児玉毅のダウラギリ麓滞在記
vol.5
2009.06.05
最終回「冒険家のこころ」
みなさん、こんにちは!
プロスキーヤーの児玉毅です。
すっかり皆さんに遠征から帰ってきた報告をするのが遅れました。
栗城隊は5月28日に無事帰国を果たしました。



5月23日にベースキャンプをたたんだ栗城隊は、
来る時は3日がかりで歩いてきたルートを
ビールへの執念だけをエネルギーにして、一気に1日で歩いた。
(この強行スケジュールによって、記録カメラマンの辰野くんが
膝の古傷をやってしまい、搬送されることに・・・)

その後、ネパールいちのリゾート地、ポカラで1泊し、翌日カトマンズへ。

ポカラでは緑の芳しい空気を腹いっぱいに吸い、
美味しい日本食レストランで幸せなご馳走をいただき、
色とりどりの花々のように鮮やかに彩られた店をめぐり、
レイクサイドにあるカフェのオープンテラスでキンキンに冷えた
ゴールデンドリンク(ビール)を喉に流しこんだ。

高山から里に降りてきた時、むせ返るほど甘い空気の存在に気付く。

森の緑や花々の色彩が視界にどんどん飛び込んでくる。
市場には新鮮な肉や野菜が並び、エネルギッシュに人々が行き交う。
当たり前だと思っていたひとつひとつに、
ただただ感謝の気持ちが浮かび上がってくる。

下山した時のこの感覚こそ、ひとつの麻薬のようなものだ。
本能的に水が旨く、飯が旨く、空気が旨く、人がありがたく、祖国をありがたく思う。

栗城くんが天丼を食べながら無意識に「生きてて良かった・・・」と言っていた。
「生きてて良かった」という言葉を冗談のように良く使うけど、
本当はこういう時に使う言葉なんだ。



高所登山は、はっきり言って危険だ。
「そんな危険を冒してまで何故?」と多くの人に言われる。
おっしゃる通りである。
冒険家が自ら危険を冒すことを「命を粗末にしている」という人もいる。
果たしてそうだろうか?
冒険家は、日常では当たり前のような「生きる」ということに、とことん執着する。
「生きる」ためにあらゆる努力を惜しまない。
一日一日を真剣に生きることを自分自身に課している。

「なぜ、あなたはエベレストを目指すのか」という問いに
「なぜならそこに山があるから」とイギリスの著名な登山家ジョージ・マロリーが
答えたのはあまりにも有名だ。
要するに議論するだけナンセンスということだ。
僕が「何故滑るのか?」と聞かれても、上手くこたえることはできない。
「何故生きるんですか?」と聞かれるのと何ら変わらない。

でも、ただひとつ言えるのは、チャレンジし、困難を乗り越えた時、
「生きている」という甘味を体の細胞全てで感じることができる。
その甘味は困難な挑戦であればあるほど強かったということだ。

栗城くんの次の挑戦はチョモランマだ。
世界最高峰(標高8,848m)の単独無酸素登頂を狙っている。
8,000m峰の3つ(チョーオユー、マナスル、ダウラギリ)を
無酸素で登っている栗城くんだが、
8,400m以上の山はもうひとつ次元が違うというのが高所登山の世界では常識となっている。
7,000m台前半に最終キャンプを張ってアタックする今までの山と違い、
エベレストでは8,000mに近い高度を最終キャンプとしてアタックすることになる。
当然デットゾーン(7,500m以上)にいる時間が長くなり、
過酷な条件が刻一刻と肉体を蝕んでいく。

無酸素なので、スピードが重要だ。
今の予定では世界で初めて無酸素でジャイアンツ(世界に14座ある8,000m峰)を
全て登った不死鳥とも呼ばれたラインホルト・メスナーだけが辿ったルートを使うのも、
とにかく8,000m以上にいる時間を少なくするためだ。

とてつもなく困難な挑戦である。
でも栗城くんは「とてつもなく困難ではあるけど、不可能ではない」と言う。
メスナーは確かに超人だったが、彼が不可能ではないということを既に証明している。

今まで歴史に残る冒険は、もっともっと不可能だと言われてきたはずだ。
エドモンド・ヒラリーが世界で初めてエベレストに登った時も、
三浦雄一郎先生が世界で初めてエベレストのサウスコルからスキー滑走した時も、
前例はひとつもなく、不可能だと思われていたのだ。

「苦しみは大きければ大きいほど、それを乗り越えた時に喜びに変わる」
栗城くんが何度も口癖のように言っていた言葉を思い出した。
僕も超プラス思考な男で通ってきたが、栗城くんのプラス思考はすさまじい。
若干26歳で、自分のやりたいことに真正面から立ち向かっていく栗城くんに、
おもいっきり刺激を受けた。

人のサポートに徹することは初めてだったが、
同じプロとしていい刺激を受け、プロフェッショナルなスタッフから様々な
知識と技術を学ぶことができた。
そして、ダウラギリ麓での生活の中で、自分がいかに山が好きで、
スキーが好きなのかを再確認することができた。

山の生活に慣れるのは、少し時間がかかる。
しかし、町に帰ってくると、ものの1~2時間で都会の生活に慣れてしまう。
物に溢れ、情報に溢れ、人と人とを比べてしまうような社会で、惑わされていく。
厳しい自然の中で、たいまつの灯のように力強く生命が燃え盛るのを感じることがある。
しかし、都会の雑踏に紛れていると、果たしてこれが現実なのか夢なのか、
生きている実感が乏しくなる瞬間がある。
自分のアイデンティティがどこにあるのか分からなくなる。
こんな時、僕は山奥に一人ぼっちでいるときよりも孤独感を感じてしまう。

そして、また山を目指したくなるのだ。


おわり

vol.5
2009.05.22
信じる心。屈しない心。
ナマステ

ダウラギリベースキャンプより愛を込めて。
こんにちは! 児玉毅です。

いろいろなニュースやインターネットで、もうご存知の方が多いと思いますが、
改めて報告させていただきます。
5月18日ネパール時間14:00(日本時間17:15)に
栗城史多は世界第7位の高峰ダウラギリ(8167m)の登頂に成功しました!

2009年5月18日という1日は、僕にとっても忘れられない1日になりそうです。
本当に長かったです。

栗城くんは18日深夜1:00、強風の中C3(標高7238m)から
山頂に向けて最終アタックを開始。
BCは深夜体制で無線に対応し、2時間おきに日本に最新情報を配信する役目だ。
思ったより風が強かったので、心配していた。
すると、朝方4:00に耳を疑うような無線が入った。
「眼が見えません!!」
この一言に一瞬にしたBCは凍りついた。
高所で低酸素や紫外線の影響で視力を失い、そのまま動けなくなって
死んでいった登山家は数え切れない。
「引き返した方がいいと思います!」
と言った直後、無線が途絶えた・・・

何回呼び出しても返答がない。
頭によぎる最悪の事態。
もう座っているどころじゃなくて、外をウロウロと歩き回った。
まるで、家出少女の帰りを待つ父親のような心境だ・・・。

こういう状況にあると、ありとあらゆる悪いケースが頭の中を占領しだす。
見えない眼で無線をいじっていて、誤って手から滑り落としたんじゃないか・・・。
今頃、連絡もとれず、身動きもとれず、極寒の標高7500mで強風に吹かれているのではないか・・・。

それから1時間後、突然BCに無線が入った。
「今、標高7700mくらいなんですけど、ここからルートってどうでしたけ?」

あまりにあっけらかんとした声に、あやうく椅子から滑り落ちそうになった。
------前進してるって?!

「どういうこと?眼は大丈夫なの?」

「まだ霞んでいるけど、さっきよりはいいです。水をいっぱい飲んだのが良かったのかもしれないです。」

「でも、ちょっとでも悪くなりそうだったら、絶対に無理しないで引き返して!」

「ラッセルも深くて大変です。ギリギリ行けるところまで行ってみようと思います。」

「ギリギリより手前でお願いしますよ!」

なんということだろうか。単独、無酸素、強風、深いラッセル、霞んできた視力、登頂には不十分な残りの行動時間。このような逆風だらけの状況において、全く気持ちが折れることなく、前に進もうというのだ。不屈の精神を持った栗城くんの逞しさと危うさが交じり合い、BCは複雑な心境に包まれた。
その後も心配は絶えることはなかった。

ラッセルが凄まじく、登るスピードが上がってこない。
安全に帰還するためのタイムリミットが迫り、そして過ぎていく。
山頂からC3までは、早くても4〜5時間はかかるだろう。

日没時間が18:30。
最悪日没の1時間前にC3に到着すると考えると、逆算して12:30〜13:30
には山頂から下山を開始しなければならない。

しかし、栗城くんはあくまでもソロクライマーである。
僕のアドバイスはできても、決断することはできない。
最終的には栗城くんが自分の判断で、進むのか引き返すのかを決めるのだ。

ややしばらくして、再び無線が入った。

「ルートがわかりにくいんだけど、確認してもらえますか?」

ダウラギリは頂上稜線が横に広がっていて、非常に山頂が分かりにくい。
今まで、登頂したと思っていたらニセのピークで、結局認定されなかったという隊が結構あったという。せっかく登ってそれは悲しすぎる。

ベースキャンプにいる僕とサーダー(シェルパ頭)のマンさんは頂上付近の写真を見ながら、栗城くんの辺りから見えているであろう地形を想像して説明を繰り返した。

「左に滑らかな岩壁がありますか? クーロワールの入口に雪が剥げて岩がむき出しになった部分が見えますか?」

「左に滑らかな岩壁。中央にむき出しの岩。ありました。」

「間違いないで!そこです!」

「もう力が入らないです・・・」

そりゃそうだ。無酸素で8000m付近にいて、無情にも最後に急斜面が立ちはだかっているのだ。僕はエベレストに登頂したとき、酸素を吸っていたにもかかわらず全てが面倒くさく、苦しかった。頑張り過ぎくらい頑張っている。
もう何と声をかければいいのか思いつかなかった。

それから40分くらい経過しただろうか。

「今、頂上稜線に着きました。・・・もう・・・死ぬほど辛いです。」

栗城くんはあまりの辛さに涙が込みあげ、声を詰まらせた。

「目の前に登山者の遺体が横たわっています。サーダーが言うとおり、このルートで間違いないと思います。・・・では・・・ラスト行きます!」

そして、15分後。声にならない嗚咽が無線越しに聞こえてきた。

「・・・うっうう・・・ネパール時間14:00ちょうど・・・。ダウラギリ山頂に到着しました!」

ついにやりやがった。

なんという不屈の精神。

諦めの悪いオトコ!

有言実行野郎!!

BCは歓喜に沸き上がった。

「おめでとう!本当に本当に良くやったよ!最高だよ!」

登頂にいつまでも浮かれてばかりはいられなかった。

「これから下山を開始します。」と交信したのが14:30。

今日は、夕方から雷が鳴り降雪があるという天気予報だった。
なんとしてでも夕方までにはC3に到着して欲しいところだが、
日没までギリギリのラインだった。

高所登山では、下山時の事故が圧倒的多数を占める。
なぜなら、究極の状況で登りに精魂を使い果たしてしまう登山者が多いからだ。
極限の疲れの中で、行動が雑になり、高所の影響で恐怖感さえ鈍ってしまう。
そうやって自分をコントロールできなくなった人が、誤って滑落したりするのだ。
栗城くんは大丈夫だろうか。彼は無酸素だから、下山が物凄く疲れるのだ。

日没までに帰ろうという気持ちの焦りから大きなミスを起こさないといいのだが・・・。
ベースキャンプにいると、無線で励ましたり、アドバイスするしかできることがない。

自分が山の上にいないという歯痒さ。
手に汗を握る。座っていられずウロウロと歩き回る。何度も山を見上げては溜息をつく。

18:30。
もう日没時間だが、栗城くんはまだ7600m付近にいるという。
力を使いきり、フラフラの状態で暗闇の中を下山するということが、どういうことを意味するのか。不安が不安を呼ぶ。

「神様・・・」

C3に到着してから、栗城くんからC2に下山すると報告があった。

なんで?

良く聞くと、軽量化のためC3にはシュラフもガスも上げていなかったという。
これからのことを考えると、確かに温かい飲み物と食べ物を採り、温かいシュラフで休むことが必要不可欠だ。
でも大丈夫かよ? もう限界はとっくに超えているはずだ。

それから待つこと2時間。時刻は23時を回ったところだった。
シェルパから緊迫した声で無線が入った。

「栗城が滑落した」

僕は多分青ざめていたと思う。BCは完全に凍りついた。

「・・・でも大丈夫。途中で運良くタルチョ(お祈りの旗)に引っかかって、停まった!」

良かった。本当に良かった。
なんて運がいい男なんだろうか。神様がこの男をまだ死なすわけにいかないと手を差し伸べているような。
そう思えてならなかった

栗城くんが翌日C2からBCに向かう途中、
「もうすぐBCに着きます」と無線を入れてくれた。

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その直後、空を見上げると、信じられない空が広がっていた。
まるでお釈迦様が舞い降りてきたかのようだった。

太陽を大きく囲う眩いまでの日輪。

強い信念を持つものの周りに、時に奇跡としかいいようがないできごとが起こる。

信じる心。屈しない心。

それをこの遠征で、改めて気付いた気がする。

そして、今まで最前線でチャレンジする立場しか知らなかった自分が、
栗城くんを背後からバックアップすることで、様々なことを学ぶことができた。

今まで見えないものが目に見えるようになった。

「どうしても児玉さんに一緒に来て欲しい」と言ってくれた栗城くんに
「ありがとう」と言いたい。

そして、いつも感覚的に判断し、旅に出る僕を支えてくれている家族や友人、
SOSを初め、僕の活動の内容だけじゃなく、人間的な成長を見守ってくれる
スポンサーの皆様方に心から感謝の気持ちを伝えたい。
vol.4
2009.05.19
舞台裏で活躍するスタッフ達
みなさん、ナマステ!
お元気ですか?
僕は、元気です。ちょっとダウラギリBCにマンネリですが。

先日、ダウラギリからインターネットの生中継をやったんですが、
観てただけましたか? 
栗城くんは6500m地点からスキー滑降したんですが、かなり大変そうでした。
なにしろ前回スキーをしたのがマナスル山頂からということですから。
かえって凄いですね。栗城くんを8,000mスキーヤーに勝手に認定します。

さて、ただいまクリッキー(栗城くんは)C2に向けて登っています。
いよいよアタックであります。この調子でいけば、明日C3(7,700m)に到達し、
明後日には標高8,167mのダウラギリに登頂する予定です。
みなさん、応援してあげてください。

それにしても、僕も登りたいです。
登れる体力が余っています。マジで(汗)。
でも、今回はサポートです。
とにかくクリッキーが登れるように僕ができることを頑張ります!

今回は華やかな遠征の表舞台には見えない
舞台裏で活躍するスタッフを紹介します。

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通信機器、カメラなどのエンジニア兼カメラマンの石井さん。年齢は30歳。
東京農大探検部OB ということもあり、僻地の仕事を得意としている。
栗城隊では2006年のチョーオユー遠征に参加。そのとき、高所に弱い体質ながら、
標高7,000mのキャンプに2週間も滞在するという離れ業を演じた。
かなりの映画マニアで、BCでDVD鑑賞会が開かれると、
テンションが上がりすぎて、わけのわからない歌を歌っていた。
一見真面目に見えるだけに、ギャップが大きい人物。

vol4_2.jpgカメラを回している石井くん(右)の横でおどけているのが石井くんのアシスタントを務める澤田くん(左)。
北大の山岳部を出たばかりの23歳。
体力と高所への強さは栗城くん以上?

初めてのネパール滞在にもかかわらず、現地民の家庭料理ダルバート(ネパール風カレー)やモモ(ネパール風ギョウザ)が大好物だったり、雪の上をサンダルで歩いていたり、洗面器に2杯の御湯で全身を洗ったり、日本人離れした行動で「シェルパ」と呼ばれている。

北大山岳部時代に鍛えた?スキー技術で(ゲレンデ経験ゼロ)、たまにオイラのスキー道具を借りて、通称ゲレンデと呼ばれているアイガー岩壁下の斜面に出かけている。
そのせいか、最近スキー靴が臭くなってきた。

vol4_3.jpg写真左が高所ムービーカメラマンを務める辰野貴史。
2005年のチームホンダ・エベレスト遠征でベースキャンプマネージャーを務めてくれた男だ。昔観たTVや流行った遊びの会話が唯一噛み合う35歳。
ネパールをこよなく愛し、ネパールに住むためにカメラマンや何でも屋として駆け回っていたが、結婚後なぜが日本でカメラマンに。
しかも人間の内臓や脳みそを撮る病院専属のカメラマンだったらしい。内臓撮りすぎてノイローゼになったと言っていたが、それがネタでいっているのか、本気で言っているかは本人しか知らない。晴れて?その仕事を辞め、今回の遠征に参加。
パソコン・機械・語学・カメラなどなど得意分野は多岐に渡り、「困ったときの辰野」と呼ばれている。大学時代所属していた落語研究会の座名は「防波亭投げ釣り」。

写真右の長身の男が、スチールカメラマンを務める門谷優。
2008年夏にチームホンダ・西ネパール遠征でもスチールカメラマンを務めてくれ、それから2008年秋の栗城隊マナスル遠征、
そして今回と立て続けにエクスペディションに参加し、すっかり高所カメラマンが板についてきた。
年齢も栗城くんと同じ26歳と若く、将来が楽しみなカメラマンだ。
英語とネパール語が堪能で、知能明晰、性格温厚、体力抜群と抜かりないが、
無類の酒好きというのが唯一の欠点?
ビールの一口がジョッキ半分なので、もう少し味わって欲しいと思う今日この頃。
現在ネパールに住み込み、貧困など社会問題をテーマに撮影活動を続けている。
自ら貧乏を買って出て、夢を追いかける姿はなかなかカッコいい。

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写真右は今回のサーダー(シェルパ頭)を務めるマンさん。
今回はBCに留まり、シェルパやポーターを仕切る役割だ。
今まで多くの日本隊のエクスペディションにサーダーとして参加し、
たくさんの8,000峰を登頂してきた。
やってきたことは凄いのだが、怪しい日本語を操り、大の下ネタ好きということで、
凄さが感じられず、変に親しみやすい。
自分のことを「マンちゃん」と呼ぶのは少し気持ち悪い。
現在48歳ながら独身で、「もしかして両刀使い?」と噂されている。

写真左はキッチンボーイのビジュ。油の乗った30歳らしい。
バンダナを巻いて歩いていた姿がチャゲ&飛鳥のチャゲにそっくりだったことから、
隊員からは親しみを込めて「チャゲ」と呼ばれている。
チャゲはキッチンテントにいるとき、常に騒いでいるか歌っているので、
シャルパの仲間から「スズメ」と呼ばれているらしい。
やかましいが憎めないナイスキャラだ。

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写真左はシェルパのテンバさん。年齢は28歳。寡黙だけど、いつもニコニコしている。
いつも懐かしい(30年前?)デサントのスキーパンツをはいている。風貌は頼りないが、
今回のスタッフの中で一番体力がある。
写真右は同じくシェルパのギャルツェン。年齢は26歳。
一見どこにでもいそうなネパールの若者だが、彼もパワフルだ。
三度のメシより音楽が好きで、いつもラジオや携帯で音楽を聞いている。
チベットのお経のような音楽をCDでかけていると、突然「録音してもいい?」と現れた。
そのときの笑顔は忘れられない。

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この笑顔、この雰囲気。
なんともいえない個性と癒しを放つのが、シェルパのサンタさんだ。
年齢はたぶんサーダーと同じくらい。
一度その笑顔をみたら、なぜかこっちまで笑顔になってしまうとういう
不思議なオーラを持っている。
マナスル遠征までは、「豆だけ食べて無尽蔵に動く凄いシェルパ」と評判だったが、
最近アルファ米の美味しさに目覚めたらしく「これ美味しいからちょうだい」と言ってくる。

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日本の漁師によくいそうな風貌。それがシェルパのクサン師匠だ。
彼もサーダーと同じ年代だろう。親父っぽさが滲み出ている。
上下エメラルドグリーンのパジャマみたいな格好でBCをうろつく姿は、
とても山に登る人には見えない。長く歩くと「疲れた」「膝いたい」と言っているので、
「お父さん、無理しないで」と声をかけたくなる。
でも、経験の深さが余裕をかもし出しているときがあり、なんだか安心する人だ。

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写真左がキッチンボーイのアンプルバ。年齢はかなり若いはず。
いつも献身的に僕らの食事の世話をしてくれている。風貌はスポーツが好きで
1年中日焼けしている日本のおばさんでよくいる顔立ち。
雪が降ったとき、夢中になって雪の彫刻を作っている姿は、シロウトの域を越えていた。
オナラをするといちいち笑ってリアクションしてくれる心優しい青年だ。
写真右はコックのアガムさん。日本の女性が好きそうな甘い顔立ちをしていて、
真面目でやさしく、料理も上手いときたもんだ。結婚適齢期の女性がここにいたら、
まず惚れてしまうんじゃないでしょうか? ま、もっとも結婚適齢期の女性はヒマラヤに
来ることなんてほとんど皆無ですが(笑)

こんな感じのメンバーで栗城くんを支えております。
遠征ってのは、メンバーがいいと楽しさは数倍。
そういう意味でもいい隊なんじゃないでしょうか。

さぁ、栗城くんはダウラギリに登れるのでしょうか。
乞うご期待です。
vol.3
2009.05.07
ダウラギリ(麓)滑降!
こんにちは!
ダウラギリ麓より愛を込めて~。
プロスキーヤーの児玉毅です。
日本はゴールデンウィーク突入ですね~。
羨ましい限りです。
先日、嫁さんからのメールで、新型のインフルエンザが流行っているとか?
情報がないと、憶測で大きく膨らみます。日本は大丈夫ですか?

さて、若きソロアルピニストの栗城史多くんのサポートで来ているダウラギリですが、
みなさん、彼のホームページをチェックしてくれているでしょうか?

え?見ていない? せっかく僕が苦手なパソコンに向かって、頑張って更新作業など
やっているので、ぜひぜひ見てやってください。

栗城くんは明日、5月2日に標高7400mのC3までの荷揚げと高所順応をかねて、
1週間ほど上に上がりっぱなしになります。
そのための準備に余念はなく、装備から中継の準備まで、念入りにやっておりました。

今回の遠征では、世界は初となる8000m峰からの
インターネット生中継を行うことになってます。

それはそうと、昨日、僕にとって最高に楽しい出来事がありました。
5月2日から本格的な登山が始まるので、オイラは基本的にベースキャンプに張り付けになります。
そんなオイラを気遣って、「児玉さん、今日は一日フリーにしますんで、スキーしてきていいですよ。」と言ってくれたのであります。
 なんていいヤツなんでしょうか!

というわけで、さっそく完全武装で標高4700mのベースキャンプをスタートし、急斜面を登り、広大な氷河帯をつめ、クレパス帯をくぐりぬけて、標高5700mのコルへ。




そこから広がるダウラギリ連峰(ダウラギリ2・3)の連なりと、目の前に物凄い存在感で鎮座するダウラギリ1(8167m)の雄姿を目に焼き付けました。

やっぱり、山登りはいい! ヒマラヤはいい!

背中に感じるスキーの重み、アイゼンが氷に食い込む音、澄み切った空気とコントラストが強烈に浮き彫りにされた山々。
雪や斜面の質を選ぶならば、ヒマラヤでなくてもいいんです。

なぜ僕がヒマラヤにスキーに出かけるか。
それは、このロケーションと山のスケール間にガツンとやられたいからなのです。

雪は思ったとおり、ザクザク。
ヒマラヤでは、パフパフの粉雪に出会えることは希少なのです。
まず、パウダーが豊富に降るシーズンは、低温で天候も不安定。
雪崩が絶え間なく起き、とてもじゃないけどスキーを楽しめるコンディションではない。
というわけで、雪の状態が落ち着いたシーズンを選ぶんだけど、
そのようなシーズンは、昼は気温30度くらいにまで上がり、夜はマイナス20度くらいにまで下がるという極端な状況。
そんな気候の中で、雪の結晶は壊れ、凍結と融解を繰り返してとんでもない雪に変貌する。どんな雪かというと、夕方から朝方にかけては棘々な雪面でガリガリの雪。
それが日中気温が上がると、一瞬のうちに根元までグサグサのジャブジャブに弛む(汗)。

標高5700mからグサグサの雪を軽快にショートターンでスタート。
あまりにも嬉しくてはしゃぎすぎました。
すぐに酸欠で動悸・息切れ・めまいが襲ってきた。
忘れてました。高所用の滑りをしなければ・・・。



しばらく行くと、巨大なセラック(懸垂氷河)が張り出す真下を潜り抜けるように通過しなければならない難所がある。ここは神に祈りながら滑るしかありませぬ。
シェルパから聞いたチベット密教のお経「オムマニメメフム...」と口ずさみながら滑っていく。
交通事故に遭う確率よりは、このタイミングでセラックが崩壊する確率の方が低いだろうと開き直った思い込みをいかんなく発揮。
この難所を越えて、少し広い斜面に出たので4ターンくらい大回りしてみた。
 少しづつ斜度が増していき、いよいよ最大の難所、クレパス帯の登場であります。
危ないところはフィックスロープにつかまって越える。
次から次に怪しいクレパスが現れるので、まったくもって楽しむ余裕なし!
気合を入れすぎると、酸素が頭に回らなくて、頭痛してくるし。
平坦な氷河はすっかり雪が弛み、水上スキーさながらのポイントもあって、なまら楽しい! その後も、クレパス帯や落石ポイントも無理矢理スキーを履いて通過し、最後は最高に気持ちいい急斜面の滑降で〆!



やっぱりスキーヤーだね。オイラは。
今回の滞在で一番楽しい一日でありました!
ベースキャンプから見える自分のシュプールに陶酔してます。
時間をくれたクリッキー(栗城くん)、ありがとう!
明日からは、スキーヤーから一転、ベースキャンプマネージャーとして活躍します。
さぁ、果たして栗城くんは、自身3座目となる8000m峰のダウラギリ登頂に成功し、本番である今秋のチョモランマに向け、弾みをつけることができるのでしょうか。
お楽しみに。
詳細は栗城史多公式ホームページを要チェケラ!!

それでも、かなり自己満足で無理やりクレパスだらけの急斜面を降りきった。
やれやれ。。。
vol.2
2009.04.29
HI LIFE
4月25日
ナマステ~。
日本の皆さん、お元気ですか?

2日前にダウラギリのベースキャンプに到着しました。
ベースキャンプまでの道のりが軽い散歩程度だと考えていた僕がバカでした。
高所順化のために時間をかけて高度に慣らしたうえで、
途中のキャンプに停滞日をもうけて、ゆっくりと峠を越え、
万全の状態でベースキャンプ入りしようという作戦だったはずなのに、
シェルパ頭のマンさんが「一気に峠を越えてベースキャンプ入りしましょう」
というではありませんか!



僕らは高所順応が不十分のまま、標高2600mのマルファ村を出発。
急な坂をぐんぐん登り、標高約4000mのヤック・カルカに1泊。
すでに疲れている隊員とポーターに追い討ちをかけるように
雷とアラレの嵐!
翌日、頭痛と食欲不振などの高山病の症状が出始めた隊員が、
自分のことで精一杯だというのに、雪のトラバースで
ポーターたちが次々と滑落しそうになり、それをサポートすることに。。。
標高4800mを越える高所でダッシュを繰り返し、荷物を起こしてあげたりで
もうキャンプに着くころにはフラフラ。
今までほとんど高山病の症状が出たことがない僕でさえ、
高所で初めての頭痛を経験したのでありました。
やー、それにしても、みんな無事に着いてよかったと喜んだのも
束の間、なんとポーターが5人、荷物を置いて逃げたというではありませんか!
おいおい!!



4860mのキャンプで体調不良とポーターの問題で頭を抱える僕らに、
またも容赦ない吹雪が。。。
翌日、起きてみるとシェルパ頭のマンさんとポーターたちが、なにやら
もめている様子。
聞いてみると、ポーターたち全員が「もう行かない。帰る!」と
言い出したというではありませんか!
ここまできて、そりゃないっしょ!
こうなったら僕らは祈るしかありません。
結局、マンさんが上手く話をつけてくれて事なきを得ました。
マンさんは「私は今までこの峠で何回もポーターに逃げられているんです。
だから、とにかく早く峠を越えたかったんです。」
なるほど。マンさんが急いでいたのはそういうことだったのか。。。
疲労困憊の我々は、標高5360mのフレンチパスを越え、ようやく
ダウラギリベースキャンプが見えてきました。
標高2600mのマルファ村から、高所順応なしで標高差2800mも登ったことになります。

いや~、疲れました。
今はダウラギリの快適なベースキャンプで体を休ませています。
ずっと体調不良だった今回の主役、栗城史多くんも元気回復。
今回は彼の身の回りのサポートと通信係りとして、
活躍したいと思います!
スキーもできたらいいな!
ここから見た感じ、あんまりできそうなところないけど(笑)!
vol.1
2009.04.29
ダウラギリ麓滞在記

SOSのウェブサイトをご覧のみなさん。
こんにちは! プロスキーヤーの児玉毅です。

すっかり春めいておりますが、楽しい春スキーシーズンを
満喫していますか?
実は、わたくし児玉毅。
今、ネパールの奥地にある、ダウラギリという山に遠征で来ております。

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今回は、若きアルピニストの栗城史多くんのサポート役として
ベースキャンプで通信、ベースキャンプマネージャー、副隊長という役回りです。
栗城くんは、同じ北海道出身で、スキーも大好きな若者。
最初お願いされた時は、春スキーシーズンに重なっていたので断りましたが、
彼の熱意に負けました。
人が今までやろうと思ったことをやろうとするとき、
必ず賛否両論が出ますが、
同じ道産子でスキー好きとして、えこ贔屓して
サポートすることに決めました。
サポートとはいうものの、
自分自身初めての場所なので、
「楽しみ」でいっぱいです。
もちろんスキーも持参してきてます。
今年は雪が多いらしく、みんな困っていますが、
僕は不謹慎にも小さくガッツポーズしてしましました。
どこかでスキーをする姿を写真に収めて来ますんで、
お楽しみに。

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さて、カトマンズで装備のチェック、通信のテスト、買出し、ミーティングなどを
済ませた栗城隊は、プジャという安全祈祷も済ませ、4月16日にカトマンズを
出発。
ネパールきってのリゾート地ポカラをスルーして北へ。
およそ11時間のロングドライブ。
日が暮れた頃にようやくベニという町に到着。
翌日はデコボコのダートをインド製の4WDでさらに山奥へ。
シートは固く、天井は鉄むき出しの車内で、何度も跳ね上がり、
頭を天井にぶつけまくり、埃を吸いまくり、絶えること6時間。
今回のキャラバンがスタートするマルファ村に到着しました。
いよいよ明日から高所順応スタートというところで、
栗城くんとエンジニアの石井くんが食中毒にかかるというアクシデント発生!
大分復活してきたようですが、苦いスタートで・・・

なんとか大丈夫でしょう。
なにはともあれ、ヒマラヤは美しいです。