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ちょっと知的な雑学&トリビア

カタルシスの効果

2005年1月20日 【コラム

 怒りを溜め込んでいると、キレるリスクが高まると信じられている。それにどう対処するか。ちょっと軽いけれど、昨年流行ったフレーズで表現するなら、こんなところか。
 暴力的な気持ちになったなら、パンチングバッグでも叩いて発散させれば、カタルシスが得られてすっきりするって、言うじゃない。でも、実証研究からは、カタルシス効果って認められていないんだよね。残念。それどころか、むしろ攻撃性を高めるんだって。斬り。
 米国の研究者らが、被験者に怒りの感情を抱かせて、その後どういう行動をとるかを実験した。カタルシス効果を信じている被験者は、リラクゼーションなど反カタルシス効果を信じる被験者より、攻撃的な行動を選ぶ率が高い。しかもその攻撃性は、怒りの原因となる相手に対してであろうと、それ以外の人に対してであろうと、変わりなかったという。
 研究者らはさらに、パンチングバッグを叩くことを楽しんだ被験者は、より攻撃的になる傾向が見られたという。気持ちをすっきりさせると信じてとった行動が、攻撃性を高めている。その理由は、プライミング効果といった心理面からも説明できるけれど、オランダとハンガリーの研究者らが最近行った研究は、ホルモンという視点から裏付けている。
 彼らが行ったのはネズミによる実験。暴力をつかさどる神経経路を刺激すると、ストレスホルモンに対する反応が高まる。次にストレスホルモンを投与すると、行動が攻撃的になる。つまり、暴力的な行動がストレスホルモンを増やし、増えたストレスホルモンがいっそう攻撃性を高めるという、悪循環が芽生えているのだ。
 何かに腹が立ったとき、パンチングバッグに怒りをぶつけたり、バイオレンス映画に我を忘れるのは、ある意味でたやすい。それをカタルシスと理屈づけて逃げるのではなく、怒りに向かい合い、それでもなおかつ心をリラックスさせる困難な道を、ぼくたちは選ぶべきということなのだろう。


12 comments to...
“カタルシスの効果”
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小橋昭彦

人間の攻撃性については、以前のコラム「攻撃性 [2004.10.28]」もご参照ください。プライミング効果についても説明しています。

米国のBrad J. Bushmanらによるカタルシス研究は、「Catharsis Aggression and Persuasive Influence: Self-Fulfilling or Self-Defeating Prophecies?(Journal of Personality and Social Psychology January 1999 Vol. 76 No. 3 367-376)」がその論文です。

また、最近のストレスホルモンとの関連についての研究は、Menno R. Krukらによる「Fast Positive Feedback Between the Adrenocortical Stress Response and a Brain Mechanism Involved in Aggressive Behavior」で、「Behavioral Neuroscience」のOctober 2004からPDFでダウンロードできます。プレスリリースとして「Stress and aggression reinforce each other at the biological level」があるので、そちらで読むのが手軽。

ちなみにBushmanはメディアの影響なども調べていますね。メディアと攻撃性についてはいつかとりあげたいと思いつつ、奥が深くてまとまりきれていません。また、プライミング効果については、いつか独立して取り上げてみたいと思っています。


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nao.exe

小橋さんが波多陽区を。
むしろそっちのほうがびっくり。


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ちゅうそん

nao.exeさんに同感です。

ところで、怒りの気持ちを怒りで紛らわすよりも、忘れる方が賢いと思います。


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得津富男

こんにちわ今回も心理に関係する内容でつい読んでしまいました。感想は特にホルモンノアプーチから取り組んでいるは「神経心理学」的な内容と今ひとつ「行動」では恐らくSR連合主義心理学を取り上げているようですSR(ストレス&レスポンス対応論)つまり攻撃性と言う行動様式も程度も加えられた「ストレス(外部刺激)によって決まる」というのですが、因みに文中のハタヨークの駄洒落なんか「随分オヤジ的」ジャナーイこの傾向には要注意です。さて次回を楽しみにしていますが、一度「農業について語りたい」と考えていますがどうですか


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小橋昭彦

わわ、やはり突っ込まれた(笑

>小橋さんが波多陽区を。
>むしろそっちのほうがびっくり。

軽いけどって自分でもつっこんでから書いてしまいました。こういうノリは、好きじゃないんですけどね。それでも書いた何らかの理由がある……のかな?

得津さん、農業、ですね。まじめには考えているのですが、さて、どうとりあげるか。ザツガク的に処理できる道が見つかったら、やってみます。


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くうちゃん

カタルシスというのは、もともと語源は下痢ですよね。
アリストテレスの。

であるならば、
オイディプスのような、恐るべき宿業悲劇を見て恐れおののき、あるいは王に憐れみを感じることで、
観客が、自分が抱える罪悪感なり悲惨、怒りが、「ちっせえなあ」
なんてちっぽけなんだと、かえって、浄化される

宿便が、下痢の様に、でる、
「魂の浄化=カタルシス」と、聞いています。

つまり、「よリ激しい怒り」と向き合うのではなく、「圧倒的無力感、悲劇」と、
向き合うわせることで人間が感じるものが、カタルシスだと、思ってたんで、
そもそも「能動的に攻撃に出てスカッとしましょう」という話では、まったくないですよね。

能動的に出ても、実はスカッとはしない.スカッとすると思っているのは誤解だ、却って、その人間の攻撃性を増す

という知見は、
大変興味深く拝見しましたが、
殴って感じるかもしれない「スカッと感」には、
そもそもカタルシスという要素はどこにもない、のであれば、もう一つの問題は、被験者が、そもカタルシス効果
を誤解していることです。
コラムを読むと、私も混乱してきました。

被験者は、誤解しているわけでしょうか・


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しゃあ 

最近 よく思うのですが 「どうして 皆こんなに怒りっぽいのだろう」
ヒトって 相手が「殴り返してこない」「反撃力が小さい」と確信すると容赦ないですよね。マスコミのバッシングや 建築会社への近隣住民の不当な要求。
まぁ 全く共感出来ないワケでは無いのですが 建前が正論であるだけに 厄介です。 つまり 常日頃から 「もっともな攻撃理由の付いた標的」を探しているんです。
カミサマが本当に居るなら「こいつらが もう少し進化したらサルに昇格もアリって 言うじゃない? でも毛が少な過ぎですから〜残念!パンツは穿いてますから斬り!!」なんてね。


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小橋昭彦

くうちゃんさん、ありがとうございます。なるほど『詩学』ですね。用法が歪んでいるという指摘に、あらためて気づきがありました。確かに被験者は、カタルシスを「攻撃の緊張を緩和するために物にあたる」と理解しています。その主旨の文章を読まされているので。

カタルシスの用法として、現在一般的なのは、「抑圧していた感情を浄化する」という用法だと思います。ぼくのコラムでもその意味で使っています。がまんしていた怒りを発散させる、という意味です。

ところで、しゃあさんご指摘のところはぼくも感じています。その傾向が強まっているのはなぜか。ずっと気になっているテーマでもあります。


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竹内英二

発散の対象がものに向かう場合は、まだましですね。
子供に向かうと悲惨。児童虐待になっちゃいます。

的はずれかもしれませんが、しゃあさんのご指摘は、この数年いわれている日本社会の階層化と関連があるのかもしれません。誰かのせいにしなければ、現実を受け入れられない…


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くも

はじめまして。ときどき読ませて頂いているものです。

しゃあさんのコメントについてです。

「怒りっぽくなった」のは、
日本人、というか日本の地域社会の、
「合意形成能力」が低下したからではないかと考えています。
昔(戦前とか)は、村の寄り合いなんかで、
しっかり村の考えをまとめて、
お上に上げる戦略も練っていたのに、
いまはただ要望をぶつけているだけ、
みたいな気がします。

本題からずれてしまってすみません。


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taka

いつも楽しく読ませていただいています。
最近子供に空手を習わせているのですが、今日のテーマは少し考えさせられました。
自身の経験で考えると確かにと思い当たる節もあります。
攻撃性をどう自制させるか、その方法を教えていくことの必要性を痛感しています。


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mtack

私はかつて短期で攻撃的と言われていましたが、「むしろ攻撃性を高める」というのは経験的に理解出来ます。忘れてしまえればそれに越したことはない、と思いきや、そうすると無気力に陥ってしまったり….難しいですね。
スポーツ(格闘技を含めて)を習う、というのは、カタルシスとは違うんじゃないでしょうか。自分を鍛えるというのは精神面にも好い効果があるのでは?




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 心理的時間を扱った『時間を作る、時間を生きる』を読んでいて、子どもの時間は出来事時間だという指摘が心に残った。チンという呼び鈴を最初と最後に鳴らして40秒を区切って聞かせる。被験者はその後、自分でキーを押して、それと同じと思う長さを再生する。この再生時間が、大人と子どもでは違う。 一般に再生時間は、子どもの方が短いことが知られている。松田文子氏による実験では、大人は平均38.1秒だったのに対し、小学1年生は29.0秒で区切ってしまったという。大人にとっての40秒が子どもにとっては30秒なわけで、心理的時間は年齢の逆数に比例するというジャネの法則の説明にもなるだろう。 さて、最初に40秒を体験してもらうとき、沈黙ではなく完結した童話を聞いてもらうとどうか。時間の経過への注意が減少するから、40秒を短く感じる。再生時間は、大人で32.9秒、小学1年生で18.0秒と沈黙条件より短くなる。そしてこの数字からわかるように、この効果は大人より子どもにおいて、より大きいのだ。大人は時計時間に引き戻される様子だけれど、子どもは出来事に左右されやすい。つまり出来事時間に生きていると。 大人は時計に支配されて悲しいね、と締めくくればスマートだが、そう感じることを不思議に思わないでもない。それというのも、そもそもぼくたちが時計時間を意識し始めたのは新しい時代のことで、近代日本の時間意識形成を追った『遅刻の誕生』に、大正九(1920)年に東京教育博物館で開催された「時」博覧会や同時期の「時の記念日」の制定など、時間意識は大正期に庶民への浸透が図られたと指摘されている。 こうした流れからすると、時計時間の浸透は「進歩」であっていいはずなのに、人々はむしろそれを悲しんでいる。あるいは大正期からずっとぼくたちは、時間意識とは押し付けられるもので、自分たちを支配する道具であると、どこかで感じ続けていたのかもしれない。

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 土星の衛星タイタンから送られてきた画像に、なぜか懐かしさを感じていた。海のような暗い部分と、渓谷のような筋。零下200度の世界では、海があるとしても水ではなくメタンの海だろう。それでも違った形の生命が存在しないかと、夢を抱く。その夢を、土星探査機カッシーニが中継して、地球に送ってくれる。光速で80分。ブロードバンドとはいかない、ISDN並と考えておけばいいようだ。 幸い土星からの画像はくっきりしていたけれど、仮にこれが何光年も離れた地球外文明との交信なら、宇宙線や散乱の悪影響を受ける。エネルギー効率を考えるなら、瓶に手紙を入れて届けた方がいいらしい。この試算結果が掲載されている科学誌の表紙には、金盤の写真が載っている。外惑星探査機ボイジャーに積まれた、地球人からのメッセージを刻んだ円盤だ。今頃は太陽系の端を星の海原に向っている。原始的なようだけれど、その方法が案外正しかったのだと。 ちなみに、電波による地球外文明との交信を科学的に呼びかけたのは、物理学者ココーニとモリソンによる1959年の論文だ。それ以前は、たとえばエジソンの弟子、というよりエジソンに抗して交流を主張しライバルとなったニコラ・テスラなどが火星からの信号受信を模索してもいたが、まじめにはとりあげられなかった。 タイタンに降下する探査機が拾った音声を聞く。大気を切るような音に耳を澄ましつつ、それが異星をわたる風で、地表の草原をなびかせていたならと想像する。たとえそこに文明がなくとも、その光景にどんなに勇気付けられるだろう。いつかそんな光景に出会うことを、瓶に入れた手紙が地球の浜辺に流れ着くことを、夢見ている。 地球外文明との交信について、ココーニらの論文は、こんな言葉で結ばれている。成功の確率を見積もることは難しい、しかし探さなければそれはゼロなのだ、と。ゼロではない、夢を追うとはそういうことなんだな。

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