オフィス街(紫)

南京事件論争史

第一部

 「南京事件」は東京裁判で広く日本国民に知らされましたが、東京裁判以後は他のニュースに埋もれて,忘れられていました。
 昭和47年に日中国交回復が行われ,そのとき本多勝一氏が中国大陸にわたって南京事件の中国側生存者に取材した「中国の旅」を発表し,南京事件を再発掘しました。
 これに渡辺昇一をはじめとする右派の言論人が反発し,論争が始まります。現在論争の中心をなしている人(渡辺昇一や山本七平)この頃出そろいました。
 論争のスタイルは「あった派」が資料や関係者の証言を発掘して物証から事件を再構成しようとするのに対して,「なかった派」が提出された資料に文句を付けるという形が主です。

第二部
 昭和57年に「教科書問題」でアジア各国の耳目を集め,中国は特に南京事件についての記述を文部省が改めさせたことに強く抗議します。 日本政府は中国の抗議を受け入れ,南京事件の教科書記載を容認しますが,右派が反発、事態は紛糾します。

 その一方で,郷土史,連隊史や兵士個人の日記といった形で,日本側から当時の南京攻略戦の内情を伝える資料が提出されるようになり,その中の典型が陸軍士官学校のOB会である偕行社の機関誌に連載された「証言による南京戦史」です。
 もともとは南京攻略に参加した兵士の生の証言によって「南京事件などなかった」と証明しようと企画された連載だったのですが,連載が続くにつれて,「実は…」と南京事件を肯定する証言や記録が多数の生存者から寄せられ,その圧倒的な証言と資料の山の前に編集部も企画意図に反して「南京虐殺」を認めざるを得なくなったのです。
 この連載はその後「南京戦史」「南京戦史資料集」「南京戦史資料集II」という3巻本にまとめられ,偕行社から販売されています。
 古書店に出回ることがありますので、興味のある人は折を見て購入すると良いでしょう。

 また本多勝一らによって組織された南京事件調査会も資料の発掘と出版を行っており,「南京事件資料集」(中国編,アメリカ編)といった資料本を出版しています。

 昭和60年に田中正明が「松井岩根大将の陣中日誌」を発表しましたが、900カ所に渡って南京事件を否定する方向に改竄されていることを研究家の板倉氏が「歴史と人物」(昭和60年冬の号)で詳細に指摘しました。
 この板倉氏の指摘は同年11月24、25日の朝日新聞でも報道されました。

第3部
 こうして、被害者の数は1万から30万まで開きがありますが,「南京虐殺はあった派」が優勢となり,事態は決着したかに見えました。
 ところが、そうした論争が人々の記憶から薄れた後,フォン=デニケン(「神々の戦車」)のあとにグラハム=ハンコック(「神々の指紋」)が登場したように,藤岡信勝の提唱する「自由主義史観運動」が「南京事件」否定派として登場してきます。

 そのスタイルは,過去に「あった派」が苦労して発掘してきた資料を,文脈を無視したり、自説に都合悪い分を省略して引用するなどして元の資料の意味を自分たちに都合のいいようにねじ曲げるという方法です。
 素人目には資料を大量に調査した学問な著作に見えるので、元の資料を持っていない人はそのウソを見抜きにくいので気を付けなければいけません。安易に信用すると簡単に騙されます。(期せずして,ネオナチがホロコーストを否定する時の手口と同じです)

 これに対する「あった派」陣営は,「小林よしのり」や「藤岡信勝」のようなスターがおらず,劣勢のように見られますが,さにあらずむしろ新しい担い手は,軍事オタクや歴史オタクなどの,オタクを中心とした市民にスライドしています。