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中村敦夫の二大政党制批判と浜矩子の大連立批判
朝日新聞のオピニオン面(6/16 15面)に、久しぶりに中村敦夫が登場して政治について発言している。インターネットの普及が始まった原初期、15年前、中村敦夫は自らサイトを設営し主張を掲載していたが、すぐに更新を止めてしまった。6年前にSTKの運動を始めたとき、支援を求めてメールを送ったことがあった。そのときは、もう政治とは縁を切ったので沈黙するという意味の意外な返事が戻ってきて、大いに落胆させられた記憶がある。朝日の紙面記事を読むと、政治への関心が途切れた様子ではないようで、そうであるなら、Blogでの提言活動を再開することを勧めたい。すぐに注目を集め、定番の人気Blogになるだろう。中村敦夫は次のように言っている。「自民党が原発推進、民主党が脱原発というふうに分かれていれば、国民が選択できるようになる。でも現実には、どちらにも満遍なく支持を集めるために似たような政党になっている。両方とも退場しろと言いたいね。今は、新しい考えを持った政治家や政党が登場できない選挙制度になっている。特に衆院の小選挙区制が、多様な人材を国会に送る道を閉ざしてしまった。中選挙区時代は、4、5番目くらいで新しい優れた人が当選できたので、人材はずっと豊かでしたよ。国会は選挙制度を変えないと何も変わらない」。同感だ。この部分の認識は私と全く同じである。中選挙区制は、選挙権も、被選挙権も、国民の政治参加の権利(参政権)をよく保障していた。


この中村敦夫の発言を読んで、この国に小選挙区制を導入した責任者の山口二郎は、果たしてどう弁解を試みるだろうか。山口二郎と中村敦夫の二人に論戦させたいものだ。原発と震災で問われているのは、この国の政治の問題であり、このような機能不全な政治体制をどうして現出せしめたのかという根本的な問題である。何が問題だったのか、誰に責任があるのか、それを考え詰めれば、答えは自ずから小選挙区二大政党制というシステムに突き当たる。「政治改革」が目指したものは、二つの自民党が選挙で競争して政権交代をするという政治のレジームであり、自民党と社会党の二大政党制ではなかった。自民党Aと自民党Bの二大政党制である。この体制が定着して、日本の政党はどれも衰退と堕落を遂げ、生命力を根底から失ってしまった。公明党が駄目になった。以前は十分に存在意義のある政党だったが、現在は無用で邪魔な政局党に成り果てている。自民党も変わり果て、嘗ての「国民政党」の面影はどこにもない。新自由主義の「階級政党」のようになり、冷戦が終わったのに、歴史に逆行して恐るべき鬼胎的な「イデオロギー政党」になっている。山口二郎の「政治改革」が日本に帰結させたものは、新自由主義による貧困と格差の固定であり、異常な属米路線の定着であり、官僚とマスコミの絶対権力の支配に他ならない。

中村敦夫は、この現状をどう打開するかについて、次のような持論を述べる。「国会は選挙制度を変えないと何も変わらない。変わるとしたら地方からです。地方議員ならそんなに票は要らないので、自分の主張を示して、能力が高いと認められれば選ばれる。プロデューサー的な地方議員や首長がどんどん出てきて、地域の暮らしや環境を守るために独創的な仕掛けをしていく。そうした人たちが中央の政党とは関係ない地域政党を作ればいいんです。ドイツの『緑の党』も地域から始まりました」。これを読むと、中村敦夫の考え方が昔と何も変わってないことに気づく。現在の危機的状況と対比して、処方箋が牧歌的で悠長な印象を受ける。切迫感がなく、そこに意識の老化とアナクロを感じ取らざるを得ない。この提案や視点がメイクセンスに響いたのは、今から10年前の政治的現実に対してだろう。一体、何年かけて(地方から)政治を変えるつもりなのか。頭の中の時計の針が止まったまま動いてないのだ。「プロデューサー的な首長」とは、まさか東国原英夫や橋下徹のことを指すのだろうか。地方の政治状況も(悪い方に)変化している。10年前と同じではない。県庁は霞ヶ関が予算も人事もコントロールして、知事は官僚かタレントか議員OBしかなれず、政策は官僚のダウンロードの下請けだけだ。カネ(交付金)で縛られているから、何の独創的な政策も打ち出せないのである。せいぜい、テレビでパフォーマンスするのが関の山。

変えなければならないのは、地方ではなく中央の政治である。中央の政治をどう変革するか、そこにアイディアとエネルギーを集中し、現実に体制を変えなくてはいけない。それも、1年後か2年後の総選挙で国政を激変させるイマジネーションを描き、国民が決然と蹶起する運動をジェネレートしないといけない。誤解を恐れずに言えば、革命に近いイメージこそを持つ必要があるのである。私は、それはインターネットを通じて可能だと考えている。中村敦夫はローカルに可能性を見るが、私はネットに可能性の拠点を求める。中村敦夫が隠遁していた間に、ネットの政治への発言力や影響力は大きく変わった。この国の政治は、政党から官僚に権力が移り、マスコミの支配力が一段と強まったが、一方、それに対する抵抗力がネットの中に芽生えている。例えば、日本の脱原発の言論をリードしているのはネットだ。小出裕章を神にしたのはネットのパワーである。マスコミ報道の所与しかなければ、日本で脱原発の世論がここまで盛り上がることはなく、浜岡停止へ政治が動くことはなかった。そう断言できる。小沢一郎についても、ネット言論の抵抗がなければ、官僚はもっと早く政界から抹殺することができただろう。マスコミの世論工作だけで支配者が政治を押し切れなくなっている現実がある。私はそう確信し、この国の政治を突破する発火点はネットだと位置づける。有能な人材がいるのなら、ネットでデビューしてカリスマ証明するべきだ。

同じ朝日のオピニオン面で、昨日(6/14)は浜矩子が登場し、大連立に対して「犯罪的おままごと政治」と斬り捨てている。浜矩子らしい直截な言葉であり、国民を率直に代弁する正論である。曰く、「政治が大連立をめぐって狭量な右往左往を繰り返している間に、貴重な時間が過ぎていく。これは犯罪的なことですね。大連立をしなければできないこと、やろうとしていることは何なのか、それが全く分からない。大連立というのは、民主主義体制の中では本当に最後の手段であるはず。それがすぐに出出て来るというのは、政治の機能不全の証左だと思います。大連立という器を作らないと与野党が有機的な協力態勢を組めないというのは、まさに政治の貧困の表れに他ならないでしょう。そんな器がなければ、このような危機においてさえも協調的に対応出来ないというなら、二大政党制などは所詮成り立たないでしょう」。当を得た直言だ。英国生活が長かった浜矩子は、本場の二大政党制を見てきている。浜矩子には、ぜひ、この国の二大政党制の出鱈目が、制度設計の基礎に起因する真実を喝破して欲しいが、それは経済が専門の浜矩子の任務ではないのだろう。「政治改革」以前の政治体制であれば、両院で安定過半数を制していても、自民党は震災対策で社会党と協力しただろうし、幼児的な政局騒動で呆けることなく、被災地の方を向いて予算と法制に励行していただろう。公明党は、今のように政局にかまけたりせず、自民党と社会党をよくブリッジして法案成立に尽力しただろう。

私の結論を言えば、大連立など、今の民主と自民の二党の無能な小僧たちには最初からできないし、逆に言えば、現在の体制が中身としては腐った大連立なのである。「政治改革」のレジームが法制で固まったときから、事実上の「大連立」の政治は始まっていた。そして、そして政治家は(社民の福島瑞穂も含めて)タレントになり、政策は官僚のフリーハンドに委ねる体制が極まった。現在の大連立は単なる政局のネタなのだ。政治家たちは本気ではなく、マスコミ記者と一緒に永田町で騒いでいるだけで、誰も大連立政権を組み上げる力などない。大連立をするにも最低限のリーダーシップは要る。現在、民主党でも、自民党でも、党を纏めている政治家はおらず、纏められる力量の人物もいない。液状化してフローする中で、小僧どもが保身と勢力争いの動機で、政局劇で目立とうと立ち回り、足の引っ張り合いをしているだけである。ママゴトという指摘は本質を射抜いていて、もっと掘り下げて言えば、山口二郎と後房雄が「政治改革」で設計施工した「二大政党制」こそが、ママゴト遊びのベニヤ板の小屋であって、歴史の風雪に耐えられる建築構造ではなかったのである。嘘だらけの欠陥住宅だった。よく考えてみればいい。われわれは一度でも、「政治改革」を求めて街頭デモしたことがあるか。小選挙区制の実現のために署名活動したことがあるか。二大政党制でないと権利が侵害されると訴えて、市民が裁判闘争を起こしたことがあるのか。「政治改革」というのは、上から騙されて与えられたものなのである。

まともな二大政党制ではないから、まともに大連立さえできない。政治タレントの小僧たちにできるのは、政治記者とハシャギ回ることであり、結局のところ、「大連立」と「政界再編」のドタバタを続け、被災者の再起を妨害することしかできない。「政治改革」が生み出した政治の要素というのは、政治家も含めて、どれも粗悪な欠陥品ばかりなのだ。週刊誌で話題になっている後藤田正純の姿、あれこそが「政治改革」が産み落とした政治家の本来像である。石破茂、石原伸晃、山本一太、前原誠司、原口一博、枝野幸男、岡田克也、仙谷由人。どれも同じだ。日本の政治を立て直すためには、リセットして消さなくてはいけない害悪であり、中村敦夫が言うように、一掃して処分しなければいけない瓦礫である。中村敦夫への私の反論に立ち戻って言えば、今、必要なのは、65歳以上の高齢層をネットの政治言論の世界に引き寄せることである。それができれば、日本の政治は相当に変わる。20年前から10年前に失われた批判言論が、ネットの中に甦生されている事実を知ることだろう。TwitterやBlogの政府批判や、そこを拠点に派生するデモの情報が、若者世代の独占物であってはいけない。若者のトレンドやファッションのシンボルに収斂させるのではなく、世代を超えた国民的議論をネットの中に巻き起こす挑戦をしなくてはいけない。中村敦夫にネットに戻って来いと呼びかけるのは、そうしたモメントの起爆剤になって欲しいからだ。20年前から10年前に、論壇から追われて消えて行った老人たちがいる。そうした「過去の人」が復活して、キーボードをペンの代わりに発言すればいい。

人材が豊かだった「政治改革」以前の政治を語ればいいと、私はそう提案したい。


 
by thessalonike5 | 2011-06-16 23:30 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
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