南京事件FAQ
Q10
日本軍が貴重な銃弾を抵抗能力のない捕虜に対して無駄遣いするはずがない。また石油をかけて殺したという話もあるが、当時は「石油の一滴は血の一滴」と言われており、これもまた考えられない話である。
A10.事実
(1)日中戦争当時日本は石油に不自由していません。
これは中国と戦った日中戦争と、アメリカと戦った太平洋戦争と混同した間違いです。
否定派はよくこのような「時代が異なる話を同時代であるかのように扱う」トリックを使います。
「石油の一滴は血の一滴」は昭和18年に出来た標語です。南京事件は昭和12年〜13年です。
全然時代が違います。
戦前の日本の石油の輸入先はほとんどがアメリカに頼っていました。
昭和16年8月に日本が南部インドシナまで進駐したことへの対抗措置として、アメリカが対日石油輸出禁止措置を取るまで、日本はアメリカから輸入できたので不足していません。
アメリカが対日石油輸出禁止措置を取って初めて、それまで国内で備蓄していた量では海軍の軍艦が数年内に行動不能になる怖れが現実となりました。日本は石油を確保するために油田を持つタイやシンガポールへ軍隊を派遣して油田地帯を占領しようとし、それをアメリカの太平洋艦隊に邪魔されないために艦隊基地である真珠湾を奇襲攻撃(昭和16年12月
8日)したのです。
しかし、南方での油田開発がいっこうに進まず、石油が全然確保できないので、日本は「石油の一滴は血の一滴」という標語を作って石油の節約をしなければならなくなったのです。
だから、太平洋戦争が始まる前に起きた南京事件では「石油の一滴は血の一滴」などという状態は発生しようがありません。
(2)日中戦争当時、日本はアメリカから石油を輸入していました。
アメリカには中立法という法律があり、国際法でも中立国は戦争をしている双方の国に軍需物資を売買することが禁止されています。日本はアメリカから火薬や鉄、石油の輸入先をしなければ戦争も出来ないので、日中戦争を「戦争ではなく事変」と言い張って、中国に宣戦布告をしませんでした。宣戦布告をすると、自動的にアメリカから石油が輸入できなくなって中国と戦争する能力が無くなってしまうからです。
当時「日支事変」と呼んだのはこのような理由によります。
ポイント
(1)「石油の一滴は血の一滴」は昭和18年の標語。
(2)日中戦争の時はアメリカから石油を輸入していた。
(3)石油が不足するのは、太平洋戦争が起きた昭和16年以後。