南京事件FQA
Q1
日本軍は30万人殺したと言うが、当時の南京の人口は16〜25万人である。しかも戦闘が迫って避難する人々も多かった。
30万というのは上海戦以後の戦闘時に志望した将兵を含めての数字。
南京占領後の敗残兵狩りで殺害された人数ではない。
秦郁彦氏が日本軍の戦闘詳報を元に、敗残兵狩りで殺害された中国兵捕虜と民間時を約4万人としている。
すでに、複数の実証的な研究(板倉由明氏による1万人説、秦氏による4万人説、笠原氏による20万人説、東京裁判は20万人)が存在しているのに、それらを無視して「30万人説」しか存在していないかのように言う相手には気をつけた方がいい。
板倉氏や秦氏の説を知らなかったり、東京裁判で30万人とされたと主張する人物は、実際には南京事件についてなにも知らず、自由主義史観や小林よしのりらの著作をウニ身にしていると思ってよい。
Q2
日本軍が南京に入場した時の難民の数は20万で、1か月後には人口25万人にふえている。虐殺があったのなら、一般市民は南京に戻らないはず。
南京市の人口が25万に増えたというのは嘘。
(1)南京市には最初から25万人の市民が残っていた。
(2)南京市に戻ってくる難民はほとんどいなかった。
(1)南京市には最初から25万人の市民が残っていた
ラーベら国際安全委員会では、南京市に残る市民の人口を20万人と見積もっていたが、実際に統計調査をして確認したわけではないので、当てずっぽうの見積もりだった。
日本軍の占領後ににスマイス博士らが統計調査をした結果、安全区に避難した人口が20万、安全区外の南京市に残っていた人が5万人で、合計25万人の市民が逃げずに南京市に残っていたことが判った。
これらの安全区外の市街地に残っていた5万人の人々も日本軍の暴行・略奪・放火に耐えかねて安全区に逃げ込んできた。これらはラーベの日記の1月17日の記述、日本軍特務機関の報告書で確認できる。
ラーベの日記
> 難民数は今や約25万と見積もられている。増えた人たちは廃墟になったと
>ころに住んでいた人たちだ。彼らはどこに行ったらいいのか判らないのだ
「南京の真実」p190
(2)南京市に戻ってくる難民はほとんどいなかった。
城外から南京市に戻ってくるくる市民がほとんどいないことは、南京攻略軍の司令官であった松井中将が占領地行政の問題点として雑誌記者に語っている。
> 雑誌「改造」昭和13年3月号
>
> 松井指揮官・山本実彦対談
>
> 三軍を統べて我民族のために上海、蘇州、講習、南京で大捷し、歴史的の偉業を、基地でホット休養している松井指揮官を私は大晦日の午後に訪問いたしまして約一時間会談を遂げることができました。
>(中略)
>山本:
> 南京もよく行きましたね。あれほど早く陥ちるとは思ひませんでした。
>松井:
> 実は僕らも、もう二週間ぐらいは後になるだらうとおもっていたが、案外
に早かった。
>蒋介石の教導総隊だけは相当に抵抗をつづけたが、後はたいした抵抗をしなかった。だか
ら南京は都合の好いことには余り破壊されていない。蘇州も十分の一位しか壊れていない
が、占領地域の人民の帰って来るまでにはやはり一月位はかかるだらうね。今でも一日に
六百人位は帰って来るとか云ふ話だ。
(後略)
偕行社「南京戦史資料集II」p197
昭和12年12月末の時点で、松井司令官は日本軍の占領した南京や蘇州に一
般市民が戻ってくるのに1ヶ月はかかると見ている。
東中野修道が昭和13年1月になって南京安全区の人口が25万となったことを
根拠に「市外から南京市に市民が戻ってきた」と主張していることが成り立たない
ことが判る。
一日に600人ぐらいの難民が戻ってくるのなら、5万人の人間が増えるのに要
する期間はおよそ83日間、2ヶ月半もかかる勘定になる。
Q3
日本軍は南京が平静を取り戻したのち、軍人と民間人を識別するために「良民票」を発行したが、その発行数は約20万で、これは外国の機関にも確認されている数である。つまり、南京攻略戦で一般市民はほとんど死んでいないということである。
日本軍は南京で良民票を発行しているが16万票も発行していない。
Q3
何十万人もの人間を短期間で殺すためには組織的な準備が必要である。ナチスの収容所のような所でも、一度に殺すには限界がある。ちなみに広島の原爆で人口30万6500人のうち24万7000人が死んだ。それに匹敵する人数を、数日間で行うことは物理的に不可能である。仮に東京を絨毯爆撃しても7〜8万人が限界であると考えられている。しかし、もちろん日本軍はそのような準備はしていなかった。
まちがい。
日本軍は一度殺したので、短期間に殺害したのでもない。
南京での虐殺は12月13日の南京陥落から約二ヶ月間の長期間にわたって続いた。このことは極東軍事裁判で日本に有利な判決を主張したパール判事でさえ認めている。
>南京における日本兵の行動は凶暴であり,かつベイツ博士
>が証言したように,残虐はほとんど三週間にわたって惨烈
>なものであり,合計6週間に渡って、続いて深刻であった
>ことは疑いない。事態に顕著な改善が見られたのは、よう
>やく2月6日あるいは7日すぎてからである
「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(講談社学術文庫)P600
Q7
.大量に死体を放置しておけば当然伝染病が発生するので、直ぐに殺した側の軍隊はそこから離れなければならないはずだ。しかし、日本軍は南京を統治する意思があったので組織的に大量虐殺を行い、病気をはやらせるわけがない。また、たった一人の死体を数時間放置しただけで腐臭はものすごいものがある。だが、外国に「南京事件を電文で送った」記者達は、誰も「耐えられない腐臭」という文を送っていない。
5.軍隊が貴重な「鉄砲の玉」を抵抗能力のないものに対して無駄遣いさせるはずがない。また石油をかけて殺したという話もあるが、当時は「石油の一滴は血の一滴」と言われており、これもまた考えられない話である。
6.欧米の外交団や反日的なキリスト教牧師や大学教授,ジャーナリストが南京城内に残っていたので、司令官の松井石根大将は細心の注意を払っていた。近くにある中国革命の父・孫文の墓を荒らさぬことまで気に掛けていた
7.軍需品や必要な食料を占領地域から徴収することは国際法上合法である。これは日本軍人の犯罪ではない。
8.東京裁判で初めてこの事件が公にされたが、証人のマギー牧師が実際に見た殺人事件はたった1件で、しかもそれは被害者が警備兵に誰何(すいか)されて逃げたからであった。誰何して逃げれば味方でも殺すのが戦時国際法の措置である。それ以外の彼の証言は伝聞,噂話,憶測ばかりであった。
9.マギー牧師は当時の南京城内の実写フイルムを所持し、これは現存しているが、死体の映像が写っているだけで、日本軍の仕業かどうかはわからない。東京裁判にも証拠として提出されなかった(つまり、採用される見込みがなかったということ)。
10.10.中国軍は国際法で禁止されている便衣隊(非戦闘員を装った兵士、ゲリラ。便衣隊を銃殺してもジュネーブ条約第4条により合法である)の取締りをしなかったために、便衣隊に混じって、不幸にも民間人が殺されたケースは考えられる。ヴェトナム戦争のソンミ村の虐殺はその典型である。このたぐいの事件を含め、日本軍人による若干の事件はあったが、松井大将は犯人を軍法会議にかけ、厳しく処断している。ちなみに軍法では強姦者は銃殺であった。
cf. ハーグ条約(1907年)では、敵から見えるように武器を持ち、正規兵の服装をしない者(つまりゲリラ)は、条約の与える保護を受けることはできないと定められている。これは、現在も生きている戦時国際法である。
11.11.南京は国際都市で、非戦闘員を集めた「安全区」があり、欧米人が管理していた。当時日本に反感を持っていた米,英,仏も外交的な抗議を行ってはいないし、「安全区」を砲撃せず、病院に肉などの食料を贈った日本軍の行為に対して感謝状まで贈っている。感謝状を贈った本人こそ、『ラーベの日記』で有名になった、あのラーベである。
12.12.蒋介石は小さなことでも国際連盟(日本は脱退していたが)に訴えていたが、南京での出来事を国際連盟に提訴していないし、他の問題で日本を非難した国際連盟が、南京「大虐殺」を非難していない。
13.当時、支那事変のニュースを送っていた欧米の通信社(マスコミ)が、本国に「大虐殺」事件を打電していない。
14.14.日本の新聞記者や評論家など 120人も南京陥落と同時に南京入りしたが、戦時中は軍が怖くて批判が無理だったとしても、戦後に至っても「大虐殺」に関して何の記事も書いてはいないし発言もしていない。ちなみに、支那事変の初期には、報道は自由であった。「大虐殺」を非難する「ジャーナリスト?」本多勝一や歴史学者(?)の洞富雄,藤原彰らによる著作は、当時少年だった数人の「証言」を一方的に伝えたもので、検証を行っていない。(例えば、虐殺が行われているはずの南京場内に、日本軍の警備の目をかいくぐって戻ってきた幼年の話のように)ゆえに信憑性が薄く、また関係者の「回想」なるものも、矛盾に満ちており、時流便乗的なものばかりで史料とはなりえない。
15.15.日本軍は首都南京の被害が大きくなることを考慮し、蒋介石に対して南京をオープン=シティ(無防備都市=国際法により、降伏する代わりに敵に攻撃されない)とすることを勧めたが、彼はこれを拒否した。責任者である将軍達は市民や敗残兵
(中国人敗残兵はタチが悪いことで国際的に古来有名である。また、虐殺したり、死体を辱めることも常であった)を残して逃げてしまっていた。彼らによる略奪や強姦,殺人といった事件もあった(米国の外交官や新聞記者が、中国人敗残兵が市民から衣服を奪い、抵抗する者を殺しているという報告している)。オープン・シティにしないのであれば、降伏するか、徹底的に戦うかの意思を内外に表明すべきであった。首都南京で戦闘が行われた混乱の責任は国民政府にある。
16.16.南京陥落前に南京を脱出したドイツ人の日記なるものが南京「大虐殺」事件の新資料として宣伝されたことがあったが、そこには、「南京の揚子江岸は、死骸が山のようにあった」と書いてある。この時日本軍はまだ南京に入っていない。これが事実なら「大虐殺」は日本軍以外の何者かが行った、という新資料になるのではないか?
さぁ、爆弾野郎(笑)。南京事件否定派は合理的な説明が通用しないと言った以上、これら16の疑問に論理的な説明で答えてくれたまえ。
2.>「良民票」を発行したが、その発行数は約20万で、
これも大ウソ。国際安全委員会の「第19号文書」を改めて引用すると、
「貴下(日本大使館の福田篤泰のこと)が登記した市民は16万人と思いますが、それは十歳以下の子供は含まれていないし、いくつかの地区では、年とった婦人も含まれていません」(1938年1月14日)
どこに「20万」なんて書いてあるんだ?。「登記した市民は16万」と書いてあるぞ。
>これは外国の機関にも確認されている数である。
良民証の発行数「20万」を確認した外国の機関はどこだ?。
>つまり、南京攻略戦で一般市民はほとんど死んでいないということである。
前提が間違っている以上、これは大ウソである。そもそも、一般市民にも万単位の死者が出たことは、スマイスの「南京地区における戦争被害」を挙げるだけで十分である。
3.>何十万人もの人間を短期間で殺すためには組織的な準備が必要である。
馬鹿バカしくて答える気にもならない。南京攻略戦に従軍した日本軍は15万人以上だぞ。そのうち、南京城内に入場した兵隊の数は約7万人とされている。15万人の兵隊が、南京城内外で、一人につき二人を殺しただけで30万人の人間を殺せる。
4.>外国に「南京事件を電文で送った」記者達は、誰も「耐えられない腐臭」という文を送っていない。
陥落当時まで南京に残っていた外国人ジャーナリストは、ダーディン(NYタイムズ)、スティール(シカゴ・デイリー・ニュース)、スミス(ロイター通信)、マクダニエル(AP通信)、メンケン(パラマウント映画ニュース)、以上の五人である。
これらのジャーナリストが南京を離れたのは12月15日(マクダニエルだけが16日)だ。12月15日と言えば冬である。なおかつ、日本軍が殺した中国人の遺体は揚子江に流されたものが大量にある。果たして、外国人ジャーナリストがいる間に「耐えられない腐臭」が発生したのか疑問である。
5.>軍隊が貴重な「鉄砲の玉」を抵抗能力のないものに対して無駄遣いさせるはずがない。
>また石油をかけて殺したという話もあるが、当時は「石油の一滴は血の一滴」と言われており、これもまた考えられない話で
ある。
「はずがない」とか「考えられない」なんてのは、何の証明にもならない。現実に次のような記録があるんだから。
(佐々木野戦郵便長の日記より)
「銃殺した捕虜は2000名(余)で…石油をかけられたのでぶすぶす燻って居る。其臭は秋刀魚を焼いた様である。波打際に血を流し累々横たわっている。此処(ここ)で復(また)驚いたのは波打際に死体と並むで居る一人が此方を向き目を開け瞬き睨むで居るのである。兵站部の兵が道路の欄から撃つ。一発命中したが死なぬ。次の一発は水に当たる。目を見開いて呪はしげに此方を見る…。河岸に下り立って余喘のあるらしいのを撃つ」
この日記には、捕虜を銃殺したこと、死体の焼却に石油を使ったことがハッキリと書いてある。しかも、まだ息のある捕虜がおり、その捕虜にも銃弾でトドメを刺している。
この他にも、従軍者の日記には、捕虜の殺害に銃弾を使ったことを示すものが腐るほどある。
6.>欧米の外交団や反日的なキリスト教牧師や大学教授,ジャーナリストが南京城内に残っていたので、司令官の松井石根大将は細心の注意を払っていた。
またまた大ウソ。中華民国政府は11月19日に首都を重慶に移したが、これに伴い南京駐在の外交団は11月末までに大部分が漢口に移転していた。それから、12月15日には、外国人ジャーナリストも全員が南京から退去したことは既に述べた。
松井大将が南京に入場したのは、その後の12月17日なのである。
大体、松井石根が軍幹部を集めて「軍規風紀の振粛」と「国際関係の要領」について訓示を与えたのは、12月17日の入場式の後である。これは、入場式前日の夜か当日の朝に、松井が憲兵隊長から非軍規行為の頻発を聞かされたことがキッカケとなったものである。そして、この日以前の「松井日記」には、南京での蛮行に関する記述は出て来ないのである。
従って、司令官である松井が、どれだけ軍規に気を配っていたかは定かではない。しかし、いずれにせよ、松井が「泣いて怒る」ほどの非軍規行為が発生したのは事実である。
(巣鴨拘置所での松井の告白、「平和の発見」花山信勝より)
「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。ところが、このあとで皆が笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえ言った」
仮に、松井が軍規に気を配っていたとしても、それが部下に徹底されていなかったことだけは確かである。
7.>軍需品や必要な食料を占領地域から徴収することは国際法上合法である。
私は、そこまで国際法に詳しくないので、合法か違法かはコメントしない。だが、「略奪」と「徴発」は明確に区分されなければならないハズである。
「徴発」は軍の公式命令に基づき行われるもので、正式には「官憲徴発」と呼ばれる。「徴発」に当たっては、軍の経理官が軍票で代金を払うことになっているが、所有者に対して軍票の交付がなければ、それは「略奪」である。いずれにせよ、軍票を交付しても、所有者の意志に反して一方的に持ち去っていくことに変わりはない。
南京市内における日本軍の「物品持ち去り」は、軍票の交付がない以上、明らかに「略奪」である。一応、「官憲徴発」の命令書も残っているようだが、軍票を交付した事例がどれだけあるんだ?。
8.>東京裁判で初めてこの事件が公にされたが、
どうせウソをつくなら、もっとマシなウソにしてくれよ。事件発生当時、NYタイムズをはじめとする外国のメディアが、南京での日本軍の蛮行を報道している。「東京裁判で初めて公」になったのは、軍が報道を検閲していた日本だけだ。それから、順番が狂うが、関連事項だから、先に13番に回答する。
13.>当時、支那事変のニュースを送っていた欧米の通信社(マスコミ)が、本国に「大虐殺」事件を打電していない。
実に、くだらん。「massacre」という単語を使ってないから「大虐殺」を打電していないという理屈かい?。年明けの1月9日に出たダーディンのNYタイムズの続報には、こう書いてあるんだよ。
「Japanese Atrocities Marked Fall of Nanking
After Chinese Command Fled」(大見出し)
「NAKING INVADERS EXECUTED 20,000」(中見出し)
「Mass Killings by the Japanese Embraced
Civilians-Total of Chinese Dead Was 33,000」(小見出し。以下、記事本文に続く)
英語は自分で訳せよ。ダメなら、英語が得意な知人にでも手伝ってもらいな。「Mass
Killings by the Japanese」は何と訳せばイイのかね?。
9.>証人のマギー牧師が実際に見た殺人事件はたった1件で、
>マギー牧師は当時の南京城内の実写フイルムを所持し、これは現存しているが、死体の映像が写っているだけで、日本軍
の仕業かどうかはわからない。
別に、マギーの証言や実写フィルムが唯一の証拠ではないからねー。他にも証拠は腐るほどある。
10.>(非戦闘員を装った兵士、ゲリラ。便衣隊を銃殺してもジュネーブ条約第4条により合法である)
これも有名なウソだな。非戦闘員を装った便衣兵は、実際に敵対行為を行った「現行犯」ならば、これを正当防衛として殺害しても合法だが、その場合を除いては、軍事裁判の手続きを経なければ不法殺害である。南京では、便衣兵による敵対行為がなかったにも拘わらず、日本軍が一方的に便衣兵と決めつけた者を連行し、裁判なしで処刑したのだから国際法上も違法である。「便衣兵だと思われる」だけで処刑してイイなら、民間人を何人殺しても「便衣兵に見えた」と主張すれば良いことになる。
大体、南京には本来の意味での「便衣兵」は殆ど存在しなかった。「便衣兵」として狩り出されたのは、実際は「軍服を脱ぎ捨てた正規兵」である。
(奥宮正武「私の見た南京事件」より)
「便衣兵あるいは便衣隊と思われていた中国人は、昭和7年の上海事変の際はもとより、今回の支那事変の初期にも、かなり積極的に日本軍と戦っていた。が、南京陥落直後はそうとは言えなかった。私の知る限り、彼らの殆どは戦意を完全に失って、ただ、生きるために軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって、彼らを、通常言われているゲリラと同一視することは適当とは思われない」
いずれにせよ、「敵対行為がない」うえに、一方的な決めつけで「裁判なしで処刑」している点において、国際法に違反していることは明白である。
>松井大将は犯人を軍法会議にかけ、厳しく処断している。
ウソつけ。東京裁判の検事団が田中隆吉少将(元陸軍省兵務局長)を尋問した際の調書には、次のように書いてある。
(「南京事件」秦郁彦より)
「問.松井は責任者を処罰したか」
「答.イエス。しかし、処罰は軽いもので、マネゴト程度に過ぎなかった」
犯人が軍法会議にかけられ、厳しく処断されたことを示す資料は何だ?。あるとすれば、アメリカ大使館の「アリソン書記官殴打事件」で明るみにでた、天野中尉の強姦事件くらいじゃないのか。こんなのは、南京で起こった強姦事件の「氷山の一角」
だぜ。
11.>当時日本に反感を持っていた米,英,仏も外交的な抗議を行ってはいないし、
これもウソ。当時の駐日アメリカ大使ジョセフ・C・グルーは、前述の「アリソン書記官殴打事件」や、アメリカ人の財産を略奪・
破壊したことに関して、日本政府に抗議しているし、日記にも次のように書いている。
(「南京大虐殺否定論13のウソ」より引用。出典はグルーの著書「滞日10年」)
「南京に侵入した日本軍の言語に絶した残忍と、彼らの放恣な米国諸権利の侵害が伝わって来た」
「中国人は大体無差別に殺され、多数の中国婦人が陵辱された」
「大量死刑や殺人や女子陵辱が行われた」
それから、グルーが「南京虐殺」そのものに抗議していないからと言って、虐殺がなかったことにはならない。日本政府との関係を悪化させてまで、南京事件で日本を非難するのは、グルーの職権を越えていたからである。
>感謝状を贈った本人こそ、『ラーベの日記』で有名になった、あのラーベである。
ウソつけ。テメーの言う「感謝状」とやらは、国際安全委員会の「第1号文書」のことを言っているのだろうが、その書簡には「感謝状」などと書かれていない。本当に「感謝状」ならば、文書の表題で「感謝状」と書いてあるハズだが、そんな表題はどこにもない。感謝という単語が出て来るのは冒頭の次の文章だけだ。
『1937年12月14日 南京日本軍司令官殿
拝啓
貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般
市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。(以下略)』
これ以下は、安全委員会の日本軍に対する要望が、何項目にも渡って書かれているのみだ。冒頭で「感謝申し上げる」と書いてあるのは、儀礼的な挨拶に過ぎない。こんな事務的な文書が「感謝状」であるハズがない。
12.12.>南京での出来事を国際連盟に提訴していないし、他の問題で日本を非難した国際連盟が、南京「大虐殺」を非難していない。
アンタの虐殺否定論は、ほぼ全部が田中正明か東中野修道のウケウリらしいな。書くのも面倒くさくなって来たので、これについては「南京大虐殺否定論13のウソ」(柏書房)の第3章(44頁〜48頁)で論破されているとだけ書いておく。
14.14.>ゆえに信憑性が薄く、また関係者の「回想」なるものも、矛盾に満ちており、時流便乗的なものばかりで史料とはなりえない。
回想の「矛盾」を具体的に指摘するべきだな。私の知識外のことなので、コメントできない。
15.15.>日本軍は…蒋介石に対して南京をオープン=シティ(無防備都市=国際法により、降伏する代わりに敵に攻撃されない)とすることを勧めたが、
それは、何という資料で確認できるのだ?。国際安全委員会は「安全区を非武装地域にする代わりに、日本は安全区を攻撃しない」という約束を取りつけようと努力したが、12月5日にアメリカ大使館を通じて戻って来た日本側の回答は、次のようなものだった。
「安全区のルールが中国軍によって守られる見込みは乏しい。したがって、安全区を攻撃しないと約束はできないが、中国軍によって利用されない限り、日本軍は攻撃するつもりはない」(秦郁彦「南京事件」P.83)
「国際安全区だけは、条件付で攻撃しない」つまり「攻撃しないと確約はできない」というのが日本の回答である。南京の「無防備都市」化を日本軍が勧めたことは、どんな資料で確認できるのだ?。
>首都南京で戦闘が行われた混乱の責任は国民政府にある。
国際法に違反した日本軍による捕虜と民間人の殺害は、中国側の不手際に関係なく日本軍の責任である。
16.>南京陥落前に南京を脱出したドイツ人の日記なるもの
そのドイツ人とは誰のことだ?。日記があるなら、名前が不明のハズはないだろう。
>そこには、「南京の揚子江岸は、死骸が山のようにあった」と書いてある。この時日本軍はまだ南京に入っていない。
その日記を引用してくれよ。日付が確認できなければ、日本軍が南京に入った前か後か分からないからな。
>これが事実なら「大虐殺」は日本軍以外の何者かが行った、という新資料になるのではないか?
だから、それを確認するためにも、是非、「南京陥落前に南京を脱出したドイツ人の日記なるもの」を引用してくれよ
南京占領直後の記録映画をちょっと
見た事があるが、シナ人は、みんな
平和に商売してたぞ。中には、日本
兵が、シナ人の床屋にナイフで髭を
剃ってもらっている映像もあった。
女、子供を無差別に殺した後に、シ
ナ人にナイフを自分の首に当てさせ
るか?常識で考えると無理である。