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昨年は「振付師列伝」を書きましたが、今オフはコーチを特集する。特に日本のメダリストを育てた日本人コーチたちにスポットをあて、紹介していきたい。現在の黄金時代も一日にしてならず。世界の壁に阻まれつつ、多くの指導者たちが模索してきた「日本のフィギュアスケート」とは…。
日本に初めてメダルをもたらした時の主任コーチが、1960年全日本ジュニア選手権優勝の経験を持つ、都築章一郎氏(73)である。77年、念願の世界選手権が初めて日本(東京)で開催したが、それが決定した瞬間からメダルを取るべく対策がなされ、最強チームが出来上がった。当時の強化部長は竹内巳喜男氏(元全日本アイスダンスチャンピオン)。先を見る目とセンスの良さ、日本が勝つためのチームを率いるに十分の資質を持っていた。
そして役割分担がなされ、男子選手のホープとして、佐野稔(56)に焦点が当てられた。彼を発掘し鍛錬を積ませたのが、都築氏だった。当時、大学生で、合宿で山梨県のリンクに何度となく滞在し、佐野と出会った。都築氏の直感力とハングリー精神は常に彼の身体の芯にあった。ちなみに日大スケート・フィギュア部を新設したのも彼だ。卒業後は、池袋にある東武百貨店に入社。上層階にあるスケートリンクを担当しながら、山梨県の国体選手たちの指導にあたった。そんな中、当時小2だった佐野の才能を見出した。
今でも鮮明に覚えているシーンがある。東武百貨店の真新しいリンクに、私もたまたま練習をしに行った時、小さな男の子が親御さんに連れられて、氷上で滑っていた。都築氏が「山梨から練習に来ているんですよ。これから面倒を見て行くのです」と言っていた。新米コーチと弟子との関係に少し不安…。しかし、やるぞ!と言う気迫。そんな感情が氷上で沸いていた事を思い出す。
始めは山梨と東京を行ったり来たりの練習状態だったようだ。ある時、佐野親子が都築コーチのもとにやって来た。「息子を世界一してくれ」と言う親父さんのお願いだった。都築氏は指導者として実績のない「僕に任せてくれる」という親御さんの気持ちがうれしいのと、その期待にこたえるための努力の厳しさを胸に収めながら「絶対にモノにする」と言う誓いを立てた。都築コーチと佐野との世界を目指しての合宿生活が始まった。「お前は、スケートで世界一に成るんだ!」「都築がやって見せる!」というスローガンを掲げて…。
◆都筑氏・城田対談
都筑「お久しぶりです。城田さんとは今日まで、いろいろな経験をさせていただいてるんですよ」
城田「私は都筑先生から、けっこう辛口のご指導を受けてきましたけれど(笑)。さて今回、このコラムで世界選手権のメダリストを育てたコーチの先生方をご紹介していくんですが、一番最初に獲得したのはどなたかと言ったら、都筑先生なんですよね。77年、佐野稔君の銅メダルが日本で最初」
都筑「はい、実は(笑)」
城田「まずは先生がコーチになる前のお話から、お聞きしましょう。先生が全日本に出ていた当時、私はまだジュニアだったかな? 全日本に出る前、全日本ジュニアで優勝されたんですよね?」
都筑「そうですね。昔はジュニアで優勝しないとシニアに上がれませんでしたから。だから当時はシニアの選手は10人前後しかいなかった」
城田「私の時代はその決まりが少し緩くなって、全日本ジュニアの上位3人までがシニアに上がれました。先生はそのジュニアの優勝後、比較的早く、コーチになられたんですね」
都筑「そうです。もう大学生のころから教えてました。だからコーチになってすぐ、63年くらいには、もう佐野と出会ってるんです」
城田「佐野君は山梨の人。当時の先生は東京で教えてらしたけれど…」
都筑「石和のリンクに僕らが練習に行ったときに、一緒に練習していた佐野と長久保(裕)に出会ったんですね」
城田「そこで先生は佐野君の素質を見抜いて、東京に引っ張ってきた。でも佐野君はまだ小学2年生。最初のうちは…」
都筑「僕の方が山梨に通っていました。土日に7時間かけて、車でね。当時の僕は東武百貨店のサラリーマンをしながらスケートも教えていたんです」
城田「あのころ、東武百貨店の上の階にリンクがあったんですよね。なかなかちゃんとしたいいリンクでした。そこで都筑先生が教えてらしたことは、私も覚えています。今もそうですが、そのころもスケートをしている若い人は好きなように練習して、スケートだけやっていればよかったけれど、都筑先生は地に足がついていましたね。学生時代は勉強しながらスケートも教えて、就職すれば会社の仕事をしながらスケートも教えて」
都筑「僕なんて、自分が選手としてスケートを続けられるような恵まれた環境じゃなかったんですよ。そのころは後楽園のリンクがフィギュアスケートのメッカでしたが、僕なんか敷居が高くて入れない(笑)。それで学生のころは新宿で練習していたんですが、それなりに仲間に恵まれましてね。今、スケートリンクの設営やリンクの管理などをしている会社、パティネ商会を作られた大橋和夫さん(1955年全日本チャンピオン)。大橋さんが米国から連れてきた垣田さん(垣田一彦氏=1959、60年全日本ジュニア2位)。垣田さんは私たちの知らないバックスクラッチスピンなどをやって見せてくれるんです。『ああ、これが!』と思いながら、初めて見るスピンを勉強したりして」
城田「垣田さんには私もちっちゃいころ、後楽園のリンク近くの公園で鬼ごっこや、かくれんぼで遊んでいただいてました」
都筑「垣田さんを米国に連れてこられた大橋さんも、スケート靴を海外から取り寄せたり、ザンボニーを輸入したり…。私も大橋さんの経営するリンクで、スケート教室をやらせていただきましたね。大橋さん、誰にでも公平に、色々なことを教えたり力になってくれたりした方なんです。当時はスケートをやる人間というと、なかなか特殊な人々が多かったけれど…」
城田「製薬会社の息子さんとか、航空会社の創設者とか、鉄道会社の一族の方とか」
都筑「本当に裕福な方しかスケートなどやれなかったんです。私たちにスケートが出来るなんて、なかなか考えられなかった。その中で僕などは、ハングリーになりましたよ。後楽園の連中に負けるもんか!なんてね(笑)。選手時代も、コーチになってからも、ちょっと反骨精神のようなものがあった」
城田「そのなかで佐野君を見つけて。山梨から東京の先生のお宅に引き取られたんですよね?」
都筑「そうです。小学校5年生のころから、うちに下宿させたんですよ。スケートをやるような身分じゃないコーチは、山梨の子どもに言ったんです。『お前はスケートで世界の一番になるんだ!』って(笑)」(続く)
(2011年6月14日16時28分 スポーツ報知)
1946年7月4日、東京都生まれ。立大卒。選手時代はシングルとアイスダンスで活躍し、全日本選手権ダンス部門2連覇。現役引退後は日本スケート連盟で選手強化を手掛け、長野五輪からトリノ五輪までフィギュア強化部長を歴任。また、国際審判員とレフェリー資格を持ち、五輪をはじめ多くの国際試合でレフェリー&ジャッジも務める。
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