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中島みゆきの原発宣教CM - 屈折し混乱する浅井慎平
村上春樹が反原発の宣言を世界に発表し、
宮崎駿
も脱原発の態度を鮮明にし、残っているのは小澤征爾だけかなと思っていたが、他にもいる。中田英寿と中島みゆきだ。中島みゆきの場合は、名曲である『糸』を関電の
原発宣教CM
に使わせていて、映像を見ると、そのとんでもなく悪質な中身に驚かされる。放送は昨年。こんな具合に、原子力村は著名文化人を取り込み、国民を洗脳して原発に漬け込む工作をしていた。このCMを制作させたこと、それがネットで論議されていることに、中島みゆきは内面の痛みを感じていることだろう。自らの不用意を後悔しているに違いない。CMを制作した代理店あるいは関電幹部は、当然、中島みゆきを直に口説いて了解させているはずだし、このCMは原発讃歌そのものであり、本人の前で企画を説明し、仕上がった完パケの映像もチェックさせているはずだ。『
糸
』は、数多い中島みゆきの作品の中でも特に一般に愛されている曲で、好みに偏りがなく、リスナーのコミットメントの度が強い。結婚式披露宴で歌われたり、BGMに使われたりする。CMの企画に賛同し、カネを受け取った時点で、中島みゆきは原発推進派の中に入った。「
長い髪を三つ編みにしていた頃にめぐり逢えればよかった
」などと
詞
を書くほどに、長い時代を生きてきた彼女のことだから、原発がクリティカルな政治的争点だった時代を知らないはずがない。
CM映像は、NHK「プロジェクトX」のモメントが含意として訴求され、「プロジェクトX」への支持と共感が二重映しで被さる効果が意図されている。代理店の人間は、何と言って中島みゆきを口説いたのだろう。原発の意義を説き、クリーンエネルギーだと言い、世界の原発ルネサンスの情勢について「啓発」したのだろうか。3・11を境に、原発の意味と表象が大きく転換したことを、このCM映像は実に生々しく強烈に証明している。逆に言えば、原発推進派の側は、だからこそ原発のシンボルを聖化する政治的努力を必死に続け、それを国民的な存在にするべく宣伝工作に余念がなかったのだ。関西地区でずっと原発に反対してきた人々は、このCMのオンエアに、少なからず抵抗感と敗北感を感じたことだろう。神である
中島みゆき
をシンボルとして奪われた政治に歯噛みしただろう。まさに、いわゆる洗脳工作の典型例の素材がここにあり、高校生に政治学を教える上での「教材」として使える。迂闊だったと言えばそれきりだが、中島みゆきは、なぜこれほど露骨な原発讃歌のCMに積極的にコミットしたのだろうか。その動機と判断はどう説明できるのだろうか。おそらく、関電側の思惑を十分に察した上で、その政治的計略に敢えて乗ったのだ。政治的シンボルのスイッチという問題に、自身も意味を認めたのである。右から中央に寄って国民化する原発、左から中央に寄って国民化する自分自身。
時代は変わり、原発はすでに政治的争点ではなくなり、全世界で普遍的に評価されるクリーンエネルギーだと、中島みゆきは思い込んでしまったのだろう。原発反対と騒いでいたのは過去のことで、もう終わったことで、原発賛成が常識となり、二度と揺り戻しはないと確信し、自己のイメージの「国民化」と「普遍化」の最終的な演出機会として、このプロジェクトに乗ったのだ。人も知るとおり、
中島みゆき
の作品は、過去に遡れば遡るほど、70年代という時代の精神性を色濃く滲み出す傾向を持っていて、それは、当時の政治思想状況をよく想起させるものだ。この点を否定する者はいないだろう。桑田佳祐とは全く違っていて対照的である。単純比較して構図化すれば、70年代は、当時の中島みゆきが正統であり、当時の桑田佳祐が異端だった。時代が変わり、政治が変わり、思想が変わり、正統と異端がスイッチするのである。と同時に、このシンボルにはベクトルがあり、78年に異端として登場した瞬間から、桑田佳祐が次の時代の正統だと誰もが直観し、中島みゆきが異端になる運命は予感されていたのだ。そこから、中島みゆきが迫害される長い長い時代が始まる。78年には京都府知事選があり、79年には大阪府知事選と東京都知事選があった。それから30年が経ち、今や中島みゆきは堂々たる国民的な崇高な神様だが、中島みゆきの過去の作品を愛好する者は、やはり統計的に左サイドの立場に立つ者が多い。
辺見庸
が震災を機に創作の挑戦を始め、おそらく、村上春樹も、宮崎駿も、この震災と原発の衝撃が、想像力を新たな地平へインスパイアしたことは間違いなく、日本の知性を代表する者として、この災難を意味づけた物語の傑作を世界に投擲しようと試みるだろう。そうせざるを得ないのが天才の宿命だ。天才詩人である中島みゆきも、その衝動と昂奮は同じはず。数万人の一度の死、家族を奪われ故郷を廃墟にされた者の嘆きと悲しみ、その中で人として輝く救いの姿、原発の不条理と放射能の恐怖、それらは芸術の天才に神の啓示を与える。閃きを作品に凝固し昇華させようとするだろう。そのとき、中島みゆきには、この原発CMの過失と含羞の与件がある。その障害を超克しなくては、前向きに創作に着手することはできない。そして、悔悟と反省もまた、作品を通じて表現しなくてはいけない。つまり、自らの過誤から逃げずに見据えるという営みを中島みゆきはやらなくてはいけない。そうしたことを考え巡らしながら、私は中島みゆきの
歌
の一節を思い出した。「
繰り返す過ちを照らす火をかざせ、君にも僕にも全ての人にも
」。こう歌った彼女は、きっと、原発CMに協賛した大きな過ちについても、傷ついたところから克服して、脱原発へと再出発することができるだろうと、そう思う。中島みゆきに「
精神の弁証法
」を作品化して欲しい。天才にも失敗はあるのだと、でも、そこから、過ちに火をかざして照らす勇気もあるのだと、私に教えて欲しい。
昨日(6/19)、TBSのサンデーモーニングで、司会の関口宏が原発問題を取り上げたとき、「
僕は、宗旨替えは別にいいと思うんですよ
」と言った。これまでの原発報道の中で、きわめて重要なメッセージだったと言える。柔和をモットーとする関口宏らしい、肩に力を入れない、番組の流れの一瞬に挿入した一言だったが、この問題の日本の報道番組で、いつか誰かが言うべき言葉であり、それを言える者が、国民的な報道番組を仕切る器量を持ったアンカーマンだと言える。この一言は、横に座っていたレギュラーの寺島実郎と
浅井慎平
に対して向けられた助言だった。これまで原発推進派の広告塔だった者でも、この事故を転機に考え方を改めればよく、脱原発が正しい方向だと素直に認めればいいと、関口宏は特に友人の浅井慎平に説き促しているのである。浅井慎平というカメラマンは、時に正論も言えば、時に論外なことも言い、基本的には素朴な「良識派」と「自然派」の表象で商売している文化人である。知識や学問がある方ではないが、週末のリラックスした一般の茶の間には、クセのないスムーズな説得力が通るコメンテーターと言えるだろう。そこを関口宏に買われて長くレギュラーを努めていて、この番組の出演者というステータスとポジションゆえに、簡単に言えば関口宏の友情のおかげで、浅井慎平は能力に数倍勝るプレステージを得て、雑誌や講演のビジネスを得る人気タレントになっている。
浅井慎平も、つまりは中島みゆきとよく似ている。よく似た国民的表象を持ったシンボルで、電力会社が工作を仕掛けて射止めるには絶好の標的だった。そして、効果も覿面だったと言える。原発をエコでクリーンだと宣伝する上で、浅井慎平はうってつけのキャラクターだ。代理店の仕事としてハズしていない。しかしながら、昨日(6/19)の生放送の浅井慎平は、関口宏のそうした配慮を察したのか察しなかったのか、コメントでは妙に狼狽して、人間の生き方がどうのとか、欧州では神と人間がどうのこうのと、要領を得ない珍糞漢な話に終始し、しかもそれが纏まりなく延々と続き、本人は立派な説教を垂れている錯覚に陥ったまま舌を回して、放送の時間を無駄に食い潰し、関口宏と橋谷能理子をシラケさせていた。関口宏の「宗旨替え」の一撃のインパクトが大きかったのだ。「知識人」を自認する尊大な寺島実郎は、芸能人である関口宏のリコメンデーションに頷いて靡くことはできない。プライドが許さない。しかし、「良識派」と「自然派」で売るカメラマンの浅井慎平は、関口宏の救いの手に乗ってもよいのである。「宗旨替えします」と言い、脱原発派への転向を表明すればよいのだ。無内容で意味不明な長広舌には、逡巡し混乱する浅井慎平の心理が反映されていた。浅井慎平は、関口宏の諭しに応じ、「繰り返す過ちをかざす火を照らせ」の境地へ達することができるだろうか。それとも屈折したまま、意味不明の舌を回す自家撞着の醜い姿を続けるのだろうか。
さて、原発をめぐる政治情勢は、昨日(6/19)、菅直人が海江田万里の6/18の発言をオーソライズし、停止中原子炉の再稼働を自治体に要請する事態となり、容易ならざる状況を迎えている。政府(官僚)は本気だ。ここで運転再開を果たさなければ、原発なしで真夏を乗り切った既成事実ができ、「原子力村」の来年度予算が風前の灯火となる。政治戦に負け、リストラへと向かう羽目になる。今が正念場であり、なりふり構わず攻勢に出ているのである。おそらく間違いなく、気温35℃を超えた酷暑の時機を捉え、計画停電必至の謀略に出て、首相会見による直接指示で柏崎刈羽の3基を動かし、若狭湾の6基を含む停止中18基を再稼働させることだろう。そこへ向けて、着々と原発推進派による巻き返しの布石が打たれている。菅直人の「原発再稼働」要請は、これまで、孫正義などと睦んで脱原発の方針を演出し、世論の支持を集めていた姿勢を一転させるもので、脱原発に傾く世論の幻滅と失望は大きい。菅直人は、こうして脱原発の国民と賛成推進の官僚・財界の間を巧妙に泳ぎ、バランス操縦で政権延命を果たす目論見なのだろうが、この反動的な朝令暮改は、この政局で唯一菅直人を支えてきた空気を破壊するものだ。その空気とは、テレ朝の番組(6/19)で瀬戸内寂聴が言っていたが、「菅さんが一生懸命やっているのに、周囲の連中が政局で足を引っ張っている」という世間認識である。この空気、すなわち脱原発への期待感が、菅降ろしに対する抵抗力となっていた。菅直人に裏切られた脱原発派は、菅降ろしに抵抗する根拠を失った。
これは、菅直人にとって政局での防波堤を失ったも同然だ。
by
thessalonike5
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2011-06-20 23:30
|
東日本大震災
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