2011年6月20日4時5分
福島県相馬市の酪農家の男性(54)が今月、自ら命を絶った。「残った酪農家は原発に負けないで頑張ってください」。メッセージは、新築したばかりの堆肥(たいひ)舎の壁に残されていた。
男性は、東京電力福島第一原発から約60キロ離れた相馬市の山あいの小さな集落で、約40頭の乳牛を飼っていた。なだらかな斜面の奥に母屋があり、手前に牛舎と堆肥舎が並ぶ。
真面目で仕事熱心――。酪農家仲間や知人の一致した印象だ。午前3時から牧草を刈り、牛の世話をした。世話を終えた後に、畑仕事に出ることもあった。昨年末には、堆肥をつくって売るために堆肥舎を新築し、農機具も少しずつ増やしながら、父親から継いだ牧場を大きくしようと懸命に働いていたという。
原発事故で3月21日に原乳が出荷停止となり、搾った原乳を捨てる日々が約1カ月続いた。「牛乳が出せないからお金も入らない」と仲間たちにこぼした。男性が所属するJAそうま酪農部会の酪農家28戸のうち、営業を再開できたのは16戸だけだった。
知人らによると、男性はフィリピン人の妻(32)と長男(6)、次男(5)の4人暮らしだった。そろいのヤッケを着た妻が、牛舎で牛の世話を手伝った。
男性は長男の入学式を楽しみにしていた。「郡山市まで行って、高いランドセルを買ってやったんだ」。20年来の友人の酪農家(52)は、男性がそう言って笑っていた姿を思い出す。
妻子は4月中旬、原発事故を心配したフィリピン政府に促されて帰国した。長男の入学式の直前だった。
男性は同月下旬、妻子を追って出国した。「おらだめだ。べこ(牛)やめて、出て行く」「子どもらがいなくて寂しい」と周囲に漏らしていた。
フィリピンに行った男性は、連絡をしてきた知人に「牛は処分してけろ」と頼んだ。近所の農家や仲間が手分けして世話することを決め、引き取った。5月初旬、男性は1人で帰国した。「戻る気はなかったけど、言葉も通じなくて」。牛舎から牛は1頭もいなくなっていた。「迷惑をかけてすまなかった」と酪農仲間にわびたという。
今月11日午前、広報誌を配りに訪れたJA職員が、亡くなっている男性を堆肥舎で見つけた。ベニヤの壁には、白いチョークでメッセージが残されていた。
姉ちゃんには大変おせわになりました。原発さえなければと思ます。残った酪農家は原発にまけないで願張て下さい。仕事をする気力をなくしました。(妻と子ども2人の名前)ごめんなさい。なにもできない父親でした。仏様の両親にもうしわけございません。(一部省略、原文ママ)
隣の牛舎には、黒板に「原発で手足ちぎられ酪農家」「やる気力なくした」といった言葉がつづられていた。
14日、相馬市で葬儀が営まれた。家族や酪農家ら200人が男性の死を悼んだ。フィリピンから駆けつけた妻子3人は寄り添い、泣きじゃくっていたという。
男性が残した書き置きには2人の知人の名が記されていた。1人は新しい堆肥舎を建てた大工の男性。その代金を完済しておらず、「保険で全て支払って下さい。ごめんなさい」とあった。
もう一人、隣の酪農家(64)には「言葉で言えないくらいにお世話になりました」と書き残した。この酪農家は「体は大きいけど気は小さくて、仕事一筋の真面目な人だった。もう、ああいう人を出してはいけない」と話した。(矢吹孝文、丹治翔)
■「先見えない被害 長期ケアを」専門家
警察庁のまとめによると、東日本大震災で大きな被害が出た岩手、宮城、福島3県の5月の自殺者は計151人。福島県は最多の68人で、昨年5月と比べ唯一の増加(19人)となった。
1995年の阪神大震災では、家族や職場を失ったショックなどによる自殺も「震災関連死」と認定され、災害弔慰金が支給された。心に深い傷を負ったことによる心的外傷後ストレス障害(PTSD)が原因とする医師の診断書がある場合などが該当する。
阪神大震災の経験から被災者の電話相談を行っているNPO法人「多重債務による自死をなくす会コアセンター・コスモス」(神戸市)の弘中照美理事長は「阪神では仮設住宅に入った頃から急激に自殺者が増えた。家や仕事を失った喪失感は時間がたってから襲ってくる場合があり、今後のケアが重要だ」と指摘。阪神大震災で精神科医として被災者のケアにあたった中井久夫さんは「福島県の場合、地震と津波に加え、原発事故という先が見えない被害を受けている。被災者の心の状態を長期的に見続ける必要がある」と話す。
福島県内では、社会福祉法人「福島いのちの電話」が不安や悩みに関する電話相談を受け付けている。相談時間は午前10時〜午後10時で年中無休。電話番号は024・536・4343。(波戸健一)