私、紘嘉文緒(ひろよしふみお)は高校進学にあたって親元を離れ、他県に引っ越してきました。
初めての一人暮らしは期待半分、不安半分です。
家具や電化製品は一通り買い揃えたので今日は街を散策する事にしました。
少なくとも三年間は過ごす事になる街です。少しずつでも知っていきたいです。
地元の人には何気無いかもしれない風景も私にとっては見るもの全てが新鮮で、好奇心を刺激します。
一つ一つゆっくり見て回りたいのですが、それでは時間が幾らあっても足りません。
今日は一通り見るに留め、後日じっくりと見る事にしましょう。
そんな時、
「きゃっ」
余所見をしながら歩いていたせいで誰かとぶつかってしまいました。
「すみません! 大丈夫ですか?」
「痛た……ええ、大丈夫よ。こっちこそぼさっとしてて……」
相手は私と同い年くらいの女性でした。凛々しいとか、少し失礼ですが男らしいという表現が似合う方です。
服装は三月の肌寒い時期にはちょっと厚着な気がします。寒がりなのでしょうか?
そんな事を考えていると、相手の女性が私の方を窺っている事に気付きます。
「ねえ、ここには旅行か何か?」
「いえ。最近越してきたんです。でも、どうして地元の人間じゃないって分かったんですか?」
「地元の人間はあんなにキョロキョロしないわよ」
その人はおかしそうにくすくす笑いました。
といっても、馬鹿にしているという感じではないので嫌悪感はありません。
「あなた、無茶苦茶可愛いわね」
「……え?」
あまりに唐突に言われたので一瞬思考が停止してしまいます。
えーと……
私が戸惑っていると、相手の女性は気まずげに視線を逸らします。
「ただの妄言よ。気にしないで」
「は、はい」
なんだったんでしょう?
容姿を褒められたのなら悪い気はしないですが。
「それより引っ越してきたばかりならこの辺の地理は分からないでしょ? 案内してあげる」
「いいんですか?」
私としては嬉しい提案なのですが、向こうにも予定があるのではないでしょうか?
その事を尋ねると、その人はにこりと笑い、
「どうせ暇だったのよ」
それでも迷いましたが、ここで断るのも向こうの好意を台無しにしてしまいます。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「よろしい」
彼女は快活に笑い、右手を差し出します。
「私は小谷(おたに)まりかっていうんだけど、あなたは?」
「紘嘉文緒です」
それからまりかさんには商店街や映画館、銀行など色々な所を案内してもらいました。
まりかさんは明るく、質問にも丁寧に答えてくれるとても親切な人でした。
事件が起こったのはまりかさんと別れて彼女に教えてもらった喫茶店で食事をして、同じく教えてもらった公園で休憩していた時の事です。
「ねえー彼女、ちょっと俺と遊ばねえ?」
一人の男性が私に声をかけてきました。
髪を染め、服は着崩れていて、あまり素行が良いとは思えない人です。
吐く息に煙草の臭いも混じっています。
「えっと、その、私は……」
毅然とした態度で断らなければならない状況なのですが、上手く言葉が出ません。
こういうタイプの人と接するのは初めてだったのです。
「あの、ごめんなさい!」
堪らずその場から逃げ出そうしましたが、肩から下げていたポシェットの紐を掴まれてしまいます。
「つれないな~」
「離してください!」
必死に抵抗しようとしましたが、振りほどけません。
それどころか紐が千切れてポシェットは地面に落下し、口が開いていたのか中の物が散乱してしまいます。
「あ……」
自分に振るわれた訳ではないですが、一種の暴力に涙が滲んできました。
何も出来ず、立ち竦んでしまったそんな時、
「あー! こんなとこにいた!」
私と同年代くらいの男性が割って入ってきました。
「勝手に出歩くなって言ったろ。ああもう、何やってんだよ」
その人はしゃがんでポシェットを拾うと地面に落ちている荷物を詰めていきます。
そして詰め終ると私の手を引いて公園の出口の方へ向かおうとします。
その時になってその人が私を助けてくれようとしているのだと理解しました。
同時に零れそうになっていた涙も止まります。
「おい、なんだてめえは!」
突然現れた男性に対し、不良の人は怒りを露にしました。
男性の肩を掴んで睨みつけます。
ですが、
「くっ……」
突然不良の人が悲鳴を上げて身を屈めました。男性が脚を蹴ったのです。
「走るぞ」
「は、はい」
手を引かれて公園から出ます。
手を引かれて走っている間、顔は紅潮し、動悸は激しくなりました。
しかしそれは運動のせいだけではないような気がしました。
程なくして、追われていない事を確認したのか男性は走る速度を落としました。
「あれ」
そして私の方を振り向いた男性が何か驚いたような、呆然とした表情をしています。
「……」
「……」
何か粗相をしてしまったのかと記憶を振り返ってみますが、思い当たる節はありません。
そもそも会ってからまだ数分しか経っていないのです。
「その、なんだ。怪我は?」
「大丈夫です。ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をします。
もし自分だけだったらどうなっていたか分かりません。感謝してもし足りないです。
「ならいい。ああいうのは滅多にいないが注意した方がいい」
そう言って男性は私に背を向けて立ち去ろうとしました。
けれど私はまだ十分なお礼もしていませんし、それに、
「あの、是非ともお名前を……」
「……明良、明良湊だ」
男性、明良さんは振り向かないまま答え、小走りになって私の視界から消えていきました。
「明良、湊」
何度か名前を呟きます。そしてその度、私の胸にこれまでなかった感情が湧きあがりました。
「……」
そっと手をかざしてみます。
学校の行事などで男性と手を繋いだ事は初めてではないのですが、今までとは違いました。何がどう違うのか具体的には言えないのですが、とても温かかったのです。
古くから続く家や地方にある家というのは他者から見ると首を傾げるような奇妙な仕来りがあったりするものです。
私、紘嘉文緒の家もそうなのです。
我が家の仕来りとは、男系の血筋を尊び、家督を継げるのは如何なる理由があろうと男児のみというもの。
紘嘉家は旧家で、莫大な資産と権威を持っている事から昔から家督争いが絶えなかったそうで、その争いに拍車をかけるのが上記の仕来たり。
そんな訳で、御家騒動を防ぐ為に嫡子が女の子供だった場合は男として育てる事になっているとか。
今の御時世にこんな男尊女卑はおかしいのですが、周囲が異常だらけなら本人達にとってはそれが正常なのです。
私自身も昔は男性の格好をする事に何の疑問も持っていませんでした。今にしてみれば顔から火が出る思いです。
もっとも、そんな時代錯誤も甚だしい仕来たりを忠実に守っているのは祖父の世代までで、父の世代の多くは仕来たりに疑問を呈しているのであと十年もすれば自然消滅しそうなのですが。
ただ、私は昔から男装をしていたので定期的に男の格好をしなければ落ち着かないという、面倒な事になってしまっていました。
今日もその衝動に襲われた私はアパートに戻った後、早速着替えを始めました。
衣服を選んで着る前、胸元に視線をやるとそこには真っ白の布、さらしが。
……私の胸が同年代の平均と比べて起伏に乏しいのは多分このせいです。
髪が長いので帽子を被って帽子の中にある程度まとめておきます。
化粧で輪郭を全体的に多少骨ばった感じに、眉も少し太めにしておきましょう。
「まあ、こんな感じか。でも、いい加減髪は短くした方がいいかもしれない」
子供の頃からの習慣なので、男装中は口調も自然と男っぽくなります。
慣れとは恐ろしいものです。
街に出てショーウィンドウに自分の姿を映してみます。
「はあ……何やってんだろう」
今まで用事もなく男装のまま外出した事はありません。
今日に限ってそれをしたのは胸中の感情を持て余したからです。
これが何なのか、はっきりとは分かりません。ただ、部屋の中では落ち着く事が出来ず、外に出てしまったのです。
「まりかさんに案内してもらった所をもう一度回ってみようかな」
そんな事を考えていると、ふと、見覚えのある人を発見しました。
明良湊さんです。明良さんは自動販売機でジュースを買っていました。
ペットボトルを小脇に抱え、小銭を取ろうとして、
「あっ」
ジャケットから携帯電話が落ちました。
そして気付く様子もなく私とは反対側に歩いていきます。
「いけない!」
慌てて携帯を拾うと人混みを掻き分けて追いかけます。
幸運にも明良さんは歩いていたのですぐに追いつく事が出来ました。
「あの、すみません」
振り向いた明良さんは私を見るなり警戒したように目を寄せました。
向こうからすれば初対面なので仕方ないのかもしれませんが、少しショックです。
「携帯電話、落としましたよ」
誤解されたままでは嫌なのですぐさま携帯電話を差し出します。
急いで追いかけたのでじっくり見る機会がなかったのですが、明良さんの携帯には植物のストラップが付いていました。何の植物でしょう?
一方の明良さんは自分のジャケットをまさぐり、携帯がないのに気付くと表情を緩めて私の差し出した携帯を受け取りました。
「悪いな」
「いや、当然の事をしたまでですよ」
緊張で口がこんがらがりそうでしたが、何とかつっかえずに返事が出来ました。
しかしいざ明良さんを目の前にすると、胸がドキドキして顔が赤くなっていくのが自分でも分かります。
変な人だと思われていたらどうしましょう。今が男装中なのが幸いです。
「んー、じゃあちょっと用事があるんで失礼する」
「ええ。縁があったらまたどこかで」
出来ればもっと話したかったですが、これ以上一緒にいると何かボロを出すかもしれないので良かったのかもしれません。
明良さんと別れた後、当初の予定通り街の中を回る事にします。
一通り巡ったところで街路樹の横にあったベンチに座って休憩。
手慰みに内ポケットに入れていたフォトケースを取り出します。
それは従姉妹が面白がって男装時の写真を入れた物で、誕生日にプレゼントされたものです。
恥ずかしかったですが、折角のプレゼントなので常に持っていたのです。
写真を眺めながら昔の事を思い出していると、前を大きな風呂敷包みを二つ背負ったお婆さんが通りました。
大きさの通り重いのか、一歩一歩の足取りはゆっくりで左右にふらついています。
心配していると案の定、他の通行人にぶつかってお婆さんはバランスを崩します。
「危ない!」
叫ぶより早く私の体は駆け出していました。
距離が近かった事もあり間一髪というタイミングで支える事が出来ました。
「っと、大丈夫ですか?」
「え、ええ……」
「持ちますよ」
大変そうにしている人を見て見ぬ振りは出来ません。
お婆さんは遠慮していましたが、半ば強引に二つの風呂敷包みをそれぞれの手で持ちます。
ですが、
「っく」
予想以上に重い。お婆さんは結構元気な人だったみたいです。
「えっと、目的地は、こっちで、合ってますか?」
「あのぅ、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です。で、目的地は……」
「それは……」
お婆さんの目的地はバス停との事でした。
そこまでは歩道を一直線だと言われたので安心していましたが、五分も経つと腕の感覚が消えてきました。
肘や肩がぴくぴくと痙攣しますが、落とす訳にはいきません。
「感心ね」
「え?」
突然横合いから声がしました。
荷物の方に意識を集中させていたので、声をかけられるまで横に誰かが並んでいるのに気が付かなかったのです。
「あ……」
相手の顔を見て私は思わず声を漏らしてしまいます。
なにしろ小谷まりかさんだったのです。名前を呼びそうになって危ういところで口を噤みます。
「片方持つわ」
「あ、ありがとうございます」
「で、どこまで?」
「バス停だそうです。この先の」
それからバス停までの道のりは荷物の重さが半分になったので随分と楽になりました。
ですが道中、まりかさんとの間に会話はありませんでした。
まりかさんからすれば私は初対面なので単純に話のタイミングを掴めなかっただけでしょう。
しかし、私の方は何故かまりかさんに妙な気恥ずかしさを覚えてしまったのです。理由は分かりませんがそのせいで話しかける事が出来ませんでした。
「お陰様で助かりました」
お婆さんは何度もお辞儀してからバスに乗っていきました。
見返りを求めて助けた訳ではありませんが、感謝されると嬉しいものです。
そして私の方からも感謝しなければならない人がいました。
「ありがとうございます」
礼をするとベンチに座っていたまりかさんがきょとんした表情になりました。
「どうしたの?」
「荷物を持ってもらってのでお礼を」
理由を告げるとまりかさんは困ったように髪を掻きました。
「私が勝手にやった事よ。礼ならお婆ちゃんにもらったからそれで十分だったのに」
それはそうなのかもしれません。けれどまりかさんのお陰で助かったのも事実です。
「あの荷物、結構重かったですよね。多分一人だったらここまで持ってくるのも一苦労だったと思います」
まりかさんはどこか呆れたように肩を落とし、
「どういたしまして」
礼を受け取ってくれました。
と、そんな時、ぶー、という低い音がどこからか響きました。
「ごめんなさいね」
音の発生源を探しているとまりかさんが一言断って携帯を取り出しました。
どうやらバイブレーションだったようです。
「……」
まりかさんは液晶画面を一瞥すると素早く文を入力していきます。
その様子を見て、
え……?
私は自分の目を疑いました。
まりかさんの携帯は明良さんの物と同一の機種だったのです。
更に携帯電話に付けられたストラップが目に止まります。植物を模したストラップにも見覚えがあります。
明良さんの携帯にも同じストラップが付いていました。
どくん、と胸が大きく鼓動し、地面がなくなったかのように足元の感覚が消えました。
お揃いの携帯にお揃いのストラップ。それが意味するのは……
「顔色悪いけど大丈夫?」
「……大丈夫です」
あやふやになりかけていた意識がまりかさんの言葉で引き戻されます。
初対面のまりかさんに心配されてしまいました。どうやら今の私は相当参っているようです。
そんな時、また頭に携帯がチラつきます。
「その、あなたは……」
途中まで言いかけてやめます。
今私は何を聞こうとしたのでしょう? 聞いてどうするのでしょう? どうしたいのでしょう?
「私は小谷まりかよ」
まりかさんが名乗りました。
先程の言葉から名前を聞きたいと思われたようです。
「あ、その……裕熙史郎(ゆうきしろう)です」
名乗られた以上、こちらも名乗らなければ失礼になるでしょう。
ですが素直に答えるのも躊躇われたので昔従姉妹と考えた名前を告げます。
「……」
「……」
しかし名乗ったきり互いに無言になってしまいます。
ひょっとしたらまりかさんは先程の言葉の続きを待っているのかもしれませんが、私には言えません。
そしてこの沈黙とまりかさんと一緒にいる事は私にとって苦痛でした。
「……では、失礼します」
「気を付けてね。無理しないで」
「お気遣い感謝します」
素気ないと自覚出来る態度をもってまりかさんと別れました。
帰宅すると帽子を脱いで束ねていた髪も解いて新品のベッドに顔から倒れ込みます。
「ふう……」
まりかさん、明良さんとどういう関係なんでしょう? やはりお付き合いしているのでしょうか?
「っ……」
それを考えると不意に、胸が苦しくなりました。
まりかさんは見ず知らずの人にも優しく出来る人です。だから人からも好かれるでしょう。
でも、まりかさんが明良さんと一緒にいると思うとそれを喜べないのです。
「嫌な子……」
自己嫌悪を抱き、僅かに湿った枕に顔を埋めて眠りにつきました。