公立志津川病院を含む町内7カ所の医療機関がすべて津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町。5月中旬に避難所での診療をやめ、医療機関を2カ所に集約、「地元の医師が地元の患者を診る」体制に再編した。町の医療統括本部責任者で公立南三陸診療所所長でもある西澤匡史(まさふみ)さん(39)に、“医療過疎地”であえて「医療の自立」を目指した理由を聞いた。
--医療体制再編の狙いは何ですか。
◆被災後1週間を過ぎたころから20チーム約150人の医師や看護師らが町に入りました。私は町の総合体育館を拠点に医療体制全体を統括していましたが、早く急性期から中長期での医療支援へ切り替えたいと、当初から三つの条件を設定していました。
一つ目は、医療サービスの安定的な提供。これは3月下旬には達成していました。大規模な避難所では医師が常駐して24時間体制で患者を診察し、小規模な避難所へは定期的に巡回していました。
二つ目は、地元の医療機関の再開。これはイスラエル軍の医療支援チームに負うところが大きい。医師13人を含む総勢50人のイスラエル軍のチームが町に入ったのは3月下旬。医療はほぼ充足していたので主に検査の強化にあたってもらいました。彼らは自前でプレハブ6棟を建て、検査機器を持ち込んで2週間活動しました。その後、検査機器ごとその診療ブースを町に残してくれたのです。そこを志津川病院の仮設診療所とし、4月中旬に診療を再開することができました。個人病院1カ所は3月から診療を始めていたので、地元医療機関は町内2カ所になりました。
三つ目は、通院患者の足の確保。車を流された住民も多く、ガソリンも出回っていなかったため、避難所での診察が4月には必要でした。しかし5月9日より町民バスの再開が決まり、三つの条件が整ったため5月13日までで避難所での診療をやめたのです。
--なぜあえて早い段階での移行を目指したのですか。
◆この町はもともと、私を含め常勤医5人の志津川病院と個人医院6カ所という医療過疎地でした。それが一時期、町民がいつでも医師に診てもらえる夢のような状態になりました。しかし、夢はいつまでも続くわけではありません。遅くとも6月には各医療支援チームが撤退することは明らかでした。そのため条件がそろった段階で元に戻すほうがよいと考えました。
--患者さんの反応は?
◆私自身、震災前に受け持っていた患者さんと再会し、「生きていたんだね」と喜び合ったこともあります。患者さんもかかりつけの医者の顔を見て、ホッとした様子でした。震災時に初対面の医師に診てもらうのは、人によっては不安もあったと思います。
--1日には志津川病院が隣の登米市に移転しました。
◆プレハブの仮設診療所には入院施設がないため、登米市内の病院に39床を確保し、志津川病院としました。プレハブの仮設診療所は「公立南三陸診療所」として診療を続けます。志津川病院を町内に再建するのは、町の復興プランと関わるため3~5年先かもしれない。今回の移転は、それまで看護師らの雇用を確保する意味もあります。
--こうした体制作りに迅速に着手できた訳とは?
◆震災をきっかけに医療、保健、行政の連携が図れたことが大きいです。町総合体育館には仮の町役場もあったため町長や保健師らとすぐ実情を話し合えました。町長にも町民バスなどを直接、要望できました。情報の一元化や地域のネットワークが有効でした。これからも大いに生かしていきたいと思っています。【聞き手・小島明日奈】
毎日新聞 2011年6月19日 東京朝刊