♪:介護録:1

2011年06月14日

7月のメジャーデビュー直前になって足元を掬われるような[♪:道]という楽曲の詩に対するパクリ騒動・・。濱野裕生の完成&未完成を含めた全117作品の中で唯一、他人が書いた詩が[♪:道]という作品でした。

2008年4月に発表した訳ですが、その当時には何も言われなくて、何故、今になって足元を掬うように・・、とは思いますが、確かにチャゲ&飛鳥のファンの皆様には"いい迷惑”な話だと思います。濱野裕生としてはパクリが事実なら堂々と公表するはずもない・訳ですから、その事は理解して欲しいと思います。

普段は音楽のオの字も話さない、CDさえ聴かない私・。まして、私が書く詩とは作風が全く違うのが、この[♪:道]という作品です。この[♪:道]という作品は介護暮らしとは無関係な詩の内容である事は理解して欲しいんです。

作詞者に言わせると、「小学校の6年時に高校生だった兄さんが甲子園出場の夢を絶たれて失意の日々を過ごす姿を書いたのがこの[♪:道]という作品の原作にあり、その後、自分自身が中学~高校と野球部に所属するのですが・・、やはり予選で敗退しては甲子園への夢を絶たれたんです。

そうした頃の兄弟の、「心の葛藤を描いたつもりだ」、と詩の作者であるTは言うんですが、彼の詩を疑わずにそのまま曲をつけて唄っているのは濱野裕生です。濱野裕生は俗に言われるチャララブソングは書きませんし、裕生としての本来の作風は別。この[♪:道]という作品はT兄弟へのプレゼントの気持ちで曲をつけていたものなんです。Tの書いた詩に答える形で私が2番の部分を書いたものでした(サビは1&2番もTの詩を採用)。

この件は必ず白黒がつく筈だと私は思っています。2011年7月のメジャーデビューに合せ、何れはこのブログ上で発表している作品は全削除をしろとレコード会社側からは既に言われていました。ジャスラックへの著作権申請の手続きがあるからです。

多分、その審査の場でもパクリ騒動が起きる筈だと思っています。そこでTという原作詞者に対する諮問が考えられるでしょう。でも、濱野裕生としてはプロとしてのスタート段階で気持ちの悪さを伴いたくはありません。この作品はすっぱりと棄てますが、旋律は残して濱野自身でいつものように詩を載せてみます。

第一、この[♪:道]という作品は今回のメジャーデビューCD中の4曲とは無関係のものなんです。

このおてもやんブログですが、従来のスタイルとは違う、純粋な介護録として再スタートを切りたいと思います。

濱野裕生・、我が野球チームに所属した部員を猫可愛がり過ぎましたか・ね。でも、私は彼を信じたいとは思っていますが、諸先輩方のお叱りをバネに更に頑張ってみたいと思います。
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※15日、19:49にコメントをくれた自らを若造と名乗るハンドルネーム[同志]さん。貴重なアドバイスを感謝します。多分、貴方は私よりも大人の世界に生きています。「こういうケースでは詫びるのが一番」、ですか・・。彼らのパクリ指摘が間違っていたとしても・、取り敢えずは詫びる。。

確かに、私はごく一部の介護家庭の皆様の間では小さな灯り・支えになっているのかも知れません。でも、私が辛い介護生活に耐えていけている最大のエネルギーというものは、[正義感]なんです。母を裏切ってはいけない、兄弟からの期待を裏切ってはいけない。何より、自分で決めた母の介護をやりとおせなければ人間ではいられない・・、そんなものが今の私を支えているんです。少し・考えてみたいと思います。
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※同志さんへ。貴方からのコメントは削除した訳ではなく、管理ページに引っ越しただけです。コメントは承認制にしないと再び大分ブログのようにラッシュになりますからね。ブログを削除した一番の理由はメジャー側から著作権の都合で音楽配信ブログは削除するようにとの指示が以前からあった為です。

チャゲ&飛鳥さんを貶した訳ではありません。先方の一方的なチャゲアスの詩のコピーだ・との指摘に対し、過去にはプロ側がアマチュア側からコピーした例があって、「逆のケースがあり得る事を考えず、何故に濱野側のTがコピーした・と断言できるんだ?」、という反論の意味でチャゲアスさんの名を使い返しただけです。しかし、同志さんが濱野に伝えたい事とはそういう事ではないんですよね。それは分かります。

処で、同志さん。貴方はどこに住んでいるんでしょうね?。大分?、熊本ですか?。野球経験あります?。
可能であれば八景水宮公園あたりで会えませんか?。お袋との散歩がてらにと言ったら失礼かも知れませんが、いろいろと意見を下さい。
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Posted by yu-sei at 23:56Comments(1)TrackBack(0)介護.音楽

♪:介護録:2

2011年06月15日

濱野裕生の介護録~母に生命を返す時

★:皆様、始めまして濱野裕生です

・、と挨拶をしても多くの方々はご存知ないはずですね。私は長崎県は佐世保出身ですが熊本市の岩倉台に居を構えて約25年。2003年3月からは佐世保の地で独居中の母を呼び寄せて同居を開始し、2011年春には9年目を迎えたばかりです。介護家庭としては中堅どころ・といった感じでしょうね。

元来、私は大の草野球大好き人間で親の介護など姉や兄がやる事と決め付けていたのですが、どっこい世の中はそんなに甘いものじゃありませんでした。幼い頃から心臓が弱かった母ですが、長い間連れ添った伴侶(利三郎)が肝臓の検査中に突然に没したのは75歳の時。母はこの時にはまだ64歳です。しかし、伴侶を亡くした後の独居生活の虚しさは徐々に母の身体を衰弱させては母の心臓機能は確実に弱くなり、65歳時の左脇痛や痺れ感を皮切に眼底出血、痔や白内障等々の循環器系の様々な症状が襲うようになるのです。

母と最初の同居を思いついたのは同じ佐世保市内に住んでいた長男夫婦。度重なる母の心臓発作や意識消失という出来事が兄に同居を考えさせたのです。しかし、母は元々からとても気丈夫な人で古い考えを持つ人なだけに何事につけて周囲に甘えるのをとても嫌がる人でした。そんな母ですから兄の家で横になっても3日と辛抱をせずに、「帰るよ、独りで暮らすから」、と・・。でも、再び三度と実家で独居をする度に目まいに襲われては転倒。転倒しては足の指を骨折したり、肋骨4本を一度に折ったりと大変な日常を過ごすようになる母・・。

★:兄夫婦、姉夫婦の心配をよそに

買い物に出掛けた母は帰り道の坂の途中では買い物カートごと転倒してはそのまま・・。通りすがりの誰かが抱き起こしてくれるまで路上に横になったまま・・。肘や膝からは大量の出血をするような出来事が日常的になっていったようです。
こうした母の日常を知る兄嫁には心配の余りに円形脱毛症や過呼吸症状が現われたりするのですが、そんな兄夫婦の窮状を見かねた長女夫婦が、「長与には温泉があるからおいでよ」、と母の温泉好きをネタに長崎の方へ招いたりして母の安全を確保しようとするのですが、この姉夫婦の家でも母の我侭は相変わらず・。

今思えばですが、こうした事も認知の初期にはよくあるんですね。つまり、現実が分からない。異常に頑固で強気・、という状態ですね。こうして姉や兄の住まいを行き来するという母の生活が3年近くは続いたんですが、母が90歳になる頃、当時は母の世話をしていた姉夫婦には一つの問題が生じてきます。姉夫婦の長女が出産の為に帰省するという出来事でした。

また、当時の姉には数年前に受けた脳動脈瘤除去手術の影響で一過性の頭痛が不定期に襲っていて、母親の世話だけでも大変な時期でしたが、その上に我が長女が初産帰省するという事になると、とても母親と娘の世話を同時にはできない・、という予測があったんです。

★:そして、

2003年3月29日から始まった当時90歳の老いた母と私達夫婦の同居暮らしですが、私的には、「2011年、もう・8年が過ぎたのか」、でもあり、「まだまだ9年目が始まったばかり・・」、といろんな感慨がありますね。

そして、この2011年4月現在の母は98歳で要介護度が5。私達夫婦は今も在宅で母と生活を共にしていますが、昨夜も私の介助で母は入浴をしました。98歳で♪入浴ですからね。母も私達夫婦も頑張っていますよね。今朝も母は私の運転する車で元気にデイ施設へ向かいました。

★:「どこから私しゃ~来たのやら。いつまたどこへ帰るやら・・」

車の助手席に座る母がよく口にする歌の文句。実際の曲名は母自身も知りませんし、私に至っては更に知る由もありません。でも、何故か母が歌うと切なくて虚しくなるんです。
「そんなの知らねェ」、と言ってしまえばそれまで・・。でも、老いた母親を、母の生き様を知ろうとすればする程に何故か切なく虚しくなるんです。だから、私は常に母と、「今を生きよう」、と考えています。
きっと・・、母は何かを私達兄弟に訴えたくて、周囲の者に何かを理解して欲しくて・、我が心を歌に変えて表現しているんだろうと思ってしまうんです・。「どこから私しゃ~来たのやら。いつまたどこへ帰るやら・・」、と。

★:介護は悔悟?・にならぬよう予知介護の心掛けを

悔い&悟る・・。私がよく使う言葉です。冷静さを失い掛けた際に私自身を戒める為に口ずさむ言葉が、「介護は悔悟」、という言葉。「手を抜くんじゃない。決して手を抜くな!」、「悔いを残すような一瞬を作ってはいけない」、と・・。決して悔い、悟ってレベルを上げていくような介護暮らしをしていてはいけません。お年寄りの命が幾つあっても足りません。介護って子供の成長とは全く違うものですからね。

老いというのは、子供の最長とは全く異質です。昨日はやれた事が今日は出来ない・。昨日は分かっていた事が24時間後の今はさっぱり理解しない・、というのが老いの世界なんですね。尊厳!・・、親の存在って我が命の源なんです。

「あァ、あの時にもう少しだけ母の話を聞いてあげたていたら・・」、「あァ、しまった。あの時に俺が短気を起こしたばかりに母が転倒したんだ」、と・・、こんな介護暮らしをしていたとした、そこには貴方の何の進歩はありません。
でも、そう思って介護に携わっていても結局は人間のやる事ですからね・。どこかで親子の気持ちや夫婦の気持ちにズレがあれば介護事故って必ず起きてしまいます。だから、現状への対処介護ではなく、私は予知介護という表現を使っています。起こり得る次の危険な行動への予知能力を身につけましょうよ。つまりは、[老いに対する観察力]、ですね。この、[老いゆく母を見つめて」、という言葉が私のブログのサブタイトルでもあるんです。

★:親の認知を微笑ましく思う必要も・

親子の気持ち・、って書きましたが、認知が入っている際の母親って私達とは気持ちが通じにくいもの。我が家の場合、母親にとって目の前に居る私が息子ではなく、在りし日のお兄さんであったり、どうかした日には在りし日の亡き伴侶であったりします。また、ある瞬間には母の高等女学校時代に起床ラッパを吹いていた寄宿舎の寮監さんだったり、歌が浦から平戸島行きの定期船の船員さんだったり・します。

「それは違うさ」、と否定し修正する事よりも、「ハイ、そうね。話の続きを聞かせてくれよ」、と言ってみる勇気も必要な時があるような気がするんです。

だから、母にとっては比較的に記憶の浅い嫁の存在などはその日の母の認知出現度合い次第では激しく変化するようです。認知のある日の母の目から見える私の嫁なんて、息子である私の娘になっていたり、怖~いオッカしゃま(母の母)だったり、その時々の母が暮らした時代の身近な誰かに変身してしまうんですね。貞子さ~ん、落合さ~ん、フミ子ちゃ~ん・・ってね。

認知症では脳の核になる深い所の記憶が残りやすく、脳の表面部の新しい記憶から欠落していくんです。こうした日常を過ごしている濱野裕生が次々と♪作品を産み出す理由・、理解して頂けますよ・ネ?。

★:介護家庭の方々はコンサートに参加して欲しい

最近、この[濱野裕生の介護録]、は私のコンサート会場ではピックアップ版が配られるようになったんです。介護家族にとっては[あるある話&だけど話辛い介護家庭の暮らし模様]でもあるんですね。そのコンサート会場で配られる新聞の元ネタはこのブログ記事なんです。時間に追われる介護族ですからコンサートの最後まで聴く必要はありません。せめて、私の書く介護録だけでも手にとって帰宅して欲しいんです。

さて、このブログではこれから長いお付き合いが始まる訳ですが、切なく悲しくも怒りもあって楽しく面白い介護録となるよう・、濱野裕生は頑張って書いてみたいと思います。次号からの[濱野裕生の介護録~母に生命を返す時]、先ずは[母の生立ち]から書き始めてみたいと思います。皆様、どうぞお楽しみに・・。  
Posted by yu-sei at 02:16Comments(0)TrackBack(0)介護.音楽

♪:介護録:3

2011年06月16日

☆:母の生立ち

母・高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は長崎県北松浦郡佐々の地に於いて河内松若を父に河内ライを母親とする長男の進、二男の勇、長女のフサ、次女のミツ。そして三女ツヤ。つまり、我が母親であるツヤさんは5人兄弟姉妹の末っ子として大正2年2月26日に長崎県北松浦郡佐々の地に生まれています。

★:濱野冶八という人物

私の祖母。つまり、我が母ツヤさんの母であるライさんは鹿町炭鉱の創業者である濱野冶八の姪として生まれます。この濱野冶八なる人物には本来は炭鉱経営の後継者になるはずのキヨシという息子が居たんですが大病を患って幼くして没し、この濱野冶八氏はその供養にと所有する炭鉱の多くを売却しては巨額の私財を投じて佐々の地に東光寺というお寺を建立しています。また、佐々の地の多くの神社の建立にも寄進し、現在も残る松浦鉄道を私費で最初に敷いた人でもあるんです。

掘り出した石炭は主に歌が浦港から八幡製鉄所(現在の新日鉄)に運ばれていたんですが、歌が浦の港は遠浅だった為に石炭の積出しに不便だった為、列車でも各地へ運べるようにしたんです。

やがて、後継者を亡くした濱野冶八は平田山炭鉱というのをライさんの夫である河内松若(我が母の父親)へ・。そして、主力の鹿町炭鉱の経営をライさんと松若氏の長男である進氏に任せて隠居生活を送るようになるのです。歌が浦一帯の綺麗な河川を洗炭汚水で汚した事への懺悔の意味からか、濱野冶八は鹿町町の全ての尋常小学校にグランドピアノを寄附していた事が鹿町町町史に記載されていました。

濱野家から炭鉱経営を引継いだ河内家は炭鉱業を更に拡大する事になりますが、我が母ツヤさんはこうした環境の中で幼児期から高等女学校時代を佐々~歌が浦の地で過す事になるんです。

現在のような石油エネルギーを中心とした我が国の暮らしというものは昭和20年代の後半から・。それまでの私達は日常の全てを石炭エネルギーに依存した暮らしをしていて、この母方の濱野冶八を総帥とする河内一族のお話は今後の母を理解していただく上でとても重要な意味合いを持つことになります。

従って、私の母は当時の日本国内の石炭総生産量の僅か2%(鹿町町町史より)とはいえ、西九州の石炭王と呼ばれ我が国で最初の銀行を立ち上げようとした濱野冶八という人物の姪の子であったという事を前もってお話しておく必要があります。つまり、我が母の一族は北松浦郡一帯では、「コウチシャマ」、と呼ばれ慕われていたんですね。
このように、周囲にはとても大切にされて育った母なんですが、それ故に幼い頃からの我が母が背負った目に見えぬ内なる労苦というものも重く、辛いものが多かったような気がしています。


★:母親・河内ライの早過ぎた48歳での死去

母の母・ライさん(私の祖母)は腎臓が悪く、長い間苦しんでいたようです。「ツヤ、悪いけどお医者様を呼んできて。薬を貰って来て頂戴・」、と・。母は薄暗い道を近道の山越えでお医者さんの所へ行くのが怖かったとよく話していました。また、ライさんは湯治の為に遠出をする事も度々あったとか・・。そんな母親の留守中にはツヤさんが母親恋しさに負けないようにと父親の松若さんは炒り豆を作ってくれ、ツヤさんは一日中ポケットに入れてはポリポリと炒り豆を食べ、「母ちゃま~&母ちゃま~」、と母の帰りを待ち焦がれていた事を語っていた時期もあります・。

そのライさんが世を去ったのはツヤさんが10歳の時。河内家は禅宗だった為、母親ライさんの葬儀では旗を立て、笛や太鼓を皆で吹き叩いては村中を隊列が巡り、それは相当に盛大なものだったとか・。まだ幼かったツヤさんはそんな賑やかな葬儀が嫌だった事を語った事があります。この時の母親・ライさんの葬儀の模様の一部を語った私の歌があります。2003年に母を私の家へ呼び寄せた頃に母が語ってくれた話が元になっています。

♪:母の童歌(抜粋)

母ちゃま逝って禅宗の・・笛や太鼓にかき消され 
私の涙はどこ行った 私の母ちゃまどこ行った?
酒に溺れる父ちゃまの帰りが遅いと泣きました

母親・ライさんが亡くなったのはツヤさんが10歳の時ですからね。まだ幼かったツヤさんにとっては簡単には受け入れられなかったんだと思います。父親の松若さんだって寂しさを紛らわそうと酒浸りですよね・。
ツヤさんは、「父ちゃま~、早う帰って来ておくれまっせよう。父ちゃまァ~」、と夜通し泣きながら父親の帰宅を待っていたそうです。


※:この頃の我が日本には今の世には絶対にない、現代を生きる親や子には経験しようもない、古き時代のある種の親子の情や悲しみの形があったと思うんです。私はコンサートの際に、「技術革新の結果、モノに溢れ、その便利さだけで育ってしまった人間は本能を忘れて不幸になっていく一方かも知れない」、とよく言います・。不便さって人を考えさせますから絶対に必要ですね。

  
Posted by yu-sei at 00:00Comments(0)TrackBack(0)介護.音楽