2011年06月14日
えんずいといづい考。
続けて書くと何が何やら。
方言というのは、都ことばが同心円状に広がっていった結果、中央(都・京都)で使われなくなった語でも残っていったものだとか、北前船の寄港地に京言葉が残っていったとか、地方独自に発生したものだとか、いろいろな要素が混じって出来ていったものであるらしい。さらにどうやら江戸以北の太平洋沿岸では、東回り航路を通じて江戸ことばが東北方面に伝播していったらしい。らしいらしいでどうしようもないのだが、乏しい知識とWikipediaさまが頼りなのでその辺はかんべんしてほしい。言葉というものは基本的に新しいものが残っていくので、これを考え合わせると、東北地方では江戸ことばがナウい(死語)言葉としてそれまでの言葉を駆逐していったのではないかと。もともと東北地方では「えんづい」の意味を持つ言葉があったんだけど、江戸から来た新語「えんづい」に置き換わっていったんじゃなかろうか。たぶんここまでは方言学と照らし合わせてもそう間違いではない。と思いたい。では、なして東回り航路の寄港地であった仙台藩と内陸の南部藩(盛岡藩)が同じ「いづい」を使うようになったのか。
あたしはこれに、戊辰戦争が関係してると思ったんですな。
まあ最初は単純に「仙台と盛岡がつながってて三陸沿岸が取り残されてるって、戊辰戦争の官軍の進路じゃん」と思っただけなんだけど。
「いづい」がもともと「えんづい」を意味する江戸ことばだったと仮定してみる。んで戊辰戦争を調べてみたら、福島の経緯はわからんのだけど(いや戊辰戦争はわかるよ?方言のほう)仙台藩(当然三陸沿岸南部含む)は周りぐるっと官軍支配藩に囲まれてるわけだから、「いづい」が「えんづい」を包囲する形になるよね。で、旧幕軍は仙台から海路宮古までえんやらやーと転進(旧日本軍用語)してそこで海戦をおっ始め、盛大に負けたと。そうなると、占領された仙台から内陸経由で宮古まで進軍した官軍は「いづい」を各地に残していき、榎本武揚が旧幕臣を拾って出航した松島以北・海戦地の宮古以南の「えんづい」は取り残されたのではなかろうかと思ったんですよ。tobirisuさんの参照リンク(にあります)たどったら、こんなページを見つけました。「オラが村の方言自慢」 岩手のページこれを見ると、久慈地方で「いづい」、遠野地方で「ぇづい」、気仙地方(「?」が付いてるけど間違いない)で「えんづい」となってます。参考:岩手県行政区分宮古のあたりは書いてないんで推測だけど、まず盛岡以北は官軍支配下だから、「いづい」かそれに近い言葉になってるんじゃないかと。遠野の「ぇづい」は、もともと「えんづい」に「いづい」が混ざった(またはその逆)結果成立したんではないかと。
では「いづい」とはなんなのか。たぶんこれ、「きつい」が元になってるんじゃないかなあ。「い」と「え」の転訛はよくあることだし、子音の脱落も確かあったと思う。「えんづい」「いづい」は標準語に翻訳不能な言葉で、かなり広い意味合いを持つんですよ。「ぎこちない」「気持ち悪い」とか「収まりが悪い」「動かしづらい」のほかに「きつい」「窮屈」という意味もあります。「そごさねまってっつどえんづぐねぇが?」(そこに座ってると窮屈じゃないか?)「このふぐえんづぐなった」(この服きつくなった)「それしてでえんづぐねえが?」(それをやってて動きづらくないか?)「みでるほうがえんづくてやんたが」(見てる方が気持ち悪いっつーか動かしづらそうで収まりが悪くていやだ)…あー、なんか違う。やっぱり「えんづい」は「えんづい」としか言いようがない。説明しようとする方がえんづいわ。
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文中リンクも外してあるので意味がわからないことになってるし。
転載したいなら一言断りを入れるのが筋じゃないんですか?