十二月十一日 十七,八歳のやせた少年兵を引き立ててくる。宮内軍曹が立ち上がって 「どれおいが引導してくるらい。わいだー敵愾心が眠っちょっでおいが斬っみすで良く目を見開いて居れ」<「どれ俺が引導を渡してやろう。貴様らは敵愾心が眠っているので俺が斬ってみせるから良く目を見開いておれ」>と云いながら腰に挟んでいる脇差しの鞘を払う。 「宮内、むいねこっすんな」<「宮内、むごいことをするな」>見かねて思わず注意する。 「ハッ 一寸脅かしてやるんです」。構わん振をして「やっ」と振り冠って細首の後を叩く。可愛想にこの敵兵観念していたらしく打ち当てられた途端にグナッとなって失心するのを引起こしてニヤッっと笑って、「さァこれでお前の命は生き返ったぞ」と大威張り。こう云うのを見るとムシャクシャするもんだ。「宮内、もう良い加減にしてやれ。そう云うのは小隊長は好かんぞ」と思い切って云う。 「もう止めます」不満気に持った綱をはずしてやる。 (「前田吉彦少尉日記」南京戦史資料集 p455) |
十二年十二月十五日 江東門から水西門(城門)に向かい約二粁石畳の上を踏んで行く途中この舗石の各所に凄惨な碧血の溜まりがが散見された。 不思議に思いつつ歩いたのだが後日聞いたところによると十四日午後第三大隊の捕虜100名を護送して水西門に折内地から到着した第二回補充兵(福島准尉溜准尉等が引率し、大体大正11年から昭和4年前佐道の後尾兵即ち三七八歳から二八九歳の兵)がたまたま居合わせ好都合と許り護送の任を彼らに委ねたのだと云う。やっぱりこの辺がまづかったのだね。何しろ内地から来たばかりでいきなりこのような戦場の苛烈にさらされたため些かならず逆上気味の補充兵にこの様な任務をあてがった訳だ。 原因はほんの僅かなことだったに違いない、道が狭いので両側を剣付鉄砲で同行していた日本兵が押されて水たまりに落ちるか滑るかしたらしい。腹立ちまぎれに怒鳴るか叩くかしたことに決まっている。押された捕虜がドっと片っ方による。またもやそこに居た警戒兵を跳ねとばす。兵は凶器なりという訳だ、びくびくしている上で何しろ剣付き鉄砲を持っているんで「こん畜生ッ」と叩くかこれまた突くかしたのだね。パニック(恐慌)が怒って捕虜は逃げ出す。「こりゃいかん」発砲する「捕虜は逃がすな」「逃ぐるのは殺せ」と云う事になったに違いない。僅かの誤解で大惨事を惹起したのだという。 第三大隊小原少佐は激怒したがもはや後のまつり、折角投降してきた丸腰の捕虜の頭上に加えた暴行は何とも弁解出来ない,ことだった。 かかること即ち皇軍の面目を失墜する失態といわねばならない。この惨状を隠蔽するために彼ら補充兵は終夜使役されて今朝ようやく埋葬を終わったる由。非常と云うか、かかる極限的状態においてともすれば人間の常識では考えられない様な非道が行われると云う実例である。 (「前田吉彦少尉日記」南京戦史資料集 p464) |
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