閔妃暗殺事件の主犯・動機を探る(下)

 著者が「再捜査」に乗り出したのは、この時点からだ。「三浦公使主導の王妃暗殺」、それが全てなのか。関係者たちを再び歴史の法廷に呼び出した。手掛かりとなったのは、三浦公使の事件前後の動きだ。当時、朝鮮公使と東京の外務省、軍首脳部の大本営の間を行き来した通信記録や機密文書などが、証拠として提出された。

 明らかになった「実体」は、予想以上だった。三浦公使は主犯ではなく、従犯だった。背後にいたのは、天皇に直属する軍最高統帥機関の大本営。その頂点には、参謀次長の川上操六陸軍大将(写真左)などがいた。川上大将らが、陸軍中将出身の三浦梧楼を朝鮮公使に据え、三浦公使の指揮の下、日本人将校8人が極右団体の構成員らと共にクーデターを装い蛮行に及んだ。これが著者の結論だ。

 犯行の動機も明らかになった。それはまさに、大陸侵略のための電信網確保だった。当時の韓半島(朝鮮半島)には、義州から釜山まで縦断する電信線が敷かれていた。日本軍としては、海を渡って大軍を派遣し、指揮するためには、通信線が欠かせなかった。日清戦争にやすやすと勝利したのも、開戦2日前の1894年7月23日、景福宮侵入事件により王宮前の朝鮮電報総局を掌握したおかげだった。ところが、独仏露の三国干渉で既得権が脅かされたことを受け、親ロシア派だった王妃の暗殺に乗り出した。「電信線の朝鮮返還」を主張した前任の公使が更迭され、三浦公使が赴任したのは、このためだった。「やるときにはやらねばならない」。暗殺事件の報告を受けた明治天皇は、このように語ったという。

 著者は、明成皇后が生まれてからちょうど100年後に生まれ、大阪で育った。奈良女子大学で東洋史を専攻し、修士号を取得した。後書きで、自分自身を「大学院修士課程を終え、引き続き7年間も史学科助手の職を与えられながら、一人前の研究者になれないまま退職した、研究者の『落ちこぼれ』です」と表現した。しかし、推薦の辞では、著者の成果をこのように評している。「近代韓日関係史の枠を完全に変え得る破壊力を持っている。うれしさを越えて、戦慄(せんりつ)を感じた」。韓国を代表する明成皇后の研究者、李泰鎮(イ・テジン)国史編さん委員長の言葉だ。432ページ、2万ウォン(約1480円)。

全炳根(チョン・ビョングン)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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