異能力者の贈りモノ
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 序章 一方的な出会いと願望

「ねえ桃奈ちゃん。お願い、できないかなぁ」
 幼なじみに上目遣いで見つめられ、片塚桃奈はついついため息をこぼしてしまう。
 今思えば、部屋に入ってきた時から幼なじみの様子はどこかおかしかった。
 落ち着きなく動く指先を見て、彼女はなにか頼み事があるに違いない、と桃奈は直感していた。だから『遠慮せずに言いなさいって』と笑顔で話しかけていた。
 しかし幼なじみの頼み事を耳にした途端、桃奈の優しさは一瞬にして消え失せる。
 好きな男子が誕生日を迎えるから、プレゼントを贈りたい――。
 でも自分で手渡すのは恥ずかしいから、わたしの代わりに渡してほしい――。
 桃奈は幼なじみの意気地なさに呆れ返った。
 プレゼントは本人の手で贈るべきなのだ。相手が想い人だったら、なおさらだ。
「好きな人へのプレゼントは自分で渡しなさい。でないと相手に伝わらないわよ。贈り物に込めた真心とか、あんたの想いとか」
「で、でも。なかなか勇気が出なくて……」
 親に叱られたこどものように、幼なじみがしょんぼりとした。
「あたしは絶対にやんないからね」
 桃奈は意識して冷たく言い放った。もう自分たちは中三で、来年には高校生になる。軟弱なままでいようとする幼なじみを変えてやらねば。
「ねえ桃奈ちゃん、お願いだから……」
「ダメったらダメ。いつまでも甘ったれたこと言うつもりなら、帰って。それが嫌なら自分で贈り物を手渡すって、今この場で約束して」
 ここまで言えば幼なじみも決意するだろう。自分の手で想い人に贈り物を渡そう、と。
 しかし予想に反して、彼女は「ごめんね」とか弱い声を最後に家を出ていった。
(あれで同情でも誘ってるつもり? 勘弁してよ。小学生じゃあるまいし)
 桃奈は乱暴にリモコンを押してテレビをつけた。
 テレビからアップテンポな曲が流れた。『異能力研究所』のCMが映っている。桃奈はそのCMが嫌いだった。とにかく鬱陶しいのだ。汗臭いし暑苦しい。
[不思議な力に目覚めたそこのきみに、異能力研究所からお願いがある! 異能力研究所へ電話をしてくれ! 異能力研究所はいつだってフリーダイヤルだ! 異能力研究所を今後ともよろしく! 異能力研究所! 異能力研究所!]
 マスコットキャラの決め台詞のあとに、自動車企業の宣伝がはじまった。
(なにが異能力よ、くっだらない。胡散臭いったらありゃしない。頭のイカれた自称超能力者から金をせしめてるに決まってるわ)
 面白くもない夕方の報道番組をぼうっと見続ける。退屈だ。本当だったら今頃、幼なじみと遊んでいたはずなのに。
(……コンビニ行こ)
 網目模様の長財布を片手に桃奈は外に出た。立ち読みでもして時間を潰そう。
(あーあ。あたしって、ダメね。気をつけなきゃ……)
 テレビ画面を見つめている間、すっかり頭は冷え切っていた。
 贈り物を直接手渡すことの大切さを、優しく、幼なじみに言い聞かせるべきだった。
 自分は気に入らないことがあると高圧的になってしまいがちだ。高校入学までにこの短所を克服しなければ。

 コンビニ近くの交差点には、数台のパトカーが停まっていた。
 警察官たちが歩道沿いの車線で交通整理を行っている。フロント部分がへこんだ乗用車が路肩に停まっている。交通事故でもあったのだろう。
 パトカーの真横で横たわる半壊状態の自転車を目にした途端、桃奈は息を飲んだ。
 前後輪がねじ曲げられ、自転車ライトが無くなっていても、それは間違いなく幼なじみの自転車だ。
 桃奈は震える声で警察官にたずねた。
 そして警察官の返答を耳にした瞬間、世界中が凍りつくのを桃奈は感じた。
 赤信号を無視して交差点を渡ろうとした女子中学生が、轢かれた――。
 その時、桃奈の後悔は激しい罪悪感へと姿を変える。
 あたしが冷たい態度をあいつに取らなければ、事故は起きなかった。
 あいつの『贈り物』を同級生の男子に渡すと約束していれば……。
 濁流のような感情が、まぶたを震わせていた。胸を抉るような痛みが桃奈を奈落の底に突き落とす。
 何もかも自分が悪い――桃奈は、自分を責め続けた。
 そうしなければ、頭が変になりそうだったから。
 そうでもしなければ、目の前を行き交う車の列に身を投げ出しそうだったから。


 幼なじみの事故から二年の歳月が流れた。
 この春に高校二年生となった桃奈は、ぽかぽかとした陽気に気分を良くしながら、『贈りモノ同好会』のポスターを高校内のあちこちに貼っていた。
 桃奈お手製のポスターにはイラストと活動内容、勧誘文句が記載されている。
 贈りモノ同好会は、桃奈が高校入学と同時に作った部活だ。
 本人に代わって贈りモノを届ける。それが主な活動内容だ。
 去年度の活動実績はゼロ、ついでに入部希望者もゼロだ。贈りモノ同好会は誰からも頼られず、誰の目にも止まっていなかった。
 このままでは一つの成果も挙げられぬまま、また一年が経ってしまう。
 焦りに背中を押されて、桃奈は積極的な広告活動に打って出ることにした。まずは贈りモノ同好会の認知度を高めねば。その為のポスターだった。
 ラスト一枚をどこに貼ろうかと悩んでいると、第二体育館の裏手から怒声が聞こえた。
 不良のたまり場を桃奈はそっと覗く。
 同級生のケンちゃんが見たこともないような顔で一年生を睨みつけている。
「人の邪魔しやがって。覚悟はできてんだろうなぁ。ああん?」
 その一年生は、不良でなければガリ勉でもない。万引きはしない。電車で妊婦に座席を譲らない。喧嘩の経験はゼロ。これといった趣味も無し。そんな感じの男子だ。
 彼は頬を引きつらせていた。愛想笑いにも見えるし、恐怖しているようにも見える。
「邪魔って……カツアゲなんてやめましょうよ、って言っただけじゃないですか」
 桃奈は彼への評価を改めた。彼は、毒にも薬にもならない男子ではない。見上げた正義感の持ち主らしい。
「おいてめえ。財布出せ。じゃねえとぶん殴んぞ」
 桃奈は、同級生のケンちゃんの荒れっぷりを不思議がった。
 どうも変だ。
 彼はカツアゲをするような奴ではない。嫌な事でもあったのだろうか。
 どんな事情があるにせよ、カツアゲは許されない行為だ。桃奈は止めに入ろうかと悩んだ。しかし自分が首を突っ込むと、一年生のプライドに傷をつけてしまいそうだ。
(どうしよう……ん? あれって……)
 桃奈は一年生の学生ズボンのポケットを凝視した。
 そこにはクリップ式の携帯音楽プレイヤーが挟まれていた。本体色は明るめのピンク、桃色だ。男の子のチョイスにしては珍しい気もする。よく見たら、彼は片耳にイヤホンを嵌めていた。
「勘弁して下さい。五百円しか持ってないんですよ。あ、ファミレスのクーポン券だったらありますけど、いります? ドリンクバーが半額になるってやつ」
 桃奈は彼の度胸に感心した。カツアゲされてクーポン券を差し出すなんて、相手を舐めているとしか思えない。それとも、天然か?
 不良のケンちゃんが一年生の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「ふざけてんのか?」
 すると一年生は、確かな怒りが感じ取れる表情で、先輩を睨んだ。
「離してください」
 一触即発の事態に桃奈は喉を鳴らす。ケンちゃんは地元ではそこそこ知られた実力者だ。喧嘩になれば一年生がボコボコにされるのは必至だ。一方的な暴力沙汰を見過ごしたくはないが、男子のプライドのことを考えると二の足を踏んでしまう。
 ケンちゃんが一年生の腹に膝蹴りを入れた。
 少年はゲホゲホと咳き込み、つらそうに腹を抱える。
(先生を呼べばいいんじゃん!)
 桃奈が閃いた瞬間、苦しげな表情を浮かべていた一年生が、携帯音楽プレイヤーの再生ボタンを押した。こんな状況で何をしてるの、と桃奈は呆れ返る。
 ともあれ教師を連れてこなければ。桃奈は颯爽と駆け出した。
 と、ケンちゃんの野太い悲鳴が響いてきた。慌てて立ち止まり、また体育館裏を覗く。
「うああ、う、うわあー!」
 ケンちゃんが地べたの上を転げ回っていた。真っ赤な顔で、ひたいを両手で抑えている。
「空腹が限界なんで行きますね。さよなら」
 涼し気な表情で一年生はそう言うと、桃奈が立つ位置とは反対側に走り出す。
 速い。あっという間に背中が見えなくなりそうだ。
 と思ったら彼はやかましい悲鳴と共に派手に転んだ。
「ああ、くそー……久しぶりだからすっかり油断してた」
 よろけながら立ち上がって、右足をかばいながら桃奈の視界から消えていく。
(なに? あの子……面白いっていうか、気になる)
 桃奈は、運命的なものを感じていた。同好会のポスターを握る手にも自然と力が入る。
 カツアゲを止める勇気と、クーポン券を差し出そうとする度胸。
 そしてあの俊足。いきなり転んだのは石にでも躓いたのだろう。
 欲しい。
 彼が、とてつもなく欲しい。
 よその部に取られる前に、何がなんでも贈りモノ同好会に加入させたい。
(そうと決まれば善は急げよ)
 この出会いが、贈りモノ同好会の転機となるだろう。そう思いながら桃奈は駆け出した。
 


 一章 桃奈部長とレイジ副部長

   1

 八馬《はちま》高校に入学してから、一週間が経過していた。
 右足を引きずりながら校内を進む鈴明《れいめい》レイジは、何度もため息をついては、お節介な自分に呆れていた。
 レイジは中学生の頃に一二回のカツアゲを阻止していたことがある、言うなれば恐喝の大敵だ。
 一二回も恐喝現場に遭遇してきたという不運はさておき、見て見ぬふりをしたくでも出来ないことが、レイジの悩みどころであった。
 正義感とか使命感ではなく、『後味が悪そうだから、寝覚めが悪くなりそうだから』という独りよがりの理由で、止めに入ってしまうのだ。
(せっかく、一人暮らしの高校生生活を満喫できると思ってたのに)
 八馬高校に入学する為、レイジは右も左も分からない新天地に引っ越してきていた。
 入学式は不安で一杯だった。
 小粋なジョークも飛ばせない自分が、知人ゼロの世界に馴染めるだろうか。
 その不安は稀有に終わっていた。片仮名の名前を珍しがった同級生が、声をかけてくれたのだ。ピンク色の携帯音楽プレイヤーも女子たちに珍しがられ、何不自由なくクラスに溶け込められていた。
 これなら順風満帆な高校生活を送れそうだ。
 そう思っていた矢先に、これだ。
 先ほどの不良に反撃したせいで、せっかくの好スタートが台無しになった気がする。
(まあいいか。あの人も、明日になれば俺のことなんて忘れてるだろ)
 広々とした食堂に着く頃には、右足の激痛も消えかけていた。
 今になって後悔が胸を突っついてくる。
 あの不良を倒して財布の中身を守る為に、『異能力』を使ってしまっていた。
 使用するなと『研究所』から指示されているにも関わらずだ。
 しかしレイジは深く気にしないことにした。バレなきゃいいのである。
 食堂のカウンターで月見そばを受け取る。そして壁際のテーブルで食事を取る級友の元へ向かう。ガラス壁の奥には、中庭の景色が広がっていた。
「なあレイジ。土日はなにしてた?」
「引っ越し作業の続き。なかなか終わんなくてさ」
「街に繰り出さなかったのかぁ。今度の休みに案内しようか?」
「助かるよ」
 海と山に挟まれたこの八馬市は、田舎育ちのレイジにとっては刺激的な土地だった。街の中腹部に生え茂るビル群の姿は圧巻的だ。八馬高校の周囲は都会的ではないが、それでも地元に比べたら緑地は少ない。ちょっと足を伸ばせば海、または山で遊べる。至れり尽くせりといった感じの街だ。
「ここら辺のバイト事情って知ってる?」
「最低でも時給八百円はもらえるんじゃね」
 レイジは絶句した。中三の時、高校生の先輩に聞いた時給よりも百円ほど高い。
「バイトもいいけど、高校生なんだからよ。部活やっといたほうがいいんじゃね? 馬車馬みたいに働き続けて気づけば卒業、なんて虚しすぎんだろ」
 級友の意見はもっともだった。高校生活の想い出がバイトだけ、なんて悲惨すぎる。
「仮入部でもしてみよっかな」
「それならうちに来てみない?」
 やけにご機嫌なその声に、レイジは振り向いた。
 二年生の女子が満面の笑みを浮かべている。肩の手前で切り揃えられた栗色の髪と、好奇心が強い子犬のような両目。眉毛は丁度いい具合に手入れされている。顔のパーツはどれを見ても程良く上質だ。細い四肢にセーラー服がよく似合っている。
「鈴明レイジくんよね。ねえ、なんで名前が片仮名なの?」
 誰ですか、と質問する前に先手を打たれた。レイジは一応、答える。
「両親は英語の『rage』にしようとしたけど、周りから猛反対を受けたから、片仮名にしたらしいです」
 百回以上は行ってきた説明だ。
 目の前の先輩も、今までの人たちと同じ疑問を口にするだろう。――どうして両親は息子の名を『rage』にしようとしたの?
「ユニークなご両親ね。それよりレイジくん、うちの部に入る気ない? 部活っていっても同好会なんだけどね。興味があったら、てか絶対に今日の放課後来てね。はいこれ」
 彼女はポスターをレイジに渡すと、鼻歌を鳴らしながら食堂を出ていった。
(質問されなくてよかった)
 レイジは少し安心していた。自分の名の由来が洋楽バンドだと知ったら、大抵の人は微妙な反応を示すからだ。
「今の人、なんでレイジを勧誘したのかな」
「断れないタイプに見えたんじゃないの?」
「でも名前知ってたぜ。あ、どっかであの人を助けてたとか?」
「そしたら俺が覚えてるよ」
 筒型のポスターには贈りモノ同好会と書かれていた。活動内容は、贈りモノを送り先に届けることらしい。
「どうすんの?」
「行くしかないだろ」レイジはポスターをくるくると丸めた。「勝手に捨てたら文句を言われそうだからな」

 午後の授業も終わり、濃ゆい夕焼けが空と街並みを彩りはじめた。
 レイジは贈りモノ同好会の第四校舎に足を運ぶ。八馬高校は大量の生徒を抱えているだけあって、建物数も多い。
 第四校舎は文化部の密集地だ。吹奏楽部や軽音楽部の演奏が微かに響いている。
 廊下の一番奥の部室のドアをノックする。そこが、贈りモノ同好会の拠点だった。
「どうぞー」とすぐ返事が聞こえた。
 ドアを開けると、上品な香りが鼻をくすぐった。六畳の部室の中央にある長机には、菓子と紅茶、それに湯沸かし器が置かれていた。
「来てくれたんだ。うれしー。ささ、座ってすわって」
 昼休みの時の先輩に腕を引かれて、レイジはパイプ椅子に座らされた。
「遠慮無く食べて飲んでね。あ、自己紹介が遅れたね。あたしは片塚桃奈。片塚部長、もしくは桃奈部長って呼んでちょうだい」
 ルンルン気分の桃奈はパイプ椅子に腰掛け、レイジをじっと見た。
 こちらの出方を伺っているのだろうか。それとも、ただ単に紅茶を飲んでほしいのか。
 レイジは紅茶に息を吹きかける。桃奈の眼力に耐え続ける自信はなかった。
「なんで俺の名前を知ってたんです?」
「生徒名簿で調べたの。ひらいた瞬間にレイジくんの顔写真を見つけた時は、嬉しかったなー。あ、紅茶、ガンガン飲んでね。お代わりだったらほぼ無限に用意してるから」
 レイジは紅茶を口に含んだ。相槌を打つ暇も、疑問をねじ込む隙間もなかった。
「実はあたし、昼休みにレイジくんを見かけたのよ。体育館裏で絡まれてたでしょ?」
「見てたんですか」
 黒い粒入りのクッキーをさくっとやる。チョコチップではなく、レーズンだった。
「カツアゲを止めたんでしょ? 偉い、っていうかお人好しだよね、レイジくんって」
「お人好しではないですよ。寝覚めが悪くなりそうだから止めただけです」
 レイジはレーズンクッキーをさらに食べた。なかなか癖になる食感と味だ。
 紅茶で口内の欠片を一掃してから、レイジはふうと息を吐いた。紅茶の薄味がクッキーの後味を引き立てる。これはうまい。病みつきになりそうだ。
「普通はそう考えてもスルーするって。教師を呼んだりするはずだよ」
 レイジは焼き菓子に伸ばしていた手を止めた。その発想は、無かった。
「素直ねー。ますます気に入っちゃった。ねね、うちの部に入ってよ。仮入部とか中途半端なことは言わずに即入部! 入部届けもあるからね! 好きなの使って!」
 学生鞄から出した入部届けの束を、桃奈は長机にドンと置いた。
 レイジは焼き菓子から手を引っ込める。
 ここは断固拒否しよう。贈りモノ同好会とかいう変な部活に、青春を捧げたくはない。
「お断りし……」ます、を言い終える前にレイジは口を閉じてしまった。
 お断りの気配をこちらが出した途端に、桃奈がうつむいたからだ。
 桃奈は震える指先でティーカップを半回転させる。そして、寂しげに微笑む。
「……強引すぎたよね。部活内容も説明してないのに入れだなんて、非常識だった。今から説明するからよく聞いておいてね」
 一瞬前の態度がウソだったように、桃奈がテキパキと説明をしはじめた。
 贈りモノとは、物品だけではなく、手紙だったり贈り主のメッセージのことも指す。つまり何でもいいのだ。それを送り先に届けるのが、贈りモノ同好会の主な活動である。
 レイジは、目眩を覚えていた。
 彼女のペースから脱出するのは不可能に思えていたのだ。
「たとえば一組のカップルがいるとしよっか。疑り深い彼女は、彼が浮気してるって思い込んじゃいました。当然、彼は疑惑を晴らそうとする。けどヒスっぽい彼女は取り合ってくれない。さーて、困った。レイジくんならどうする?」
 どうでもいいです、という答えが真っ先に浮かんだ。
「……彼女が落ち着くまで待ちますかね」
「それじゃ事態を悪化させるだけよ。彼女の勘違いに火炎とガソリンをぶっかけてしまうわ。二人の仲は大炎上し、灰の山が積み上げられるでしょう」
「それでも構わないんじゃないでしょうか」
 架空のカップルがどうなろうが、レイジの知った事ではない。
「なにその発言。政府の肩を持つコメンテーターみたいね」
「……桃奈部長だったら、どのように対処するんでしょうか」
「桃奈部長。うーん、いい響き」桃奈は恍惚とした表情を浮かべた。「最高ね」
 紅茶を口に運んでから、桃奈はすっとボールペンをレイジの前に置く。
「彼氏の想いを彼女に届ける方法は、たった一つ」
 そして話を再開した。話途中にでも入部届けにサインをしてね。そんなメッセージを、レイジは受け取った。
「彼氏と彼女のあいだに、ワンクッションを置く。これ最強。彼女だって、人づてに渡されたメッセージを、見ざる聞かざるで突っ返したりはしないはず。これにて彼の疑いは晴れて一件落着。二人は末永く幸せに暮らしましたとさ。多分」
 レイジはなるほどと頷いた。第三者の介入によって、彼女も冷静さを取り戻すかもしれない。逆効果になる可能性も無くはないが、とにかく、彼の想いを届けることはできる。
「そういった悩める人たちの力になりたくて、あたしは贈りモノ同好会を作ったの」
「へえ。部員数は?」
 痛いところを突かれたのだろう。桃奈が唇を尖らせた。
「……とり」
「鳥?」
 すると桃奈は顔を真っ赤にして、机をバンと叩いた。
「ひとり! 贈りモノ同好会の部員は、あたしだけ! この一年間は地獄だったわ。喋り相手がいないんですもの。だから贈りモノ依頼のあらゆるケースを妄想して暇つぶしをしてたの! さっきのもその一つ!」
「そうだったんですか……そりゃあ、大変でしたね」
 レイジは、レーズンクッキーをかじった。
 今のうちに沢山食べておこう。
「さっきから食べてばっかり! クッキーに恨みでもあるの? ちったぁ警戒しなさいって! ヤクが含まれてるかもしれないじゃない!」
「だとしたら、通報します」
「入ってないからね!」
 レイジはレーズンクッキーを手に取り、空いた手で紅茶を啜る。
 マイペースな一年生に呆れたのか、桃奈は深いため息をついた。
「贈りモノ同好会に入部してくれれば、それ相応のメリットもあるわ。しかもデメリットは皆無。ノーリスクハイリターンよ」
 レイジは紅茶カップを置いて、桃奈を見つめた。
 自然とボールペンに意識が伸びる。いや、待てまて。話を聞いてからでも遅くはない。
「まずは紅茶が飲み放題。お菓子だって常備しているわ。さらにもう一つ……ふふ」
 思わせぶりな笑みをこぼしてから、桃奈は窓の方に顔をやった。
「最後のメリットは、入部後のお楽しみ」
「ぐ……汚いですよ、そんなの」
「おほほ、何とでもおっしゃい。部員一名っていう悲しいこの状況を打開するためなら、私は手段は選ばないわ」
 レイジは下唇を噛んだ。紅茶とお菓子が口にし放題。その時点で魅力的なのに、さらなるメリットが待っている。期待は膨らむばかりだ。
「それは紙幣、または硬貨ですか?」
「この場での発言は控えさせていただきます」
 宝箱と逃げ道を目の前にした気分だった。罠の可能性を承知した上で宝箱をひらくか。それとも、おめおめと逃げ出すか?
 決断を迫られたレイジの耳にノックが届いた。
 邪魔者かよ、といった表情で桃奈が舌打ちをした。「どうぞー」
 ドアがひらいて、黒と茶のツートンカラーという髪色の不良が顔を覗かせた。
 二年生のケンちゃんである。
「ポスター見て来たんだけど……あ、てめえは昼間の!」
「げっ!」
 レイジは即座に身構えた。一応、いつでも逃げられるように中腰を浮かす。
 桃奈はパンと手を叩いて男二人を注目させた。
「ケンちゃん。なんの用?」
「ポスターを見て、贈りモノを頼もうと思ったんだよ」
 桃奈は痛快なガッツポーズをすると、レイジに目配せをした。
「副部長、彼の椅子を用意してください」
 レイジは渋々立ち上がり、パイプ椅子を置いた。
 部活動が肌に合わなそうなら、断ろう。体験入部だと思って気楽にやればいいのだ。

 贈りモノ同好会史上初の依頼人は、レイジにガンを飛ばしまくっていたが、桃奈に太ももを叩かれると、やっと口を開いた。
「俺の姉ちゃんに手紙を渡してほしいんだ」
 郵便局に行けよ、とレイジは冷ややかな視線でケンちゃんを見る。
 真っ白な大学ノートにボールペンをあてた桃奈が、「続けて」と言った。
「……俺んちの祖母が、二ヶ月前に老衰で逝っちまったんだ」
 犯行の動機を語り出す殺人犯のように、ケンちゃんはうつむき、肩を震わせる。
「姉ちゃん、おバアちゃんが大好きだったから。すげえショックだったみたいで。あれ以来、高校をサボるようになってよ……今月に入ってからは一度も学校に来てねえんだ」
「不登校ってやつね」
「……家にも帰ってねえんだ。ここ一週間、ずっと家出してんだ。電話しようにも拒否られてるし、メール送っても返事がねえし……」
 レイジは初めてケンちゃんに同情した。
 もしも、鈴明一家の長女が同じようになったら、自分だって心配するはずだ。
「山の近くに潰れたボーリング場、あるだろ。あそこにいるって、姉ちゃんのダチから聞いてよ……で、昨日行ってみたんだけど……すげえ怖い人たちがいて、俺、逃げちまってよ。もうどうしていいか分かんなくて……」
「怖い人たち」と、レイジと桃奈は声を揃えた。そして顔を向け合う。
「桃奈部長。今回はご縁がなかったということで、お引き取り願いましょうか」
「来る者拒まずという我が部のモットーに反するわ。却下」
「でも、命あっての物種ですよ」
「頼むよ!」と、ケンちゃんがレイジの肩をぐっと掴んだ。「お前ならあそこに行けるよな! 俺をデコピン一発で叩きのめしたお前なら、平気だよな?」
 桃奈が目を丸くした。「デコピンだったんだ。頭突きかと思ってた……」
「昼間のことを気にしてたら謝るからよ。お願いだから……」
 ケンちゃんは目にうっすらと涙を溜めていた。
 レイジは、喧嘩が強いわけではない。ただ、『強くなれる』のだ。
 異能力――それを使いさえすれば、怖い人たちの壁を突破するのは容易いだろう。
 手段があるのに断るのは、どうにも後味が悪い気がする。
「……わかりました。お姉さんに届けましょう、ケンちゃん先輩の贈りモノを」
 ケンちゃんがありがとうを連発しながら、レイジに抱きついた。カツアゲをするような不良にも、血は通っているようだ。
「じゃあ行きましょうか」
 桃奈が立ち上がろうとした。レイジはすかさず言う。
「桃奈部長はここで待っててください」
「む……どういう了見かお聞かせ願いたいわね」
 桃奈の声にはトゲが含まれていた。返答次第ではケガをしてしまいそうだ。
「俺の身になって、よく考えてください。廃ボーリング場には怖い人たちがいるんです。だから、俺一人で行くんですよ」
「むむ……悔しいけど、レイジくんの言う通り。あたしじゃ足手まといよね」
 桃奈がきつく眼を閉じる。レイジはそわそわとしながら彼女の開眼を待つ。
 意外と、開眼の時はすぐにやってきた。
「危ないと思ったら、迷わずに逃げてね」
「元からそのつもりです」
 すると桃奈は笑みを浮かべた。「命あっての物種ですものね」

   2

 バスに揺られること三○ 分。レイジは、薄汚れたボウリング場が見えるバス停に降りた。
 ボーリング場の屋上に設置された巨大なピンが、不気味に佇んでいる。
 そのボウリング場は二年前に廃墟と化していた。立地が悪すぎたのだ。住宅街の近辺だったら、今も営業を続けていたかもしれない。
 駐車場には、ヤンチャな見た目のワゴン車と軽自動車が二台停まっていた。この時点で、レイジはもう帰りたくなっていた。
 懐に忍ばせた、ケンちゃん直筆の手紙。これを届けるだけでは終わりそうにない。そんな予感が胸の内でざわめいている。
 深呼吸をしてから、携帯音楽プレイヤーのイヤホンを片耳にはめ込んだ。
 一度、引き受けてしまったのだ。
 ならばやり切るしか無い。姉思いのケンちゃんと姉を、正しき方向に導こう。
 そうしなければ、熟睡できそうにない。やり遂げなければ後味が悪くなりそうなのだ。
 レイジはボウリング場玄関口に歩を進める。
 変則的な時限爆弾が胸の内に詰め込まれていた。立ち止まれば恐怖心が爆発し、逃げ出してしまいそうだ。だから歩き続ける。何が起ころうとも、足を止めてはいけない。
 落ち着け、と己に言い聞かせる。
 ――お前は異能力者なんだぞ、どうにかなるはずだ。
 自身に異能力が与えられたのは、いつ頃だっただろうか。
 死地に赴く兵士のように、レイジは過去を掘り返す。
 あれは、自転車で派手に転んで骨折した年の翌年。小学三年生の時だ。
 ある日の昼休み、友達がイジメられている場面に遭遇した。そのまま立ち去るのが嫌だったので、止めに入って、逆にボコボコにされてしまう。
 おれがもっと強ければ、と悔しがっていると、視界が真っ暗になり、いじめっ子グループのキックやパンチがどこかに消えた。
 闇に恐怖する間もなく、何者かが目の前に立つ。その者の手が、輝きに照らされる。
『受け取るもよし、拒むもよし。選択権は君にある』
 何者かの手のひらには、鍵のような物体が置かれていた。
 それを掴んだ瞬間、レイジ自身の声が脳裏に流れた。
『聴こう。そうすれば、おれは変われる』
 ハッとした時には、現実に引き戻されていた。背中と横腹に痛みが連続してやってくる。
 いじめっ子グループのうしろから、音楽が流れだした。
 校内放送の、教師一押しの音楽コーナーが始まったのだ。
 流れていたのは、当時流行していたロックバンドの曲だった。うねるようなギターリフとリズム隊の心地良い波動、そしてボーカルの喉が裂けんばかりのシャウト。
 その曲が、レイジに加勢してくれた。力に変換されていく音楽がレイジを突き動かす。
 あっという間にいじめっ子グループをボコボコにして、レイジは、四対一の喧嘩で勝利を勝ち取っていた。
 あれから月日は流れ、今は、怖い人たち相手に異能力を使おうとしている自分がいる。
 自分だけではなく、ケンちゃんの為にもなるのだから、正しい使い道なのかもしれない。
 ただ、懸念もある。
 レイジはある機関の監視下に置かれていた。
 大々的な広告活動で名が知られている『異能力研究所』だ。彼らから、異能力は使用厳禁だぞとしつこく念を押されていたのだ。
(なるようになるさ)
 正面玄関のガラス扉を押して、中に踏み入った。窓から差し込む陽射しが、薄汚れた玄関ホールを彩っていた。
 女たちの品のない笑い声が、微かに聞こえた。
 レイジはレーンがずらりと並ぶ空間にはいった。
 その隅っこの休憩所で、華やかではない笑い声が鳴り響いている。
「あ、あのー。ちょっと、いいですかー」
 かったるそうな声と共に、女たちが振り向いてきた。大和撫子とは程遠い印象を受ける人ばかりだ。キツいメイクは威嚇色に見えなくもない。
 ケンちゃんが『怖い人たち』と言った意味を、レイジは理解した。ああいう女たちは、おっかない。これなら男の不良のほうがまだマシだったかも。
「ケンちゃん先輩の、お姉さんって、いらっしゃいますか?」
「あー、よく見れば八馬高校の学ランじゃーん」
 と、場の空気が一変した。ケバイ化粧の女たちが気を許したように頬を緩める。
「こっちで待ちなよー。ユウユウなら買い物行ってるからさー」
 言われるがままに、レイジは休憩所に腰掛けた。気分は捕食される寸前の殿様バッタだ。香水の香りを漂わせる食虫植物は、皆が笑顔だった。
「うちらもハッチ出身なんだよね。ハッチって八馬高校のことね。イカしてるっしょ?」
「は、はぁ……」
「うちらもセーラー服着てたんだよ。セーラー服を脱がさないでー、ってね」
「おニャン子クラブとか古すぎっしょー! うちらの親世代じゃん!」
 大爆笑が巻き起こった。レイジは愛想笑いを浮かべる。女のノリは、理解できない。
 それからカラオケ大会が始まった。レイジは頬の筋肉が痛くなっても、笑顔を絶やさない。どうせならケンちゃん先輩も連れてくればよかった。知らない親戚の葬式よりも辛いこの時間を、彼にも味わってもらいたい。
「ごめんねー、うちらだけで盛り上がって。ユウユウに用があるんだっけ」
「はい。ケンちゃん先輩からお手紙を預かってまして」
「ケンちゃんって、弟だよね。ユウユウ、電話とメールとかシカトしてるんだっけ……」
 場の空気がどんよりと沈んだ。レイジは、心置きなく真顔になれた。
「あの子、おバアちゃんを亡くしたせいで変になっちゃったの。いつか死ぬんだから、適当に生きるって言って……。バアちゃんのことを思い出すと泣いちゃうから、家にも帰りたくないって。でもうちらに迷惑かけたくないから、ここに泊まってんの」
「そんなの放っておけないじゃん。だからユウユウが落ち着くまで、うちらは交代で一緒にいようって決めたの。悪い奴にさらわれたりしたら、嫌だし……」
「……そうだったんですか」
 レイジは、親しい者の死に直面したことがないので、彼女の気持ちを想像するしかなかった。愛の度合いが高いほど、絶望も増してしまうのだろうか。
「ただいまー!」
 と、明るい声が響いた。満面の笑みを浮かべる女の子と、反対に暗い足取りの女が入ってきていた。二人ともコンビニ袋を引っさげている。
 重い表情の女が、レイジの近くに座った。
「ユウユウ。その子、あんたの後輩で、弟からの手紙を持ってきたんだって」
 ユウユウの容姿は落ち着いていた。露出も派手でなければ、化粧もしていない。ひどく大人びた雰囲気を漂わしており、レイジの二つ上にはとても見えない。
 レイジは懐から手紙を取り出した。
 大学ノートを破っただけの、即席の便箋だ。それをユウユウの前にそっと置く。
「いらない」
「ユウユウ……そろそろ帰ってあげなよ。みんな心配してるよ」
「ここら辺で一区切りつけようよ」
 暫しの沈黙の後に、ユウユウは手紙を広げた。
「……見られてると集中できない」
 レイジと女性陣がさっとユウユウから顔を背ける。
 ケンちゃんの想いが伝わりますように……レイジは、自然と両手を組んでいた。
 他人の為になぜ俺は、ここまで想いを強くしているのか。
 きっと、理屈じゃ説明できない力が働いているんだろう。そうとしか思えない。
「……ケンちゃん」
 すすり泣きが、静かな空間に響き渡る。それはストライクを取った瞬間の痛快な打音よりも、その場の者たちの心を動かしていた。
 レイジは目を閉じ、安堵の笑みをこぼす。優しげな充実感が全身に浸透していく。
 贈りモノを届けてよかった。心の底から、そう思えていた。

「桃奈部長。無事、贈りモノを届け終わりました」
 レイジは、玄関ホールで桃奈に電話をかけていた。依頼達成の報告をして、ケンちゃんをいち早く安心させてやる為に。
[レイジに何事もなくて安心したわ。あ、うっかり自然に呼び捨てしちゃったー。参ったなー。まあ部長と副部長なんだから当然よね。不可抗力だね、うんうん]
「……ケンちゃん先輩に伝えておいてくださいね」
[記念すべき初成功ですもん。気合入れて報告するわ]
 レイジが通話を切ると、ゴミ袋を引っさげるユウユウたちがやってきた。
「掃除は終わりましたか?」
「うん。後は帰るだけ。あーやっとユウユウも帰宅してくれるー。疲れたー」
「みんな、ごめんね。私のワガママに付き合ってくれて」
 ユウユウは済まなそうに頭を下げた。
「謝罪よりもサンキューが欲しいなー」
「……ありがとう。レイジくんも、ありがとね」
 レイジは照れ笑いを浮かべた。すると「いい感じじゃーん」という声が飛んできた。ユウユウが「もう」と言って、友人の肩を小突く。華やかな笑い声が上がった。
 最初はどうなるかと不安だったが、蓋を開けてみれば大成功に終わった。
 殴られたり唾を吐かれることなく、そして異能力を使わずに事が済んだ。
 レイジは安堵のため息と共に、玄関のガラス扉を開けようとした。
 が、駐車場のど真ん中に極道停めされた高級車を目にした瞬間、凍りつく。そこからスーツ姿の男とチンピラ風の坊主頭が出てきてた。
 女性陣の先頭に立つレイジは、逃げることもできず、彼女たちに振り向く。
「さっきの場所に逃げてください」
「どうせヤクザ気取りのドカタでしょ。よくいるじゃん」
「いいから! 向こう行っててください!」
 ビクンと震えた女たちは、何かを言いかけたが、レイジの瞳に気圧されたのか、奥の方へ小走りで向かっていった。
 レイジは急いでイヤホンを耳につけて、携帯音楽プレイヤーを操作する。洋楽バンドの曲が流た。やかましいミクスチャーロックだ。これくらいでなければ、戦う力は得られない。
 堅気には見えない二人組が、威圧的な態度で玄関に入ってきた。
「おうボウズ。ここは立ち入り禁止だぜ」
 黒のダブルスーツをビシっと決める男は、ねっとりとした香水を漂わせていた。
 まだ彼らが悪者だと決まったわけではない。砂粒のような可能性にレイジは賭ける。鼓膜を揺るがすギターサウンドが、背中を押してくれていた。
「こ、ここの関係者の方ですか?」
 スーツの男がフッと笑う。
「ここで嬢ちゃんたちがたむろってるって情報を掴んでな。ちょいと注意しにきたのさ。俺みてえな極道者が言えた義理じゃねえけど、法律は守らなきゃなんねえ」
 彼の手下らしき男がちぇっと舌を鳴らした。
「兄貴って卑怯だよなー。いっつも良い事しか言わねえもん」
「ハハ。いつも言ってんだろ? 妬むより盗め、自分のものにしろ、ってな。それが極道ってもんさ。まあお前も指を詰めれば俺みたいになれるさ」
 兄貴がこれ見よがしに弟分に手を見せた。小指が欠けている。
 レイジは、良い意味でも悪い意味でも裏切られた気がした。多分、こいつらはヤクザではない。ヤクザにしては口頭での自己アピールが激しすぎる気がする。
 よく見ると二人共日焼けしていた。とっても健康的な小麦肌である。
「お前もさっさと帰りな」
「嫌です」
「ったく、頑固なジャリだぜ……おいおい、気づけば血が疼く時間帯じゃねえか」
 といってスーツの男は懐に手を突っ込んだ。咄嗟にレイジは身構える。
「ここだけの話、俺は極道世界では珍しいマジシャンなんだぜ」
 背広から、ポケットティッシュが出された。
 レイジはドッキリカメラの存在を意識しはじめる。
「ボコってやってもいいが、それだと捕まっちまうからな」
 スーツの男はニヤリと笑うと、カバーを破って、ティッシュを床に散乱させた。
「どこにぶっ刺さるかわっかんねえぞぉ。逃げるなら今のうちだ!」
 その瞬間、すべての薄紙がビンと音を立て、槍のような形状に変形した。
 薄紙の槍が宙を舞い、レイジに突進してくる。まるで意志を持っている鳥のように、迷いも見せずに。
(こいつ、こいつ! 俺と同じ『レシピエント』だったのか!)
 レシピエント――レイジのような異能力者を指し示す総称だ。
 右肩に鋭い衝撃が連続ではしった。レイジは苦痛に顔をゆがめ、傷口を見る。氷柱のようだったティッシュがへなへなと溶けていっている。
「悪い! マジシャンってのは大嘘だ、フカシだったのさ! 俺は魔法使いなんだ!」
 高笑いをあげた男の足元で、数本の槍が浮かんでいた。
 レイジは危険を察し、その瞬間、力を求めた。
 奴を叩きのめす腕力、ティッシュの槍を跳ね返す頑丈さ。そして、勇気!
 イヤホンから鳴り響くロックサウンドが闘争本能を燃え上がらせた。レイジは投擲された槍を片腕で弾き飛ばす。一本だけレイジの懐に潜り込み、腹に刺さった。が、浅い。
「ティッシュはいくらでもあるんだぜ!」
 マジシャンの如く両腕を広げた男に、弟分が狂気の拍手を贈る。「兄貴かっこいい!」
 レイジは素早く受付カウンターに隠れる。
 難を逃れても、興奮状態を解いてはいけない。
 その途端に異能力は消え失せ、力の代償である牙が片足に喰らいついてしまうのだ。
「ッチ! 直線でしか飛ばせねえってのによー!」
 カウンターの板に数本の槍が突き刺さる。内側でうずくまるレイジは、舌打ちをした。
(あいつ、自分を魔法使いとか言ってた。異能力に覚醒しておきながら、研究所に行っていないレシピエント……クソ、だから躊躇もせずに異能力を使えるのか。そんな奴に負けてたまるか!)
 ここで倒れるわけにはいかない。レイジは言うなれば城壁だ。陥落されてしまえば、姫たちに危害が及びかねないのだ。
 しかし相手は大量の飛び道具を操れる。迂闊に近づけばあっという間に傷だらけだ。
(……そうか。俺も飛び道具を使えばいいんだ)
 極限まで登りつめた戦意と二曲目のヘビィロックが、レイジを突き動かした。
 槍の弾丸を覚悟でカウンターから飛び出る。
 反対側の壁際に、埃を被ったショーケースがあった。天の采配か、それとも地獄からの誘惑か。その中には、赤青黄色の順番でボーリング玉が並んでいた。
 脇腹にティッシュの槍を受けつつ、レイジはショーケースを殴り壊して、一六ポンドのボーリング玉を軽々と持ち上げた。
「お前はピンだ! ボーリングの、ピンだ!」
「ピ、ピンだぁ……?」
 スーツの男が戸惑いを見せた。だがすぐに両腕を広げ、足元のティッシュをすべて宙に浮かべる。それらが絡み合い、本物の槍のようなサイズとなって、レイジを睨みつける。
「後悔しろやぁ! この、選ばれし者を愚弄したことをなぁ!」
「黙れ! この玉を、貴様自身の血で今以上に染めてやる!」
 レイジは腰をひねり、赤色のボーリング玉をぴたりと止めた。
「ペーパースピアーッ!」と男が叫んだ。瞬後にティッシュの槍が宙を駆ける。
 レイジは全身の力を振り絞り、サイドスローの要領でボーリング玉を投げ放った。
 正面衝突した槍と玉が、ドリルのような音をかき鳴らす。
 と、白い羽が玄関ホールに舞い散った。
 ボーリング玉が二人組の真横を駆け抜ける。それはガラス扉を破壊すると、駐車場の高級車に直撃した。クラッシュ時の轟音が響き渡る。
 高級車は数回転した後、横転したまま止まった。運転席ドアにのめり込んでいたボーリング玉が、ごとんとアスファルトに落ちる。
 玄関ホールにティッシュの破片が積もっていく。
 レイジは二個目のボーリング玉を掴むと、口をぽかんと開ける二人組を睨みつけた。
「次はストライクを狙わせていただく!」
「お、おい! ティッシュ! はやく!」と、スーツの男が坊主頭の肩を叩いた。
「ピンの分際で動くな! 本当に当てるぞ!」
 二人が一時停止した。
「負けを認めろ。じゃないと一生、作業できない体にするぞ!」
 レイジの脅しを受けて、スーツの男はへなへなと座り込んだ。
「ちくしょう……せっかく若い姉ちゃんを好きに出来ると思ったのに……いってえ!」
 途端に彼は小指が欠けた手を股ぐらに挟んで、身悶える。
 怒りに震える自分を意識しながら、レイジは携帯電話を出した。そしてある人物に電話をかける。三回目のコールで、彼女は出てくれた。
[やあ鈴明くん。どうしたんだい?]
「至急、頼みたいことがあります」
[どうぞ。遠慮無く言ってくれ]
 電話先の女性、小折《こおり》の応答はハキハキとしていた。
「レシピエントに襲われました。今から言う場所に、すぐ来てください」
[……鈴明くん。かなり興奮しているようだけど、まさか……]
 レイジは痛みに震える男を一瞥した。
「仕方なかったんです。やらなきゃ、やられてた」

 パトカーと普通乗用車が駐車場に続々と集まってきた。暗がりだったアスファルトが、強い輝きに照らされる。
 駆け込んできた警察官たちがスーツの男に手錠をかけ、さらに目隠しをする。
「鈴明くん。派手にやったようだな」
 白衣を羽織る女性が、呆れ顔で玄関ホールを見渡す。破れたガラス扉とショーケース、床に散らばる細切れのティッシュ。廃墟らしさがより一層、演出されているようだった。
「小折さん。俺、捕まっちゃうんでしょうか」
「それについてだが……」
 小折は特徴的な瞳でレイジを見つめた。ぱっちりとした両目は癖の強い三白眼だ。感情が見て取れない蛇のように、小折のギョロっとした目はいつだって冷たい。ブラウスに膝までの白衣という格好が、この場にはひどく不似合いだった。
「そもそも、鈴明くんは相手を傷つけてない。あのオンボロ車を壊しただけだ」
 小折はクセッ毛の髪をかくと、タバコを咥え、ジッポーライターを取り出した。
「異能力の使用も、致し方ないものだと判断する。これは、この地域の責任者としての発言だと思ってくれて構わないぞ」
「助かります。それともう一つ、あの人の車なんですけど」
「気にするな」小折はうまそうに紫煙をくゆらせた。「それは大人に任せておけ」
 レイジは胸を撫で下ろす。弁償無用、さらに処罰無し。これで心置きなく家に帰れる。
「あの男はティッシュを槍にしたと言っていたな。怪我は?」
「大した傷じゃありません。一応、水洗いをしてから絆創膏を貼っておきました」
「絆創膏、持ち歩いているのか?」
 レイジは「はい」とウソをついた。本当は、ユウユウたちの絆創膏を譲ってもらっていたのだ。面倒なことになりそうなので、彼女たちは先に帰していた。
「香水の匂いがプンプンしてるぞ」
 レイジはハッとして学ランの袖口を嗅いだ。確かに、香水が染みついている
「ハハ。鈴明くんは素直だな。女性を護るために戦った、というところか。絆創膏もその人、もしくはその人たちから貰ったんだろ」
 小折は化粧っけのない顔を笑みで一杯にした。シミや皺が見て取れない笑顔は、三白眼とのギャップにより、裏表のない可愛げのあるものに見えた。
「レシピエントのことは教えてませんし、戦いも目撃されてません。傷口はナイフで突っつかれたって説明しておきました」
「上等だ。義務を守っているようで安心したよ……。アパートまで送ろうか?」
「助かります」
 小折と外に出ると、冷たい夜風が全身を包み込んだ。
 途端に、右足に激痛がはしった。
 レイジは呻き声をあげながらしゃがんだ。骨の内部が悲鳴を発している。
「異能力の代償か」
「はい……終わったと思って、安心したんです……いてて」
「痛みが引くまで座っていてくれ」そう言うと、小折は玄関前で整列する黒スーツの者たちに顔を向けた。男女入り混じる集団がビッと背筋を伸ばす。「玄関ホールを掃除し、戦闘の形跡を消しておけ。一つ残らずだ。ティッシュはすべて回収しておくんだぞ」
「了解しました。あの高級車はどういたしますか?」
「警察の方々に任せておけ。ふたつ返事で了解してくれるだろう」
 黒スーツの集団が即座に行動しはじめた。警官たちは彼らに興味を示しながらも、ヤクザ風の男と坊主頭のチンピラをパトカーに乗せていた。
「驚いたか? 私たち、異能力研究所が警察を連れてきたことに」
「少しだけ……いてて……この街の警察は、レシピエントのことを知ってるんですか?」
「知っている関係者は四割程度だ。他所の地域は、確か……二割程度の警察関係者にしか、レシピエントの存在を明かしていない。だからこの地区は日本一だ」
 小折は誇らしげな笑みを見せると、自分の車に向かっていった。
 レイジは若干、安堵していた。
 警察の理解が得られるのなら、捕まることもない。安心して日常に戻れる。
 レイジは足を伸ばしたまま、玄関ホールでの作業を見つめた。
 異能力研究所の人たちが黙々とティッシュの残骸を回収している。
(槍みたいになったティッシュを、科学的に調べようって魂胆か……)
 異能力研究所は、国直属の機関である。
 異能力に目覚めた者を研究、監視する為に一○ 年前に結成された。異能力者を呼び寄せる手段として大々的な広告活動を打ち、認知度を高めている。無論、世間からは怪しげな施設としか思われていない。異能力の存在は秘密とされているのだ。
 彼らは、異能力者の総称をレシピエントと決定していた。
 レシピエントは覚醒の際、何者かから鍵を受け取っている。だから、受給者・受取人・移植患者という意味を併せもつ『recipient』と名付けられていたのだ。
 現在、判明しているレシピエントは日本全体で二千人弱。研究所を訪れていない無自覚のレシピエントも含めれば、その数字は膨れ上がるだろう。
 レイジは激痛に全身を震わせながら、深呼吸をした。
(あん時、チャリンコで転んで骨を折らなきゃ、レシピエントにはならなかった……)
 レシピエントは必ず、肉体的、あるいは精神的な苦痛や激痛を経験している。
 そのことから研究所は、こう結論づけていた。
 心身どちらかのショックが脳組織に激しい刺激を与え、それにより潜在能力が覚醒段階に入る。そしてレシピエントが力を求むると同時に、覚醒する。
 だが、それは彼らの体験談から憶測を弾きだしているに過ぎない。研究の成果として導き出したものではない。
 現在の研究所は異能力者たちの管理と監視、発見に力を注いでいる。研究活動は年々、縮小していっているという。
 ――音により、肉体と精神を変化させる。
 レイジの異能力は、レイジ自身にとっては邪魔物でしかなかった。自分の力を不気味がり、異能力研究所を訪れて以来、月に一度に面倒な精密検査を義務付けられていたのだ。
 しかし、最近は感謝するようになっていた。
 研究所の推薦で、この街の高校に入学できた。引っ越し代と家賃も機関が負担してくれたので、一人暮らしに憧れを抱いていたレイジは、心置きなく新生活に望めた。
 それに、ユウユウたちを守れた。嫌な結末も回避できたので気持ちよく眠れそうだ。これも異能力のおかげであろう。
「異能力……これなら、うまく付き合えそうだ」
 右足の痛みもだいぶ和らいできた。それは、異能力の使用とは切ってもきれない代償だった。能力覚醒の準備段階に入る契機となった激痛、苦痛である。レイジの場合は骨折の際の壮絶な痛みだ。実際に骨が折れなくても、痛みだけはリアルに再現されていた。
 車から戻ってきた小折が、炭酸ジュースを渡してくれた。
「戦闘について詳しく聞かせてもらおうか。気楽に話してくれ」
「恐怖は無かったです。聴いてた音楽のおかげですね」
「ふむふむ……」
 小折が缶コーヒーを口に含んだ。その直後に派手に咳き込み、上体を激しく揺らす。レイジは苦笑しながら彼女の背中をさすった。
「き、器官に入ってしまった……他に、これといった点は?」
「相手が必殺技みたいなのを叫んできましたね」
「興味深い……んぐ!」
 また小折が咳き込んだ。レイジはまた背中を撫でながら、「ペーパースピアーとか叫んでました」と言った。言ってから、気づいた。めちゃくちゃ恥ずかしい男である。
「……そろそろ行こうか」
「運転中は何も飲まないでくださいね。咳き込んでる最中に事故なんて勘弁ですよ」
「その時は鈴明くんに守ってもらうさ。私だって女だからな」
「俺の異能力じゃ無理ですって」
「わかっている。私だって女だからな、って台詞を言ってみたかっただけだ」
 小折はタバコに火をつけると、ふっと微笑を口元に添えた。それが合図だったかのように、パトカーからエンジンの鼓動が鳴る。
 世にも珍しいレシピエント同士の戦いは、こうして幕を閉じた。

   3

 翌日、レイジは体育の授業を見学していた。小折に、傷穴が塞がるまでの運動を制限されていたのだ。だからサッカーの試合に声援を贈り続ける。
 隣クラスの生徒がボールを奪った。
「ハッハッハー! 快進撃の始まりはじまりー!」
 彼は行く手を阻む敵チームをドリブルで抜き去っていく。ハリネズミのような金髪が嬉しそうに光っている。彼の足さばきはプロ顔負けだ。
「あいつすげえなぁ」と、足首をひねって途中退場をした級友が言った。
「サッカー部なのかな」
「いや。聞いた話だと片っぱしから運動部に体験入部して、すぐに辞めちまってるんだと。あいつのせいで部のエースが駄目になってるっていう噂も流れてる」
「道場破りみたいだな」
 右斜め四五度からのシュートがゴールネットを揺らした。
 チームメイトたちが金髪頭をぐりぐりと撫でる。「デルピエロゾーンならぬアラシゾーンってやつだな!」
 盛り上がりすぎだろ、とレイジは苦笑した。
「あいつ、アラシって名前なの?」
「新しい武士って書いて、新士だ。苗字は、網風《もうふう》だったっけな」
 プレーが再開された。網風新士はボールを奪い、水を得た魚のように駆け出す。ピッチは彼の独壇場といっても過言ではない。
 新士の活躍を眺めていくうちに、チャイムが鳴った。
 レイジは級友たちと共に教室に帰り、ロッカーから携帯電話を取り出す。
 メールが一件入っていた。桃奈からだ。
『昼休みに中庭のベンチで待ってます』
 レイジは携帯電話をポケットに突っ込んだ。ちょうどいい。昼休みにこちらの想いを桃奈に伝えよう。
 そして昼休みになり、レイジは中庭に足を運んだ。
 中庭は八馬高校の人気スポットだ。木陰では女子たちが弁当を広げ、雑談に花咲かせている。カップルに占領される噴水付近には、迂闊に近づけない雰囲気が漂っていた。
(みんな手作り弁当かぁ……俺も手料理、食いたいなぁ)
 一人暮らしを始めてからというもの、調理器具は炊飯ジャーしか使っていなかった。おかずはスーパーの惣菜だ。朝は納豆ご飯とインスタント味噌汁。まるで独身男性だ。
 ベンチに佇む桃奈を見つけた。
 こちらに気づくなり、桃奈はぶんぶんと手を振ってきた。
「昨日はお疲れ様。ケンちゃんも感謝してたよ。お姉ちゃんが家に帰ってきて、物凄い親子喧嘩が始まったらしいけど、ケンちゃんは一件落着って笑ってた。あと、レイジへの伝言を預かってるの。マジでありがとう、だって」
 レイジは胸が暖かくなった気がした。
 自分が贈りモノを届けたことにより、あの姉弟は日常を取り戻した。たった一枚の手紙が、贈り主と受取人の環境を正しき方向に導いたのだ。
 どんなモノであれ、そこには贈り主の想いが詰め込まれている。今回は、それがプラスへと転じていた。
「でね。今日は、レイジへの贈りモノを持ってきたの」
 桃奈が布生地のエコバッグを膝上に置いた。
 その中から出されたカラフルな三段式のお弁当箱を見て、レイジは生唾を飲む。
「早起きして作ったの。遠慮なく食べてね」
 弁当の蓋がひらかれていく。サンドイッチと白飯、食欲を掻き立てる肉野菜にナポリタン。それらからは、湯気が昇っていた。保温式の弁道箱である。
「い、いただきます」
 レイジはカツサンドをがぶりとやる。カツに封印された熱気と肉汁、衣を染め上げるソースが味覚を蹂躙していく。次にナポリタンの辛口さに翻弄され、唐揚げのジューシーさに頬を緩ませ、白飯で口内をリセットした。
 自分が動物だと痛感せざるを得ない。食べる順番を考えもせず、目についたものを喰らうレイジは、節操のない野獣になっていた。
 すべてを平らげたと同時に、桃奈がレーズンクッキーを用意してくれた。
「でさぁ、レイジくん」
「入りますよ」
「えっ?」
 桃奈は目を点にしてこちらを見つめてきた。
「贈りモノ同好会って、俺の肌に合ってそうなんですよ」
 それに、自らの異能力を役立てる機会と巡り会えるかもしれないのだ。
 レイジは午前中に用意しておいた入部届けをポケットから出した。
「……ありがとう。あたし、嬉しい」
 桃奈は輝かしい笑顔で、レイジの入部届けを受け取った。
 贈りモノ同好会に青春を捧げるのも悪くない。レイジは焼き菓子を噛み、頬を緩ませる。レーズンの果汁とバニラ味が、これから先の学校生活を示唆しているかのようだった。

 教室に戻る前に男子トイレに入ったレイジは、満腹感に酔いしれていた。
 贈りモノ同好会に入部して得られる最大のメリット。それは毎日、桃奈の手作り弁当を食べられるというものだ。彼氏でもない男に弁当を作るのだから、よほど新人加入が嬉しいのだろう。
 上機嫌な鼻歌がトイレに響いた。
 レイジは、隣に立った金髪頭の新士を一瞥する。
「レイジさぁ。なーんで体育見学してた?」
 と、二日連続で、知り合いでもない人間に名前を呼ばれた。
「オレ、レイジとサッカーで勝負すんのをクッソメッチャ楽しみにしてたのによー。裏切られた気分だっつーの。ヌッハッハ」
 新士が変な笑い声をあげた。
「べつに見学したっていいだろ。てか、なんで俺の名前を知ってる?」
「知ってるから」
「なんだそれ」
「そのまんまの意味ってわけ」用を足した新士が手を洗いはじめる。「近々、アラシの挑戦状を送りつけるぜ。拒否は認められねえかんな。ヌハハ!」
 静かになった男子トイレに、レイジのため息が微かに響いた。



 二章 救抜《きゅうばつ》の氷面で踊れ

   1

 八馬市は連休と連動するように人の出入りが激しくなる。今年五月の大型連休も例外ではない。海や山を求めるで街は賑わいを見せる。
 今年は、例年よりも増して市内は活気づいている。
 高い知名度をもつロックバンドたちによる『黄金フェス』の開催。
 ビル群の中に敢えて建設され、ゴールデンウィークと同時にオープンされた遊園地。
 その二つが、八馬市の観光事業においての起爆剤となっていた。


 ゴールデンウィークも終わりの段階に入っていた。
 ここ数日の遊び疲れを感じながらも、レイジは冷蔵庫を覗く。冷蔵庫の中身はそれなりに充実していた。
 桃奈に『自炊ぐらいすれば? そっちのほうがお金浮くよ』と言われたのがきっかけで、包丁を握るようになっていた。今では本格的なものを除けばそこそこ調理できる。
 簡単な朝食を済ませた後、掃除洗濯をする。
 そうこうしていると午前一○ 時になった。レイジはジーンズと半袖シャツに着替える。今日は、レシピエントに課せられた月に一度の精密検査の日だ。
 父から貰った腕時計を左手首に巻いていると、携帯電話が震えた。桃奈からだ。
[レイジさ、これから予定とか入ってる?]
 もしかして部活動かな、とレイジは思った。
 ポスター戦略のおかげで、贈りモノ同好会の知名度は徐々に上がってきている。休日に依頼が舞い込んできてもおかしくはない。
 レイジと桃奈は、四月に、ケンちゃんの依頼を含めて三件の贈りモノを届けていた。
 新規の二件の贈りモノはどちらも恋文だ。直接告白する勇気が出ない、メールの告白もつまらないからヤダ、ラブレターを手渡すのも恥ずい。という同じ考えを抱いたワガママな女子ふたりが、依頼人だった。
 先方に誤解を与えそうなので、配達人はレイジが請け負っていた。
 結果的に片方は成功して、もう片方は玉砕した。
 失恋した女子がどこか嬉しそうだったのが、レイジには不思議でたまらなかった。『次のステージに移る決心がついたからでしょ』と、桃奈は分析していた。女は切り替えが速いのか、とレイジは感心したものだ。
 ともあれ、計三件の依頼物を届けたレイジは、贈りモノが秘める力を学習していた。贈りモノには人生を変える可能性が秘められている。プラスかマイナスに転じるかは分からなくても、自分は届けるだけだ。それが贈りモノ同好会の役目なのだから。
「贈りモノの依頼でもあったんですか?」
[ちがうって。遊びの誘い。てか買い物に付き合ってほしいの。ぶっちゃけると、荷物持ちになってほしいの。お昼ごはんをおごるからさ。どう?]
 ここ一ヶ月の付き合いで、桃奈はレイジの急所を心得ているようだった。
 タダのお昼ごはん、魅力的だ。しかしレイジは苦渋の決断を下すしかない。
「予定があるんで、今からは無理です。二時くらいなら平気だと思うんですけど……」
[ごめん。気を使ってくれて悪いんだけど、一時から遊ぶジュルスケが入ってるの]
「ジュルスケ?」
[スケジュール。予定ってこと]
 最初からそう言ってほしいものだ。レイジは苦笑いを浮かべた。
[また今度にでも遊び行こうね。それじゃ、ばいばーい]
 通話を終了したところで、インターホンが鳴った。
 ドアを開けると、白衣姿の小折が口元に笑みを浮かべた。
「おはよう。『Music Fighter』の今日の機嫌は如何かな?」
「……なんですか、それ」
「最近、レシピエントにあだ名をつけるのが研究所で流行しているんだ。鈴明くんは音楽を聴きながら戦うから、ミュージックファイター」
「ふうん。あのニセヤクザのあだ名もあるんですか?」
 小折がくすりと笑った。「あいつはティッシュマンだ」
 小折と駐車場の車に乗り込む。
 エンジンキーが回されると、一○ 年程前に流行したロックバンドの曲がスピーカーから流れた。女性ボーカルの変則的な歌声に合わせてレイジは膝を指で叩く。
「懐かしいですね。よく姉が聴いてましたよ、これ」
「当時の女子高生はこれに夢中だったからな」
「小折さんも当時は女子高生だったんですか?」
「今日は天気がいいな」小折が年齢の話題を無視した。「絶好の洗濯日和だ」

 異能力研究所の八馬市支部は、街の中心部に設置されていた。
 ビルの三階で精密検査を受けたレイジは、脱衣所で検査服から私服に着替えて、応接室に向かう。祝日にも関わらず、名札をつけた関係者の姿があちこちで見られた。
 応接室のソファに腰掛ける。小折がタバコに火を灯した。
「では幾つかの質問を行う。まず一つ目。ここ一ヶ月で、レシピエントと接触したり、不可解なトラブルに巻き込まれたことはあったか? ティッシュマンとの戦い以外でな」
 金髪頭の新士が脳裏によぎった。『近々、アラシの挑戦状を送りつけるぜ』と言っておきながら、あれ以来、音沙汰はない。冗談だったのだろうと思い、レイジはその問題を放置していた。
「特にトラブルはありません」
「レシピエントらしき人物を見たり、噂を耳にしたことは?」
「ありません」
「不審人物を目にした覚えは?」
「ないです」
「最後の質問だ。自分をレシピエントだと誰かに教えたりは、していないよな」
 レシピエントは、自らの異能力を独断で他者に明かすことを禁じられている。
 異能力の存在が知れ渡れば、諸外国は勿論のこと、同盟国ですら異能力欲しさに動き出すに違いないのだ。
 レシピエントは日本国内でしか確認されていない、というのが政府と研究所の見解だ。
 それなりの根拠もある。十数年前に日本列島を『双眼の台風』が襲った直後に、異能力者が現れはじめたからだ。台風の目を二つ持つ、異様な双眼の台風に何らかの特殊な力が秘められていて、それが当時日本に住んでいた人間たちに影響を及ぼしていた。そう考えれば一応、納得はできる。
 日本国外で双眼の台風が発生したことは一度もない。だからこそ、国と機関は異能力を日本国内限定の現象だと認識している。無論、推測に過ぎないのだが……。
「異能力のことは誰にも明かしていません」
「怪我の具合はどうだ」
「ばっちりです。少し跡が残ってますけどね」
「少し、か。それはそれは……安心したよ」
 小折は腕時計を見た。レイジもそれに習う。午後一時半だ。
「鈴明くん、これから予定はあるか?」
「いえ、特には」
「映画でも観に行かないか? 今、カップル半額キャンペーンをやっていてな。悪い話ではないだろ。鈴明くんも五百円で映画を観れるんだから」
「いや……そもそも、なんで俺なんですか」
「部下や同僚は仕事で手一杯で、暇なのは私だけだ。お礼にハンバーガーを奢るぞ」
「お供します。ちょうど、映画を観たい気分だったんです」
「まったく……鈴明くんは分かりやすいな」
 小折はひどく嬉しそうに笑うと、タバコとライターを白衣のポッケに突っ込んだ。
(俺って食べ物に弱いなぁ)
 それからレイジは駐車場に出た。遠くからイベント会場の生演奏が微かに響いており、その反対側からは遊園地のパレードの音楽が聴こえていた。
 車に乗る寸前、レイジは街に連なる建造物を見上げた。窓ガラスに澄んだ青空が投影されている。この都会的な光景にも見慣れていた。
 小折が車を道路に滑り込ませる。
「あ、すっかり忘れていた」
「忘れ物ですか?」
「鈴明くんのレシピエントランクについてだ」
 レイジは、ごくりと唾を飲んだ。
 レシピエントランクは言い換えれば危険度だ。レシピエントの人格と異能力を考慮した上で決定される。上がればあがるほど異能力研究所の監視が増し、不自由を強いられ、最高ランクになると完全に自由を奪われてしまう。
「鈴明くんは戦闘行為に異能力を使ってしまった。ということで、我々は慎重な協議を重ねた。結果は、変動なしだ。鈴明くんにも事情があったし、大事にはならなかったからな。引き続き、最低ランクのCのままでいく」
 レイジは安堵のため息を漏らした。
「ぶっちゃけ、ランクCって監視されてないですよね? ボーリング場で俺が電話した時、研究所は戦闘を察知してなかったみたいですけど」
「うちにも色々と事情があるんだ。あまり追及しないでくれ」
 小折はウインカーを出して、大型ショッピングモールの駐車場に車を入れた。
「先に昼食をとろうか」
 二人は活気溢れるモール内に入った。小折の白衣に好奇の視線が集中する。
「やはり私の両目は人目を引くらしい」
「えっ。どう考えても原因は白衣でしょ」
「いや、この三白眼に決まってる。まったく……困った目だ」
「可愛い目だと思いますけど」
「ふふふ。実は私もそう思い、気に入っている」
 二人はハンバーガーショップでセットをふたり分、お持ち帰りで注文した。
 会計を終えた途端、小折が三白眼をぱちぱちと瞬かせる。
「……お手洗いに行ってくる。コンタクトレンズがずれたみたいだ」
 小折が急ぎ足で店を出ていった。
(コンタクトかぁ。目にレンズを貼り付けるなんて、怖くないのかな)
 ふたり分のセットを受け取り、店を出た瞬間、横腹辺りに軽い衝撃がはしった。
 目線をそちらにやると、ちいさな女の子と目が合った。
 小六、もしくは中学一年生だろう。猫のようなまるい目が極限まで開かれている。頭頂部からはピンと一束の髪が伸びていた。まるで雑草みたいだと、レイジは思った。
「ご、ごめんなさぁい! 怪我とか無かったですか?」
「俺は何ともないよ。そっちこそ大丈夫だった?」
「わたくしから一方的にぶつかったというのに、気を使ってもらい、感謝の極みです」
「どういたしまして」
「えへへー。優しいんですねえ」と、その少女がにこーっと微笑んだ。
(小折さん、まだかな)
 ハンバーガーセットの重みがレイジの食欲を促進していた。ポテトに炭酸ジュース、そして分厚い肉挟みパン。想像しただけでよだれが出てきた。
 休日の昼間である。目の前を多くの利用者が行き交っている。まだ小折は戻ってこない。
「あ、あの。無視されると、とっても傷ついちゃいます!」
「え? ああ、ごめんごめん」
 無視したつもりはなかった。もう話は終わったとばっかり思っていたのだ。
 少女はジロッとした目でこちらを見上げてきた。
「レイジさんがそんなに冷たい人だったなんて、知りませんでした」
「……きみ、誰? なんで俺のこと知ってんの?」
「はぁ……そうですよね。生徒会長だからって、有名人さんってわけじゃないですよね」
 ああ、とレイジは手のひらを打つ。入学式でスピーチをしていた生徒会長と少女の特徴は一致していた。チビでアホ毛だ。
「生徒会長さんだったなんて、全然気づきませんでした」
 八馬高校生徒会長は、しょんぼりと肩を落とした。
「なんで俺の名前知ってるんですか?」
 と訊くと、いきなりえっへんと胸を張った。忙しい先輩である。
「生徒会長として生徒さんたちの氏名と顔を記憶するのは当然です! すごいでしょー」
「凄いですね」
 レイジは、顔を前に向け直した。小折はまだ帰ってこない。
 チッ、と舌打ちが聞こえた。レイジは生徒会長に顔をやる。彼女は、ニコニコとしていた。今の舌打ちは気のせいだったらしい。
「レイジさんはお独りですかー? あ、でも二つ紙袋を持ってるから……誰かと買い物してるんだぁ。もしかして彼女さんとか? 青春してますねー」
 不意に、レイジはあくびを浮かべてしまった。
 見ると、生徒会長はプルプルと震え、レイジを睨みつけていた。顔の表面が真っ赤になっている。頭頂部のアホ毛と相まって茎の長い完熟リンゴにも見える。
「あ、すいません。悪気は無かったんです」
 あきらかに無理していると分かる笑顔を、生徒会長が浮かべた。
「ぜ、全然気にしてませんからぁ。じゃあ、失礼しますねえ。さよならー」
 生徒会長はすたすたと歩き出し、ショルダーポーチから出した携帯電話を耳に当てた。彼女の小さな背中が遠ざかっていく。
 近くの通路から、黒縁メガネをかけた小折が出てきた。レンズ奥の三白眼がすまなそうに細くなっている。
「コンタクトを洗面所に落としたせいで、時間がかかってしまった。すまない」
「はやく食べましょうよ。もうお腹ぺこぺこです」
「ハハ、私の胃袋もからっぽだ。それじゃ休憩所に行こう」 
 それから昼食を終わらせ、モール内の映画館に入ったレイジは、従業員が向けてくる嫌疑の視線に罪悪感を覚えつつ、ミニシアターに入室した。
「あ、ポップコーン買い忘れた。まあいいか……んが!」
 また飲み物を器官に入れたらしい小折の背中を撫でつつ、ストロー付きの紙コップを無言で奪った。上映中に白い目で見られたくは、ない。

 帰宅するなりテレビをつけ、レイジは夕焼けに染まる洗濯物をかごに取り込んでいく。
(映画、よかったなぁ。やっぱ家で見るのとシアターだと雲泥の差だな)
 テレビから異能力研究所のCMが流れた。無自覚レシピエントを呼び寄せるためだけの映像だ。そこが国直属の機関だと知る者は、日本人口の一割にも満たない。
 パッと画面が切り替わって、夕方の報道番組がはじまった。
 キャスターが深刻な顔を浮かべている。嫌な事件か政界ニュースの前兆だ。
 ニュース原稿が読み上げられていく。どこかの町の住宅地の公園が映し出された。
 大学生の男性が何者かの暴行を受け、意識不明の重体だという。
 被害者の私生活に不審な点は見られず、警察は通り魔的犯行とみて捜査を……。
 レイジはチャンネルを変えた。被害者の家族や友人のことを考えると、気分が滅入ってしまうのだ。
 携帯電話が震えた。桃奈からだ。レイジはテレビを消してから電話に出た。
[もしもし。いきなりだけどマーヒー?]
「はい。今からなら買い物にも付き合えますよ」
[ふっふーん。そうじゃないんだなー]
 ということは、もしかして……レイジは僅かな期待を抱いた。
[部活動よ! もちろん、やるよね?]
「無論です」
[今から贈り主を連れてそっちに……]
「いえ、俺がそっちに行きます」レイジは靴下を履き直し、腕時計を手首に巻いた。そして携帯音楽プレイヤーをポッケに挟む。「桃奈部長の家でいいんですよね?」
 外の世界は暗がりに侵食されつつある。こういう時、万が一を恐れる自分は臆病者なのだろうか。それでも構わないと、レイジは思った。

 桃奈の自宅に着いた頃には、とっぷり日が暮れていた。気温も下がりつつある。レイジは半袖で来たことを後悔しながら、インターホンを押した。
 桃奈の父親が玄関ドアの隙間から顔を出してきた。
「贈りモノ同好会の副部長をやらせてもらっている、鈴明レイジといいます」
「娘の知り合いか。この時間帯に呼び鈴を鳴らすのは、感心できんな」
 敵意むき出しの桃奈の父を前に、レイジは狼狽してしまう。まだ午後六時なのに……。
「その半袖はなんだ。小学生でもあるまいし。ジャケットくらい羽織りなさい」
 と、小型犬の鳴き声が彼のうしろから響いた。
「おとーさーん? 何してんのかなー?」
 見ると、普段着の桃奈が半笑いで仁王立ちをしている。彼女の足元で吠えるダックスフンドは、桃奈に獣の牙を向けていた。
「い、いや、ちょっと世間話をね。さあ鈴明くん、入りたまえ」
 レイジは品の良い居間に招かれた。「お父さんはあっち行ってて」と娘に言われ、父はすごすごとキッチンに退散していく。数秒後、桃奈の母の控えめな笑い声がした。
 足元で寝転んだダックスフンドを撫でていると、桃奈が贈り主を連れて戻ってきた。
 贈り主の顔とアホ毛を見て、レイジは愛撫の手を止める。
「数時間ぶりですね、レイジさん」
 八馬高校生徒会長はぺこりと頭を下げた。
「数時間ぶり?」と桃奈はキョトンとした。
「ショッピングモールで、偶然、レイジさんと出会ったんですよー。その後に、偶然、見かけたんですけど、とってもお綺麗な女性とご一緒でした。咳き込んだ彼女の背中をさすってやったりしてました。これも、偶然、見たんですけど、カップル半額キャンペーン中の映画館に入ってましたねえ」
 ……ハッハッハ。ダックスフンドの鼻息が、束の間の静寂を破った。
「どんな用事かと思えば、年上の女性とデートしてたんだぁ」
 桃奈は冷めた目でこちらを見ていた。
 レイジはダックスフンドを抱き上げ、ぎこちない笑顔をつくる。
「確かに二人きりでしたけど、デートとかじゃないです」
「その心は?」
 正直に言うわけにもいかないし、かといってウソをつく気にもなれない。
「その人、俺が引っ越す時に世話してくれた人なんです。姉の知り合いでして。映画代が半額になるから一緒に来てくれって誘われたんです」
 異能力研究所だけを抜き出して、レイジは真相を語った。引っ越しの際に小折と姉は顔を合わせていたので、知り合いと言ってもよい。ギリギリセーフの範疇だ。
 すると桃奈はぷっと吹き出した。
「ごめーん。ちょい意地悪だったかな?」
「……驚かさないでくださいよ。生徒会長さんも、変な言い方しないでください」
 つまらなそうに毛先をいじくっていた生徒会長が、慌てた素振りで頷いた。
「ごめんなさい……以後、気をつけ」
「本題に入りましょう」と桃奈が生徒会長の言葉を遮った。「今回の受取人は外国人よ」
 いきなり生徒会長がキラキラと目を輝かせる。
「イベント会場で音楽祭が開かれてますよね。実は今夜、隠しゲストが登場するんです。わたくしそのバンドの大ファンで! パパに頼んでお話しする機会を頂こうと思ったんですけど、断られてしまったんです。手紙も受け取ってくれないらしくて……」
「それであたしらを頼ることにしたんだってさ。今回の贈りモノはファンレターよ」
「またお手紙ですか。もう書状同好会に改名しませんか?」
「書状とかどこの戦国時代よ。手紙限定になっちゃうから却下」
「お願いです、レイジさん! わたくしのファンレターを届けてください!」
 生徒会長が、目を潤ませた。
 贈りモノ同好会は来る者拒まずの精神を掲げている。それに部長もこの依頼には乗り気だ。レイジは、こくんと頷いた。
「どうやって渡しましょうか」
「熱狂的なファンを装って係員に頼み込む……それしかないわね」
「了解です。バンドの名前は?」
「アクトエイトらしいよ」
 聞き覚えがない名だ。日本では知られていないコアなバンドなのだろうか。
「ジャンルはなんですか? ミクスチャーっぽいバンド名ですけど」
「美涼《みすず》、どうなの?」
 生徒会長の美涼はニコッと笑った。
「レイジさんの仰る通り、ミクスチャーですねえ」
「ボーカルの名前を教えてください」
 美涼は暫しの間を置いてから、口をひらいた。「ウェス・エストリンです」
「……そうですか。他のメンバーは?」
 すると美涼は目を伏せて、顔を手で覆った。
 レイジと桃奈の冷ややかな視線が、ちいさな体に突き刺さる。
「ご、ごめんなさい。わたくし、曲ばっかり聴いてて、メンバーに疎くて……」
「レイジ、時間も無いことだし準備に移りましょう。アクトエイトの出演は三時間後よ。それが終わったらすぐ帰っちゃうらしいから、急がなきゃ」
 ライブ中の接触は不可能だ。そうなると、タイムリミットは三時間。もたついてはいられない。レイジは携帯電話にイヤホンマイクを接続した。

 桃奈の自転車に乗って街を走るレイジは、贈りモノ入りのショルダーポーチを肩から斜めにかけていた。気分はメッセンジャーだ。もっともママチャリなのだが。
[車や通行人には気をつけてね。安全第一でいきましょう]
 自宅でサポートに回る桃奈に、レイジは「了解」と応答した。二人の携帯電話は無料通話のペアに設定されていた。イヤホンマイクの感度は良好だ。電池が切れない限りサポートを受け続けられる。
「アクトエイトに関するサイトは見つかりました?」
[それが出てこないの。美涼も急用ができたとかで帰っちゃうし、電話にも出ないわ]
「エイトの部分をアラビア数字にしてみてください」
[……駄目ね。ローマ数字は……出てこないなぁ。あーもー、不可解だわ。特例として美涼の依頼なんて断わりゃよかった]
「桃奈部長と生徒会長って、やけに親しそうでしたけど、知り合いなんですか?」
[中一からずっとクラスが一緒なの。あいつああ見えてすっごい腹黒いから。レイジも気をつけなさいよー。みんな騙されてんのよね。墨汁も裸足で逃げるくらいに真っ黒いチビなのに、八馬高校ではマスコット的存在。小さいって正義なのかなー]
「生徒会長って、マスコットだったんですか。知りませんでした」
[前々から思ってたんだけどさ。レイジってそういうのに疎いよね]
 交差点の信号が黄色になった。レイジは自転車を停める。
「検索しても出てこないバンドが隠しゲストなんて、信じられません。騙されてるんじゃないですか?」
[……虎穴に入らずんば虎子を得ず。それに贈りモノを放棄したくはないわ。レイジが乗り気じゃないんなら、今からでも帰ってきていいよ。あたしが届ける]
「届けるのは副部長の役目ですから、部長はどっしりと構えててください」
[ありがと。レイジが副部長になってくれて、本当に感謝しているわ]
「こちらこそ。毎日お弁当を作っていただいて、感謝の極みです」
 どのような状況だろうと、結局、レイジは行くしかないのだ。
(滞り無く済めばいいんだけど……)
 ビルの狭間に建設されたイベント会場が見えた。意図的にそうしているのか、生演奏がダダ漏れだ。敷地内には巨大なメインホールだけではなく、小規模な会場が幾つか設置されている。多目的用の複合施設として建設されていた。
 音楽祭真っ最中のそこは、熱気に溢れていた。紅潮気味の集団があちこちにたむろしている。焼きそば屋台から景気の良い声が聞こえた。
(来年も開催されたら俺も来よう……っと、今は贈りモノに集中だ)
 スタッフを探していると、それっぽい帽子を深めに被る男が近づいてきた。
 彼がパッと帽子を脱ぐ。
 ハリネズミのような金髪頭と薄気味悪い眼つきを目にして、レイジはアッとなった。
「ようレイジ。奇遇だな」新士がにかっと笑った。
「バイトでもしてんのか?」
「おう」新士は写真付きの名札を見せびらかすようにする。「ゲーム代が馬鹿になんなくてよう。連休を利用してがっつり稼ごうって魂胆よ」
 怪しげな依頼で訪れたイベント会場に、新士。警戒すべき状況ではある。しかし疑ったらキリがないので、レイジはこの出会いを幸運の産物だと判断する。
「新士さ、アクトエイトってバンド知ってる?」
「さっきまで一緒だったぜ。ワガママなメリケン共でよ。オレをパシリにしやがったんだ。ヌフフ、街で見かけたら蹴っ飛ばしてやる」
 実在したのか、とレイジは面食らった。
 検索してもヒットしなかったのは、バンドやレーベルがネットを極端に嫌っているから。その可能性が高まると共に、美涼に対する疑いが晴れていった。
「案内してくれないかな」
「いいぜー」
「上司に叱られたりしないか?」
「気にすんな」新士はポケットに手を突っ込んだ。「大型連休も、もうすぐ終わり。一度くらいはスリルを味わっておかなきゃ損だぜ」
 新士は、人目を気にもせずに口笛を吹きながら歩き出した。
 彼に案内された先は、敷地の隅にある体育館ほどの大きさの建物だった。そこだけが世界から隔離されたように静かだ。レイジは、懐疑心を再燃させてしまう。
「ここだけ、子ども会の会場なんだよ。この連休中はずっとそうなんだと。すげえぞー、でけえ滑り台とか遊具が一杯あんだぜ」
 新士は玄関扉のスキャナーにカードを通す。電子音が鳴った。
「あいつら、ライブ寸前までここで遊ぶつもりらしいぜ。ノリノリでビデオカメラとか回して大爆笑してんの」
 レイジの猜疑心がすうっと萎んでいった。
 玄関ホールには子ども会の予定表が貼り出されていた。花瓶の他に、子供たちが喜びそうなぬいぐるみが飾られている。猫のぬいぐるみと目が合ったレイジは、さっと目を逸らす。猫は苦手だった。
 新士が会場入り口ドアに手を伸ばした。
「さあ、ご対面だぜ。心の準備は? 外国人を前にしても堂々といられる勇気は? お気軽英会話術の本は用意してあるか?」
「あ、やばい。英語、話せないんだった」
「安心しろって」
 勢いよく入り口ドアがひらかれる。
 レイジの瞳に、殺風景な会場が映った。
 なぜか球技のボールばかりが転がる会場は、深夜の葬式場よりも不気味に思える。
 新士が静かなる会場に入った。彼の足音がやけに大きく感じられる。
 レイジは、後方から聞こえた電子音に振り向いた。玄関扉のスキャナーが赤く点灯している。さっきまでは、グリーンだったのに。
 それに合わせて、イヤホンマイクからツーツー音が聞こえた。レイジは携帯電話の液晶を目にして、舌打ちをする。電波圏外。桃奈のサポートが切れてしまった。
「ご覧の通り、アクトエイトなんてバンドはいやしねえ。存在すらしねえぜ!」
 新士が狂ったように高笑いをあげた。
 レイジは片頬をヒクつかせながら、会場に足を踏み入れる。
「おい新士。挑戦状を送らないで、決闘をするつもりか?」
「レイジよう、鈍すぎんぞ。てめえは既に受け取ってんだよ」
 まさかと思い、生徒会長の美涼から託されたファンレターを取り出し、乱暴に封をひら
いた。『アラシの挑戦状』とだけ書かれたノートの切れ端を、レイジは握りつぶす。
 見事なまでに、彼の罠に引っかかってしまった。
「これで準備は整った。邪魔者が入る余地のねえ、レシピエント同士の決闘のなぁ!」
 新士は、間違いなくこう言っていた。
 ――レシピエント同士の決闘、と。

   2

 驚きと共に、レイジは、心のどこかでやっぱりなと感じていた。無意識のうちに、新士から同類の匂いを嗅ぎ取っていたのかもしれない。
「そのうち研究所の連中が駆けつけてくるぞ」
 スタッフ用の制服の襟を緩めながら、新士は異様なまでに白い歯を剥き出しにした。
「バーカ。あいつらは来ねえよ。監視体制が敷かれてるのはランクBからで、Cは月に一度の精密検査だけだ。異能力研究所は、機密漏洩を防ぐために、少数精鋭で仕事してんだよ。ランクCまでは手が回らねえってわけさ」
「……ランクCも監視されてるってのは、ハッタリってことか」
「まず間違いねえだろうな」
 ボーリング場での戦闘の際、異能力研究所は、レイジの連絡を受けるまで戦闘を感知できていなかった。ランクCのレイジが監視されていなかったと思えば、納得もいく。
「まあ? 万が一で連中が来たとしても、オレを止められるはずがねえ。安心して決闘を続行できるってわけ」
「ランクSになったら、自由を奪われるぞ」
「構わねえよ。異能力で脱走してやる」
 レイジは、新士を誤解していたと痛感した。
 金髪頭で不良っぽいが、クラスの連中から慕われる気さくな同級生。
 そう思っていたが、実際は違う。
 頭のイカれたレシピエントだ。
「おめえの異能力は、音による心身の強化! 異能力ランクでいうとBマイナスだな。そこそこ危険だが、重要視するほどでもない。が、オレは違う!」
 新士は片腕を勢いよくなぎ払った。まるで、目の前の透明人間を殴りつけるように。
「オレの異能力はAプラスってところだ! 控えめに見てもAマイナスは間違いねえ」
 と、レイジの髪がなびき始めた。屋内なのに冷たい風が吹き出している。
 レイジは携帯音楽プレイヤーのイヤホンを耳に嵌めた。
「お前がいれば快適な夏が送れそうだな。俺だったら、ランクSをつけている」
「オレのあだ名をあの蛇目女はこう言ってたぜ。『Storm Generator』ってな。扇風機だとかエアコンだとか、そんな生やさしいもんじゃねえ!」
 眼に見えない風がレイジの視覚聴覚を殴りつけた。
「ギブアップは認めねえ! 逃げ道もねえ! オレが勝つまで、終わらせねえ!」
「なぜ俺がレシピエントだと知っている! 生徒会長もグルなのか!」
「知りたきゃオレをぶっ倒すんだなぁ!」
 新士の前に転がる軟球、硬球、バスケットボールがふわりと浮いた。
(また飛び道具かよ!)
 レイジは携帯音楽プレイヤーを再生させ、強く力を求め、異能力を発動させた。
 九人編成のバンドの曲がイヤホンから流れ出す。分厚すぎる狂気の演奏と腹に響くようなデスボイスが、確かな力となってレイジを強化させる。
 レイジは狂風を物ともせずに走り出す。バスケットボールが風と共に飛んできた。それを殴り、叩き落す。硬球と軟球が腹にのめり込んだ。
「てめえがオレに辿り着くのは至難の業だ! 負けイベントに恐怖しろ! 理不尽な敵の強さに怒り狂えや!」
 新士が腕をなぎ払う。
 風速が一段階上がり、レイジは宙を舞い、入り口ドアに受け止められた。
 気づくと、真っ白な物体がこちらに突進してきていた。
 顔面にバレーボールを喰らったレイジは、痺れるような痛みに舌打ちをする。
「情けねえ! 一発くらいオレにかましてみせろや」
 唇の上が温かい。舐めてみると、血の味がした。
 狂風に押されて幾つかのボールが足元まで転がってきた。
(駄目だ。このままじゃ、為す術も無く負けちまう)
 レイジは硬球を拾い、入り口ドアをひらく。
「ヌハハ! 顔でも洗って頭冷やしてこーい」
 新士の笑い声に苛立ちつつも玄関ホールに出た。出口のランプは赤いままだ。助けも期待できそうにない。音楽祭のスタッフがここに近寄るとは思えないのだ。
 このまま新士が飽きるまで待つのは、嫌だ。
 自分と桃奈を騙した新士をぶん殴らなければ、気が済みそうにない。
 しかし、あの狂風と飛び道具がある限り、こちらの拳が新士に届くことはない。
(これは普通の喧嘩じゃない。レシピエント同士の戦いだ。あの時のように、勝機は生まれてくるはず)
 レイジは一度、戦闘を経験している。ボーリング場で、飛び道具を使う無自覚レシピエントに勝利していたのだ。あの時はボーリング玉が勝利を導いてくれていた。
 そして今、レイジは咄嗟に拾った硬球を握り締めている。
 使い方さえ誤らなければ、何とかなるかもしれない。だが今回の敵は風を操っているようだった。どんな球速だろうと、狂風に逸らされてしまうだろう。
 勝つ手段は残されていないものか……レイジは目を閉じ、怒りの熱を僅かに下げ、狂風の元である新士を脳裏に浮かべる。
 ある閃きが、脳髄を震撼させた。
 この閃きが正しければ、勝機を作り出せる。
 レイジは花瓶を持って二階に駆け上がった。観客席のドアから顔を覗かせて、会場の中央に佇む新士を見据える。
 新士はバスケットボールを指先で回しつつ、入り口ドアに罵声を浴びせている。臆病者、いつまで顔洗ってんだ、さっさと来い、と。
 新士の後方や両側に転がるボールは、微動だにしない。
 それ以外の、新士の前方に転がる玉は狂風に翻弄され続けていた。
(新士の異能力は目の前……いや、視界の中でしか効果を発揮していないのか)
 だとすれば、背後からの攻撃に、新士は対処できないはずだ。
 レイジは物音を立てぬように観客席に入り、腰を深く落とした。新士がこちらに気づく気配ない。すっと立ち上がり、硬球を大きく振りかぶる。
「……ん? なんか聴こえてやがる……まさか!」
 新士がこちらに振り向き、いきなり顔を怒りの色に染め上げた。
(迂闊! 音量を下げとくべきだった!)
 イヤホンから漏れ出る音楽は、やかましいサウンドをまき散らしていた。
(構うものかよ! ぶつけてやる!)
 レイジは彼に狙いを定めて、硬球をぶん投げた。
 狂風を受け、球速を落とした硬球は、しかしプロ並みの速さで新士の肩を殴りつけた。
 視界の中の新士が肩を押さえながらよろめく。
(頑丈な奴だ! けど次の一手で決める!)
 レイジは観客席から跳躍し、狂風を全身で感じながら花瓶を掲げる。
 着地と同時に、金髪頭に花瓶を叩きつけた。派手な音が鳴り響き、破片と花びら、さらに水が地面へと落ちていく。
 新士の生え際から赤い血が滴る。皮膚を伝う血が、薄気味悪い目を赤く染めた。
「お前の負けだ!」
 新士から発生する狂風を止めるべく、レイジは拳をはしらせた。
 が、新士の手のひらに受け止められてしまう。
「いってえ……! なんだこのパンチは! ヌフフ、おもしれえ!」
 と、新士が空いた手をレイジの腹にそっと寄せた。
「お返しだ、存分に喰らえや!」
 その途端、金槌で殴られたような衝撃がレイジを吹き飛ばした。レイジはうめき声をあげ、床の上でのた打ち回る。背中の激痛が呼吸を困難にさせている。痛みは引く気配を見せず、むしろ一秒ごとに増しているようだった。
「次の一発で、終わりにしてやるぜえ」
 新士の足音が、レイジには死神の笑い声に思えてならなかった。
 と、二階観客席からドアの開閉音が鳴り響いた。
「網風新士! 私の言いつけを護ろうとしないとは、愚か者め!」
 変声機を通したような声が場内に反響した。レイジは顔を上げ、その根源を探す。
 観客席に白マントを羽織る人物が佇んでいる。その佇まいにはある種の貫禄が秘められていた。体格だけを見れば男だが、不気味な色合いの仮面を被っており、性別は定かではない。その仮面は、両目部分だけが繰り抜かれていた。
「新士よ、やり過ぎるなとしつこく命令したはずだぞ」
 性別はおろか年齢すらも計り知れない音声は、その人物の仮面から発せられていた。
「誰が、いつ、おめえに従うなんて約束したよ」
 新士は声を荒げ、その人物を睨みつける。
「貴様のような愚図の好き勝手にさせるつもりはない」
「こっちはてめえの計画に協力してやってんだ。愚図扱いされる筋合いはねえ」
「貴様がいい加減にしないのであれば、この計画は中止とする。さらに貴様を『アライアンス』から追放する。それでも構わないというのなら、狂犬を気取り続けるがよい」
 新士は血走った目をレイジに向けると、舌打ちをした。
「勝手にリセットボタンを押された気分だぜ」
「それでよい。純情な犬は、ただ従うだけで幸せを得られる」
「いつかてめえを泣かしてやる。覚えてやがれ!」
 仮面にそう言い放つと、新士はレイジに背を向けて、会場から姿を消した。
 痛みを堪えながらレイジは立ち上がり、仮面の人物を凝視する。
「鈴明レイジよ、これより忠告を行う」
「名乗らずに、一方的に……今のままで、俺を言いなりにするつもりかよ」
「この度の戦闘、異能力研究所には知らせるな。貴様の胸にしまっておけ。さもなくば、永遠に消えぬ傷を刻む。貴様と……ついでに、桃奈にもな」
 レイジの脳裏に桃奈の笑顔が浮かんだ。
 自分のせいで、彼女まで巻き込まれている?
「お前……! 誰だ!」
「レシピエントによる集団、アライアンスの元締めである。それ以外を貴様が知る必要はない。……こちらも済まないとは思っている。だがこの計画には犠牲が必要なのだ。だから私は、鈴明レイジを生贄とした」
「今回の依頼を仕組んだのも、お前か」
「そうだ。貴様が思っているよりも、私というレシピエントは高位に立っている。チビの生徒会長を操ることくらい、容易いことだ。その証拠を見せてやろう」
 仮面の人物が、レイジを直視する。
 レイジの両膝が床についた。
 レイジの意志でそうなったのではない。自然と、体が動いていたのだ。立ち上がろうにも両足は別物のように反応しない。
「私のあだ名は『Sleeping Awake』である。そういう異能力なのだ」
「睡眠と覚醒……催眠術のような異能力なのか?」
 その言葉も、レイジの意志が口にしたものではない。
「フフ……明日の二三時、遊園地にて待っている。遅刻するでないぞ」
 仮面の人物がドアをあけ、二階通路へと消えていった。
 レイジは下半身に感覚が戻ったのに気づき、駆け足で通路に出た。
 それから隅々まで探し回ったのが、結局、仮面の人物を見つけることはできなかった。
 レイジは携帯音楽プレイヤーを止めもせずに建物から出て、桃奈の自転車に乗る。夜風に優しく撫でられても、反吐が出そうになる怒りが静まることは、なかった。
 
 桃奈の自宅に到着するなり、レイジは彼女に自転車を返した。
 そして、無言で歩き出す。
「ちょっと、何があったか説明して」
 足を止め、雑な視線を桃奈にぶつける。それからため息を吐いてみせた。
「電話が切れたのは電波圏外になったからです。それとファンレターですけど、アクトエイトに破り捨てられました」
「電波圏外なんて……そんなの、信じられないよ」
「本当です。それでも部長は俺を疑うんですか?」
「そこまで言うなら、信じるけど……ねえ、何か隠してない? レイジ、なんか変だよ」
 ――そうだ、俺は変だ。
 異能力を扱うレシピエントなのだから、当然だ。
 訳の分からない連中に目をつけられ、脅され、桃奈に隠し事をしている。ウソをついてまで、新士と仮面の人物との接触を桃奈に知られまいとしている。
 この時ほど、異能力を恨んだことはない。
 異能力さえなければ、レイジは平凡な生活を謳歌できた。
 桃奈を巻き込むような事態は、起こり得なかったのだから。
「俺、贈りモノ同好会を辞めます。さよなら」
 立ち去ろうとすると、目の前に立った桃奈がこちらの手を握り、真顔で見つめてきた。
 レイジは、桃奈の手を乱暴に振り払う。
「もうウンザリなんですよ。休みの日なのに駆りだされて、しかも無駄足で……嫌なんですよ、本当に」
「……そっか。そう、だよね」
 桃奈は寂しげに目を伏せると、こくんとうなずいた。
「今まで、ありがとう。レイジがいたおかげで、楽しかった」
 レイジはムカムカとしたまま歩き出す。路地を曲がってから、拳を握りしめた。
 桃奈に冷たく接するしかなかった自分、新士と仮面の人物、アライアンスという集団、事態を察知してくれない異能力研究所。
 憎い。
 その憎しみを打ち消す方法を、レイジは渇望した。
 明日の二三時に遊園地に来い、と仮面の人物は言っていた。
 そこに行き、連中を叩きのめせば、気分も落ち着くのだろうか。
 そうではない。あの者たちに約束させるのだ。自分と桃奈に関わるな、と。
 レイジは戦いを決意する。それが、自らの使命に思えた。
(新士はともかく、あの仮面野郎……どう対処すればいい?)
 と、交差点の前でレイジは生徒会長を見つけた。
 急いで呼び止めると、生徒会長の美涼はニコニコとした笑顔を浮かべた。
「アクトエイトへの贈りモノの件について、話があります」
「アクトエイト? なんのことですか?」
「覚えて、いないんですか? 俺と桃奈部長に贈りモノを依頼したことを」
「仰ってる意味がよくわかりませんねえ」と美涼が首をかしげた。
 仮面の人物の恐ろしさを垣間見た気がした。その催眠術のような異能力は、人を思うままに操れるらしい。肉体、言葉、そして記憶までも――。
「疲れてます? 悩み事があるなら相談に乗りますよ」
「……すいません。今のは、忘れてください」
 レイジは生徒会長に背を向けると、青信号の交差点を早足で渡った。
 いっそ小折に相談し、異能力研究所に救いを求めようか。
 それは無謀すぎる考えだった。敵の忠告に従わなければ、自身と桃奈に危険が及ぶ。自分はまだしも、無関係の桃奈を傷つけたくはなかった。
 アパートに帰るなり、レイジはシャワーを浴びた。
 それからソファで髪の毛を拭いていると、右足に激痛がはしった。シャワーで気分を緩めたせいで、異能力の代償が今頃になって発生したのだ。
 奥歯を噛み、うめき声を漏らすまいとする。
(異能力なんて無きゃ、贈りモノ同好会にいられたんだ)
 あの時、何者かが差し出してきた鍵を受け取りさえしなければ……。
 後悔しても始まらない。異能力を恨むのは、桃奈の安全を確保してからでも遅くない。
 レイジは布団にもぐると、視界を暗闇に染めた。
 今のままでは新士にも勝てず、仮面の人物には指一本触れることさえ不可能だろう。
 考えろ――。
 八方塞がりではないと信じ、活路を見出すのだ――。
 レイジは、決して拒めぬ戦いへと意識を投じていった。

 朝日が顔を覗かせ、昼の太陽が地上を照らし、そして夜が訪れた。
 戦いへの準備を終えたレイジは、ショルダーポーチを背負い、遊園地に向かう。
 ビルの林に囲まれる遊園地のコンセプトは近未来だ。八馬市の全面協力を受けて建設された遊園地の為、正門前には市の花が咲き乱れている。
「よーうレイジ。時間通りだな」
 新士は嬉しそうに白い歯を浮かべると、係員入り口を開けて、園内にレイジを招いた。
「昨日は楽しかったなぁ。異能力を存分に使えて、すげえご機嫌って感じ。レイジもそうだったろ? 使用禁止の異能力でのバトル。燃えたろ?」
 レイジは新士を無視して、園内の様子を観察した。静かだ。人の気配はしない。
 この遊園地には四つのエリアがある。アトラクション、飲食店街、物販通りにイベント区だ。中央にそびえ立つ白い建造物は、ヨーロッパの古城を元に建造されていた。
「安心して戦えるぜえ。人払いは済ませてるからな。ヌフフ」
 新士は中央広場で足を止めると、すぐさまレイジと距離を取り、片腕を払った。
 レイジは携帯音楽プレイヤーの再生ボタンを強く押した。
 力を求め、流れ出したサウンドに身を委ねる。
「今だから言うぜ。昨日のオレは、本気じゃなかった」
 水滴が肩を叩いた。雲ひとつないのに、雨が降ってきている。
「風を操るだけじゃないのか……お前がいれば、水不足も解消だな」
 雨足が強さを増してきた。照明が焚かれているとはいえ、視界は悪くなる一方だ。
「昨日の仮面は? 高みの見物でもしてるのか?」
「レイジィ! オレを無視することは不可能なんだぜ!」
「そうかよ!」
 レイジはポケットに手を忍ばせ、幾つかのビー玉を握りしめた。大量の持ち運びが可能なビー玉は、たとえ小さくても、レイジの異能力があれば強力な武器となるのだ。
 新士を倒すには、昨日のように不意打ちを用いるしかない。
 仮面の人物は、出会い頭に叩きのめす。操られる前に仕留めるしかない。
「そんじゃおっ始めるか! 先制攻撃はこのオレ、新士選手からだぁ!」
 新士が腰を捻り、まるで砲丸投げの選手のように叫んだ。
 彼の手には水晶玉のような物体が握られていた。それが、投げ放たれる。
 雨粒を物ともせず突進してきた物体を、レイジはかわす。
 ソレは宙空で水風船のように爆ぜると、四方八方に細かな衝撃を放った。
 幾つもの衝撃に押されて、レイジは前のめりになる。痛み出した背中をさすり、傷穴が無いことに安堵した。
「ヌフフ。まだまだぁ!」
 新士の手のひらに雨粒が引き寄せられ、水晶玉のような物体が作り出されていく。
 おそらく、水で形作られた武器。爆発して水を四方に撒き散らし、手榴弾のような役目を果たしているのだろう。
「また飛び道具か! 男ならコレで語ってみせろ! この卑怯者!」
 レイジは上着の袖をまくると、グッと握りしめた拳を震わせた。
「ヌハハ! こちとらそんな喧嘩には飽きあきしてるってんだよ!」
 形勢不利と判断したレイジは迷わず逃げ出す。後方で着水音に似た爆破音が響いた。それに続いて幾つもの痛みが背中を押す。転びそうになりつつ、中央広場を出た。
「今回はオレもマジだからなぁ! 追っかけるぞー!」
 わざわざ宣言するくらいなのだから、新士のやる気は相当高いのだろう。
 レイジは物販通りに駆け込んだ。その途端に雨がやんだ。
 店と店の隙間を抜けて別の通りに出ると、怒鳴り声が物販通りから響いてきた。
(猪突猛進タイプってやつか。それなら、俺は卑怯な手を使わせていただく!)
 小走りで進み、物販通りに戻る。新士はそこら中に水の手榴弾を投げては、こちらの名を怒鳴り散らしていた。「どこに隠れてやがる、出てこいレイジー!」
 レイジは息を殺す。これも異能力の賜物か、普段以上の集中力が視界を狭めてくれた。
 意識の焦点を、新士の下半身に定める。
 静かに、燃える感情をビー玉に乗せる。一直線に宙を駆けたビー玉が視界から消え、瞬後に新士が悲鳴を上げて倒れた。
 レイジはすかさず駆け出した。
 立ち上がった新士がこちらに振り返る。今度は間も置かずに強雨が降りだす。
「またバックアタックかよ!」
 新士が右手を振り、狂風を巻き起こした。だがレイジは怯まない。
「扇風機の分際で! 抵抗するんじゃない!」
「ざけんな! コレを忘れたとは言わせねえぜ!」
 新士の左手のひらに水の手榴弾が生まれた。しかし新士は悔しそうに顔を歪め、それを握りつぶす。既にレイジが、肉弾戦を交わせる距離まで詰めていたのだ。
 ビー玉が握り締められた拳で、レイジは新士の顔面を殴りつけた。敵の頬骨がレイジの痛覚を刺激する。 
 派手に吹き飛んだ新士は、血の唾を吐きながら復活し、拳を構えた。
「いいパンチしてんじゃねえか。オレの背中を汚すとはなぁ。ヌフフ」
「お前らのせいで、俺は同好会を辞めるはめになった。差し歯の覚悟はできているか!」
「ッハ! 差し歯だぁ?」
 新士は半笑いになると、前歯を引っこ抜いた。
「残念だったな。ゴミ親父にやられたせいで、もう既に差し歯なんだよ」
 知らぬうちに、新士の痛々しい過去に触れていたようだ。彼に敵愾心を燃やしていたレイジだったが、それとこれとは話は別だと思い、渋い顔を浮かべた。
「嫌なことを思い出させて、悪かった。知らなかったんだ」
「ヌハハ、気にすんな。今となっては笑い話だ」
 新士が差し歯を嵌めこみ、高笑いをあげた。
 こいつは狂っている、とレイジはあらためて痛感する。
「小学四年生ん時だったかな? ゴミ親父に殺されかけてなぁ。死にそうな痛みの中でオレは念じたね。殺してえ、消し去りてえ、って。そっから先はもう分かんだろ?」
「……鍵を受け取ったのか」
「そうさ。雨風を武器にしろ、とかオレの声で聴こえてたぜ」
「父親はどうした」
「手当たり次第に物をぶつけてやったぜ。包丁、机、椅子にタンス。家の中はもう滅茶苦茶、親父は全治半年。んで、研究所の人間がオレんところに来たんだ。あいつら、変な事件が起きたらレシピエントの仕業かどうか調査してんだよ」
 遠足の想い出を語る小学生。新士の表情は、まさにそれだった。
「てめえは? どうしてレシピエントになったんだ」
 レイジが口を開きかけた瞬間、どこからかノイズが響く。
[新士! 長話はそこまでにしろ]仮面の人物の声が聞こえた。
「るせえ! てめえの指図なんて受けてたまるかよ」
[アライアンスに未練が無いというのなら、好きにするがいい]
 レイジはあちこちに顔を向けて、監視カメラを探す。
「一体、お前らは何者だ!」
[教えるものかよ。鈴明レイジは、何も考えずに、自分とあの子の為に戦えばよい]
「この……! お前、絶対に泣かしてやる!」
 すると新士が、ヌハハ、と笑った。
「そろそろ再開といくか。拳と異能力のコンボ、とくと味わえや!」
 望む所だ。ちょうどイヤホンからは異常なまでにノリノリの音楽が流れていた。踊り始めたくなる気分を、レイジは戦闘意欲へと変換させる。
 新士の右拳が腹に突き刺さる。レイジは頭突きをかまし、腹部に当てられた手のひらを急いで剥いだ。と、スネが蹴っ飛ばされた。
[嘆かわしい! レシピエントらしく戦ってみせよ!]
「うるせえ!」と男二人の怒声が重なり合った。
 こちらと距離を取った新士が、右手を振り払った。
 狂風にレイジは自由を束の間、奪われてしまう。
 新士は血走った目でレイジの懐に潜り込んだ。
 腹に手のひらが当てられた直後、レイジは物販通りの正門まで吹き飛ばされてしまった。
「クソメッチャ楽しい! 過激な充実感! たまんねーっ!」
 新士は腰を深く落とし、ガゼルを狙う肉食獣のように駆け出した。
 背筋を這う痛みに耐えながらも、レイジは身構える。あと一撃、吹き飛ばされたら心が折れそうだ。次の一撃で決めるべく、拳を固く握りしめる。
 その瞬間であった。
 レイジと新士の両肩、両膝に恐ろしい程の重みが染み入った。
 二人はほぼ同時に、まるで複数人の男に突き飛ばされたように派手に転んだ。
 静寂が訪れる中、レイジは顔を上げる。数メートル先の新士と目が合った。
「新士の異能力……じゃないのか?」
「知るか! クソッタレ、んだよこれ……!」
 そこでレイジは不可解なものを目にする。
 新士の眉間で赤い点がチラついていた。映画で目にする狙撃銃のレーザーポインターに見えなくもない。
[この愚か者たちめ。転んでしまうとは、なさけ]と、仮面の人物の声が唐突に途切れた。
 新士の後方から、ぞろぞろと人の気配がした。
 その者たちの輪郭が徐々に浮かんでくる。突入部隊のような背格好の者たちを、白衣の女が引き連れていた。
「さて、子供たちよ。悪いがこの場は異能力研究所に預からせてもらうぞ」 
 小折が、間延びした声でそう言ってきた。

 ガスマスクを被り、黒一色の制服を纏う者たちは、これまた黒塗りのマシンガンを手にしていた。彼らに包囲されたレイジは、条件反射的に手を後頭部で組む。 
 小折はタバコを咥えると、ジッポライターを鳴らした。
「抵抗は遠慮していただこう。我々は発砲許可を日本政府から得ている。その若さで銃殺されると親が悲しむぞー」
「こっちは親と決別してんだよ……関係ねえ!」
 地獄の亡者の声が響いた。見ると新士が震えながら立ち上がっていた。
「網風くん、逆らうなよ。おとなしく寝てろ」
「ノーマルはすっこんでろ。レシピエントの死闘に、首を突っ込むな!」
 新士が狂風を巻き起こす。小折は片手を挙げ、新士を狙う幾つもの銃口を下げさせた。
「網風新士に問う。なぜ、そこまで戦いたがる」
「勝つためだよ。知ってっか? 勝利は人生に潤いをもたらすんだぜ」
 新士がヌフフと薄気味悪く笑った。
「それによう、こーんなスペシャルな異能力を持ってんだ。使わなきゃ損ってもんだぜ」
 新士がまた片手を振り払う。レイジは雨を予感した。
「蛇目女にも見せてやる。オレのスペシャル武器をな! 名づけて水風船爆弾だ!」
 が、雨は降ってこない。さらに、狂風もやんでいた。
「あ、あれ? おかしいな」と新士は手を何度も振った。
「きみの異能力は、嫌いだ。風は髪の毛を乱すし、雨は白衣を濡らしてしまう。だから、封印させてもらったよ」
 封印、と小折は言っていた。
 レイジは彼女を凝視した後、呟く。
「小折さんも、レシピエントなんですか?」
「そうだぞ。しかも、普通のレシピエントではない」
「ふ、普通じゃないって、どういうことだよ!」
 と叫んだ新士が、急に両膝を地面につけて、震えた。
「んだこれ……さっきよりも、お、重てえ。体中が鉛になったみてえだ」
「私は二つの異能力を扱える。詳細までは教えてやらん。まあ、適当に想像してくれ」
「どんだけ卑怯者なんだよ、てめえ……! 泣かす!」
「……網風くんは、好戦的すぎるな」と呟いた小折が、片手を挙げた。
 レイジの視界に、太い紐のようなものが飛び込んできた。その根元は店屋の屋根で止まっている。誰かがそこに立っているが、その顔や格好までは視認できない。
 その紐のような物体は宙をはしり、そして新士の全身をがんじがらめにしていく。
「異能力研究所のレシピエントが私だけだと思うなよ。君たちは気付いていなかったが、私を除く四人のレシピエントが君たちを補足しているのだ。さて、網風くん。これでも抵抗するか?」
「ヌ、ヌフフ」新士が不敵な笑みを漏らした。「逆に燃えてきたぜ」
 小折が三白眼をくわっとひらいた。
 新士がうめき声を上げながら前のめりに倒れて、微動だにしなくなった。
「まったく……狙撃班を撤収させろ。それと鈴明くんを拘束、迅速にな」
 レイジは黒尽くめの者たちに漆黒の手錠をかけられ、うなだれた。その時には小折の異能力らしき力も消えていて、普通に歩けるようになっていた。
(俺、一六歳なのに手錠を体験しちゃった……一つも悪いことしてないのに)
 小折は携帯灰皿にタバコの灰を落とすと、レイジに微笑を向けた。
「これも規則でな。我慢してくれ」
「どういうことなんですか。説明してください」
「ん……ちょうどいい。黒幕のお出ましだ」
 小折の視線を追うと、レイジは目を丸くした。ガスマスクを被る者たちが仮面の人物を引きずってきている。仮面に巻かれる目隠しのせいで、かなり滑稽な光景となっている。
「そいつは目を合わせた人物の意識を操るから、そのつもりで扱うんだぞ」
「分かってますって。よいしょっと」小折の部下たちが仮面の人物を地べたに座らせる。
 白マントが剥がされた。布の内側には肩パッドがつけられていて、中身は思っていたよりも小柄だ。その者は、靴底の厚いブーツを履いていた。
 レイジは、まさか、と目を見開く。
「そいつの視界に入っている者は、眼を閉じていろ。鈴明くんもだぞ」
 レイジは目を閉じる。数秒後、「目隠しを付け直しました」と女の声がした。
 ゆっくりと視界をひらくと、見事なアホ毛が目に止まった。
 小折は携帯灰皿でタバコを消し、新しいタバコを咥える。
「来崎美涼。貴様に黙秘権は与えられていない。レシピエントを罰するのは我々、異能力研究所だからな。せいぜいご機嫌取りをするがいい」
 美涼は小振りな唇を突っぱねた。
「わたくしは、新士さんに脅されたから、仕方なくやっていただけです」
 不機嫌そうに目を細めた小折が、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
 そしてICレコーダーを出して、再生ボタンを押す。
[新士さん、明日はわたくしの命令にちゃんと従ってくださいねえ]
 と、スピーカーから美涼の声が漏れた。
[うるせえんだよチビ。オレは好きに戦わせてもらうぜ]今度は新士の声だ。
[このクソッタレ! チンカス! 犬畜生! 従え!]
[……わかったから、その口調はやめろ。女に罵られるこっちの身にもなれ]
[フン! 分かればいいんですよ……。わたくしも貴方には感謝しているんですよ? アライアンスの皆の為になる計画に、参加してくれてるんですもの]
[アライアンスって、『レシピエント同盟』のことでいいんだよな?]
[もちろん。あの場でレシピエント同盟を口にしていたら、どうなると思います? レイジさんはきっとレシピエント同盟を検索していたでしょうねえ]
[ふうん……ふわぁ……電話切ってもいいか? 眠たくなってきちゃったぜ]
[明日の夜一○ 時に遊園地で待ち合わせですよ。お忘れなく]
 小折がICレコーダーをポケットに戻した。
「八馬市の市長であり、異能力研究所の副所長。そんな人物の娘がクソッタレ、チンカス、犬畜生、と口にするとはな。呆れてものも言えん」
「……ちくしょう」美涼が荒々しい一面をさらけ出した。「ランクCには監視がねえとばかり思っていたが、てめえら、盗聴してやがったのか」
「誤解しないように。こちらが設定したワードがヒットした場合にのみ、通話記録を保存しているだけだ。今回は、レシピエントがヒットしたというわけだ」
「てめえらのメインサーバーに、そんな情報は無かった」
「見つけられなかっただけだろう。異能力者名簿を抜き出しただけでも上等だがな」
「あのー」と、レイジは会話に割って入った。「レシピエント同盟って?」
「SNSサイトのコミュニティ名で、創設者はそこのちっこいのだ。我々も、二年前の創設当初から監視していたのだが……まさか、こんな大胆な行動に移るとはな」
 小折はくいと顎をしゃくった。
 彼女の部下たちが美涼を立たせる。丁重な扱いに見えるのは、気のせいだろうか。
「これから先はじっくりと、異能力研究所で伺うとしよう。全員、撤収準備!」
 小折の命令が周囲に響き渡った。
 数々の疑問を残したまま、レイジはワゴン車に乗り込んで、夜の遊園地を後にした。

   3

 異能力研究所の応接室で、レイジは居心地の悪さを感じていた。双子らしき見た目の女二人に監視されているのだ。物言わぬ彼女らの視線は、槍のように痛い。
「待たせたな。二人とも、ご苦労様」
 と小折が入ってくると、その二人はぺこりと頭を下げて退室していった。
 レイジの対面に座った小折が、真っ先にレイジの足を心配する。ワゴン車の中で異能力の代償を支払っていたレイジは、まだ痛みが残っているが、「平気です」と答えた。
「さて、事情聴取で全容も掴めたことだし……来崎美涼と網風新士の企みを教えよう。君は、完全に踊らされていたんだ」
 頷きながら、レイジは小折の缶コーヒーをすっと手に取る。
「話途中で咳き込まれたらたまりません。ご容赦ください」
 細目でレイジの手元を見つめながら、小折はタバコに火をつけた。
「網風新士は異能力で戦ってみたかった。その欲求を、来崎美涼は利用していたんだ」
「首謀者は生徒会長ってことですね」
「そうだ。来崎ちゃんは、二人の決闘を動画にすべて保存していた。我々が感知できなかったイベント会場での戦闘と、遊園地の戦闘。遊園地では監視カメラから映像データを抜き出し、集音マイクで二人の音声を拾っていた」
「ミニ映画でも作るつもりだったんですか?」
「だいたい当たっているな。来崎ちゃんはその決闘風景を、レシピエント同盟のメンバーたちに公開しようとしていた」
「よく分かりませんね。映画ならプロの作品があるのに」
「娯楽目的ではない。異能力を使っても構わない、ということを皆に伝えたかったのだ」
 レイジは眉をひそめた。美涼の意図がいまいち掴めない。
「これを見てみろ」と、小折が携帯電話を渡してきた。「レシピエント同盟の掲示板だ」
 携帯電話の液晶画面に目を落とす。
【今日もイジメられました。鞄と教科書をゴミ箱に捨てられて、教師にチクったらぶっコロすって言われた。異能力で仕返しをしたい。みなさん、どう思いますか』
【皆からシカトされてる。シカトの原因は、異能力を使って溺れた子犬を助けたのを、同じクラスの人に見られたから。凄い気味悪がられて、変な噂を流されちゃって。もうヤダ。異能力なんていらない】
【夜中のことです。ヤンキーに絡まれました。咄嗟に逃げたのですが、罵詈雑言を浴びせられて、ふと思いつきました。異能力を使えばあいつらなんて屁でもない。でも監視されていることを思い出して、使用を諦めました……】
【うちがどうしようと勝手じゃん! 異能力研究所とかマジ何様だよ!】
 現実的な悩みと非現実的な葛藤が、掲示板に書き込まれていた。
 レイジは、美涼の意図が掴めた気がした。
「レシピエントにはストレスを抱えている者が多い。異能力を扱えるのに、我々に使用を禁じられているからだ。来崎ちゃんはな、そんな同世代が集まるコミュニティのリーダーだ。何とかして皆を元気づけようと思い、計画を練り始めた」
 小折がタバコの煙で輪っかを作った。
「普段はいつも通りに暮らし、困った時には、異能力を役立てよう。異能力を使うのは悪いことではない。決闘ショーに映る黒髪の少年のように、悪に立ち向かう場合、もしくは人助けに使うのであれば、許されるはず。もちろん悪用は厳禁だ」
「それが、生徒会長の……」レイジは携帯電話をそっとテーブルに置いた。「皆への、贈りモノなんですね」
「贈り物というか、メッセージだな。最後は網風くんが負ける台本だったらしい」
「言ってくれればよかったのに……」
「基本、使用禁止の異能力で決闘をしろだなんて普通は言えないよ。網風くんはあんな性格だから話は別だったんだろう」
 レイジは納得した。頼まれたとしても、自分は非協力的な態度を見せていただろう。
 小折は深いため息を吐いて、苦笑いを浮かべる。
「……先ほど、来崎ちゃんに言われたよ。虐げられているレシピエントは相当なストレスを抱えている。抗える力……異能力を使えないという現実は、苦痛以外の何物でもない。なのに、研究所は異能力者へのメンタルケアを疎かにしている、とな」
「みんな、真面目なんですね。俺なんて、すぐ使っちゃってる……」
「鈴明くんの異能力は身体強化だからな、使いやすいだけだよ。一見して異能力だと分かるものだったら、世間の目を気にするから、使用するには相当な勇気が必要になる」
「小折さん。皆へのメンタルケアは、徹底されるんですか?」
「異能力の使用厳禁の方針は変えないが、命の危険や人助けの場合にのみ、特例として認める……そう、来崎ちゃんと約束してきたよ。私の一存で決めてしまったから、明日から大変だ。所長を説得しなきゃ……考えただけでため息が出てしまう」
 レイジは缶コーヒーを小折に差し出した。「頑張ってください」
「それともう一つ。遊園地の戦闘を知っておきながら、我々が遅れて登場したことについて。戦闘データの収集と、レシピエント制圧部隊の訓練の為だ。悪く思わないでくれ」
「……殺し合いに発展してたら、どうするつもりだったんです?」
「君たちのような少年らに、人殺しは無理だ。私の目に狂いは……ん!」
 また小折がむせた。レイジは彼女の背中を優しくさすってやる。こうしていると二六歳の姉を思い出す。多分、小折もそれくらいなのだろう。
「ふうー……で、三人のレシピエントランクについて。三人とも、変動させてもらう」
 レイジは緊張した。派手にやっちまったので、一段階上のBも考えられる。
「あの二人は問答無用でランクBだ。鈴明くんは、Cプラス。つまりもう一度問題を起こせば、ランクBだ」
 思わずため息が漏れた。
 それを別の意味に捉えたのか、小折は顔を伏せ、指遊びをはじめる。
「鈴明くん本人に非がないのは重々承知している。が……君は、トラブルに遭遇したり巻き込まれやすいタイプだ。しかも、それを自分一人で解決しようとする傾向にある。だから、Cプラスにした。そうすればレシピエント絡みの問題が起きた時、すぐ我々に報告してくれるだろう?」
「脅されたから報告しなかっただけです。ボーリング場でも電話する暇がなかったから、戦ったんですよ」
「まあ、その、なんだ……我々を頼ってくれ。君はまだ高校生だ。子供なんだから、大人たちに甘えてもいいんだよ」
「じゃあ、今すぐ相談に乗ってください」
 すると小折がゴマすり社員のように手を揉む。「メンタルケアならお任せあれ」
「ある人に、俺がレシピエントだってことを教えたいんです。許可をください」
 小折の笑顔が凍りついた。
「……誰に?」
「贈りモノ同好会の部長です。今回の事件で、その人との関係を悪くしちゃって。修復したいんです。新士と生徒会長のことは伏せますから、許可をください」
 小折は癖の強い髪の毛を撫で、ため息をついた。
「家族以外への暴露は禁じられているけど……これはメンタルケアだ。柔軟に対応せねば。それに今後、似たような相談が増える可能性は大いにある……私の判断が、他支部の模範になるかもしれない……いや、そうとも限らない……」
 レイジは小折を見つめ続ける。
 タバコの火が、フィルターを焦がした。

 連休も明けて、八馬高校が暫しの眠りから目覚めた。生徒たちの表情はどこか憂いを帯びている。多くの生徒が休日に後ろ髪を引かれているようだ。
 休み時間、隣クラスに顔を出したレイジは新士の欠席を知った。
(研究所が関係してるのかな……)
 遊園地で、小折は、レイジと新士にこう言っていた。発砲許可を政府から頂いている、と。研究所は、事と次第によってはレシピエントを抹殺することが可能なのだ。
 そんな機関があの新士や美涼に罰を与えないとは、到底思えない。レイジが翌日に日常に戻れたのも、よくよく考えれば奇跡的である。小折の根回しでもあったのだろうか。
 レイジは考えを切り替えた。新士と美涼は置いといて、今は桃奈だ。
 小折は、異能力の暴露を許可してくれた。同時に、レシピエントランクをBに引き上げるとも言っていた。ランクBには、GPS装置の携帯義務が課せられる。
 それでも構わないのであれば、認めるという。
 レイジは、また異能力絡みのトラブルに巻き込まれたことを考え、二の足を踏んでしまう。ランクBになった後、新しい面倒事を解決する為に異能力を使ったら、ランクAに上がりかねないのだ。
『ランクAの監視は半端じゃないぞ。一挙一動を記録されると思ってもいい』
 そこまで教えてくれた小折は、桃奈への暴露を断念させているようだった。
 もしくは、それ相応の覚悟で望めよ、と言いたかったのかもしれない。
 レイジは悶々としながら午前の授業を消化していく。
 そして、午前授業終了のチャイムが鳴った。
(今のままじゃ結論を先延ばしにしそうだ……ええい! その場の勢いに任せよう!)
 それから部室に向かって、携帯電話のメールで桃奈に来るように頼んだ。
 数分後、部室に入ってきた桃奈は、ぎこちない笑みを浮かべていた。
 無理やり作られた表情は、直視しがたいものだ。
 だがレイジは、桃奈を見つめた。桃奈の仮面は、嫌な空気のままで別れたくないという決意表明にみえていた。心の痛みが垣間見られる仮面を、剥がしてやらねば。
 レイジは腹を括った。ランクBになろうとも構わない。
 肌に馴染んだ部室の空気と、桃奈が、決意を促してくれていた。
「退部届けは用意してる? 一応、あたしのほうでも持ってきたんだけど……」
「桃奈部長」
「なに?」
「今から俺の秘密を教えます」
「う、うん」桃奈が背筋を伸ばした。
 レイジは、幼き頃の骨折から現在までのことを事細かく語った。
「……イベント会場で、俺はレシピエント絡みの面倒事に巻き込まれてしまって。それを桃奈部長に教えるわけにはいかなかったんです。だから、ウソをつきました」
 桃奈に、レイジは深く頭を下げる。
「気を悪くさせてしまい、すいませんでした。俺を副部長でいさせてください」
 顔を上げると、桃奈は目を虚ろにしていた。
「……異能力だなんて、そんな……」
「そうですよね。異能力が本当にあるなんて言われても、すぐには……」
「そ、そうじゃないの!」
 即座に否定した桃奈が、名探偵にお決まりのポーズを取った。眉間に指を当てて、唸る。
「……多分、あたしもレシピエントなの」
 世界が凍りついた気がした。空白と化した脳内に多くの疑問符が並んでいく。
 レイジは桃奈を凝視した。
 無言のメッセージを受け取ったのだろう。桃奈は一呼吸置いてから語り出す。
「中二の時にね。あたしの幼なじみが車に轢かれたの」
 悲しみに打ちひしがれるように、彼女の声は震えていた。
「事故の前にね、あたし、その子の頼み事を断っていたの。贈り物くらい自分で手渡せって……あの時、あたしが受け取っていたら、事故は起きなかったはずなの。事故を知った時、あたし、本当にショックだった。死にたくなるくらいに、苦しかった」
 その時の精神的苦痛で、異能力覚醒の準備段階に入っていたのだろうか。レイジは、自分はまだマシなほうだと痛感した。外傷よりも、心の傷のほうが遥かに痛い。
「大怪我だったけど、あの子は手術で一命を取り留めた。でも……意識が戻らなくて。医者も、こればっかりは奇跡を望むしかないって言ってて……」
 桃奈は心の痛みを吐き出すように、胸を押さえた。
「何とかしたい。代わってあげたい。でも、そんなの無理に決まってる……あたしは、恨んだ。何も出来ない、無力な自分を……」
「その後に、鍵を受け取ったんですか?」
 桃奈は静かに頷いた。
「あたし自身の声が聞こえた。『想いを贈れ』……あたしはその力を、神様からの贈物《ギフト》なんだって思って、あの子の手を握った。そして、念じたの」
 レイジの手を、桃奈のぬくもりが覆う。
 レイジの胸が、不意に暖かくなった。
「こんなふうに、あたしはあの子に想いを伝えた。色んな気持ちを贈ったの。あの子の目がゆっくりと開いた時、あたし、死んでもいいって思った……。今のあたしが貴方にどんな気持ちを贈っているか、当ててみて」
 レイジは瞑目し、意識を胸の内に向けた。この感覚は――。
「……感謝の気持ち、ですか?」
「うん。レイジへの……これが、あたしからのギフトよ」
 桃奈のぬくもりが手の甲から離れていく。
 穏やかだったはずの顔は、苦しみの色で染まっていた。異能力の代償を払わされているのだろうか。そうだとしたら、彼女は事故直後のショックを再体験していることになる。
 レイジは桃奈の手を強く握った。
 肩を震わせた桃奈が、レイジを見つめる。
「もう一度、言います。俺を、副部長のままでいさせてください」
 彼女の想いを受け取った今、もう迷いはない。
 桃奈と共に贈りモノを届け続けよう。たとえ彼女と衝突することになっても、体の芯に根付いた決意が揺らぐことは、起こり得ないはずなのだから。 
 桃奈は目を細めて、レイジの手を握り返した。
「……うん。これからも、よろしくね」



 三章 ランクS『Ponytail Shotgun』

   1

 一学期の期末テストも終わり、いよいよ夏休みが迫ってきた。そんなある日の放課後だ。
「贈りモノを受け取ってください。お願いします」
 レイジは校舎裏で三年生の女子に頭を下げた。
 今日の夕陽は殺意を抱くほどにギラついている。全力の夕陽に汗を流しつつ、先輩に頭を垂れている自分……ちょっとだけ、切ない気もする。
「プレゼント同好会だかギフト同好会だか知らないけど」
 まつ毛が大人っぽい先輩は、慣れた手つきで扇子を振った。七月に入ってからというもの、八馬高校の女性陣の間では扇子が流行していた。
「受取拒否させていただくわ」
「じゃあ、こうしましょう」
 レイジは贈りモノの手紙を鞄から出す。レイジが手紙を届けるのは今回で八回目だ。桃奈が『書状同好会』への改名を検討しかけたくらいに、贈りモノは手紙ばかりだった。
「俺が読み上げますから、聞いていてください」
「……へえ。贈り主の気持ちを考えたりはしないの?」
「読まずに突っ返されるよかマシです。『どんな手段を使ってでもいいから、気難しい彼女に渡してくれ』とも言われましたので」
 先輩は閉じた扇子で手のひらを叩いた。「よろしく頼むわ」
 レイジは手紙を開封した。贈り主は三年生の男子だ。
 パッと見で恋文だとわかる。またラブレターかよと呆れつつ、口を開く。
 贈りモノに込められた想いを、彼女に渡すために。
「直筆の手紙を書くのが初めてなので、ちょっと緊張してます。カッコ笑い」
「ストップ。カッコ笑いって、笑の字が丸括弧《まるかっこ》で閉じられてるってこと?」
「はい」
「悪いけど一行にまとめて」
 レイジは文面を斜め読みした。やはり恋文だった。
「長澤さんが、好きです。付き合ってください」
「お断りよ」先輩が扇子をばっとひらいた。「ラブレターにカッコ笑いを使っちゃう上に、自分で渡す度胸もない。そんな男、いらないもの」
「伝えておきましょうか」
「返事は自分でするわ」先輩がくすりと笑った。「贈りモノ同好会ってのは親切なのね」
「ご協力に感謝します。ありがとうございました」
「気にしないで。それよりあなた、名前は?」
「鈴明レイジです」
「演劇部に来ない? 好きです付き合ってください。って言った時の鈴明くん、なかなか良かったわよ。うっかりオッケーするところだったもの」
「興味がありませんので……演劇に目覚めたら、入らせていただきます」
 レイジは一礼をしてから、「残念無念」と苦笑した先輩を見送った。
 手紙は渡せなかったけれども、贈りモノに込められた想いを贈ることには成功した。好きだ、という贈り主の感情を、彼女に伝えられたのだから。
(よく考えたら、さっきのが俺の人生初の告白なのか。ちょっと複雑な気がするぞ)
 レイジは燃ゆる夕陽に目を細めた。部室に戻って依頼人に電話報告しなければ。ついでに、撃沈のお知らせも。
(みんな凄いよな。恐怖の塊に果敢に挑んでいくんだもん。俺には到底、真似できない)
 レイジの心は、色恋というモンスターに喰われない為に、鉄壁の甲冑を装備していた。
 レイジが六歳頃の話だ。
 目を真っ赤に腫らす当時一六歳の姉が、恋愛の恐ろしさをレイジに教えたことがあった。
 鬼、地獄、死神、呪い、外道、拷問、狂気、苦痛と絶望、闇に閉ざされた世界……。
 姉は穏やかではない言葉を駆使して、レイジが怖がっても、語るのをやめなかった。
 当時のレイジは、『恋』『愛』そのどちらかを目にしただけで恐怖に震えたものだ。
 今ではその二文字に怯えることもなくなったし、姉が大袈裟だったとも分かっている。
 しかし、恋愛事に対する恐怖感は、未だにレイジの心に根づいている。
(恋や愛は、時として狂気渦巻く世界への片道切符となる、か。誰の台詞だっけ……ああ、姉貴か。元気してるのかなぁ)
 久しぶりに実家近辺の素朴な風景を脳裏に浮かべる。そうしながら部室のドアをあけた。
 机にぐでーっと突っ伏す桃奈が、「おかえりぃ……」と力弱く言った。
 本来なら部長が行って然るべき贈りモノだったのだが、あまりの暑さに部長がダウンしたので、変則的な処置としてレイジが出張っていた。
「届けてきましたよ」
「あんがと……先方は、なんだって?」
 レイジは胸の前で腕をクロスさせる。左手首の腕時計と右手首のチタン製ブレスレットがぶつかり合い、金属音が鳴った。
「ありゃりゃ。お気の毒……今日は、暑いわぁ……」
 桃奈が扇子をぱたぱたと仰いだ。薄ピンクを基調とした扇子は、見ているだけで喉が渇いてくる。主に桃ジュースを飲みたくなるのだ。
 レイジは携帯電話で依頼人に発信をする。先輩の伝言をそのまま教えると、下手すれば彼が自殺しかねない。少し手を加え、穏やかなニュアンスに仕立てよう。そのような配慮も、贈りモノ同好会には必要なのだった。

 その日の夕食は焼きソバだ。四季を通じて楽しめる焼きソバは万能料理と言えよう。
 レイジは、焼きソバが大好きだった。味は濃厚なほどに好ましい。
「いただきます」
 茶色っぽい麺と具材に中濃ソースを浴びせて、かき混ぜる。そして一口、二口と噛み締めてから、勢いよく食う。それがレイジ流のスタイルだ。
 今夜の焼きソバはここ数年の中でも上位に入るほど、うまい。
 レイジは二杯目の焼きソバにマヨネーズをかけた。
 レイジの部屋で携帯ゲームに興じる新士が、呆れ気味に言った。
「おめえは本当に食いしん坊だな」
 五月頭と比べると、針山のような金髪頭は数センチ短くなっている。アロハシャツと半ズボンから伸びる四肢は意外と細く、そこだけを見れば虚弱体質に思えてくる。
「お前が小食すぎるだけだ」
「ああ? グダグダ言いやがって……よっし、決闘でどっちが正しいか決めようぜ」
 新士がヌフフと笑った。レイジはソース臭いため息を吐く。
(馬鹿は死ななきゃ治らない、か)
 五月初旬の大型連休が終わると同時に、新士は、生徒会長の美涼と共に山奥の寺で坐禅を組まされていた。そうして、異能力使用の罰を贖わされたのだ。しかし異能力研究所の狙いを裏切るかのように、新士は反省をしていない。
「ま、オレの焼きソバがうまいってのには同意見だけどな。ヌハハ」
 新士がテレビの電源をつけた。午後七時半の報道番組が画面に映る。
 レイジは焼きソバを平らげた。ティッシュで唇を拭って、ごろんと横になる。
「今日は帰んのか?」
「帰るのがかったりいから泊まるわ」
 新士は寺から帰還して以来、レイジの部屋に入り浸るようになっていた。レイジの住処が八馬高校行きのバス停に近いから、という理由で。
 見返りとして朝夕のメシを新士が作ってくれるので、レイジは特に何も言わない。実は感謝している。彼は食費の半分も出してくれているのだ。
 二度も決闘をした間柄なので遠慮も無必要だった。置き物のように扱える。
「あーあ。アイスでも食べたいなぁ……」
「オレも。ちょっと買ってこいよ。五分以内な」
「黙れよ……あーもー、暑い。おい新士、扇風機になってくれよ」
「嫌でーす」新士が携帯ゲーム機のボタンを連打しはじめた。「ボク、異能力研究所に叱られたくないんでえ。お断りしますです」
「本物の扇風機でも買おうかな。お前も半分払えよ」
「いらねえからパス。おめえと違ってオレは我慢強いんだ」
「はぁ……実家にはエアコンがあるのになぁ……」
「そういやよ。レイジはなんでこの街に引っ越してきた? オレは研究所に勧められて一人暮らしを始めたんだけどよ。おめえもそうなんか?」
「ん……同じ理由だ」
「研究所は何考えてんだろうなぁ。レシピエントでも集めてやがんのかぁ?」
「一箇所に集めれば色々と捗るだろうから、意外とそうなのかもよ」
 報道番組のキャスターが原稿用紙をめくった。レイジはうーんと伸びをして、あくびを浮かべる。まどろみの中でニュース原稿が読み上げられる。
 近頃、暴行事件が連続発生しているという。被害者の共通点は性別と世代だ。男で、一五歳から二○ 歳まで。怪我具合から鈍器を使った犯行ではないかと警察は見ている。
 レイジは犯人像を思い浮かべてみた。ギャング気取りの不良たちが真っ先に浮かんだ。集団で少数を囲み、暴行を働く。思わず舌打ちをした。
「おっかねえよなー。オレたちも気をつけようぜ」
「こういう事件でも、模倣犯って出てくるのかな」
「そうじゃなくてよ」新士はやれやれとでも言いたげに肩をすくめた。「事件が起こってるのはすぐ隣りの街なんだぜ? 犯行グループがこっちに来るかもよ」
 レイジは眉をひそめる。隣街の事件だったとは気付かなかった。
 と、携帯電話が震えた。
 レイジは期待しながら起き上がる。家族からの電話かもしれない。今日は、一六歳の誕生日だ。まだ誰にもおめでとうを貰っていなかった。
 桃奈からの着信だ。レイジはテレビの電源を消してから、通話ボタンを押す。
[もしもーし。家にいる?]
「はい。どうかしたんですか?」
[よかったぁ。今、アパートの前にいるの。すぐ行くからちょい待っててね]
 ブツ、と通話が切れた。
(来るの……? こっちは何の準備もできてないぞ)
 テーブルに放置されたままの食器類と床に直置きの漫画本、絡まり合う充電器のコード、部屋の隅に溜まる埃……女子に見せていいものではない。
「掃除手伝ってくれ」
「誰か来んのか?」
「桃奈部長だよ」
「桃奈先輩か」新士は携帯ゲーム機の電源を切った。そしてすっと立ち、金髪をぽりぽりとかく。「気が変わった。今日は帰るわ」
「いや、その前に手伝えって。すぐそこまで来てるんだよ」
「桃奈先輩に手伝ってもらえよ。じゃーな」
 新士がサンダルに足をつっかけ、アパートの通路に出ていった。チッと舌打ちをして、レイジは漫画本を本棚に突っ込んでいく。巻数の並びを気にしている余裕はない。
 ピンポンと呼び鈴が鳴った。
(……よく考えたら部屋に入れるわけじゃないよな。このままでいいや)
 レイジは玄関ドアをひらいた。通路に立つ桃奈がにんまりと笑う。飾り気のないシャツとジーンズが、彼女の健康さを際立たせていた。
「誕生日おめでとう。実はお誕生日プレゼントを持ってきたの。上がってもいい?」
 歓喜と後悔が心の堤防を破壊した。やはり片付けておくべきだった。
 レイジは「少々お待ちを」とドアを閉めようとする。
 桃奈は笑顔のまま、ドアに片足を突っ込んできた。
「ここで待ってたら、虫に刺されちゃいそうなのよね」
「……さっきまで新士がいたから、汚いですけど、それでもよろしければ」
「うんうん。お邪魔しまーす」
 部屋に入るなり、桃奈は紙袋と手提げ袋を床に置いて、興味深そうに目をあちこちにやった。
 レイジが食器皿を片付けようとすると、桃奈が、私がやると言い出した。
「シールが貼ってる紙袋にプレゼントが入ってるから。すぐ開けてね」
 桃奈がキッチンスペースで水仕事をはじめた。ご機嫌な鼻歌が聞こえてきている。レイジは紙袋の封をひらいて、中身を取り出す。
 誕生日プレゼントは、全体的に小さな黒色のヘッドホンだった。端子を携帯音楽プレイヤーに接続し、ヘッドホンを装着してから、再生ボタンを押す。安物のイヤホンとは比べ物にならないクリアな音が両耳を包み込んだ。
 レイジはヘッドホンを首元にぶら下げると、戻ってきた桃奈に頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に使いますね」
「贈った甲斐があったわ。実はもう一つ、あるのよね」
 桃奈は手提げ袋からケーキ箱を出し、テーブルに置く。中身はホールケーキだった。
 レイジは思わず生唾を飲む。こんなの、至れり尽くせりではないか。
 苺と真っ白なクリーム、その下の淡黄色のスポンジが切り分けられていく。
「遠慮せずに好きなだけ食べてね」
「い、いただきます」
 スポンジとクリームの口の中で融合し、喉の奥に流れていく。苺を口の中で一刀両断し、果肉に酔いしれる。甘いモノは別腹だ。これなら幾らでも食べられそうだ。
「すごいおいしいです。どこのケーキ屋さんで買ったんですか?」
「最高の褒め言葉、どうもありがとう」桃奈は満足感たっぷりの笑みを口に添えた。「手作りでございますことよ」
「全然、分かりませんでした。んむんむ……」
「ねえレイジ。ひとつ提案があるんだけど」
「んむ……はい、なんでしょう」
 桃奈が今にも小躍りを始めそうなニヤケ顔を浮かべる。
「そろそろ、桃奈部長って呼び方を改めてほしいなー。桃奈先輩とか、桃奈さんとかに」
「じゃあ桃奈さんって呼びますね」
 レイジはパクっとケーキを頬張る。桃奈はより一層、笑みを強くしていた。
 これって桃奈さんひとりで作ったんですか? と、レイジが口にしようとした途端、携帯電話が震えた。見ると姉からのメールだ。一○ 分後にこの部屋に来るという。
「いきなりすぎるだろ……」とレイジはため息をついた。
「どうかしたの?」
「姉がここに来るらしいんです」
「え、そうなの? どうしよう……ねえ。ご挨拶、しても平気かな?」
「構いませんよ」
 すると桃奈が「鏡、借りるね」と洗面所にそそくさと消えていった。緊張感漂う背中に見えたのは、気のせいだろうか。
 一分ほどで戻ってきた桃奈は、強張った表情で座布団の上に座りなおす。
「リラックスして待っててください。取って食われるわけじゃないんですから」
「う、うん……大学生と話す機会なんてあまりないから、緊張しちゃったね」
 桃奈が安心した様子で微笑んだ。
 レイジが、姉が大学生だと言ったことは一度もない。
「でも楽しみー。キャンパスライフのお話とか伺っちゃおうかな」
「あの、桃奈ぶちょ……じゃなくて、桃奈さん」
「なにかな?」
「うちの姉は二六歳ですよ。大学生じゃありません」
 活きいきとしていた桃奈の笑顔が、途端に凍りついた。
「年齢は言ってなかったでしたっけ」
「……歳が離れてるって聞いてたから、大学生かと思ってたけど……二六歳なんて……何を話していいやら、見当もつかない……!」
「……桃奈さん?」
 突然、彼女は腕時計を見て、「あ、いっけなーい」とやけに明るく言った。そして手提げ袋を肩に引っさげて、立ち上がる。
「ちょい用事思い出したから帰るね。お姉さんによろしく伝えといてね。そのケーキも是非とも食べてもらってね。それじゃ、バイバーイ」
 素早く去っていった桃奈に面食らいながらも、レイジはケーキを口に運ぶ。
(今のうちに食べておこう。そうでもしないと……)
 数分後、ピンポンが連続で鳴った。来た。レイジはため息を吐きつつドアを開けて、姉を部屋に招く。約四ヶ月ぶりに再会した姉は、どこも変わっていなかった。
「何しに来たんだよ」
「仕事ついでに弟の様子を見にきたのよ。はいこれ、プレゼント」
 テーブルに雑に置かれた小箱の包装紙を、レイジは雑にひっぺがす。箱の中身は銀色のブレスレットだった。
(デザインが少し似てるな)
 右手首に目をやる。そこに巻かれる異能力研究所特製のブレスレットは、GPS装置付きだ。ランクBのレシピエントはそれを四六時中、着用することになっていた。
「ありがと。大事にするよ」
「うん。ついでだから今夜はここに泊まるわ。ツマミ買ってきて。あと駐車場の車から酒持ってきて。このケーキ全部食べてもいいわよね」
「……相変わらずだな」
 車の鍵を渡されたレイジは、やれやれと苦笑した。仕方がない、プレゼントのお礼代わりにパシリになってやろう。
 レイジは財布を持って外に出た。ヘッドホンを通じて意識に届けられるヘビィロックと、銀色のブレスレットが、心を暖めてくれていた。

 
 終業式も終わり、高校生にはお待ちかねの夏休みが到来した。
 浮かれ気分の同級生たちと同じく、レイジも超大型連休に気持ちを高めていた。
「新士はバイトするのか?」
 買い物の帰り道、レイジは新士にそう訊いた。夜の街を進む二人の意識は、レジ袋の中のアイスに注がれていると言ってもよい。
「七月終わりまでバイトしまくって、八月はゲーム尽くしだ! 夏休みといえばゲームだかんな。朝に寝て夕方に起きてゲーム……ヌフフ、夢のような生活だぜ」
「そのうち現実とゲーム世界の区別がつかなくなるぞ」
 試しとばかりに、レイジは馬鹿げたことを口にしてみた。
 自称ゲーマーは足を止めると、顔を青ざめさせた。
「マ、マジか。ゲームのやりすぎで、二次と三次の区別がつかなくなんのかよ……」
「ウソだよ。そんなはずないだろ?」とレイジは苦笑交じりに言った。
「驚かすんじゃねえ。しっかし……ここら辺は静かだなぁ」
 二人は沈黙して、細路地に漂う吐息を耳にする。
 どこからかセミの鳴き声がしている。物音や生活音は聞こえない。一方通行路に点々と並ぶ街灯が、音を立てて瞬いた。
 コンクリート塀の奥は墓地のようで、墓石の頭が等間隔で並んでいる。異能力者がいるのだから、幽霊が存在しても不思議ではない。
「贈りモノ同好会は夏休みもやんのか?」と、新士が訊いてきた。
「依頼がきたら活動するよ」
「平常運転ってわけかい。おめえも物好きだよな。おもしれえのか?」
「やり甲斐があるんだよ」
「ゲームと一緒なんだなぁ」
「まあ、そんな感じだな」
 と呟いたレイジは、視界の隅でうごめいた物体に悲鳴をあげてしまう。
 コンクリート塀の上を黒猫が歩いていた。その尻尾、毛並み、夜闇に輝く目、猫耳。そのすべてが、レイジには恐怖そのものに映っていた。
「えっ、えっ、猫にビビってんの? 嘘だろおい。驚きなんだけどー!」
 新士は野良の黒猫を抱いて、レイジににじり寄る。黒猫が目を細めて鳴いた。
「や、やめろ。おい近づくな。異能力を使うぞ」
「おめえのアパートってペット可だったよな。こいつ、飼ってやろうぜ」
「ね、猫だけはダメなんだ。小二の時に野良猫の集団に追っかけられて、怖くなって逃げてたら転んで、骨折したんだよ」
「猫のおかげで異能力の覚醒段階に入ったってことか。泣ける話じゃねえか。なあ?」
 黒猫がにゃあんと鳴いた。ひい、とレイジは泣き笑いの顔になる。
 加虐の探求者にでもなったつもりか、新士が白い歯を覗かせる。
「猫ちゃんにありがとうございますって言えよ。感謝の念を見せ……」
 と、新士の表情が一変して固いものになった。
 黒猫が彼の手から抜け出し、路地の奥へと消えていく。
 異変を察知したレイジは、新士の視線を追うように振り向く。
 黒一色に染め上げられた仮面が、静かに佇んでいた。
 その者の首からスネ部分までを覆う漆黒のマントは、この闇夜にいたく溶け込んでいる。
 レイジは猫への恐怖心を忘れ去った。
 その人物の格好は、美涼の変装姿と遜色ないように見える。違うのは仮面とマントだけだ。
「そこをどけ」
 変声機を通したような音声が、仮面から発せられた。美涼のそれよりも音質が荒い、ノイズ混じりのものだ。
「おいてめえ、誰だ」
 新士がレイジの真横に立った。ご機嫌だったはずの顔は醜く歪んでいる。
 彼と黒マントのあいだに、色濃い敵意が漂いはじめる。
「生命を得ておきながらも、何一つ成し遂げようとせずに時を過ごす。貴様のような者は、死体だ。腐乱しても尚、息を吐く醜悪な肉塊だ」
「……しゅ、しゅうあく?」
 新士が戸惑いの色を見せた。静かな罵詈雑言を浴びせられ、怒りを通り越して混乱しているようだ。
「神は嘆いていた。ヒトの役目を放棄した悪しき生き物に、苦しみを覚えていた」
 音声の低音質と相まって、その者の独白は呪文めいたものに聞こえている。
「その者たちに壮絶な苦痛を与えよ、そうして、醜悪な生命をあるべき姿に昇華させよ。神は私にその義務を与えた」
 仮面の人物は片腕を振り払うと、革手袋を嵌める右手を新士に突きつけた。
「私は清掃動物《せいそうどうぶつ》となり、貴様に罰を与える。悔いろ、そして昇華せよ!」
 その瞬間、派手な音がレイジの鼓膜を殴りつけた。
 死の危険を感じたレイジは、本能的に身をかがめる。耳の裏側が鈍く痺れている。ドラムカンを角材で吹き飛ばしたような残響音が、今いる世界のすべてだった。
 恐るおそる聴覚を解放し、顔を上げる。
「悪行を悔い改めろ。さすれば魂の昇華が手を差し伸べてくれるだろう」
 仮面の人物はそう言い放つと、こちらに背を向けて歩き出した。
 歩を進めるたびに、茶色がかった短めのポニーテールが揺らめいている。
「ああ……ぐう……!」
 息が詰まりそうな呻き声に、レイジは振り向いた。
 新士がアスファルトに両膝をつき、苦しげに胸を押さえている。顔中に滲む脂汗と見開かれた両目が、壮絶な痛みを訴えていた。
「おい、新士。どうしたっていうんだよ!」
 新士がバナナをすり潰したような液体を吐き散らした。そして激しく咳き込み、吐瀉物を気にもせずに地面に手のひらをつけ、全身を支える。そしてまた、嘔吐した。
 レイジは顔を前に向け直した。その時にはすでに仮面の人物は消えていた。
(あいつの仕業に決まっている……)
 だからといって、追跡するという発想をレイジは持たない。新士を放置できないのだ。
 彼の背中をさすりながら、携帯電話をポケットから出す。
「少しの辛抱だからな」
 一一九番に発信をかけると、三回目のコールで相手が出た。
「友達が急におかしくなって。救急車をお願いします」
[今すぐ手配するから、そこで待っていろ。君たちの居場所はGPS装置で把握しているからな、通報はこちらに任せておけ]
 電話口から聞こえてきた小折の声に、レイジは驚きを隠せなかった。
 それからレイジは、電話先の小折に伝える。一向に収まらない新士の容態と、仮面を被ったポニーテールの人物のことを。
 救急車が到着したのは、通話開始から二○ 分後だった。
「もう大丈夫だぞ。すぐ病院に連れてってもらえるからな」
 吐くもの全てを吐いた新士は、涙で頬を濡らしていた。それは決して懺悔の涙などではない。苦悶の表情を彩るためだけに流された、何の変哲もない落涙だ。
 救急隊員に言われてレイジは車両内の座席に座り込んだ。ストレッチャーに横たわる新士に酸素マスクが当てられる。
「クソッタレ……ざけんな……何だってんだよ……!」
 新士の表情は、醜く歪んでいた。
 彼の手を握り続けていると、頭上のサイレン音が止まった。救急隊員が後部ドアを開けて、新士を乗せるストレッチャーを八馬病院玄関前に下ろす。
 病院玄関には、いつもの白衣を着る小折がひとり佇んでいた。
 救急隊員が新士を連れて病院の奥へと消えていった。
 それを見届けたレイジは、ふうとため息をつく。
「……なんで、小折さんが電話に出てきたんですか?」
「レシピエントの通報は、研究所に繋がるよう設定しているんだ。第一通報者としての面倒事を君たちに負わせないためだ。これもメンタルケアの一環だよ。我々は監視者でもあり、サポーターでもあるのだからな」
「そんなこと言って……異能力の秘密を守るためでしょ? 研究所が橋渡し役になれば、通報先への情報を制限できますものね」
「悪い言い方をすればそうなる。だが今回はそれが功を奏した。そう思わないか?」
「ええ。感謝してますよ」レイジはGPS装置付きのブレスレットを揺らす。「居場所を言う手間が省けましたからね」
「病院の院長には細かな事情を知らせている。レイジくんには悪いが、このまま研究所にご同行願おう」
「ですけど……」
「新士くんの容態は逐一、連絡させるように約束を取り付けているよ」
 レイジは頷き、玄関外に出る。
 小折の話だと、この病院には最新鋭の設備と腕利きの医者が揃っているという。安心とまではいかなくとも、多少は不安が和らいだ気がした。

 小折の車に乗ってレイジは異能力研究所のビルに向かった。
 駐車場で車から降りるなり、小折がタバコを咥える。
「相手は清掃動物と名乗っていた。間違いないな?」
「ええ。はっきりと耳にしました」
「……清掃動物《スカベンジャー》か。美しくない字面だ。レシピエントのあだ名にも相応しくない」
 小折は仮面の人物をレシピエントだと断定しているようだ。レイジも彼女に同意した。指一つ触れずに新士をあそこまで苦しめるなど、人間業ではない。
 小折がビルの正面入口を開けた。
 と、玄関ホールのエレベーターが開いて、その中からアホ毛の少女が出てきた。
 八馬高校生徒会長の美涼は、夏休みだというのに高校の夏服を着用していた。小六女児のコスプレ姿に見えなくもない。
 美涼はレイジの前に立つと、花畑に匹敵するような笑顔を浮かべた。
「こんなところで合うなんて奇遇ですねー。しかもレイジさんは小折さんとご一緒でいらっしゃる。デートですかぁ?」
「ちょっと忙しいんで、失礼します」
 と歩き出そうとすると、美涼に腕を掴まれた。冷たい笑顔から、レイジは顔を背ける。彼女の異能力は、目を合わせた人物を自由自在に操れるのだ。
「桃奈というものがありながら、そんな年増……おっと失礼。年上の美人さんとばかり遊んでいると、痛い目を見せちゃいますよぉ?」
「年増と聞こえたのは私の気のせいか?」
 小折が三白眼で美涼を睨みつける。美涼は半笑いのまま、後ずさった。
「う、うちのペットの名前がトシマなんですよ。それはもう美しい蛇でして……し、失礼しまーす!」
 美涼が颯爽と屋外に逃げていった。
 小折は不機嫌そうなままエレベーターに向かう。
 二つの異能力を持つ彼女は、異能力の覚醒段階に入る切っ掛けとなる苦痛や激痛を、二回も経験していた。それだけ過酷な出来事を体験していたということだ。
 そんな女に挑発的な態度を取った美涼は、愚か者としか言いようがない。
 レイジは『何があっても小折さんとは敵対しないぞ』と心に誓いを立てつつ、エレベーターに乗り込む。小折が5Fのボタンを押した。
 応接室に着いて、座り慣れたソファに腰掛ける。短時間のうちに凝縮された疲労が熱を持ち、急速に溶けていった。
 小折がタバコのフィルター部分でテーブルを叩いた。
「清掃動物だと分かりづらいから、『スカベンジャー』と呼ぼう。その者について、詳しく聞かせてくれ。些細なことから深いことまで。見た限りのことを、話すんだ」
「……あいつを野放しにはできませんものね。了解しました」
「協力に感謝する」
 小折が小型の録音機をテーブルに置き、起動させた。たった今から、室内の音声は記録される。
「服装は黒マントと仮面。変声機か何かで本来の声を隠していました。それと……髪型は、茶色いポニーテールです」
「性別は?」
「分かりません。体格は俺と同じでした」
「中肉中背か……スカベンジャーは、何か言っていたか?」
 レイジは記憶を遡り、たっぷりと間を置いてから口開く。
「新士のことを、死体だ、腐乱しているのに息を吐く醜悪な肉塊だと言っていました」
 小折の表情が強張った。「他には?」
 レイジは脳裏にこびりついていたスカベンジャーの独白を再生させる。独特な声は、強烈な印象となって記憶に居座り続けていた。
「ヒトの役目を放棄した生き物に、神は嘆いている、苦しみを覚えている……その者たちに苦痛を与えろ、そして醜悪な生命をあるべき姿に昇華させよ。神は、私にその義務を与えた」
 手のひらに食い込む爪が、痛みを生んでいる。体の芯は、熱を帯びていた。
「私は清掃動物となり、貴様に罰を与える。悔いろ、そして昇華せよ……そう言って、あいつは手のひらを新士に向けました。そのすぐ後に、派手な音が聞こえたんです」
「どんな音だった?」
 とにかくデカイ音だった、としか言いようがない。
 だがそれでは曖昧すぎる。例えとして最適な音といえば……ライオンの咆哮か? いや、似ても似つかない。しかし、いい線を突いている。あの音は、耳にした瞬間に心臓を震え上がらせるような、そんな形質のものだったのだ。
 心臓が反応するということは、命に直結する現象に遭遇したということである。
 あれは、耳にしただけで死の危険を感じさせる音だった。
 レイジの脳裏に、とある武器のかたちが浮かび上がる。
 それは、横長の散弾銃だ。
「銃声に似ていました。ズガアン、って感じの……本物を聞いたことはありませんが、ショットガンが一番、近いかもしれません」
「音が響いた直後に、新士くんは苦しみはじめたのか?」
「はい。その後、スカベンジャーは……『悪行を悔い改めれば、魂の昇華が手を差し伸べてくれる』と言って去っていきました」
 レイジは沸き上がってきた怒りに唇を噛む。
「一方的なことばかりして、説明もしないで消えたんですよ、あいつは……!」
 窓の外から、車の排気音が微かに聞こえた。
 タバコの煙を吐いた彼女は、苦いものを噛み潰したように顔をしかめた。
「新士くんの私生活に不審な点はあったか?」
「ありません。見た目は不良っぽいけど、あいつは基本無害な奴なんです。クラスの連中からも好かれていて……俺だって、あいつのこと、嫌いじゃないんです」
 ほぼ毎日のように朝夜の食事を共にし、他愛のないやり取りを続けてきたのだ。新士を友人ではないと言い切るのは、不可能だ。
 レイジは、あの場でスカベンジャーを捕まえなかった自分を、不甲斐ない奴だと感じた。
「ここ最近の新士くんは、私が初めて会った時よりも丸くなっていた。きみとの決闘で満足したのか。それとも……同じ異能力者と友達になれたことが、彼に変化をもたらしたのか……両方、だろうな」
「……はい。新士は、いい奴なんです」
 レイジはステンレス製の灰皿を見据える。
 二つに切り分けられた意識が、二人の人物にそれぞれの焦点を当てる。
 新士は無事だろうか。
 スカベンジャーは、何者なのだろうか。
(夏休み早々、こんなことになっちまった。俺と新士がレシピエントだからか? でも、俺は無傷だ……スカベンジャーは、俺を無視していた)
 小折が無言で立ち昇らせる紫煙が、天井を目前にして消えていく。タバコの香りが、ひどく心地良いものに感じられていた。
(神様に義務付けられただと? 神の命令なら、俺の友達を傷つけても構わないのかよ。新士は、泣きながら吐いていたんだぞ。胃の中をからっぽにして、それでも悲鳴を上げず、苦しみと戦っていたんだぞ)
 心の壁に何度もぶつかり、迷い続けていた感情が道しるべを見出した。
 確かな目標を得た力は、閃光となってレイジの全身を突き抜ける。
 その感覚には覚えがあった。仮面の人物に扮する美涼の策略に、桃奈を巻き込んでしまったと知った日の夜。その時も、体中を支配していたのは怒りの感情だった。
(俺をその気にさせる為に、美涼先輩はハッタリを言っていた。桃奈さんに危害が及ぶことはなかったんだ。でも、今回は新士がやられている。もう、取り返しはつかない)
 また、スカベンジャーが新士に異能力を使うかもしれない。あの者の狙いは不透明なままだ。楽観的な考えは、捨てなければならない。
「レイジくん。少し落ち着いてはどうだ? 怖い顔をしているぞ」
「……病院の新士に護衛を付けてください」
「すでに手配済みだ。我々は、いかなる時だろうと用心を欠かしたりはしない」
 レイジは安堵のため息を漏らす。これで残りの心配事は新士の容態ひとつに絞られた。
「……俺、帰ります。病院から新士のことで電話があったら、メールしてください」
 ドアノブを握ったレイジを、「待て」と小折の声が呼び止めた。
「スカベンジャーは異能力者に違いない。奴を捕らえるのは我々の仕事だ。間違っても、変な気は起こすなよ。これは注意や忠告ではなく、警告だと思ってくれて構わない」
 レイジは無言で退室した。がらんとした廊下を進んでいくうちに、数名の職員とすれ違う。彼らに会釈をし、エレベーターに乗り込んだ。
(研究所は俺の意志を封じ込めて、自分たちだけで解決しようとしている)
 一階で降りたレイジは、受付嬢の前を通過して外に出た。ビル街の道路を車のヘッドライトが照らしている。闇を忌み嫌うように、それが途切れることはない。
(俺は子供だけど、戦えるんだ。大人しく従うなんて、元々から無理なんだ)
 レイジはヘッドホンを装着し、携帯音楽プレイヤーを再生させた。
 ヴァイオリンとバンド音楽を融合させたロックが流れはじめる。
 力強い曲調と懸命に前に進もうとする歌声が、意識を揺さぶり続ける。
 ――神の犬が何者だろうと、構うものかよ。
 道路を行き交う排気音が、レイジの決意表明をかき消した。

   2
 
 肋骨にヒビが入っているため、新士は入院生活を余儀なくされたという。
 そのことを朝方にメールで知ったレイジは、ひとまず胸をなで下ろす。
(俺の手でスカベンジャーを捕まえる。けど、難しそうだな。敵のことは何も分かっちゃいないし……ヒントが足りなすぎるんだよ)
 日中にあのような者が街中に現れるとは考え難い。スカベンジャーと対峙するとしたら、夜の街だろう。
 日中は眠って体力を温存し、日が暮れたら街に繰り出す。それが最善策に思えた。
 が、今は夏だ。当然のように暑い。冷房機器の無い部屋で、徹夜明けでもないのに眠るのは不可能に等しい。
「どうしよ……そうだ、新士のお見舞いに行かなきゃ」
 鞄に新士の携帯ゲーム機やゲームソフト、下着類、ついでに歯磨きを突っ込んだ。
(てか、なんであいつの柄パンがあるんだよ。これじゃルームメイトじゃねえか)
 それほど新士はこの部屋に入り浸っていたのだ。レイジは、スカベンジャーへの怒りを再燃させる。必ず、この手で捕まえてやる。
 そこでインターホンが鳴った。
 レイジは覗き穴から廊下を見た。
 ニコニコ顔のレシピエントランクBが立っている。美涼である。夏物のワンピースでも今日の暑さは辛いらしく、ひたいに汗をにじませていた。
 ドアを開けると、少女の笑顔がにぱーっと輝いた。
「こんにちはー。今日も暑いですねえ。上がってもいいですか?」
「構いませんけど……なんの用ですか?」
 美涼はその小さな肉体を室内に滑らせると、座布団の上で正座をした。
「男子の部屋に入るのって初めてですー。緊張でどうにかなっちゃうかも」
「で、何しにきたんですか」
 レイジは美涼が嫌いじゃないが、好きでもない。
 彼女の企みにより新士と決闘をさせられ、結果的にランクBになってしまったのだ。だが、美涼の目的が、中高生のレシピエントに異能力の正当性を伝える、というものだったので手放しに冷たくもできない。
 レイジの中での美涼とは、自分と同じレシピエントのちっちゃい先輩で、敵味方でも無ければ、友人でもない。
「新士さんがどこにいるか知りません? 彼って毎日、レシピエント同盟に日記をアップしてるのに、昨夜は無投稿だったんです。しかも今朝電話しても繋がらなくって」
 スカベンジャーの件は他言無用だ、と小折から直接言われた訳ではないが、進んで教える気にもなれない。
 レイジは時間稼ぎの為に、部屋に面したキッチンスペースに向かう。飲み物を用意する間に、美涼を納得させられるウソを考えなくては。
「新士さんの日記は評判が良いんですよ。コメントに対するレスも痛快で……。みんな、新士さんを心配してます。何かあったんじゃないかって」
 美涼の声は真剣そのものだった。
 彼女は、中高生のレシピエントが多く在籍するコミュニティの長である。皆の相談や悩み事にも、親身になって接している。同世代の異能力者たちに、ある種の使命感を覚えているのだろう。
「新士さんの居場所。知ってたら教えてください」
 レイジは無言で冷蔵庫を覗く。冷たい風が頬を撫でた。
(どうすっかな。教えたら絶対に黙っちゃいないそうだぞ……)
 お茶のペットボトルを出すと、がさごそという音が背後からした。
「新士さんは病院にいらっしゃるんですかぁ。しかも入院してるんですねえ」
「な……あー! あんた、勝手に見やがって!」
 レイジは美涼から鞄を奪い返した。
 美涼が急にうつむいて、上目遣いでこちらを見てきた。
「ごめんなさいです……下着と携帯ゲーム機とゲームソフトと歯磨きが入ってるなんて、知らなかったんですぅ」
 レイジは何も言わず、壁をじーっと見つめていた。
「……教えてくれないと、ある事ない事を桃奈に吹き込みますよ。変な目で胸元を見つめられたとか、やけに接近してきたとか、わたくしの髪の毛を拾ってたとか」
「桃奈さんがそれを信じると思うのであれば、どうぞ。ご自由に、ご勝手に」
「フフ。人間ってのは、大して興味のない事柄には冷静に対処できますけれども、興味津々の物事に対しては、時として正常な判断力を失ってしまうもんですよ?」
「うん? 何が言いたいんです?」
「……それよりもですねえ」
 こほん、と話題を戻すように美涼が咳払いをした。
「昨夜、異能力研究所でお会いしましたよねー。夜に精密検査をするはずないですから、他の用事があったんでしょー? しかも、そんな日に限って新士さんが音信不通。さらにさらに、今日のレイジさんは病院に行こうとしてらっしゃる」
「病院のロビーで涼もうかなー、って思っただけです」
 と言ってからレイジはアッとなった。中途半端なウソに美涼がニヤリと笑う。
「その気になれば、入院中の患者なんて調べ上げられるんですよー。遅かれ早かれ発覚するのです! だからおい、さっさとゲロれよ。イラつかせんのも大概にしろや」
 見ると、野良犬を統率する猛犬のように美涼は歯を剥き出しにしていた。
 レイジはテーブルに頬杖をつく。
 美涼の異能力があれば、スカベンジャーも容易く捕まえられるだろう。ちっちゃい先輩でも、味方になれば心強いのだ。
「……教えますんで、その顔と口調をやめてください」
「えっ? なにを仰ってるのやら。見当がつきませんねー」
 美涼は偽りの笑顔で獣じみた表情を取り繕った。

 昨夜の一件の顛末を聴き終えるなり、美涼は渋い顔になった。
「異能力を悪用するなんて。許されざる行為ですね」
 レイジは言いかけた言葉をぐっと飲み込む。あんたが言っちゃおしまいだよ……。
 美涼が黙り込んだ。考え事をしているのだろうか。
 手持ち無沙汰のレイジは、冷凍庫から二本の棒アイスを取り出し、片方を来客の前にそっと置く。
 美涼がちょっと嬉しそうな顔で棒アイスの封を開ける。
「スカベンジャーの件に関して、レイジさんの考えをお聞かせ願います」
「この手で捕まえます」
「異能力研究所、厳密には小折さんの警告を受けていながら?」
「匿名希望で研究所に奴を明け渡します。バレなきゃ何の問題もないんですから」
 美涼はくすりと笑い、ソーダ味のアイスをかじった。
 そして、愉快な道化師でも見るような目で、レイジを見据える。
「わたくしも手を貸しましょう。スカベンジャーの狙いが何であれ、異能力の悪用はレシピエント達の地位低下に繋がりかねませんからね。スカベンジャーが人でも殺したら、研究所と国は、レシピエント達への態度を変えるでしょう。ランクS以外への監視体制も強化され、最悪、異能力とその思想の関係なしに全員が施設にぶち込まれるかも」
 レシピエント同盟の者たちと自分を護るために戦う、というのが美涼の想いだろう。
 レイジは素直に頭を下げた。
「助かります。けど、スカベンジャーが人を殺すってのは考え過ぎでは?」
 美涼がふかーいため息を吐いた。そんな問題も分からないの? お馬鹿さんねえ、とでも言いたげに。
「逆に訊きます。スカベンジャーが人を殺さないっていう根拠は?」
 ぐぬぬ、とレイジは言い返せない。
「楽観視は危険です。『息を吐く醜悪な肉塊、神、魂の昇華』だとか言っちゃう手合いは、イカレ野郎に決まってますからねえ」
 美涼が満足気に棒アイスの先端を舐める。
「もしくは……理性と狂気を兼ね備えた、もっとも厄介なタイプの人間かも……どうであれ、見過ごすわけにはいきませんよね?」
 美涼の口の端が僅かに釣り上がった。
 妖艶に微笑んでいるつもりだろうが、大人びた空気を演出できていなければ、色っぽくもない。固く笑う小学生そのものである。
「無論ですとも」
「では行動に移りましょう。まず新士さんのお見舞いに行って、異能力を受けた時のことを事細かく伺いましょう」
「合点です」
 物事の決定権は美涼に流れていったようだ。
 けれどもレイジは些細な問題だと思って、文句ひとつ言わずに美涼に従う。
 外の強烈な熱気に参りそうになりながらも、病院につま先を向ける。
 片側二車線の道路をタクシーが走っていった。
「いいですよね、タクシー。あれに乗ればすぐなのになぁ」
「そうでもないですよ」と、美涼が真顔で言った。「タクシーなんて退屈なだけ」
「よく乗るんですか?」
「小学校高学年の頃はタクシーで登下校をしてましたからねー」
 自慢、ではなく嫌な思い出を語るように美涼は言っていた。
「登下校の途中に襲われないように、って父に言われて、仕方なく。心配性の父を持つと何かと大変です」
 裕福な家庭に生まれた娘の、贅沢な悩み。
 そう思えば話は終わるのだが、レイジは彼女の小学生時代を想像し、ゾッとした。友達は徒歩なのに、自分は車での行き帰り。そこにあるのは優越感ではなく孤独だ。
「おかしな話ですよねえ。どんなに心配でも、行き帰りにタクシーを使わせるなんて。過保護にも程度ってものがあるのに」
「それだけ心配だったってことでしょ?」
「いいえ。父は、恐れていたんです。襲われた娘が、相手に異能力を使うのを……父は、娘のわたくしではなく、異能力しか見ていなかったんです」
 レイジは、何も言えなかった。美涼の父に加担しても、美涼の父を責め立てても、彼女の古傷をえぐってしまいそうだった。
 美涼は口を閉じ、その続きを語ろうとはしなかった。
(……異能力のせいで、この人も苦労してきたのか。だから、レシピエント同盟なんてコミュニティを作り、悩めるレシピエントの憩いの場にした……)
 彼女の過去を詮索する気はなかった。だから、レイジも静かに歩き続ける。
 八馬病院の看板が見えたところで、美涼が扇子を広げた。
「……わたくしに騙されたこと、気にしてます?」
「えっ。いえ、特には」
「じゃあなんでずっと黙ってるんですか。わたくしと一緒にいるのが嫌なんでしょ?」
 美涼が面倒くさいことを言い出した。
「流れってもんがあるでしょうが。俺なりに気を使ってたんですよ」
「貴方にも神経って通ってるんですかー。てっきり血管だけかと思ってました」
「……チビ」
「んだと! 奥歯引っこ抜くぞてめえ!」
 激しい剣幕で怒鳴った美涼だったが、人目を気にしたのか、途端にニコニコ女子を演じはじめる。
「仏の顔も三度まで、ですよー」
 あと一回は許されるらしい。使い所を考えながらも、レイジは病院のエントランスホールに入った。雑多な印象を受けるのは、診察待ちの人が多いからだろう。
 受け付けで見舞いの申請を出してから、入院棟に向かう。渡り廊下から入院棟に入ると、空気が変わった。一般病棟の玄関口とは違ってそこここから余裕が感じられる。
「新士には護衛がつけられてるはずなんですけど……」
「入院患者に混じってるのかもしれませんねえ」
「なるほど」と言ってから、レイジは新士が入院中の個室をノックする。
 ――ここから出しやがれー!
 と、新士の叫び声が室内からした。
 レイジは即座にドアを開ける。
 窓際に二人用のソファと一際小さな冷蔵庫が設置されている。冷房機からは、程良い冷風が吐き出されていた。
 ベッドの上の新士は、ロープのようなもので縛られていた。
「うおー! って、なんだ。レイジと美涼先輩かよ」
 美涼がすーっとドアを閉めた。そしてジトッとした目で患者服姿の新士を見下ろす。
「誰だと思ったんです?」
「オレの護衛とかいうクソ女どもだよ。オレが『平気だから!』って訴えても聞く耳持たねえんだ。見ろよこれ」
 白くて太い荒縄が、手首手足とベッドの四本足を繋いでいる。新士は大の字をその身で表現している状態だ。ギシギシとベッドが揺れても、紐状のものは緩まない。
 彼を病院から逃がさないための苦肉の策だろう。監禁とも言える。
「骨にヒビが入ってんだから大人しくしてろ。色々持ってきてやったから」
 レイジはテーブルに鞄を置いた。
「ざけんな。あのクソ野郎をぶっ飛ばさなきゃこの傷は癒えねえ。あの仮面を思い出しただけで、アバラちゃんがうずきやがるんだよ。痛いよ痛いよーってな」
「怪我人はじっとしてなきゃ駄目ですぅ」と、美涼が掠れた声で言った。
「てめえのきしょい演技見てっと寒気がすんだよ。消えろ、失せろ。ゴーアウェイ!」
 と、新士の腹をちいさな手がぽんと叩いた。その途端に新士は目を見開き、ぐうう、と唸る。どこが平気なんだよ、とレイジは軽く笑った。
「何しに来たんだよ。オレを笑いに来たのか?」
「昨夜のことをお伺いに参ったんですー。聞くところによると、新士さんは何度も吐いてたらしいじゃないですか。骨にヒビが入っただけなのに」
 新士の顔に、陰りが生じた。新士らしくないな、とレイジは彼を凝視する。
「今までぶん殴ってきた奴の泣き顔とか、悲鳴とかで、頭が一杯になってたんだよ。クソ親父を異能力で痛めつけた時のことも思い出して。なんつーか……すげえ、悪い気がしてたんだ」
「だからあんなに苦しそうだったのか」
「レイジよう……苦しいってもんじゃねえよ。地獄だよ、じごく。気が狂いそうだった、つーのかな。死んだほうがマシって感じだったぜ」
「錯乱状態に陥り、吐いたのですね。治ったのはいつですか?」
「病院に運ばれた後くらいかな。すーっと頭が冴えてきて、全身がポカポカしたと思ったら、楽になったぜ」
「異能力の効果がそこで切れたと考えてよさそうですね。それか、新士さんの腐り切った魂が『昇華』されたか。そのどちらかでしょう。今の気分は?」
 新士はフンと鼻で笑った。いつもの好戦的で向こう見ずな新士に戻ったらしい。
「真っ青な炎でオレの魂はもうメラメラだぜ?」
「つまり復讐する気満々、と……。相手を吹き飛ばして、尚且つ苦しみを一時的に与える異能力。命名するならば、『Pain and Pleasure』ですかねー」
 美涼は、『どう?』とでも言いたげに室内の少年二人を交互に見た。
 レイジは首の骨を鳴らす。新士はあくびを浮かべた。
「……わたくしの命名はスルーですか」
「苦痛と喜び、ねえ。意味不明です。ボツ」
「オレはちっとも喜んでねえぞ」
「苦痛から解放された直後の感情、それは喜びです。解放感によって人間は……」
「あっそふーんすごいねサイコーにクール。今すぐジュース買ってこい。炭酸な」
 美涼はまたもや新士の腹を軽く叩くと、彼の呻き声に笑顔を見せてから、退室した。
 レイジは鞄から下着やら携帯ゲーム機を部屋に置いてから、彼女を追いかけようとする。
「ま、待てい……その前に、このロープを何とかしろや」
「大人しく寝てろ」
「あー、そうくるかー。おめえの好きなタイプを周囲にバラすぞ?」
 レイジは冷房をオフにしてカーテンを全開にした。そして、電源を起動させた携帯ゲーム機を枕元に置く。さらに新士の金髪頭に柄パンを被せる。
「お、おい! 待て! パンツは反則だろうが! オレを放置していくなーっ!」
 四本の紐に自由を奪われている新士の声を無視して、部屋を出た。
 美涼の隣に並んで入院病棟の出口へと向かう。
「次はどうします?」
「スカベンジャーの正体を調査。これに決定ですねー」
 外に出たところでレイジは携帯電話をオンにした。
 メール受信中の画面が表示される。メールは桃奈からだった。買い物の誘いで、評判のケーキ屋にも連れていってくれるという。
「分かってると思いますが、今回の件、桃奈さんには内緒ですからね」
「もっちろん。桃奈を危険な目に遭わせたくはありませんからねー」
 美涼が桃奈を大事にするのは、何故だろうか。
 好ましくない過去の終着点に、桃奈の笑顔があり続けるからだろうか。
 桃奈なら、美涼を救っていても不思議ではない気がした。
 彼女はその異能力――想いを対象の意識に贈る――で幼なじみを救っていたのだ。
 そして高校生になるや否や、贈りモノ同好会を立ち上げ、贈りモノを通じて誰かを救いたがっていた。
(桃奈さんは、人を救う使命を課せられた者……って言うと胡散臭いな。お節介? 救済者? お人好し? 困った人を放っておけないタイプ?)
 断りのメールを桃奈に送ってから、レイジはふと自分の右手首を目にやる。
 GPS装置付きのブレスレットが、陽の光を受け、輝いていた。それはランクBの美涼の左手首にも巻かれている。よく考えたらお揃いだ。
「美涼さんって、学校だとブレスレットをシュシュで隠してましたよね」
「ええ。生徒会長がブレスレットをしてると、生徒に示しがつきませんからねえ」
「俺たち、これのせいで他人から誤解されるかも」
「あらー、わたくしは構いませんよー」
 美涼が腕に抱きついてこようとしたので、レイジはすっと横に逃げる。
「なに考えてんです? 兄妹に誤解される、って俺は言ったつもりだったんです」
「……今の言葉、永遠に忘れませんから。そのおつもりで」

 アパートに帰るなり、美涼はレイジのノーパソを起動させ、指の骨を鳴らした。
「知ってますよね? 最近、隣街で暴行事件が連続してるんですよー」
「ニュースで見ました」レイジは麦茶を彼女に渡す。「俺くらいの年齢から二○ 歳までの男が狙われてるんですよね」
「その事件を洗ってみますねー」
「ん? どうしてです?」
「隣街の暴行事件はすべて夜に起きてます。そして昨夜、襲われたのは新士さんだけで、レイジさんは無傷。これだけで、奴の犯行動機が何となく浮かび上がってきますねえ」
「……俺に手伝えることってあります?」
「ありますよ。わたくしが許可するまで閉口を続けるっていうお仕事がー」
 へいへい、と言ってレイジは座布団を枕にして寝転ぶ。
 途端に睡魔に襲われる。帰り道に食べたハンバーガーが、睡眠導入剤となっていた……。
 と、おでこを美涼に叩かれて目が覚めた。
 ぼんやりと窓の外を見る。ビルのガラスは、夕焼けの色に染められていた。
「連続して起きた暴行事件は、スカベンジャーの犯行と見て間違いありませんねえ。被害者の一五人は皆、不良やヤンキーといった類の若い男です。不良狩りってやつですねー。新士さんって金髪頭で、アロハシャツとか着てるじゃないですか? ヤンキーだと思われてやられたんですよー。その証拠にレイジさんは無傷でしたでしょう?」
 レイジは髪をぼりぼりとかく。
 寝起きに一気に伝えられた調査結果を、脳内で整理する。
「……どうして、被害者全員が不良だって分かったんです?」
 美涼は絶壁のような胸を張ると、タッチ式の携帯電話をレイジに見せつけた。画面にはSNSサイトのトップページが表示されている。
「隣街の中高生が集まるコミュニティに入会して、掲示板やメンバー達の日記に目を通したんですよー。街ではかなりの騒ぎになってるみたいで。信ぴょう性がある情報がゴロゴロ転がってましたねえ」
「……自分が住んでる街の事件なら、被害者が誰かなんてすぐ分かりますもんね」
「それで、ここからが重要なんですけどね」
 美涼は携帯電話をポケットに入れて、レイジの前でちょこんと正座した。
「不良狩りを恐れて、隣街のグズ……おっと失言。不良たちは夜間の外出を控えてます。根性無しのガキ共らしいですよねえ」
「腹を空かせる清掃動物《スカベンジャー》は、獲物を求めてこの街にやってきた……ってところですか」
 レイジは麦茶で喉を鳴らした。睡眠で水分を失っていた肉体が、喜びの声をあげる。
 敵の正体が薄ぼんやりと見えてきた。
 一歩前進か、それとも濃霧に足を踏み入れたか。答えを知るには、進み続けるしかない。
「スカベンジャーは、どうして不良を退治してるんですかね」
 美涼は扇子の風をレイジに送る。
「神に命令されたからですよー、きっとー」
 ――生命を得ておきながらも、何一つ成し遂げよとせずに時を過ごす。
 ――貴様のような者は、死体だ。腐乱しても尚、息を吐く醜悪な肉塊だ。
 ――醜悪な生命をあるべき姿に昇華させよ。神は私にその義務を与えた。
 レイジは舌打ちをした。
 新士は醜悪な肉塊などではない。体中で息をしている人間だ。
「八馬警察署のホームページの最新事件ファイルに、スカベンジャーのものらしき暴行事件は掲載されてませんでした。もちろん、昨夜の一件もです」
 新士が襲われたという事実を、異能力研究所は闇に葬ろうとしているようだ。レシピエント絡みの事件は極力、表沙汰にしたくはないのだろう。
「新士さんがこの街での初の被害者だったんですよ。そして今夜、二人目の被害者が出るかも……」
 美涼は声のトーンを落として、ハーとため息をついた。
「グズ共がどうなろうと知ったこっちゃないですけど……レシピエントの地位低下を防ぐには、犠牲者が増える前に、スカベンジャーを捕まえないと」
「美涼さんは正直ですね」レイジは薄く笑った。「そういうところ、好きですよ」
 すると美涼は猫のような両目を極限までひらいて、直後に素の表情に変化した。
「クソガキ、何を企んでやがる。褒めてもなにも出ねえぞ」
 猫とよく似ている瞳にレイジはゾッとする。思わず目を逸らしてしまった。
「……フン。わたくしはひとまず自宅に帰ります。夜になったら迎えに来てください」
 美涼がスタスタと部屋を出ていった。レイジはふうと胸をなで下ろす。
(気を悪くさせちゃったかな……)
 その後、レイジは軽い夕食を済ませてから夜の街に出た。午後七時の八馬市の体温は、日中と比べると落ち着いていた。この街のどこかでスカベンジャーが徘徊していると思うと、全身がカッと熱を帯び、震えそうになる。
 美涼が住む高層マンションに到着した。数分後、玄関口の自動ドアが左右に割れて、美涼が出てきた。服装はラフなジーンズと肌に吸いつくようなシャツに変わっている。ミニサイズのシャツでも胸に起伏が無いのは、美涼自身がミニサイズだからだ。
 レイジはうやうやしく頭を垂れる。
「お嬢様、お迎えに上がりました。それでは参りましょう」
「フン。化け物を見たような目で怖がったと思ったら、今度はご機嫌取りですか」
 レイジは言い訳がましいと思いつつも、言い訳をした。
 そうしたら急に美涼が嬉しそうに身をよじった。
「わたくしの目が猫さんとソックリだなんてー。もー、究極の褒め言葉ですねえ」
「じゃあ行きましょうか」
「……ほんっとうに、淡白ですよね。気持ちの切り替えが早すぎません?」
「遊び気分ではいられませんよ。スカベンジャーを捕まえないと」
 そうですねえ、と美涼は表情を硬くした。
 歩を進めながら、二人は敵が出没しそうな居場所を考え合う。
 スカベンジャーの標的が不良だとしたら、出没地点は容易く絞られる。カラオケ屋に居酒屋、ゲーセンに駅前。だが、人目の多い場所でスカベンジャーが犯行を行うとは思い難い。
「俺と新士は、墓地の真横であいつと遭遇しました。人が少なくて暗い場所を、スカベンジャーは回ってるのかも」
「非効率だけど、しらみ潰しに当たってみましょう」
 住宅街を進みつつ、レイジは肩を落とした。運に頼るしか無いとは、情けない。
 もっと良い作戦でも思い浮かべばいいのだが……。
「そうだ。自転車に乗れば街中を素早く回れますよ」
 単純だが効果的なアイデアを、「却下です」と美涼は瞬時に切り捨てた。
「自転車なんてのは足腰を弱らせる悪魔の乗り物です。歩きましょう」
「まさか、乗れないんですか?」
「喉が渇きましたねー」
 話題終了。レイジは自転車作戦を諦めた。こうなれば、時間が許す限り歩くしかない。
 道を曲がると桃奈の家が目に止まった。庭付き一戸建ての平凡な二階建てだ。
 美涼がうーんと唸った。
「こっちの道はやめましょう。桃奈と出くわしたら厄介ですからねえ」
「なるほど。巻き込むわけにはいきませんもんね」
「ドン亀」と、美涼がくすくすと笑った。
「なんですかその悪口。俺は元陸上部ですよ?」
 と、そこで桃奈の家の玄関ドアが開く。長財布片手の桃奈とレイジの目が合った。
 レイジはタイミングの悪さを呪いながらも、愛想笑いを浮かべる。
 美涼は頬を引きつらせると、左手を背中に当てる。
 不機嫌なオーラをバシバシ出しながら、桃奈はレイジと美涼を交互に見た。
「珍しい組み合わせね。こんな時間に何してんの?」
「散歩してたら偶然、道端で会って」と即席のウソをレイジはついた。
「美涼も散歩?」
「そ、そうなんですよー。夜の空気が愛おしくなっちゃってえ」
 桃奈が美涼の後ろに回り込もうとする。ささっと美涼は彼女の動きに合わせて回る。ブレスレットを隠しているようだ。
「不自然極まりないわね。何か隠してんでしょ」
「さ、さあ? 何のことやら皆目見当つきませんねえ」
 桃奈が冷たい目でレイジを見た。レイジは、笑顔を保ち続けることしかできない。
 そんな桃奈だったが、レイジのヘッドホンをじっと見つめると、ニコッと笑った。
 視線に気づいたレイジは首元に意識をやる。桃奈からプレゼントされたヘッドホン。外出時には欠かせない存在だ。
「まあいいや。またね、レイジ。それと美涼も」
 桃奈が早足で道を曲がっていった。
 安堵のため息が重なった。レイジはふと美涼の変な様子を不思議がる。
「どうしてブレスレットを隠してたんです?」
「だからあなたはドン亀なんです。いいですか? ランクCの桃奈は、このブレスレットの役割を知りません。わたくしたちが教えたとしても、信じるとは限りません」
 レイジは、なるほど、と手のひらを打った。
「恋人同士だって思われたくなかったんですね」
「ご名答。レイジさんにしては上出来ですねえ」
「でも、誤解されても否定すれば済む話ですよね」
「……言ったでしょ? 教えたとしても信じるかどうか疑問だ、って」
「桃奈さんって、そんなに疑り深い性格じゃないでしょ」
「……本当に、レイジさんってドン亀ですね。もしくはドン・キング」
 まさかここでキング牧師の名が出るとは。想定外すぎてレイジは絶句した。
 美涼は何が言いたいのだろう。人をドン亀とかドン・キング扱いする意味とは? 共通点はドンだ。
(ドン、ドン……どん? もういいや……教えてくれなそうだし)
 二人は住宅街を抜けて、それから薄暗い路地に入った。街中心部から離れていて、古びれた店が並ぶその道はどこか薄汚い。
「ここの近くの公園が不良の溜まり場なんですよー」
「缶蹴りでもしてるんですか?」
「ダベってるんじゃないですかねえ」
 話題に出た公園が見えた。公園入口前に三台の原動機付き自転車が並んでいる。公園内からは、若者たちの賑やかな笑い声が響いていた。
 一見して不良だとわかる三人組。そのうちの一人に、レイジは見覚えがあった。
「あれー? レイジじゃんかー」
 と、彼がレイジを指さした。ケンちゃん先輩である。贈りモノ同好会初の依頼人であり、その贈りモノは、家出中の姉への手紙だった。
「生徒会長も一緒かよー。お前ら付き合ってんの?」
 美涼が「えへへー」とニヤけた。レイジは冷めた目を浮かべる。
「なんちゃってー。夏休みのパトロールですよぉ。お付き合いはしてませんってばー」
「おいケン。誰? そいつら」
 見るからに悪そうな二人がケンちゃんの両隣に立った。二人とも、威嚇的な瞳をレイジに向けている。挨拶がわりに軽く睨む、という不良特有のクセであろう。
「うちの高校の生徒会長と後輩。パトロール中だってよ」
「ふーん。おいお前。どこの中学校だった?」
 めんどくせー、とレイジは思う。出身中学を知って何の得があるというのだ。
「遠くから引っ越してきたんで、言っても分からないと思いますよ」
 言ってから、『あ、やばい』と顔を引きつらせる。どう考えても、相手の神経を逆なでする態度だった。
 ケンちゃんの連れの二人が、黙った。
(どうしよ。ケンちゃん先輩がいるから平気かな)
 ケンちゃんも黙っている。
 何かがおかしい、とレイジは気づいた。
 三人とも、レイジの後方を凝視しているのだ。
 レイジと美涼はさっと振り向く。
 二人の瞳に、不気味な容姿の人物が映った。
(嘘だろ……初日に大当たりかよ!)
 相手がスカベンジャーでなかったら、それこそ奇跡だ。昨夜に目にしたばかりの仮面と黒マントに、レイジは喉を鳴らす。やはり、人気のない場所に現れた。
「あいつは……レイジの連れか?」と、ケンちゃんが言った。
「ちがいます」と言って、レイジはヘッドホンを装着した。「俺に恩を感じてるんなら、今すぐ逃げてください」
「いや、恩は感じてっけどよ。意味わかんねえ」
 スカベンジャーは静かにこちらを見つめている。仮面の裏には、どのような感情が隠されているのだろう。喜びに濡れた野獣の牙が、レイジの脳裏によぎった。
 カチリ、とライターの音がした。見るとケンちゃんの連れがタバコに火をつけている。美涼の表情が渋くなったのを、レイジは見逃さなかった。
「おーいてめえ。なに見てんだよ。頭大丈夫かー?」
 ボウズ頭の彼は煙草を咥えたまま、スカベンジャーへと進んでいく。
 慌ててレイジは彼の肩を掴む。
 彼が振り向いた直後、鈍い衝撃が腹に突き刺さった。
「てめえは黙ってろや、バーカ」
 坊主頭の少年はそう吐き捨てると、スカベンジャーに体を向け直した。
「おい! レイジに何しやがんだ!」
 ケンちゃんの怒鳴り声が響き渡った。
 その一瞬後であった。
 あの、ショットガンのような重低音が公園に炸裂した。鼓膜が強烈な衝撃に殴りつけられる。半ば覚悟していたレイジだったが、それでも身を振るわせてしまう。
「醜悪な魂よ。悔い改めろ、さすれば魂の昇華が手を差し伸べてくれるだろう」
 ボウズ頭の少年はタバコを咥えたまま数歩後ずさり、静かに両膝を地につけた。
 そして、絶叫した。
 強烈な悲鳴に続き、吐瀉物が公園の土を濡らす。意味不明の言葉を喚きながら吐く彼に、美涼やケンちゃんたちは唖然とした表情を浮かべていた。
 レイジだけが、スカベンジャーを強く睨みつけている。
「お前のせいで、俺の友達は苦しんでいた。覚悟しろよ」
「苦しんだ、だと?」
 スカベンジャーの仮面が、ゆらりと揺れた。心なしか笑っているようにも見える。
「腐り切った肉塊をあるべき姿に戻すには、強烈な薬が必要だ。苦痛は、薬の副作用のようなものだ。そこで醜くうごめく肉塊は、かなりの副作用に襲われているらしいな。それほど、体内に毒を溜め込んでいたということだ」
 耳障りな悲鳴が響き続けている。レイジは坊主頭の少年を一瞥し、目を伏せた。
「……もういい。話は終わりだ」
 言い終わるなり携帯音楽プレイヤーを再生させる。
 燃えるようなギターサウンドが展開されると同時に、レイジは強く力を求めた。
 鼓膜を通じて脳髄へと叩き込まれる音が、力に変換されていく。
 レイジは地を蹴りスカベンジャーに駆け出した。きつく拳を握り締め、意識を敵の仮面
に注ぎこむ。敵の攻撃が無ければ数秒後には殴り飛ばせるはずだ。
 スカベンジャーが右手のひらを向けてきた。
 しかし、躊躇するように右腕を下ろすと、首をゆっくりと回した。
(使う相手を選んでいるのか!)
 あと数歩で、敵の懐に潜り込める。怒りの全てが、右拳へと送り込まれていた。
 範囲内に入った瞬間、レイジは拳をスカベンジャーの顔面に見舞う。
 が、眼に見えない『何か』に打撃を封じられてしまう。透明な手、あるいはロープかもしれない。その力が、レイジの拳を仮面の手前で静止させていた。
「邪魔だ」
 スカベンジャーが乱暴にレイジを殴りつける。背中から倒れたレイジは、鼻の痛みと熱に身悶えた。
 スカベンジャーの気配が真横を通り過ぎ、ケンちゃんたちに向かっていく。
 レイジはふらついた足取りでスカベンジャーを追う。しかし敵の足蹴りを腹に喰らい、自分でも情けないと思いつつ、地に膝をつけてしまった。
(ケンちゃん先輩たちは……あのボウズ野郎を、見捨てられないのかよ!)
 逃げろ、と必死に声を押し出す。が、ケンちゃんとその連れはうろたえるばかりだ。
 美涼は気を抜かれたように立ち尽くすだけで、異能力を使う気配を見せない。
 そんな三人に、スカベンジャーは着々と歩み寄っている。
 しかし突然、黒マントの動きが止まった。
 スカベンジャーはレイジの方に体ごと振り向き、かったるそうに首を回す。
「また邪魔者か? 己の善意を振りかざす愚者は、厄介なだけの害悪だというのに」
 公園の入口に、女物の黒スーツに身を固める女が立っていた。
 物言わぬ彼女にレイジは見覚えがあった。日本人形を連想させるおかっぱ頭と冷たい目元、そして抱きしめれば壊れてしまいそうな痩身。小折の部下の双子、その姉だ。いや、妹だったか?
 彼女はレイジと美涼を睨みつけると、唾を吐いた。
「二人揃って変な位置をうろついているから、まさかとは思ったが。やっぱりか」
 レイジは不意にブレスレットの重みを感じた。美涼も、GPS装置付きのそれを着けている。
「小折先輩の警告を無視した子供たちのおかげで、スカベンジャーと接触したのか、私は……。不本意で、しかも不愉快だ」
 淡々と言うと、彼女は大きく片腕を広げた。
 青白い手首があらわになる。そこに刻まれる傷跡がパクリと開き、そこから太い紐のようなものが放たれた。病室の新士を縛りつけていたものとまったく同じものだ。
「な……!」
 宙を一直線に駆けるソレに驚いたのか、スカベンジャーは明らかに動揺を見せた。
(そのまま捕まっちまえ!)
 レイジの願いとは裏腹に、手首から伸びる紐はスカベンジャーの手前で動きを止めた。
 小折の部下が怪訝な眼つきで手を振ると、紐は手首へと巻き戻っていった。
「なんだ……? 今のは、なんだったんだ!」
 スカベンジャーの声は、わなわなと震えていた。
「知りたければ神妙に捕まれ」
 小折の部下が目を細める。
 異能力を再び使おうとしないのは、何故だろうか。無駄だと判断したからか?
 数秒の間を置いてから、スカベンジャーが猛然と駆け出し、公園を出た。
(あいつ……他人の異能力に驚いていたのか?)
 とにかく、敵を逃すわけにはいかない。
 レイジはスカベンジャーを追跡しようとした。
 が、異能力に体を縛り上げられてしまう。その紐は頑丈で、脱出は不可能に思える。
 小折の部下は空いた手で内ポケットからトランシーバーを取り出した。
「全班に告ぐ。スカベンジャーを発見、逃げられた。鈴明レイジを捕縛中の為、私は追跡不可能だ。私の現在地を中心とした包囲網を直ちに張れ。必要とあらば狙撃しても構わない。ただし生け捕りにしろ、殺すな」
 よく見ると寝癖が激しい彼女は、未だ泣き叫び続ける坊主頭の少年の元へ向かい、その首に手刀を叩き込んだ。彼は白目を剥くと、どさりと倒れた。
 レイジは小折の部下を見つめ、ぐっと生唾を飲み下す。
(この人、名前なんだっけ……とにかく、小折さんみたいに優しくないのは確実……!)
 彼女がレイジの目の前に立った。
 そして、ゴミを見るような眼つきを浮かべる。
「スカベンジャーに逃げられたら、お前の責任だからな」
 
 結果から言ってしまうと、異能力研究所のレシピエント制圧部隊は、スカベンジャーを取り逃してしまった。包囲網が完成した時点で、清掃動物は姿を消していたのだ。仮面とマントを脱いで一般人に紛れたと考えるのが妥当だろう。
(スカベンジャーめ。逃げ足の速い奴だ)
 レイジは、異能力研究所の応接室にいた。小折の部下に、半ば強制的に押し込められたのだ。美涼も一緒だ。
 しばらくすると携帯電話が鳴った。発信主の名を目にして、レイジは緊張する。
 小折からの電話だ。色々と覚悟しながら通話ボタンを押す。
「すいませんでした!」
 と、レイジは先手を打った。謝っとけばお咎めなしになる訳ではないのに。
 電話向こうの小折のため息が鼓膜を撫でた。
[まったく……警告した翌日に行動に移るとはな。しかも美涼ちゃんと一緒なんて。はぁ……二人とも、怪我はないか?]
「平気です」
 レイジは美涼をちらりと見た。彼女はスカベンジャーと遭遇してからというもの、一言も発さずにいる。
[さて、どうしようか。きみは私の警告をぶち破って、しかもスカベンジャーと接触し、あろうことか一般人の前で異能力を発動させた。もう、言い逃れはできんぞ]
「小折さんの部下の方だって、一般人の前で使ってましたよね。極太うどんよりも太い紐を出して……あっちのほうが問題だと、ぼかぁ思うんですけどねえ……」
 ゴニョゴニョ、っとレイジは反論した。それが精一杯だった。
[被害者含む一般人の三人は、何も見ていない。私の部下がそのようにする。きみの前に現れた私の部下。彼女の姉は、催眠タイプのレシピエントなんだ。彼女の手にかかれば、どうにでもできる]
 そこまでして異能力の存在を隠したいのかよ、とレイジは眉を落とす。しかし小折を責めても事態の解決には繋がらない。気持ちを切り替えるために、眉間を揉んだ。
[ところでだな、レイジくん。一つ提案があるんだ。これを受け入れてくれれば、君のランクはBから変動しない。が、却下するようであれば、問答無用のランクAだ]
 小折が救いの手と脅し文句を同時に突きつけてきた。
 救いの手を振り払えばランクAとなり、四六時中の監視体制に置かれる。GPS装置だけなら、まだ我慢できた。しかしそれ以上となると想像もつかない。迂闊に独り言も言えなくなりそうだ。
[是非とも提案を受けてほしい。そうすれば君はランクBのままでいられるし、我々もひじょーに助かる。美涼ちゃんは一緒だよな? 彼女にも関係のある話だ]
 レイジは美涼の真横に移ると、「小折さんから提案があるそうです」と言って、自分ごと携帯電話を彼女の耳元に寄せた。美涼が僅かに首を傾ける。
[君たちには、私が兼ねてから考案していた計画の実験に参加してほしい]
「どんな計画ですか?」
[計画名は『レシピエント自警団』だ。民間人のレシピエントにも協力してもらい、異能力による犯罪を解決に至らせようというものだ。私が本部にまで出張しているのも、それを所長に進言するためだったんだ]
「出張中だったんですか」
 だから小折は顔を見せないのか、とレイジは納得した。
[これもそれもレイジくんを守るためだ。この計画の試験運用に加えれば、スカベンジャーと戦ってもレイジくんが罪に問われることはない]
 レイジの想いなど、小折にはお見通しだったようだ。
[……が、いざ試験計画の許可を貰った段階で、部下から電話が舞い込んできた。鈴明レイジは、私の警告を破っていたとな。これには驚いたよ]
「申し訳ございません。若気の至りってことで、お許しください」
[まったく……所長に事情を説明したら、こう言ってきたよ。レシピエント自警団の試験計画に参加すれば不問に付す、だとさ。優しい所長殿だよ……私は嫌というほどねちねちと文句を言われたがな」
 電話口からライターのカチカチ音がした。
 チッと鳴らされた舌打ちに、レイジは申し訳なさで胸を一杯にする。
「やります。俺を、試験計画の一員にしてください」
[いい返事だ。美涼ちゃんはどうするか訊いてくれ。彼女も、スカベンジャーを捕まえようとしていたんだろう?]
 美涼は沈痛な表情を浮かべると、暫しの間を置いてから、レイジの目を見つめた。
「……あなたは、怖くないんですか? 人をあんなに苦しめる異能力と戦うなんて……」
 少年の苦しみ悶える姿を見ればそうなるのは無理もない。自尊心をかなぐり捨てて吐き散らし、悲鳴を上げ続ける。誰だってその犠牲者になりたいとは思わないだろう。
 レイジにも恐怖はある。
 それでも、新士の仇を打つ為に、痛みを負う覚悟はできている。
 一度した覚悟を捨てるには、またそれなりの覚悟が必要となる。諦めの後に自分を納得させる言い訳を考えねばならないし、後悔にも耐えなくてはならない。
 ならば、今の覚悟に突き動かされたほうが良いと言えよう。
 レイジは、美涼と電話先の小折、その二人に向けて言い放つ。
「何もかも承知の上です。俺は、やりますよ」
 
   3
 
 レシピエント自警団。
 その計画は、レシピエントと異能力研究所にとって多大なメリットをもたらすものだ。
 まず異能力研究所は人手不足を解消できる。異能力による犯罪が起きた場合、戦力になる異能力者は重宝されるのだ。
 そして、レシピエントには、事件解決の際に一定の報酬が支払われる。
 どちらかと言えば研究所寄りの計画だが、レイジは不平を感じなかった。
 小折がそれを考案したのは、悩めるレシピエントを救うために違いないのだ。
(今まで自分を抑圧してきた機関の一員になって、正当な理由で異能力を使えて、金も貰える……危険もあるけど、これに乗るレシピエントは多いはずだ。特に俺と同世代の奴らは……やるだろうなぁ)
 玄関でスニーカーを履きながら、レイジは苦笑した。
 昨夜、計画の試験運用に参加すると表明して、もう次の日の夜に出勤である。研究所の後ろ盾もあるので、心置きなくスカベンジャーの捜索に当たれる。
 携帯電話と携帯音楽プレイヤーの電池残量は、どちらも満タンだ。レイジは安心してアパートを後にする。
 ヘッドホンから特撮モノの主題歌が流れた。歌声と曲全体に流れる空気、それに歌詞。そのすべてがシリアスだ。子供向けではなく男向けの熱い曲と言える。
(異能力を発動させてこれを聴けば、凄いことになるんじゃないか?)
 レイジはリピート再生に設定した。
 レイジの異能力は、音楽による身体と精神の強化だ。気分が高揚するような曲を聴けば心身共に逞しく、強くなれる。特撮番組の主題歌は、その異能力に相応しいものと言えよう。
(カラオケ行きたいなぁ……でも、遊ぶのはスカベンジャーを捕まえてからだ。新士だって退屈な入院生活を我慢してんだ、遊んでなんかいられない)
 レイジは心の中で熱唱しながら夜の街を進む。
 目的地のマンションに着くと同時に、玄関口の自動ドアが開いた。
 出てきた美涼は表情を強ばらせていた。
「緊張してるんですか?」
「使命感に燃えてるんですよー。わたくしたちがスカベンジャー捕縛に役立てば、レシピエント自警団は実用化されるでしょう? 逆に研究所の足手まといになったら、計画はお蔵入りになってしまいます」
 スカベンジャーの異能力に恐怖を見せていた美涼は、レイジの覚悟に感化されたように、試験計画に加わっていた。 
「俺たち次第で悩めるレシピエントが救われるかもしれない。そう思ってるんですか?」
「当然です。この計画は、最高のメンタルケアになると言っても過言ではないですからねえ。参加するだけでも、相当な効果が現れるはずです」
「実用化に向けて頑張りましょう」
 レイジは携帯電話で小折の部下に発信をした。
「鈴明レイジと来崎美涼。これよりパトロールを始めます」
[了解した。スカベンジャーを発見したら直ちに連絡せよ。自分たちだけで捕まえようとするな。お前らに何かあったら、小折先輩が責められるんだ。肝に銘じておけ]
 レシピエント自警団計画の試験運用が始まった。街中に配置されたレシピエント制圧部隊と二人の高校生の目が、狩人のそれに変貌する。
(今夜は期待できそうにないけど、やれるだけやってみよう)
 昨夜のスカベンジャーは、小折の部下の異能力を目の当たりにしていたのだ。銃声を耳にした獣のように警戒しているに違いない。
「やっぱ歩くのって非効率ですよ。自転車に乗りましょう。補助輪をつければ美涼先輩だって乗れるでしょ?」
「ぶち殺されたいですかー? わたくしが『Sleeping Awake』を使えば、レイジさんなんて瞬殺ですよ? ビルの上からダイブしたくなきゃ、言動には気をつけてくださーい」
 目が笑っていないニコニコ顔から、レイジはすっと逃げた。冗談の通じない先輩である。目を合わせ続けたら、本気で殺されそうな気がする。
「美涼さんの異能力があれば、スカベンジャー攻略は簡単そうですね」
「ふふん。そんなご機嫌取りには乗りません」
 ちっちゃい先輩は足を速めると、後輩の前に出て腕の振りを強くした。
(分かりやすい人だな)
 と、美涼が急に立ち止まった。
 彼女の視線を追ったレイジは、タイミングの悪さに凍りついてしまう。
 桃奈がコンビニの駐車場にいた。買い物袋を手に提げていて、その視線はバッチリこちらに向けられている。
 二夜連続で散歩中に偶然会っちゃいました、なんてウソは通用しなさそうだ。
「……いっそ、正直に教えましょうか」
「それはダメ……桃奈はきっと、首を突っ込んでくるに決まってます。あの子はそういう性格だから……しかもレイジさんがいるから、もはや決定的……」
 小声で話していると、桃奈が目の前まで来た。
「今日も一緒なんだ」
 またもや左手首のブレスレットを隠す美涼が、「偶然って怖いですよねー」と笑った。
「まさかとは思うけど、レシピエント絡みのこと?」
 大当たり! と言えるはずがない。レイジは鼻の手前で手を左右に振った。
「じゃあなんで一緒なの?」
 ちょっとだけ、本当に、ちょっぴりだけ。レイジは面倒臭くなってしまった。
「それより桃奈は? お買い物ですかぁ?」
「ピーチティー買いにきたの。パックのやつ。レイジと桃奈もお買い物?」
「……ここだけの話なんですけど、桃奈にだけ教えますねえ」
 美涼が意を決したように言った。
「レイジさんが、誰かさんの誕生日プレゼントを買いたいらしくてえ。それでわたくしが相談に乗ってるんですよー」
『誰の?』という問いかけをレイジは飲み込んだ。起死回生のウソを潰してはいけない。
 桃奈は二人を交互に見ると、レイジの顔に視線を固定した。
「そ、そうなんだ。でもなんでこの時間に?」
「お昼はわたくしの都合が合わないんですよぉ」と美涼がウソの上にウソを塗った。「ねー、部長想いのレイジさん?」
 その瞬間にレイジはある事を思い出し、強く頷いた。
 桃奈は七月末生まれだ。以前、桃奈に誕生日を訊かれて答えた後、話の流れに乗って、彼女の誕生日を訊いていたのだ。スカベンジャーのせいですっかり忘れていた。
(あぶねー……危うく誕生日プレゼントを渡し損ねるとこだった)
 桃奈はまんざらでもない様子で「そっかー」とニヤけた。
「その誰かさんも幸せものだなー。レイジから贈りモノを貰えるんですもん」
「羨ましいですよねー。このこのー」
 と、美涼が『左肘』で桃奈を小突いた。
 直後、和やかだった空気が氷結した。そこにある六つの目は美涼のGPS装置付きブレスレットに釘付けだ。数秒後に、本人含む三人がレイジのブレスレットに目をやる。
「同じ物に見えるんだけど」
「も、桃奈ったら、知りませんの? これ、最近大人気のブレスレットなんですよー。米国の女性歌手がデザインしたとか何とかで、ねえ?」
「は、はい。確か名前はえーとなんだっけなぁ。ゴゴ、だったかな?」
 ウソの危うさが舌となって、レイジの背筋をちろりと舐めていた。
「そうなんだ。バイバイ」
 桃奈が二人の真横を早足で通過し、去っていった。
 重い空気が、生徒会長と一年生のあいだに漂う。
 チッ、と舌打ちが聞こえた。女の子が見せちゃいけない表情にレイジは後ずさる。
「クソッタレが。てめえのせいで桃奈に絶交されたら、ガチでぶっ殺すかんな」
「ちょ、ちょっと? 美涼先輩、今までに無いくらいに危険ですよ?」
「ちくしょー……ササッとスカベンジャーを捕まえて、桃奈に事情を説明しねえと」
「その意気です。今夜中にあいつを退治しましょう!」
 やる気を急上昇させたレイジを、美涼は冷めた目で一瞥する。
 馬鹿げたこと言ってんじゃないよ、とでも言い出しそうな表情だった。
「簡単に言ってくれますねえ……口笛を吹いても、敵は現れちゃくれませんよ?」
「奴の出現しそうな地点を絞り出しましょう。今以上に、精密に。持ち場がある制圧部隊の皆さんと違って、俺たちは自由に動けるんですから。闇雲に人気の無い場所を回ってたら、それこそ無駄足になっちやいますぜ」
「なぜ最後だけ子分っぽいんですか」
「物の弾みってやつですさぁ。さっそく考えてみましょう」
 ただ歩き回るよりは得策だと判断したのか。美涼は真剣味溢れる顔で黙りこくった。
 沈黙を心地良く感じながらも、レイジは意識の海面にスカベンジャーを浮上させる。
 敵の攻撃を受けた新士は、派手な金髪頭だった。その人格を深く知らない者は、彼を不良のカテゴリに収めるだろう。ケンちゃん先輩と共にいた坊主頭は、疑いの余地もないヤンキーだ。
 スカベンジャーが不良少年を標的に定めているのは、間違いないだろう。
 彼、もしくは彼女はどのようにして不良を捜しているか?
 その答えを導き出せば、スカベンジャーの出現地点も絞り出せる気がした。
「美涼先輩。不良の溜まり場を調べる手段に心当たりはありますか?」
「夜中に目星をつけておくのが一番でしょうねえ。次は噂の収集です。あそこは不良の溜まり場らしいとか、そういう噂を……」
 と、美涼は言葉と足を同時に止めた。すぐさまタッチ式の携帯電話を操作する。
 携帯画面に、SNSサイトのトップページが映し出された。
 美涼はコミュニティ名検索欄に『八馬市』と入力した。数秒後に現れたコミュニティ数は五○ 件だ。
 参加者数が最も多い場所のメンバー一覧ページが表示される。プロフ画像はアニメ絵や風景画、人気のマスコットキャラなど様々だ。ぽつぽつとだが顔写真も掲載されている。その中には、ド派手なプリクラ画像もあった。一目で不良だとわかる服装、顔立ちだ。
「こいつらって眉毛の手入れ大変そうですよね。面倒くさそう」
「どうでもいいです、そんなこと」
 と美涼がレイジの呟きを切り捨てた。
「こういった連中の日記には、溜まり場のことも書かれているでしょう。どこそこで飲み会やったとか、花火したとか。予定も書かれてるかも。気軽に短文を投稿できるサイトもありますから、そっちも併せれば、莫大な情報が得られます」
「なるほど、なう」
「スカベンジャーがこの方法で溜まり場を調べているとしたら……先回りできるかも」
「溜まり場に先回り……なう。先回りなう」
「けど今夜は無理ですねえ」と、美涼は携帯電話をポケットにしまった。
 レイジは顔を真っ赤にしていた。今日はやけに暑い。これだから、夏は困る。
「どうして無理なんです?」
「八馬市在住の不良たちをリストアップして、日記と呟きに目を通す。その作業だけでもかなりの時間を要しちゃいますからねえ」
「美涼先輩。忘れたんですか? 俺たちには強力な味方がついてるんですよ」
「制圧部隊は夜に紛れて街中を監視してんですよ? 携帯ポチポチしてる間にスカベンジャーを逃がしたらどうなりますか? その人はクビちょんぱでしょうねー」
 せっかく希望が垣間見えた気がしたのに、今夜は諦めるしかないようだ。
(ん……待てよ。まだ諦めるのは早いぞ)
 そもそも自分たちは、スカベンジャーの出現地点を捻出しようとしていたのだ。溜まり場の調査方法を推理しただけで満足しては、いけない。
(要するに、奴は溜まり場のことを不良たちから『教えてもらって』いたんだ。俺たちもそうすれば……そうか、その手があったか! 蛇の道は蛇!)
 レイジは携帯電話を取り出すと、ケンちゃん先輩の携帯に発信をかけた。
[もしもし。どした?]
 ケンちゃんは普段と変わらぬ態度で電話に出てくれた。異能力研究所によって、昨夜の一件は彼の中で『無かった事』にされている。
「いきなりですけど、八馬市の溜まり場を教えてください」
[本当にいきなりだな」とケンちゃんは笑った。「あの潰れたボーリング場かな。最近になって入り浸ってる連中がいるんだよ]
 四月の記憶がレイジの脳裏に蘇った。
 贈りモノ同好会の初仕事として訪れた、山の近くの廃ボーリング場。
 そこでケンちゃんの手紙を姉に届けて、小指の無いレシピエントと戦った。
 どうやら自分には異能力の戦いと縁があるらしい。五月には新士と二度の決闘を演じさせられたし、今は異能力者の犯罪者を追っているのだ。
「今夜も集まってたりしますかね」
[うん。てか、俺も誘われたもん。花火すんだってよ。うぜーからシカトしたけど]
「知り合いなんですか?」
[中学んときの先輩たち。これがうぜえんだわ。ネットでしか出会えねえくせして、女を落とす術とか語っちゃってんの。それには俺も苦笑いだぜ]
 確かな手応えをレイジは感じた。
 ネットを利用する不良ならば、SNSサイトに登録していても不思議ではない。
[変な気は起こすなよー。あの人たちって弱っちいから、殴ったら大泣きしちゃうぜ?]
 ししし、とケンちゃんが笑った。
「そんなんじゃありませんって。溜まり場を知ってれば絡まれずに済むでしょ?」
[ふーん]とケンちゃんが相槌を打ってきた直後に、賑やかな女たちの声が流れてきた。
 それは次第に電話口に近づいてきて、[誰と電話してんのー?][レイジっす]といったやり取りの後に、[もしもっしー]という明るい声が聞こえた。
[覚えてるー? ユウユウの大親友だよー] 
 廃ボーリング場でケンちゃんの姉と一緒にいた少女だろう。レイジはこんばんはと挨拶をした。
[ヒマー? だったらこっち来なよー。ちょうどあの時の面子が集まってるしさー]
「いえ、用事があるので……」
[ざんねーん。あ、そういえばさ。贈りモノ同好会、だっけ? それって八馬高校の生徒じゃなくてもオッケーなの?]
 部長に聞いてみなくては分からないことだ。
 しかし贈りモノの大切さを知る桃奈なら、誰からの依頼だろうと受けるだろう。
「贈りモノ同好会は来る者拒まずです。しかも年中無休。けど今は事情があって臨時休業中ですのでご容赦ください」
[なにそれー]と彼女は笑った。[贈りモノがあったらとりあえずお願いするねー]
 それから電話先のケンちゃんに礼を言い、レイジは通話を終わらせた。
 携帯電話に耳を寄せていた美涼が、「どうしますか?」と口にした。
「敵は廃ボーリング場にありです。多分、きっと、おそらく、もしかしたら」
「ちょっと希望が見えてきましたねえ」
 丁度いいタイミングでタクシーが近くの交差点で停まった。すかさず美涼は片腕を挙げて、タクシーを路肩に寄せる。窓から顔を出した運転手が怪訝な眼つきで二人を見る。
「八馬ボーリング場までお願いします」と、レイジは緊張気味に言った。
「こんな時間にねえ……失礼ですが、あんな場所に何の用があるんですか?」
「大切な用事があるんです」
 真顔のレイジに、運転手は渋い笑みを見せると、メガネを指先でくいと上げた。
「まあいいでしょう。若者の邪魔をするとバチが当たりますからね。お乗りください」
「お願いします」
 後部座席に乗り込んだ美涼は、硬い表情を浮かべていた。
(そっか……タクシーに苦い思い出があるんだっけ)
 だからといって、手段を選んでいる暇はない。
 今この瞬間にも、清掃動物《スカベンジャー》の牙が不良たちを喰らっているかもしれないのだ。

 夜道を進む車内で、レイジは小折の部下にメールを打つ。郊外の廃ボーリング場にスカベンジャー出現の恐れがあることと、その根拠も丁寧に打ち込んでいた。
 彼女からの返信内容は冷たいものだった。
『あやふやな推理では制圧部隊を動かせない。標的を確認してから連絡をよこせ』
 レイジは苛立たしげに返信する。
『部隊を待ってる間に逃げられたらどうすんですか』
『それもそうだな。よしこうしよう。そろそろ小折先輩が出張から帰ってくる頃だ。小折先輩に事情を説明しておく。二人は、小折先輩の到着を待つように』
 それから、タクシーが目的地の前で停まった。
 薄汚れた巨大なボーリングピンが、廃墟の全てを物語っていた。誰にも手入れしてもらえず、土地の買い手も見つからぬまま、街と共に生き続ける存在。不良の根城としては絶好の建物だ。
 タクシー代は美涼が払ってくれた。運転手は代金を財布に入れると、車のエンジンを切った。「帰りも当タクシーをよろしく願います」
 二人は道路を渡り、廃ボーリング場の駐車場に入る。
 息苦しいほどにそこは静かだった。不良集団の馬鹿騒ぎは聞こえてこない。
「まだ来てないのかもしれませんねえ」
「だとしたら、好都合ですね」
「同感です。犠牲者の増加は食い止めなきゃいけません……レシピエントの犯罪なんて、絶対にあってはならないんです」
 レイジは廃ボーリング場に足を踏み入れた。
 漂う空気が冷たく感じられるのは、気のせいだろうか。天井と壁の狭間に見事な蜘蛛の巣が張られている。それを浮かび上がせるのは、窓から漏れる月光だ。
 玄関カウンターの通路を抜けた先は、しんと静まり返っていた。
 横並びのレーンや休憩所に不良たちの姿はない。
 が、不良たちはもはや些細な問題と化していた。
 天窓から降る月光が、黒マントと黒い仮面を照らし出している。
 廃墟の主であるかのように、スカベンジャーはレーンの中央に佇んでいた。
「……美涼先輩は、外に出ていてください」
「正気ですか? 小折さんの到着を待たずに戦うなんて……」
「時間稼ぎをするだけです。それに……美涼先輩の異能力、あいつには通用しなそうですから」
 仮面を被るスカベンジャーは、両目をも隠している。小さな穴を頼りに視界を確保しているのだろう。目と目を合わせることが大前提の異能力が効くとは、思い難い。
「……無様にやられて桃奈を悲しませたら、ぶっ殺すかんな」
 そう言い残して、美涼は玄関口へと戻っていった。
 朽ち果てるのを待つばかりの空間で、レイジはヘッドホンを装着する。
「貴様は、何者だ」
 変声機を通じた声が空気を震わせた。
「貴様の正体は? 私の邪魔をする理由は? 昨夜のあの女は何だったんだ? どうして、貴様は、ここに現れた!」
「お前は俺の友達を傷つけていた。それだけで充分だろう」
「復讐ということか。私は彼を解き放ってやったんだぞ!」
「なにが魂の昇華だ!」
 スカベンジャーの肩が、微かに震えた。
「お前がどんな目的があって不良を狩っているのか、俺は知らない。けどなぁ、生きている人間を、息を吐く肉塊呼ばわりしたお前は、ただのイカレ野郎だ! そんな奴に耳を貸してたまるものかよ!」
 直後、スカベンジャーが右腕をすっと上げた。
 即座にレイジは横っ飛びをし、轟音と共に打ち放たれたものを回避する。鼓膜の痺れに舌打ちをしながらも、携帯音楽プレイヤーを再生させた。
(力が欲しい! あいつを打ち破るんだ!)
 ヘッドホンから特撮番組の主題歌が流れ出した。痺れ続ける鼓膜は嫌がるように音をはね返している。体の奥底から発せられた力は、普段の半分以下に感じられていた。
(元に戻るまでの辛抱だ)
 スカベンジャーは右肘を背中側まで勢いよく引くと、また右手のひらを突き出した。
「リロードのつもりかよ!」
「そうだ!」とスカベンジャーの怒声が曲に混じって聞こえてきた。「神は我が腕を武器にしてくださった!」
「そいつは神様なんかじゃない! お前自身が作り出した幻想だ!」
 銃声が曲を途切れさせる。休憩所の椅子が派手な音を立て、壁に激突した。
(どうして、俺の敵は飛び道具ばかり使うんだ!)
 轟音が鳴る度に、床のタイルやベンチが吹き飛んでいく。
 本物の威力には及ばぬ異能力《ショットガン》だが、人を傷つけるには充分すぎるものだ。しかも弾丸には人を苦しませる毒が詰め込まれている。
 卑怯だ、とレイジは吐き捨てた。
 真っ暗な自販機の陰に身を潜め、ヘッドホンを首にぶら下げる。
 失われた聴力を元通りにしなければ、満足できる程の力は得られそうにない。
 その為には、時間稼ぎが必要だった。
「お前は何者だ。後ろめたさが無いのなら、答えてみせろ。真っ当な使命を得ているという自信があるんなら、答えられるはずだ!」
 シンとその場が静まり返る。スカベンジャーの荒い息遣いが聞こえてきそうだった。
「……私は、貴様の言うようにイカれている。その自覚もある!」
 感情的な叫び声が、ボーリング場に反響した。
「神、義務、魂の昇華。そんなもの、元からありゃしない! 私の復讐を正当化させる道具に過ぎない!」
 心の底に押し込まれ、狭苦しい思いをしていたのか。その叫びは、しがみつくようにその場に居座り続けた。
 レイジは、美涼の言葉を思い出していた。
 ――もしくは、理性と狂気を兼ね備えた、もっとも厄介なタイプの人間。
「自覚してんなら、理性でそいつを封じ込めろよ」
「そうしたら、私は駄目になってしまう! 本当に、正気ではいられなくなる……」
「言え! 俺でよければ聞かせてくれ! 頼む!」
 時間稼ぎの為だけではない。
 変声機を通じて送られてくる声が、惨めなまでに震えて、今にも壊れそうだったから。
 スカベンジャーの境遇が何であろうと、その行いは許されないものだ。
 それを承知の上で、レイジは耳を澄ませる。
「……恋人が、事件に巻き込まれたの。彼は、二ヶ月以上経った今でも、眠ったまま。おかしいと思わない? あんなに真面目だった彼が、どうして、こんな目に遭わなければならないの?」
「……まさか、二ヶ月前の事件か?」
 五月にテレビで見たニュース映像が脳裏に蘇った。どこかの町の空撮映像とキャスターの声。被害者は大学生で、意識不明の重体に陥っている。警察は通り魔的犯行とみて捜査を……その続きは、見ていなかった。
「ニュースでは報じられなかったけど、彼の頬には唾が付着していたの。犯人たちは彼を死ぬ寸前まで痛めつけた後、唾を吐いたんでしょうね。死にかけの彼になんの躊躇もなく、吐いたのよ!」
 スカベンジャーの声には、確かな怒りが宿っていた。
「警察は一向に犯人を捕まえられない。それなら私がやるしかないじゃない! でも私は非力だった。力が、欲しい……そう願った時、誰かが、二つの鍵を差し出してくれたわ」
 スカベンジャーは二度、壮絶な精神的苦痛を経験していた。
 彼の変わり果てた姿を目にした瞬間と、彼の意識がこの世から断絶されたことを知らされた時。二つのその痛みが、彼女を異能力の覚醒段階に歩ませていた。
 そしてスカベンジャーが力を求めると同時に、それらの苦痛は鍵となって、二つの異能力を彼女に与えていた。
「この力は神からの贈り物なんかじゃない。彼からのメッセージなの! 奴らを痛めつけてくれという、悲痛な叫びが実現させた結晶! だから私は狩り続ける。数を撃てば当たる。そう信じて、撃ち続ける!」
 理不尽な事件は、被害者だけではなく、その恋人も絶望に突き落としていた。
 名も顔も知らぬ彼女に同情していないとレイジが言えば、それは嘘になるだろう。
 レイジはヘッドホンを装着すると、深呼吸をした。
 戻りつつある聴力が音楽を受け入れる。音楽は力へと変換され、肉体と意志を硬くしていく。
「分かっているはずだ。不良狩りは、気休めにすぎない。精神を安定させるだけで、何の解決にもならないって!」
「言ったでしょうが! 復讐を続けなきゃ、私は駄目になってしまうって!」
「でも誰かに止めてもらいたい! だから、俺に教えた!」
 レイジは自販機の陰から飛び出した。
「貴様に私の何が分かるというの!」
「俺が止めてみせるよ! あんたの狂気を消してやると、今ここに誓う!」
 スカベンジャーから異能力が撃ち放たれた。天窓の一部が崩壊し、月明かりを纏うガラス片がレイジに降り注ぐ。
 ガラスの雨に臆することなく、レイジは駆ける。両手で頭を守りながら、敵との距離を瞬く間に縮めていく。スカベンジャーがその異能力をリロードさせた。
 敵の右腕が押し出された直後、レイジは斜め前に跳ぶ。
 肌がヒリつくような轟音が放たれた。空振りに終わった異能力がレーンの一部分を破壊する。
 レイジは右腕を強く振り上げ、スカベンジャーの仮面に狙いを定める。
 だが、仮面の直前で拳は静止した。
「言ったでしょう! 二つの鍵を貰ったと! 私は、彼から矛と盾を授かっていたの!」
 スカベンジャーの左手が、レイジの胸ぐらを掴んだ。
 スカベンジャーの右手のひらが、レイジの腹に当てられる。
「私を止めようとしたのが間違いだった! そう後悔し、苦しみなさい!」
 至近距離で、ショットガンの轟音が炸裂した。
 その瞬間にレイジは後方へと吹き飛び、背中をしたたかに打った。
 その痛みは次のものと比べれば、あまりにもか弱い。
「あ、ああ……」
 脳内が、何かに侵食されていく。
 眼に見える景色は色豊かでも、意識は黒一色に塗り潰されていた。
 些細な悪行が浮かんでは消えていく。
 それは、悪行とは言い難い可愛らしいものばかりだ。
 父の言いつけを守らず宿題を捨てた、母と約束した家事を放棄して遊びに出かけた、数百円のネコババ、掃除の時間に手を抜いた。
 他人から見れば、きっと、子供時代にはよくある出来事だと笑うだろう。レイジだって、数秒前なら軽い反省で終わらせていた。そのはずだ。
 しかし、今は違う。
 僅かな悪意だろうが何だろうが、それらは大罪となってレイジを責め立てていた。裏切られた父母の感情、たかが数百円をネコババして喜んでいた自分の愚かさ、掃除すら満足にできずにいた自分。
 胃袋が強烈なアッパーに突き上げられた。
 レイジは喉奥から登ってきた液体を、ぐっと飲み下す。
「この世に真っ当な人間など一人もいやしないの。私のショットガンは、どのような罪だろうと見逃さない。そうして、罰を与え続ける」
 スカベンジャーは静かに歩き、懸命に立とうとするレイジの肩をぽんと叩いた。
「通報したければ好きにしなさい。警察が真に受けるとは思えないけどね」
 そして少年の真横を通り、通路へと向かう。
 吐き気と頭痛に占拠された肉体を、レイジは渾身の力を振り絞り、振り向かせた。
 茶髪のポニーテールが、歩調に合わせて揺れている。
 アレにこれ以上の罪を負わせ続けてはならない。
 この場で仕留めねば、レイジは永遠に後悔しそうだった。
(こんなの……この程度の痛みが、どうしたっていうんだよ!)
 体中を駆け巡り、鈍い不快感をもたらす苦痛は和らぐ気配を見せない。過去の悪行も少年を責め続けている。
 しかし耳元では、音楽が流れ続けていた。その命綱にしがみつき、レイジは立ち上がる。
「……また、邪魔者が……!」
 スカベンジャーは、苛立たしげに首を回した。
 ハイヒールの靴音と共に、小折がスカベンジャーの前に現れていた。
「間に合ってよかったよ。お前が清掃動物だな?」
「次からつぎへと……一体、貴様らは何者なの!」
 声を荒らげたスカベンジャーが、右手のひらを小折に突きつける。レイジは体と心に鞭を打ち、敵を止めようとした。だが、途端に両膝が重くなり、無様に転んでしまう。
「異能力研究所だ。ご存知かな?」小折はタバコの箱を握りつぶした。「テレビやネット、雑誌の広告で目にしたことはあるだろ?」
「異能力者を集めているとかいう、胡散臭い研究所が? 私を捕まえようというの?」
「そうだよ。詳しいことは後々にでも教えるとして……レイジくん」
 小折がスカベンジャーの肩越しにレイジを見つめた。
「君の手で仕留めたいというのなら、私は観戦に徹するけど。どうする?」
 ふっと、下半身から重みが消えた。小折の異能力から解放されたのだ。
 しかしレイジは、スカベンジャーのショットガンの影響下に置かれたままだ。肋骨を中心とした鈍痛と激しい吐き気、そして激しい罪悪感と頭痛。
 それでも、まだ負けてはいない。
 鼓膜に音が届けられている限り、四肢が失われようとも戦える気がした。
 無言で立ち上がったレイジを見て、小折は壁に寄りかかると、新品のタバコを白衣のポケットから取り出し、スカベンジャーを一瞥した。
「狩人に背を向けたまま逃げられる程、この世は甘くないぞ」
 暫しの沈黙を置いてから、仮面から舌打ちが聞こえ、銃口がレイジに突きつけられる。
「次は手加減無しで撃つわ!」
 レイジは斜め前に跳躍した。スカベンジャーから銃声が発せられ、右腕に痺れるような痛みが走る。が、直撃ではない。掠り傷のようなものだ。
「スカベンジャーッ!」
 渾身の力を拳に乗せれば、敵の盾をも打ち破れる。
 その、根拠のない希望に全てを託して、レイジはスカベンジャーに牙を放つ。
 スカベンジャーが右肘を引くと同時に、少年の右拳が仮面を殴りつける。
 全ての力が込められた打撃が、仮面を破壊した。スカベンジャーの体が引かれるように後方へと吹き飛ぶ。床を滑る仮面の破片が、乾いた音を鳴らしていた。
 シンと静まり返るボーリング場に、呻き声と荒い呼吸音が浸透していく。
 レイジは、スカベンジャーの素顔を覗いた。
 原型が分からぬほどに彼女の鼻は潰れており、肉感の薄い唇が必死に息を繋いでいる。
 スカベンジャーの右手が、微かに動いた。レイジは、その細い手首を握りしめる。
「もう、いいだろ。観念してくれ」
 スカベンジャーは、まぶたを震わせると、瞑目した。その肌から力が失われていく。
 首裏と膝裏に両手を回し、レイジは彼女を抱き上げた。
 盾を破ったという手応えは、欠片も感じられなかった。彼女が異能力を使用していなかったとは考えにくい。
「小折さんが、この人の異能力を封じていたんですか?」
 吐き出された煙の筋を、月光が映し出していた。
「そうだよ。きみの手で、スカベンジャーを仕留めさせる為にね。レイジくんが活躍してくれれば、レシピエント自警団実現化の可能性が高まるからな」
 小折は悪びれずに言うと、タバコの灰を携帯灰皿に落とした。
「不満か? 知っていれば、手加減をしていたか?」
「そんなの、分かりませんよ」
 醜く変化した鼻が、少年を責め立てる。
 レイジは微かな後悔を意識の底に追いやり、玄関口に足を運ぶ。
 驚くほどに軽いスカベンジャーの肉体は、苦痛に恐怖するように、震えていた。

   4

 スカベンジャーの本名は綾瀬聡莉《あやせさとり》、二一歳の大学生だ。
 高校時代から交際を続ける恋人がいて、今現在の彼は、自発的に呼吸を継続しているものの、眠りから目覚めていない。
 五月に起きた暴行事件が、彼と綾瀬の人生を狂わせたのだ。
 レイジは異能力研究所で、沈痛な表情を浮かべた。
(綾瀬聡莉の行為は許されないものだ。けど……手放しで彼女を責めるなんて、俺には無理だ)
 過酷な境遇に置かれる人間が犯した罪を、無感情に、機械的に罰せられる人間は少ない。ヒトが情けを持ち続ける限り、ヒトへの同情は消えない。
「先輩はどう思いますか。綾瀬のことを……」
 携帯電話を操作していた美涼は、画面に視線を固定したままため息をついた。
「気の毒だと思います。でも、彼女をかばう気にはなれません」
 スカベンジャーの異能力《ショットガン》は、多くの少年に苦痛を与えていた。
 それは同時に、被害者の家族友人に精神的ダメージを与えていたことにもなる。程度こそ違えど、恋人を半ば失った綾瀬のように、皆が心を痛めていたはずなのだ。
「俺だって同じ気持ちです。けど……何か、腑に落ちないんですよ」
「今回の事件で綾瀬が手に入れたのは、スカベンジャーという不名誉な悪名だけですからね……眠り続ける恋人を残して、彼女は罰せられるんです」
「刑務所に入れられる……ってわけじゃないですよね」
「小折さんは教えてくれませんでしたが、ランクSのレシピエントとして、罪を犯した異能力者専用の施設に入れられるでしょう」
「結局、俺たちがとやかく言う問題じゃない……」
「そういうことです。一日でも早く、わたくしたちは日常生活に戻りましょう」
 レイジは相槌を打つと、ソファに背を預けた。
 自分には何も出来ないのだ。それ以前に、何をしたいのかさえ掴めていない。
 時間の経過と共に、スカベンジャーの一件を忘れていくしか無い。
 と、携帯電話が振動した。桃奈からの電話だ。
 レイジは廊下に出てから通話ボタンを押した。
[なんか、レイジに電話しろってメールを美涼から貰ったんだけど。なに?]
 何も説明を受けていないレイジだが、美涼の目的は掴めた。事情を明らかにしてやれ、ということだろう。しかし守秘義務を課せられているので、全ては明かせない。
「実は、俺と美涼先輩は、異能力研究所の手伝いをしてたんですよ。だから夜一緒に歩き回ってて……」
[秘密にしてたってこと? あたしだってレシピエントなのに]
 桃奈の不機嫌度が増した気がした。
「ええ、まあ……そうですね。隠してました」
[……ふうん。別にいいんだけどさ]
 廊下の静けさが両肩に重くのしかかる。
 レイジは不安げに辺りを見渡した。その行動にこれといった意味はない。
[話変わるけどさ。レイジと美涼がつけてたブレスレットをデザインしたっていう歌手、ゴゴだっけ? 本当にいんの? 検索しても出てこなかったの]
 ゴゴ……? と首を傾げたレイジは、数時間前についたウソを思い出した。
「ごめんなさい。あのブレスレットは、異能力研究所から与えられた物で、肌身離さず嵌めとかなきゃいけなくて……それ以上は、教えられません」
 小折の部下である双子が目の前を横切っていった。二人が小走りで廊下を曲がっていく。忙しそうな気配と淡い香りが、レイジの周囲に漂っていた。
[……本当? 命、賭けられる?]
「無論です」と、即答した。
[……ごめん。なんかあたし、凄い嫌な奴になってた]
 と、さっきの双子が書類を抱えて戻ってきた。『お前は暇でいいよな』とでも言いたげにレイジを一瞥してから、エレベーターに乗り込んでいった。
「気にしないでください」
[ありがと。でも、ちょっとショックだな。あたしだけ仲間外れみたいで]
 普段の桃奈らしい明るい声だ。レイジはふうと一息ついた。
「ちょっと危険なお手伝いだったんです」
[そりゃあ、あたしの異能力はしょぼいよ? 悪党だって倒せないし、使い所もあんまり無いし。でも、教えて欲しかったなぁ。もしかしたら役立てるかもしれないじゃん]
 その瞬間、脳内で閃きが弾けた。
 色濃い閃光が、霧のように不確かだったものを照らし出す。
(綾瀬聡莉は、罪人だ。これは揺るぎない事実なんだ。でも、綾瀬の恋人に罪はない……。無理かもしれないけど、やってみる価値はある)
 レイジは一旦通話を終わらせ、通りがかった職員に小折の居場所を訊いた。
 そして最上階の個室に向かい、出てきた小折にある提案をする。
「桃奈ちゃんの異能力を一般人に使おうというのか。ううん……」
 渋い表情を見せた小折が髪の毛をかく。
「……何とかしてみよう。レイジくんや美涼ちゃんのメンタルケアになりそうだしな」
「すいません、ワガママを言ってしまって」
「気にするな。私が所長の小言を聞けば済む話だ。私の有給日数が削られたり正座させられたりするだけで、事足りるからな」
 冗談っぽく小折が言った。
 レイジは深々と腰を曲げる。「感謝します」
「お礼にご飯でも奢ってもらうとするか。回る寿司が食べたい。私だけじゃ不公平だから、部下たちも連れていきたいな」
 またまたぁ、と顔を上げる。小折の三白眼は、笑っていなかった。

 
 スカベンジャー捕縛の夜から、二日が経過した。夏は本格的な段階に移行している。太陽の熱が容赦なくアスファルトを焦がしていた。
 レイジは桃奈を連れて八馬病院につま先を向けていた。皮膚から吹き出す汗は、暑さだけのせいではない。一歩進むごとに徐々に増していく緊張が、心臓を高鳴らせていた。
 八馬病院の正門が見えた。
 ふと、小折の言葉が蘇る。
『失敗したら、綾瀬聡莉は深い傷を負うことになる。絶望的な状況下で差し出された一抹の希望は、時として鋭利な刃物に変貌する。そのつもりで望め』
 レイジが小折に出した提案。
 桃奈の異能力を使い、植物状態にある綾瀬の恋人を呼び覚ますというものだ。
 桃奈は、直接的に想いを相手に送り込む異能力を持っている。
 過去、彼女はその異能力を使い、意識不明の重体に陥っていた幼なじみを救っていた。
 桃奈なら綾瀬の恋人も救えるのでは?
 楽観的で短絡的な発想だ。無謀な試みでもある。
 それでも、レイジは綾瀬聡莉と関わりを持ってしまったのだ。
 彼女と彼を救ってやりたいと考えるのは、自己満足だろうか。桃奈を巻き込んでまで、解決すべきことなのだろうか。偽善だと後ろ指を指されるかもしれない。
 他人からどう思われようと、構わない――。
 それが、レイジが出した結論だ。
 正門をくぐると、桃奈が口を開いた。
「レイジ。先に言っとくけどさ」
「なんですか?」
「あたしは、綾瀬聡莉からの贈りモノをその人に贈り届けてみせる。贈りモノ同好会として、依頼をまっとうしてみせる。だから……」
 セミの鳴き声が、病院を包み込んでいた。桃奈はひたいの汗をハンカチで拭う。
「あたしを信じて」
 レイジは無言で頷いた。
 この試みの主役は、桃奈なのだ。レイジは提案者に過ぎない。それなのに、失敗時のことばかりを考えていた。それでは桃奈に不安が伝染してしまう。
 レイジがやるべき事は、彼女を信じる。その一点に限られるのだ。
「頑張ってください」
「任せて。贈りモノ同好会の成功率は百発百中なんだから。ミスるわけにはいかないわ」
 病院のエントランスホールに入ると、全身が冷えた。しかし、汗は止まらない。
 受付カウンター近くに立っていた小折が、こちらに気づいた。
 小折は、パールホワイトのポーチから四角折りされた便箋をすっと出すと、桃奈に渡した。
「約束通り、綾瀬に彼宛の手紙を書かせた。けど、桃奈ちゃんが期待しているものとは違うかもしれない」
「手紙があれば充分です」
 入院病棟の二階まで行き、三人は入院室の前で立ち止まる。表札には『宍倉敦』と書かれていた。
 部屋は新士の個室と同じ間取りだ。
 しかし雰囲気はまったくの別物だ。壁に点滴剤のようなパックがぶら下がっている。そこから伸びるチューブは、ベッドに横たわる若者の鼻へと続いていた。か細い呼吸を続ける青年の目が開く気配は、無い。
 レイジは、唇を震わせた。
「暴行を受けた時の衝撃で、脳の一部が機能しなくなっている。彼が意識を取り戻す可能性は、少ない。医者は、そう言っていた」
 小折がぽつぽつと呟いた。
 桃奈は深呼吸をすると、彼宛の便箋を慎重にひらいた。
 文面に目を通してから便箋を四角折りにして、彼の真横でしゃがむ。
 便箋を彼に握らせ、その手を両手で包み込んだ。
 そして、そっと目を閉じる。
「……お願いです。戻ってきてください。私を、独りにしないでください」
 レイジと小折は、緊張気味に二人を見守っている。
 綾瀬の恋人、宍倉敦に変化は見られない。
「綾瀬聡莉さんからの手紙には、そう書かれていました。宍倉さん……残された綾瀬さんは、貴方を待ち続けています。手紙に込められた想いを感じてください。あたしを通じて贈られる気持ちを、受け取ってください」
 宍倉敦の手のひらを包み込む力が、強まった。
「あたしからも、お願いします。戻ってきてください。いつまでも眠り続けては、貴方も、綾瀬さんも前に進めません……」
 それきり、桃奈は口を閉じた。
 目を閉じ、一心不乱に想いを伝えようとする桃奈は、敬謙な修道女が祈りを捧ぐ姿とよく似ている。
 神からの贈物《ギフト》が、桃奈と彼の心を繋いでいた。
 少女と青年を繋ぐ異能力には、綾瀬聡莉の想いが込められている。
 レイジは、無意識のうちに両手を組んでいた。
 瞬きひとつせず、息を忘れそうな程に、祈っていた。
 数分が経過した後、宍倉敦の唇が微かに動いた。
「……さと、り?」
 宍倉敦は、掠れた声で恋人の名を呼んでいた。ぼんやりと開かれた両目の動きに合わせて、宍倉の頭が動く。彼の瞳には、桃奈の輪郭が映っていた。
「聡莉……だよな?」
 レイジは目を見開き、彼の横顔を見据える。
 見えない色が彼の頬を染め始める。取り戻された感情が、青白い肌を彩っていた。
「……信じられん……」
 小折が喉を震わせた。
 その声に反応したのか、宍倉は力弱い笑顔のままで小折に顔を向ける。
「お医者さん……ですよね? てことは、ここ、病院……?」
「あ、ああ」小折は白衣の胸あたりを落ち着きなく撫でる。「気分はどうだ?」
「気分っていうか……喉がカラカラで……飲み物とか、あります?」
「すぐに持ってくる。待っててくれ」と、急ぎ足で小折は廊下に出ていった。
 桃奈は優しげな微笑を浮かべると、ハンカチで彼のひたいの汗を拭った。
「暑くないですか?」
「うん……聡莉の手って、こんなに大きかったっけ……?」
「寝起きだから感覚が違ってるんですよ、きっと」
 廊下から忙しない気配が聞こえた。
 勢い良く開かれたドアから、本物の医者と看護婦が部屋に雪崩込んできた。紙コップ片手の医者が、驚愕の眼で宍倉を見つめる。
「宍倉さん。お水です。ゆっくりと、焦らずに飲んでください」
 動揺しているのだろう。紙コップの水面は嵐に晒される海のように荒れていた。医師はストローを宍倉の口元に当てる。
「ぬるいな……水って、こんなにおいしかったっけ」
 と、宍倉は桃奈に笑いかけた。
 レイジは静かに入院室を出て、後ろ手でドアを閉める。
 自分がそこに居る意味は、無くなっていた。一つの想いに呼び覚まされた宍倉は、桃奈を綾瀬だと思い込んでいるようだった。自分がいては、邪魔になるかもしれない。
 ドア横の壁に寄りかかり、深く息を吐き漏らす。小折の姿は見えない。異能力研究所に電話報告をしにいっているのだろう。
(異能力、か。俺や研究所は、それを厄介な力だと決めつけているけど……桃奈さんが言っていたように、神様からの贈物《ギフト》なのかもしれない)
 その異能力で、スカベンジャーは人間に苦痛を与えていた。
 その異能力で、桃奈は綾瀬聡莉の恋人を救っていた。
 その使い道は、自由だ。
 神は贈物《ギフト》を与え、人間を試しているのか?
(面倒くさい神様だな。目の前にいたら、ぶん殴ってるところだ)
 ひとり苦笑していると、白基調の入院病棟には似つかわしくない金髪が視界に入ってきた。新士である。そういえば今日は新士の退院日でもあった。
「ったくよう。アバラにヒビが入ったぐらいで入院させやがって。てか入院じゃねえな。監禁だよ、かんきん」
「お前の場合は異能力を喰らってたからな。研究所は後遺症を危惧してたんだろ」
 新士は金髪をぼりぼりとかくと、ふわーとあくびを浮かべた。
「で、スカベンジャーの恋人は? 意識、戻ったんだろ? 今さっき蛇目女からすれ違いざまに聞いたぜ」
「こう言っちゃ安っぽいけど……桃奈さんが、奇跡を起こしたんだよ」
 新士は入院室のドアを見やると、「ふうん」と言った。
「五月の事件も解決するかもな。被害者の意識が戻ったんだもんよ」
「ああ……何がなんでも、解決してもらいたいな」
 二人の少年は入院室のドアを見つめ、しばらく黙った。
 先に沈黙を破ったのは、新士だ。
「先帰ってるわ。アパートの鍵、よこせよ」
「……お前さぁ。退院日くらい、自分のとこに帰れよ」
「ありゃ、桃奈先輩でも連れ込む気か? だったら大人しく従うけどよ」
「馬鹿野郎。ほら」
 レイジから鍵を受け取った新士は、口笛を吹きながら階段を降りていった。
 今頃になってやってきた安堵感を心地良く感じつつ、レイジはため息を吐くのであった。



 終章 Gifts

 七月三○ 日は猛暑日だった。桃奈の誕生日の前日でもある。
 夕方頃に、レイジは美涼に電話をかけた。桃奈さんへのプレゼントについて助言をください、と。[それくらい自分で考えたらどうですかー?]と言われて、多少の憤りを感じてしまう。こっちは分からないから相談したのである。
[仕方ありませんねえ。貸し一つですよー]
「よろしくお願いします」
[以前、桃奈がぽつりと言ってたんですよぉ。あたしも音楽とか沢山聴くようにしよっかなー、って]
「俺のオススメ歌手のアルバムを贈れってことですね」
[脳味噌が錆びついてるんですかぁ? 人から勧められた音楽ほど厄介なものはありませーん。気に入れば良いけど、もしもびみょーな曲だったら反応に困るでしょ?]
 なるほど、とレイジは深く感心した。音楽の好みは人それぞれなのである。
[レイジさんが持ってるような音楽プレイヤー。これを贈れば、喜ぶでしょうねえ]
「おお……たった今、初めて美涼先輩を尊敬しましたよ、俺。ありがとうございました。さっそく買いにいきます」
[貸し一つですからねー]
 その後、レイジは家電店に繰り出し、棚に並ぶ携帯音楽プレイヤーを吟味する。最新機種のカラーは七種類だ。悩みに悩んだ末、桃色にした。
 店員がプレゼント用の包装をしている最中に、気づいた。自分のソレと色が被っているのだ。しかし、別にいいやと思って、交換することもなくそのまま持ち帰った。

 その夜、レイジは街中の回転寿司屋に足を運んだ。
 カウンターの一列を十一人の大人たちが占領していた。小折とレシピエント制圧部隊の面々である。
「この歳になって年下に寿司を奢ってもらえるとは。人生とは摩訶不思議ですなぁ」
「タダ寿司って本気でおいしいかんねー。今日は食べまくっちゃうぞー!」
 綾瀬の恋人を救う舞台を作ってもらう代償として、レイジは小折に回転寿司を約束していたのだ。彼女が本当に部隊の面々を連れてくるとは、思っていなかった。
(ひとり二千円として、十一人いるから……嘘だろ? レシピエント自警団の試験計画の報酬が、半分も飛ぶのかよ)
 仕事のストレスを発散するように、私服姿の部隊員が寿司を頬張っていく。滞り無く建築されていく皿の塔が、レイジの心臓をゆっくりと圧迫していく。
「時にレイジくん。桃奈ちゃんへのプレゼントは決まったか?」
「えっ。なんで小折さんが知ってるんですか」
「私はこの地区の責任者だ。レシピエントたちの誕生日は網羅している。誕生日プレゼント、彼女に贈るんだろう?」
「一応、こういうのを買っておきましたけど……」
 自分の携帯音楽プレイヤーを小折に見せる。すると小折の部下の双子が鼻で笑ってきた。
「私だったら目の前でドブ川に捨てるな」
「私だったら質屋に直行して金に換える」
「レイジくん、こいつらの言う事は気にするなよ。仲良い異性からのプレゼントは、よっぽどアレじゃない限り嬉しいもんだ」
「小折さんだったら、どんなプレゼントが嬉しいですか?」
「ジッポーかな。それかブランド物の灰皿……携帯灰皿も悪くないかも。よろしくな」
 小折はパチッとウインクをすると、大将に「大トロを頼む」と注文した。
「……この寿司が誕生日プレゼントです。これは決定事項ですからね」
 レイジはあきらめ気味にタコを口に含んだ。酢飯と醤油が口の中で絡み合う。コリっとした食感が、ちょっとだけ幸福感をもらたしてくれた。

 
 日付けも代わり、七月最後の日がやってきた。桃奈の誕生日だ。
 桃奈の発案で、贈りモノ同好会の部室を掃除をしようということになった。
 グッドタイミングだ。そう思いつつ、レイジは数日ぶりに高校指定の夏服に袖を通す。
「帰りは遅いんかー?」と、ゲームプレイ中の新士が画面を見たまま言った。「昼メシ外で食ってくるんならメール送れよ」
「多分、昼メシは桃奈さんと食ってくるわ」
「青春ってやつはいいなぁ、おい。ヌフフ……レシピエント同士の子供って、やっぱあれかな。生まれつき異能力を持ってたりすんのかなぁ。お前らの場合はあれか? 音楽を聴くと強くなって拳に乗せた想いを敵に叩き込む、みたいな?」
 新士の後頭部を軽く蹴ってから、レイジはアパートを出た。
 すぐ近くのバス停でバスに乗り、そして八馬高校前で下車する。
 校門を抜けたところで、自転車に乗る桃奈が目の前で停まった。
「おはよー。今日も暑いねー。絶好の掃除日和!」
「夏の大掃除にはうってつけですね」
 二人は肩を並べて部室に足を運んだ。
 終業式以来の部室は、待ちわびていたように、溜めにためた熱気で二人を迎え入れた。
 掃除といっても狭い部室である。三○ 分程度で隅々まで綺麗になった。
「お菓子でも食べよっか」
 机に小型のクーラーボックスが置かれた。
 中から出てきたのは、水羊羹とギンギンに冷えた緑茶だ。
 これだから贈りモノ同好会はやめられない。しみじみとそう思いつつ、レイジは水羊羹をパクリとやる。芯まで冷えた甘みが、軽い疲れを癒してくれた。
「桃奈さん、誕生日おめでとうございます」
 鞄から出した包みを、桃奈に手渡した。
「ありがとー! 実はめちゃくちゃ期待してたんだよねー。開けていい?」
 すでに桃奈の指はシールを剥がそうとしていた。レイジは苦笑しつつ頷く。
 手際よく衣を剥がされた桃色の携帯音楽プレイヤーを見て、桃奈が目を瞬かせる。
(……あれ? 俺、やっちゃったかな? でも責任の所在は美涼先輩にある……いやいや、決めたのは俺じゃないか)
 不安に胸を突っつかれていると、桃奈の表情に花が咲いた。
 満開の笑顔を前にして、レイジはホッとする。
「気に入っていただけましたか?」
「うん! 買おっかなーって悩んでたところなの。ありがとね」
 レイジは安堵感に酔いしれながらも水羊羹を口にした。
 これからどうしよう。思ったよりも早く掃除が終わったので、昼食には早過ぎる。ショッピングモールのミニシアターに桃奈を誘おうか。
「ねえレイジ。ちょいと疑問なんだけど、これって、どうして桃色なの?」
 携帯音楽プレイヤーのボタンをカチカチと押しながら、桃奈がぽつりと言った。
 頬を僅かに染める紅色は、暑さによるものだろうか。
 落ち着きなく泳いでいた瞳が、レイジを捉えた。
「桃奈さんだから、桃色にしたんです。他意はありません」
 俺とお揃いのつもりで買ったんじゃないんですよ、という意味をレイジは言葉に含めていた。
 校舎の樹木にとまるミンミンゼミが、やけに張り切りだした。怒鳴っているような鳴き声だけが、レイジの聴覚を揺らし続ける。
「……桃奈さん? どうして、そこで黙るんですか? 俺の心臓に悪いですよ?」
 半目で副部長を見つめていた部長は、ぷっと笑うと、いつも通りの微笑を浮かべた。
「レイジらしいなーって思ってさ。さて、掃除も終わったことだし……どっか遊びいかない?」
「いいですね。映画でも……」
 と、そこでドアがノックされた。
 レイジと桃奈は顔を見合わせる。
 夏休み中に叩かれた部室のドア。
 顧問の教師が掃除の様子を見に来たか?
 それとも、贈りモノの依頼か?
「場合によっては……映画は次の機会になるかな。構わないよね?」
「無論です」
 贈りモノの依頼でありますように。 
「どうぞー」
 そう期待しながら、レイジは桃奈と声を揃えた。
          
ハスカア OzsONDSUUs
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2011年06月18日(土)17時54分 公開
■この作品の著作権はハスカアさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 ハスカアと申します。
 ジャンルはタイトル通りの異能力モノ。
 主役は高校生で、もちろん異能力者です。
 サクっと食べられて食後感も程良いチャーハン。料理に例えればそんな感じのラノベ小説に仕上げたつもりですが、薄味になっていないかと不安でたまりません。
 皆様に試食していただき、改善点や不要な具材を指摘して貰えれば幸いです。
 無論、気軽な感想も心の底からお待ちしております。
 よろしくお願いします。

※公募に送る為、今月末に削除いたします。


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