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70 返信 Re(4):ベトナム戦争 ノンポリ@マジで転載開始 2005/05/12 10:15
Re(4):ベトナム戦争

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投稿番号:18717 (2003/08/04 00:42)
投稿者:ノンポリ(おまけ)
mail:



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内容
おまけです。

ソンミ村事件がアメリカ全土に報じられた際、様々な反応がありました。素直にアメリカ軍の蛮行を嘆き、この無駄な戦争の意義を問う声も多かったのですが、報道の真偽を疑う声や、虐殺自体を正当化しようとする声も多かったのです。(以下は「ソンミ――ミライ第四地区における虐殺とその波紋」よりの引用です)

「ありゃいいことだぜ。何のために兵隊にタマをやるんだい?ポケットに入れとくためかい?」
と、ボストンの55才の「エレベータ係」はわめいたそうです。
クリーブランドのある婦人は、
「わたしたちがこどもたちを殺すべきだなんていったらたしかに恐ろしい感じですわ。でも、むこうじゃ、わたしたちの息子がたくさん、まるで子供のように殺されているじゃない」
と、アメリカ兵も殺されているからベトナムの子供を殺しても構わないとでも言いたげな口吻だったそうです。このババァは「わたしたちの息子がたくさん殺されている」原因を考えてみたことがないのでしょう。
こういった愚かしい反応は、日本の馬鹿ウヨクや、9・11テロ以降馬鹿の本性をあらわした現在のアメリカ人や、ベトナムでの蛮行を認めようとしない韓国軍の退役軍人(16775)を彷彿とさせます。どこの国にも始末におえない馬鹿はいるものです。

あるベトナム退役兵が共和党議員に送った手紙も、虐殺を正当化するものでした。

「東洋人の考えを良く知っておれば、ベトコンの女が、赤ん坊を脇にかかえ、軽機関銃でアメリカの軍隊を攻撃するなどということが阿呆らしい話などではないとわかるでしょう。連中はバカではない。われわれの正体をよく知っています。われわれは、この厳格なユダヤ・キリスト教徒の態度をうまく利用する方法を心得ているのです。白人は西洋の戒律に従って、このような女・こどもとは簡単には戦うことはできません。戦場でぶつぶついっていれば、自分たちが半分くらいやられてしまってから、このことを思い知ることになります」(この人は、歴史上「厳格なユダヤ・キリスト教徒」が最も多く「女・こども」を無差別に殺してきたことを知らないのでしょうか?全くあきれて物も言えません)

ともかくこの人は、「女・こども」でさえ「軽機関銃でアメリカの軍隊を攻撃する」のであるから、ソンミ村事件のような「女・こども」に対する虐殺もしかたない、と言いたいのでしょう。
アメリカの侵略が、ベトナム人の「女・こども」でさえ「軽機関銃でアメリカの軍隊を攻撃する」ようにしてしまったことを忘れているようです。

さらに言えば、この人はベトナム戦争の本質について全く無理解です。
ベトナム戦争とは、
【南ベトナム政府軍+アメリカ軍+諸国軍】と【南ベトナム解放戦線+北ベトナム政権】の戦いではなく、
【アメリカ軍(とその他傀儡軍)】と、【ベトナム民衆】の戦いだったのです。
アメリカの侵略に対してベトナム民衆が一丸となって戦い、
そしてアメリカはベトナム人を殺しつくし、ベトナムの大地を破壊しつくす道を選んだのです。

ですからアメリカ軍の標的は、
「女・こども」も含めたベトナム人全てであり、
そしてベトナム国土全て、つーかインドシナ半島東側の大地全てだったのです。
自分たちが「厳格なユダヤ・キリスト教徒」であり「女・こどもとは簡単には戦うことはでき」ない軍隊であったとしても、この戦争では「女・こども」も標的にすることは当然だったのです。
アメリカにとってベトナム戦争は「女・こども」さえも殺し続けなければならない戦争だったのです。これをこの退役兵は理解していなかったのです。

・・・・ソンミ村が属する「クァンガイ省」の海兵隊の間ではやっていたジョークは、この戦争の本質を一言で表していると言えます。

「忠誠を誓うベトナム人は全部連行して海の筏に乗せる。次に国内に残っている者を皆殺しにしてしまう。国は駐車場のようにコンクリートですっかり舗装してしまう。それから筏は沈めてしまう」

アメリカはベトナム戦争に勝つためには、枯葉剤でベトナム全土を丸裸にし、ベトナム人を絶滅させる以外になかったのです。


・・・・最後にちょっと無駄話ですが・・・・
この一連の投稿で、本勝「戦場の村」と、亀山旭「ベトナム戦争――サイゴン・ソウル・東京――」というベトナム現地ルポから度々引用しましたが、両氏とも行く先々で韓国軍の悪評を耳にしたそうです。
本勝など、メコン川のデルタ地帯(インドシナ半島の南端部)の負傷者を収容していた病院での取材中、ベトナム人の入院患者から怪訝な顔で「ダイハーン(韓国人)?」と疑われ、あわてて自分は日本人だと訴えたそうです。
韓国軍が民衆に対して行なった殺戮作戦と、強姦殺人などの不法行為は凄まじいもので、彼らは南ベトナム政権側の民衆からも蛇蝎の如く忌み嫌われていました。
韓国軍が駐留していた地域では、韓国兵は女性を見れば手当たり次第に強姦するという噂が流れ、十代の女性も強姦されることを恐れて髪を既婚の女性のように結っていたそうです。この噂も強ちウソとは言えないものであり、また既婚女性を装っても韓国兵の獣欲から逃れることはできなかったようです。
こうして韓国兵は解放戦線側・南ベトナム政権側双方のベトナム人からだけでなく、同盟者であるはずのアメリカ兵からさえ激しく嫌悪されていたのです。全く損な役回りを負ってしまった・・・・というよりも、完全に自業自得だったというべきでしょう。

一方韓国と共にアメリカの同盟国でありながら派兵することはなかった日本は、このような激しい憎悪の対象になることはありませんでした。しかしアメリカへの貢献度の点では韓国に引けを取らないものだったのです。
日本国内のアメリカ軍基地は重要な後方支援基地であり、兵士たちの英気を養う場でもありました。北爆・南爆(南ベトナム内でも解放戦線の勢力化にある地域は激しく爆撃されました)を続けるB−52はグアムや硫黄島や沖縄の基地を経由したのです。
またベトナムでは日本製の軍用トラック、LST(港じゃないところで戦車とか荷揚げできる船??)が活躍し、日本の海運会社のタンカーが爆撃機のための航空燃料を輸送しました。また解放戦線に対する宣伝ビラも日本で印刷されたものが多かったのです。日本にとってベトナム戦争は大きなビジネスだったのです。

ベトナム戦争でのアメリカ兵の戦死者は5万8千人、戦傷者は30万人に上り(ベトナム人の戦死傷者は300万人)、少なくとも1500億ドルの戦費を費やしました。それだけでなくアメリカの社会に残した傷が深いことは周知の通りです。ベトナム帰還兵は帰国当日に人殺しと罵られ、糞を投げつけられました。就職先もなかなか見つからず、アルコールやドラッグにはまる者も多く、自殺者も絶えませんでした。
また韓国にとってもベトナム戦争は全世界に母国の悪名を轟かせただけでした。
しかし直接加担することのなかった日本はなぜか「ベトナム戦争の唯一の勝利者」と言われました。
朝鮮戦争の特需が戦後復興になったように、ベトナム戦争は日本の高度成長の加速剤になったのです。
なんともやり切れないことに、かつて植民地にしていた朝鮮やベトナムの民衆が、あらたな戦争によって再び血を流すことをビジネスとしていたのです。本勝はもったいぶりながらも「死の商人」という言葉を使いましたが全く同感です。

・・・・ところで、終戦後もインドネシアに残り独立戦争に参加した元日本兵がいたように、ベトナムに残ってホーチミン率いる「ベトミン」(ベトナム独立同盟)に参戦し、経験を生かしてベトナム兵を指導した元日本軍将兵もいました。
ベトミンが1946年に設立した二つの軍士官学校のうち一方は、日本軍によって追放されベトミンと共に日本軍と戦っていたフランス人下級将校が教官を務め、
もう一方の「クァンガイ陸軍士官学校」では、旧日本軍の士官が教官に任命され、ベトナム兵に戦闘のイロハから叩き込んだのです。これはその後のベトナム戦争にも生かされました。
あるベトナムの元軍人は、

「ベトナム戦争中、ハノイでは米軍機の空襲に対して、民兵が小銃や機関銃で一斉射撃していた。襲いかかるジェット戦闘爆撃機に小銃で対抗しても意味がないということをいう人がいるが、あれは、日本軍がとった全力射撃の戦法だ。空襲に対して何も反撃しないと徹底的にやられてしまうものだ。これもクァンガイ陸軍士官学校で教えたことだった。ベトミンの軍事用語には日本軍のものが多い」

と当時を述懐しました。
終戦後ベトナムに留まり軍に協力した元日本兵約700名のうち、戦死・行方不明は500名以上に達するそうです。(以上「ベトナム戦争―民衆にとっての戦場」吉沢 南・著 吉川弘文館 ・・・より引用。 つーか15943より焼き直し)

ベトナムの民衆は第二次世界大戦終結後、サイゴン陥落まで30年間の独立戦争を戦いましたが、我が日本国は一貫してベトナムを侵略し破壊し続けるアメリカを支援し、ベトナム人の流血を商売のタネにした「死の商人」でした。
しかしベトナムの独立に貢献した日本人もいたことを、日本人としては記憶に留めておきたいものです。

***この一連の投稿の作成にあたって、「ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場」(松岡 完・著、中公新書)を重宝させていただきました***

http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=18717

69 返信 Re(3):ベトナム戦争 ノンポリ@マジで転載開始 2005/05/12 10:12
Re(3):ベトナム戦争

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投稿番号:18712 (2003/08/03 00:39)
投稿者:ノンポリ(枯葉剤)
mail:



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内容
ローカルネタで恐縮ですが・・・・・
昔、浦和市(現さいたま市)の東部に「野田のサギ山」というシラサギの群生地がありました。
しかし1960年代半ばからこの場所のシラサギの数は減少し続け、70年代にはほとんど見られなくなってしましました(もっとも、市内全域の水田、用水路、角栄サンの減反政策によって発生した草ボウボウの荒地!などで現在でもシラザギをたまに見かけますが)。当地には現在「さぎ山記念公園」を残すのみです。ちなみに国道122号(東北自動車道)を挟んで東側に建てられた埼玉スタジアムの屋根の部分は、シラサギが羽ばたく姿をイメージにしたそうです。
シラサギが姿を消した原因としては、主に住宅の増加による水田・雑木林の減少、近くを走る国道122号の交通量増加による騒音・排ガス、それに農薬による環境破壊・・・・などが考えられますが、「戦場の枯葉剤   ――ベトナム・アメリカ・韓国」(中村梧郎・著、岩波書店)という写真集によりますと、シラサギは日本とベトナムなどの間を往復する渡り鳥で、アメリカがベトナムで行なった枯葉剤作戦がシラザギの減少に一役買ったそうです・・・・(つーかシラサギが渡り鳥であることも知らなかった!)


・・・・以下は「戦場の枯葉剤」よりの引用です。
第二次世界大戦末期、アメリカ軍には日本へ枯葉剤を散布する計画もあったそうです。「チオシアン酸アンモニウム」という何だかわからん薬品を撒くことで、日本の稲作地帯に打撃を与えるプランが考案されたそうです。しかし日本はソ連参戦にビビって降伏したためこれが実行されることはありませんでした。
その十数年後、ベトナムのジャングルに苦しむアメリカ軍は枯葉剤の散布を計画し、当時の大統領だったジョン・F・ケネディが承認し、実行されました。1962年1月、南ベトナム政権は「ベトナム共和国は、生い茂った熱帯植物を主要交通路から除去する実験を行なうとの計画を発表した」との声明を発表しました。アメリカは化学兵器を使用することに対する非難を恐れ、南ベトナム政権単独の実行であるようにカモフラージュしたのです。そして「民間人の服を着て米空軍の標識のついていない飛行機に乗り、捕虜になってもアメリカ政府は関知しないがよいか?」という条件の下、南ベトナム兵を募集したのです。

こうして枯葉剤作戦が開始されましたが、上記の声明によると「・・・・2種の化学剤はともに有毒ではなく、野生の動物や家畜、人体、土壌に何の害も与えない」という全く虚偽の説明が行なわれました。
しかし南ベトナム政権も環境に甚大な影響を与えるであろうことを理解していなかったわけがありません。またそうでなければこの作戦に意味はありませんでした。
当時の南ベトナム政府の文書によると、この作戦は「カイクァン(Khai quang)作戦」と命名されていまいました。「カイクァン」とは漢字を当てれば「開光」、つまり昼なお暗いジャングルを切り開くという意味でした。
「ベトコンの秘密区(解放区)や根拠地を破壊して空白地帯にし、潜伏場所にされぬようにする・・・・作物耕作地を消失させて、彼らの自足経済を破綻させ、補給を困難にし、彼らの戦意を阻喪させ、指導部を信頼しなくようにする・・・・」
このようにベトナムでの枯葉剤作戦は、ゲリラ戦には絶好のジャングルを消失させるだけでなく、第二次世界大戦末期に日本の農業生産に打撃を加える計画があったことと同様、「解放区」の農業を破壊する目的もあったのです。これが「開光作戦」という名の、ベトナム全てを破壊する三光作戦だったのです。
その後アメリカ軍は南ベトナム軍が主体的に行なっているというカモフラージュをやめてしまいましたが、相変わらず無害であると主張していました。

散布された枯葉剤の67%が「エージェントオレンジ」と呼ばれる(容器がオレンジ色)、なんだかサッパリ分かりませんが24−D(ジクロロフェノキシ酢酸)と、現在では使用が禁じられている有機塩素系除草剤245−T(トリクロロフェノキシ酢酸)とかいう科学部質を一対一で混合させたもので、245−Tはダイオキシンを含有していたのです。アメリカ軍がダイオキシンを混入させたわけではなく、この化学部質の製造過程に於いて必ず生成してしまうのです。ご存知の通り人類が作り出した最強の毒物であるこの物質は極めて微量でも人体に影響を及ぼし、ベトちゃんドクちゃんのような奇形児が多く出生しました。また一部のアメリカ兵の健康にも影響を及ぼしました。湾岸戦争で使用した劣化ウラン弾がアメリカ兵の身体を蝕んでいるように。(今回のイラク侵略戦争に於いてもアメリカ軍は劣化ウラン弾を大量に使用しました。イラク人・アメリカ兵双方の健康被害は今後明らかになっていくでしょう)

こうして10年間で9万1000㎘の枯葉剤がベトナムの大地に散布されました。こういう数値を見てもピンときませんね。300ℓのドラム缶なら30万本以上です。私の職場に重油を納入しに来る14㎘積みのタンクローリーなら6500台です。50mプールの横の長さを20m、深さ平均1.2m→容積1200㎥と仮定すれば、約75杯分です。やっぱ全然ピンときません……( ┰_┰)
除草剤自体は徐々に分解していきますがダイオキシンは自然界では分解せず、今後のベトナムだけでなく全地球レベルで悪影響を与え続けていくことでしょう。アメリカによるこの行為はベトナムの大地とベトナム人全てに対する犯罪というだけでなく、全人類、地球の全生命体に対する重大な犯罪というべきでしょう。この行為によってベトナムのマングローブの森の40%が消失し、内陸の密林の12%と耕地の5%が壊滅したそうです。しかしアメリカがベトナムに執着し続けていれば、ベトナム全土を丸裸にするまでこの犯罪行為は続けられたでしょう。

ところで枯葉剤によって裸になったジャングルにその後に生えてきた草はアメリカ軍の移動を困難にしました。見通しがよくなったせいでアメリカ兵は容易に解放戦線の狙撃の犠牲となりました。旧日本軍の行なった三光作戦と同様、枯葉剤作戦も自分の首を絞める結果に終わったのでした・・・・。

http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=18712

68 返信 Re:Re(1):ベトナム戦争 ノンポリ@マジで転載開始 2005/05/12 10:11
Re(2):ベトナム戦争

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投稿番号:18711 (2003/08/03 00:37)
投稿者:ノンポリ(三光政策)
mail:



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内容
さらにアメリカ軍と傀儡軍は、民衆からの解放戦線への食糧供給を絶つ為、備蓄していた米などを押収または焼却し、また村落自体を焼却し消滅させ、住民を強制移住させました。

「・・・・ヘリの編隊は次の部落を襲った。そこにも200人近い村民がいた。ここでは米が焼かれた。ヘリの油をかけて火をつける。それを見つめていた四つか五つの子供の目から大粒の涙がぼろ、ぼろと落ちた。政府軍の兵士は難民収容所に来れば食べることができるのだから大したことはない、彼らがここを動きたがらないのが問題なのだといった。米軍の将校は私の表情に気づいて、
『ほっておけば食料はベトコンに流れる』
という。
『だが、どうして彼らの目の前で米を焼く必要がある』
『あの米を積んで帰るだけの時間的余裕はないのだ』
米兵たちはベトナムの農民にとって米がどんなに大事なものであるかを理解できない。米を育てるアジアの農民の心を知らない。私はあの子供はかならず“ベトコン”になるだろうと思った」(岩波新書・亀山旭・著「ベトナム戦争――サイゴン・ソウル・東京――」より)

これは旧日本軍が中国で行なった三光作戦と全く同じです。中国で民衆からの共産軍支援を絶ち切ろうとした日本軍と同じように、アメリカ軍はベトナムの農村を襲い、村民の食糧と家屋を焼き払い、強制移住させたのです。
このようなアメリカ軍の行為は、旧日本軍の三光作戦と異なり、映像に残されています。
「NHKスペシャル・映像の世紀 第9集 ベトナムの衝撃」という番組を以前録画したのですが(DVDの全集もあるが7万円もするのでちと手が出ない・・・・)、そこに三光作戦の実態が記録されています。
村民全員をホールド・アップさせ、従わない者は老人であろうと蹴飛ばし、穀類を焼き捨て、家屋を焼き払う・・・・数々のショッキングな映像が記録されています。これが三光作戦の実態です。
(ところで日本軍は押収した食糧は基本的に自分たちの糧にするために持ちかえり、運搬できない場合のみ焼き捨てましたが、日本軍と違って食糧に困ることはなかったアメリカ軍にとって村落に備蓄されていた食糧に価値はなく、その場で焼き捨てるのみでした。これが一層民衆の憤激を買ったことでしょう)
生まれ育った村落を追われた村民は、日本軍が民衆を「集団部落」に押し込めたと同様に、「戦略村」や鉄条網で囲まれた「難民収容所」に押し込めましたが、そこも日本軍の「集団部落」と同様、非衛生な環境と貧しい生活が待っていました。難民には食糧と生活費が支給されることになっていましたが、南ベトナムの官吏の横流しのためたびたび滞りました。解放戦線側に売り渡すことすら珍しくありませんでした。日本軍が中国の各地に設けた傀儡政権と同様、南ベトナムという傀儡政権も根底から腐りきっていたのです。
このような分離政策にもかかわらず、民衆と解放戦線との接触は絶たれることはなく、門や壁には解放戦線のスローガンが殴り書きされ、元の村に舞い戻るため脱走する者は後を絶ちませんでした。

(ところで岩波ブックレット「三光作戦とは何だったのか」の52ページによると、「・・・・そして後世、ベトナム戦争においてアメリカ軍がこの経験を継承して南ベトナムで『集団部落』を作り、住民を囲いこんで解放戦線と切り離そうとしたことはよく知られているところである」ということですが、ちょっと信じられません。逆効果に終わったこの政策をわざわざ模倣するでしょうか?実際、フィリピンを占領していた日本軍もゲリラに悩まされたため、この政策を行なおうという意見があったのですが、中国での苦い経験があったので立ち消えになりました。それなにの20年後のアメリカ軍は逆効果に終わったことを知りながらも実行してしまったのでしょうか?アメリカ人というのはよっぽど馬鹿なんでしょうか?ともかく、旧日本軍の三光政策とアメリカ軍の対ゲリラ政策が気持ち悪いほど酷似しているのは事実です)

しかし生まれ育った村に還ることは、日本軍侵略下の中国民衆と同様、生命の危険が伴うことでした。
18687で紹介した鈴木啓久元中将の告白によると、(日本軍にとっての)「未治安区」をある日突然「無人区」と宣言することは、そこに存在する人間に対する無差別殺戮開始のゴーサインだったようですが、同様にアメリカ軍が解放戦線の勢力化にある地域を「自由砲撃地帯」(free fire zone)と規定することは、「中にいる民間人はすべて自動的にベトコン、あるいはベトコンの同調者と疑われる」ことになり、「サイゴンや地方官庁の承認を得る」ことなく、「数万トンに及ぶ爆弾、ロケット弾、ナパーム弾、そして砲弾が、1965、66、67のほとんど全期間、毎週自由砲撃地帯に注ぎこまれた」のです。(「ソンミ  ミライ第四地区における虐殺とその波紋」より)
もちろんこれはアメリカの傀儡政権である南ベトナム国内でのことです。文字通り「自由砲撃地帯」として、その中の民衆は無差別に虐殺されました。

このように旧日本軍が行なった三光作戦は第二次世界大戦終結の20年後にベトナムの地に於いて再現されました。追い詰められた侵略軍が最終的にこの作戦をとってしまうことは古今東西共通のようです。
ゲリラの根絶というこの作戦の目的の達成のために、ベトナム人を殺し続け、ベトナムの大地を荒廃させ続ける以外になかったのです。

旧日本軍が中国で民衆を虐殺し、「無人区」を設定し住民を強制移住させ田畑を荒廃させ、また堤防を決壊たように、アメリカ軍はベトナム民衆の無制限殺戮というジェノサイド(genocide)と、「自由砲撃地帯」の設定と住民の強制移住によるベトナム農業の破壊+枯葉剤の大量散布による自然環境の破壊、いわゆるエコサイド(ecocide)を続けたのです。
侵略軍は尽きるところ相手国の民衆を殺し続け国土を破壊し続ける存在である・・・・という本質的な面では旧日本軍もベトナムでのアメリカ軍も同質ですが、アメリカの国力がもたらす物量と、(こういうことを言うと差別的だとかいわれそうですが)キリスト教徒であるアングロサクソン民族が持つ残虐性が、これをさらに凄惨なものにしたのです。

http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=18711

67 返信 Re(1):ベトナム戦争 ノンポリ@マジで転載開始 2005/05/12 10:09
Re(1):ベトナム戦争

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投稿番号:18710 (2003/08/03 00:33)
投稿者:ノンポリ(皆殺し)
mail:



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内容
サッカーでもなんでも、「アウェイ」よりも「ホーム」の方が有利なのは当たり前です。
ほとんどのアメリカ兵にとって生まれて始めて経験する熱帯のジャングルでの戦いは地獄でした。北アメリカ大陸という比較的乾燥した大地に生まれた者にとって、熱帯の気候は耐え難いものだったのです。ジャングルの熱気と湿気の中をよたよたと歩くアメリカ兵を、ある解放戦線兵士は「象のように鈍重だった」と回想しています。歩くだけでも苦痛な上に、蚊など害虫類、毒ヘビ、吸血ヒル、マラリアなど風土病も襲いかかりました。当地に生まれ育ったベトナム人のような害虫類の上手なあしらい方など知らなかったのです。
また「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線 ・・・語源は“Vietnamese communist”??)によるワイヤー仕掛けの手榴弾(ブービー・トラップ)や、竹串を仕込んだ落とし穴が彼らを待ち受けていたのです。
また、往々にして非戦闘員との外見上の区別がない「ベトコン」のゲリラ戦術は大いなる脅威でした。アメリカ軍は女性どころか子供まで自分たちを攻撃するのではないかとの疑心疑惑に陥っていました。
解放戦線は南ベトナム民衆から広く支持され、食糧などの支援を受け、また村落に潜んでいました。そもそも「ベトコン」と民間人の完全な識別など無意味でしょう。南ベトナムの民衆はあるときは畑を耕し、あるときは南ベトナム政府軍兵士やアメリカ兵を狙撃しました。こうした状況のため南ベトナム政府軍とアメリカ軍は解放戦線を支援し匿っていると見られる村落への厳しい捜索を行ないました。

疑わしい村落に多数のヘリで降り立ち、周囲は自動小銃を携えたアメリカ兵が警戒し、スピーカーで村人に集合を命じますが、大抵は出てくるのは女子供か老人だけなので、「ベトコン」の消息を吐かせるための拷問が始まります。それでも埒が明かないと地下壕や洞穴に手榴弾を投げ込んだり火炎放射器で焼き払ったり、十代の少年を家族の哀願も顧みず容疑者として連行することもありました。
こういった厳しい「ベトコン」捜索にもかかわらず民衆という海に潜んだゲリラ攻撃による被害は拡大し、民衆からの解放戦線への支援を断絶することはできませんでした。そして捨て鉢になった旧日本軍が民衆を虐殺したように、約500名の女子供を含む非戦闘員を虐殺した「クァンガイ省・ソンミ村ミライ第四地区」での事件のような虐殺行為が多発するのです。
「ソンミ――ミライ第四地区における虐殺とその波紋」の見開きページに、一人の少年が自分より幼い少年をかばって路上にうずくまっている光景が掲載されています。この幼い少年二人は殺害直後に殺害されたそうです。殺害直前の光景というのは死体の写真よりも恐ろしいものです。身の毛もよだつ光景です。
http://free.freespeech.org/americanstateterrorism/vietnamgenocide/Mylai.html
(↑小さくてよく見えませんが・・・・)

ゲリラ戦に業を煮やした侵略軍がこのように全く無意味な殺害を行なってしまうことは洋の東西を問わず共通と言えます。ところで日本軍が行った虐殺事件の中で南京大虐殺だけが突出して有名ですが、しかしそれは日本軍が行なった無数の虐殺の中のほんの一例なのです。同じくベトナム戦争での虐殺事件としてソンミ村事件がもっとも有名ですが、これはアメリカ軍が行なった数知れない民間人虐殺の中のほんの一例に過ぎないのです。ソンミ村事件は、情報を得た兵士が除隊後告発したために明るみに出たわけであり、こういう勇気ある告発者が現れなかったために闇に葬られた事件は無数にあるでしょう。
そして虐殺を行なった兵士の多くはその行為に疑念をもつことはなかったのでしょう。
ソンミ村がアメリカ全土で大問題になったとき、ウエストポイント(陸軍士官学校)卒業のある将校は、
「ベトナムにいく人はみんな質問することだと思うが、こんな問題がありますよ・・・・、それは、いったい民間人とは何かということです。昼間はわれわれのために働き、夜になればベトコン・パジャマを着る連中のことですかね」(同上より引用)
と述べたそうです。「ベトコン」と「民間人」の厳密な区別など不可能な状況に於いて、無差別殺戮に抵抗感を持たなくなるのも当然でしょう。

民間人の犠牲者数が、敵兵の死者数として計上されることも往々にしてありました。「死んだ者は肌が白くなけりゃみんなベトコンさ」という冗談(同上より)を言う者もいたそうですが、むしろこれがアメリカ兵の本音だったのかもしれません。
また、18683 で示しましたが日本軍の戦果報告の中には、「遺棄死体」+「俘虜」と、「鹵獲」した兵器数が不釣合いなケースも見受けられます。同じようにソンミ村の虐殺を行なった「チャーリー中隊」は、当日の戦果を「敵の死体128と武器捕獲3個」(同上より)と臆面もなく報告したそうです。この数字自体が民間人の虐殺が行なわれたことを告発していると言えます。

http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=18710

66 返信 ベトナム戦争 ノンポリ@マジで転載開始 2005/05/12 10:07
ベトナム戦争

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投稿番号:18709 (2003/08/03 00:30)
投稿者:ノンポリ(南ベトナム≒「満州国」)
mail:



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内容
――――アメリカ兵は一般民衆をも無差別に殺傷するという声があるが、あなた自身の隊ではどうか。
「戦車隊の場合、たとえば地雷が爆発したとき、周囲にベトコンでない市民もいるかもしれんが、彼らは
ベトコンが地雷を仕掛けたのを見て知っているはずだ。知っていて報告しないのでは、撃たれても仕方が
ない」
――――地雷が爆発したら、見える限りの農民を皆殺しにして報復するということもあるという噂を聞い
たが、本当か。
「本当だ。しかし私の隊には条件がある。戦車は普通3台以上が一組になって動くが、先頭の戦車の通っ
た同じ軌跡をあとの戦車が進んでいるとき、地雷にやられた場合だ。このときは50m以内にベトコンが
いて、誘導線で発火装置を押したものとみなす。先頭の戦車がひっかかった場合は、戦車自体が起爆装置
を踏んだための“普通の地雷”とみて、皆殺し戦術はとらない。でも、こういうことは隊のコマンダー(指
揮官)によって命令が違う。普通の地雷の場合でも、皆やっつけろという人もいる」(本勝「戦場の村」より、アメリカ軍基地内の病院にて治療中のギャリー=T=クリスチーニ志願兵(18歳)からの本勝自身による聞き取り)

共産主義の脅威からアジアを守るという大義名分を掲げたアメリカの侵略戦争に対し、ベトナムの民衆は祖国を守るために解放戦線と一体となって戦い、侵略者を追いつめました。これに対してアメリカ軍は住民を無差別に殺戮し、村落を焼き払い物資を強奪・破壊し、住民を強制移住させ、そして枯葉剤を大量に散布しました。アメリカによるベトナム侵略戦争は、ベトナム人を殺しつくし、ベトナムの大地を破壊しつくすまで、終わることはなかったのです。

・・・・・・・・
第二次世界大戦の終結によって日本軍はベトナムから去り、ホーチミン率いる「ベトミン」(ベトナム独立同盟)は1945年9月2日、「ベトナム民主共和国」の成立を宣言しました。しかし大戦終結の直前まで日本軍と協同でベトナムを支配していたフランスは再植民地化を狙い、翌年南部に「コーチシナ自治共和国臨時政府」という傀儡政権を誕生させましたが、これによってベトミンとフランスは交戦状態に入り、ベトナムの民衆は30年近い独立戦争を戦うことになります。
また共産圏の拡大を警戒していたアメリカがフランスを援助します。1949年フランスは、アメリカからの(フランスの植民地支配継続を狙うフランスを支援しているとの批判をさけるための)働きかけによって、かつて日本も皇帝に据えていた「バオダイ帝」を大統領とするベトナム中央政府を誕生させました。
ベトナムが北緯17℃で南北に分断されることになった1954年のジュネーブ停戦協定に、アメリカと南ベトナムの傀儡政権は調印しませんでしたが、この協定はアメリカと傀儡政権を利するものだったと言えます。ベトナム国民の大半はホーチミン政権を支持していたためベトナム全土すら失いかねない情勢だったのです。そして当然この協定で宣言されている二年後の選挙実施をも拒否する態度を示しました。
「南ベトナム解放民族戦線」は傀儡政権の打倒のため立ち上がり、アメリカ軍は1964年8月の「トンキン湾事件」を口実にし「北爆」を開始し地上部隊も投入し、本格的にベトナム戦争に介入します。

ところでアメリカは1954年、カトリック教徒の反共政治家「ゴ・ジン・ジエム」を南ベトナムの大統領に担ぎ上げましたが、その後無能なこの大統領に愛想をつかし、1963年の軍事クーデターを後押しします。アメリカに見捨てられたこの哀れな男は中華街に潜伏していたところを発見され惨殺されます。アメリカにとって南ベトナムという国家の存在など防共のための方便に過ぎず、その首魁など扱いやすい人物ならば誰でもよかったのでしょう。
南ベトナム政府と言う存在は、かつて関東軍が中国東北部に作った「満州国」と同様の、フランスが作ってアメリカが引き継いだ傀儡政権です。この二つの帝国主義国家からの干渉がなければ、ベトナムは日本の敗戦と同時に南北に分断されることなく独立していたでしょう。またアメリカがインドシナ半島に於いての防共に執着していなければ南の政権は直ちに消え失せたことでしょう。
しかしアメリカは、関東軍が柳条湖事件というデッチ上げを口実にして中国東北部を侵略したように、「トンキン湾事件」を皮切りに本格的にベトナム侵略を始めました。1964年8月2日にアメリカの駆逐艦が攻撃を受けた位置は北ベトナムが主張する領海内でした(そもそも地図を見れば分かりますがトンキン湾とは北ベトナム沿岸と海南島に挟まれた海域です)。二日後にも北側から攻撃を受けたと報じられましたが、これは乗務員の勘違いだったのです。この点、日本軍が中国の領土内で挑発を続けたため偶発的に発生した盧溝橋事件をきっかけとして本格的な中国侵略を開始したことと酷似しています。
ベトナム戦争とはベトナムの内戦ではなく、アメリカのベトナムに対する侵略だったのです。

しかし「満州国」とは、それこそ現在の北海道に「蝦夷共和国」を作るくらいの馬鹿馬鹿しい行為でしたが、当時のベトナムには確かに反共、カトリック教徒(ベトナム国民の大半は仏教徒で、「ゴ・ジン・ジエム」政権は彼らを抑圧していました)、親欧米勢力が存在しました。この点日本の中国東北部侵略とは全く様相が異なりますが、それでも他国に対する余計な干渉であり、侵略であった点は変わりありません。
しかし関東軍で五族協和とか王道楽土とかのスローガンを本気で信じていたバカは石原莞爾くらいのもの??でしょう。一方当時のアメリカ人の中には、「ベトナムを共産主義の脅威から守ってあげてるのに・・・・」と思い込んでいる超バカも少なくなかったようです。(現在でも「イラク国民をフセインの圧制から解放してあげたから正義の戦争だった」と思っている糞バカなアメリカ人は多いようですね)
しかしアメリカ兵たちはベトナムの地を踏んでから、それが幻想だったことに気付くのです。

「子供たちは我々の目を見ようとしない。彼らはアメリカ人に対して嫌悪のジェスチュアを示す。これは若い新兵たちを動転させる。彼らは、自分たちが守ってやっている人々から大歓迎を受けるだろうと言われていたからだ」(1970年出版 草思社 セイムア・ハーシュ/著 小田実/訳 「ソンミ  ミライ第四地区における虐殺とその波紋」より引用)

そしてじきに彼ら新兵も、自分たちはベトナム人を共産主義の脅威から守るために来ているのではなく、
ベトナム人を無差別に殺戮するために来ていることを悟ったことでしょう。

http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=18709



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