十二月十六日 午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通遮断の上、各中隊分担の地域内を掃蕩する。 目につくほとんどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出してくるが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立ててくる。そのすぐ後に続いて、家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。 市民と認められる者はすぐ帰して、三十六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。 真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。多少の犠牲は止むを得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。 (水谷荘日記、「南京戦史」P502) |
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