1965年岐阜県生まれ。
高校入学と同時に元宮内省吉田流鷹術伝授者の丹羽有得氏に弟子入り。
大学卒業後、就職するが鷹術を続けるため退社。現在は研師をしながら鷹を調教、鷹術の伝統継承に努める。
箕浦芳浩は昭和40年4月1日、岐阜県可児市に生まれた。可児市と言っても、家を囲むように山が迫った郊外である。腕白だった彼は小さい頃から、山や川で小鳥とか魚を捕まえて遊んでいた。その彼が鷹狩りに興味を覚えたのは小3の時である。祖母と並んで観ていたテレビに、たまたま、後に師匠となる丹羽有得師が映った。その手には鷹が止まっている。
「おばあちゃん、なぜ鷹が手のところにいるの?」
芳浩の素朴な疑問に対し、祖母は「あれは鷹狩りと言ってね、鷹を手の上で飼い慣らして獲物を取るんだよ」と優しく説明してくれた。それが妙に心に焼付いたのである。中一の教科書で、戸川幸夫氏の小説『鷹王』を読んで、その興味が蘇った。小説は山形に住む老鷹匠と鷹との話だが、鷹が手の上にいることすら不思議なのに、手から離れて獲物を捕り、呼べば戻る。人間と鷹との触れ合いに、芳浩はすごく感動を受けたのだ。
やってみたい。そう思ったものの、しかし、どうすれば鷹匠になれるのか道がわからない。ツテを探しつつ中三を迎えた彼はある朝、朝刊の小さな記事に目を吸い寄せられた。そこには鷹がカイツブリを狙って水に飛び込んだという記事と写真が鷹匠の丹羽氏の紹介とともに載っていたのだ。住所は春日井市とある。
「こんな近くに鷹をやっている人がいたのかぁ」
長い間探していたものをやっと見つけ、芳浩の心は躍った。
中学卒業後、愛知県の中部工大付属高校へ進んだ芳浩は、春日井市まで足を伸ばし、丹羽氏の家を訪ねた。ところが、丹羽氏は尾張旭市にある財団法人「日本鷹狩りクラブ」へ出かけて不在だった。
「日本鷹狩りクラブ」は、大原総一郎氏がヨーロッパで鷹狩りが伝承されているのを知って、日本でも鷹術を保護しなければいけないとつくった財団である。宮内省吉田流鷹術の伝承者である丹羽師はそこで技術を教えていた。
家で採れた大豆を手土産に、芳浩は次の日曜日にそこへ出かけた。鷹を見せてもらうだけのつもりであったが、希望すれば誰でも鷹術を習えると知って、学校帰りに、最低週に2回は「日本鷹狩りクラブ」へ出かけるようになった。授業が三時半頃に終わると、自転車で一山越し、尾張旭市まで突っ走るのである。飛ばしても1時間はかかる。クラブに着くと、丹羽師が鷹に餌をやっている時間である。それが終われば帰ってしまうので、必死になって山道を漕ぎ、習いに通った。
習うといっても、古典文化の多くがそうであるように、教科書があるわけではなく、師匠がするのを側で見ていて、覚えていくのである。鷹の掴み方、爪と嘴の切り方、足に付ける革紐の通し方……そうした基本的なことから一つずつ、丹羽師の一挙手一投足を身じろぎひとつせずに凝視し、頭に叩き込んでいかなくてはならない。たとえば、爪はニッパで切るのだが、切りすぎれば獲物が捕れなくなるし、長すぎれば鷹匠の腕が傷つく。その見極めが大事で、芳浩は畳に落ちた爪の長さを見て、丹羽師がどれくらいの長さで切るかを記憶していった。
また、調教するための鷹部屋も独特のつくり方がある。部屋の大きさは一坪。四方を塗り壁にして外界の視線を遮断し、天井だけは、雨が振り、日が差すように竹を通した窓を開けておく。いわば自然界との通気窓と言ってよい。
調教は、その鷹部屋で行う。まずはじめに、鷹が止まる槊を置き、革紐で鷹の足を結わえて、真っ暗な部屋の中に最低一週間、飲まず食わずで閉じ込めておくのである。次に、闇夜の晩に部屋の戸を静かに開け、槊に止まっている鷹の足をすくいあげて手に載せてやる。しばらく息を殺してそのまま据えておき、“ねず鳴き”と言って、チューチューというネズミの鳴き声を発しながら、腰にぶら下げた餌籠から鳩の胸の肉を取り出し、鷹の口のところへ持っていくのである。が、誇り高い鷹はぱっと飛びついたりはしない。と、再び槊に戻し、そっと小屋から出て行く。それを何日間か繰り返し、人間の手の上で餌を食べるまでの根競べを続けるのである。
一回食べると、翌日からは水を飲ませる。すると、鷹は一気に飢餓状態になり、体重がどんどん落ちていく。そのときから毎日手の上に載せ、人間の手の上にいる感覚を慣らしていくわけだ。常時ねず鳴きしながら、餌を少量ずつやり、人間が来たら餌がもらえる条件反射をうえつけるのである。この間餌の量が少ないので、体重は60%までダウンする。意識が朦朧とし、目がトロンとして、外へ連れ出しても犬や車などを見て怖がらなくなったところで、今度は体重を少しずつ上げていき、75%まで回復させるのである。これが人間の言う事を聞く、飛べる、獲物を取れる鷹のベスト体重にほかならない。そして、ねず鳴きから、遠くでも声が通る「ホイ、ホイ」に掛け声を変え、人間がホイと声をかけたら手に戻ってくるように仕込むわけである。仕上がるまで六、七十日を要する。
芳浩は調教の実態を知って、小さい頃に描いた鷹と人間との触れ合いなど幻想に過ぎない事を思い知らされた。もっとも、人間が少しでも弱気になれば、鷹は人間を見切ってしまい、絶対に言う事を聞かない。その人間と鷹との目に見えない闘いに魅かれ、芳浩は土曜日の午後は弁当持ちで出かけ、丹羽師にぴったりとくっついて技術を一つひとつ吸収していった。
またたくまに三年の歳月が流れ、免許皆伝のレベルに達した。
しかし、家族は芳浩が鷹術を続けることにいい顔はしなかった。
「道楽したら、お金がいくらあっても足らないよ」
芳浩が鷹を買うと聞いて、祖父はそう忠告した。父や祖父も、そんなたわけたことをやってどうするんだと言う。このときも、反対を押し切って、先輩から中国産のオオタカを十五万円で譲ってもらい、調教用の鷹部屋も自分の手でつくった。反対されるほど、余計にやりたくなるのが彼の性分で、特に、文化よりお金のことをすぐに言う大人の考えに強く反発した。
――これだから、自然もなにもかも破壊されてしまうんだ。俺は金なんて関係ない。
そう気負ってみた芳浩だったが、現実は祖母の言うとおり、お金がいくらあっても足りない。餌代だけでも月に十万年から必要とし、鷹の世話、調教に、予想以上に時間と金がかかるのである。
中部工大へ進んだ芳浩は、提出レポートを友達にアルバイトで頼み、自分は肉体労働など賃金の高いアルバイトに精を出して、月に二十万円から稼いで、費用に当てた。だが、就職するとそうはいかなかった。
昭和六十三年、地元にあるサッシ会社の設計部門に就職したものの、手取り十万そこそこの給料はあっという間に吹き飛んでしまう。毎朝五時、六時に起きて鷹の世話をし、秋になれば、冬場のシーズンに向けて狩り場での実戦の調教に入る。遠出したときは始業時間に間に合わないこともしばしばで、おまけに、仕事中に居眠りすることもあった。いかなる理由があれ、サラリーマンとしては失格である。上司から注意を受けるし、給料も最低のランクしかもらえなかった。くわえて、平成一年の四月に結婚し、生活費と鷹代とでニッチもサッチもいかなくなったのである。
だが、芳浩は鷹を捨ててまでサラリーマンに徹する気は毛頭なかった。
――鷹の餌代にしかならない給料で拘束されるなんて、まっぴらだ。こんなトロクサイとこ俺から辞めてやる。
結婚して一年後に、会社を辞めてしまった。箕浦家は十三代続く地元の名家で農地があり、米、野菜には事欠かない。食っていくくらいなんとかなるだろうと楽観的に考えて決心したが、やがて子供が生まれれば養育費だってかかる。遊んでいるわけにはいかないので、鷹術をやれる時間があって、なおかつある程度収入になる仕事はないものかとあちこちあたった。
その結果、釣り仲間である美容師から、鋏の研師をやってみては、と勧められたのである。昔は美容師が研いでいたが、今はメーカーへ送り返しており、どこの美容院も時間がかかって不自由をしている。きっと需要があると思うという話であった。 芳浩はその案に乗った。
美容院の材料会社の紹介で、神戸にある『ハイゼット』という鋏メーカーを訪れたのが六月。自分は鷹匠で……と事情を説明すると、社長に気に入られ、明日からでも来なさいとなった。可児と神戸は遠い。鷹術を習ったようにはいかないので、週に一回のわりで神戸へ通い、二、三日泊り込んで、本来なら社外秘である技術を教えてもらった。
一本何万、何十万もする鋏を研磨機と砥石を使って、研ぎあげる。七月いっぱいでその技術を身につけた芳浩は、八月から営業を始めた。車に道具を積み、「鋏の研ぎはいりませんか」と可児市内の美容院を回るのである。初日から好調だった。一本研いで千五百円。つっけんどんに断られることもあったが、美容院には一軒で十本以上鋏を置いているところもあり、「じゃあ、これお願いね」と五本も六本も出してくれた。半日ほどでざっと三万円。予想以上の稼ぎである。さらに、図面引きのアルバイトもし、月に五十万円以上にもなった。ようやく生活していくメドがついたと思ったところが好事魔多し。睡眠時間の不足と座る仕事が続いたため、痔を患い、入院を余儀なくされたのだ。
またも収入が途絶え、鷹の世話ができない日々が続いた。俺のやっていることは、大河に竹竿一本を差すような虚しい行為ではないのか。芳浩はベッドの上で徒労感に襲われ、今の世の中で伝統技術を継承していく難しさをつくづく痛感した。しかし、投げ出すわけにはいかない。投げ出せば、それまでの苦労がすべて水の泡に帰すからだ。それに、自然を相手に闘い、獲物を捕る瞬間の緊張感がたまらない。目をつぶると、鈴を鳴らして飛ぶ鷹の雄姿が浮かんでくる。彼の心はいつしかベッドから可児の山へと飛んでいた。
今、体調も元に戻った生活は、再び研師をしながら、新しい鷹の調教を始めた。芳浩のことが地元の新聞に掲載され、鷹狩りがテレビや雑誌で取り上げられるなど、この一年で環境がだいぶ変化したが、それは嬉しいのだが、まだ棹を差すもどかしさは続いている。芳浩の夢はあくまでデッカイ。
――三十までに財団をつくりたい。
むろん私腹をこやすためではない。土地を買い、そこに鷹狩りのための施設などをつくって、優秀な後継者を育て、キング・オブ・スポーツとしての狩猟である鷹狩りを広めたいのだ。それが鷹術の伝承者の道を選んだ自分の使命だと思うのである。
(PHP 1991年4月増刊号「20代ルポタージュ『鷹術に生きる』取材・文 廣田正行」より)
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