『ポルノグラフィと性暴力』書評
ポルノグラフィが現に性暴力被害を生んでいる事実を明らかにした上で、
新たなる法規制制定の必要性を説いている。
本書を男性が執筆したことに素直な驚きを禁じ得ない。
著者は『正義感に溢れた偉大なるマゾヒスト』だと思う。
日本学術振興会基盤研究の成果報告書すなわち専門書ゆえに難解を極める。
幾度も読み返した私自身、主張を正しく理解しているとは到底言えない。
読書に熟達した人でも読破には相当な時間を要すると思われる。
しかし内容はとても充実していると断言できる。
以下の詳細レビューで関心を持った人は、実際に読んで欲しいと思う。
※灰色フォントは引用。
特に断っていないが、読み易くするため適宜中略している。
◆第1部 ポルノグラフィの再定義
一般に「ポルノ」ないし「ポルノグラフィ」は、次の二つの意味のどちらかで用いられる。
A 性的に露骨な表現物
B 性的に露骨で、かつ淫らで反道徳的な表現物(=いわゆる「わいせつ」表現)
これら二つのポルノグラフィの用法に対して、そのいずれとも異なる第三の用法がある。
それは性暴力と性差別をエロス化する表現に反対する現代フェミニズムが持ち込んだ用法であり、
本書もこの第三の意味で用いる。
C 性的に露骨で、かつ女性を従属的・差別的・見世物的に描き、
現に女性に被害を与えている表現物
ポルノグラフィが“現に女性に被害を与えている”と認めることに抵抗を感じる人は少なくないだろう。
定義では「女性」となっているが、これを「男性」に置き換えて考えてみると、違和感が明白になった。
男性を従属的・差別的・見世物的に描いた表現物を観賞することは、
男性である私にとって嬉しいことではないが、怒りに震えたり苦痛に感じたりはしない。
いちいち目くじらを立てるのは馬鹿らしいとさえ思う。
なぜなら、それはあくまでもエンターテインメント作品の一種に過ぎないからである。
その表現物がポルノグラフィという体裁を取っているならば、
観賞の意思を持っていない限り、私の目に飛び込んでくることもないだろう。
要はそれを見なければ私が実害を被ることはなく、
見たとしてもダメージは無視できるほど小さいということである。
しかし著者はポルノグラフィの洗脳効果を指摘し、二次的被害の発生を危惧する。
女性を性的に客体物化すること、つまり非人間化することを、
自らの性的な快楽とするとき、男性もまた非人間化する。
男性は、女性の非人間化を快楽とする限りにおいて、人間性を失うのである。
ポルノグラフィの使用は、男性の非人間化の過程、すなわち男性が人間性を失う過程にほかならない。
これはポルノグラフィを使用している世の男性諸君全てを敵に回す発言だと思う。
これを鵜呑みにすることは難しい、というよりも、避けたいところだ。
どこの世界に「自分は非人間化が進んでいる」と信じたがる人がいるだろうか?
繰り返すが、ポルノグラフィはエンターテインメントの一種に過ぎない。
そして通常はポルノグラフィを文学的価値や芸術的価値という観点から評価しない。
ポルノグラフィの存在意義はオカズになるかならないか、この一点である。
すなわち、性的興奮を喚起させる部分のみが重視され、プロセスや背景はほとんど問題にされない。
ストーリーの出来に重きを置いている人も、使用する際には気に入った部分のみを注視する。
ストーリーが最重要と考えている人は、それをポルノグラフィと見なしていないか、
あるいはポルノグラフィとして使用することに必然性を感じていない。
つまり、ポルノグラフィをただポルノグラフィとして使用する限りにおいては、
その内容を吟味することはないのである。
確かに、大なり小なり、ポルノグラフィは性行為の参考にされるけれども、
性行為が男女対等の下で行われるという原理原則に立ち返ると、
性行為の選択は当人同士の合意が前提になるから、男性の希望が強制されれば和姦として成立しない。
不十分な意思疎通によって結果的に和姦から逸脱したケースにおいて、
その原因をポルノグラフィに求めることは著しく合理性に欠く。
DVや性的虐待と認められるケースの動機付けとしては、ポルノグラフィよりも、
幼少時のトラウマや経済的困窮によるストレスや人間関係の軋轢の方が遥かに信用できる。
男女の関係というのは微妙なもので、無理強いされているように見えて実は了解済みということもある。
いずれにせよ、ポルノグラフィからの影響が一律にあるとは言えない。
ポルノグラフィを真に受けるほど男性は馬鹿ではないのだ。
自由意思→自己決定→自己責任(自業自得)→社会的無関心に連なる女性の「全き主体化」ではなく、
主体性の否定→犠牲者化(victimization)→無力化につながる女性の「全き客体化」でもない、
その双方を排した別の位置づけを、性売買の中にいる女性に与える必要がある。
それは、最も過酷な性差別・性暴力の制度といいうる性売買産業の中に、
性差別社会の構造的暴力をつうじて日常的に身を置きながら、
そこを生き抜いているサバイバーとしての女性、という位置づけである。
性売買のサバイバーとしての女性は、性的自己決定権の行使主体として尊重されると同時に、
性売買を選択したことによっていかなる法的・社会的制裁(ペナルティ)をも科せられない
権利主体として尊重される。
諸般の事情で普通に生活できなくなったとしても、
性売買という手段で合法的に生き抜ける可能性がある女性は、
ヤクザになるなどして犯罪の片棒を担がなければ生きていけない男性よりも恵まれていると思う。
ただし、その歴史や特質ゆえに、性売買は一般的な職業として社会的に認知されていないし、
「若いうちが花」を地で行く商売であるから、極めて一時的な稼ぎ口でしかない。
将来を見越すと、性売買は小遣い稼ぎの副業程度に考えるのが無難と言えよう。
性売買で生計を立てられなくなった女性の行く末について、私は一片も同情しない。
もちろん、非合法的に性売買産業に引きずり込まれた女性は救済されて然るべきであるが、
自ら志願し、自ら深みにハマったのであれば、それは自業自得としか言いようがないと思う。
ポルノグラフィが売買春を基盤に制作されている以上、
ポルノグラフィが「表現」であることは事実だが、
それは単なる、あるいは純粋な「表現」としてのみ扱われるべきではない。
性売買としてのポルノグラフィという視点は、
「表現」という神秘的なベールをポルノグラフィから剥ぎ取る。
そうすることによって、ポルノグラフィを性差別と性暴力の制度的実践としてとらえ、
ポルノグラフィによる被害(権利侵害)を可視化し、
その新たな規制を可能にしうる視点を提供することになる。
ポルノグラフィをもっぱら「表現の自由」の問題としてとらえることに自足するのではなく、
その被害を可視化し、被害の救済・権利の回復という観点から
法規制の問題を刷新しようという本書にとっては、この意義がとくに重要となる。
性売買が女性に対する組織的・系統的差別の実践であるというとき、
「差別」の概念は、機会の不平等という形式的意味においてではなく、
権利侵害の実態に基づく社会的劣位の配当という意味で実質的にとらえられている。
すなわち性売買の女性差別性は、
@ポルノ・性売春の中と外の女性に、具体的・現実的な権利侵害の被害を生じさせている、
A女性の社会文化的劣位と男性の社会文化的優位すなわちジェンダーを再生産する、
Bすべての性暴力(gender-based violence)に共通する男性の暴力的なセクシュアリティ、
および女性の受動的・消極的セクシュアリティ ― ジェンダー化されたセクシュアリティ ― を
形成する、という三つの実質を備える。
この場合、性売買による女性差別を解消する方法は、
性売買そのものの廃止に向けた実践的努力をすることになる。
「ポルノグラフィは性差別と性暴力の制度的実践である」というのは誇張に聞こえる。
先の定義でも疑問に思ったのだが、
著者はそのような働きをしているポルノグラフィだけをポルノグラフィと呼んでいるのだろうか?
もしそうならば、これは読者の混乱を誘う非常に不誠実で煩わしい手法だと思う。
逆に、これが行き過ぎたポルノグラフィに対する牽制ではなく、
ポルノグラフィ全般に対する問題提起であるならば、制度的実践云々は全く現実味が感じられない。
第2部で詳述されるAV女優のような被害を可視化するための制度を整えることには賛成する。
ただし、被害者の特定と犯人の検挙が覚束ない現状を打開したい気持ちは重々理解できるが、
それでもやはり、確実にもたらされる経済的損失などを考慮すると、
新たなる法規制の導入には慎重になるべきだと思う。
形式的平等論の立場からは、性売買が性差別であることの意味はまったく別の意味で理解される。
すなわち、性売買が性差別であることの意味は、性売買でもっぱら女性が売買されていること、
いいかえると売買される男性が少ないこととなる。
よって現在の性売買は、女性差別ではなく男性差別であると理解される。
「現在の売買春はほとんど女性しか雇わないし、
ポルノでは男優よりも女優のギャラのほうが高いので、男性差別である」
という主張である。
この理論は無茶にも程がある。
フライトアテンダントや電話オペレーターなど、
女性の方が適しているとされる仕事は他にもたくさんある。
そういった状況はユーザーの希望に業者が応じた結果、すなわち商業的要請の賜物であり、
経営者の差別意識が反映されたわけではないし、法規制をはじめとした外圧も介在していない。
むしろ女性枠や男性枠を用意することこそ、倫理的必然性に欠けた行為で、不当だと思う。
性売買における女性優遇も、これらと同様に考えるべきだ。
ジェンダーを語る上で、適材適所を軽んじてはならない。
「性=労働」論の大前提は、性売買において行われる性行為を労働と等値することにある。
その前提に立ったうえで、
性売買を正統かつ合法的な職業・営業活動の一種に含めるべきことが求められる。
すなわち、売買春においては買春客相手に「性的サービス」労働が提供され、
ポルノグラフィにおいては性行為そのものが「演技」として行われるとみなし、
前者は「サービス労働」の一種、後者は「女優(俳優)業」の一種とされる。
この理論に反対する理由は特に思い浮かばない。
実際、アダルトビデオの女性出演者はAV女優と呼ばれているし、
性風俗店で勤務している女性は、自分が客に性的サービスを行っていると認識しているだろう。
友人や親類縁者からの蔑視や侮辱から逃れたいという思いが実態をベールに包ませ、
職務内容のグレーあるいはブラックな印象を強めるという悪循環はあるだろうが、
当事者は羞恥心や罪悪感を持っているわけではないと思う。
そうでなければ顔出しなんてできないだろうし、長く働き続けることもできないだろう。
◆第2部 深刻化するポルノ被害
ポルノグラフィの被害とは何か。
それには、三つの類型が考えられる。
すなわち、
(1)ポルノグラフィの中の女性が受ける被害(ポルノ制作過程で生じるため「制作被害」)
(2)ポルノグラフィの外の女性が受ける被害(ポルノ消費の結果生じるため「消費被害」)
(3)ジェンダーとしての女性が集団として受ける被害、の三類型である。
ポルノグラフィの制作被害には、次の五つのパターンが考えられる。
@出演者が略取誘拐されて制作される場合
A出演者は加害者と性行為をすることには同意したが、
ポルノ撮影には同意していないにもかかわらず撮影される場合
B出演者はポルノ以外の撮影に同意したにもかかわらず、強制的にポルノ撮影が行われる場合
C出演者はポルノ出演に同意したものの、撮影現場で同意を超えた性行為等を強制される場合
D第三者から盗撮される場合
ポルノ視聴の強制:夫や恋人、友人、上司などから、見たくないポルノグラフィを見せられること
ポルノ模倣行為の強要:夫や恋人などから、ポルノグラフィに描かれているような
性的行為を強要されること
ポルノに影響を受けた性犯罪:ポルノグラフィが引き金になったり、
ポルノグラフィに影響されたりした性犯罪を受けること
の三つが、ポルノグラフィの消費被害に該当する。
見たくないものを見せられることが苦痛なのはポルノに限ったことではないし、
強要するのは論外だが模倣すること自体は別段問題ではないし、
純粋にポルノの影響を受けた(ポルノが主要因の)性犯罪は数少ないと思う。
消費被害は流通する表現物全てに与えられた宿命である。
そう断りもせず、あたかもポルノ特有の問題であるかのように論じた点に、悪意を感じる。
また、消費被害は全面的に使用者の非であるから、
これを理由に制作側を責めることには、「説明書に書いてなかった訴訟」以上の理不尽さを感じる。
消費被害を規制の根拠に掲げることは賛同できない。
ポルノグラフィの消費被害をめぐっては、必ず、
ある男性がポルノグラフィを買って見たり読んだりすることと、
その男性が性犯罪を犯すこととの間の一般的な「因果関係」が「科学的」に証明されていない、
という批判が出される。
この批判の立場に立てば、上記の少なくない事例も、「たまたま」生じたにすぎない事例、
偶然的ないし特殊的な挿話的出来事であって、そのことからポルノを見たり読んだりすることと
性犯罪の実行の間の一般的な因果関係を推定することはできない、といわれるであろう。
自慰行為を目的としたポルノ使用においては、通常批判や批評の態度・視点はまったくない。
そこにあるのは、ポルノグラフィの中に描かれた性行為
(そこでのジェンダー化された男・女のあり方や関係)を、
精神的、身体的、生理的作用の全体をつうじて肯定し、欲望することである。
ポルノグラフィの内容は、性的快感と生理的反応をつうじて全身で肯定されることによって、
その男性に文字どおり身体化され、血肉化される。
この事実を踏まえたうえで、なお一部の論者のいうように、
「ポルノグラフィの使用が性犯罪を減らす」というとしたら、その論者はこういわねばならない。
ドメスティック・バイオレンスを減らしたければ、妻を殴り、虐待し、
拷問することを娯楽に仕立てる本やビデオや映画を社会に大量に流通させ、
世の夫全員が妻の虐待映像を自らの身体的・心理的快楽として消費するようにすればよい、と。
また子ども虐待を減らしたければ、
子ども虐待を娯楽にする商品を社会に溢れさせて親がそれを好んで使うようにし、
外国人差別をなくしたければ、当該外国人を拷問するビデオを人々の楽しみにすればよい、と。
「ポルノグラフィの使用が性犯罪を減らす」という議論が、
いかに逆立ちした議論かがわかるはずである。
ポルノグラフィは、雑誌・ビデオ・ゲーム・映画・本・アニメ・写真集
という媒体で無数に流通しており、
すでに指摘したようにインターネット上にはすでに三億ページのポルノサイトがあり、
毎日三〇万ページずつ(一年で約一億ページ)が増殖しているという。
ポルノグラフィが性犯罪を誘発するならば、明らかに性犯罪の発生件数が少なすぎるのである。
だが、この議論は、「性犯罪」概念が強かん・強制わいせつに限定されているという不十分さがある。
「ポルノグラフィと性犯罪の因果関係」が議論されているときの
「性犯罪」には含まれていないのである。
もしもこれらすべての性暴力が「性犯罪」に含まれたなら、
そしてそれらの性暴力とポルノグラフィの使用との関係が明らかにされたなら、
ポルノグラフィと性犯罪の因果関係論はすっかり書き換えられることになるであろう。
もし本当にポルノ使用の際に批判や批評の態度および視点が全く無いならば、
どんなポルノ作品も等しく自慰行為の補助を果たすことになるが、そんなことは有り得ない。
ポルノグラフィにおいては脚本がほとんど評価されないけれど、
代わりに女優のルックスやプレイ内容やカメラワークなどが重視される。
使用者は各々の性的嗜好に基づいてポルノを選択し、
期待に反した内容であれば躊躇無く駄作の烙印を押す。
その厳しさたるや、一般的な文化的芸術的作品に対するそれを凌ぐほどである。
ポルノ内容を無条件で受容するなんてことは、断じて考えられない。
仮に描かれている男女関係が差別的であったとしても、
それを弾圧して社会から追放することは、思想の統制に他ならないから、避けるべきである。
目を向けるべきは、そういう関係を潜在的に望んでいる人間が少なくないから、
該当するポルノ作品が市場経済で生き残っているという事実である。
ポルノグラフィが人格形成に加担している部分は確かにあると思うが、
そのような効果は何もポルノグラフィに限ったことではないし、
私はポルノグラフィ以外から受けた影響の方がより大きいと考えている。
性暴力を追放するには、ポルノグラフィそのものを非難するのではなく、
ポルノグラフィ選択に至るまでの過程を調査し、反省するべきなのである。
ドメスティック・バイオレンスや子供虐待などを引き合いに出して、
「ポルノグラフィの使用が性犯罪を減らす」という議論が逆立ちした議論であることを立証するには、
それらを題材にした作品を大量に流通させ、それらの発生件数の推移を可視化し、
他の要因と作品による影響を比較考察するという手順を踏まなければならない。
それをせずして因果関係を認定することの方が、逆立ち行為と呼ぶに相応しいだろう。
さらに著者は、ドメスティック・バイオレンスにせよ、子供虐待にせよ、
ドラマや漫画などで取り上げられることによって、
問題提起と周知徹底が図られている点を、恐らく意図的に無視している。
これには、同和教育でよく言われる、
「差別意識を無くしたければ、差別の歴史を教えなければいい」という議論と類似した欺瞞を感じる。
作品が身体的心理的快楽として消費され、普及するかどうかは、受け手の感性次第である。
ポルノグラフィそのものに、悪意はあっても罪は無いということを、忘れてはならない。
一般的に男性は、ポルノグラフィの影響を非常に強く深く受けすぎているため、
自分のセクシュアリティがポルノグラフィによって形成されていることに自覚すら失っている。
そして逆にポルノグラフィによってつくられたセクシュアリティを「自然」なものと錯覚し、
「自然」なセクシュアリティの反映としてポルノグラフィが存在すると考える。
「自然」なセクシュアリティの反映である以上、ポルノグラフィが悪であるはずがない。
なぜなら、ポルノグラフィを悪とすることは、
セクシュアリティの「自然」を悪とすることにほかならないからである。
ポルノ使用と性暴力の関係を認めることに抵抗が生じる最大の理由は、
しかし、現に男性の大多数がポルノグラフィを快楽として使用しており、
ポルノグラフィを必要としていること、
そしてそのような男性たちが社会に流通させることのできる言語を支配しているからではないか
― マスメディアや研究機関、法・政策決定機関、法執行機関の大部分を男性が占めることによって。
そうだとするならば、ポルノグラフィの被害を認めさせることは、
時間が経過すれば自然に達成されるようなものではなく、
必然的に「知」をめぐる権力的な争い、すなわち言説による/言説をめぐる政治闘争になるであろう。
繰り返しになるが、セクシュアリティを形成しているのはポルノグラフィだけではない。
確かにポルノグラフィはセクシュアリティを肉付けするが、
ポルノグラフィ選択の動機となる潜在的なセクシュアリティが根本にあり、
それはポルノグラフィを規制しても、変わらないものである。
なお、元来の規制目的ではないが、ポルノグラフィを全面的にシャットアウトすることができれば、
特殊とされるセクシュアリティを眠らせたままにすることも、場合によっては可能だろう。
ただし、ディープなセクシュアリティが人生を豊かにすると信じている私には、
そうすることが最善の策であるとは思えない。
セクシュアリティの多様性を認めること、そしてセクシュアリティに寛容であることを、
私は世間の人々に期待している。
ポルノグラフィを鵜呑みにして事に及べば、たちまち相手の女性に嫌われてしまい、
そのことが外部に漏れれば、女性陣からは総スカンを食らい、男性陣からは馬鹿にされるだろう。
ポルノグラフィ中の行為をそのまま現実に適用できないことは、常識として知られている。
経験値が低い未熟な若輩者などには例外もあろうが、遅かれ早かれ、
それが仕事だからこそ可能となった過激な演出的性行為であることを学んでいく。
どのような性行為が自分達に相応しいかは、当事者である男女が協力して模索する。
ポルノグラフィはその選択肢を与えてくれるのである。
ポルノグラフィによる被害(制作被害)の具体的な実例として、
近年発生した二つの凶悪な性犯罪事件を紹介する。
1 バッキービジュアルプランニング事件
2 「関西援交」シリーズ事件
私はロリコンなので「関西援交」という言葉は小耳に挟んでいたが、詳細は知らなかった。
バッキービジュアルプランニングという会社名に至っては、本書で初めて目にした。
この手の事件はあまり熱心に報道されていないと思う。
バッキービジュアルプランニング事件についてまとめていることが、
本書最大の意義ではないかと個人的には考えている。
インターネットの発達が暴力ポルノに及ぼした影響について考察する。
ポルノグラフィの消費について生じた変化として、
消費における場所的・金銭的制約が大幅に取り除かれたこと、
そしてその結果、ポルノグラフィへのアクセスに関する年齢的制約がほぼ無に帰したことがある。
ポルノグラフィの供給について生じた変化として、
ポルノグラフィの制作と販売に以前のような人材・器材・資本・店舗等が
必ずしも必要でなくなったことがある。
現在のデジタル撮影機材とインターネット技術を利用すれば、
個人や少人数でも低コストで容易にポルノ映像を撮影することができ、
しかもインターネット上にその映像を載せれば、
すぐに全国(いや全世界)市場の大海原に向けて流通させることができる。
インターネットによって生じた最大の変化といえることは、
ポルノグラフィの提供者と消費者(ユーザー)の間にあった垣根が著しく低くなり、
相互乗り入れ現象が生じていることである。
まず、だれもが、個人または少人数の集団で、ポルノグラフィの供給者になれるようになった。
また、インターネット上の「掲示板」機能を使うことによって、
ポルノグラフィの制作者と無数のユーザーとが、
地理的・時間的懸隔を越えてリアルタイムで結びつけられることとなった。
二次元ポルノグラフィの閲覧における年齢的制約は無に等しいが、
三次元の閲覧には厚い壁がそびえていると感じる。
しかし、今注目を集めている動画投稿サイトの成長如何では、敷居が低くなる可能性は大いにある。
パソコン性能やネット環境の向上という追い風もあり、
ポルノグラフィの供給と消費はますます盛んになると予想される。
ポルノグラフィにおける相互乗り入れ現象は、
アニメオタク達が相互に行う自作品発表および他作品評価と同種のものだと思う。
情報発信の活発化と愛好者のコミュニケーション強化は、
それが有害か無害か違法か合法かという点で一考の余地アリだが、
それでもなお、インターネットがもたらした最大の好ましい変革だと私は考えている。
出演女性へのさまざまな虐待方法を、
BBSへの書き込みをつうじて一般ユーザーが提案している
バッキービジュアルプランニングの『強制子宮破壊』シリーズについてみる。
ここではごく一部を引用する(内容一部省略)。
・スタンガンつかって下さい。
のた打ち回る姿がみたいです。
今までの人生や身内を完全に否定するように、徹底的な言葉攻めで人格崩壊してください。
・風呂場での水責めなのですが、少し嗜好を変えて、水を飲ませる水責めをリクエストしたいです。
ホースで水を大量に飲ませて、腹がパンパンに膨らませて苦しめて、
その後は地獄のイマラチオでゲロを吐かせまくるのはどうですか?
・ホースから出る水をアナルにぶち込んで、ホース浣腸するくらいの、ハードな責めがほしい。
水に漬けて、水面から顔を出したら、口の中にホースをねじ込んで更に苦しめるくらいしてほしい。
・例えば、生卵を二〇個位飲ませるとか、マヨネーズを一キログラム飲ませるとか、
醤油やソースを一気飲みさせるとか、
ドックフードや猫缶を腹いっぱい食わせるとかして欲しいです。
大量に摂取するとヤバイものがあるので、
水を大量に飲ませて吐かせるを繰り返すという、胃洗浄をしてあげて下さい。
それはそれで、かなり苦しいので(胃洗浄)女を苛めるという事に拍車が掛かり
素晴らしい映像が撮れると思いますが、いかがですか?
・子宮破壊っていうなら、ベイビーの女体研究所みたいに電気ドリル改造して
バイブをつくって子宮を徹底的に破壊してくれませんか?
・ビールを瓶ごとアナルに突っ込んで、瓶を振ると勢い良くどんどんアナルに入っていくよ。
ビール浣腸になりますがね。
上の口からも飲ませて、モデルをビール腹にさせて苦しめてください。
・腹パンチ希望。
みぞおちを踏みつけたり、蹴りをいれたり、女の腹を責めてほしい。
とても嬉しそうな顔でキーを叩く姿が思い浮かぶ。
このような欲望の掃き溜めは必要悪だと思う。
これほどまでに非人道的な書き込みを見ると恐怖を感じずにはいられないけれど、
『2ちゃんねる』などの匿名掲示板もそうだが、
こうした書き込みは切実な願望と遊び心が交錯したブラックユーモアと考えるべきである。
たとえ悪意があったとしても、罪を問うべきではない。
断罪すべきは、それらを実行に移した制作会社である。
◆第3部 ポルノグラフィの法規制
「わいせつ」物頒布罪に対しては、自由主義の立場に立つ論者が厳しく批判を加えてきた。
その立場を要約して記せば次のようになろう。
まず「わいせつ」概念が、曖昧で罪刑法定主義に反するだけでなく、
過度に広汎で憲法上保障された「表現の自由」を不当に侵害する。
また、わいせつ物頒布罪の立法目的について、
それがわいせつ物を見たくない成人の利益の保護や
未成年の心身の健康・発達の利益の保護にあるとすれば、
立法目的としては一応正当であるが、その目的達成手段すなわち、
わいせつ物の頒布・販売・公然陳列の一律禁止という手段が目的との関係で均衡を欠く。
あるいは、立法目的が、わいせつ物の閲読によって誘発される性犯罪から
女性や未成年等を保護することにあるならば、
両者の間の相当な因果関係が実証科学的に立証されていないために不当である。
さらに、わいせつ物頒布罪の立法目的が、性道徳秩序一般の健全性・潔癖性の維持にあるならば、
そのような政府利益を根拠にして、いやしくも表現の自由に属する性表現を
国家刑罰権の発動によって規制することは比例原則を著しく損ない許されない。
だが、わいせつ物規制法の真の問題は、それが維持しようとしている「性道徳秩序」の方にある。
その点こそ、わいせつ物頒布罪を肯定する性的道徳主義と、
それを否定する性的自由主義の両方が見逃すものである。
性的道徳主義と性的自由主義は、わいせつ物頒布剤の評価については正反対の立場に立ちつつも、
一つの重要な共通点を持つ。
それは、性表現物の中で性的暴行・虐待・拷問を受け、
非人間的扱いを受けている人(圧倒的に女性)に対する無関心であり、
そのような性表現物がその反復的・継続的消費者(圧倒的に男性)に与える影響に対する無関心
― ひとことでいえば性暴力への無関心である。
性暴力への無関心ないしその私事化こそが、伝統的な性道徳秩序の内実であり、
わいせつ物規制法は、性を私秘化し、私的領域に押し込み、
政府の不作為によって性暴力を維持する機能を果たすのである。
つまり、わいせつ物規制法が維持しようとする性道徳秩序とは性暴力への無関心であり、
現行のそれは性暴力に対処できていないばかりか、
性暴力に対する政府の介入を妨げる原因にもなっているから、
抜本的な見直しが急務である、ということらしい。
制作被害が頻繁に発生しているにもかかわらず、多くが黙殺されているという著者の主張は、
俗に言う裏ビデオの制作過程においては、有り得ることだと私も思うが、
関係者が警察に摘発されたという話をほとんど耳にしない現状では、真偽不明である。
アメリカのポルノグラフィ反対運動は、一九七〇年代にまき起こった、
性暴力に対する草の根の反対運動の中から生まれた。
ポルノグラフィ反対運動の特徴は、直接的な抗議行動とともに、
ポルノグラフィの法規制に反対する姿勢にある。
ポルノグラフィの法規制を拒絶する姿勢には、いくつかの特徴がある。
@まず、「ポルノグラフィの法的な規制」の類型として、
もっぱら「わいせつ物」を頒布するなどの行為を刑罰によって処罰する
規制類型のみが考えられている。
Aまた、それに代わる法規制の手法も、
ポルノグラフィの頒布を性犯罪の教唆や煽動などの犯罪行為とみなして処罰の対象とする
刑法規制が考えられている。
Bそれらの刑法規制のみが念頭に置かれるため、
ポルノグラフィの法規制とは捜査機関の主導による網羅的・包括的な権力的規制であり、
常に濫用の危険性と一体であるというイメージが強く抱かれ、
しばしば「ポルノグラフィの法規制=検閲」というレッテルが貼られた。
これは意外だった。
ポルノグラフィ反対運動はポルノグラフィの根絶を目的としていないのである。
反対派において推奨されてきた直接的な抗議行動が仇になってか、
急進的かつ感情的なイメージが根付いてしまっているが、必ずしもそうとは言えないようだ。
こうしたポルノグラフィ反対派の法規制の考え方を一変させたのが、
「反ポルノグラフィ公民権条例」の提唱であった。
アメリカに生まれた反ポルノグラフィ公民権条例は、
ポルノグラフィに関連する加害行為による被害を受けた者が、
加害者やポルノ業者の責任を追及し公的な救済を求めることを可能にする
性差別禁止法(ないしポルノ被害者救済法)である。
公的な救済は、一つには行政救済であり、もう一つは司法的救済すなわち、
加害行為の実行者および(一部の加害行為に関しては)当該ポルノグラフィの制作者や流通者、
実行者の責任者に対して損害賠償や当該ポルノグラフィの流通の差止を求める民事裁判を
提訴可能にすることである。
反ポルノグラフィ公民権条例は、相互に結びついた次の四点において、
性表現物に対する従来の法的規制を刷新する意義を持っていた。
すなわち、女性の性的従属化を批判するという観点からポルノグラフィを初めて明確に定義したこと、
ポルノ被害の実態を初めて公的な場で立証したこと、
規制立法の目的を性道徳維持から具体的な権利侵害に転換したこと、
規制立法を刑事法から民事法に変えたこと、である。
モデル条例によると、訴訟原因たる五つの加害行為とは、
ポルノグラフィへの出演・演技を強制すること、
ポルノグラフィを押しつけること、ポルノグラフィを使って名誉を毀損すること、
特定のポルノグラフィを直接の原因として暴行・脅迫を行うこと、
そしてポルノグラフィの取引行為に従事すること、である。
反ポルノ運動が進むにつれ、ポルノ擁護派の反撃は組織化されていった。
マスメディアの論調は概して条例に批判的であり、女性の権利や性の平等に批判的な保守派も、
ポルノグラフィの自由を表現の自由として擁護する自由主義派も、条例に批判的であった。
自由主義派の中でも、
アメリカ自由人権協会(ACLU)に所属する法律家は積極的に条例批判を行った。
そして一九八四年、条例制定の動きに危機感を持った女性らが
「フェミニスト反検閲行動委員会(FACT)」を結成し、
条例に反対する言論活動や訴訟活動を旺盛に展開した。
FACTは反ポルノグラフィ公民権条例が導入されようとした地域ごとに支部を結成し、
反対運動を展開した。
インディアナポリスでは、条例改正が市長の拒否権にあうことなく成立したが、
書店協会が条例を憲法違反として提訴し、一九八四年一一月地方裁判所は違憲判決を下した。
市は控訴したが、FACTの活動に支えられ、一九八五年八月控訴裁判所は再び違憲判決を下した。
一九八六年二月合衆国最高裁判所は、意見を付さずに控訴審判決を支持する判決を言い渡した。
住民投票で成立したベリンガム市条例は、
インディアナポリス市条例の違憲判決が先例とされて、違憲判決を受けた。
マサチューセッツでは公民権法を不成立に終わらせるために、メディア・キャンペーンと、
ポルノグラフィ業者とメディア企業の弁護士の激しいロビー活動が展開され、法案は否決された。
連邦議会に提出された法案は、反対議員の攻撃を避けるために
「骨抜きになるほど」の修正を重ねられたが、委員会も通過しなかった。
こうしてポルノグラフィが再定義されることとなった。(第1部参照)
現代フェミニズムが支持する新しい定義は、普及している定義とは相容れないものであるが、
流通しているポルノグラフィの中には、定義に当てはまらないポルノグラフィも存在するのだろうか?
誰もが自由に「これはポルノグラフィではないか」と民事裁判で提訴可能になれば、
提訴が殺到する事態になることは想像に難くない。
それゆえ提訴の権利者を被害者に限定しているのだが、
第2部で述べていた「ジェンダーとしての女性が集団として受ける被害」を、
ポルノグラフィの被害として認定するのであれば、
訴訟原因たる加害行為の一つである「ポルノグラフィを使って名誉を毀損すること」は、
女性ならば誰もが自由に提訴できるという保証を与えてしまうのではないか?
反ポルノグラフィ公民権条例にとっての致命傷は、そのような危惧を抱かせたことと、
制作者だけでなく流通者の責任まで問えるとして、マスメディアの反発を食らったことだと思われる。
「ポルノグラフィとは、ポルノグラフィのいっていることではない。
もしそうであれば、条例の定義それ自体がポルノグラフィとなってしまう。
なぜなら条例の定義は、ポルノグラフィが何であるかを正確に述べているからである。
いいかえると、条例は、ポルノグラフィの発するメッセージに基づいて
ポルノグラフィを規制するのではない」
「この条例のもとでは、ポルノグラフィとは、ポルノグラフィがすることである」
つまり、条例の規制するものは、女性の性的な従属を描くものすなわち描写そのものではなく、
女性を性的に従属させることすなわち差別行為なのである。
非常に難解な言い回しだが、
要するに、女性の性的な従属が演出ならば規制対象に含まれない、ということだろう。
第三者が演出かそうでないかを見分けることは難しい、よって提訴の乱立は有り得ない。
そう言いたいのだろうが、これでは上記の危惧を拭い去ることはできない。
条例のポルノグラフィの定義には、生身の女性を使う写真・映像のみならず、
絵や文章(文字)のみによるものも含まれ、それら絵や文字によるポルノグラフィにおいては、
列挙された従属の具体例だけではいまだ女性の現実的な従属が生じているとはいえない。
第二の訴訟原因となる現実的で具体的な加害行為を伴って初めて、
ある性的表現物は条例の規制対象たる「ポルノグラフィ」になるのである。
条例が定義する「ポルノグラフィ」と、条例が規制対象とする「ポルノグラフィ」は一致しない。
このことが条例の理解をいたずらに難しくしていると思えてならない。
反ポルノグラフィ公民権条例は、アダルトアニメ,成年コミック,エロゲーなど、
日本で人気の二次元ポルノの制作および売買に御墨付きを与えているが、
二次元の児童ポルノになると、また別の話になるかもしれない。
条例では「女性」と表記しているだけで、それが「成年女性」だけを意味するのか、
「子ども」と見なされる「女性」も含めるのか、言及していない。
「子どもは格別に保護されるべき存在である」というのが、世界共通の認識である。
現実的な従属が生じていなくても、個人レベルまたは集団レベルで現に被害を受けているならば、
名誉を毀損したという理由で提訴することは可能かもしれない。
◆第4部 性的人格権の復位
「性的自己決定権」とは「いつ、だれと、どのような性行為(あるいは生殖行為)を
行うかの決定権は、本人にのみ帰属する」という権利である。
性的自己決定権は、不可侵の基本的人権である以上、
他者に包括的に譲り渡すことのできない一身上の権利として観念される。
性的自己決定権を保障する立場からは、性売買が雇用労働であることが否定される。
売買春・ポルノの中にいる女性は、だれと、いかなる性的行為を行うかについて
使用者の命令に従う義務を負うことになる。
それはいいかえると、性売買の中に入る女性は、一定の範囲
― あらかじめ特定された「性的サービス」内容の範囲 ― ではあれ、
性的自己決定権を雇用主である売春業者に委ねることを意味し、
その限りで性的自己決定権を放棄することにほかならないからである。
売買春であれポルノグラフィであれ、女性が自営業としてそれを営んでいるとみなされるならば、
実際には女性が売春業者やポルノ業者の圧倒的権力のもとに置かれていても、
原理的には、「だれといかなる性行為を行うか」についての自己決定権を
他人(雇用主)に委ねて放棄してしまってはいないと評価されうる。
女性は、雇用主たる業者に使用され、その指揮命令下で性行為を行っているのではないからである。
しかし、たとえそうではあっても、売買春の場合により顕著であるが、
女性は、買春客との関係では性的自己決定権を放棄しているといえないだろうか。
なぜなら、自営ではあれ「業」として売春を行う以上、
買春客を選ぶことはできないと評価しうるからである。
買春客を選ぶ自由と、業として性行為を行う売春業を営むこととは概念的に矛盾しうる。
したがって、たとえ自営業であっても売春する者と買春客で結ばれる
「売春労働契約は、性的自己決定権を放棄するものであり、許されない」といえることになる。
だが、業として営む場合でも、公共的な業務の提供とはいえず、
むしろ性行為の持つ特殊な性質から、
自営の売春業においては契約を拒否する自由が売春する者に広く認められるべきだと思われる。
そうであれば、自営業の場合、売春する者は、「いかなる性行為をだれと行うか」という意味での
性的自己決定権を行使していると評価せざるをえない。
以上の考察により、自営業として行われる性売買において、
「だれといかなる性行為を行うか」という意味での性的自己決定権が、
原理的に侵害されていると一義的に考えることはできない。
つまり、性的自己決定権という基本的人権は、
自営業として行われる性売買を否定することができず、
むしろそれを正当化する権利として機能しうるのである。
基本的人権たる性的自己決定権の行使として
自営業の売春を合法化することの帰結をさらに考えてみる。
次の二つの問題を生じるであろう。
第一に、現在辛うじて、性交を伴う狭義の売買春が違法であるため
完全な正統性を獲得していない性産業が、完全なる正統性を獲得し、
全社会規模で拡大することである。
自営業としての売春は公式で正統な職業になり、
若年の新卒女性にとって重要な進路・職業機会となり、売春専門学校ができるであろう。
売春に関連する業者の営業活動は、正統なビジネスチャンスとなり、
多くの男性および女性が売買春を支える関連業種に就くであろう。
現在はひっそりと行われている買春ツアーを旅行代理店は堂々と商品として売り出し、
会社ぐるみの慰安旅行が大っぴらに行われるであろう。
第二に、売買春が全社会規模で拡大することに伴って、自営業としての売春を支える関連業者が、
強大な産業体、男性的経済的権力体として正統かつ合法的に活動を強化するであろう。
「自営業として行われる性売買は許認可してよい」というのが私の見解である。
性売買の自営業は、元手ゼロからでも始められ、特別な資格も不要で、
上手くいけば比較的高収入が得られるという、一見すると魅力的な仕事だが、
才能を含めた実力の世界なので、稼げるという保証はどこにも無いし、
基本的には若いほど重宝されるため、長期間に亘って働き続けることができない。
それゆえ、将来ステップアップするための一時凌ぎと考えなくてはならない。
バイトで生計を立てながらメジャーになることを目指している、
役者やミュージシャンやお笑い芸人や小説家の卵と、置かれている状況は実質的に変わらないのである。
したがって、自営業の性売買が仮に公式で正統な職業となっても、
若年の新卒女性にとって、さほど重要な進路・職業機会にはならないだろう。
知識も覚悟も欠如したまま性行為に臨む女性を減らせるのだから、
売春専門学校ができるのは、むしろ好都合である。
自営の性売買が正統かつ合法ならば、関連業種が好景気に沸いても、何ら引け目を感じる必要は無い。
衆目のプレッシャーにさらされることで、不正行為の追放効果も当てにできる。
関連業種の後援のもと自営業者が結託して組合的活動を行うようになれば、
権利保全や生活保障もなされるだろう。
売春を性的自己決定権の行使として正当化する議論は、
売買春の現場で生じている女性の性的侵害を正当化する理論となってしまう。
売買春において買春者は相手の身体の性的使用権を購入するが、
今日の性差別社会において、性差別社会の構成要素として存在する売買春では、
買春男性が購入する女性の身体の性的使用権は、実態としては性的濫用=虐待権と区別がつかない。
今日の日本社会では、数多くの一〇代あるいは二〇代の女性が
「自己決定」して売買春に入っていく。
そして女性の「合意」の下で、非人道的で非人間的な虐待・拷問・奴隷的行為が行われている。
被害者が被害を訴えられるよう社会的支援が必要なことは事実である。
しかし、多くの被害者がPTSDに苦しみ、
暴力ポルノ制作では一部の被害者が廃人になっていることを虐待者が認めているところで、
被害者が被害を訴えることがどのようにして可能なのか。
「被害者が被害を訴えることを可能にする」ためには、
虐待的性行為に参加したことは自己決定権の行使であり十分に尊重されなければならないが、
それでもなお侵害された権利がある、ということを可能にする権利論が必要である。
第二の問題は、売春女性の行使した性的自己決定権の行使が、
「性的自由を放棄する自己決定」をしたと評価される理論的圧力に、
それが有効に対応できないことである。
本来合意のない性行為を強要されること自体が
性的自己決定権の侵害となるはずであるにもかかわらず、売春を自己決定した女性が、
売買春の現場で合意のない暴力的で屈辱的な性行為を強要されたとして被害を訴えたとき、
売春への自己決定が「性的自由の放棄」と評価され、被害の訴えが斥けられたり、
軽視されたりする危険性がある。
さらに付け加えるならば、売買春が合法化される結果、日本の性産業は、
これまで以上に強大な人身売買の温床となる。
そしてまた、合法的な売買春をとおして社会的につくり上げられる
ジェンダー化されたセクシュアリティが、子どもの売買春への動機づけを生み続け、
子どもへの性虐待がいっそう深刻化するであろうことも見落とされてはならない。
したがって、現状を少しでも改善するには、性的自己決定権を性的人権の最終形態とみなさず、
性的人権をいわば価値論的に文節化し、再構成することをつうじて、
性的自己決定権を行使しても侵害されえない性的権利を掘り当て、
売買春の中にいる女性の権利を擁護すること、そして買春行為そのものを違法にし、
「買春者の暴力を処罰する」ことが必要であると思われる。
売買春合法化が性暴力被害の深刻化をもたらすという懸念は、
ポルノグラフィ規制が表現の自由を際限無く奪うという懸念と通じるものであり、
いずれも提案されている法律が拡大解釈の隙を与えている点が問題である。
最悪の事態を想定するのは基本中の基本だが、
かと言って、暴走させないためのストッパーを用意すると、
折角の法律が骨抜きにされてしまい、策定の意義が薄れてしまう。
「保守」という言葉は「改革」という言葉と並べると聞こえが悪いけれど、
法律改正や新法律制定には慎重過ぎるほどの慎重さが求められるだろう。
今後もさらに議論を闘わせるべき課題であると、私は考えている。
性暴力の被害者やセクシュアル・マイノリティの経験が教えていることは、
人の〈性(セクシュアリティ)〉は人の〈人格〉と深いところで結びついている、
という事実である。
そのような位置づけにある人の〈性〉は、例えば労働と同一視されるべきでなく、
法的にも〈人格〉の構成要素として労働以上に篤く保護されるべきである。
すなわち、人格的権利としての〈性〉、「性的人格権」である。
性的人格権は、身体的自由権と精神的自由権の両方を統合した権利として、
一切の強制からの絶対的な保障を要請する。
したがってそれは、性が金銭によって売り買いされることを否定するものである。
それゆえ、他人の身体を性的に使用する権利を金銭で売買する行為は、
他人の性的人格権を侵害する行為と評価されなければならない。
ポルノグラフィ、売買春の中に入ることを「選んだ」人々が
性的自己決定権を行使したことによっていかなる不利益をも課せられることなく、
しかも性売買の中の性行為によって、
人の基本的な権利としての性的人格権を侵害されたことが社会的に承認されるべきこと、
このことが、女性の身体の性的濫用=虐待が日々行われ続けている
性売買の現場から投げ掛けられている。
よく男性が「分身」「息子」などと男性器を比喩していることからも、
性的人格権はかなり受け入れやすい概念だと思われる。
しかしながら、売買春の中に入ることは性的自己決定権の行使として保護する一方で、
売買春における性行為を人格侵害と承認することには、納得がいかない。
少女売買春では、売り手の少女は咎められないのに、
買い手の男性は社会的法的制裁を加えられるという処罰の不均衡があるけれど、
性的人格権はこれを全ての売買春に広げる根拠となる。
そのうえ、現実女性に性的人格権を認めてしまうと、
児童ポルノ禁止法を二次元ポルノにまで拡充する足掛かりを与えてしまうだろう。
性的人格権は、あらゆるポルノグラフィ制作に駄目を出せる可能性を秘めているのである。
ポルノグラフィと売買春を規制する法律の基盤に、
そこで使用される人々の性的自己決定権と性的人格権があることが確認される必要がある。
とりわけ性売買をも批判しうる性的人格権の普及・確立を新たな社会的基盤にして、
性売買(ポルノ・売買春)の規制強化ないし新たな規制法を構想すべきである。
より具体的な課題としては、まず売買春の規制法については、
性行為を伴う(狭義の)売買春と
性交類似行為を行う(広義の)売買春の区別を撤廃することが何よりも当面の課題である。
つまり、売春防止法と風俗営業等適正化法の二元法体系を克服することである。
克服の方向性は、第一に、性売買を合法化する風俗営業等適正化法関連条項を廃止すること、
第二に、性的道徳主義の性格を完全に脱色させること
― すなわち売春する者への道徳的非難(一条)、
処罰規定(五条)、補導処分(十七条)の全面削除 ― を前提に、
売春防止法のいわゆる「廃止主義(関連業者の処罰)」(第2章 刑事処分)
を発展・強化することである。
さらに買春者処罰規定を新設することが追求されるべきである。
ポルノグラフィに関しては、
現在の道徳主義的「わいせつ」物頒布罪は抜本的に改正されなければならない。
そのうえで、第一に、最も暴力的で、残虐で、猟奇的なポルノグラフィについては、
その商業的な制作および頒布・販売・公然陳列を刑事罰の対象にすることが追求されるべきであろう。
第二に、ポルノグラフィの広範かつ深刻な暴力被害を救済するための新たな民事法規制が
検討の対象に付されるべきである。
・・・というのが本書の結論である。
これらに対する私の意見は、これまでに述べた通りである。
以上!