くなり、多くの負傷者を出した事件です。
ところで「血の日曜日」といえば、ロシアで百年前に起きた事件の方が有名です。
1905年1月22日、ロシア・ペテルブルクの冬宮前広場で、不当な解雇に抗議し神父ガボンに率いられ請願書を提出しようとした労働者のスト隊に対してロシア軍が発砲し、数百人の死者が出た「血の日曜日」事件です。
この事件によってロシア民衆の「父なるツァーリ(皇帝)」という素朴な信仰は揺るぎ、ロシア全土で抗議ストライキが起こりました。そして各地で「ソビエト」という名の労働者の代表機関が設立しました。こうして第一次ロシア革命が始まったのです。
革命勢力を弾圧しなければならなくなったロシア政府にとって、その時継続中だった日露戦争は大きな負担となりました。極東の島国と争っているどころではなくなったのです。同年5月の日本海海戦でバルチック艦隊は壊滅し、9月にアメリカの仲介によって講和を受け入れることになります。日露戦争によって国内の革命への気運を逸らしたい期待もあったのですが、思いもよらぬ苦戦によって終結を急ぐことになってしまいました。
その後革命派は徹底的に弾圧されますが、1917年の二月革命によってロマノフ王朝は崩壊し、十月革命によってボリシェビキは政権を握ります。こうしてソビエト連邦が誕生したわけですが、各地に旧政権の勢力が残存していました。これはイギリス、アメリカ、日本など列強にとっては革命に干渉する絶好の口実となったのです。地球上に初めて誕生した社会主義国は、誕生と同時に列強の侵略を受けてしまったのです。
ところで中国を侵略していた日本軍による八路軍などの共産軍に対する行状は、蒋介石軍の共産軍に対する行状と同様に残虐でした。ベトナムを侵略したアメリカ・韓国のベトナム民衆に対する残虐行為は南ベトナム政府軍の行為など比較にならぬくらい残虐でした。
国内の反共産勢力による「白色テロ」よりも、得てして侵略軍による共産勢力に対する行状の方が残忍無残なようです。これはシベリア干渉戦争に於いても同様でした。シベリアを侵略した日本軍の行為は、コルチャーク軍(コルチャークとは、日露戦争にも従軍し黒海艦隊司令官にもなったロシア海軍の提督で、革命後には列強の支援を受けシベリアで軍事独裁体制を樹立させます。後に銃殺刑)などと同様、若しくはそれ以上に残虐でした。
ベトナム戦争や日中戦争の時と同様に、革命パルチザンは民衆の厚い支援を受けていました。民衆の海の中で神出鬼没に抗戦するパルチザンをに苦しめられ追い詰められた日本軍は、近辺の村落を焼き払い、住民を虐殺するに至ったのです。日本軍による三光作戦は、1918年から始まったシベリア出兵に於いて、既に実行されていたのです。
(以下は、「シベリア出兵 革命と干渉1917-1922」(原暉之・著 筑摩書房)より全面的に引用します)
シベリアを軍事的に支配しようとしたコルチャーク軍の残虐行為は民衆を震え上がらせていました。
「彼らは父親の眼の前で息子の新規召集兵を殺し、娘を強姦し、何の罪もない住民を殺し、農民の所持品、財産を奪い、農民が汗水流して得た小銭まで盗んでいる」(「ターセヴォ軍事革命本部広報」第一号)
このようなシベリアの反革命勢力にとって、母国を侵略している日本軍は頼もしい存在だったようです。反革命軍が日本製の小銃を備えることも少なくなく、また日本軍が行なった三光作戦は、残虐非道なコルチャーク軍でさえ、お手本となり得るほどの徹底したものだったのです。
1919年3月20日、コルチャーク軍の陸相「スチェパーノフ少将」がイルクーツク軍管区司令官に宛てた書簡は次のように綴られています。
「最高統裁官は貴殿に以下のことを伝えるよう命じた。
余のたっての希望は、エニセイスク県下の反乱に対して、叛徒はもとより、彼らを支持する住民にも厳しい措置、残酷な措置にさえ訴えて構わぬ、できる限り速やかに徹底的根絶を図れ、ということである。この点、ボリシェヴィキを匿っている村は焼棄せよ、と宣言したアムール州の日本軍の例が、おそらく森林地帯でのパルチザンとの困難な闘争で成功を収める必要性そのものによって想い起こされる。いずれにせよ、キーヤイ、コーイの両村に対しては厳しい懲罰が適用されなければならぬ」
ベトナムでの三光作戦はアメリカ軍が先導したように、シベリアに於ける三光作戦も純然たる侵略者である日本軍が先導し、徹底的に行なったようです。言語も風俗も宗教も異なる侵略者にとっては、自分たちを苦しめるパルチザンを支援する現地の民衆には、些かの温情も抱かなかったのでしょう。
そして後にアジア各地で行なったように、厳寒の地・シベリアに於いて民衆の住居を無差別に焼き払う暴挙に出るのです。
1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は、「師団長の指令に基き」、次のような通告を発しています。
「第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て其実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するものあるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄すべし」
また、ウラジオストック派遣軍政務部長松平恒雄の内田外相宛の電報「別電一五九号」には次のように記されています。
「最近州内各地に於いて過激派赤衛団は現政府及日本軍に対し州民を煽動し向背常なく我軍隊にして其何れが過激派にして何れが非過激派なるかの識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが斯くの如き状態は到底之を容すべからざるものと認め全黒竜州人に対し左の通り通告す
一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打して殲滅すべし」
侵略軍にとって、民衆からの抗戦組織への支援を根絶するための三光作戦を実行するに当たり、民衆を一人ずつ殺していくよりも、物資を強奪または破壊焼却するよりも、民家を手当たりしだい焼き打ちすることが最も安易かつ効果的だったのでしょう。
ウラジオストック派遣軍参謀長は、上記の宣言が忠実に実行されれば「諸種の問題を惹起するに至るべく又永久に庶民の怨を買ふが如き結果に陥るなきやを惧る」という、全く当然の懸念を第十二師団参謀長に伝えたところ、
「家屋焼却等は戦闘上避くべからざるもの『チェルノフカ』及び『パーロフカ』等十数軒に止まり農民は案外に少数なる驚きあらんと思はる。良民を虐殺する等は絶対に無く強姦等は勿論なり」
という返信がきたそうです。ともあれ「家屋焼却」が「戦闘上」必要であり、実行していることは認めています。(因みにソ連の歴史家は1919年3月にアムール州で数多くの村々が焼き打ちに遭ったことを一つ一つの村の名前を挙げて示しています)
この州で同年1月には、「マザノヴォ」という村で日本軍「現地守備隊」の暴虐に耐えかねた村民が立ち上がり、近隣の村落も巻き込んで大規模な戦闘が始まり、日本軍は零下42度という過酷な気象条件の中で苦戦の末敗走し、一時は街角に赤旗が翻ります。
しかし「守備隊長マエダ大尉」(前田多仲大尉)の率いる日本軍討伐隊が来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を占領しさらに「ソハチノ」という村に到着するや、女子供も含む逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払ったそうです。
日本軍の「出兵史」でも、「同地には我が守備隊よりの掠奪品を隠匿しありしを以て懲膺の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷せり」と、村落の焼き打ちが行われたことを記しています。村民をマイナス40度という「マローズ」の中へ放り出すことへの後ろめたさを感じる余裕など無かったのでしょう。
こうした日本軍の蛮行によって、アムール州で最も甚大な被害を蒙ったのが「イヴァノフカ」という村でした。
この村は革命派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従いませんでした。そこで反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行いました。しかしこういった蛮行は民衆を憤激させ、革命勢力をより深く浸透させることになり、イヴァノフカはパルチザンの大きな拠点となりました。
この情勢を察知した日本軍「討伐部隊」が1919年2月に襲撃を開始したところ、逆に地形を知り尽くしているパルチザン部隊によって誘いこまれて袋の鼠になってしまい、田中勝輔少佐率いる歩兵七十二連隊第三大隊が「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」するなど、大損害を受けました。
そして翌月、日本軍はこの村を「黒竜州に於て過激派の跋扈したる其の当初より既に彼らの有力なる巣窟」であり、「其の住民中男子は殆ど赤衛軍に参加」したとして、残虐な復讐戦を行なうのです。
その半年後、ウラジオストク派遣軍政務部はこの村に調査団を派遣し村民からの聴き取りを行い、「黒竜州『イワーノフカ』『タムホーフカ』村紀行」という報告書をまとめています。
「過激派の為に田中大隊全滅の悲惨を見たる九州男子の憤怒よりして此の大活劇を演じたとして見れば焼いた方にも無理は無さそうである」と、日本軍を擁護する論調ながらも、残虐行為を告発する内容になっています。
「本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業を仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった。間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。最も惨酷なるは十五名の村民が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである。殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計七百五十万留(ルーブル)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生活に窮して居る家族は多数である」
ちなみに、翌年2月にアムール州にソビエト権力が復活すると、州都である「ブラゴヴェシチェンスク」の新聞社は「赤いゴルゴダ」というタイトルのルポを発行しましたが、それによるとイヴァノフカでの蛮行による被害者は乳児も含む291人ということです。
ところでアムール州は極東ロシアの穀倉といわれた地で、中でもイヴァノフカという村は「人口八千からある」大きな村で、「米国式農具」も使用していたほど、「富に於ても亦州内其比を見ない位の村」でした。日本軍はこの村の村民を、パルチザン支援者であろうとなかろうと無差別に虐殺したのです。
「殺された者の内には過激派で無い者が多く焼かれた家は全然過激派の家ではない。寧ろ反過激派とも称すべき資産家許り」
こうした行為は自然と、抗日・反帝国主義意識を高めさせることになったと、『イワーノフカ』『タムホーフカ』村紀行」の編者は観察しています。
「此の事あって以来村民の大部分は極度に日本軍を恨んだ。そして自然過激派に変ずるものも少なくなかった」
日本軍が中国で民衆を殺せば殺すほど、アメリカ軍がベトナムで民衆を殺せば殺すほど、民衆の抵抗が弱まるばかりが逆に、民衆の侵略者への憤激は高まり、帝国主義国の侵略軍は自分たち民族を殺し続けていくものだと悟らせ、そしてさらに民衆による抗戦が激しくなって侵略者を追い詰めていったのと同様に、
日本軍のシベリアでの蛮行は、反革命勢力や日本などの列強からの侵略軍を追い払わなければならないことを民衆に自覚させ、そして早急なるソビエト体制の確立を望ませることになってしまったのです。
この点日本軍はシベリアの共産化に一役買ったことになります。
・・・・・このような、秀吉の朝鮮出兵と同様に意味のない馬鹿げた侵略戦争について、国内でも批判が高まってしました。
1920年2月の第42回帝国議会にて、野党の憲政党は「西伯利出兵に関する質問主意書」提出しましたが、シベリア出兵の目的についての政府の説明に対し、「従来政府は我が西伯利出兵に関し或は過激派討伐と云ひ、或は『チェック』救援と説き、或は鉄路保護と称し、或は過激思想防遏と唱え、随時随処其の説を異にしたり」と批判しています。
いくら美辞麗句を並べてみても、シベリア出兵は無計画な侵略戦争に過ぎないことは政府も自覚していたことでしょう。しかしこの愚行に学ぶことなく、二十数年後にはシベリア出兵と全く同様な無意味な侵略戦争を開始し、国を滅ぼすことになります。
日本軍が完全にシベリアから撤兵したのは1922年でした。この間に日本軍の戦死者は1533名、病死者591名に達し、戦費については当時の金額で公式統計4億3859万に達するそうです。こうした大きな代償を支払いながらもこの戦争で日本が得たものは何もありませんでした。(つーか金塊を強奪して持ち去ったことだけがささやかな戦果と言えるかもしれません?17431参照)
それにシベリア民衆の損害は計り知れません。日本軍によるシベリア出兵とは、村落を焼き払い、民衆を虐殺するためだけに行なわれた戦争だと言えるでしょう。
ところで、日本軍がシベリアで強く警戒し場合によっては虐殺したのは、ソ連人の民衆だけではありませんでした。それにこの時期ユーラシア大陸の東端に日本軍が侵攻し民衆を虐殺したのは、ソ連邦領土内だけではありませんでした。
つづく |
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