Q3
日本軍は南京が平静を取り戻したのち、軍人と民間人を識別するために「良民票」を発行したが、その発行数は約20万で、これは外国の機関にも確認されている数である。つまり、南京攻略戦で一般市民はほとんど死んでいないということである。
A3.事実
(1)民間人が多数死亡している。
これは、敗残兵を処刑した兵士自身が自覚しており、日記に書き記している。
真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。多少の犠牲は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。
(水谷荘日記、「南京戦史」P502)
国際安全区委員会のベイツが友人に書き送った手紙の中でも、民間人の殺害者が1万人を越えている事が記されている。
南京で殺された民間人の数についての我々の最終的な合計は、1万2000人です。そのうち9割は当時市内にいて、戦闘行為とは無関係に殺された、多くの婦人や子供、老人が含まれています。この数字は当時南京市内で、4家族にに1人の割合で殺されたことを意味します。
われわれには居住家族を調査した特別な報告があります。調査にさいして、報復を恐れての若干の非協力や隠蔽もありましたが、その結果五家族につき1人が殺されたか、負傷したか、あるいは拉致されて戻ってこない事が判りました。
(アメリカのキリスト者へのベイツの回状「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」p337
(2)日本軍が南京で20万票を発行したという資料はどこにもない。
国際安全区委員会の「第19号文書」には、良民票をもらうために登録した人数は16万人としか書いていない。
貴下が登録した市民は16万と思いますが、それには10歳以下の子供は含まれていないし、幾つかの地区では、年取った婦人も含まれていません。ですから、当市の総人口は多分25万から30万だと思います。
(「日中戦争資料集 9」p142-144)
住民宣撫を目的とした、南京特務機関も良民票を発行しているが、そこでは中島師団が15万人、特務機関が10万人登録したと記されており、両方合わせるとようやく25万で、20万ではない。
此の結果良民として(老婆及12歳以下の小児を除く)安居の証を交付せるもの左の如し
中島兵団 150,000
特務機関 100,000
計 250,000
南京特務機関第一回報告(1月21日提出)
15年戦争極秘資料集13「華中宣撫工作資料」p152
同じ報告書の中で、難民が南京市の城門を通行する事が厳重に制限されていた事が記されているので、逃げ遅れた難民が場内に最初から25万人以上いたことになる。これによって、南京が安全になったので難民が戻ってきて人口が20万から25万に増えたという否定派の主張がウソである事が判る。
(3)南京場内は平静ではなかった。
平静でなかったのは、日本軍が敗残兵狩り、略奪、暴行、放火を行っていたから。このことは東京裁判で日本の無罪を主張したパール判事でさえ認めている。
南京における日本兵の行動は凶暴であり,かつベイツ博士が証言したように,残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり,合計6週間に渡って、続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見られたのは、ようやく2月6日あるいは7日すぎてからである。
「共同研究 パル判決書」東京裁判研究会(講談社学術文庫)P600
国際安全区の委員会のベイツは、手紙の中で次のように述べている。
みなさんには、無防備である民衆の中にあって、長期にわたってそのような恐怖と危険にさらされ続ける生活がどんなものであるか、考えられますか。1人の兵士が通りに現れたとき、あるいはドアをとんとんと叩いた時、あるいは悪評高い警察の雇われ人にでっちあげ上げの報告をされた時、それはただちに人身に危険が及ぶ事を意味し、ほとんど例外なしにわずかな持ち物を失うことになるのを。占領後3週間は極度にひどく、そしてそれが和らいで、6月になってやっと終わりを告げ、生命と五体の合理的安全が得られる状態になったのです。
(アメリカのキリスト者へのベイツの回状「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」p338
ポイント
(1)民間人を殺害していることを兵士自身が自覚していた。
(2)民間人の殺害は1万人以上あった。
(3)スマイス調査で裏付けられている。