チラシの裏SS投稿掲示板




感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[28061] 神は『意思よあれ』と宣うた (異世界召喚・トリップ シリアス)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/17 16:33
 初めまして、pisteuoと申します。この作品は他にブログ(ノベルテンプレート使用)と小説家になろうさまでも公開しているのですが、率直な感想を頂きたくてこちらでも公開してみることにしました。短文長文酷評問わずできるだけ参考にしたいと思っておりますので、お気軽に感想を書いていただけたらと存じます。
 それではまだまだ作者が未熟ゆえ拙いとは思いますが、この拙作を少しでも読んでいただければ幸いでございます。

 念の為に追記:ブログでの更新分もこちらと進みは同じですので、こちらで読んでくださった方はあえてそちらにいく必要はございません。


 5/29 感想、アドバイスを元に序章統合。
 5/29 二章(1)を大幅に加筆。
 6/1  感想を元に巫女の服装の描写を追加(作者は服に関するセンスがないのでまた修正するかもしれません)
 6/6  奴隷(3)の終わりに加筆。
 6/16 奴隷(6)以降を大きく修正。同時にそれに関してのお知らせと謝罪文を掲載。
 6/17 感想、アドバイスを元に序章の最後を微修正。



[28061] 序章 召喚   6/17 加筆修正
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/17 16:33
「頼む! 出来の善し悪しは問わないし、当然俺も手伝うから!」

 目の前でパンと手を合わせてそう大声で頼み込んできた腐れ縁の幼なじみ、藤堂大和を前にして、どうしたものかと全身黒ずくめの青年――山城冷慈は腕を組んだ。
 場所は二人の通っている大学構内の休憩所で、周りには人が多い。こんな所で大声を出してそんな事をしてしまったものだから、冷慈達はどうにも目立ってしまっていた。冷慈はあまり目立つことを好まないので、そのあたりも勘定に入れての行いなのだろう。相変わらず、見た目はスポーツマン風のくせに妙なところで頭の回る友人に、冷慈は思わずため息を吐いた。

「……分かった。分かったから、もういい加減その悪目立ちする格好はやめてくれ」
「よっしゃ、サンキュー冷慈! 恩に着るぜ!」

 ガッツポーズをして喜んでいる大和に、冷慈は顔を上げジト目で、

「その代わり、明日から昼飯は大学の向かえにあるファミレスで一週間奢りだ。嫌とは言わせないぞ?」
「う……一週間か。三日にまからないか?」

 外食一週間の奢りは、大学生にとってもそれなりに懐への打撃があるのだろう。伺うように目線で訴えてきた大和に、冷慈は再びため息を漏らして仕方なく妥協案を出すことにする。

「仕方ないな……。それなら、学食で一週間だ。それ以上はまけないぞ」

 それが冷慈のできる、最大限の譲歩だった。大学に備え付けの学食は、よくあるイメージ通り味はあまり良くないが、値段は安い。それなら大和の懐へのダメージもそれなりには抑えられるだろう。まあそれでも、痛いことにはかわりないだろうが。

「オッケーわかった。それでいい」

 大和が多少表情を暗くしながらもすぐに頷いたのを見て、冷慈も頷き返す。
 変に渋りもせずすぐに返事が返って来たし、元から大和もただのつもりはなかったのだろう。その様子を考えるにもしかしたら学食にまけなくてもうんと言わせることはできてたかもしれないが、武士の情けで流石にそれはやめておくとしよう。

「それで、具体的にはどこまでやればいいんだ? まさかいちから全部俺だけでやれとは言わないんだろう?」
「ああ、もちろん。さっきも言った通り、俺も手伝うぜ。いくらなんでも初心者相手にそんな無謀なことは言わねえよ」

 冷慈の疑問に、大和は当然とばかりに頷いた。
 大和が冷慈に頼んできたのは、サークル活動の手伝いだった。大和は見た目とは正反対で、その実生粋の文学青年であり、大学でも当然文学部に所属していた。そしてサークルでの活動の一つに、三ヶ月に一度部員の書いた小説を集めた合同誌を出しているのだが、部員の一人がケガで入院してしまって空きができてしまったのだ。ただでさえ少ないのに、これ以上ページ数を減らすわけには行かないのだが、元々部員はぎりぎりで代わりはいないし、誰かが二人分というのも難しい。そこで下っ端である大和が助っ人探しにと最初に声をかけたのが、冷慈だったのだ。

「そうだ、冷慈。お前の今日の最後の講義は何コマ目だ?」
「今日は……、四だな」
「そうか。じゃあそれが終わった後、またここに来てくれ。それまでに俺がプロット……どんな小説を書くかの設定集みたいなもんだけど、それを考えとくから。とりあえずはそれを元にしてどんなヤツにするか考えてくれ。もちろん強制じゃないけどな。嫌だったら自分で考えてくれてもいいし、自分で考えるってんなら俺も煮詰めるの手伝うからさ」
「ん、分かった」

 最後にもう一度頷いて、冷慈は席をたった。それを見て、一拍遅れて大和もその場から立ち去ろうとするが、ふとテーブルの上に飲み終えたジュースの缶が置きっぱなしになっていることに気付く。普段そういうところはきっちりとしている冷慈がゴミをそのままにするなんてことはありえないので、恐らくそれは彼のささやかな抵抗なのだろう。滅多に見せない親友の子どもっぽい行動にくすりと笑いつつ、大和もそれを捨ててその場を後にした。



「むう……」

 大学を終え帰宅後、冷慈は机の前で大和からもらった紙――プロットを前にして、首を唸っていた。

「中世ファンタジー世界での恋愛小説、か……」

 大和の書いたプロットは、魔の森と恐れられている森の中で出会った男女が恋に落ちる、というものだった。なるほど、それは確かにジャンル的にも展開的にも捻ったところのない、言ってしまえばベタな恋愛物であると言えるだろう。その設定から登場人物もほぼ二人に抑えられるし、比較的簡単な部類に入るのかもしれない。
 しかし。しかしだ。冷慈は確かに本こそ読むが、大和とは違ってその内容はもっぱらエッセイや実用書のたぐいであり、あまり小説を読むことはなかった。文を書くこと自体は、現役の大学生だ。それなりにレポートや課題などで慣れている。とはいえとりわけ『小説』と呼ばれる種類の文章は、過去に書いたこともなければ考えたこともない、完全な初心者だった。
 従って、

「どうにも上手くいかないな……」

 と思わず冷慈が頭を抱えてしまうのも、無理からぬ事だろう。
 とはいえ本来、小説や物語を書くのに、経験ややり方の勉強などは必要のないものだ。ただ書くだけならば、子どもだって考える事はできるのだから。出来にこだわらなかったならば、冷慈がこれ程に苦戦することはなかっただろう。
 結局のところ一番の問題は、冷慈の性格的なところが大きい。大和は冷慈が初心者であることは当然知っているし、いきなりの頼みなのだから言葉は悪いが冷慈のことは数合わせ位にしか考えておらず、冷慈もそれは分かっていた。しかし冷慈はやるからには出来る限りきちんとした形になるものを出したかったし、適当にやるのは嫌だと思ってしまう。その真面目な性格が災いして、思いつきこそしてもこれはだめだ、あれはダメだと片っぱしから思いついたモノを却下してしまいまったく進んでいなかったのだ。
 ようするに何が悪いといったら、冷慈の考えすぎが原因なのだ。
 冷慈は初心者なのだから当然ではあるが、大和から頼まれたのはそれ程文字数の多く無い、続きを考えなくていい一話完結の短編小説だ。だから細かい世界観や時代背景、登場人物の過去などはそれほど重要ではなかったし、必ずしも必要なものではない。なのだが冷慈はそもそも物事を順序立てて組み立てていく、少々理屈っぽい性格をしていたので、どうしても深く考えてしまい、なおさらドツボにハマってしまっていた。
 このままでは、頼まれた期限までに完成させることは難しいだろう。もう報酬の約束はしているし、それになにより一度引き受けた以上、途中で反故にしてしまうのは許しがたい。

「少し、考え方を変えてみるか」

 自分の性格は分かっている。何も考えずに書くことができないのなら、いっそのこと設定をこれでもかと細かく考えてみてはどうだろうか。今日は世界観などを煮詰めるだけにして、後は参考になりそうな本を明日大和から借りてみるのもいいかもしれない。
 それならば、と冷慈は組んでいた腕を解き、勢い良く筆を走らせ始める。その作業スピードは、先程まで悩むだけで何もできずにいたのと同一人物とは思えない程には早かった。元々集中力は人一倍ある冷慈だ。作業に没頭してしまうと周りが見えなくなってしまうきらいはあるが、それ故に一度進み始めたらその動きは早い。結局その日冷慈は徹夜をして、大和からもらったプロットが活字で殆ど埋まってしまうまで、その手を止めることはしなかった。



 翌日。冷慈は昨日と同じように昼休みに休憩所へと向かった。夜のうちに連絡はしたので、早ければもう大和が待っているはずだ。
 大和とは普段からよく顔を合わせることが多いが、こうしてきちんと待ち合わせをするのは珍しいな、などと考えながら、視線を巡らせ大和の姿を探した。そして休憩所の真ん中辺りにトレードマークの短く刈り上げた頭を見つけたので近づくと、冷慈に気づいた大和に先に声をかけられた。

「うっす冷慈。ご要望の品はちゃんと持ってきたぜ。それで、調子はどうだ?」
「想像は付いてるだろうが、あまり芳しくはないな。初めてなのもあると思うが、どうやら俺には文を書く才能はないらしい」

 冷慈は大和の反対側の椅子を引いて座りながら返答する。その声には微妙に嘆息の色も混じっていた。

「まあ参考になにか持ってきてくれって言われた時点で進みが良くないのは分かったけどよ、才能がないってことはないと思うぜ。お前の場合はなんでも深く考えすぎなんだと思うけど」
「そんなものか。……ん、これがそうか。すまない、恩に着る」

 話ながらも大和がさし出してきた2冊の本を受け取り、冷慈は小さく礼を言った。

「おいおい、礼はよしてくれよ。元々が俺から頼んだことなんだからさ。こんな事で恩に着せるつもりはないぜ?」

 どこかおどけるように言う大和に、冷慈はふっと小さく笑ってそうかと呟いた。

「ああ、ちなみにその本だけど……片方は冷慈の参考になるようにって選んだ奴だけどさ、もう片方は俺のオススメの本だから、読むのは時間があったらでいいと思うぜ。あれだったら感想もくれると嬉しいけどな。ま、読んでそれじゃあ足りないと思ったら言ってくれよ。また新しいの持ってくるからさ」
「うむ、わかった。さて、そんなに時間があるわけでもないし、そろそろ昼食を食べにいくか。もちろん、約束通り奢りでな」

 ニヤリと笑ってそう切り出した冷慈に、思わず大和は苦笑いを浮かべる。

「う……、わかってるって。それじゃいこうぜ。……お手柔らかにな?」
「さて、どうしようかな?」

 大和の苦笑いに楽しそうな笑みを返し、二人は食堂へと歩いて行った。



 その日の夜、冷慈は机の上の書きかけの小説を前にして、帰り際に大和からアドバイスをもらった時のことを思い出していた。

『そうだ冷慈。上手く書けなくて苦戦してるお前に、モノ書きの先輩として一つアドバイスをしてやろうじゃないか』
『ん? なんだ?』
『まあアドバイスと言っても、技術とかコツとかじゃなくて考え方の話なんだけど……、いいか、冷慈。基本的に小説ってのはな、書き手のできることしかできないもんなんだ』
『書き手のできることしかできない……?』

 大和の言葉の意味が分からず、冷慈はオウム返しをして首を傾げた。恐らくだが、それは言葉通りの意味ではないのだろう。もしもそうなら、世にある現実の世界以外を舞台にした小説は全ておかしなことになってしまうのだから。

『どういうことだ?』

 冷慈が聞き返すと、大和は顎に手を添え少し考えてから答える。

『これはあくまで俺の考え方なんだけど……俺はさ、小説を書くってことは仕事やスポーツと同じで、自己表現の仕方の一つだと思ってる。だから当たり前の話だけど、自己表現は"自己"表現なんだから、当然自分にないものは出せないって話だよ』
『……ああ、うん。なんとなくだが、言いたいことは分かった気がする。……それにしても、相変わらず文章以外だと妙に説明ベタな奴だな。小説ではぜんぜん違うのに、どうして喋るときはそうなるんだか』
『むぐっ。うっせいやい。ほっとけ』

 そこまで思い出したところで冷慈は回想をやめ、組んでいた腕を解いて中断していた作業を再開した。
 ……要するに、だ。
 大和の言いたかったことは、いくら悩んだとしても小説は自分で思いつくことしか書けないんだから、考え過ぎても意味はないということだろう。『山城冷慈』という人間の中にないものは、どうあっても書くことはできない。ならばないものねだりをするのはやめて、自分の中にある物、自分の中の世界を表現するしかないのだ。
 俺はきっと、いいものを作ろうと理想を高く持ち過ぎて、その理想に逆に縛られていたのだろう。そうではなくて、本来はもっと己の身の丈に合ったレベルを目指すべきなのに。そうすることは、別に諦めでも妥協でもない。もっと段階を追って自分と共に目標を高めていくべきだと、そういう事なのだろう。
 冷慈はこれまでとは比べものにならない程に執筆がはかどっていることを自覚しながら、ふっと小さく苦笑いを浮かべた。その笑みと同時に、相変わらず説明は下手くそなくせに、自分にとって必要ななにかを見抜いてくれる奴だな、ともう一度大和との会話を思い返した。
 今回のことで、大和に感謝を返すのは間違えなのかもしれない。事の発端はあの腐れ縁の幼馴染にあるのだから。だけどやっぱり、冷慈は感慨深い何かを感じずにはいれなかった。
 きっと自分たちは、何年経ったとしても、仮に離れることがあったとしても、こうして笑い合ったりお互いに迷惑を掛けあったりしながら、そうして腐れ縁を続けていくのだろうな。



「ふあ……」

 と小さくあくびを上げて、時計をみる。
 冷慈がその日小説を書き始めてからはや数時間。大まかなストーリーの流れは決まり、既に序文を書き終えていた。そこで冷慈は一度手を止めて、合同誌には最初のページにあらすじを載せるのでそっちも考えておいてくれと頼まれていたのを思い出した。

「ふむ」

 だいたいの話の流れはもう決まっているし、先にあらすじを考えてしまってもいいかもしれないな。あらすじを通して全体を見ることで、また何か気になるところが見つかるかもしれないし。
 そう思った冷慈は、本文を書いているのとは別の紙を取り出して、再び筆を走らせた。
 あらすじ、あらすじか。そうだな……

 ――放浪癖のある領主の息子ヤトは、今日も今日とてその好奇心に従い旅に出ていた。今の旅の目的は、かつて魔術師の実験によって魔の森へと変貌したファーヴニル。そこは普通では考えられない恐ろしい化け物たちの闊歩する、恐ろしい場所だった。しかし領主の息子として様々な訓練を受けていたヤトは、若く武勇を誇っていた。それらが彼の自信につながり、若さ故の無謀さもあってか恐れず森に入ってしまう。
 何度も襲い来る異形達。方向感覚を狂わせる木々。初めは順調だったその歩みも、繰り返し続く戦いと、そして道に迷い戻ることもできずに歩き続けた結果だんだんと体力を失っていき、やがて大きな怪我を負ってヤトは倒れてしまう――

 ……そこで魔の森に隠れ住んでいた少女に偶然助けられ、少女の看病を受けながら過ごしていくうちに、やがて二人は恋に落ちる、か?

「むう……」

 どうにもまだ何かが足りないような気がして、冷慈は納得いかないように首を捻った。特に、そう……主人公の方はいいのだが、ヒロインの少女の設定がまだ少し甘いような気がする。やはりなぜ森に隠れていたのかとか、他にも魔の森に隠れていて無事で住む理由なんかは必要だろう。

「やはり、もう少し考えてみるとしよう」

 こうして冷慈の眠れぬ夜は、今日も続いていくのだった。










「……よし。これでひとまず完成だな」

 冷慈が大和から小説の執筆を頼まれてから五日めの朝。まだ推敲などの修正作業はしていないが、とうとう一旦の完成を見た。

「ああ……、もう朝か。今日はもうこのまま寝ないで大学に行ったほうが良さそうだな……」

 徹夜明けでいまいち頭が回っておらず、独り言が多くなってしまっていた。気を抜けば閉じでしまいそうな瞼と格闘しながら、冷慈は部屋を出てまずはシャワーを浴びることにする。

「……、はあ。今日は……たしか午前中だけで講義は終わりだから、昼にこれを渡したらすぐに家に帰って寝るか」

 ぶつぶつと呟きながら、ヌルめのお湯を浴びてどうにか無理やり目を覚ます。そして体を洗い服を着て、朝食を摂ると冷慈はすぐに家をでた。今の状態でのんびりしてしまうとそのあたりで眠ってしまいそうだったので、休むなら取り敢えず大学についてからにしようと思ったのだ。
 冷慈はふらふらとハッキリとしない頭を抱えながら、危なげに道を歩いてどうにかその日初めの講義のある教室へとたどり着いた。しかしそんな状態で真面目に話を聴くことは当然できず、結局うつらうつらと半分以上寝てしまっていた。



「大和は……いないのか?」

 午前の講義をほとんど睡眠時間に費やしてどうにか回復した冷慈は、いつものように休憩室で大和を探す。しかしきょろきょろと幾つかある席に視線を巡らせるが、どこをみてもその姿が見えなかった。
 小説を頼まれてからは昼は毎日ココに来ていたから、今日もいるものだと思っていたのだが……。
 もしかしたら、文学部の部室にいるかも知れない。そう考えた冷慈は、休憩室を出てサークル棟にある部室へと足を向けることにした。サークル棟の手前にある見取り図で場所を確認して、階段を登る。そして文学部と書かれたプレートの下がっている扉を見つけた。
 中に誰かいるといいのだが。そんな事を考えながら、冷慈は人がいるか確認すべくその扉をノックした。

「……? 誰だい? 開いてるから入っていいよ」

 すると中からハリのある女性の声が聞こえてきたので、冷慈はそれに「失礼します」と返事を返して扉を開けた。

「はて、知らない顔だね。入部希望者かい? 名前は?」

 扉をあけてすぐ、真ん中にある大きめな机の奥に座っている、胸元の大きく開いた服を着た気の強そうな女性と目があった。ピンと真っ直ぐに伸びた姿勢と、自信に満ちているその隙の無い佇まいからは、まるでどこかの武道家のような『強い』印象を受けさせられた。
 冷慈は向けられたまっすぐな視線を受けて内心で、大和といいこの女性といい、文学部は見た目とのギャップのある人間が入るのが普通なのだろうか、などと考えながら「いえ」と小さく首を横に振った。

「私はココの部員の大和の友人で、山城というのですが……」

 言いながら部室の中に大和の姿を探してみるが、どうやらここにもいないようだ。もしかして、今日は大学に来ていないのだろうか。

「ああ、あんたがあの。わざわざ来てもらって悪いけど、あいつは今日はまだ来てないよ」
「そうですか……」

 冷慈はすっかり当てが外れてしまったと嘆息する。

「後であいつが来たら、あんたが探してたって言っとくよ。それでいいかい?」
「ああ、はい。そうですね、お願いします」

 そう言って冷慈が小さく頭を下げると、彼女はカカカと笑って「気にしなさんな」と手を振った。

「どっちかっつーと、迷惑かけてんのはうちらの方だしねえ。あんたにゃ今度、きちんと文学部一同で礼をさせてもらうよ。――っとと、あんまり長々と話すのも迷惑か。んじゃ、要件はそれだけかい?」
「ええ、後は特に。ああそれと、大和からもう聞いてるかもしれませんが、報酬はきちんと徴収しましたので改めて礼を貰う必要はないですよ。自分としてはあれで十分なので」
「そうかい。まあ本人が要らないってんのにアタシがグチグチ言うのもなんだし、今は了解しておくよ。……まああれだ、あんたみたいな礼儀正しいのはいつでも歓迎してるから、また来なよ。なんだったら入部してくれてってもいい」
「いや……折角のお誘いですが、止めておきますよ。今のところはどこの部活にも入るつもりはありませんので」

 彼女の勧誘の言葉にそう返すと、彼女は「そうかい。そいつは残念だね」ととても残念そうには見えない態度で言った後、ひらりと手を振って手元に視線を戻した。冷慈はそれを見てもう一度軽く頭を下げてから、踵を返して部室を出る。そしてもう一度休憩室に戻ると適当に自動販売機からジュースを買い、椅子に座って大和を待つことにした。



 冷慈は飲み干したジュースの缶がテーブルに三つ並んだところで、徐に時計を確認する。それを見て、ココに来て大和を待ち始めてからもう一時間も時が経っていたことを理解した。

「……ふむ。今日はもう来そうもないな」

 まだ期限までには時間があるし、渡すのは明日でもいいか。
 冷慈は今日はもう大和を待つのを諦めて、帰ることにした。一応入れ替わりできてしまう可能性も考えて、もう一度文学部の部室へ行き先程の女性に帰る旨を伝える。
 すると彼女は、

「ん、そうかい。わかったよ。伝えておく。……ああそうだ。こっちから頼んだってのにわざわざ何度もご足労願ったんだ。あのバカにはついでにきついお仕置きをしとくから、安心しな」

 などとニヤリと笑いながら言っていたので、冷慈も「お手柔らかにお願いしますよ」と軽く苦笑いを返して大学を後にした。



 ……そうだ。時間も余っていることだし、たまには顔を出しておくか。最近は確かあまり行ってなかったからな。
 冷慈は大学の門をくぐってすぐ、まっすぐ家に帰る前にとある場所に寄ることを決める。そしてくるりと身体の向きを変えると、家とは反対方向へと向かって歩き出した。
 冷慈が今向かっているとある場所というのは、冷慈とは浅からぬ縁のある児童養護施設、さくら園。冷慈はそこに、定期的に通っていた。大学に入学してからはそれなりに忙しくなったために少し足が遠のいてはいたが、しかしそれでも月に一度ほどはいけるようにしていた。
 途中でバスに乗って移動し、およそ三〇分ほど。後は五分も歩けば着くだろう。普段会っていなかった友人たちに久しぶりに会えるだろうと気分の上昇していた冷慈は、いつもより足早に歩いて行く。
 そろそろ見えてくる頃だ……そう思ったところで、なにか様子がおかしいことに気づいた。ピリピリとした緊張感。どうにもあたりの空気がざわついていているような気がする。しかもそのざわつきは、さくら園に近づけば近づくほどに大きくなっていくような気がした。
 なんだか嫌な予感を覚えた冷慈は、逸る気持ちを抑えながら、ほとんど小走りになって歩みを運ぶ。そしてとうとうさくら園に着いたところで、冷慈は愕然として目を大きく見開いた。

「あ……、レイジくん!」
「先生!」

 聞き覚えのある声に慌てて振り向くと、そこにはさくら園の園長の姿があった。

「どうしてこんな……いや、皆は無事なんですか!?」

 冷慈は急いで彼女に駆け寄ると、思わず軽く肩を掴んで声を荒げた。それは常の冷慈にはありえない程に冷静さを欠いた姿だった。しかし、それも無理はないだろう。なにせ冷慈の視線の先には、赤赤と燃えるさくら園の姿があったのだから。

「それが……まだひとり取り残されてる子がいるの……」
「……! 先生、消防には!?」
「もう電話したわっ。でも運悪く近くにいる消防車がいなくて、来るにはもう少しかかるって……」

 そうして二人が話している間にも、火はどんどんと燃え広がっていた。

「これは……、クソッ! 下手したら間に合わんぞ……!」

 悪態をついて、もう一度勢いの収まらない炎を睨みつける。その目はまるでその先に親の仇がいるのだとでも言うような、そんな苛烈な視線だった。
 中に残されているのが誰かは分からないが……もしかしたら、このまま自分の目の前で子どもを見殺しにしてしまうことになるかもしれない。自力での脱出は期待できないし、今すぐに到着してもわからないのに、このまま消防車が来るのが遅れてしまえばその可能性はどんどんと高まっていくだろう。
 冷慈は一瞬でそこまで判断して、直後に爪が手のひらに喰い込むほど強く拳を握りこんだ。
 その瞬間、冷慈の脳裏に浮かんでいた言葉はただ一言のみ。

『そんなのは、絶対に嫌だ』

 本当に、ただそれだけだった。
 だから冷慈は、まだ火の手の上がっていない庭の隅に水道の蛇口があるのを見つけて、あることを決意した。そして冷慈が持っていたカバンを放り投げて蛇口のもとへと駆けていくと、園長は驚きほとんど悲鳴のような声を上げる。

「……っ、レイジくん! 水なんてかぶって何をするつもりなの! 駄目っ、止めなさい!」

 園長は冷慈が大和や親しい者たちに、普段は冷静に見えるのに意外と激情家だと評されていることを知っていたし、自身でも冷慈の性格はある程度知っていた。故に園長は、これから冷慈がひどく無謀なことをしようとしているだろうことをほとんど無意識に悟り、止めせようとその手を伸ばした。
 しかし冷慈はまったく足を止めず、走りながら園長の方を一度振り返ると、

「必ず子どもだけでも助けて来ます! 先生は消防車の誘導を!」

 と叫んだ後に燃え盛るさくら園へと向かっていった。

「待って……、待ちなさい! レイジくん!」

 園長はそれを見てもう一度止めるようにと叫ぶが、その制止の声を振りきって、冷慈は目の前に見える割れた窓から飛び込んでいった。



<本日未明、〇〇県〇〇市にある児童養護施設『さくら園』にて火災が起こりました。重軽傷者二名。行方不明者一名で、建物はほぼ全焼とのことです。行方不明者は同市の大学生(20)で、最後に助けられたさくら園の児童によりますと崩れる直前に建物内に取り残されたとのことで、現在消防では救助活動が進められております。警察は放火と事故、両方の面で捜査していくと――>



[28061] 二章 世界(1) 05/29 21時 加筆
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/05/29 21:48
 ――シャン、シャン――

 涼やかな鳴子の音。響き渡るはすなわち神鳴。空間を禊ぎ世界を織り成す結界を具現する、その代替行為。
 そこでは今、三人の巫女がそれぞれ別の舞台の上で、神に演舞を捧げていた。彼女達が一つ舞うたびに、この場が神聖であることを表す鳴子が鳴る。
 それは奉納の舞。神に感謝の意を伝え、そして変わらぬ尊敬と、神の子らの太平を伝えるための儀式。
 同時にこれは、召喚の儀式。神に人の世に現れ給えと請い願い、そして歓迎の意を伝える儀式。

 ――シャン、シャン――

 左に舞う巫女が捧げるは三神が一、原理と魔術を司る神デイル。中央にて舞う巫女が捧げるは三神が一、生命と錬丹術を司る禍伏かふく。そして右に舞う巫女が捧げるは三神が一、和と陰陽術を司る神天照てんしょう
 そして全ての者が祈り捧げるは世界全ての母であり父――イクシュン・シリが創造神、イリュン。

 ――シャン、シャン――

 舞い踊り、奉る。鳴り響き、清め給う。
 バラバラだった巫女の舞が、次第に協調し揃い行く。動作が統一されて行き、各舞台の中央に各々が舞い降りた。
 それが最後の舞の予兆。主神に捧げる舞の初め。

 ――パン、パン――

 その場にいた神官達が、全て揃って拍手を叩いた。直後に巫女は一体となりて、扇を抱えて奥義を振る舞う。そして全てが終わった後、巫女たちは扇を地に伏せ頭を垂れた。
 これにて儀式は終りを迎えた。後は主賓が挨拶をし、そして巫女に言葉をかけた後に解散をするのが毎年の通例だった。
 しかし、その時はそれで終わらなかった。
 奥に座っていた主賓が準備を整え立ち上がろうとしたその瞬間――

 ――最奥の舞台。決して何者にも触れることも上がることも許されない不可侵の神前に、明々とした光が満ちた。

 それは強い光だった。その場にいた誰もが光に目を刺され、思わず舞台から視線を逸らす。特に直上にいた巫女たちは、顔ごと光から目を逸らしても、一瞬眩むほどだった。
 そして光が収まって、そこに現れたのは……一人の青年。黒尽くめの、見たこともない不思議な服に身を包んだ、ボロボロの青年だった。

 辺りが騒然と静まり返る・・・・・・・・

 その場にいる誰もが、湧き上がる疑問や驚きを口にしてしまいたいと望んでいるのに、しかし何も言葉を口にすることができない。そして同時に、皆が等しく混乱の極致に陥っていた。
 それは異常な空間だった。誰もが身じろぎ一つ許されない、完全なる静寂が支配する空間。動揺していない者など存在しないのに、皆が己を忘れてしまったかのごとく体を硬直させていた。
 物質的な静寂と、精神的な半狂乱。そんな異常に支配された空間の中で、主賓たるこの世界の最高権力者――神皇は、未だ誰もが冷静さを取り戻すことができずにいる中で、唯一正気を取り戻すことができた。そして同時に今起こった事態を自分なりに分析し、理解すると共に、――胸が震えるほどに戦慄した。
 これはひどく……まずい状況だ。
 神皇は現れた青年に視線を向けるだけで胸のうちに湧き上がってくる歓喜や震えをどうにか強靭な精神力でねじ伏せて、瞬時にこの先の展開を想定し、思考する。自分はこれから何をするのが最善か。イクシュン・シリにとっての最高の結果を導き出すためには、何が必要なのか。
 ……。もはや、覚悟を決める他あるまい。
 すっと鋭く目を細めると、神皇は大きく息を吸った。そしてその場にいる全員に厳かに高く響く声で、

「此度の事は、この場にいる者だけの秘密とし、神皇の名の下に緘口令を敷く。もしもこの事が僅かでも漏れたとしたら、巫女を除いたこの場にいる全ての者・・・・・を厳刑に処す故、各々肝に銘ずるように」

 その瞬間、全員が先ほどとは違う理由で息を呑んだ。しかし神皇はその様子を一顧だにもせずに立ち上がると、今度は巫女たちの方へと向き直る。

「そして、巫女たちよ」
「は、はい!」

 慌てた様子でこちらを向き跪いた三人の巫女に、神皇は鷹揚に頷いて、

「いつもながらに見事な演舞、ご苦労であった。その方らには所用がある故、この後私の私室に来るように。では、これにて解散とする。……皆の者。重ねて言うが、先程の私の言、決して戯れごとではない故に、努々忘れる事のないように」

 そう締めくくった神皇が直後に何事かを小さく呟くと、その瞬間舞台の上にいた青年の姿が掻き消えた。神皇の言葉に何かしらの疑問を、もしくは反論の言葉を口にして事の真偽を追求しようとしていた者達は、神皇が"それ"を使ったことに驚き、動きを止めて口を噤む。そして誰もが何もできずに緊張し硬直している中で、神皇は踵を返して一人厳かに立ち去っていった。



 神皇は儀式を行っていた大広間から離れると、逸る気持ちをどうにか抑えつけて、普段どおりを取り繕くろいながら燭台の並ぶ石造りの廊下を進み私室へと急いだ。その間にも、神皇の頭の中では様々な考えがグルグルと巡りながら、湧き上がる焦燥感を感じていた。
 イクシュン・シリが人の手に委ねられてから幾年月。その間三神いずれかの御方が現れることはあっても、ついぞイリュン様だけはそのお姿を現すことはなかったというのに、何故今この時にご降臨なされたのだろうか。それに現れたときのあの状態。意識もなく横たわり、見にまとう衣服もまるで何者かの攻撃を受けたかのように煤けていた。
 もしかしたら、神話の先の世界。イリュン様のお帰りになられたという世界で、何事か危急の何かがあったのかもしれない。ならばイクシュン・シリに降りられたのは……
 場合によっては、自分の命を支払うだけでは済まないかもしれない。そんな想像をしながらも、神皇は私室の扉の前で巫女の到着を待つために立ち止まった。








「……これでもう、大丈夫です。治療は終わりました……」
「そうか。ご苦労であった」

 冷慈はゆらゆらと水面に浮かんでいるようなまどろみの中で、自信の意識がゆっくりと浮上していくのを感じた。そしてハッキリとは聞こえないが、自分の寝ている横で誰かが喋っている事に気づく。

「それにしても、この感覚。この御方はやはり……?」
「この世界の創造神、イリュン様その人であろう。少なくとも私には、それ以外には考えられぬ」

 ……いりゅ、ん。いりゅん。イリュン……? その名前は確か、俺の考えた小説の世界の神の名前……。どうして……? あれはまだ、大和にも見せていないはずだ……。

「う……」

 冷慈が小さく呻いて身じろぎすると、はっと誰かが息を呑む気配がした。しかし頭が霞がかったように鈍っている冷慈はそれには気づかずに、己の思考に没頭する。
 いや、それより俺はどうなった? あの時、取り残されたさくら園の子どもをどうにか窓から逃がして受け止めてもらって……だけど俺は脱出しそこねて、しかもその後天井が崩れて落ちてきて……。そこから先は、覚えていなかった。感触からして、どこかのベッドに寝ているようだが……ここはどこなのだろうか。
 冷慈は気を抜けばまた眠りに落ちてしまいそうな重い頭を引きずりながら、どうにか体を起こして状況を確認しようと目を開く。

「君たちは……?」

 そして人の気配に顔を横に向けた冷慈の目に飛び込んできたのは、なぜか地面に跪いて頭を垂れる四人の少年少女たちだった。

「何故そんな、こちらに頭を下げて……?」

 その冷慈の疑問を遮るように、先頭にいたまだ十代前半に見える鋭い目をした利発そうな少年が、どこか硬い口調で勢い良く喋りだした。

「お初にお目にかかります、イリュン様。私は今代の神皇でございます。この度は、イリュン様のイクシュン・シリへのご降臨、誠にお慶び申し上げます。この神皇殿の……いえ、この世界の最上の礼を持って、歓迎の意を捧げさせていただきます。それで一つ、イリュン様に私から一つご報告が御座いますゆえ、先に申し上げたく存じます。先程私は、止む終えぬとはいえ御身に授かった力を了承も得ずにイリュン様に対して行使してしまいました。この事実、イリュン様はきっとお怒りになるであろうこととは存じますが、全ての責は直接行使した私のみに御座います。故にもしも罰をお与えくださるというのであれば、その時は私のみをお裁きになられるよう、お願い申し上げます」

 やけに早口に、しかし何故か全て聞き取れるくらいにハッキリとした力のある長口上を聞いて、冷慈は頭がくらくらした。正直に言って、訳が分からない。いや、話されている言葉は当然日本語なのだから聞き取れはするのだが、寝起きで鈍った頭にいきなりまくし立てられて、すっかり混乱してしまって言葉がきちんと頭に入ってこなかった。
 冷慈は思わず軽く頭を抱えながら、

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 と目の前の少年に待ったをかける。

「はっ」

 すると先程までの勢いが嘘のように、少年はピタリと口をつぐんで頷いた。冷慈はその余りにも落ち着いた様子の少年の姿を見て、自身もわずかに冷静さを取り戻した。そして色々と確認するために、声を落ち着かせて少年に問いかける。

「ここはどこで、今がどういう状況なのか……正直俺には何一つ分かっていないんだ。だからすまないけど、一からゆっくり説明をしてくれないか」
「はっ、畏まりました」
「それと……」
「何で御座いましょうか?」

 どこか曖昧な表情を浮かべて呟いた冷慈に、少年はどうしたのだろうかと怪訝そうに聞き返した。

「頼むから、その地面に頭がつかんばかりの低姿勢はやめてくれないか。そのままでは、話しにくくて仕方ない……。もちろん、後ろにいる娘たちも一緒に」

 最後に冷慈は順に四人に視線を向けて、困ったように小さくそう付け加えた。
 まっとうな神経をしていれば、よほど偉い立場にあったとしても、現代日本人が目の前にいる相手に理由もわからず平身低頭されてしまえば、逆に居心地の悪さを感じるだろう。よってただの学生である冷慈が思わずそう懇願してしまったのも、無理も無いことであった。



 自身を神皇だと名乗った少年からは、冷慈がイクシュン・シリ中央にある神皇殿の最深部にて毎年行われていた、神舞の儀と呼ばれる召喚の儀式が終わった直後に光と共に意識を失った状態で現れたので、自分の判断で結界術を使ってあのベッドまで運んだのだと聞かされた。
 そこまで聞いたところで冷慈は色々なものが限界を迎え、少し休ませて欲しいと頼むと今度は異常なほどに豪華な一室へと案内されて、しかもこの部屋は永久的に好きに使っていいなどと伝えられる。

「……冗談だろう」

 正直な所、それが少年からの説明を聞いて、最初に言いたくなった言葉であった。というよりも、話を聞き終えて一人になってからすぐに、冷慈は実際にそう口にしてしまっていた。
 イクシュン・シリ。神皇。神皇殿。結界術。そして創造神イリュン。すべて冷慈にとっては見覚えのある言葉だった。それも最近の、新しい記憶の中にそれらの名前はあった。何故ならそれは全て、つい最近まで書いていた小説の世界の設定の中にある言葉だったからだ。
 それら空想の産物だったはずの全てが、ここでは現実のものとして存在しているのだという。
 つまりそれは、自分が元の世界とは異なる世界に来てしまったのだと……そんな冗談のようなことが起こってしまったのだと、そんな事を言うのだろうか。しかもよりにもよってこの世界は、自分で書いた小説の世界であり、現れた自分は人から神……それも創造神だなんて呼ばれている。そんな事、あらゆる意味で信じたくはなかったし、信じられるものではなかった。
 ……確かに、確かに冷慈の頭の中の冷静な部分では、状況証拠のみとは言えその考えが正しいのだろうという、説得力のある事実が揃っていると認めていた。
 まず、自分の居場所。ここは明らかにさくら園の、というか自分の住んでいた町の中ではないし、どこかの病院でもない。ならば誘拐かと考えるにしても、誘拐する価値があるかも分からない身元不明の意識を失ったボロボロの大人の男を、火災現場から拐って行く人間なんていないだろう。そもそも日本に、こんな大掛かりな神殿……石造の建造物などあるのだろうか。少なくとも冷慈には、自分の住んでいる町の周辺にそんなモノがあるなどとは聞いたことがなかった。
 しかしそれでも、冷慈は信じたくなかった。まさかそんな事が起こりうるなんて。そして自分が知識としては知っているとは言え、着の身着のままで見知らぬ場所に放り投げられてしまっただなんてことは。
 だがいくら信じがたい事態だからといって、ならばいったい誰がこんな事をするというのだ。その辺の大学生が書いたばかりの小説の設定を盗み見て、数日のうちにその通りに配役を決めて人を配置し、その上神殿まで建立したと? それは些か冗談に過ぎる。そんなのは正直に言って、自分が異世界に来てしまったのだと言われるのと同じかそれ以上には、荒唐無稽に過ぎる話だろう。

「はぁ……」

 冷慈は深い深い溜息を吐いて、おかしいくらいに豪華な装飾のついた天蓋付きのベッドにどさりと倒れこんだ。そして呆っと天蓋の裏側を見つめながら、自分で書いた小説の設定を思い出していく。
 世界の名前は、イクシュン・シリ。神からその役目を授けられたという神皇が、この世界唯一の大陸を統治している世界。もっとも統治とはいっても各地域を区分けしてそれぞれの自治に任せている連邦制に近いものがあるので、絶対王政とは違うのだが。ちなみに神皇はその役目を次代に譲るまで不老なので、彼が子どもの姿なのもそのせいだろう。
 そしてかつて神皇に世界を任せたという、創造神イリュン。初めに神の世界、神界を作り、そして最高神であり神界の管理をする三神を生み、世界の維持のために人界と人を生み出すと何処かへと去っていったという始まりの神。さらにはたった今、それが自分だと言われている存在だ。
 とそこまで考えたところで、ふと冷慈の頭の中に一つの疑問が浮かんだ。どうしてあの少年……今代の神皇だという彼は、自分のことをイリュンなのだと思ったのだろうか。自分のことを騙している……ということはないだろう。こと創造神イリュンに関することに限っては、神皇と呼ばれる存在が嘘をつくことなどありえないはず。ということは真実あの少年は、自分のことをイリュンだと思い込んでいるのだ。
 しかし冷慈は設定の中で、誰かをイリュンだと判断するに足る記述をした覚えはなかった。見た目や声どころか、姿形が人型であるかどうかすら書いていなかったのだ。いったいあの少年、神皇は何を以て自分をイリュンだと判断したのか。それが分かれば、何かしら自分のこの世界での立ち位置を決めることができるかもしれない。
 この状況を認めるにしても、認めないにしても。この世界に留まるにしても、帰る手立てを探すにしても。何かを判断するための情報が、余りにも少なかった。慌てている余裕も、混乱している余裕もない。この自分の立ち位置すら不確かな、居場所一つ無い世界で生きるためには、少しでも情報を集めなくてはならないだろう。
 と冷慈はそこまで考えたところで、再び自分に重い睡魔が襲ってきたのを感じた。どうにも体に強い疲労感が残っていて、まだまだ休息を求めているようだ。体だけではなく心まで疲労していた冷慈はそれに抗うことを止め、心地良い感触に身を任せた。
 今はまだ、何も考えたくはない。この状況がなんだったとしても、きっとこれから先楽には行かないだろう。だけど今は、今くらいは、ゆっくりと休みたかった。きっとそれが迂闊なのは分かっている。たった今、ここにいる自分には確かなものは何も無いのだと確認したばかりなのだから。だけどもうしばらくくらいは、甘えることを許して欲しい……。

 やがて、広く静かなその部屋に、小さな寝息が聞こえてきた。それはまるでこれからはるか遠くへと飛び立つ渡り鳥の一時の羽休めのような、静かな静かなやすらぎの姿だった。



[28061] 二章 世界(2)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/05/29 22:14
 ふっと、目が覚めた。そして目に飛び込んでくるのは、普通に生きているだけではとてもではないが一生お目にかかれないであろうことが伺える、豪華で広いベッド。真ん中には大きなテーブル。華美だが嫌味にはならない程度に上品な装飾の施された調度品。そして踝に届こうかというほどに毛の長いフカフカなカーペット。
 それらを目にした冷慈が抱いたのは、『ああ、やはり夢ではなかったか』という失望の思いだった。
 大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。そうしてしばらく深呼吸を繰り返してざわついた胸の内を落ち着かせると、冷慈はムクリとベッドから起き上がった。と同時に、ぶるっとわずかに体が震える。きちんと布団を被っていなかったので、少し体が冷えてしまったようだ。
 冷慈が軽く柔軟も兼ねて体を解していると、コンコン、コンコンとノックの音が四度鳴った。そして、

「失礼いたします、イリュン様。お考えを承りたいと存じますが、もう起きていらっしゃいますでしょうか」

 というどこか控えめな声が扉の向こうから聞こえてきた。

「ああ、大丈夫だ。もう起きているから入ってくれて構わない」

 冷慈は自分の立場を忘れないように、迂闊な行動は取らないよう気をつけなければという意識を念頭におきながら、口調に気をつけて返事をした。

「それでは、御意を得させていただきます」

 そうして挨拶の言葉と共に深々と礼をして部屋に入ってきたのは、長い黒髪を後ろで結った、冷慈と同年代の和服姿の女性だった。彼女の声は緊張からか、少しだけ震えていたが、

「お初にお目にかかります、イリュン様。わたくしは神皇陛下からこの度イリュン様のお世話係にとご下命を賜りました、女中のミナカと呼ばれている者でございます」

 と訓練されているであろうことをのぞかせる洗練された動作で跪きながら頭を垂れた。
 その挨拶を聞いて、冷慈は何かを考えるように黙りこんでしまう。そして彼女が何も反応がないことを訝しみ、恐る恐るもう一度声をあげようとした時に、冷慈はそれに被せるように口を開いた。

「君が世話係になったというのは分かった。それは構わないのだが……っと、ああ、もう頭は上げていいから、楽にしてくれ。……それで一つ、聞いていいだろうか。少し気になったことがあるのだが……」

 それを聞いた彼女は、

「あ……は、はい。もちろんでございます」

 と慌てて返事をする。

「そうか、ありがとう。では聞くが……先程の挨拶の時、君はミナカと"呼ばれている"と言っていたと思うが、それは一体どういう意味だ? もしかして他に名前があるのか、それとも神皇殿では仕事に就く者に特別に呼び名をつけるか何かしているのか?」

 彼女の自己紹介の中での、その不思議な言い回し。それが冷慈は気になっていた。別に怒りを感じたりは当然していないが、単純に疑問に思ったのだ。

「私の……名前ですか。……畏まりました。お話、いたします」

 冷慈の疑問を受けて、彼女はどこか悲しげに少しだけ表情を曇らせた。しかしすぐにそれがまるで気のせいであったかのようにその表情は消え失せ、コクリと頷き話し始める。その彼女の様子を見て冷慈は、今の自分の言葉には拒否権など無いことに気がついて、早速迂闊なことをしてしまったかと後悔した。元々話すのが嫌ならば、強制する気などなかったのだ。
 そして彼女は言葉につまらないようにゆっくりと丁寧に、自分のことを話していく。
 ――元々彼女は、自分の名前を持っていなかった。
 この世界には、奴隷制が存在していた。そして彼女は、とある貴人と奴隷の母親との間に偶然出来た子どもだった。奴隷の子どもは、本来親と同じく奴隷となる。そして奴隷には名前の代わりに識別番号がつけられるのだが、彼女にはそれすらもなかった。
 彼女の父親であるその貴人には、本来意図しない子どもを作ることは許されなかった。故に子どもを作ったことすら秘密にし、彼女の母は彼女を連れて隠れ潜んだ。やがて貴人は母親が子をなしたことを知り、その事実を消すために追っ手を出すことになる。
 奴隷の子どもであるのに、奴隷の証であるチョーカーを付けていない子を連れていた母親は僅かな食い扶持を得ることもできず、必死に必死に泥水をすすり、血反吐を吐いて逃げ続けた。しかしその生活も、せいぜい数年が限界であった。やがて体調を崩して倒れた母親と彼女のもとへ、とうとう追っ手の魔の手が届く。
 彼女が今ここにいられるのは、全てを知った今代の神皇が彼女を保護したからだった。道半ばで倒れてしまった母親は助けられなかったが、ぎりぎりのところで彼女だけは助けられ、そして彼女はその後神皇殿の女中として生きることが許された。
 彼女のその生い立ち、出生の秘密は、神皇殿では誰もが口にすることも許されない秘中の秘。そしてそれと同時に、誰もが口にしないだけで知っている"秘密"でもあった。彼女のことはまことしやかに噂され、神皇の覚えがいいと妬み嫉みうけ、さらにその出生の秘密から、敬称である御中をもじってミナカと呼ばれるようになった。もちろんその呼び声に、多大な皮肉を込めて。
 ……。

「イ――ン様。イリュン様? どうされました? 大丈夫ですか。もしかして何か、ご気分がすぐれないのでしょうか」

「あ、ああ、いや、何でもない。……済まなかったな、そんな大事な話を無理に聞き出してしまって。無神経だった」

「そ、そんな、とんでもない! 私の如き卑賎な身に、イリュン様が謝られることなど何もございません! こちらこそ、つまらない話でお耳汚しをしてしまいまして、大変申し訳ありませんでした」

「……いや、そんな事はない。むしろ、非常に興味深い話だった。ああ、本当に……」

 奴隷制度。そうだったな。たしかに自分は、そんな設定を考えていた。ヒロインの設定の一つとして追加するために……


「? イリュン様……?」

 彼女から話を聞いた冷慈は、非常に大きなショックを受けていた。ともすれば、己が異世界に来てしまったのだと理解した、その時以上に。
 その後は彼女に対する受け答えもほぼ上の空で、一度退室した彼女が持ってきた食事も、その献立から味にいたるまで何も覚えていなかった。そして食事を終え彼女がいなくなった後も、その状態は続く。グラグラと瞳を揺らし、唇を真一文字に引き結んだその姿は、見る者全てに弱々しさを感じさせる姿だった。
 冷慈が自分の世界に入り込んで考え込むのを止めたのは、それから随分と時が経ってからのことだった。
 我に返った冷慈がまず始めにしたことは、いつ腰掛けていたのかも思い出せない椅子から立ち上がり、そしてぎちぎちと歯噛みして鋭い呼気を吐きながら、思い切り壁を殴りつけることだった。

「――っ!」

 同時にまるでハンマーでも叩きつけたかのような鈍い音がして、激痛が走り冷慈の額に冷や汗が滲む。冷慈が殴りつけた箇所を見ると、うっすらと血の跡が残っており、拳は腫れ上がり皮は擦り切れ、血が滲んでしまっていた。いや、むしろそれだけで済んで幸運だったというべきか。激情に身を任せて全力で石の壁を殴りつけたというのに骨に異常がなかったのは僥倖であっただろう。

「――。はー……」

 やがてゆっくりと壁から拳を離した冷慈は、天を仰いで大きく息を吐いた。そしてぐっと胸のあたりを掴み一度目を瞑ると、真っ直ぐに前を向いて人を呼ぶべく部屋の外へと向かう。その細められた鋭い瞳の奥には、先程までの弱々しさを微塵も感じさせない、固い固い意志の光が宿っていた。





 自分には……知らなければならないこと、確認しなければならないことが、たくさんある。
 冷慈は胸の内から湧き上がる強い強迫観念のような気持ちに突き動かされて、どこか余裕のない表情を浮かべながら乱暴に扉を閉めた。そして人を探してまるで人気のないガラリとした廊下を歩き始めると、すぐに向かい側から歩いて来る女性――ミナカの姿が現れた。

「イリュン様?」

 ふっとミナカと視線が合い、目の前にいるのが冷慈であることに気づくと彼女はどこか慌てた様子で近づいてきて、前と同じように深々と頭を垂れた。それを見て声を掛けるべく口を開きかけた冷慈は、思わず言葉に詰まってしまうと同時にいたたまれなさを感じてしまい、困ったように眉尻を下げる。
 本音を言うのなら、もっと普通の態度で接して欲しい。しかしもし態度を改めるように言ったとしても、きっと彼女を困らせてしまうだけなのだろう。現状に不満はあるが、それをぶつける相手はいない。ある意味では、自業自得のようなものなのだ。
 冷慈は忸怩たる思いを抱えながら、それらが表に出てしまわないように気をつけつつもう頭を上げていいと彼女に告げて、

「少し頼みがあるのだが、大丈夫だろうか。急ぎではないから、今すぐにとは言わないが……」

 と最後に少し言葉を濁すと、ミナカはまるで嫌味のない綺麗な微笑を浮かべて首を横に振った。

「いえ、問題ございません。わたくしは、イリュン様のお世話係でございます。イリュン様のご命令以上に優先すべきことなど、何もございません。すぐに承りますので、どうぞなんなりとお申し付けください」

 冷慈は流石にそれは少し大げさすぎやしないだろうか、と内心で苦笑しながら相槌を打つ。

「そうか。それなら……、すまないが、神皇に私から少し話があると伝えてきてくれないだろうか」
「畏まりました。場所は……イリュン様の私室でよろしいでしょうか」
「ああ、それでいい。では、よろしく頼む」

 冷慈が頷くと、彼女はもう一度深々と頭を下げた。

「必ずお伝え致します。それでは……」

 失礼いたします、と言葉を続けようとして、しかしミナカは突然黙りこんでしまった。いきなりどうしたのだろうかと思い彼女に視線を向けると、彼女はなぜかジッと冷慈の足元を見つめている。そしてつうと視線を冷慈の手元に移すと、ミナカははっと息を呑んで、

「イリュン様、その手はどうされたのですか……!?」

 と驚きの声を上げた。
 その声を聞いて、冷慈は思わず眉根をよせて心の中で己を罵倒した。普通に考えて、賓客が怪我をしたのを放って置けるわけもなく……それも自分は賓客どころではないのだから、こうなってしまうのは予想してしかるべきだった。

「いや、これはその……。そう、実はさっき部屋で転びかけて壁に手をつこうとした時にぶつけてな。大したことはないから、別に気にしなくとも……」

 どこかバツが悪そうに言い訳をする冷慈に、ミナカは「いけません!」と遮るように声を上げ、

「すぐに手当を! いえ、ここは巫女様をお呼びするべきでしょうか……。イリュン様、少々お待ち下さいませ、すぐに戻ってまいりますので!」

 と早口にまくし立てると、ぱたぱたと何処かへと消えて行ってしまった。

「あ、ちょっとまっ……。……むう。行ってしまった……」

 冷慈は彼女を止めようと上げかけた手をそのまま頬に当ててぽりぽりとかくと、「失敗したな……」と小さく呟いた。



 ミナカが慌てた様子でどこかへ行ってしまってから、冷慈は色々と思い悩んで廊下の真ん中で立ち往生していた。
 俺はこのままここで待っていたほうがいいのだろうか。しかし廊下で待たせたままにしてしまったとなると、彼女が気にするかもしれない。いや、それで済めばいいが、下手をすれば罰を受けることになりかねないかもしれんな……。
 とそこで冷慈はそこから少し先にある角の向こうから、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきたのに気づいてふっと視線を上げる。その足音に、まだあれから少ししか経っていないのにもう来たのかと驚いていると、

「え、あ、あう!?」

 突然小さな少女が飛び出してきて、冷慈に向かってぶつかってきた。

「お、っと。……ふう」

 足音の主が走っているのは分かったので予想していたのが功を奏し、冷慈はそれをどうにか抱き止めると、

「廊下はあまり走らないようにな。特に今みたいに、角を曲がるときは注意した方がいい」

 などとどこかずれた事を言って飛び出してきた少女に注意した。

「え? あ、う、えっと……その、わ、わかりました……」
「うん、いい子だ」

 目を白黒させながら頷く少女に、冷慈は穏やかな笑みを返して頭を撫でて体を離した。

「それで、そんなに慌ててどう――」

 ――したんだ、と言いかけて、冷慈は少女の顔に見覚えがあることに気づいて言葉を切る。その少女は、昨日冷慈が目を覚ましたときに神皇の後ろにいた、三人の巫女のうちの一人だったのだ。それで冷慈は合点がいったように「ああ」と小さく呟きを漏らした。

「もしかして、怪我のことを聞いて治しに?」
「あ、は、はい……。……い、イリュン様がケガをしたと聞いて、わたしは生命の巫女だからそれでその、治しに来ました……」

 冷慈は顔を真赤にしてどもりながらも必死に喋る少女にポンともう一度軽く頭をなで手を離すと同時に、記憶の中から巫女に関する知識を思い出していた。
 この世界における称号を持った三人の巫女と言うのは、すなわち仕える神の司る術の最高の使い手でもある。生命の巫女が使うのは、三神の一人禍伏が司る術、錬丹術。錬丹術は基本的には薬を調合する際に使用して、その効果を高める術だ。ただし熟練者に限っては直接対象に干渉して、怪我や病気を治すことができる。この世界ではほとんどの人間が三つの術のうちのどれかを使うことができるのだが、特に錬丹術を専門にしている者は医術師と呼ばれている、だったか。
 目の前にいる少女は見たところ十代前半、中学生になるかならずかの年頃にしか見えないのだが、まさか嘘をついているということはないだろうし、余程優秀なのだろう。いわゆる神童という奴か。
 とそこまで考えたところで、少女がじっとこちらを見ていたので思考を打ち切り、話を戻す。

「そうか。すまないな、わざわざ来てもらって。怪我はそんな大したものじゃないんだが……そういうことなら、お願いするよ」

 ここで断ったりすれば、むしろ立場が悪くなってしまうのは目の前の少女の方だ。子どもに対しては特に優しい対応を取る冷慈の中にそれを断るという選択肢は初めから存在していなかった。
 少女は差し出された手を真剣な表情で見つめてコクコクと頷くと、小さな手をそっとそこに重ねて目を瞑った。冷慈はその様子を見て少女が酷く集中しているのを悟り、初めて目にする"術"への期待も相まって、口をつぐんで見守ることにした。
 しばらくそのまま見守っていると、少女の指の隙間から淡い光が漏れ出して、次第にズキズキと痛んでいた手の痛みが和らいでいく。熱も痛みも何もないのは、少女の高い技術故かそれとも使われている術……錬丹術の特性か。冷慈が自分の知識と齟齬がないか照らし合わせながら観察しているうちに、ひらひらと宙を舞っていた光は消え、いつの間にか少女は手を離して顔を上げていた。

「こ、これで治療は終わりです……」
「ん……、すっかり痛みもなくなったし、完全に治ったみたいだな。ありがとう。助かったよ」
「い、いえ……」

 冷慈が微笑を浮かべて礼を言うと、少女は再び緊張に顔を真赤にしながら俯いた。

「……そうだ。ところで、君を呼びに行った女の人はどこに行ったか知らないかな。てっきり一緒に来るものだと思っていたのだが……」
「あ、あの人だったら、その……」

 俯いたまま喋る少女に、冷慈は急かさないようにこくりと頷き次の言葉を待っていると、突然少女の後ろの空間がまるで蜃気楼のように歪み始めた。

「! これは……?」
「え? あ……」

 冷慈の反応を見て振り向いた少女と一緒に息を呑んでぐにゃりと歪む空間を見つめていると、突然その場に四人の人影が現れた。

「イリュン様! お怪我をされたというのは本当ですか!」

 そして現れたのは、酷く慌てた様子の神皇と残り二人の巫女、それにミナカだった。

「……」

 ハッキリ言って、反応に困る。まさかおいそれと秘術である結界術を使ってまで急いでくるなんて、一体どんな伝え方をしたのやら。
 冷慈は先ほどミナカが去っていってしまった時と同じように苦笑を漏らしてぽりぽりと頬をかくと、

「いや、怪我と言っても軽いものだったし、この通りもう治ったから大丈夫だ」

 と言って困ったようにミナカを見る。すると彼女はようやく自分が酷く暴走していたことに気づいたのか、羞恥に顔を赤くして俯いてしまった。

「え? あ、もう治った、のですか? えーっと……?」

 あまりといえばあまりな状況に、神皇は目を白黒させて素に戻ってしまっていた。後ろにいた二人の巫女も一方は頭を抱え、もう一方は持っていた扇で口元を隠して苦笑したりと、似たり寄ったりの反応だ。

「あー、まあ神皇に用もあったことだし、丁度良かったということで……取り敢えず、部屋に入ろうか。こんな大人数で立ち話も何だからな」

 このまま黙っていても沈黙が痛いだけだし、特にミナカはいたたまれないだろう。そう思った冷慈がさっさと踵を返して扉を開けると、残りの者も思い思いの反応を見せながらも後に続いて部屋へと入っていった。



[28061] 二章 世界(3)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/01 03:42
「最初に念の為に言っておくが、ミナカに私からのお咎めはなしだ。神皇も、それで文句はないな?」

 こんな普通の人間相手なら、お騒がせしてすいませんでしたと一言謝れば済むであろうことで、万が一にも罰が与えられるようになってしまってはたまらない。しかもそもそもの発端は、自分の迂闊さが原因なのだ。そう思った冷慈が部屋に全員が揃ってすぐに先手を打つと、神皇も元々そのつもりはなかったのかすぐさま頷いて、

「イリュン様がそう仰られるのなら、それでよろしいかと」

 と否応もなく頷く神皇の姿を見て、ミナカは思わず目を丸くした。

「え? あ……、ですが、私は――」
「さて……。どうにも納得がいかなそうな顔をしているが、君は何を気にしているのかな?」

 しどろもどろになって何かを言い募ろうとしたミナカの言葉を遮って、冷慈は至って冷静な様子でくっと口角を持ち上げ人の悪い笑みを浮かべると、どこかわざとらしい口調で話を続ける。

「私が神皇を呼んでくるようにと頼んで、君はその通りにしただけだろう? そのついでに私が怪我をしているのに気づいて生命の巫女を呼んだら、それが気になって他の二人も着いて来た、と。……ふむ。どこかおかしいところはあっただろうか。どう思う、神皇?」
「イリュン様の仰るとおりかと。私にも特に問題があるとは思えませんでした」

 冷慈が言葉の最後に水を向けると、神皇はしれっとした態度で同意した。その表情は微妙に楽しげに歪んでおり、

(イリュン様もお人が悪い)
(何、君も人のことは言えないだろう?)

 と二人は目と目で語り合あっていた。
 それはまるで事前に示し合わせたかのように予定調和な茶番だった。どちらもイイ性格をしている。もちろん悪い意味で。この二人、意外と似ているのかもしれない。

「よし。それではこの話は終わりということで……、ミナカ。すまないが、もしかしたら話が長くなるかもしれないから、お茶か何かを淹れてきてくれないか」
「あ……は、はい。畏まりました」

 冷慈の頼みを聞いて、ミナカはどこか納得がいかなそうに曖昧な表情を浮かべながらも頷いて頭を下げると、部屋から出て行く。こういう時は変に考える時間を与えないのが一番なのだ。そして時間が経てば、変に蒸し返すこともないだろう。
 ……。
 冷慈はミナカの背中を無言で姿が見えなくなるまで見送ると、ふうと小さく息を吐いて急に目を閉じた。
「……?」
 冷慈の脈絡の無い行動に神皇たちは疑問を感じ、訝しみつつも行動を見守っていると、突然冷慈の雰囲気が一変した。それはまるで別人に入れ替わってしまったかのような、文字通りの豹変だった。
 その変貌に目を見張る神皇たちを尻目に、冷慈はかつての自分を思い出しながら仮面を被ったかのような無表情になり、意識を切り替え性格を入れ替えた。
 印象を操作し、感情を制御し、己の善意すらも材料に使い、場を操って自らを守る。そして己が可能とするすべての手段を用いてでも、必ず目的を達成しろ。
 心に冷たい炎を抱け。
 勘違いはするな。緩んだ空気に油断をするな。今の己の足元に、確たる足場など存在しない。もはやこの世界が、イクシュン・シリであることは疑う余地はない。しかし自身が神として降り立ったというのは未だ伝聞でしか証明する方法はなく、またそれが本当だとしても安心しきる材料にはなりえない。むしろ下手に権力を得てしまったことで、危険は増えたかもしれないのだ。自分には、信用していい相手も味方も存在しない。それを見極めるためにも、やはり情報は必須だ。
 己の変化を知り、正しい情報を取捨選択し、誤った情報から推測し、そして何より……この世界を知る必要がある。
 俺にはこの世界に対して、大きな大きな責任があるのだから――

「神皇にはいくつか、尋ねたいことがある。そして巫女たちには、恐らく頼みごとをすることになるだろう」

 冷慈はまるで感情の読めない冷たい瞳で全員を見据え、

「しかしまずはその前に、全員の名前を教えて欲しい。何時までも君やお前では、どうにも話しにくいからな」

 冷慈の問い掛けにいち早く我に帰った神皇は「はっ」と鋭く頷くと、すぐに跪こうとした。しかしそれを予想していた冷慈がすぐさま制止の声をかける。

「いちいちそうやって頭を下げなくてもいい。その程度のことで私が気分を害することはないし、それでは話が進みにくいからな」
「はっ。畏まりました」

 神皇からの相槌に満足気に頷いた冷慈は、ようやく我に帰って慌てて跪こうとしていた三人の巫女へと視線を移して、

「君たちもだ。少なくとも今は必要ないから、楽にしていい」
「は、はいっ」

 冷慈は三人ともが各々頷いたのを確認すると視線を正面に戻して再び口を開いた。

「それではまずは私から……私の名前は、冷慈という。それが自分の世界での私の名前だ」

 何時までもイリュン様と呼ばれるのは正直気分が良くない。こういう言い回しならば各々自分で勝手に解釈してくれるだろうし、問題はないだろう。

「神皇は……確か今はそのまま呼んだほうがいいのだったな」
「はい。どうかそのようにお願いいたします」

 神皇という役割は、イリュンに仕える神子としての側面を持つ。故に神皇とは、人ではないのだ。よって人としての名前は神皇の役目を継ぐときに一度捨て、新たな神皇が継ぐその時まではただ神皇とのみ呼ばれることになる。

「では次は……」

 場の主導権を握るために、冷慈自らが話の進行をしていく。

「和の巫女。君の名前を聞いていいだろうか」
「はい、イリュン様」

 冷慈が初めに名前を聞いたのは、日本の巫女服と同じ緋袴を履いて扇を手に微笑を湛えていた、三神の一人天照に仕える少女だった。彼女はこちらに向かってお辞儀をすると、一歩前に出て自己紹介を始める。

「こうしてお話をさせていただきますのは初めてでございますね。わたくしの名前は槍澤鈴歌うつぎさわすずかと申しますわ。以後、お見知りおきを」
「ああ、こちらこそよろしく頼む」

 冷慈は内心でやはり彼女が和の巫女だったかと確認しながら鈴歌に頷きを返す。
 先程の女の子は生命の巫女だったから……、ということは彼女がデイルに仕える巫女か。
 冷慈の視線に気づいて、鈴歌の隣に立っているゆったりとした淡い青のドレスに似た服に身を包んだブロンドヘアーの少女がスッと裾をつまんで持ち上げ挨拶をする。

「初めまして、イリュン様。わたしの名前は、ミリア・ワイズマン・ミスティリアと申します。すでにご存知とは思いますが、デイル様にお仕えする原理の巫女でございます。どうかミリアとお呼びくださいませ」

 その瞬間、ふわりと上品な花の香りが漂った。恐らくは彼女の付けている香水だろうか。彼女の服には儀礼服故か刺繍などはなかったが、ところどころにあしらわれたフリルがその香りと相まってまるで美しい花のような印象を与えられた。

「ミリアか。分かった。君もよろしく頼む」

 女性に対しては苗字にさん付けが普通だったが、まさか今の自分がさんをつけるわけにも行くまい。そう思った冷慈は彼女の言うとおり名前を呼び捨てにして頷きを返した。

「はい」

 冷慈が頷き返すと、彼女は上品に微笑んだ。
 二人の自己紹介が終わり、最後に冷慈は端で緊張して固まっている中華風の儀礼服を着ている少女に向かって、

「そう緊張しなくても、別に取って食ったりはしないから大丈夫だよ。君も名前を教えてくれないか」

 と優しい声音で問いかける。いくら心構えをしていても、どうしても子どもに対しては甘くなってしまう冷慈であった。

「は、はい……。……わたしの名は、張涼喬ちょうりょうきょうです。字は風癒ふういと言います……」

 名に字、か。この世界の文化は、元の世界の日本、中国、ヨーロッパを参考にしている。基本的には家で三神のいずれかの神を信仰していて、その神に対応した文化圏に住むのが普通だ。この少女は禍伏を信仰しているのだから、普通に考えて中華風文化圏の人間。服装も黄色い帯のシンプルな漢服に似た服なのでそれは間違いないはずだ。つまり相手に許されない限り、字で呼ぶのが礼儀のはず。

「ああ、よろしく、風癒。それとさっきはありがとう。改めてお礼を言うよ」
「い、いえ。わたしは巫女ですから、あれくらい普通です……。それで、あの……」
「ん? なんだ?」

 顔を俯けながら喋る風癒に聞き返すと、相変わらず緊張に顔を赤くして必死な様子で、

「……わたしのことは、その……字じゃなくて、名で呼んでください。……イリュン様に名で呼んでもらわないのは……畏れ多い、ですから」
「ん、分かった。そういうことなら字で呼ぶのはやめておくよ」

 冷慈がもう一度頷き返して全員の自己紹介が終わると、ちょうどお茶を持ってきたミナカのノックの音が部屋の中に響いた。冷慈は一息つくにはちょうどいいかと部屋の真中にあるテーブルの奥に座ると神皇たちにも座るように言って、ミナカの持ってきたお茶をすする。ちなみにミナカはお茶を全員に配った後、冷慈の横で邪魔にならないようにと存在感を消して控えていた。彼女は時折暴走するキライはあるが、基本的には優秀な女中なのである。

「さて。それでは名前も聞き終わったことだし、そろそろ話を始めるとするか」

 お茶から口を離して冷慈がそう言うと、にわかに部屋の空気が緊張した。この時この場を支配していたのは、間違い無く冷慈だった。



「まず始めに聞きたかったことは、私が現れたことを既に知っている者がどれだけいるのかということだ。知られているのは神皇殿内部だけの話なのか、それとももはや世間に公表してしまったのか。どちらにしても咎める気はないが、重要なことだからできるだけ正確に教えて欲しい」

 それが公表されたか否かによって、今後どう動かなくてはならないのかが随分と変わってくる。これは何を置いてもまず最初に確認しなけれなばらないことだった。

「はっ。その件につきましてはイリュン様の指示を仰いでからの方が良いかと存じましたので、まだ神皇殿でも一部の者……神舞の儀に参加した一部の高位神官と、後は我々のみしか知る者はおりません」
「そうか。それはよかった。取り敢えずは一安心というところか……。……念の為に聞いておくが、情報が外に漏れている可能性は?」
「恐らくほぼないかと存じます。あの場にいた者全員に、すぐに神皇の名の下に箝口令を敷きましたゆえ」
「箝口令?」

 あまり馴染みのない物々しい言葉に、思わず確認するようにもう一度聞き返す。それと同時に神皇がすぐに頷いたのを見て、冷慈は静かに腕を組んだ。
 それが本当だとしたら、確かに非常にありがたい。まさか神官が神の代弁者ともされる神皇の直接の命令を無視することも早々ないだろうし、実際情報が外に漏れているということはまず無いだろう。これは冷慈に取って、ほぼベストの状況に近い。これで今後の予定が随分と立てやすくなったと、冷慈はほっと小さく息を吐いた。
 だが、同時に疑問にも思う。冷慈は緩みかけた緊張の糸を張り直し、神皇にまっすぐ向き直りたった今抱いたその疑問を口にする。

「それはありがたいし私としては助かったから問題はないのだが……どうして私が現れたその段階で、すぐに命令まで出して秘密にしたんだ?」
「それは……、その疑問にお答えした場合、もしかしたらイリュン様のご気分を損ねかねないのですが……それでもご説明したほうがよろしいでしょうか?」

 冷慈の疑問にすぐには答えず、神皇は少し間を置いてそう伺ってきた。

「構わない。話してくれ」

 神皇は冷慈の肯定の言葉に静かに頷くと、徐に己の下した命令の理由を話し始めた。

「あの時……神舞の儀の最中にイリュン様が舞台の上に現れられた際、私は……それに恐らく彼女ら巫女たちは、すぐにイリュン様がこの世界にご降臨なされたのだと悟ることができましたが、しかしその他の……あの場にいた神官たちには、それを感じることはできなかったでしょう。……私はそう思い立ったときに、とある危惧を抱いたのです。もしかしたら、彼ら神官が目の前におられる方が誰なのか気づけないままに、大変な無礼を働いてしまうのではないか、という危惧を」

 とそこで神皇が一度喋るのをやめて、確認するように冷慈に視線をむけてきた。その視線には、冷慈が話についてきているのかどうか、そしてここまでで何か疑問はないかどうかを伺う意味があったのだろう。冷慈はその視線の意味にすぐに気づいて、一度頷いてから視線で続きを話すようにと神皇を促す。

「あの奥の舞台はイリュン様だけに許される、絶対不可侵の神域。そこに誰かもわからない者が――実際はイリュン様であった故にもちろん問題はありませんでしたが――踏み入ったとなれば、神官たちは烈火の如く怒り、それを排除しようとしたでしょう。私はそれを止めるために、あの場の主導権を握る一手として、神皇の名の下に強権を揮ったのです。命令の内容はさして重要ではなく、とっさに思いついたものが箝口令だったのですが……それが偶然とは言えイリュン様のご意向に沿う結果になったことは、僥倖でございました」

 神皇の説明は嘘というわけではないが、本当のことをいっていない部分もあった。そもそもこれだけでは、イリュンが気分を害しかねないと言う話にはなっていないだろう。そして冷慈はその事に薄々感づいてはいたが、さすがに何を隠しているのかまでは分からなかった。それを指摘すれば、神皇から話していない部分を聞き出すことはできるのだろうが、しかし冷慈にその心算はない。
 冷慈は昔から、誰かに何かを強要することを非常に嫌っていた。故に余程のことがない限り、冷慈は相手の意志を尊重するようにしていた。とは言え必要であれば――特に今の状況では――それも辞さないつもりだが、神皇が冷慈にとって不利なことをすることはまずないだろうから今回は必要ないだろう。信頼しきることはできないが、ある程度信用することはできる。それが現段階での冷慈の神皇への評価だった。

「なるほど、大体の経緯は理解した。そういう事なら、私のことは今後も継続して機密扱いにしておいて欲しい。その方が色々と都合がいいのでな」
「はっ。畏まりました」
「ん、すまないな。手間を掛ける」

 冷慈は神皇の返答に満足気に頷いた後、

「ところで一つ、前々から疑問に思っていたのだが……」

 と切り出し次の話へと話題を移す。

「? なんでしょうか?」
「先程の話でもでていたが、どうして神皇や巫女たちは現れてすぐに私のことをイリュンなのだと思ったんだ? イリュンのことは神話にも記録にも姿形の記述はなかったはずだし、すぐにそうと判断するにはいささか材料が足りなかったのではないかと思うのだが」
「ああ……それについては、特に難しいことはございません。我々の……身の内に存在する神力が、貴方様を前にする時にざわめくのです。目の前に存在するその御方が、我々の真にお仕えすべき御方なのだと。もちろん生物の内包する神力に明確な意志はないのですから、きちんとした意思や言葉で伝えられたわけではありませんが……あとは状況から考えれば、貴方様がイリュン様であることは自明の理でございました」
「ふむ……」

 神力。世界を構築する前の、方向性の無い力。この世界のあらゆるものはこの神力を内包しており、そして人は比較的その量が多い。特に神皇と称号を持つ三人の巫女は術師として最高峰の力を持っているから、その内包量は人の中でもトップクラスなのだろう。
 この世界の神は、神力が集まって塊となり意志を持ったものを言う。人が内包する程度の量で神力が意志を持つことはありえないが、そういう事があってもおかしくはないか。

「なるほど。大体は納得した。では次の質問……というか神皇に少し頼みたいことがあるのだが、いいだろうか」
「はっ。もちろんでございます」

 その返事は本当にすぐに返って来た。そのあまりの速さに冷慈は思わず苦笑をして、

「自分から言っておいてなんだが、頼みごとの内容を聞く前にそう安請け合いするものじゃないぞ? もし私が君に今すぐ神皇の座を誰かに明け渡せとか、そんな無茶なことを言ったらどうするんだ」

 と苦言を呈してしまう。

「当然イリュン様のお言葉のとおりに致しますが」

 しかし神皇は冷慈に自身の忠誠心を疑われたと思ったのか一瞬心外そうな表情を浮かべ、そしてすぐにさもあたり前のことのように至極真面目な顔でさらりとそう言い放った。その目にも声にもまったくためらいの色は感じられなくて、冷慈はどこか背筋が凍る思いをしてしまう。
 冗談はやめてくれ。そう言いたかった。しかし冷慈の口はまるで石になってしまったかのように上手く開いてくれない。
 もしかしたら、彼は自分が死ねといったらその通りにしてしまうのではないか。そんな普通ならばありえないはずのことが、冷慈の脳裏を冷たくよぎった。
 ……いや。現実逃避はよそう。分かっていたはずだ。自分の世界でだって宗教で……神のためにと、自ら命を捨てた人たちはたくさんいたのだから。
 分かっていたはずだ。自分が実際に神であるかは関係ない。重要なのは人が、神皇が真実自分のことを神であると信じているかどうかなのだと。だから自分は、迂闊なことはしないようにと心がけていたのだから。
 人の精神に、神としての権力。そしてひょっとしたら、能力も得ているのかもしれない。恐ろしい、と素直にそう思う。いつか自分が神としてのそれに溺れて、人として大事なモノを忘れてしまうのではないか。どうしても、そんな事を思わずにはいられなかった。

「……神皇」
「なんでしょうか」
「簡単なものでいい。何か一つ、結界術を私にも分かるように使ってみてくれないか。確認したいことがあるんだ」
「畏まりました。それでは……そうですね。私の私室にあった椅子をこちらの部屋に接続しましょう。それでよろしいでしょうか」
「ああ、それでいい。頼む」

 冷慈が頷くと、神皇は集中するために軽く深呼吸をして、

「術式起動。形状指定。検索>>該当物発見。座標指定>>指標位置。結合、開始。結界>>発動」

 自分の背後を指さしながら、なにか呪文のような物をつぶやいた。
 それを聞いた瞬間、冷慈は理解した。理解してしまった。それは世界を分け、隔て、結び、そして創るすべ。創世神イリュンと、その力を貸し与えられた神皇にしか許されることのない力。この世界で絶対唯一の神秘にして"この世界そのもの"。
 それが、結界術。
 そして神皇が指した先、何もなかったはずの空間に、ふっと何処からか突然椅子が現れた。
 それは、あまりにも自然だった。まるで初めからそこにあったのが当たり前であったかのように。そして同時に、あまりにも不自然だった。そこに何かがあるのは、この世界の現実ではないかのように。
 ――。
 冷慈の指が、自分でも気づかない内に自然に持ち上がり、そして今しがた現れたその椅子に向けられた。それとほぼ同時に、冷慈の口が無意識に神皇の紡いだ"呪文コマンド"を模倣してつぶやいた。

「術式起動。形状指定。検索>>該当空間発見。座標指定>>指標位置。結合、開始。結界>>発動」

 不思議な感覚だった。それは確かに無意識だったのに、それでも自分が自らを認識し制御しているその感覚。まるで眠っているのに意識だけははっきりしている、明晰夢でも見ているような感覚だった。
 この瞬間、冷慈の中の何かが変わったような気がした。それが何かは分からずとも、自分はたしかに変わったのだと、その感覚だけが頭の中に浮かびそして消えていった。

「やはり、使えたか……」

 そして冷慈は誰もが無言でその動向を見守る中、自分にしか聞こえない小さな小さな声で独りごちた。それは大きな諦めが込められた、ひどく虚ろな呟きだった。



 これまで冷慈がここが異世界であると判断した材料は全て客観的……受身のものだった。己のいる場所や建物や伝聞、周りの会話などの状況証拠、涼喬や神皇の使った術もそうだろう。しかし、今回のそれは違う。たった今冷慈は、己の意思で己の体を操って、決定的な異世界の理を操った。それは圧倒的な実感として、冷慈に現実を突きつけてきた。
 人は基本的に記憶や知識、経験において、自身の実体験を最も正しいものとする。「砂糖は甘い」と話に聞くのと、実際に砂糖を舐めて主観で味を確認するのとでは、自分の中での情報の確度が違うのだ。
 冷慈が己自身でイリュンと神皇にしか使えない術である結界術を使ったこの瞬間が、確かに冷慈の認識と現実が完全に一致した瞬間だった。
 もちろんこれまでの注意も心構えも何もかも、冷慈は本気でやっていた。ただそれは、目の前のことに即時対応するために、現状に対する感情を全て先送りにしてのことだった。
 だが冷慈は、この時になってついにかすかな希望も何もかも完膚なきまでに砕かれて、完全に自分が"異世界にやってきて神になった"ことを心から受け入れた。
 それと同時に、冷慈の胸中には様々な思いが襲いかかってくる。
 諦め、恐怖、郷愁、怒り、悲しみ、心配、不安、そして後悔。それは本当に色々なものが混ざり合った、混沌としたものだった。
 しかしそれでも、冷慈の己の意識のイメージである、冷たい炎は揺らがない。冷慈は本当に一瞬で全ての動揺を抑えこみ、そしてそれら全てを飲み込んだ。
 結局のところ、冷慈にとって自分のことは優先順位が低いのだ。自身を軽く見ていると言ってもいい。
 もしもこの世界が、冷慈が自分で考えた小説の中の世界……あるいはそれに準ずる世界ではなかったとしたら、きっと冷慈はみっともなく狼狽し、もっと錯乱していただろう。だが、実際にはそうではなかった。この世界で冷慈には、己が定めたやらねばならないことがある。
 故に冷慈は何があろうと自らを制御して、それを果たすまで心の赴くままに己を殺し続けるだろう。
 感情を行動原理に。しかし行動そのものにはしない。激情ほのおに心を支配されるのではなく、炎を宿して支配する。それが冷慈の二〇年間の人生の中で培ってきた、己の在り方だった。

「そろそろ……」

 冷慈が唐突に、ポツリと小さく呟いた。

「そろそろ、本題に入るとするか」

 その声は本当に小さなものだったが、不思議と部屋全体に響き渡り、その場にいた全員の耳に届いた。そして皆が冷慈の言葉に注目する中、冷慈は一人無表情の中にどこか不敵さを織りまぜて、

「これより皆にはこれからの予定を伝える。神皇は先程の話にも出たとおり、現状の維持を継続。そして巫女たちには……」

 と言葉を続けながら、ぐるりと全体を見回して一人ひとりの顔色をうかがう。すると三人ともが表情を固くして、冷慈の言葉を一言一句聞き漏らさないようにと真剣に耳を傾けていた。

「私は近いうちに、三大都市の何れかに視察に向かうつもりだ。だから君達には、その道案内と護衛を頼みたいと思う。もちろん私の身分を明かす予定はないから、所謂お忍びというやつだな」
「三大都市に、視察に向かわれる……? そんな、イリュン様自らが直々に赴かれずとも、必要なことは教えてくだされば我々が――」

 殆ど反射的に冷慈の提案を否定してきた神皇を、冷慈は目だけが笑っていない微笑で封殺した。

「悪いが直接私が行かなければ意味が無いから、止めるのは無理だ。本来なら私一人で行きたいところだが……いくらなんでもそれでは神皇も了承し難いだろうと思って、ぎりぎりの数である三人という人数で満足な護衛が果たせるはずの、人界"さいこう"の術師である彼女らに頼むことにしたんだからな。……ああ、神皇にもっといい代案があるというのならば当然聞こう。もちろん、視察の中止以外の案でだが」

 冷慈が内心で自分の物言いに苦笑しながらそこまで語ったところで、神皇は諦めたように肩を落とした。中止をする以外でなら、情報の拡散を抑えつつ冷慈の安全を確保するのにこれ以上の案はないのだから仕方ない。もちろん遠巻きの監視等、何らかの対処はするのだろうが、それがお互いの妥協案で落とし所だろうと思うので、それ以上は冷慈も追求する気はなかった。

「ということで事後承諾になってしまったが……もし三人とも問題がなければ、すまないが付き合って欲しい」
「畏まりました。喜んでお勤めさせていただきますわ、イリュン様。わたくしたち巫女は全て、仕える神々に奉仕し、賜るあらゆる命を果たすためにいるのですから」
「もちろん私もお供させていただきます、イリュン様」
「わ、わたしもです」

 冷慈の言葉にいち早く反応した鈴鹿が凛とした声色で頷きを返し、それに続いて二人もすぐに頷いた。

「そうか。感謝する」

 冷慈がそう言うと、三人は恭しく頭を下げた。

「わたくしどもには勿体無きお言葉でございますわ。ところでイリュン様。一つお聞かせ願いたいことがあるのですが、質問してもよろしいでしょうか?」
「ん、構わない。なんだろうか?」

 冷慈が頷くと鈴鹿は軽くお辞儀をして、

「ありがとうございます。それでは……先ほどイリュン様は三大都市の何れかに、と仰られておりましたが、ということはまだどの都市に向かわれるかは決められていないのでしょうか?」
「ああ、まだ三つのうちのどこにするかは決めてないな。詳しいことは知らないから、君達に話を聞いてから決めようと思っていた」
「そういうことでしたらイリュン様、及ばずながらわたくしから一つ、提案がございますわ。三大都市の内、トラスは今現在少々情勢が不安定。そして生命の巫女はまだ担当に成り立てですので、平央の案内は難しいですわ。ということで向かわれるのは、わたくしの担当する前守にされてはいかがでしょうか」
「ふむ……」

 鈴鹿の提案を受けてちらりと残り二人に視線を向けると、ミリアは若干悔しそうにしているが反論する様子はなく、涼喬も沈黙したままだった。

「そうだな。特に反対する理由もないし、そうするとするか。では明日の正午前には出発する予定なので、三人は明日またここにきてくれ」

 冷慈がそう締めくくると、それぞれが頷きながら返事をした。それを見た冷慈は最後にもう一度茶をすすり間をとると全員を見回して、

「よし。それではこれで、私からの話は終わりだ。他になにかある者はいるだろうか」

 と確認を取る。

「いえ、我々からは特にございません」

 この場にいるものを代表して神皇がそう答えると、冷慈はそうかと頷いた。それで用事が全て終わったことを悟り、各々が礼をしながら解散していく。
 とそこで冷慈は全員が部屋の外に出て行く前に、まるで今思い出したかのようなどこかわざとらしい口調で、

「ああ、そうだ。一応言っておくが、これからは私のことは冷慈と呼ぶように。それと敬語をやめろとは言わないが、もう少し砕けた話し方をするようにな。イリュンであることは秘密なのだから、これは命令だ」

 ではな、と最後に付け足して、冷慈は反論する間を与えないためにひらりと手を降った。冷慈の言葉は名前はともかく後半は微妙に矛盾しているように思えるのだが、神皇たちはそれを早く下がれという意味でのジェスチャーだと解釈してしまい、もう一度頭を下げてすぐに部屋から出ていくことしかできなかった。そのため神皇たちはこの後、次に冷慈にあったときどのような口調で喋ればいいのかと頭を悩ませることになる。



[28061] 三章 奴隷(1)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/05/31 14:23
 冷慈が夜更かしもそこそこに眠りにつき、そして少々遅めの朝食を摂り終えてからしばらく。早速集まった三人の巫女と見送りに来た神皇、ミナカ達を前にして、冷慈はおもむろに口を開いた。

「さて、皆準備は万端のようだし、それではそろそろ出発するとしようか」
「畏まりました……い、冷慈様」

 未だに様付けで呼ぶミリアに、無言で視線を送る冷慈。ミリアはその視線の意味にすぐに気づいてあっと声を上げると、

「……冷慈、さん」
「うん、よろしい」

 今度はさん付けで言い直したミリアに、冷慈は満足そうに頷き返した。
 鈴歌は「改めてよろしくお願い致しますね、冷慈さん」と初めにあいさつをした後は完全に意識を切り替えたようで問題はなかったし、涼喬も一度訂正した後はきちんと呼んでくれたのだが、どうにもミリアは冷慈のことをさん付けで呼ぶのは抵抗があるようだった。本人も気をつけているようではあるが、慣れるまでにはまだしばらくかかりそうだ。
 まあその都度訂正すればそのうち慣れるだろうし、最悪イリュンと呼ばれさえしなければ何とでもなるだろう。そう判断した冷慈はそれ以上ミリアになにか言うこともなく、結界術を使って移動するために部屋の真中に立ち巫女たちに自分に近づくようにと告げた。
 その様子を見て神皇は深々と頭を下げ、ミナカもその少し後ろで丁寧にお辞儀をして、

「行ってらっしゃいませ、イリュン様。どうかお怪我のなさらないよう、お気をつけて」

 と見送りの言葉を口にする。
 ちなみにミナカは役職的、身分的に神皇殿にいる人間に礼を尽くすのは当たり前のことであり、かつその職務上冷慈の名前を呼ぶのは二人、もしくは関係者のいる時しか殆どないので、冷慈のことをそのまま『イリュン様』と呼んでいた。命令をすれば止めさせることはできるのだろうが、必要もないのに意思に反することを無理強いするのは冷慈の嫌うところなので、そのままだった。

「ああ、ありがとう。では、行ってくる」

 頭をさげる二人に軽く手を上げて、冷慈は結界術を行使する。

「術式起動。形状指定。検索>>該当空間発見。座標指定>>現在位置。結合、開始。結界>>発動」

 冷慈の体の内側から、何かが込み上げてくるような感覚が走った。その瞬間、冷慈の命令に従い世界は変化し創造される。
 そして何の予兆もなく、冷慈達四人の姿が掻き消えた。同時に発生したそよ風が、神皇たちの髪を微かに靡かせる。それと同時に神皇は小さくため息を吐いて、

「……行ってしまわれたか。何事も無ければいいが……」

 とどこか心配そうに呟いた。
 ……打てる手は打ったし、イリュン様も言うとおり最高位の術師が三人もついているのだ。あまり心配しすぎるのもよくない、か。
 神皇は頭を振って顔を上げるとすぐに気持ちを切り替えて、部屋を出るべく踵を返す。そして未だ頭を下げ続けるミナカをどこか複雑そうな表情で一瞥した後、法衣を翻してその場から去って行った。



 一歩足を踏み出すたびに、カツンと硬い足音がする。神皇は相変わらずシンと耳が痛くなるような静寂に包まれた無人の廊下を無言で歩き、自身の執務室へと向かっていた。グネグネとまるで迷路のようになっている道にももはや慣れたもので、特に迷うこともなく目的地へとたどり着く。そしてガチャリと扉を開けると、自分用に低めに作っている机を一瞬不機嫌そうな目で睨みつけてからそこに腰掛け、早速溜まっていた書類の処理を始めた。
 優先度の高いものから目を通し、サインをしていく。これらは全てに許可を出すわけではないが、神皇のところまで上がってくるものはほとんど既に決定したような物。ハッキリ言ってこの仕事に関しては、ただ名前を書いていくだけの流れ作業のようなものだった。
 神皇は一向に減っていかない書類の山についつい嘆息するのを止められず、同時に自分の吐息で動いてしまった手元の書類を目で追いながら、先ほど前守へと向かった冷慈たちのことを思い返した。
 こういった重要書類の処理などは自分にしかできないのだから仕方がないが、もっと直接的に役に立っている巫女たちを少し羨ましく思ってしまう。とは言えもちろんだからと言って書類仕事をないがしろにしていいわけもなく、神皇はすぐに止めていた手を動かすと作業を再会した。
 それからしばらくして、机の上にそびえ立つ書類の山がだんだんと削れてきた頃、執務室の扉が叩かれノックの音が四度響いた。その音に神皇が書類から目を離し顔を上げると、

「神皇様、今お時間よろしいでしょうか。少々お伺いしたいことがあるのですが」

 と扉の向こうから声がかかる。
 その声の主に心当たりのあった神皇は、思わず今日もまた来たのかとため息を漏らしてしまうのを止められなかった。



「どうして会わせてはくださらないのですか!? 昨日も今日も、神皇様がご面会されていたあのお方に!」

 神舞の儀の時のことには触れず、周りくどい言い回しをすることで緘口令を回避したつもりになっているのだろう。濁った瞳を向け唾を飛ばしながら声を荒げる目の前の神官に、だんだん神皇は自分の目付きが鋭くなっていくのを感じていた。
 こうして騒がしくなってくると、先程まで煩わしいと思っていた紙とペンの音しかしない静けさが恋しくなってくるのだから、我ながら我侭なものだと内心で苦笑してしまう。

「神皇様! どうか納得の行く説明をしてはいただけないでしょうか! どうしてあのお方のことを秘し続けるのか、どうして我々はお会いすることが許されないのかっ」

 これが……神皇が"イリュン"のことを緘口令を敷いてまで隠した、最大の理由だった。
 召喚の儀式である神舞の儀で奥の舞台に光と共に現れた存在。それが創造神イリュンであることは、冷静になって状況を考えれば、誰にでも分かることだ。かつてにも、イリュンではないが三神のいずれかが人界に人の姿で降り立ったという記録はあるのだから、前例もある。そも神舞の儀によって舞台に現れた人物が、創世神イリュン以外のものであっては困るのだ。もしもそうではなくあの時現れたのが只人であったのなら、その時は"然るべき処置"をとらねばならなかっただろう。実際そうはなっていないのだから、それが誰であったのかは推して知るべしというところだ。
 問題があったのは、イリュン……冷慈のイクシュン・シリへと降り立った際の状態だった。いや、もっというのなら、ここに現れたことそれ自体だろうか。これまでこの世界でイリュンが絶対的な存在とされていたのは、もちろん世界を創造した神として崇められていたこともあるが、今まで一度も現れたことがなかったことも重要な要素として存在していた。もし神がそこにある存在として実際に現れてしまったら、そこにはかたちが当てはめられ、イメージが固定される。話すことも出来れば触れることもできるし、騙すこともできるのだ。しかも現れたときの冷慈の状態は、お世辞にも良いものとは言えなかった。それは悪い意味より身近さを感じさせることとなった。
 形なき絶対者ではなく、現実に手の届くものとして現れた、創造神イリュン。それは欲望にとり憑かれた権力の亡者たちにとって、格好の獲物になりかねない。事実がどうであるかは関係ないのだ。そうなるかもしれないと思えてしまった時点で、彼らがその魔手を伸ばす理由には十分だった。
 全ての神官がその理想通り清廉潔白な聖職者であるなどということは、ありえない。それは元の世界の歴史が証明しているだろう。しかもこの世界では、最高権力機関である神皇殿に入るには神官になるのが最も近道。故に権力を求めるものがこの場所にいるのはある意味必然とも言える。もしもイクシュン・シリが各地の自治に任せる連邦制に近い今の形ではなく封建制、絶対王政だったら、時代によっては酷い独裁主義になっていたかもしれない。
 もし冷慈が彼らにいいように利用されてしまったら、イクシュン・シリに生き地獄が生まれかねない。
 冷慈が彼らを上手くあしらったとしても、それに怒りを感じてイクシュン・シリに天罰を与えるかもしれない。
 神皇が今回最も危惧したことは、冷慈と彼らが遭遇してしまうかもしれないということにあった。

「聞いておられるのですか、神皇様!? どうか答えていただきたい!」

 と突然喚き声と共に、バンッと神皇の執務机が叩かれた。その音で思考の世界から我に帰った神皇の目が、スッと細められた。同時に神皇は、これを好奇と内心でほくそ笑む。
 あまり神皇と交流のない者は、今のように時折その幼い容姿から敬意を払うのを忘れてしまうことがあった。しかし実際には神皇は、この世界でイリュンに次ぐ権力の持ち主。当然そのような態度が許されるはずもない。

「君はなにか……勘違いをしているようだね?」

 神皇は自分が不機嫌になった時によく使う口調で、目の前にいる神官を威圧的に睨みつけた。神官はまるで部屋の温度が数度下がってしまったかのようなその威圧感に、ハッと我に帰り自分のしてしまった行いを振り返る。

「君は今、誰に対してそんな偉そうに語っているのか理解しているのかい?」
「は……、はっ! 申し訳ありません、言葉が過ぎました!」

 神皇は慌てて深く頭を下げた神官を細められた目で流し見て、

「ふうん……。まあ、分かればよろしい。――本当に、分かっているよね?」
「は、はい! もちろんでございます! そ、それでは私はこれにて退出させていただきたく存じますっ。失礼いたしました!」

 まるで軍隊か何かのようにきびきびと去って行く男に内心で苦笑しながら、神皇は入ってきた時とは一段小さく見えるその背中に、

「一応言っておくけど、僕は同じことを何度も言うのは嫌いなんだ。……僕が何を言いたいのかは分かるかい? 理解したね?」

 ともう同じ話はしに来ないように念を押す。

「はい! 承知いたしました!」

 慌ててそう返すと、彼は今度こそ脱兎の如く部屋を去って行った。
 神皇はようやく静かになった部屋の中で、どうせ来るのは彼一人ではないのだろうなとまた深い溜息をつく。
 溜息をつくと幸せが逃げるとはよく言うけど、そもそもその逃げる幸せがないから人は溜息をつくんだよなあ……と益体もない事を考えながら、次の訪問者が来るまでに書類を片付けてしまおうと集中して作業に取り掛かった。



[28061] 三章 奴隷(2)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/07 02:25
 所変わってイクシュン・シリに唯一存在する大陸の北西部に位置する三大都市の一つ、前守の端にある人気のない郊外。その草木生い茂る林の中に、何の前触れもなく四人の男女が現れた。その四人とは当然神皇殿から移動してきた冷慈たちである。ちなみに前守は和風文化が主流の土地なので、目立たないようにと冷慈も含めて全員服装は和服であった。

「ふむ……? たしかに人のいない場所という条件で選びはしたが、これはまた随分と緑の多いところに出たな」
「ええ……」

 冷慈の半ば独り言のような呟きに反応しながら、巫女たちはどこか呆けたように嘆息した。
 冷慈はここに現れてすぐ興味深げにきょろきょろとあたりを見回しており、彼女らも疑っていたわけではなかったが本当にこれほどの長距離を一瞬で移動したことに感心と驚きを隠せずにいた。
 しかしだからといって、何時までもこうして惚けているわけにはいかない。自分はイリュン様からこの地の案内を頼まれたのだから。そんな使命感にも似た思いに駆られた鈴歌はすぐにいつものように扇を携えて余裕を取り戻し、朗らかな微笑を浮かべると早速冷慈に向かって説明し始めた。

「ここ前守は、天照神様を信仰する大和の地にある都市の一つですから……特に自然との共存という思想を元に都市の発展を進めておりますの。ですので郊外には、このように自然な形で緑を残しているところが多いのですわ。もちろん自然な形でとは言ってもきちんと管理もしておりますので、まったく人の手が入っていないということはありませんが」
「なるほど……」

 彼女を含む天照を信仰する和風文化圏の人間は、陰陽術と呼ばれる術を使うことができる。陰陽術は自然物に方陣を書いて意思の疎通を図り、変化を促す術だ。具体的には火を球形にして飛ばしたり、土を槍のようにして飛ばしたりすることだろうか。恐らくそこから自然との共存という思想が生まれたのだろう。
 ちなみに熟練者は方陣を書く必要はなく、その戦闘における有用性から陰陽術を専門にする者は特に臨戦術師と呼ばれる。つまり彼女が和の巫女と呼ばれているということは、同時に彼女は人界でも最強の臨戦術師であるという意味でもある。
 と冷慈が自身の知識を思い出しながら辺りを観察していると、今度はミリアが、

「前守で最も特徴的なのは西部を流れる大きな川、『道之川』でしょうか。この川はその名の由来を天照神様の通る道というところから取られた川で、この都市の設計段階からその一部として組み込まれ船を交通手段の一つとして確立することに成功しております」

 と補足をする。
 その瞬間、鈴歌が扇で口元を隠しながらミリアに向かって穏やかに微笑んだ。もっともその目はまったく笑っておらず、それを見ていた涼喬がビクリと小動物のように震えていた。

「あら、ミリアさん? 冷慈さんの案内はわたくしがいたしますので、貴女は周りの警戒をされるだけでよろしいのでしてよ? 前守のことは担当官であるわたくしが一番知っているのだと自負しておりますし、わたくしだけでも十分なご説明はできると思いますから」
「いえ、そんな。わたしとて今代の"神の英知"としてそれなりに知識は蓄えていますし、槍澤さまだけでは大変でしょう? わたしにもお手伝いくらいはさせて下さい」

 口調だけは穏やかだが、冷慈は何故か二人の間に走る火花を幻視した。
 まあ本気で嫌い合ってるような薄ら寒さは感じないし、これはどちらかというとライバル同士の対抗心のようなものなのだろう。ギスギスしてはいるが粘着質なものはないし、いわゆる『ケンカするほど仲が良い』という言葉に部類されるもののように思える。
 そう判断した冷慈は無理に仲裁することもなく、

「さて、街の方も見てみたいところだし、そろそろ行くとしようか。俺が先頭を歩くから、道案内は頼む」

 と口にするだけにとどめた。

「あ、は……はいっ。……街はあっちの方向、です。行きましょう……!」

 二人の雰囲気に怯えていた涼喬はこれ幸いとその冷慈の言葉に便乗し、二人もそれを見て顔を見合わせた後慌てて歩き始めた冷慈の後を追った。



「あ、あの……」
「ん?」

 冷慈が後ろの三人が怪我をしないようにと危なそうな草や枝をかき分けながら歩いていると、後ろからおずおずとミリアが話しかけてきた。

「どうした? 何か問題でもあっただろうか? もしかして……街の方向からは逸れてしまったか?」

 周りに草木しかない状況というのは目印――方位磁石など――がないと、わりに方角がズレやすい。ここの土地勘がまったくない自分ではなおさらだろう。
 そう思って聞き返した冷慈に返って来た答えは、「い、いえ」と首を横に振っての否定の言葉だった。

「それは大丈夫なのですが、その……冷慈様は、怒られてはいないのですか?」
「怒ってないのかとは……ああ、さっきの話か。別にあんなのは怒るようなことでもないだろう。まあ強いて言うのなら、君が様ではなくて冷慈さんと呼んでくれると俺としては嬉しいのだけどな?」

 後半をどこかおどけるように冷慈がそう言うと、ミリアは「も、申し訳ありません、冷慈さんっ」と慌てて言い直す。そしてそれに続いてそれまで沈黙し二人の様子を静観していた鈴歌も、

「わたくしも、先ほどはお見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありませんでした、冷慈さん」

 と謝罪の言葉を口にしてペコリと小さく頭を下げる。
 冷慈は何となくその彼女の瞳に不思議な光を見た気がして一瞬小首を傾げるが、まあいいかとすぐに思い直して首を横に振った。

「彼女にも言ったが、別にあんなのはたいしたことじゃないさ。俺は特に気にしてないから、君も気にしなくていい」

 冷慈の答えにくすりと柔らかに微笑むと、鈴歌は眉尻を下げてどこか眩しげに目を細めた。

「お心遣い、感謝いたします。ところで……冷慈
「?」

 先程まではずっとさんづけだったのにあえて様をつけて呼んできた鈴歌に冷慈が首を傾げていると、彼女は柔らかな表情をそのままにゆっくりと屈みこみ地面に手をついて、

「先ほどから、わたくしたちのためにと草木を避けてくださっていたこと、心よりお礼申し上げますわ。それは大変光栄で、感謝の意が尽きないことではございますが、ですがわたくしには……人界最強の一人である"神の槍"に対しては、それは無用の心配であるとお恐れながら進言させていただきます」

 彼女がそう口にした瞬間、まるでその言葉に反応するように、ざあ……と林全体がざわめいた。まるで全ての自然が彼女と共鳴しているかのようなその姿に、もとより彼女の実力を知っていたはずのミリアと涼喬も含め、その場にいた誰もが戦慄を禁じ得なかった。
 冷慈が驚きに目を見張りながらも何も言葉を発せられずにいると、冷慈の正面……進行方向に位置していた茂み全てが彼女のために道を開ける。それはまるで大名の行列に膝をつく民のごとく、畏れを感じさせるものだった。

「ですが、本当にありがとうございました。冷慈さんは紳士でいらっしゃるのですね」

 ほんの少しだけ疲労を滲ませながら、しかし一人だけ平然として鈴歌はそう言葉を締めくくった。

「ひとつだけ聞きたい。今の術で、この場所に何か悪影響がでることはあるだろうか?」
「当然ありませんわ。自然との共存を旨とする前守の巫女が、そのような恥知らずなことをするわけにはいけませんもの」

 冷慈が内心での驚きを押さえて疑問を口にすると、鈴歌はさらりとそう言った。

「そうか。いや、すまなかったな。俺のためにとわざわざやってくれたのに、責めるようなことを言ってしまって……」
「いいえ、お気になさらないでくださいませ。むしろ天照神様に仕える和の巫女としては、イリュン様に前守の地をお気遣いいただけて喜ばしい限りですもの」

 冷慈の心配とは裏腹に、鈴歌は笑みを深めてそう答えた。

「気を悪くしなかったのならいいが……それにしても、まさか気づかれていたとはな。いやはやなんとも、恥ずかしい限りだよ」

 冷慈が頬をかきながらそう呟くと、鈴歌は扇で口元を隠しながらくすりと上品に笑みを漏らした。

「ふふ、何も恥ずかしがることはないと思いますわ。もっと胸を張られてもよろしいかと」
「いやいや、そんな大したものじゃないさ。これはただの男の意地ってやつで、そういうのは気づかれると気恥ずかしいものなんだよ。情けない話だが、男ってやつはどうしてもそういう気持ちだけは捨てられないものでな」

 冷慈が少し早口になりながらも苦笑したその瞬間、

「し、失礼ですが冷慈、さん……少しよろしいでしょうかっ」

 それまで後ろでずっと沈黙していたミリアが、妙に気合の入った様子で会話に参加してきた。

「ん? なんだろうか?」
「あの、わたしも先程のこと、感謝しておりますっ。それでですね、お礼というわけではないのですが……できればこれを受け取ってはもらえないでしょうか……!」
「これは……」

 ミリアから勢い良く手渡されたのは、小さな鎖を指輪に通したネックレスだった。

「これを、俺に?」
「はいっ。それには裏に魔術を施してありまして、冷慈さんの守護にと思いお作りしてまいりました!」

 彼女の言葉通り、きっとこれは今渡そうと思ったのではなく事前に用意していたのだろう。デザインを考えるに男物だし、これだけの出来の物をぱっと用意できるはずもない。恐らくずっとキッカケを探していたのだろうな。
 そんな事を考えながら冷慈が鎖を通された指輪の裏を覗いてみると、そこには淡い光を放つ文字が書かれてあった。これが彼女の言っていた守護の魔術、か。
 魔術。この世界ではデイルの神字と呼ばれているアルファベットに力を込めてものに刻むことで、様々な効果を発揮する術。その性質上他二つの術のように即効性はないが、汎用性に関しては他の追随を許さず、その効果は多岐に渡る。その術形態は元の世界のプログラミングに近く、術者の練度によってずいぶんと個人差の出る術だ。ちなみに魔術はこの世界の機械技術や道具作成などにも生かされていて、魔術を使うものは技術者としての側面を持ちこれを専門とするものは特に魔技師と呼ばれている。
 とそこまで考えたところで、冷慈は直前のミリアの言葉をもう一度思い返してふと疑問に思った。

「……ん? 作ってきた? という事はもしかして、これを一から作ってきたのか? 文字を刻んだだけではなく?」
「は、はい。時間がなかったので銀細工ではありますが……」
「そうか……わざわざありがとうな。気に入ったよ。大事にする」

 冷慈が自信なさげにしているミリアに笑みを返してネックレスを自分の首にかけてみせると、ミリアはぱっと顔を輝かせて頭を下げた。

「有難き幸せにございますっ」

 その綻んだ表情は、花開いた蕾のごとく華やいだ美しいものだった。
 しかし次の瞬間、彼女の喜びに水をさすように鈴歌が扇で口元を隠しながら口を挟んだ。

「意外ですわ。堅物の貴女にしては、随分と気がきいていますのね」

 その言葉にミリアは浮かべていた笑みを喜びとは違う感情で深めると、挑発的に言い返す。

「そういう槍澤さまこそ……普段男性には興味ない素振りしかしていないのに、今日は随分と積極的なのですね」
「あら、心外ですわね。わたしくしが今までそうしなかったのは、単にそうするだけの殿方がおられなかっただけですもの。それともまさか貴女は冷慈さんまで、その辺りにいる有象無象の殿方と一緒だと言うのかしら?」
「そ、そんなことはありえません!」

 まさに売り言葉に買い言葉。ついでに何だか妙に褒められている気はするが、まあそれに関しては自分で言ってはなんだが『イリュン』という色眼鏡のせいだろうから気にしないとして……仲がいいのはいいことだが、涼喬がすっかり怯えてしまっているし、このままでは町にいつ着くのか分かったものではないだろう。
 やれやれ、仕方ない。ここは俺が行けば二人とも着いて来るだろうし、もう進んでしまうとするか。折角道もできたことだしな。

「涼喬。道ができたとはいえ、一応足下には気をつけてな?」
「は、はい……。でもあの……槍澤さんたちのことは、いいんですか……?」
「だいじょうぶだいじょうぶ。目的地は一緒だし、俺達がいないことに気づいたらすぐ来るだろう」

 冷慈は涼喬が転ばないように足下に注意を払いながら苦笑を浮かべ、街へと向かって歩き始めた。
 ちなみに二人は結局少し進んだところで冷慈が気を使って声をかけるまで言い争いを続けており、流石の鈴歌も二度目は恥ずかしかったのか、その後は揃って街につくまで若干顔を赤くしたまま無言で着いてきていた。



[28061] 三章 奴隷(3) 6/6 加筆
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/06 16:39
 街についてすぐに冷慈が思ったことは、まるでここは江戸時代初期から中期のような町並みだ、というものだった。
 そして次に思ったことは、意外と顔立ちが明らかに西洋人風のミリアが着物を着て歩いていても、それほど目立ってはいないのだな、ということだった。神皇殿で三人ともが着物を着てきたのを見た時は、涼喬はともかくミリアは逆に目立ってしまうのではと危惧していたのだが、どうやらハーフや和人に嫁いだ、あるいは婿養子に入った他文化圏の人間というのは、多くはなくとも凄く珍しいという程でもないらしい。
 この訪問の意図は伝えていたし、それでもあえてこうしてきたのによく知りもしないで口出しするのは良くないか、と思って冷慈は何も言わなかったのだが、それは正解だったようだ。まあ一つの大陸内に三つの人種がそろっているのだ。普通に考えて交流がないわけもないか。としばらく町中を歩いた後に納得した。
 そして最後に、その町のどこへ行ってもどうしても冷慈の目にとまってしまうある物があった。それは何かと言うと、外を歩きながら辺りを観察していれば少なくない人数が首に巻いていることがすぐに見て取れる――同じデザインの三色のチョーカーだった。



(……?)

 鈴歌は人々が行き交い、建物や屋台が立ち並ぶ活気のある大通りを解説しながら歩きつつ、内心で首を傾げていた。
 鈴歌は冷慈に対して、相手の立場と自分の立場を慮った上で相手のことを思いやることのできる寛大な人物だ、という評価を抱いていた。そしてそれはあくまで現時点でのものではあるが、恐らく時がたってもそれほど大きく変わることはないだろうとも思っていた。
 己の立場、肩書きを自覚しながら個人として相手に気遣うことは、そう簡単ではない。公私の区別をつけるとはよく言うが、それは伸し掛る肩書きが重くなればなるほどに難しくなるものだ。公で振るうべき力や態度と、私でのそれの差と乖離の幅が肩書きの大きさに正比例することが、その原因なのかもしれない。
 勘違いしてしまうのだ。肩書きによって得た力が、自分自身の力であると。実際にはその肩書が変化したら、あるいは失ってしまったら、すぐになくなってしまういわば立場に与えられた力だというのに。
 己の公人としての立場を守る距離の取り方、接し方と、己の公人としての立場を踏まえた上での私人としての距離の取り方、接し方。それが決して上手いとは言い切れずとも、その両方を念頭において、同時に自分が相手に与える影響を考えながら人と接している。それは十分に好感の持てる振る舞いだった。
 鈴歌は幼い頃から培ってきた自分の人を見る目を信じているので、これにそれほど大きなズレはないだろうとも思っている。
 この世界では、普通神のことをそのように慮るというのはありえない。事実ミリアはもっと盲目的に冷慈のことをただ創造神イリュンとして見ていた。そして当然、鈴歌も初めはそうであった。しかし彼女は冷慈が自らのことを名前で呼んでくれと言った時から、神といえども公と私の違いはあるのだなと悟ったのだ。それは事実とは少し異なる答えではあったが、しかしその答えが結果として鈴歌の冷慈に対する視点を広げていた。
 しかし今、冷慈は隠そうとはしていながらも自分に悟られる程には不快に思って……いや、何かに怒っているのだろうか?
 少し、おかしいと思う。これまで観察してきた限りでは、そこまで怒りを感じることになる前に自分たちの誰かが原因であればやんわりと注意をするか、何にせよ何かしらの反応は見せるはず。それに何も告げずに不快そうな様子を見せてしまっては、自分たちが何かしてしまったのかと恐縮してしまうだろうということに思い当たらないとも思えないのに、何のフォローもない。
 では周囲に原因があるのかと思っても、ただ普通に歩いているだけで不快に思うようなものがあるわけでもない、普通の大通りだ。誰かがぶつかってきたとか、因縁をつけられたとか、そんな事もない。
 いったいどうしたのだろうか。場合によってはこちらから問いかけて、原因の排除をするべきか。そんな事を考えていた鈴歌は、その時自分の名前を呼ばれたことに気付いて我に帰り、少し遅れて返事をした。

「あ、はい。申し訳ありません、返事が遅れてしまって。それで、どうされましたか? なにか気になることでもありましたでしょうか?」
「ああ、いや。気になることというわけではないのだが……これから一箇所、どうしても見ておきたいところがあるんだ。すまないが、今度はそこへ道案内を頼む」
「承知いたしましたわ。それでその、見ておきたいところというのはどちらのことでしょうか? どうぞ遠慮なく仰られてくださいませ」
「それは……」

 なにか思うところがあったのだろう。冷慈はどこか重い雰囲気で、おもむろに目的地を鈴歌に告げた。

「奴隷市場だ」
「奴隷市場、ですか……? もしかして、どなたかご購入されることを考えておられますの?」

 鈴歌はそう口にしながらも、内心で恐らくそれはないだろうなと自分の発言を否定していた。簡単な話だ。冷慈ならば奴隷など購入しなくとも、望めば奴隷にさせるあらゆる以上のことを得ることができるのだから。人を従えることも、労働力を得ることも、思いのままに虐げることも、何もかも。
 しかし鈴歌はその事実がなかったとしても、きっと冷慈が奴隷を買おうとしているなどとは、露程も思わなかっただろう。何故ならそれを口にした時の冷慈の雰囲気が……まるで何かを悔いて罪悪感を感じているような、そんな雰囲気をしていたように思えたからだ。

「いや、違う。本当に、ただ一度見ておきたいだけなんだ。女性の君達につきあわせてしまうのは正直心苦しいし、すまないとは思うが……できれば案内して欲しい」

 もしかして、ただの興味本位なのだろうか。鈴歌の胸中に一瞬湧いたそんな疑問は、返事をするために冷慈の目を見返した瞬間に否定された。
 ……どうして、そんな瞳をされるのですか? 貴方は、神のはずなのに……。この世界を創られた、創造神イリュン様であらせられるはずなのに……、それではまるで――

「……奴隷市場は、こちらですわ。着いてきてくださいませ」

 ――まるで泣きそうになっているのを必死に我慢している、幼子のよう……







 この世界の奴隷制度は、およそ今から五〇年ほど前に作られた。かつてこの世界で初めて起こった内戦であり戦争である、世争せいそう戦争。この時に蜂起して後に神皇軍に鎮圧された人々が、奴隷の始まりであった。
 この世界の奴隷には、三つの種類がある。初めに首に白いチョーカーを巻いた奴隷である、戦奴。これは普段は奴隷闘技場で戦わせ、戦争の際には戦力として扱われる奴隷である。主に戦う術を持ち、いずれかの術を使うことのできる者が奴隷になった際にここに分類される。
 次に奴隷の中でも最も数の多い、労奴。これは緑のチョーカーをつけた奴隷のことを言う。労奴はその名の通り主に労働力として扱われる奴隷で、採掘などの過酷な労働や使用人、女中などの従者に従事させたり歓楽街で働かせたりと、幅広い用途で利用されている。
 そして最後に、茶色のチョーカーを首に巻いた土奴。これは最も扱いの酷い奴隷だ。主に重罪人や奴隷になった後に罪を犯した者、他にも非合法奴隷などは殆どがここに分類される。ここに分類された奴隷の扱いは、本当に酷い。いうなれば道具以下。他の奴隷とも一線を画し、家畜や路傍の石以下の扱いをされることになる。

「……説明ありがとう。自分の知識とも大きく違っていることはないようだし、もう十分だ」

 冷慈は奴隷制度について説明をしてくれていたミリアに小さく礼を述べ、彼女の言葉を遮った。

「あ、はい」
「すまなかったな。あまり気分のいいものではないだろうに、説明をさせてしまって」
「いえ、そんなことはありません。わたしたち巫女にとって、冷慈さんのお役に立てることこそが至上の喜び。だというのにそれで気分を害すことなど、決してありえません」
「そうか」

 それまでなら下手をすれば身分のバレかねないような発言には気をつけるようにと諌めるくらいはしただろうが、今の冷慈にそんな気力があろうはずもなく、短くそう答えるだけにとどめ視線を前方に向き直した。
 とそこで前方から何かを引きずるような声と呻き声のようなものが聞こえてきて、また一人ステージの上にいた奴隷が売られていき、新しい奴隷が奥から連れてこられてきたようだった。
 ちなみにミリア以外の二人だが、さすがに子どもにこのような光景を見せたくはなかった冷慈は、とある理由で奴隷に耐性があるであろうミリアのみに護衛を頼み、鈴歌には涼喬を連れて離れていてもらっていた。 
 奴隷市場は、どこかオークションのような様相を呈していた。ひっきりなしに進行役と客との声が飛び交い交渉を交わし、熱気を発している。奥には奴隷商達が控える小屋が用意され、そこと木製のステージが繋がっており奴隷たちはそこに一緒に控えているようだ。

 ――ブチリ、と噛み締めた歯で口の中が切れた――

 奴隷になってしまった人々には、様々な者がいた。弁髪の偉丈夫。武士のような雰囲気の男。体の一部を欠損している者。衰弱した様子の、くすんだブロンドの髪の女性。しかしやはり一番多いのは、年端も行かない少年少女たちだった。彼ら彼女らは冷慈の目の前で、とてもではないがそれが命の値段とは思えない価格で買い叩かれ、そして売られていく。

 ――口の中は、血の味がした――

 冷慈はその間何度も飛び出していってしまいそうな自分の体を押さえつけ、感情を押し殺し、そしてこの光景を決して忘れまいと脳裏に刻んでいった。



 奴隷制度を敷くことは、はたして悪政なのだろうか? その胸の内で己に課した自問に、冷慈はそんなことはないと否定の答えを返した。
 奴隷制度。……人身売買とは、元の世界でも多くの国が文化が発展するその過程で行なってきたことだ。そして現在にも、公に人身売買をしている国はある。
 元の世界に、こんな話がある。とある国のとある学校の授業で、子供たちは奴隷制度の話を聞いてかわいそうだから何かできないかと考えた。そして子供たちはお金を集めて奴隷を買い、家族のもとに返してあげようとしたそうだ。しかしそれを知ったとある国際機関が待ったをかけ、それをするのをやめさせたという。理由は奴隷を買い戻したとしても、結局養うことができなくてまた売ることしかできないからだそうだ。
 口減らしのために子どもを売る。それをはたして非難できるだろうか。そしてそれをしなければ餓死しかねない人たちに、子どもを売るくらいなら家族揃って餓死しろと言えるだろうか。
 そんなことは、冷慈にはできない。奴隷を売ることで家族は日銭を得、子どもも奴隷としてではあってもどうにか生きることが出来る。経済発展がなされず人口許容量や食料自給率の低いところでは、仕方のないことなのだろう。歴史の発展の中でそれが生まれるのは、ある意味必然なのかもしれない。
 しかし……、しかしだ。もしも自分があの時奴隷制度のことを思いついて、そして設定として追加していなかったら、この世界はどうなっていただろうか。
 この世界にも、冷慈の知らないことなんてたくさんある。人の歴史があり、大陸の歴史がある。冷慈の考えていなかったことで今存在していることなんていくらでもある。世界はあらゆる要素を内包する。故に世界のすべてが自分のせいだなんて、そんな事は思わない。それはあまりに傲慢に過ぎる。だがいかなる作用が働いたかは未だその一端もつかめていないが、自分が何らかの形でこの世界に関わっているのは確実だろう。

「……ミリア」

 冷慈は己の中にあった迷いが少しずつ削り取られていき、そして強固に意志が固まっていくのを感じていた。

「はい。なんでしょうか」
「そろそろここを出よう。もうここでの俺の用事は終わった」
「かしこまりました」

 冷慈はミリアが上品に頷いたのを確認してから待たしていた二人の元へと向かいつつ、全力で握り締め酷く固まっていた拳をどうにか解いた。そして何気なく、元の世界と何も変わらない、太陽の輝く青い空を見上げた。
 ――やはり俺には……これを見過ごすことは絶対にできない。
 そんな想いを、抱きながら。




 奴隷市場を出て少し歩いたところで、正面にこちらに向かって来る二人の姿が見えた冷慈は「ん?」と思わず疑問の声を上げた。

「お疲れ様でした、冷慈さん。もう用事はお済みになられたと聞いてお迎えにあがりましたわ」
「どうしてそれを? 二人とも、向こうの通りの茶屋にいたのでは?」

 その冷慈の問いに、すぐ後ろにいたミリアが代わりに答える。

「そのことでしたら、護衛の者が長く護衛対象から離れるのも如何なものかと思いまして――」

 どこから取り出したのか、ミリアはそう言いながら淡く光るアルファベットの書かれた紙を取り出して、

「こちらの紙に、通信の術式を書いて槍澤さまたちにお渡ししていたのです。それでわたしがお二人に、あそこをでた時にお伝えしておりました」
「ああ、そういう事だったのか」

 冷慈はミリアの説明に短くそう答えて、納得したように小さく頷いた。
 その時冷慈の顔を正面から見た鈴歌は、自分の胸にチクリと小さいトゲが刺さったのを感じた気がした。そして一瞬気遣わしげな表情を浮かべながらいつものように口元を扇で隠すと、さっとミリアに目配せをする。その鈴歌の目配せに、ミリアも目線で小さく頷いて、どこか表情を固くした。
 とその時、町を歩いていた間も殆ど喋っていなかった涼喬がゆっくりと前に出て、静かに冷慈の前で立ち止まった。突然のその行動に、その場にいた全員が疑問に思いどうしたのかと見守っていると、涼喬は心配そうな表情を浮かべて冷慈の顔を見上げて、

「……冷慈さん、だいじょうぶ、ですか? なんだか辛そうな顔を、しています……」

 と必死な様子でどこかたどたどしく、冷慈に語りかけてきた。
 それに冷慈は一瞬面食らったように動きを止めたが、すぐに表情を取り繕ってどこかわざとらしく首を傾げる。

「ん、そんな顔をしていたか? いや、別にどこの調子も悪くないし怪我をした覚えもないし……多分涼喬の気のせいだと思うぞ?」

 しかし涼喬は、ふるふると首を横に振って、

「……ううん。きっと冷慈さんがしたのは……心の、お怪我。だから……心配、です。……医術師は身体だけじゃなくて、心も安心させてあげなくちゃ、いけないんです……」

 それは冷慈の言葉を信じなかった、否定の言葉。だけどそれは、相手を気遣う優しい否定。
 そして涼喬はぺたりと冷慈の胸に手を添え、目を閉じるとそこに静かに額を合わせた。
 それは……古来より行われる医療行為、手当て。相手を思いやり、癒しの心を込めた最古の祈願。辛さを悲しみ、相手に元気になって欲しいと願う、優しさの発露。
 ――。
 ぽん、と涼喬の頭に手が添えられた。その手の感触に涼喬が顔を上げると、冷慈が浮かべていた穏やかな微笑が目に入った。それと同時に涼喬は、はっと小さく息を呑む。

「もう本当に大丈夫だ。ありがとう、涼喬。君のおかげで元気が出たよ」

 直後にそう言って前を歩き出した冷慈を、三人は慌てて追いかけた。
 ――その時冷慈がまなじりからこぼした一筋の雫のことは、誰も何も口にすることができなかった。



[28061] 三章 奴隷(4)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/08 07:27
 二人と合流し、全員が揃い中央通りへと向かって歩き始めてから少し。冷慈はその路地のどこかから、酷く耳に障る声が聞こえて来た事に気づいて、ほとんど無意識のうちに動きを止めた。他の三人にはそれは聞こえていなかったのか、後ろで訝しげに首を傾げつつも同じく足を止めていた。

「くく……、くひひっ」

 喉を引き攣らせながら無理やりに笑ったような、歪な声。その時冷慈の耳に微かに届いた声は、醜悪な……、醜悪な笑い声だった。それは先の涼喬たちとはまるで逆。比べることすらはばかられる、暗い暗い感情の発露。

「ぁっ……、う……」

 そしてそれに続いて聞こえてきたのは、今にも消えてしまいそうなか細い声。助けを求めるでもなく、苦痛を訴えるでもなく……それはただただ口から漏れ出てしまっただけの、絶望の発露。
 それはどちらも聞き覚えがあった。いつの間にか耳慣れてしまった、冷慈にとって身近な響き。だからこの時冷慈はその両方ともが大きなものではなかったのに、一人だけこの二つの声を聞き取れたのだろう。
 もちろん声の主と冷慈が知り合いなわけではない。冷慈が反応したのは、その声の質。そこに込められた、読み取れる感情の種類だった。己の古い記憶の中にあるものと、比較的新しい記憶。そのどちらもが、それに触発されて頭の中で一瞬にして再生される。同時に冷慈の表情が、自然と硬く強張った。そして冷慈が声の聞こえてきた方に視線を向けると、そこにはいくつかの人影がある。恐らくは、あれが先程の声の主なのだろう。
 とても……とても嫌な予感がした。そして冷慈の背筋に悪寒が走り、胸に冷たい澱みが伸し掛る。
 ……すべて俺の勘違いであって欲しいと思う。だが、もしもそうではなかったとしたら……。
 次の瞬間冷慈は、前方に見えるその人影に向かって駈け出した。同時に後ろから聞こえてきた、驚きの声を振り切って。見えてくる光景が自分の予想とは外れていることを願いながら。
 しかしあと一歩のところまで来たところで、冷慈の前に二人の男が突然立ちふさがり、駆ける冷慈の肩を掴んで無理矢理にその歩みを止める。

「待て、止まれ! 何だお主は、何者だっ」
「おい、いきなりなんなんだ!?」

 その男たちの一方は腰に刀を帯びた武士のような厳つい男。そしてもう一方は柳葉刀を携えた、背の高い屈強そうな男だった。
 しかし冷慈はそれを振り切ることこそできないまでも、まるで男たちを無視して自分を制止するその手に抵抗しながら眼前を睨みつけた。
 そこで繰り広げられていた光景は、ほとんど冷慈の予想通りのもの。愉悦に口元を歪めて暴力を振るう着流しを着た若い男と、地面に蹲ってそれに耐える、首に茶色いチョーカーを巻かれた幼い少年の姿だった。
 全てが見えたその瞬間、冷慈の心の何処かが軋みを上げた。

「やめろっ……! そのままではその子が死にかねんぞ!」

 あの少年は、奴隷だ。だから何故とは問わない。だけどだからといって、納得することも見過ごすことも出来はしなかった。

「ああ……? なんだぁ貴様? なんでオレ様が指図されにゃならないんだよ? ていうかなにか? 貴様もしかして、これに同情してやめろって言ってんのかぁ? おかしな奴だな。赤の他人がいきなり、それも土奴の上に異形人だぞ、このガキあ」

 異形人。その単語の意味は、冷慈の知識の中には存在しなかった。しかし蹲っていた少年の腕がまるで何かの動物のように白い毛に覆われているのは分かったので、きっとそれが何か関係しているのだろう。
 だが、そんな事はどうでも良かった。少年がたとえどんな存在だろうと、冷慈にとっては子どもが……誰かが目の前で理不尽に虐げられていればそれだけで、必死になる理由たりえるのだから。
 ……しかし同時に、それは目の前で起きたのでなければなにもしないということと同意義でもある。
 本音を言うのなら、もしもこの世界に奴隷制が存在しなかったら、冷慈はさっさと元の世界に帰る手立てを探していただろう。だって冷慈はきっと心の何処かで、こんな事はどの世界にとっても日常茶飯事なのだと理解しているはずだから。ならば自分の世界でのこれまでの人生を置き去りにし、やるべきことを放置したまま理由もなく別の世界に残ることなどきっとしなかっただろう。
 冷慈は結局のところ、根本的なところで我侭なのだ。行動原理を感情にしている以上、たとえ過程が論理的だろうと実態は己の感情を押し通しているに違いはないのだから。冷慈の我侭がただの我侭ですまないのは、冷慈のその感情が他人の幸福を願うものだからだろう。そして冷慈はそれを我侭だと理解しているから、一線を超えない限り本人が必要ないといったらすぐに引き下がるようにしている。
 冷慈は人を救うなどということは、ただの傲慢だと思っている。なぜなら人は……いや、少なくとも自分は、結局自分の自己満足のために動くことしかできないのだから。そして常にそう思っていなければ……"誰かのために"という言葉は容易に、"誰かのせいで"という言葉に化けうるのだ。
 そんなのは、絶対に嫌だった。助けた相手に、『自分を助けたせいで苦労をした』なんて思われたくはない。そして誰かを助けた時に何があったとしても、『あの人を助けたせいで自分はこんな目にあった』なんて思いたくはない。本当に冷慈は、己自身のためにしか動いていないのだから。
 冷慈はかつて、酷い理不尽を経験したことがあった。そしてその時に、人は心に傷を負うとなかなか癒やせないことを知った。だから冷慈は、痛みを誰にも感じて欲しくないと思った。同じ想いをして欲しくないと思った。心の痛みを知っているから、辛い思いをしている誰かを見るのは自分が辛い。だから冷慈は、自分がまた辛い思いをしないためだけに、また誰かを助けるのだ。他人を救うということは、結局は自分を救うということにつながるのだから。
 自分の足で、行ける範囲で。自分の手が、届く範囲で。自分の目が、映す範囲で。自分の耳が、聞き取れる範囲で。自分の為に、誰かを助ける。自分の心を守るために、誰かの心を守る。
 救ってあげるなどというのはただの傲慢。自分はただ、自分のしたいことをしているだけ。気にくわないと思ったことを否定しているだけ。本当に、ただそれだけなのだから。
 だから今も、必死になって否定する。子どもには、子どもらしくいて欲しい。子どものあんな絶望した表情なんて、見たくない。本当に、この時冷慈が思っていたことはただそれだけだった。

「へえ……? 何だかよく分からねえが、どうやら貴様本当にこのガキのためにキレてるみてえだなぁ。くひっ……、酔狂な野郎だぜ」

 そしてだからこそ……冷慈の想いのその一端、冷慈が何に怒っているのかを理解したその男は、もう一度歪な笑みを浮かべた後に、冷慈に見せつけるようにさらに少年を傷めつけ始めた。男は人の想いを踏み躙ることが、何よりも楽しかったから。それが自分が特別であることを確かめる、何よりの方法だから。
 男の拳が振り上げられ、少年の腹部を殴打する。

 ――頭の何処かで、何かが切れる音がした――

 男の足で蹴り上げられ、少年が何かを吐き出すように空咳をした。

 ――握った拳は、腕を掴まれて動かせなかった――

 そして今度は男の足が振り上げられ、少年の頭に――

「や、め、ろおぉぉーー!!」

 身体は、動かせなかった。しかし、意思が猛った。そしてそれが、何かに届いた感触がした。
 瞬間、冷慈を中心に……世界に白い光が満ちた。その光は、術が使われたときに発生する淡い光によくにていて、だけどどこか違っていた。

「うぁ? なんだこれ、は――?」

 光の中で男の呆けたような声が聞こえ、急にぶつりと途中で途切れた。そして光が収まった先には、何故か傷の癒えた少年と、その少し横で倒れ伏し意識を失った男の姿があった。

「な……! お主いったい、今何をした!?」
「ち……、何だかどうにもよく分からねえが、雇い主をやられちゃ黙ってられねえなっ」

 冷慈を押さえ込んでいた二人の男がその光景に気色ばみ、各々の得物を抜こうと柄に手をかけた。

「いけませんわ!」
「危ない、冷慈さま!」
「あ……!」

 そこに遅れてようやく追いついてきた鈴歌とミリアが反応し攻撃を仕掛けようとして、涼喬もビクリと肩を跳ねさせた後拳を握る。

「ぬ……!?」
「あ、が……?」

 しかしそれらが振るわれるその前に、男たちは小さく呻き声をあげながら唐突に意識を失い地面に倒れ伏した。
 鈴歌もミリアも、当然涼喬もまだ何もしていなかったはずなのにどうしたことかと訝しむが、

「……」

 いつの間にか少年のもとに駆けつけて無言で丁寧に抱き起こしていた冷慈に気付き、すぐにそちらへと向かった。しかしそれでもやはりいったい何が起こったのか気になるのか、それとも警戒しているだけなのか。三人はちらちらと倒れている男たちに視線を向け、探るように目を動かしていた。
 冷慈とて、あの光の正体も、どうして護衛らしき男たちが急に倒れたのかもわからなかった。しかしそのようなことは、全て些事。何故なら今己がなさねばならないことは、もっと他にあるから。だから疑問の解消も何もかも、今は後回しにするべきだ。
 直後に冷慈は、先程の激昂した様子がまるで嘘の様に凪いだ声で口を開いた。

「涼喬。すぐにこの子の手当をしてもらえないか。目立った怪我はどうも先程のよく分からない光で消えたようだが……だからと言って何も無いとは限らないからな」
「は……、はいっ」

 そして慌てて近づいてきた涼喬に、揺らしてしまわないよう気をつけながら抱きかかえていた少年を託すと、冷慈は周囲を見渡し先程の男たちが未だ倒れたままなのを確認して、

「それが終わったら、念の為に他の者たちも頼む。見たところ意識がないだけに見えるが、何でそうなったのかは分からないから心配して損はないだろう」

 と言ってからゆっくりと立ち上がった。

「……はい。分かり、ました」

 神妙な面持ちでこくりと頷いた涼喬を確認すると、その後冷慈はミリアの方に顔を向け、

「ミリアはこの男たちが意識を取り戻さないか見張りを頼む。もしも起きてしまうようだったら魔術か何かで軽く拘束しておいて欲しい。……急に無理を言ってすまないが、頼めるだろうか?」

 と静かな口調で問いかける。
 するとミリアは冷慈の問いに、すぐに頷きを返して強い自信と自負を伺わせる上品な微笑を浮かべた。

「もちろんでございます。どうかお任せください。わたしは神にお仕えする原理の巫女。冷慈さまが願われることならば、どんなことでもやり遂げてみせましょう。ですから、ご心配には及びません」

 その真っ直ぐな返答に冷慈は頷きを返すと、もう一度涼喬とミリアの顔を順番に見なおして、

「ありがとう、二人とも」

 と頭を下げて礼を言った。その冷慈の様子に驚いたのか、二人は一瞬息を呑んで動きを止めたが、すぐに各々に与えられた指示……いや、冷慈の願いを思い出して、無言で頷きを返すだけに留める。
 そして冷慈はそんな二人の様子を見届けると、最後に何も言われず立ち尽くしていた鈴歌の前に立ち、その目をまっすぐに見つめて、

「鈴歌。君には少し、力を貸してもらいたいことがある。これから頼むことは簡単なことではないと思うが……イリュンとしてではなく、一人の人間としてお願いしたい」

 鈴歌はこの時、冷慈の瞳に自分の中の何かが囚われてしまったことを感じていた。
 自分の心を守るために、子どもではいられなかった大人の瞳。そこに浮かぶ光はまるで子どものように純粋で、そして同時にその瞳の中は吸い込まれるように深く、強い理性を感じさせられた。
 自身が子どもではいられなかったからこそ、そしてそれが失われれば二度と得ることができないことを知っているからこそ、子どもには子どもらしくいて欲しい。それは鈴歌にも十分理解できる想いだった。だけど鈴歌には、それほど純粋ではいられなかった。
 どうしてそれほどに、純粋でいられるのだろうか。そしてどうしてそれほどに、歪なままでいられるのか。もしかしてそれこそが、神の神たる所以なのか。だけどそれは、あまりにも人間離れしているようにも思えるのに、同時にどこまでも人間らしく感じられた。
 冷慈はなぜか未だ何も反応を見せない鈴歌に対して、直後にどこか申し訳なさそうな表情を浮かべると、

「……こんな言い方をすれば君達には断れないことは分かっているし、ずるいとは思うが……それでも、頼む。俺に力を貸してはもらえないだろうか」

 と言って深く頭を下げた。

「え? あっ」

 そしてその姿を見てようやく我に返った鈴歌は、一瞬チラリとこちらを向いたミリアの視線を感じながら、

「あ、そんな、どうか頭をおあげ下さいませ! そのようなことをなさらずとも、冷慈さんのお願いであればわたくしはどんなことでも力をお貸しいたしますわ!」

 と慌てて制止の声をかける。

「そう、だな。すまない。これ以上頭を下げていても、君を困らせてしまうだけか」
「いえ、そんな……」

 そう言って口ごもる鈴歌に対して苦笑を浮かべて、冷慈は話を続けることにした。

「それで今言った君に頼みたいことという話だが……それを言う前に、いくつか尋ねたいことがある」
「尋ねたいこと、ですか。承知いたしました。わたくしに分かることでしたら、どんなことでもお答えいたしますわ」

 そこでようやく余裕を取り戻した鈴歌がそう言って小首を傾げると、冷慈は小さく頷いて、いくつか浮かんでいた疑問を口にしていく。途中、男たちを警戒しながらもミリアが補足をしてくれたりして、冷慈の知りたかったことはだいたい知ることができた。
 冷慈が鈴歌たちに聞いたことは、幾つかある。
 初めに、異形人とは何かということ。これは鈴歌よりもミリアのほうが詳しかったので詳細はそちらに教えてもらった。
 異形人とは、ファーヴニル……魔の森に住む、他生物の形質を取り込む性質を持った神無を先祖とする亜人種の総称。ちなみに異形人を捕まえた場合、無条件に土奴とすることが認められているそうだ。
 神無に関しては、初めから知っていた。神無とは魔の森がかつて狂った魔技師によって今の姿になったときに生まれた、体内に神力を持たない異形の生物。まさかそこから、亜人なんてものが生まれているとは。しかも無条件に奴隷にできるだなんて、そんな制度があるとは思いもよらなかった。
 次に聞いたのは、少年をいたぶっていた男の素性。奴隷を買うことができて護衛を付けていたことからそれなりの身分だと予想し、それならば担当官である鈴歌なら顔ぐらい知っているかもしれないと思って聞いてみたら、案の定だった。あの男はどうやら前守の藩主――和風文化圏の自治区長のことは藩主と呼ぶ――の息子だったとのこと。思ったよりも大物だったが、和の巫女がこちらの味方にいる以上むしろ対応しやすくなったか。
 そして最後に聞いたのは、藩主の人柄。どうやら藩主は息子と違って人格者だそうで、むしろ普段の息子の遊び人のような行いを嘆いてどうにかできないかと頭を痛めているそうだ。

「……なるほど。これで必要最低限の情報は揃ったか」

 すべての説明を聞き終えた後の冷慈のそのつぶやきを聞いて、鈴歌は口元を扇で隠すとまた首を傾げた。

「それでわたくしはいったい何をすればよろしいのか……お聞かせ願えますか、冷慈さん?」
「ああ。それでは君に頼みたかったことを、これから説明するとしよう」

 そして冷慈は瞳の奥に硬質な光を覗かせて、未だ倒れたままの男に視線を移しながらおもむろに話し始めた。



[28061] 三章 奴隷(5)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/11 03:42
「ただいまご当主様をお呼びしてまいりますので、巫女さまはどうかこちらの部屋でお待ち下さいませ」
「畏まりましたわ」

 そう言って鈴歌が案内された部屋に入り頷くと、彼女――藩主の屋敷の女中――は襖の前に正座をし、

「それでは、失礼いたしました」

 と深くお辞儀をしてから、そっと襖を閉じた。それに鈴歌も小さく会釈を返すと、用意されていた座布団の上に正座して、目的の人物が現れるのを静かに待つ。
 そこは非常に大きな武家屋敷だった。部屋の奥の上座には虎の絵が書かれた屏風がおかれ、さらにその横には見事な水墨画が描かれた掛け軸がかけられている。そして一度襖を開ければ、手入れのよく行き届いた立派な日本庭園が広がっており、カコン、カコンと時折鳴る鹿威ししおどしの音からは、どこか風情を感じさせられた。
 とその時、どこからかカタリと小さな音がした。その音に鈴歌はすぐさま反応して、僅かに肩を跳ねさせると部屋の奥へと視線を向ける。……しかしそこに人の気配はなく、藩主が来たわけではなくて家鳴りか何かだったのだろうと結論づけて、自分が少しだけ緊張していることを自覚すると小さく息を吐いた。そして鈴歌は緊張を和らげるために眼を閉じて軽く深呼吸をすると、もう一度冷慈から頼まれたことの内容を頭の中で反芻する。

『君に頼みたいことは、二つある。まず一つは、そこの藩主の息子を巫女に対する間接的な暴行未遂の主犯として役人へと引き渡すこと』

 これに関しては、既に引渡しを終えていた。実際のところ彼は暴行犯でこそなかったが、往来で相手が奴隷とはいえあのような不届きなまねをする不埒者を捕らえることに、鈴歌も異論はなかった。もっともあの時最後に彼の護衛が冷慈に攻撃を仕掛けようとさえしていなければ、情状酌量の余地くらいはあったかもしれないが。

『そしてもう一つは、自治区長……藩主との折衝を頼みたい。その内容に関しては、まだいくつか気になることがあるから……彼を役人に引き渡す前に俺が尋問をして話を聞き出してから、藩主と何を話してもらいたいかの内容を教えるつもりだ』

 次に鈴歌は冷慈が話した藩主への交渉内容を吟味して、反応を予測し会話を幾通りか想定し、冷慈の望む結果を出せるようにと思考を巡らせる。

『……今のように身分を明かさずに動く以上、この世界で知り合いもいない、何も持っていない俺にはこうして君に、君達に頼ることしかできない。本来ならこれは、自分の力のみで行うべきことなのだがな……。特に鈴歌には、こうして汚れ仕事のようなことまで任せてしまって……すまないと思っている。
 ――これは全て俺の我侭、自己満足だ。それに付き合わせてしまっている君達には申し訳なく思っているし、そしてそれ以上に感謝している。本当に、ありがとう』

 最後に鈴歌は冷慈の真摯な感謝の言葉を思い出して、ふっと柔らかな微笑を浮かべた。
 いったいどうしてあの方はあれ程に……わたくしたち巫女には分不相応な程に、心を砕いてくださるのか。本来ならわたくしたちにはただ命令すればそれで済むのに、今のようにとても気にかけてくださって……。
 本当に、あの優しさや篤い気遣いはまるで、神ではなく人のようだ。同時に一瞬浮かんだそんな考えを頭を振って否定すると、鈴歌は手元に置いていた扇に視線を落として苦笑する。
 なんとも畏れ多い、巫女にはあるまじきことを考えてしまったものだ。今は一人だけの時であったから良かったものの、本来ならそんな事は思い至るそのことだけですら失礼に値する。これまでにも厳しい研鑽を続けてきたつもりだったが、まだまだ修行が足りなかったようだ。
 鈴歌がそんな事を考えながら内心で己を戒めていると次の瞬間、奥にある襖がすっと開いて上座の上に威厳のある初老の男が現れ、そして自然な動作で座布団の上にどっかと座りこんだ。口元にはヒゲを蓄え、髪にはところどころに白いものが混じってこそいるが、その矍鑠とした動作からは未だ壮健であることが伺えた。
 この者こそが三大都市が一つ前守を中心に置く自治区の藩主、前田和成まえだかずなりその人である。
 鈴歌はその姿が見えた瞬間床に手をついて頭を下げようとしたが、彼はそれを必要ないと手で制するとくっと口角を持ち上げ、その武骨な姿から想像できる通りの低く通る声で鈴歌に話しかける。

「久しいな、巫女殿。もう中央から戻られていたとは知らなんだ。今日こうして参られたということは、神舞の儀は今年も滞り無く?」
「ええ、もちろんですわ。……前田様、本日は急の来訪にもこうして大変丁寧に対応してくださって、誠にありがとうございます」

 それに鈴歌も淑やかに微笑を浮かべると、控えめに礼を返した。

「なに、身どもと貴殿は役目は違えど同じ前守を良くしていくために尽力する、いわば同士も同じ。何も遠慮することはない。して、巫女殿。そろそろ今日はどのような要件でまいられたのか、聞いてもよろしいか?」

 鈴歌は前田の問いかけに「はい」と当然とばかりに頷いて、

「本日わたくしがこちらに参上させていただきましたのは、まだ前守に帰参してから前田様にまだご挨拶にうかがっていなかったと思い至ったからでございますわ」
「挨拶とな……?」

 鈴歌の答えにオウム返しをしながら、前田は訝しげに首をかしげた。
 こうして城ではなく屋敷に来たからには、これは公式のものではなく非公式の訪問のはずだ。しかし挨拶というのなら、きちんと公式の場にてそれを行う機会はある。となれば言葉通りに受け取るにはいささか不自然というもの。さて、一体彼女の本当の要件とはいかなるものか。
 などと前田が内心で考え込んでいると、

「ところで前田様。ひとつお伺いしたいのですが……前田様のご子息様は、今どちらにいらっしゃるのかご存知でしょうか?」

 鈴歌のその涼やかな声に思考を遮られ、前田は考えるのを止めすぐに顔を上げた。

「む……。あれの居場所か」

 そしてそのどこか強引な話題の変え方に少し疑問を覚えつつも、前田は表情を暗くして一つため息を吐いた。

「いや、知らぬよ。あれはどうも、藩主の息子としての自覚が欠けておるのかいつも遊び呆けてばかりでな。身どももあれの動向は把握しておらなんだ。……ところでそのような言い方をするということは、もしかして巫女殿はあれになにか御用がおありなのか?」

 それは当然の疑問だっただろう。その予定調和の問いかけに、鈴歌は眉尻を下げてどこか困ったような表情を作り首を横に振った。

「いいえ。そういう訳ではないのですが……実は先ほど、前田様のご子息様かもしれないと思われるお方と、巫女としてのお役目の最中にお会いしまして。あちらの方はわたくしにお気づきではないご様子でしたので、恐らく勘違いだろうとは思うのですが……」

 その姿は誰がどうみても、本気で困り果てているようにしか見えなかった。騙され易い男ならば、その弱々しくも儚いその姿に簡単に騙されてなんでもしてやりたいと思ってしまうほどには。
 しかしいくら情が厚く権力者としては甘いとよく評されるとはいえ、この立場にある故にそれなりに腹芸にも長けている前田には、それは見た目や言葉通りの意味ではなく……そこに意味を持たせた、話の流れを作るための記号としてあえてそうしているのではないかと疑念を抱く。そして同時に自分の培ってきた長年の勘が、けたたましく警鐘を鳴らしていることを感じていた。

「……して、それが?」
「はい。実はその時に、そのお方がわたくしに護衛の方をけしかけて乱暴しようとされまして……。それでわたくしも仕方なく、お役人様にお引き取りをお願いしたのです。ですが後になってやはりあの方が前田様のご子息様ではないかと、どうしても不安になってしまいまして……。わたくしはご子息様との面識もあまりありませんでしたし、何かそうであるとはっきりと確かめる方法がおありでしたらよかったのですが……」
「……」

 最早前田には、鈴歌が言葉の裏に何を含ませているのかを理解するために全力で耳をかたむけることしかできなかった。

「これは独り言でございますが……、上に立つ者というのは、とても難しいものなのだとわたくしは思いますの。だって時には己と血を分けたご家族の方でも、裁かなければならない時が来られるかもしれないのですから。浅学の身のわたくしでも、それはとても悲しいことなのではないかと想像してしまいますわ」

 ことここに至って、前田はようやく鈴歌の言いたかったこと、要求してきたことがなんとなく理解できてきた。そして大きく溜息をつくと、前田はそれまでよりも一段と低い声で、

「……それで巫女殿は、いったい何をすればその"先ほど捕物にあった男"というのがうちの倅ではないと証明できると思う? 一つ参考までに、貴殿のお考えを聞かせてはもらえないだろうか」
「わたくしはあまり察しのよい方ではありませんので、前田様がどうしてそのようなことをわたくしに問われるのかは分かりかねますが……、以前前田様のご子息様が幼い異形人奴隷の方をお連れになられていたのをお見かけしたことがございますので、もしもあの奴隷の方が一緒におられなかったのならば、それは今お役人様のもとにおられる方が前田様のご子息様ではないという何よりの証左になられるのではないかと愚考いたしますわ」
「なるほどな……。それはつまり、巫子殿がその異形人奴隷とやらの身請けをしたいと、そういうことで相違ないか?」
「いえ、そのようなことは……。わたくしには和の巫女としての責務がございますもの。自ら奴隷の方のお身請けをするだなんてそのようなことは、とてもとても……」

 どこか憂いを帯びた表情で艶然と微笑む鈴歌の表情を見て、どうやらこれは一筋縄ではいかなそうだと悟った前田は最早一片の気も抜けまいと、佇まいを整えて気を引き締めた。
 そこから先は、時代劇の悪代官も裸足で逃げ出すような、婉曲に婉曲を重ねての腹の探り合いだった。そして最終的な互いの落とし所は、鈴歌が暴行されかけたというのを取り下げる代わりに、あの奴隷の少年を前田家の使用人として取り立てるということ。これは彼の息子が相手を巫女だと知らず、しかも直接暴力を振るったわけではなくてかつ未遂であったからこそ可能であったことだった。もっともそれ以前に相手が巫女であると解っていて、しかも直接的に暴力を振るったとなったら流石の前田も息子をかばう気にはなれなかっただろうが。
 この結果は実質的には、お互いにとっての人質に近い。鈴歌が役人に冤罪であったと撤回する条件として、あの少年を異形人奴隷の土奴としてではなく、通常の使用人としての扱いを約束する。これはどちらかがどちらかを反故にした時点で、結局お互いにとっての不利益が発生する状態だった。
 とは言っても鈴歌にとっては……正確には冷慈にとっては、この状態を構築し維持することこそが目的であったので、人質としての意味は持っていなかったが。



「それでは前田様。そろそろわたくしは、お暇させていただきますわ。もう随分と長居してしまいましたから」
「そうか。……巫女殿。また暇ができたら、こりずにここに来られるといい。貴殿との話し合いは、有意義なことも多いからな」

 前田のその言葉は、半ば以上本気だった。前田としても今回のことは持ちかけてきた鈴歌よりもむしろ原因となった息子を責める気持ちのほうが大きく、しかも要求されたことが事だったので鈴歌に対してさほどの隔意はない。若くして和の巫女として身を立てて、自分のような者たちとも対等に話し合える鈴歌はむしろ評価に値するというのが本音だった。

「はい。わたくしはまた所用で中央に赴かねばなりませんからすぐにとはまいりませんが、その時には是非。それでは、失礼いたしますわ」

 静々と礼をして退出した鈴歌に女中を遣わせて屋敷の外へと送りだした後、前田は鈴歌から最後に聞かされた、息子がなにかしら金銭的な不正をしているかもしれないという噂がある、という言葉を思い出してもう一度深い溜息を吐いた。
 最終的に、本題とは別のところで借りが一つ。もしもあれだけではこちらがうんと言わなかったら、その話も交渉材料にするつもりだったのだろうが、結果的にはそうはならなかった。狐と狸の化かし合いは、今回は狸の負けというところか。

「……まったくあのバカ息子が。今度ばかりは簡便ならん。帰ってきたら、説教だけではすまさんぞ」

 これによって家に戻ってきたばかりの彼が、むしろ座敷牢にいたほうが楽だったと後に使用人に愚痴をこぼすように語ったという噂が一時期この屋敷の中で流れたが、それはまた別の話。



[28061] 三章 奴隷(6) 6/16 加筆修正
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/16 18:09
 冷慈たちは鈴歌と合流した後、もしもこれといって行きたいところが無いのであれば、道之川で舟に乗ってみないかというミリアの提案を受けて町の南西部にある貸し船もやっている船着場へと向かっていた。
 その間もどこか冷慈は上の空で、初めに鈴歌に労いの言葉をかけた以降はほとんど喋らず、ただ諾々と三人の行く先についていくだけであった。
 道之川の船着場についたとき、はじめ冷慈は自分が櫂を持って舟を漕ごうと思っていた。しかしここが川の下流であるというのにスイスイと上流に遡っていく舟という、思わずニュートンに喧嘩を売りたくなるような光景を前にして、『ああ、これは男とか女とか云々以前に、普通の力じゃ無理だ』とすぐに悟り、諦めて鈴歌に任せるとまたどこか心在らずな様子で景色を眺めはじめた。
 そんな冷慈の様子を見やりながら、鈴歌は彼女としては珍しいことにどこか張り切った様子で周りの景色の紹介をし始めた。その姿は普段の大和撫子然とした立ち居振る舞いとは違いどこか歳相応に微笑ましいものに思えて、普段の冷慈だったらきっとそんな鈴歌の様子を見守りながら、穏やかに笑っていたことだろう。
 道之川から眺めることのできる前守の街並みは、確かに鈴歌が嬉しそうに自慢するだけあって、非常に人々に活気があってかつ、綺麗なものだった。前守は三大都市の中でも特に、『自然と文化の融合を果たした都』と呼ばれることがある。その言葉はなるほど、嘘ではないのだろう。人々の生活の利便性を損なわずに、これほど美しい街並みを誇っているのだから。
 そうしてさらさらと涼しげに流れる道之川を遡って北上していき、やがて前守の北端へち近づいてきた頃、冷慈たちの眼前に大きな日本様式の城が見えてきた。

「冷慈さん。あれが前守が誇る象徴の一つ、前守城でございますわ。あのお城は別名を辰巳城とも申しまして、前守の構築理念である自然との共存を最大限に現した、天照神様の止まり木とも言われているお城ですの」

 その城はまるで川の上に建っているようにも見えて、城壁を水面に映しそびえ立つその威容は、圧倒的な存在感を誇っていた。

「この前守城は、ちょうど道之川と支流の間の中洲のようになっている場所に建築されておりますので、機能性はあまり良いものではありません。ですがその代わりに、外観は三大都市の名に恥じない、誰の目から見ても素晴らしいものとなっているのではないかと思うのですが……、如何でしょうか? 冷慈さんにも、お気に召していただければ嬉しいのですけど……」

 しかし冷慈はその鈴歌のどこか不安気に伺うような言葉に、

「ああ……。確かにこれは、凄いな……」

 とどこか気のない様子で返事をした。
 そのセリフは、確かに本心だった。だがそれでも、やはり冷慈の心は別のことに囚われたままだった。
 冷慈の心を落ち込ませ、ここにいたるまでずっと捕らえていた事柄。それはあの藩主の息子が暴力を働いていた少年の処遇のことだった。
 冷慈は本音を言うのなら……あの少年をあのような形で助けるのではなく、奴隷から開放したいと思っていた。たしかに今回少年の待遇、現状は、大きく改善されただろう。だがやはり、それでも土奴として彼が人の世に在り続ける限り、今後も差別的にみられるのは間違いない。特に異形人という種族の彼には、察するにあまり世間が好意的とも思えない。
 あの少年を奴隷ではなくし、そして故郷へと……もしくは彼の望む土地へと送ること。それは神として、創造神イリュンとしての権力を揮うのであれば十分に可能なことであった。
 しかし同時にそれは、冷慈にとって決してやってはならないことでもあったのだ。
 それは何故か。

 ――自分自身が、これ以上神として崇められるのは嫌だったから――

 もちろんそれもある。

 ――奴隷は他にいくらでもいるのに、あの少年だけをそうまでして助けるのは矛盾しているから――

 もちろん、それもある。
 しかし今回……もとい、これまでにもこの世界で活動する上で冷慈が酷く危惧していたことは、神の権力ちからを揮うことで与えてしまう、この世界への影響だった。
 神の力は、あまりにも大きすぎる。
 そしてそれを利用することは、必ずしもいいことばかりではない。事実として神皇が上手く押さえたとはいえ、すでに中央政府の神官の一部にはその徴候が見えていた。イリュンの存在を明かし、その力を人の世で奮ってしまうことは、悪い方向にもいい方向にも、必ずいびつな歪みを加速させながら大きく影響を与えていってしまうことだろう。
 冷慈は目の前にいる苦しむ者を、助けられるものなら可能なかぎり助けたいと思っているし、そのためにはそれなりに手段を選ばず、それによって生じた責任を受け止める覚悟をある程度持っている。
 誰かを助けるために、助けた相手に罵られる。それは別に構わない。誰かを助けるために、他の誰かに嫌われる。それは別に構わない。誰かを助けるために、自身が怪我を負う。それは別に構わない。
 それは自身の我侭を通すための、代償だと冷慈は思っているからだ。作用を起こせば、必ず同時に反作用は起こる物。自身の望む結果のみを得て何も失わないでいるだなんて、そんな事はありえないのだから。
 しかしそんな冷慈がひとつだけ、どうしても許しがたいことがある。それは己の行いの代償を、自分以外の誰かに払わせてしまうことだった。それは自身のしていることがただの我侭だと自覚している冷慈にとっては、決して許しがたいことなのだ。
 自身の我侭を通すために後先を考えず、この世界をめちゃくちゃにするわけにはいかない。それはあまりにも、自己中心的にすぎるから。
 だからこの結果は、現在冷慈がとりうる手段の中では、最上の結果だったはずなのだ。
 それに……、この結果に悔いを持つことは、あそこまでしてくれた鈴歌の行いを否定するものだ。
 自身から頼んでおいたくせに、そのようなことを考えてしまう。それは心から彼女に感謝しているからこそ、より冷慈を落ち込ませてしまう結果になっていた。
 冷慈は自身の感情を制御する術に長けている。しかしその方向性は、何か目的を果たす際にこそ最大限に発揮されるもの。外からの影響には強くても、内側からのそれにはあまり効果がなかった。それはまるで蓋か何かで押しとどめても、別のところからしみでてくる湧き水の如く、きりのないものだったのだ。

 ――シャン――

 とその時、自身の裡に埋没し、抜けられない底なし沼のような思考に没頭していた冷慈の意識が、急に浮上した。それはたった今この場に鳴り響いた、まるで冷慈にたまった澱みを払うかのごとく清らかな鳴子の音が原因だった。

「イリュン様。少しの間で良いので、少々こちらに目を向けて頂くわけにはいきませんでしょうか」

 この場は道之川、前守城直近の北端地点。故に周りに人はおらず、ミリアは誰憚ることなく冷慈のことをイリュンと呼んだ。
 それに冷慈が視線をあげると、その動作を了承ととったミリアは直後に舟の先へと立って服の裾をつまみ、上品にお辞儀をする。

「僭越ながら今この時我々に、幾許かの御身のお時間を頂きたく存じ上げます」

 そして冷慈はミリアにそう語りかけられ、顔を上げて耳に届く心地よい声に無言で続きを促した。

「そしてもしもお許しいただけるのなら、どうかこの場で我々に、御身に舞を奉じる許可をいただけないでしょうか」

 芳しい花の香りと、透き通ったよく通るミリアの口上。それは美しい景色も相まって、まるでひとつの絵画のようだった。そしてその姿は、容易に意識が浮上したばかりの冷慈の視線を捕らえる。
 さらに冷慈の後ろには、どこからか取り出した鳴子を手に微笑を湛える鈴歌の姿。どうやら先ほどの音は、彼女の手によるものだったようだ。
 鈴歌は言葉を失って沈黙する冷慈に、鈴を転がすような声で囁くように、

「ミリアさんは奴隷市場に訪れてから気を落とされていた様子の冷慈さんをお慰めしたいのだと、この催しをわたくしたちに提案してきましたの。ですので冷慈さん。もしも今のお言葉が不快ではなかったのなら、どうか彼女に頷いてあげてくださいませ」

 と告げてきた。
 この世界にきてから、どうにもよく人に気持ちを悟られるようになった気がする。それは自分のいつもの仏頂面が崩れてしまっているのか、それとも出会う人々が敏いだけなのか。
 ――不快になんて、思うはずがない。自分の為にという誰かの想いやりを、否定するほど自分は腐った覚えはないのだから。
 だから冷慈はそれまでの内心の陰鬱さが嘘のように晴れやかな表情で、ミリアに頷きを返した。
 どうやってこんな場所で舞を舞うというのかは、自分には想像できない。しかし彼女がそう言うのだから、きっと出来るのだろう。
 この時冷慈に彼女たちの言葉を疑う気持ちは、もはや一片たりとも存在していなかった。

「もちろんだ。むしろこちらから頼みたいくらいだとも。……どうか見せて欲しい。君の……、君たちの、舞を」
「畏まりました。それでは御覧にいれましょう。称号をいただく三人の巫女の、粋を集めた舞を御身に」

 そしてもう一度ミリアはふわりと上品にお辞儀をすると、突然どこからか取り出したビンのようなものを空に向かって放り投げた。
 それと同時に、背後でパンッ、と鈴歌が扇を広げる。そしてその扇が優雅に舞い、舟縁を超えて水面を柔らかに叩いた。それによって表面についた水滴を、鈴歌は扇を振って払いのける。その祓われた水滴は、弾丸のように真っ直ぐにミリアの放ったビンへと向かうとそれを砕いた。
 その瞬間、中に入れられていた水が空中にばらまかれ、霧のように細かい粒子になって中空を漂う。そうして冷慈の眼前に現れたのは、七色に輝く光りの架け橋だった。

「これは……、魔術の効果か」

 恐らくは先程投げたビンに、内容物の性質の変化をさせる魔術文字が刻まれていたのだろう。そんな事を考えていた冷慈の前で、ミリアが軽やかに舟の外へと跳躍した。
 水……液体の形質は、本来流体だ。故にその上に落下した固体が、沈まぬことなどありえない。しかし彼女はその世界の法則に反して、当たり前のように水の上に立っていた。
 そしてそれに続いて鈴歌も舟から離れ水面へと降り立つと、冷慈に向かって礼をする。
 最後にそれまで沈黙を保っていた涼喬も、

「……冷慈さん。わたし、がんばりますから……。……ですからどうか、元気になってくださいね。今度こそ、本当に……」

 と言ってお辞儀をした後、彼女たちに習って舟から飛び降りた。
 さらにミリアは、魔術文字の書かれた紙を取り出した。そしてそれを自分たちの服に順番に押し当てると、次の瞬間全員の服装が着物から巫女服へと変化した。
 冷慈が思わずその変化に目を見張っていると、最後に鈴歌が水を操って各々に纏うように空中に踊らせた。それで準備は終わったのか、鈴歌は扇を広げ、ミリアは麗しく微笑を浮かべ、涼喬は緊張にキュッと唇を引き締めて頭を垂れる。

 そしてとうとう、三人の巫女の舞が始まった。

 虹はこの世界において、神界へと至る精霊の渡り橋だという逸話がある。そしてその下に、美しく咲き誇る三華の姿。それは正しく天使、天女の舞のごとく、この世ならぬ美しさを感じさせる光景であった。

 舞台はせせらぐ川の上。それは天上にすら劣らぬ舞台。
 左方には和を司る、一の花。それはまるで、桜のごとく。艶やかでもあり、密やかでもある。
 右方には生命を司る、二の花。それはまるで野花のごとく。清らかでもあり、可憐でもある。
 そして中央には、原理を司る三の花。それはまるで、典雅な薔薇のごとく。華やかでもあり、麗しくもある。

 涼やかに扇を閃かせ、舞い踊る。力強く地を踏みつけて、舞い踊る。優雅に衣を揺らめかせ、舞い踊る。

 次第に集う、精霊の蛍火。その光景はあまりにも、幻想的。精霊の輝きに包まれて煌く水を纏うその様は、もはや人ならぬ美しさ。
 ここに顕現せしは、美しき神々の花畑。それは全てを潤し癒す桃源郷。この光景を見たものは、等しく感動に感涙し、心洗われることだろう。

 ――全てが震えるほどに、感動的だった――

 そしてかちりと、冷慈の心に最後の欠片が当てはまる。
 自身の想像したこの世界を好きになることができたこの瞬間が、冷慈が最後の覚悟を決めた瞬間だった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 三人が舞を終え、再び舟に全員が揃った後、冷慈は己の語彙が許す限りの言葉を尽くし、三人に労いの言葉をかけた。
 本当なら、ありがとうと言って頭を下げて礼を言いたかったところではあるが、特にミリアはそれをしてしまうと恐縮してしまう。よって冷慈は、必死に言葉を選んで心の中の感謝の気持ちを伝えていた。

「いえ……そんな。わたしはしたいと思ったことをしたまでですので、そのようにお褒めいただくのは恐縮でございます」
「ふふ、とんでもありませんわ。少しでも冷慈さんのお心をお慰めするお手伝いができたのなら、わたくしたちはそれだけで幸いですもの」
「冷慈さんが元気になってくれたのなら、良かったです……」

 それに返って来た言葉はそんな謙遜の言葉だったが、三人が三人とも、どこか嬉しそうにしていたのが印象的だった。
 そして冷慈は三人のその言葉を耳にしながら穏やかな微笑を浮かべ、もう一度心のなかで『ありがとう』と呟く。
 それは落ち込んでいた自分を元気づけようとしてくれたその心遣いと、素晴らしい舞を見せてくれたこと。そして自分のこれからやろうとしていたことへの迷いを払拭し、覚悟を決めさせてくれたことへの感謝の気持ちだった。
 とそこで冷慈がふと視線を上に向けると、最初にミリアが魔術によって出した虹がちょうど消えるところだった。次第に霞がかり、ゆっくりと消えて行くその姿はまるで花火の散り際のように儚く美しく、冷慈の胸中にどこか祭りが終わった後の寂寥感のようなものが込み上げてくる。
 そして冷慈はその七色の光が完全に消えるのを無言で見守ると満足気に嘆息し、同じく空を見上げていた三人に向かって、

「……さて。そろそろ陽も落ちてきたことだし、神皇殿に戻ることにしようか」

 と提案する。
 すると三人は、すぐに各々返事をして頷きを返してきた。
 そしてその後鈴歌が櫂を握り船を操り始めながら冷慈に、

「そうですわ。冷慈さん、一つ確認なのですが……神皇殿に戻られる際にもこちらに来た時と同じように、結界術をお使いに?」

 と問いかけてきたので、冷慈はすぐに頷いた。

「一応そのつもりだったが、何か問題でもあっただろうか?」
「いえ。そういう事でしたら、こちらの船はあの林に近いところにある船着場にお返ししたほうが良いかと思いまして」

 鈴歌のその言葉を聞いて、冷慈は納得したように「ああ、なるほど」と呟いた。
 川を交通手段として利用している以上、借りた船を同じ場所にしか返せないようでは不便が出る。そう考えれば、船を元とは別のところにも返すことができるのは必然というものだろう。

「そうだな。人気のないところを改めて探すのもなんだろうし、それで頼むよ」
「畏まりました」

 冷慈の肯定の言葉に鈴歌は微笑を浮かべて頷くと、操船に集中するために前を向いた。
 そして冷慈たちは船を乗った時とは別の船着場にとめると、林へと向かって歩き始めた。その間全員が特に話すこともなく無言であったが、不思議とその間に流れる空気は穏やかなものだった。
 しばらくして林の前に着くと、来た時と同じように鈴歌が道を作り、念の為に人がいないか視線を巡らせて確認してから冷慈が先頭を歩き奥へと進む。
 そうしてしばらくして、ようやく目的地へと到着し立ち止まったところで不意に冷慈が、

「ん?」

 と突然呟きを漏らして訝しげに首をかしげた。

「? ……どうかしましたか? 冷慈さん」

 その様子を見た涼喬が訝しげに疑問の言葉を口にするが、冷慈はそれに答えず何かを探すようにきょろきょろと周囲を見渡して小さく「気のせいか」と呟いた。
 その後冷慈は未だに小首をかしげたままの涼喬に視線を移して苦笑を浮かべると、

「すまないな、返事をしないまま無視をしてしまって。一瞬誰かの視線を感じた気がしたんだが……、どうやら俺の勘違いだったようだ。気にしないでくれ」

 と答えを返す。
 するとミリアはまたどこからか手元に紙を取り出して、

「念の為に、探査をいたしましょうか?」

 とうかがってきたが、冷慈は「いや」と首を横に振った。

「必要ないだろう。こんな所に来る人間がそうそう俺たち以外にいるとも思えないし……それに、」

 そして冷慈は一度言葉を切って視線を鈴歌に移すと、その続きを口にした。

「既に人がいるかどうかの確認は君がしていたのだろう? 鈴歌」

 その言葉を聞いた鈴歌はゆっくりと口元を扇で隠すと、どこか楽しげな微笑を浮かべる。

「はい。確かにその通りでございますが……冷慈さんはどうしておわかりに?」
「なに、別にそう難しいことじゃないさ。ただこの道を作ってくれた時の術が前に使った時よりも少し時間がかかっていたのと、時折扇で枝に軽く触れていたのが目に入っていたからな。そこから術で何かをしていたのだろうと思って……あとは会話にも入らずに周りを見回して黙ったままだったから、鎌をかけただけだよ」

 本来陰陽術を使うには直接触れる必要があるはずだが、鈴歌が何かしらの方法で扇を介して術を使えるのはビンを割るときに見ていたので、先頭を歩きながら何度か後ろを確認していたときに鈴歌が何かしらの術を使っているであろうことに気づいて、観察していたためにそう思ったのだった。

「ふふ。そのようにじっくりと見られてしまいますと、少し恥ずかしいですわね。ですが流石冷慈さん、ご明察ですわ」
「いや、大したことじゃないさ。確信があったわけではなかったしな」

 冷慈が鈴歌の賞賛の言葉に苦笑いを浮かべていると、今度はミリアがどこか硬い印象の微笑を浮かべながら鈴歌へと話しかけてきた。

「槍澤様は既に何度も術を使われていたのですから、言ってくださればそれくらいわたしが代わりましたのに……」
「そんな、とんでもありませんわ。ミリアさんこそわたくしたちとは違って先程はシテ……主役として舞われていたのですもの、きっとお疲れでしょう?」
「……"神の英知"たる原理の巫女が、あの程度で音を上げるなどありえません。それは槍澤様もご存知でしょう?」
「まあ、これは失礼を致しました。そうですわね。ですがわたくしもミリアさんと同じで、このくらいの術行使では大きな疲労はございませんので、ご心配には及びませんわ」

 そこでバチっと二人の間に見えない火花が飛んだところで、冷慈は肩をすくめてもう一度苦笑いを浮かべた。
 ちなみに涼喬も三回目ともなるとさすがに慣れてきたようで、その後ろで微妙に居心地が悪そうにしているだけで前のように怖がっている様子はない。

「さて、いつまでもこんなところで話しているのもなんだし、そろそろ戻るとしよう。鈴歌、ミリア。喧嘩するのはその辺りでやめて、こっちに来てくれないか。もちろん涼喬も」

 そして冷慈がそう告げると、二人はまるで示し合わしたようにぱっと口論をやめてはいと頷く。その様子を見た冷慈は、思わず頬を緩めてふっと笑みをこぼした。
 その後二人の後ろに続いて涼喬も近づいてきたところで、冷慈はこほんと一度咳払いすると全員を見回して、どこか真剣な様子で口を開いた。

「それと一つ、戻ったあとに大事な話があるから……すぐにというのは疲れているだろうから夜にでも、できればもう一度部屋に来て欲しい」
「……大事なお話、ですか。えっと……、それはわたしたち全員に、でしょうか……?」

 涼喬の疑問の声に冷慈はすぐに頷いて、

「ああ、そうだな。君たち三人と……あとは神皇、ミナカにも集まってもらって話をするつもりだ」

 と言った。
 それはつまり、現在冷慈のことを知っている全員ということになるのだろう。そう判断した三人が思い思いに頷くと、冷慈は小さくありがとうと感謝の言葉を口にして、

「では、戻るか。術式起動。形状指定。検索>>該当空間発見。座標指定>>現在位置。結合、開始。結界>>発動」

 結界術を行使した。
 そうしてこの場からは誰もいなくなり、そこにはひらりと何処から舞い降りた花びらだけが地面に残されたのだった。



[28061] お知らせと謝罪
Name: pisteuo◆8a182754 ID:6fcf319e
Date: 2011/06/16 15:28
 初めに、既にこの拙作『神は『意思よあれ』と宣うた』を呼んでくださっていた読者の皆様に謝罪を。実は先日何度か推敲や見直しをしているうちに、どうしても自分の中での違和感を拭えずに、最終的に7,8を削除、そして6の最後から書き直しを致しました。
 そういう訳ですので、現在6の最後に加筆修正をし、7も冒頭部分いがいはまったく違うものとなっております。
 以前から呼んでくださっていた方たちには混乱させてしまったかもしれませんが、自分の納得の行かないものを書き続けることはできなかったので、そういう事になりました。
 投稿後にこのようなことをしてしまい申し訳ありませんが、もしよろしければ今後もこの拙い作品にお付き合いいただけると嬉しいです。

 追記.以前と変わった部分、加筆した部分がどこからかわかるように印を入れることにいたしますので、読んでくださる方はそれを目安にしていただきたいと思います。



[28061] 三章 奴隷(7)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/17 14:41
「イリュン様。もうお手が止まられていられるようですが、そろそろお食事をお下げしてもよろしいでしょうか?」
「う……。いや、まだ待ってくれ。もう少ししたら食べきれるから」

 冷慈は小さく呻いて膨れた腹をさすりながら、ミナカの問いに首を横に振った。

「……畏まりました。差し出がましい真似をしてしまって、申し訳ありません……」

 するとミナカはどこか自虐的に謝りながら、冷慈に対して頭をさげてきた。

「ああ、いや。いい。気にしないでくれ」

 しかし迫り来る満腹感に必死に抵抗していたために余裕を失っていた冷慈は、申し訳なさそうにしているミナカに対してそう答えることしかできず、そしてまた目の前に広がる食べかけの料理へととりかかった。

 冷慈たち一行は神皇殿に戻ってすぐ、巫女たちは神皇に報告をするために退出し、冷慈は色々と考えをまとめるためにと解散した。
 その後冷慈はそれなりに疲れていた体を癒すべく風呂――まさかの檜風呂だった。神皇の趣味だそうだ――に入り、そしてミナカの運んできた食事をとっていたのだが……、これがまた量が多かった。
 まあ冷慈もある程度は予想していたし、だから事前にあまり量は必要ないと言ってあったので、絶対に食べきれないというほどではなかったのは不幸中の幸いだろう。
 とはいえ冷慈の食事量は、決して一般的な成人男性の域を大きく超えるようなものではない。よって冷慈はそのほとんどを食べきってしまった今、精神的にも肉体的にもいっぱいいっぱいだった。いくら和洋中揃った絶品料理とはいえ……過ぎたるは及ばざるが如しという。冷慈は今身を以て、その有名な故事を体験していたところだった。
 とまあそんなこんなで随分とここまで苦戦したが、残りの料理は目の前にあるこの一品のみ。

「……、よし」

 なので冷慈は、ようやくこれで最後かと小さく気合を入れると、その意気込みを表すように勢い良く口の中へとかきこんだ。それと同時に、時間をかけると満腹感に押しつぶされてしまいそうだとはいえ、これでは味も何もあったものじゃないなと内心で苦笑する。
 とその時、今度こそ冷慈が食事を終えたことを確認したミナカが控えめに声をかけてきた。

「それでは、食器を片付けさせていただきます。……よろしいでしょうか?」

 そして先程のことを思い出して不安になったのか最後に確認をとってきたミナカに、冷慈はせり上がってくる満腹感やら満足感やら、口から出してはいけないもろもろの物やらを抑えながら、「ああ」と小さく頷いて、

「すまないが、頼むよ。片付けは任せる」

 と告げたあと、ふうと小さく息を吐いた。

「はい、畏まりました。……ところで、あの。その前に一つ、お尋ねしたいことがあるのですが……よろしいでしょうか?」
「ん? 別に構わないが……何か気になることでもあったかだろうか?」

 冷慈が訝しげに聞き返すと、ミナカはどこか上目遣い気味になりながら、

「ええと、気になることといいますか、その……イリュン様に、本日お出ししましたお料理の方はお気に召していただけたかどうかを、お伺い致したく……」

 どこかおずおずとそんな事を言ってきた。
 まさかすべて平らげておいて、今更気に入らなかったなんて言うはずもない。途中からはそれどころではなかったが、美味しかったのは事実なのだ。よって冷慈はミナカのその問いかけに、

「ああ、そんなことか。もちろんどの料理も美味しかったぞ。本当ならこれを作ってくれた者には礼を言いたいくらいだが……、流石にそういうわけにもいかないか」

 と当然とばかりに首を縦に振って、最後にどこか残念そうにそう付け足した。
 するとミナカは彼女にしては珍しくぱっと顔を輝かせて、

「まあ、そうですか! それはようございました!」

 と声を弾ませ喜色を表す。
 そしていつもより上機嫌な様子で食器を片付け始めたミナカに、冷慈は訝しげに首をかしげた。しかし頭に浮かんだその疑問は、直後にミナカが投げかけてきた質問によってかき消されてしまうことになる。

「ところで、イリュン様」
「?」

 まだなにかあったかと冷慈が無言で先を促すと、ミナカは先ほどよりもどこか輝いて見えるいい笑顔で、

「この後、食後のデザートなどはいかがでしょうか?」

 と仰られたのだった。

「……。いや、もうむり……」

 その言葉を聞いた瞬間冷慈はそれを食べる自分を想像でもしてしまったのか、とうとう限界を迎えテーブルに崩れ落ちて、ミナカに胃薬を持ってきてくれるようにと頼むのであった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 しばらくして、冷慈の胃の痛みも治まり落ち着いてきた頃。冷慈はミナカに神皇たちを呼んできてくれるようにと頼んで、静かに部屋の中で待っていた。
 それから五分ほど経った頃、部屋の扉がいつものように四度叩かれその向こうから、

「イリュン様。神皇陛下と巫女様たちをお呼びして参りました」

 という声が聞こえてきたので、入っていいとミナカに告げる。

「それでは失礼いたします。……どうぞ皆様、お入り下さいませ」

 ミナカが扉を開けて横に控え、神皇を先頭に全員がお辞儀をしてから部屋に入ってくる。少しして全員が部屋に揃ったのを確認すると、既に部屋の真中にあるテーブルに座っていた冷慈は、神皇たちにも同じように椅子に座るように言う。

「お茶が入りましたので、どうぞ」

 すると神皇たちの椅子を引いていたはずのミナカが、少し視線を外したところでいつの間にか横に控えてすっと湯呑みを目の前においたのを見て、冷慈は小さく「ありがとう」と言って微笑を浮かべる。
 そして冷慈はだされたお茶をすすりながら、ミナカが神皇たちにも配っていく様子を眺めた後にそれをことりと手元において、静かに目を閉じると自分の覚悟を確認するためにもこれまでのことを回想し始めた。
 山城冷慈という人間の人生は、元の世界のとある町にある児童養護施設"さくら園"の門の前に、午前〇時に置き去りにされていたのを見つけられた時から始まった。
 毛布にくるまりながら泣いていた冷慈の胸元には、平仮名で『れいじ』とだけ書かれた紙が添えられており、さくら園の職員はそれが時間を指すものなのか名前なのかは分からなかったが、唯一実の親に与えられたものがそれだけだったことからこの赤ん坊のことをそのまま"レイジ"と呼ぶことにした。
 "レイジ"は元々それほど明るい性格ではなかったが、感情表現が分かりやすく優しい素直な子どもだった。そしてさくら園の職員たちや仲間達に囲まれて、"レイジ"は真っ直ぐにすくすくと成長していく。
 そんな"レイジ"に転機が訪れたのは、"レイジ"が小学校に上がってからすぐの頃。とある夫婦が、さくら園に現れた時だった。彼ら夫婦はさくら園に何度か訪問した後、"レイジ"のことを里親として引き取りたいと言ってきたのだ。
 "レイジ"は初め他の子どもたちに遠慮してか、その申し出を断り続けていた。しかし夫婦が"レイジ"以外を引き取るつもりはないことを告げ、そして職員たちが根気よく説得を続けると、やがて"レイジ"は納得してその夫婦のもとへと引き取られて行った。
 そこからが、"レイジ"にとっての地獄の始まりだった。
 初め夫婦は"レイジ"に対して優しくも厳しく接していた。その様子は近所の目から見ても、仲のいい親子のように見えただろう。
 しかし夫婦はある日突然、手のひらを返したかのようにその態度を横暴なものに変えて、"レイジ"に対して暴力を働き、身体的、精神的な虐待を始めたのだ。
 それに"レイジ"は延々と耐え続けた。そうすれば、もしかしたら元の優しい夫婦に戻ってくれるかもしれないと思って。そしてここで自分が逃げ出せば、もしかしたら夫婦は同じことを繰り返して別の仲間が同じ目に会うかもしれないと思って。
 だが夫婦は、変わらず冷慈を虐げ続けた。やがて一年ほどの月日が経つと、"レイジ"は身も心も衰弱しきって耐えることにも疲れ、何も感じずただだくだくとそれを受け入れるばかりになった。
 そんな"レイジ"の様子をおかしく思い、父に相談して児童相談員を呼んだのが、当時まだただのクラスメイトだった大和だった。そして"レイジ"はようやく夫婦のもとから保護されて、またさくら園へと戻っていた。
 保護された後の"レイジ"は、以前にもまして大人しい子どもになっていた。そして感情表現が分かりにくくほとんどが無表情で過ごすようになり、身近な人間以外と接するときには自分からは殆ど話さず、その瞳の奥で観察するようにじっと相手を見つめるようになっていた。

 ――。

 そこまで思い出したところで、冷慈は小さく吐息を漏らしてすっと目を鋭く開いた。
 冷慈はあの頃の、まるで死人のようになっていた自分の瞳を今でも憶えている。鏡の中に映る自分の顔は、まるで心のない人形のようになんの感情の色も映してはいなかった。
 そして冷慈はあの頃の、与えられた痛みを覚えている。心に傷を負うことの辛さを覚えている。絶望を覚えてしまった心の虚ろさを覚えている。意思を失った自分を見守ってくれた人たちの悲しみを覚えている。
 なのに自分は、この世界に奴隷制度という……自らにとってのあの夫婦を生み出してしまった。
 そこで冷慈はぎりと小さく歯噛みすると、あの前守で助けた奴隷の少年のことを思い出し、もう一度目を閉じるとまるで天を仰ぐように上を向いた。
 ……こうしている間にも、奴隷たちはあの少年のように……いや、それ以上の絶望を味わっているのかもしれない。自分のあの時受けたものが大したことではないと思えるような、そんなひどい絶望を。
 そのそもそもの原因が、他の誰でも内自分自身にあるというその事実が、冷慈にはあまりにも許し難かった。ともすれば、今すぐにでも自分自身を傷つけてしまいそうになるほどに。
 ――そしてなにより、今すぐにでも泣きだしてしまいそうなほどに悲しかった。
 誰よりも子どもには子どもらしくいて欲しいと願っていたはずの自分が、そうあることを許されない世界を作ってしまったことが……。

 ――だから俺は、その道のあまりの困難さに初めは迷ったけれど……それでももうあの時の自分のように、生きる意思を失ってしまった誰かを見てしまうのは嫌だと、そう思ったんだ――

「……では、話を始めようか。これから話すのは、俺がこの世界を自分の目で見て決めたこと。おそらくはそれが今後イクシュン・シリで活動する上での、俺の最大の目的になるだろう」

 冷慈が静かな口調でおもむろに話し始めると、それまで沈黙しながらも冷慈の様子を見守っていた全員が、冷慈に注目した。

「俺の目的……この世界での俺の最終目標は、」

 そして冷慈は、瞳の奥に意志の炎を揺らめかせ、深い理性を感じさせる落ち着いた声で、

「――全ての奴隷の解放。そして奴隷制度の、撤廃だ」

 己の覚悟を、口にした。

 ――嗚呼……全ての人に、意思よあれ。人の上に、人を作る事なかれ――


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.327496051788