| 120 |
返信 |
Re:“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像 |
ノンポリ@マジで転載 |
|
|
2005/07/24 17:03 |
|
|
|
|
http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=19495
Re(4):“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
--------------------------------------------------------------------------------
投稿番号:19495 (2004/08/28 02:24)
投稿者:ノンポリ(「中国の旅」で紹介された無差別虐殺事件が証明されてます!)
mail:
--------------------------------------------------------------------------------
内容
さらに、
この本の第十章「総検証『中国の旅』報道」では、本多勝一・著「中国の旅」に記されている三光作戦の事例(P-289〜298)について検証していますので、まずはその「中国の旅」(朝日文庫)より概略を引用します。
1971年の初夏、中国各地で日本軍の残虐行為の調査をしていた本勝は、三光作戦の実態の取材の為に天津から列車と車を乗り継いで途中一泊しながら「潘家峪」(バンカコク)という山村を訪れ、そこで「県の革命委員会」から潘広林さんという当時17歳だった虐殺事件の体験者を紹介され、「潘家峪事件」と呼ばれる虐殺事件について取材します。
九死に一生を得た潘広林さんの回想によると、この村は侵略者に臆することなく対峙していたそうで、食糧徴発には従わず、一方的に発行された身分証明書も受け入れず、傀儡政権の支配下に陥ることを拒んでいました。また「遊撃隊を支援」していた為に日本軍は度々掃討を行い、捕えた村民を拷問しました。このように無差別虐殺の標的となる下地が出来上がっていったようです。
そして1940年1月25日(旧暦だと大晦日の前日の12月28日)の早朝、事件当時1300人余りが常住していたこの村を日本軍が包囲し、全員を村の中ほどにある凍結していた池に連行します。そこでリーダーらしき「佐々木」という男が「東洋刀」(軍刀)を抜き払い、「村長はどこだ」「武装隊長は前に出ろ」「民兵は誰だ」「武器を持っている者がいるか」「八路軍の兵器工場はどこだ」「八路軍に協力したやつはだれだ」などと「悪狼のように」どなり散らしはじめ、「傀儡中国人通訳」を使って問い詰めましたが、住民は沈黙を守っていました。
そこで「佐々木」は村人を無作為に20人ほど選びだし、見せしめに銃剣や軍刀で斬殺しましたが、村人たちは口を開くどことか「怒りにふるえ、目を血走らせて日本兵をにらみつた」そうです。「佐々木」はそれに臆したのか、別の場所で「訓話を伝える」として、近くの大地主の屋敷に村人を誘導しました。
その高い土壁で囲われた屋敷の庭にはコウリャンの殻や松の枝などが敷き詰められ、石油の臭いが漂っていました。午前11時ごろ全員を押し込めてしまうと入り口は施錠され、ほぼ同時に火が付けられました。逃げ惑う村人に対して敷地内を見下ろす位置から機銃掃射が浴びせられ、手榴弾も「まるで雹のように」投げ込まれたそうです。
潘広林さんら強運な一部の若者は日本軍が銃撃を一時中断して殺戮の状況を調べているときに、土壁の隙間から辛くも脱出しましたが、逃げ遅れた女性や子供は猟奇的殺人の餌食になりました。幼児は石に頭を叩きつけられ、両足を引き裂かれ、妊婦は腹を裂かれ胎児を引きずり出されました。
さらにこの屋敷内での虐殺を終えた日本軍は再び村落全戸を捜索し、隠れていた老人や子供を皆殺しにして、村を焼き払いました。こうして1230人が虐殺されたそうです。
日本軍が撤収した後、生き残った村人は家族を捜し求めましたが「死体はほとんど黒こげで、だれかれの区別などわからない」という状態で号泣するあまりでした。
しかし午後10時ごろ、700人ほどの八路軍第十二連隊兵士が村に到着した時には皆「言葉にもならぬ喜び」に浸ったそうです(本勝注――――「『八路軍が現れた』という瞬間は、『白毛女』その他の劇などでも、クライマックスとしてよく出てくる」)。
日本軍襲来の報を受けて部隊はすぐさまアクションを起こしたそうですが、しかし時既に遅し、兵士たちは「折り重なる虐殺の死体をみて、村人と同じように声をあげて泣いた」ばかりだったそうです・・・・。
以上が、本勝「中国の旅」による「潘家峪事件」の概要です。ちなみに生き残った若者たちは八路軍に加わり各地で戦功を立て、1942年の旧暦7月には150人の日本軍を「撃滅」したそうですが、その中に虐殺事件を指揮した「佐々木」も含まれていたということです・・・・。
・・・・・・・・
この事件について田辺氏は、「第二十七師団隷下の支那駐屯歩兵一連隊(歩一)」の関係者から取材調査を始めましたが、「歩一」の内海戦友会会長はあっさりと『事件のあったことは事実です』と認めたそうです(さぞかし拍子抜けしたことでしょう)。
「あの部隊は『通匪部落』でいつも日本軍がやられていたところであり、それなりの理由もあったのだと話す。(中略)『殺さなければ殺される、これが戦場の現実なのです』と淡々と話す」
そして内海氏のつてで、佐々木信三郎中尉が率いていた第一機関銃中隊に事件当時属していた片川三蔵、筒中要之助両氏(田辺氏の配慮により両氏とも仮名)から詳しい証言を得ることになります。
***************************
ところで両氏の記憶によると事件の発生は「たしか昭和16年(1941年)2月初めだった」ということで、「中国の旅」の記述と1年食い違いますが、両氏の足跡から判断して1941年が正しいと言えるそうです。田辺氏はこれを「(中国側の)調査が杜撰というより、1000人以上の殺害があったとする状況を作り出すための方便(大晦日の前日なら村に多くの住民がいて当然)」と推測していますが・・・・現地の「潘家峪惨案紀念館」では、
「紀念館に来ていただきまして歓迎いたします。 この潘家峪で大きな悲惨な出来事があって、それは1941年1月25日のことでした。旧暦で言うと、前の年の12月28日。 その時、日本軍はここで悲惨な事件を起こしました。」
と説明しているそうです。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/panjyai.html
つまり1940年というのは単なる本勝のチョンボのようで、田辺氏の憶測は全く意味を為しません。しかしこんなことは少し調べれば判明するはずです。ノソポリ(最近ついたあだ名)レベルの失敗だと言えるでしょう(笑)
***************************
片川氏によると、事件当日の午前1時ごろ部隊は豊潤という町を出発し、明け方に包囲を完了します。部隊の人数については、片川氏は4、5百人+傀儡中国人で構成された県警備隊が約百人、一方筒中氏は百人未満、傀儡兵については人数はわからないとしています。
田辺氏は、佐々木中隊長が「(豊潤の第一大隊の)4人の中隊長をさしおいて大部隊の指揮をとるというのは考えにくい」として、筒中氏の説を支持しています。
「片川は、『あれ(襲撃)は計画的だった。でなければああはいかない。佐々木中尉の独断だったかもしれない』とも話しているので、筒中のいう人数が真実に近いのかもしれない」
そして部隊は村民を「広場(中庭)」に集め、穀類を供出させ、機関銃隊は警戒のために村内に入らず小高い位置に重機を据えました。
「『狩り出された人数は約300人』で小さな広場はほぼ一杯だったと片川は話す。そこで小銃と軽機関銃で射撃を開始する。一方で出させたコウリャンの束に火をつける」
「目前で起こった光景を見て『兵隊はいやなものだな』と思ったと片川はいう。また、村の指導的立場(?)にあった約20人を、河原で射殺するところを伝令の帰りに目撃したとも話している」
「筒中の方は、小さな部落だったといい、死傷者について『部隊の遠方で銃を据えていて、部落には機関銃隊は入っていませんのではっきりわかりませんが、小銃隊の話を総合すると、村民死傷者200〜300人位のようです』と回答、後日小銃隊(歩兵)から聞いた話だという。そして『中国の旅』記述は、『中国側の一方的な宣伝臭がします』とつけ加えてあった」
ちなみに、中国の旅に記されている猟奇的な殺人については「反論することなく苦笑いするばかり」だったそうです。
・・・・以上、殺害された人数やその方法、その他事件のディテールに異なる点が見られるものの、村民を集合させて銃撃+焼殺した事件であるという点では、「中国の旅」の記述と田辺氏の取材結果は合致しています。つまり田辺氏は、一部からの悪評が高い「中国の旅」の内容の一部が真実だったことを証明したことになります。
もちろんこのような虐殺の証言を紹介している本はいくらでもあります。たとえば「南京大虐殺のまぼろし」の中の南京での最大の虐殺事件についての部分では、「山田支隊」関係者から重要な証言を紹介しています。しかしそれらの証言は、事件当時捕虜を解放するつもりだったという言い逃れに基づくものです。
このような荒唐無稽な弁明は一顧だに値しないことは、このボードでもK−Kさんによって論証済みです。ですからこれは歴史資料としての価値は一段低いと言わざるを得ません。
しかし田辺氏の得た証言は、「山田支隊」関係者のような歪んだ立場からのものではなく、記憶に留まっているものだけを淡々と述べています。この証言だけでも、三光作戦の一要素である民間人への無差別虐殺が「中共のプロパガンダ」でも「サヨクの捏造」でもなかったことが明らかになっているのです。全く田辺氏貴重な証言を得たものです。
・・・・しかし残念ながら、田辺氏はこれだけ重要な証言に接しながらも依然として歴史を公正に観ることができないようです。
「この村は八路軍の妨害工作、つまり通信線の切断、自動車道路の破壊、日本軍の行動を通報する、また物資(食物、武器弾薬)を補給するなど「敵性部落」だったという。この付近でしばしば待ち伏せにあって損害を出す。このため、佐々木中尉の独断が引き起こしたというのが大方の見解といってよかろう」
このように、「潘家戴事件」について「鈴木“某”大尉」の個人的な犯行であるかのように述べているのと同様に、この事件についても佐々木中尉一人に責を帰すような見解を示しています。
これは、
「朝鮮人従軍慰安婦が就業詐欺に遭ったのは朝鮮人悪徳業者の責任だ」
「南京での強姦事件は兵士の個人的な犯罪だから日本軍全体についてとやかく言うのはおかしい」
などと同種の空虚な主張です。侵略戦争とそれに伴う民衆を圧迫すること自体が目的である政策の本質を理解したくないのでしょう。
また、
「毛沢東の呼びかけに応じた村民が遊撃隊を組織し、手製の地雷を作って待ち伏せ攻撃をするなど『不屈の戦闘をくりひろげた』のが事実なら、日本軍にも村民の攻撃を正当化する理由が生じる。もちろん、女子供など明らかな非戦闘員を除いての話である。
だが『中国の旅』にあるような『村民の反抗はみなウソだ』と片川は断言する。なかには、八路軍に加わった村民もいただろう。子供も日本軍の動きを報じる伝令役となった記録もある。だが、一般の住民はおとなしく、八路軍に日本軍の行動を通報し、食料、武器弾薬を補給するなど、八路軍に便宜をはかるものの、直接武器をとって反抗するようなことはなかったというのである。多くの村では日本軍を接待する者、八路軍を接待する者とに担当があり、両者の力関係を見ながら過ごすという辛い立場に置かれていたのだ」
このように述べていますが、どうも田辺氏は、鈴木啓久さんが帰国後に記した民衆と八路軍との分かちがたい関係を第九章で引用したことを忘れているようです(笑)
仮にこれが真っ当な評価であったとしても、中国民衆にとって日本軍は忌まわしき侵略者であることには変わりありませんし、八路軍は民衆の信頼を得ていた事実も消すことができません。
たとえば「晉察冀邊區西邊粛正作戦」に従軍した「黄城事務所職員」は次のように記しています。
「従軍中連行した捕虜に、行軍中路傍の梨の実を採って与えたところ、農民のものは無断で喰わないと断った点、また龍華縣公安局に収監されていた八路軍の一兵士は、某村の宿営の際、一婦人と密談したとの理由により罰せられた点から見て、民衆の支持を得るためにも峻厳な規律を要求していることが窺える」(「北支の治安戦<1>」P-563〜564)
また同作戦について関係者の回想や独立混成第三旅団の記録を編者がまとめた「教訓及び所見」にはこのような観察があります。
「一方中共軍の対民衆態度を見るに、その規律は甚だ厳正親密であった。たとえば、わが工作員を敵性工作員として偽称して、部落に潜入させると、婦女子も恐怖することなく接近してくることが多かった」(同上P-562)
このように民衆は八路軍を、日本軍のような暴虐の限りを尽くす軍隊だとは見ていなかったのです。
さらに、仮に住民が「直接武器をとって反抗するようなことはなかった」にしても、可能な限り侵略者に対峙していたようです。
「民衆の中共軍に対する態度は心服でなく、ただ威圧による盲従畏服のようである。しかし、中には抗日思想、抗戦意識が熱狂的なものがある。たとえば独立混成第三旅団内においては次のようなことがあった。
(1)土民を捕えてこれに案内させた特殊工作員二名が、敵方の部落に接近するや、案内の土民は突如大声で「『漢奸』が来たぞ、皆出てきて引捕えろ!」と絶叫した。
(2)岡村支隊の一コ中隊が、大隊主力から分進した際、これを案内した土民は不利な地形に誘導し、われを共産軍の包囲下に陥れようとした。
(3)草野支隊の兵二名は、方角を見失った際、部落民のため敵軍の第四団第二本部の位置に誘導された」(同上P-559)
日中戦争とは、日本軍と国民党軍、日本軍と共産党軍との戦争だったという“だけ”ではありません。
ベトナム戦争に於けるアメリカ軍の敵は解放戦線だけでなく民衆そのものでもあり、イラク戦争もバクダッド陥落以降同じ様相を帯び始めたように、日中戦争は日本軍と中国民衆との戦いでもあったのです。
侵略戦争というのは、侵略を受け入れたくない民衆が存在する限り、得てして侵略者と被侵略国の民衆との戦いに変じていくものです。田辺氏には残念ながらこの視点が全く欠けているようです。
・・・・ともあれ、こんなスレを立てたクセに肝心の三光作戦については大して資料を提示していなかった私にとって、田辺氏の「検証旧日本軍の『悪行』」に出会ったことは、筆者の思想的偏向は別として非常に有意義なことでした。
田辺氏と、「満洲どよよん紀行」、そして山田としあきさんに感謝感激雨あられであります・・・・。
追記:
「潘家戴荘村事件」を実行した部隊の指揮官だった佐々木信三郎中尉は、「中国の旅」によりますと、1942年に潘家戴荘村の生き残りの青年たちによる「復仇団」との交戦によって戦死したことになっていますが、実際は佐々木中尉は1943年に「歩一」から転籍したそうです。その後インパール作戦に参加したという話もありますがはっきりせず、1979年10月に故郷の青森で亡くなったそうです。これぞまさに「中共のプロパガンダ」というべき事実の歪曲ですね(笑)
しかしこのような有名な事件の当事者からの証言が得られることはなかったということは、この国が自国の歴史の解明を怠っていることの一例と言えるでしょう。
|
|
| 119 |
返信 |
Re:“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像 |
ノンポリ@マジで転載 |
|
|
2005/07/24 17:02 |
|
|
|
|
http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=19494
Re(3):“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
--------------------------------------------------------------------------------
投稿番号:19494 (2004/08/28 02:18)
投稿者:ノンポリ(鈴木啓久元中将が語る「無住地帯」の設定)
mail:
--------------------------------------------------------------------------------
内容
さらにこの章の「4 『無人区』政策は三光作戦か」という項(P-246〜258)では、日本軍による「無人区」の設定(つまり住民を有無を言わさず追い出すこと)についても触れています。
まず「(1)興隆県の無住地帯」(P-247)では、私もこのスレで引用した「もうひとつの三光作戦」(姫田光義・陳平(丸田孝志訳)共著、青木書店)を批判しています。
この本は「満州国」に於ける強制移住政策について詳細に検証している力作ですが(現在手元になし)・・・・「『無人区』政策は日本軍による中国人抹殺計画、つまりは三光作戦そのものだと結論づけている(と、毎日新聞が発売時に評した)」ことが、田辺氏には耐え難いことのようで、「満州国史」(満州国史編纂刊行会71)から引用して「集家工作という移住策」について述べています。
それによると、ゲリラの跋扈に悩んだ「満州国」政府は、
「治安不良地区において分散した住戸を一ヶ所に強制移住させ、住民の通匪を根絶し、匪団に対する糧道と武器弾薬補給ルートを断ち、かつ討伐隊の基点とするため、集団部落の建設が必要視されるに至った」
ため、1937年に満州国民生部は「集団部落建設要領」等を設けて国庫負担によって移住先の家屋建設を補助したそうです(P-249)。
そして筆者は「集家工作」と「無住地帯」の設定は三光作戦などではない、と力説しています。
「右の説明から、『無住地帯』は住民の強制移住政策であり、中国人抹殺計画だの大量殺人だのと言えるわけがなかろう。抹殺計画ならどうして新部落建設が必要なのか。何のために住民を抹殺するのか」(P-249)
しかし「もうひとつの三光作戦」を読むまでもなく「満州国」による「住民の強制移住政策」は、明治以降昭和の前半まで日本がアジア各地で行なっていた三光作戦の根幹を成すものであり、ナチスドイツによる「ゲットー」の設定やイスラエルによるパレスチナ人追放政策と同質のホロコースト政策に他なりません。
「三光」とは、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」作戦と言いますが、
いくら虐殺を続けても(殺しつくす)、いくら集落を焼き払っても(焼きつくす)、
いずれその地には人々が戻り日々の営みが復活することでしょう。そして蘇った集落は再び侵略者と対峙するゲリラの策源地となり得るのです。
侵略者はそれを恐れ、人間の生活にとって非常に重要なこと―――つまり己の居住地を確保すること―――の阻害を思い立つのです。「集家工作」という「強制移住政策」は即ち人間からその居住地を「奪いつくす」ことであり、「殺しつくす」「焼きつくす」よりも重い、ある民族に対する絶滅政策と同質の凶行と言えます。
・・・・続いて「(2)華北の無住地帯」(P-255)では日中全面戦争以後の「華北」(万里の長城の南側)に於ける「無住地帯」について、鈴木啓久さんの記録を元に論じています。
「あの討伐(1942年6月の冀東地区の作戦)以来、匪団の大きいものが見えないので表面は如何にも治安がよくなったかに見えるが、実際には一皮むけば下はマッカなので、考えようによっては却って治安悪化とも言えるのです」(P-255〜256)
一向に“治安の回復”の兆しが見えないのは「結局、八路軍及其の工作員と一般住民との区別が判然としない」ので、「良民証」を発行し住民に常に携帯させました。また遮断壕の構築によってゲリラの活動範囲を封じ込めようとしました。
しかし「良民証」はゲリラによって偽造されたり強奪されたり脅迫されて作らされたため実効力はなかったそうです。また万里の長城が「匈奴」の侵入に対して無力だったのと同様に、遮断壕も意味のないただの溝に過ぎませんでした。さらにゲリラが万里の長城の外側(「満州国」)と内側(冀東地区)を自在に行き来することも悩みの種でした。
そこで北支那方面軍は、住民を強制的に追放して「無住地帯」を設定することを決定するのです。鈴木啓久さんは「第百十七師団長の回想」に次のように記したそうです。
「歩兵団長は方面軍の右の指示による上記両県の長城より四粁以内にある住民を悉く追い払い、爾後再び一切復帰を許さぬ『無住地帯』となせとの師団命令を拝領した。私は9月中旬より該地区の全住民を運搬し得る限りのものを持参し、残存するものは家屋糧穀に至るまで一切を焼き払い二十日以内に長城線より四粁以上離れた地(図上によって一線を劃して示した)に移転し、爾後耕作に至るまで如何なる理由あるも再び復帰することを禁じ、巾四粁全長一〇〇粁余りの地を無住地帯と定め、第一連隊長をして遵化県内、第三連隊長をして遷安県の地域を主として県警備隊、已むを得ざれば一部日本軍を使用して住民を追い出さしめた。此の命令に反抗して惨殺されたもの二百余名に及び家屋約五万戸を焼き住民約十万人を追い拂った。之等の処置を住民は『三光政策』と呼んだ」
この過酷な措置に対しても筆者は「中国人抹殺計画だの三光政策などと言えるわけがない」との見解を崩していませんが、「熱河省との違いは集団部落を建設しなかったこと、代替農地が考慮されなかったことで、住民にすれば行くあてもなく生活の基盤を取り上げられたことになる」とボソリと述べています。
・・・・もし現代の日本に住む私が、突然会社をクビになり同時に住んでるアパートを追い出されたとしても、どっかの飯場に潜り込むなり残飯を漁るなりして、どうにかして生きていくことはできるでしょう。
しかしこの戦乱に国が揺れていた時代に、突然自分が耕していた土地から追い出された農民はどのようにして暮らしていったのでしょうか?どのようにして中国内陸部の厳冬を越したのでしょうか?このような殺人に直結しかねない暴挙に対して尚も「三光政策ではない」と言い張ることしかできない筆者の見識の浅さには言葉もありません。「無住地帯」の設定とは即ち、「三光作戦(政策)」と呼ばれることもあるホロコースト政策の一環に他ならないのです。 |
|
| 118 |
返信 |
Re:“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像 |
ノンポリ@マジで転載 |
|
|
2005/07/24 17:01 |
|
|
|
|
http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=19493
Re(2):“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
--------------------------------------------------------------------------------
投稿番号:19493 (2004/08/28 02:15)
投稿者:ノンポリ(鈴木啓久元中将が語る虐殺事件)
mail:
--------------------------------------------------------------------------------
内容
そしてこの第九章では、中国での戦犯裁判に於ける鈴木啓久さんの「供述書」に記された、「魯家峪の虐殺」「潘家戴荘事件」などの虐殺の記録、そして「無住地帯」の設定について、
鈴木啓久さんが帰国後に記した二つの回想録(「中北支における剿共戦の実態と教訓」「第百十七師団長の回想」)を基に検証しているので紹介します。
★魯家峪の虐殺(P-231〜234)
鈴木啓久さんの「供述書」によると、1942年4月、鈴木さんは歩兵団長として豊潤県の魯家峪にて掃討戦を開始し、洞窟に立てこもる八路軍100名を「毒瓦斯」で殺し、さらに附近の山間に避難していた農民235名を虐殺し、女性を100名強姦し、妊婦の腹を裂くなど残虐行為を行なった、ということになっているそうです。
しかし「第百十七師団長の回想」によると、洞窟に立てこもって投降を拒み頑強に抵抗を続ける敵兵を「発煙筒、催涙弾を使用して殲滅」し、また魯家峪の村民の中から逮捕した者のうち、八路軍兵士は捕虜として「後送」し、他は「釈放」することを命じたそうです。どこにも住民を虐殺しただの、妊婦の腹を裂いただのという話は出てきません。今となっては真相は謎ですが・・・・。
ともあれこの作戦が行なわれた当時既に、「三月頃になると歩兵団司令部所在のわずか八粁の地で軍用トラックが八路軍によって襲撃されるまでに至った」ほど八路軍の動きは活発化しており、
また鈴木啓久さんにとって、洞窟に立てこもる敵に対して「発煙筒、催涙弾」を浴びせることによって得た「約三百殲滅」という戦果は、「八路軍と交戦した五年間で只一回のもの」であり、戦後に元部下に宛てた手紙に「多数戦友の尊い犠牲によって得た賜で不滅の特筆すべき勲功」と記すほど、華々しい思い出であったようです。言い換えれば日本軍は八路軍のお陰で滅多にいいことが無かった、ということでしょう。
★潘家戴荘事件(P-236〜239)
「供述書」によると、1942年11月、楽県潘家戴荘という集落について「其部落が八路と通牒して居る」との報告を受けると、直ちに「其の部落を徹底的に剔抉を行い粛正すべし」との命令を「第一連隊長田浦竹治」に伝え、そして田浦は騎兵隊と共同にて農民1280名を虐殺し、この集落の全戸800を焼き尽くしたそうです。
「第百十七師団長の回想」によると、
この地区にて潘家戴荘村の村民を強制動員して行なわれていた「遮断壕」掘削工事は、「八路軍の指嗾」によって逃亡者が続出していたため進捗状況が芳しくなく、
担当者の「鈴木“某”大尉」が業を煮やし、この村に「潜伏」している八路軍分子を逮捕しようとしたところ村民が協力しなかった為、「村民全員を惨殺、全村千余を焼き払った」そうです。
著者の田辺氏も「この事件の存在は以前から歩一の人たちから聞いていた」そうで、「鈴木“某”大尉の“犯行”であることは間違いない」と述べています。田辺氏自身もこの事件については事実であることを認めざるを得ないようです。しかしこの事件を指揮官個人の「犯行」として言及しているところに田辺氏の歪んだ見識が露呈していると言えます。
さらに鈴木啓久さんの「団下一般に『不殺、不犯、不焼』を厳守せしめる如く厳に要求したが事実は遺憾ながら逆であった」という、「別のところ」の述懐を引用し、「軍紀の乱れ」によってこのような「不祥事」が起こったと示唆しています。アジア・太平洋戦争での日本軍の「軍紀」など無に等しいものだったことなど百も承知ですが、この事件は「軍紀の乱れ」として説明できる性質のものではありません。むしろ当事者の「鈴木“某”大尉」は、イスラエルによる「分離壁」構築やナチスドイツによるユダヤ人迫害政策と同質である、日本軍による共産軍ゲリラ掃討作戦の本質を理解し実行したという点で、軍“規”については忠実であった、と言えるでしょう。
|
|
| 117 |
返信 |
Re:“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像 |
ノンポリ@マジで転載 |
|
|
2005/07/24 17:00 |
|
|
|
|
Re(1):“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
--------------------------------------------------------------------------------
投稿番号:19492 (2004/08/28 02:12)
投稿者:ノンポリ(鈴木啓久元中将の回想)
mail:
--------------------------------------------------------------------------------
内容
この本の第九章「鈴木啓久師団長の供述と回想」(P-216〜)では、撫順戦犯管理所に抑留され戦犯として裁かれ、日本軍の残虐行為について告白した鈴木啓久元中将(第117師団長)の証言について検証しています。
・・・・よしりんによると鈴木啓久さんは、「洗脳が解けたと思われる」人だということで、なるほどこの人は中国での体験を開けっ広げに語っていたようです。
出身校である仙台陸軍幼年学校の会報「山紫に水清き」による1979年6月2日の取材に対して、飯盛山の自宅で次のように語ったそうです。
「・・・・だから(日本兵が)虐殺したと言われれば、そうですかと私は正直に受け取った。だから20年の禁固にされた。恐らく“やれ”と言った将校はおらないと思うんですが・・・・。目が届かなかったと言えばそれまでだが、それだけ訓練ができておらなかった。それは、やはり我々の責任ですよ」
「・・・・ありもしないことを住民がなんだかんだといいますからね。“鈴木部隊が、ここにこういうふうに入ってきた”と住民が言うので、“そんなところに私の兵隊を配置したことはありませんよ”といったって、“住民の言うことに間違いはない”と言うんだから。まあ、他の部隊がやったこともあるでしょうし、広い場所だから、やっぱり止むを得ないんですよ。罪を犯した本人がおらなければ、そこにおった司令官が罪にされるのは当然だと思って“ああそうですか”って。」
ただし同時に、八路軍と対比させて日本軍の軍紀の乱れが収拾のつかないものだったことも指摘しています。
「しかし、八路軍というのは強かったですよ。本当の共産党員というか、負傷して倒れている下士官だったか、助けてやろうと色々やったが、絶対にいうことを聞かない。それで動かんもんだから、とうとう置いてきてしまった」
(しかし八路軍は)「資産階級や豪農に対しては相当ひどいことをやったようだ」(“万人孔”のようなものが出来るほど虐殺し死体を埋めたそうです)
「その代わり、八路軍は民衆の針一本、糸くず一つ取らないんですから。家にも入らない。日本の兵隊はすぐに家に入っては村落露営だなんていっている。入るな、といっても駄目です。勅諭なんか口では言うけど、さっぱり実行しない将校が多いでしょ。それじゃ兵隊になんぼ言ってもだめですよ」
(以上P-216〜217)
・・・・
筆者の田辺氏は、鈴木啓久さんが1962年の帰国後に記した「中北支における剿共戦の実態と教訓」「第百十七師団長の回想」という二つの回想録を通じて、八路軍による神出鬼没な攻撃が日本軍を翻弄し追い詰めていった様相を明かしています。(この二つの回想録は「少なくとも『思想改造』を思わせるような違和感のある記述は見られなかった」(P-221)そうです)
「この共産軍は正規の軍隊、つまり自他共に常時軍隊として現れてくるのではなくて、或る時は『正規』の軍隊の姿で現れ、或る時は便衣に鉄砲という姿で現れ、或る時は一般住民の姿として存在しているのであって、今日は部隊をなして現れているかと思うとあるは全く姿を隠してしまい、昨日は程遠い処に居るとの情報を得たかと思うと、今日は足下近くから飛び出てくるという始末であって、数時間も経たない前は全く安全であった処が其数時間後には、雲でも湧き出たようにいつの間にか大軍となって目の前に迫ってくる」(P-222〜223)
「こうした彼等との戦闘であって見れば仮令、所謂『大戦果』を挙げたとしてもそれは徹底的では決してない。だから、いつどんな姿で『報復』としてハネ返って来るか判らないと云う心配が脳裏から全く離れない、所謂『油断もスキもあったものではない』という言葉の通りの在り方である」(P-223)
このような八路軍の縦横無尽な活躍は民衆との緊密な繋がりによって可能になったものでした。中国の民衆は一体となって八路軍に協力し、そして自ら侵略者に対峙していたのです。
日本軍が制圧している「治安区」でも、日本軍に協力的な人物は“漢奸”として蔑まれ居づらくなるだけでなく殺害されることすらありました(P-224)。
そして「未治安区」の村落では日本軍来襲の報が伝われば、敵に物資を与えてしまうことや「徴用」されることを防ぐために、すぐさま村民全員、家畜を含めた財産とともに避難してしまう「空室清野」作戦を実施し、それが間に合わなければ村に残った老人子供だけでにわか作りの日の丸で「恭しく」迎えます(同)。そして八路軍ゲリラが日本軍の虚を見て襲撃を行なったことでしょう。
また日本軍に関する情報の伝達も民間人によって行なわれていたそうです。
「其の伝達者は通常、14〜5才の少年少女であるらしく彼等は近道の間道をイダテン走りに走って伝達するのである」(同)
こうした通報は「未治安区」だけでなく「治安区」からも発せられたそうです。
このように日本軍は、サッカーに喩えるならば観客、審判団だけでなくピッチの芝の一本一本が全て敵、と言えるほどの絶望的な環境に置かれていたのです。勝てるわけがなかったのです。こうした連携プレーによって日本軍の動向は八路軍側にほとんど筒抜けであったと思われます。それは鈴木さんの回想が如実に示しています。
「大部隊を捕捉することは極めて稀であって、多くの場合、空撃するのは常」
「だが、討伐はいつも空撃であろうか、いやそうではなく之は大部隊を以て討伐した場合のことで、小部隊で出掛けると殆ど捕捉するのである。而かし、此の場合には之亦、殆ど例外なく不利な戦闘となるのが多い」(P-226)
サッカーでは常に「二対一」の状況を作り出すことが基本とされていますが、八路軍も住民から得られる豊富な情報によって、常に敵に対して有利な状況を作ることに成功していたのです。鈴木さんの師団も、少数のゲリラが存在しているとの情報を受けて相応の人数を出動させたところ大軍に取り囲まれて全滅、という失敗を数度経験しているそうです(P-227)。
そしてこのような局地戦での日本軍の壊滅は、
「全般に公表されることが少ないので、一般からはあまり目に立たないのであるが、損害を累計すると敵に比して我が方が非常に多いことになるのである」(同)
と述べています。八路軍の頭脳的な戦略はじわじわと効くボディブローのように日本軍を痛めつけていったのです。
そして追い詰められた日本軍は、激しいゲリラ討伐、拷問を伴う尋問、糧秣の略奪を始めますが(P-224)、それがさらに民衆を日本軍と傀儡政権から離反させることになります。(この本の第二章では筆者は日本軍による住民への拷問などあるわけがない、とする回想を紹介しながらも、第九章では拷問があったことをナニゲに認めています)
鈴木さんも「このような弾圧は日本軍の支配に役立つものでは決してなく、却って反感を助長し益々日本軍より遠ざかっていったのである」(同)と指摘しています。このようにして進退窮まった侵略者が住民への圧迫、果ては無差別虐殺によって打開を図ろうとするのは歴史の必然であり、日本軍もまたその例に漏れなかったわけです。 |
|
| 116 |
返信 |
“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像 |
ノンポリ@マジで転載 |
|
|
2005/07/24 16:58 |
|
|
|
|
http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=19491
“検証旧日本軍の「悪行」”に見る三光作戦の実像
--------------------------------------------------------------------------------
投稿番号:19491 (2004/08/28 02:09)
投稿者:ノンポリ(小田二郎さん?に纏わる謎)
mail:
--------------------------------------------------------------------------------
内容
>>中帰連のデビュー作「三光」を論じた記事がありました。
>>http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo8.html
>
>残念ですが、ご紹介の「満洲どよよん紀行」にはあまり説得力を感じません。
(中略)
>さらに、
>★「しかし、時期、場所、部隊構成がデタラメでも行為は事実なのではないか、という見方もある。これを田辺敏雄氏が元78大隊の人に聞き取り調査をした。」
>
>ということですが、そもそも「元78大隊の人に聞き取り調査をした」ことが、上記で述べた点と同様に不可解なんですが・・・・小田二郎さん?と共に第35師団から第63師団の第78大隊へ配属された人に「聞き取り調査をした」ということでしょうか?
「満洲どよよん紀行」のソース元だと思われる、
「検証旧日本軍の『悪行』 歪められた歴史像を見直す」(田辺敏雄・著 自由社)の「第二章 手記「三光」に秘められた小田少佐のシグナル」(P-40〜56)を読んでみました。
それによると、小田二郎さん?と共に第35師団から第63師団の第78大隊へ転入した人は、「小田少佐と縁の深かった森田敬二郎」さんなどをはじめとして決して「少なくない」そうです。(P-47)
筆者の田辺氏は1998年、群馬県の磯部温泉(私もスキー帰りに寄ったことがあります)での第78大隊戦友会の会合に出向き、森田敬二郎さんらに取材を行ないました。
森田さんは「ナツメの木を伐採する作戦」について、「78大隊自体はまったくなかったと記憶しております」と答えていますが、もちろん「第78大隊とは、昭和19年6月に新設された第63師団の所属」なので肝心の手記の舞台である1941年当時の作戦とは全く関係がありません。
また第35師団の時期について、「多くの部隊が広範囲に散っていたので、知らない部分はそれだけ多かったといえます」と前置きしながらも「私自身、見聞きしたことはありません」と語っています。(以上P-51)
つまりこの森田さんは知らなかった、というだけではないでしょうか?
また他にも数名からこの件について訊ねたところ「そんなバカな作戦があるはずはない」という反応だったそうですが、その数名も小田少佐?と共に第35師団に所属していたかどうかについては全く記述がありません。もしこの数名が第35師団に所属していた経歴がないのなら全く無意味でしょう。
(しかし「ナツメの木を伐採する作戦」もたしかに「バカな作戦」ですが、中国人を動員して行なわれた遮断壕の掘削もまた、バカを極めた作戦だと言えます)
また敵性村落の焼却、村民への拷問についても「満洲どよよん紀行」で紹介されている程度の記述しかありませんでした。(もっとも川上秀一さんという人は「昭和19年頃だったと思いますが、逃亡兵の出たことがありました。捜索のためある部落で男を尋問しているとき、将校が横にあった棒でいきなり男をなぐったことを記憶しています」と証言しています(P-53)。つまり第35師団はともかく、第63師団の第78大隊では村民に対する拷問は行なわれていたのです)
ところで問題の手記には、小田少佐?の第78大隊時代の部下が実名で登場しているそうです。(榎本中尉、甲田大尉、清水中尉、大塚中尉、福富中尉、許司軍曹の6名。「小さな点を除けば階級、役職の記述も正確」だそうです。P-48より。いずれもシベリア抑留後に帰国、中国抑留経験なし)
自身は仮名を使いながらも自分の部下(しかも事件当時の部下ではない)を実名で登場させるとは、たしかに不可解であります。
1989年、第78大隊戦友会の会報「戦友」にこの手記が取り上げられ、「陣一兵」(仮名とのこと)という編者がこの疑問について「冷静でしたたかな計算が隠されているのを読みとることができるのだ」と記しています。これについて筆者も「小田少佐はシグナルを秘めて書いたという見方が当たっていると思う」と述べています(P-55)。
つまり「要するに『三光』は大嘘だという事である」(「陣一兵」のコメント。P-54)という“シグナル”を小田少佐?が送ったと述べていますが、
しかし「陣一兵」が「大嘘」だとする根拠は、
「昭和16年の5月、78大隊は河北省の固安におり、小田少佐はまだ大尉で35師団の旅団副官であったから、甲田大尉を指揮する筈もない」
「もっと肝心なことは、昭和19年3月小田部隊着任後、大隊総員800名を指揮して出動してことは一度もない」(P-54)
ということですが、第63師団の第78大隊の話を持ち出しても意味はないのです。全くお話になりません。
そもそも「三光は大嘘」であるというメッセージを込めるために実在の人物を登場させる、などという迂遠な手段を用いるでしょうか?小田二郎さんは1975年に亡くなったそうですが、「三光は大嘘」であるならば、何故生前にそれを告白しなかったのでしょうか?
また筆者は、
「明治生まれの小田は副官経験者ゆえに軍の公式文書に精通しているものの、『三光』のような文章が書けるわけがないというのも頷ける陣一兵の指摘である。おそらく、ほかの人間が相当に手を入れたのは間違いないと思う」
と述べておりますがこれは的を射た指摘かもしれません。おそらく第三者が小田二郎さん?の口述を基にあの手記を作成し、その執筆者はあろうことか事件と関係のない実在の人物を登場させてしまった。そのことに小田さんは後ろめたさを感じ、戦友会の会合には一度しか出席せず(P-56)、部隊史の作成も丁重に断った(P-56)ことの原因となった・・・・と推測すれば「頷ける」かもしれません。
・・・・しかしこの手記についての疑問は拭うことはできませんが・・・・仮にこの手記が作り話であったとしても、それは「三光」という本のタイトルチューン?の「三光 殺光、焼光、略光 殺しつくし、焼つくし、略奪しつくす ・・・・by本田義夫」が作り話であった、ということに過ぎません。
この手記の中で村民は生きる糧である棗の木を切り倒され、家を焼かれました。しかしこの村から立ち去ることを命令されてはいないのです。1931年以降、日本軍は中国の各地で「無住地帯」を設けて民衆を追い払い、そして時には虐殺しました。この手記の内容よりももっと過酷なことを日本軍は行なっていたのです。それらの事例が「検証旧日本軍の悪行」の中で紹介されています。
|
|
| 115 |
返信 |
投稿番号:19478 |
ノンポリ@マジで転載モード |
|
|
2005/07/24 16:56 |
|
|
|
|
http://www.nc4.gr.jp/cgi-bin/boad.exe?file=./Demo&path=/board/&startHtml=./BoadNaiyou.nf.html&mode=sel&targetid=19478
全然まとまっていませんよ。振り出しですw
--------------------------------------------------------------------------------
投稿番号:19478 (2004/07/13 19:12)
投稿者:ノンポリ()
mail:angel666@joy.ocn.ne.jp
--------------------------------------------------------------------------------
内容
山田さんお久しぶりです。
>ノンポリさんは食糧問題で忙しいでしょうから返信も反論も求めません。
いえ、別段忙しくはありません。「問答有用」という掲示板に時々顔を出している程度です。
>でも、いちおう目を通しておくくらいの軽い感じでは読んでくださいね。
「返信も反論も求めない」のに、「軽い感じでは読んで」欲しいとは、随分勝手な要求ではありませんか?
読んで欲しいのならば反論されることを嫌ってはなりませんし、
反論を嫌うのならば書き込まなければいいのです。
貴方の投稿は完全に無視されるかもしれませんし、欲しくもない反論レスがつくかもしれません。
自分の期待が裏切られることを恐れるのならば投稿しなければよいのです。掲示板など読まなければいいのです。
>> せめて山田さんがどのような媒体によってその情報を得たか教えて頂けないでしょうか?インターネットでしょうか?何かの著書でしょうか?
>> 「1980年頃」ならば20年前ですね。20年前のことを鮮明に記憶していることは困難ではないでしょうか?
>
>記憶はあまり鮮明ではありませんが、
その割には随分と細かく書き連ねておられますね?
>覚えていませんか?
「1980年頃」のニュースでも、「昭和の重大事件ベスト100!」にノミネートされるような出来事ならば、「ああ、そんなこともあったな」と思い出すかもしれませんね。
繰り返しますが、ソース元を明らかにされていない以上、貴方の述べていることを評価することはできませんので、以降はがっさり割愛させて頂きます。
しかし、どうも貴方はソースを明らかにしないで話をする癖があるようですね。
掲示板の方では、
イラクの人質が「豪華なチャーター便」で帰国したのは、「家族が要求したからですよね。特に高遠さんのお母さん」
と述べられましたがこちらもソースを明らかにされておりません(ご丁寧にもNOR氏がそれを未来ボードに転載しています)。この件もソースを明示して頂きたいものです。
(どっちにしろ、チャーター便で帰国するのか自分が持っているチケットで帰国するのかを最終的に決定するのは当人の意思でしょう)
>その後のことですが、個人的に知己を得た中国人からいろいろと経緯が聞けました。中共の国家官僚で、日本を担当していた人です。
中国人の知り合いから「いろいろと経緯」を聞いた人とは、誰ですか?
まさか山田さんご本人ではないと思いますが・・・・
>> たとえ「金のためだけ」であろうとも、日本が中国で何をやったのか知らしめたのは功績でしょう。(勿論部分的に不正確な点もあると思われますが)
>
>中帰連のデビュー作「三光」を論じた記事がありました。
>http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo8.html
残念ですが、ご紹介の「満洲どよよん紀行」にはあまり説得力を感じません。
・・・・まず、
「「三光」収録の手記」のなかの、
「三光 殺光、焼光、略光 殺しつくし、焼つくし、略奪しつくす」
の筆者の「本田義夫」という人物は、実名は小田二郎さんという人であり、
そして、
「この手記の小田少佐が大隊長だった時期は昭和19年3月以降である。手記の日付の昭和16年にはまだ大尉であり、一般的に大隊長の地位にはなりえない。」
「当時は第35師団で旅団副官であり、800名の部下を指揮できる立場になかった。」
「小田少佐は一兵卒から苦労して少佐になり大隊長まで昇った人だった。そんな人が自分の所属や部隊長になった時期を間違えるはずがない」
と述べていますが、現実に小田二郎さん?は自分の名前すら「間違えて」、「本田義夫」という仮名を使っています。
わざわざ仮名を用いたのに、自分のいた部隊や階級を正直に記したら意味がないのでは?たちどころに実名が判明してしまいます。
「どよよん紀行」の作成者がこの疑問に拘るのなら、
「私は1900年、三重県に生まれ、高等小学校卒業後、1920年徴兵、下士志願、1929年少尉候補生として陸軍士官学校に入校。1943年少佐、大隊長として華中、華北に勤務したが1945年6月、偽満州国通遼付近に転じ敗戦に至る。本件は私が1941年河南省において、大隊長として犯した罪業である。」
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/04/honda_y_sankou.htm
小田二郎さん?自身がこのように述べているのですから、大尉が大隊長を務めることが「一般的」かどうかを論じるだけでなく、
実際に小田二郎さん?自身がその当時大隊長を務めたことがあったかどうかを検証すべきでしょう。
さらには、
★「「本田義夫」とは第63師団 独歩第78大隊大隊長・小田二郎少佐(故人)だった。」
★「第63師団は北支方面軍の直轄師団として昭和19年6月に新設された。2個の歩兵旅団を所轄し各旅団はそれぞれ4個の独立歩兵大隊で編成された。」
★この手記の小田少佐が大隊長だった時期は昭和19年3月以降である。手記の日付の昭和16年にはまだ大尉であり、一般的に大隊長の地位にはなりえない。当時は第35師団で旅団副官であり、800名の部下を指揮できる立場になかった。
としながらも、
★また、第78大隊の警備地区は河北省の固安であり、河南省の濮陽県に行くわけがない。
とはどういうことでしょうか?
第78大隊とは、昭和19年6月に新設された第63師団の所属であり、当時小田少佐はその大隊長だった、
と説明しているのに、第63師団自体が存在しない1941年当時の出来事を当てはめてどうするんでしょうか?
それとも、第78大隊は1941年当時は小田二郎さん?のいた第35師団の管轄下だったのでしょうか?(そんなことあんのか?)
ちなみに、「日本陸海軍の制度・組織・人事」(日本近代史料研究会)によると、
第63師団は独歩77〜79、24、35、80、81大隊を擁し、
第35師団は歩219、220、221にて編成されていたそうです。この資料は簡単な紹介だけですので何ともいえませんが。
また第35師団は1941年、黄河南岸の前進拠点を確保するため「河南作戦」を実施したそうです(朝雲新聞社刊、防衛庁防衛研修所編「戦史叢書18・北支の治安戦<1>」P-591より)。
もっとも、この作戦は10月2日から11月19日に行なわれたそうですから、小田二郎さん?の手記とは時期が異なりますが・・・・。
さらに、
★「しかし、時期、場所、部隊構成がデタラメでも行為は事実なのではないか、という見方もある。これを田辺敏雄氏が元78大隊の人に聞き取り調査をした。」
ということですが、そもそも「元78大隊の人に聞き取り調査をした」ことが、上記で述べた点と同様に不可解なんですが・・・・小田二郎さん?と共に第35師団から第63師団の第78大隊へ配属された人に「聞き取り調査をした」ということでしょうか?
★「『ナツメの木を切り倒すなどという作戦があるはずない』こと。」
小田二郎さん?は棗(ナツメ)の木を伐採させた理由を、
「河南は棗の名産地で、一年間の収穫は、農民の大きな生活の源だった。ここだけでも棗の収穫はしろうと目にも2−30トンの収獲が予想される。重なりあった小枝は、やっと芽がふくらんで、春の陽気を待っていた。私はこの棗林を眺めながら、これを完全に切り倒してしまえば、住民は生活の道を失い、きっと八路を離れるにちがいないとうなずきながら、つぎからつぎに音を立て、土煙りをあげて倒されて行くさまを、心地よく聞いていた。」
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/04/honda_y_sankou.htm
このように述べています。つまりこの村落の生活の糧を破壊することで、八路軍への支援を不可能たらしめるのが目的です。これは日本軍の、「未治安区」に対する基本的な方針です。
棗の木を切り倒せ、などという具体的な命令などあるわけがない、ということに過ぎません。
ゲリラへ支援している(と思われる)住民の生活の手段を奪うことが目的ですから、棗の植林でも麦畑でも芋畑でも不思議はありません。「元78大隊の人」は実に意味の無いことを仰ったものです。
★「『敵性村落を焼いたことが二例ある』こと。ただし敵性村落とはいわば山城で、各所に地雷が仕掛けられ危険極まりない陣地そのものであった。」
日本軍は各地の「敵性村落」にて、巧妙に隠匿されている武器を押収することに苦心していました。
言い換えれば「未治安区」の村落は全て「敵性村落」であり、日本軍にとって危険な「山城」であったとも言えます。それだけ民衆の抗日意識が強かったということです。
★「『治安を保つのが目的であるから拷問などやらなかった』こと。」
つまり対日感情の悪化を懸念し、拷問は行なわなかったということでしょうか?
ならば何故日本軍は、民衆の生活を確実に破壊する「封鎖線」や「無人区」を設定したのでしょうか?
「アメリカ軍はイラク民衆の支持を得ることが必要だから、拘束者への虐待など行うはずがない」
と述べるのと同様に無意味な発言です。
ちなみに「北支の治安戦<1>」P-559の、「晉察冀邊區西邊粛正作戦」について編者が整理した「教訓及び所見」によると、
「(素直に投降する者もいたが)しかし、第二十一師団の捕虜中、婦人将校がいたが、共産主義に忠実であって死を賭しても自白を拒んだ」
ということです。殺してしまうまで自白を迫ったのかどうかはわかりませんが、少なくとも捕虜に対して拷問が行なわれたのは明らかでしょう。またこの時代「特高警察」などで凄まじい拷問が行なわれていたことも忘れてはなりません。
★『第78大隊の軍紀は比較的厳正であり「三光」に書かれたような悪逆非道な部隊ではなかった。したがって「三光」は大嘘』だということ。
軍紀が乱れている部隊では掠奪、強姦、敵前逃亡、命令違反などの事件が多発するでしょうが、逆に軍紀が厳正に守られている部隊ではどのような残虐な命令でも黙して実行されるでしょう。小田二郎さん?の手記を読む限りでは、この部隊は厳しい拷問や棗の木の伐採や焼き討ちなどの上官の命令に忠実に従い、軍紀の乱れを思わせる面は微塵も感じません。またしても「元78大隊の人」は実に意味の無いことを仰ってくれたものです。
さらに言えばあのHPは
「「三光」収録の手記」15件のうち、8番目の、
「三光 殺光、焼光、略光 殺しつくし、焼つくし、略奪しつくす」
だけを論じ、
「三光」は大嘘な本であり、だから三光作戦など行なわれなかった!・・・・・と結論付けたいようですが、
「三光」という本の中で、三光作戦について述べているのは「8.本田義夫 三光」だけではありません。
「4. 難波博 陰謀 衝河の決壊」
「6. 鈴木良雄 放火 母子もろとも農家を焼く」
も、三光作戦―――つまり、ゲリラへの支援を絶つために民衆に刃を向け、あるいは民衆の生活基盤を破壊する軍事行動―――について記されています。
また私は「三光」の復刻版である、
「中国帰還者連絡会編・「侵略―――中国における日本戦犯の告白」(2002-7-15新組新装第1刷)」
が手元にありますが、その中の「4.無住地帯・・・・鈴木啓久」も三光作戦についての記述です。
あのHP作成者が中帰連の刊行物を通じて三光作戦を否定したいのならば、これら3点についても論証しなければならないでしょう。
>今ではメンバーの殆どが既に他界してしまい、残った者もかなりの高齢者ばかりであるため、団体としては解散しました。
>http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/other/gaiyou.htm
はい、「その事業を「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」に受け継いだ。」そうです。
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/ml/ml.htm
ちなみに「季刊中帰連WEB」の作成者は、
月刊『自然と人間』、及び季刊『中帰連』編集長であり、最近私も首を突っ込んでいる「問答有用」掲示板の管理人でもある熊谷伸一郎さん(通称クマさん)です。
(ちなみにイラクで拘束された今井紀明さんも『自然と人間』に執筆されたことがあります)
中帰連の刊行物に対して物申すおつもりがあるのなら、私なんぞにレスするよりも「問答有用」にて問題提起する方が手っ取り早いと思われます。
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_index
貴方があそこでクマさんや常連の方々を沈黙させることができたなら、私も貴方が述べていることが正しいと認めざるを得ないでしょう。
ところで貴方は19475では、中帰連についてのみ述べておられます。私の投稿:19452の以下の部分には全く反論していません。
>>ここに挙げられたことは戦時下における普通に当り前の軍事行動であって、“三光”ではありません。
>
>たしかに侵略軍にとっては「普通に当り前の軍事行動」かもしれませんね。
>ゲリラに手を焼いた侵略者が、民衆によるゲリラ支援を根絶するために民衆そのものに敵対する行動を取り始めることは、古代よりの戦争、先の大戦、ベトナム戦争、そして現在のイラク侵略に至るまで「普通に当り前」のようですね。
>侵略行為に対する当然の反作用としてのゲリラ抗戦を掃討する為に、民衆の生活の糧、生活の場を徹底的に破壊し奪い続け、時には無差別虐殺も躊躇しません。そして侵略軍と民衆の間に決定的な溝が生じ、さらに激しい抵抗を呼んでしまうのです。
>
-------------- 以上 ノンポリさん(投稿番号:19452)より引用 --------------
反論がないということは、
日本は中国にて、侵略軍にとっては「普通に当り前の軍事行動」として、
民衆によるゲリラ支援を根絶するために民衆そのものに敵対する行動を取り、
民衆の生活の糧、生活の場を徹底的に破壊し奪い続け、時には無差別虐殺も躊躇しなかった。
・・・・ということを山田さんは認めるのですね?
>こんな人達に騙されつづけるノンポリさんが不憫です。嗚呼。
-------------- 以上 山田としあきさん(投稿番号:19475)より引用 --------------
ソースを提示しなければ説得力など生まれないことすら分からず、反論出来ない部分は無視して自分の理想の世界で満足している山田さんが不憫です。合掌。
|
|