玄承禎とは何者2 人間らしい人
- 2009年11月14日(土) 06:13 JST
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- 投稿者:
- 玄承禎
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「人間らしい人間」
1936年、韓国・済州島で長男として誕生。
多感な時期に日本の第二次世界大戦敗戦(韓国では光福節=解放記念日)、済州4・3事件(米軍政と李承晩政権の弾圧政策で済州道民3万人以上が犠牲になった事件)、
朝鮮戦争勃発などが起こり、世の中が急変。
民衆の心が荒廃していくのを見てきた。そんな中、玄少年は「『人間らしい人間』になる夢を実現するため、父のいる日本に行って勉強しようと決めた」。
16歳の時、連絡船に乗って釜山へ。釜山では、3年間市内バスの車掌や自動車付属品商の店員として働いた。その後、日本へ。
「日本にも教会があるから探して行きなさい」と店主からもらったポケットサイズの新訳聖書を持って密航船に乗り込んだ。
「この1冊の小さい聖書が、私を導いてくれた」と振り返る。
56年、父が働く大阪へ。
父、義母、数人の職人と共に、朝早くから夜遅くまでプレス加工の仕事をした。
この時、「在日韓国人の現実を見た」という。
「仕事の選択も制限され差別されてきた在日韓国・朝鮮人は、『自分たちはこれしかできない』という劣等感をもった人が多い。
生活を楽しむ余裕もなく、生きる目的は金儲け。
お金が身を守ってくれ、すべてを解決する手段だと思われていました。
そんな環境の下で育った二世、三世には、在日症候群というものがありました」
大阪に着いて2週間後、民族学校の建国高等学校に入学。
学校には聖書研究会があり、釜山でもらった新訳聖書を思い出し聖書研究会に入部した。
そこでクリスチャンの先生、羅曽男氏と出会う。
「羅先生は大学に進学するよう熱心に勧めてくれた」という。
「当時、建国高校卒業生は、ほとんどが町工場で働き家計を助けなければならない環境で、私の家庭も同様でした。
しかし、私は進学を目指し、密かに勉強しました」。
実際問題、不法滞在での進学は不可能の状況だった。
だが、写真付外国人登録証明書を提示しない学校があり、そこを受けたところ合格。
(10年後警察に申告し司法の裁きを受ける)
大学時代、羅氏の勧めで読み始めた矢内原忠雄の本に熱中した。
当時は、北朝鮮帰還運動が盛んな時代。
大学構内でも、北朝鮮系の学生から帰国船に乗ることを熱心に勧められた。
だが、玄さんはこう宣言した。
「私は神の栄光のために生きる。だから、帰国しない」
(つづく)
((2008年6月29日クリスチャン新聞ビジネスパーソンより))
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