Q8
南京で略奪を行ったのは中国兵で、日本兵ではない。アメリカの副領事(エスピー)が作成したエスピー報告書で、南京の中国兵が略奪を働いていると書いている。


A8.事実
 これも否定派がよく使うトリックの一つ。
 トリックの手法は二つあって、実際のエスピー報告書には、南京落城前と落城後の両方の略奪が記述されている(下参照)が、否定派は南京市陥落前の中国兵の略奪だけを引用する(都合の悪い事実を伏せてしまう)。
 もう一つのトリックは時刻のすり替えで、「南京攻略前」の略奪を「南京略奪後」の略奪にすり替えてしまう。
つまり
 

時間軸 略奪者
南京攻略前 中国軍
南京攻略後 日本軍

 これを以下のように変えてしまう

時間軸 略奪者
南京攻略後 中国軍
南京攻略後 日本軍

(2)エスピー報告書では、日本兵の略奪の方が酷いと書かれている
 実際のエスピー報告書では、中国兵の略奪が落城直前にあった事を認めた上で、日本軍の略奪はそれとは比べものにもならないくらい酷い(「恐怖政治がいよいよ本式に始まりたり」)と非難している。

 然しながら茲に一言し置かざる可らざるは,支邦兵自身は日本軍入城前に全然掠奪を為さざりし訳にはあらず,少なくともある程度には行い居れるなり。最後の数日間は疑なく彼等により人及財産に対する暴行犯されたるなり。支邦兵が彼等の軍服を脱ぎ住民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行ひしなるべし。
 東京裁判速記録第58号(エスピー報告書)「日中戦争資料集」P151
 
 然るに日本軍が南京に入城するや、秩序の回復及び既に発生し居りたる混乱の終止どころか、市の恐怖政治がいよいよ本式に初まりたるなり。12月13日の夜及び14日の朝までに暴行は既に起こりつつありたり。先づ第一に日本軍の分隊は派遣され城壁内に残された軍人を一網打尽に掃蕩することとなれり。市内の街路及び建物に慎重なる捜索おこなはれたり。総ての全軍人及びその疑いある者は着々と銃殺せられたり。
 詳細なる記録は入手し居らざるも、悠々二万以上の人々が斯して殺されたりと計算せられ居れり。前軍人と実際に支邦軍に働きしことなき人々の区別については殆ど考慮せられざりき。ある者が軍人たりしならんとの疑いが僅かにてもあれば、その者は殆ど例外なく連行せられ銃殺されたり。
 東京裁判速記録第59号(エスピー報告書)「日中戦争資料集」P152

(3)日本兵が略奪を働いていたことを日本軍自身が認めています。
 日本軍が略奪を働いていたことを、しかも略奪を働いていたのは日本兵だけでなく将校までもが行っていたため、誰も止められないことを第十六師団の中島師団長や上海派遣軍の飯沼参謀長が当時の日誌に書き残しています。

十二月十九日

 一.そこに日本軍が又我先にと進入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して往く此は地方民家屋についは真に徹底して居る 結極ずうずうしい奴が得というのである
 其一番好適例として
我ら占領せる国民政府の中にあるすでに第十六師団は十三日兵を入れて掃討を始め十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を掲げあるに係らず中に入りてみれば政府主席の室から何からすっかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持って往く
 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあったがだめである翌々日入りて見れば其内是はと思ふたものは皆無くなりて居る金庫の中でも入れねば駄目といういふところなる
 一.日本人は物好きである国民政府というのでわざわざ見物に来る只見物丈ならば可なるも何か目につけば直ちにかつはらって行く兵卒の監督位では何もならぬ堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである。

(「中島日記」南京戦史資料集 P332)
1月4日

10.00過,特務部岡中佐来りソ連大使館焼失に就て取調と米国大使館員(5日来る筈)と折衝の為来たりしとて午前1.00迄話して帰る。
 同中佐ソ連大使館に至りし時裏手の大使かの私邸に笹沢部隊(独立機関銃第二大隊の笹沢中隊)の伍長以下三名入り込み食料徴発中なりしと,今に至り尚食料に窮するも不思議,同大使館に入り込むも全く不可解。

 「飯沼日記」(偕行社「南京戦史資料集」所収、p233)

ポイント
(1)否定派はエスピー報告書の内容を歪めて利用している。
(2)中国兵の略奪があったのは陥落直前だけ。
(3)日本兵の略奪のほうが酷いとエスピー報告書は避難している。
(4)日本軍への略奪を日本軍自身が認めている。
(5)兵士だけでなく将校までもが略奪を行っていた。