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日めくりプロ野球3月

【3月14日】1967年(昭42) 江夏が「オレより速い」と認めた男 直接対決で完投勝ち

幻の“最速男”森安。サイドハンドからの直球は打者から「恐怖心を感じた」といわれるほど凄みがあった
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 通算206勝193セーブの大記録を残した、江夏豊投手は全盛時、「オレより球の速い投手はおらんかった」と豪語していた。その江夏が「ただ一人、いるとすれば…、ヤスベエだな」と認めた投手がいた。ヤスベエこと、東映(現日本ハム)の森安敏明投手。球界を震撼させた「黒い霧事件」で永久追放となり、現役生活はわずか5年。通算242試合登板、58勝69敗の成績を残して消えた伝説の投手は、パ・リーグの個性的な猛者連中をしてこう言わしめている。「球の速い投手はいくらでもいたが、直球に恐怖心を感じてバットが出なかったのは森安だけだった」。

 その森安と江夏が初めて直接対決したこの日のオープン戦、ルーキーの江夏はプロ初先発だった。ガチガチに緊張した江夏にプロの洗礼を浴びせたのは、東映の4番・張本勲左翼手。3回、江夏自慢のインハイのストレートを完璧にとらえた打球は右翼スタンドへ突き刺さるオープン戦3号ソロとなった。

 張本は江夏が降板する6回一死までの間、本塁打を含む3安打。「張本さんだけには徹底的にストレート勝負でいった。でも全部やられた。張本さんが打席に立った時に負けまいとしてにらみつけたら、逆にすごい形相でにらみ返された。あれで負けてしまいました」と江夏。よほど悔しかったのだろう。目には涙をためていた。

 そんなほろ苦い先発デビューとなった江夏を尻目に、1年先輩の森安は9安打を浴びながらも3失点で完投勝ち。奪三振は11を数えた。「打たれたのは試しに投げたカーブばかり。直球はほとんど打たれていない」と胸を張った。

 関西高時代、倉敷商高・松岡弘投手(ヤクルト)、春のセンバツ優勝投手の岡山東商高・平松政次(大洋)とともに、“岡山の三羽ガラス”と呼ばれた森安は65年第1回ドラフト会議で東映とサンケイ(現ヤクルト)が1位で競合。抽選の結果、東映が交渉権を獲得し入団。キャンプ、オープン戦と好調を維持し、1年目から早くも1軍のローテーション投手となった。

 デビューは衝撃的だった。初登板初先発は開幕4戦目の4月13日、南海(現ソフトバンク)2回戦。18歳3カ月、まだ顔にニキビの残る少年は当時パ・リーグで圧倒的な強さを誇っていた南海を4安打完封。122球のうちカーブ、シュートの変化球は「20球あったかないか」(東映・種茂雅之捕手)という直球勝負で122球、7個の三振を奪った。ドラフト制度後、高卒ルーキーの初登板完封勝利は森安を含め3回。うち2回はいずれもセ・リーグで、パ・リーグでは森安以後1度も記録されていない。

 「東映にエース現る、だな。野村(克也捕手)も振り遅れていたな。本当に速かった。あれなら南海だけでなく、どこがきてもそうは打たれないよ」と東映・水原茂監督も孫ほど年の違うルーキーを褒めちぎった。シュート回転しながらインコースをえぐる直球に野村は「手がしびれた。おっかない球や」と脱帽した。

 スピードガンなどない時代。サイドスローから繰り出す真っ直ぐの球速はどのくらいだったのか。想像の域を出ないが、対戦した打者の証言を総合すると、初速と終速の差があまりないという結論に行き着く。08年開幕前で比較するなら、マーク・クルーン投手(巨人)タイプの「速いが怖さはない」ではなく、藤川球児投手(阪神)タイプの「スピードガン表示より速く感じる」といういわゆる手元で伸びる直球だった。

 反面、集中力が切れるとただの棒球になる傾向があった。加えて、後半の3年は酒にむしばまれ体調は芳しくなく、スタミナ不足を露呈。5回ごろから球威がなくなり、連打される場面が目立った。速球伝説の割に黒星が多かったのはそのためでもあった。

 黒い霧事件で追放された森安は事件について、後年こう語っている。「(永久追放された西鉄投手の)永易将之さんからある投手に渡してほしいと現金を預かったが、僕は渡せなかった。返そうと思っていた矢先に永易さんが捕まった。返すに返せなくなり、僕が使ってしまったというのが事実。八百長はしていない。金を受け取りながら、その後も球界に生き残ったやつもいる。落ち目の球団にいたからやられたんだ」。

 新宿、北海道、大阪と居住地を転々とし、仕事も飲食店の店員、自動車修理工、ミシンのセールスマンに健康器具の営業などを経験。追放後の暮らしは落ち着かなかった。72年「ひとりぐらいは」という曲でレコードを出したこともあったが、野球に携わることは一切なかった。

 郷里・岡山に帰ったのは86年。運送会社に勤務するようになると、少年野球のコーチとして子どもたちの指導に尽力するようになった。森安はどんなに仕事が忙しくても休みになれば、子どものように喜々としてグラウンドに出かけたという。その指導を直接受けた一人が、北京五輪日本代表としてアジア最終予選を戦ったロッテ・サブロー外野手だった。

 98年7月、心不全のために死去。享年50歳。05年に野球協約が改正され、黒い霧事件の永久追放者の中で元西鉄の池永正明投手の処分が解除されたが、処分解除には本人からの申請が必要なため、鬼籍に入った森安の名誉は回復されていない。

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