原発下請け労働者の被ばく問題を約40年間取材してきた自称「売れない写真家」。フォトジャーナリストの樋口健二さん(74)が福島第1原発の事故以降、注目を浴びている。作業員の労働実態を知る数少ない「証言者」として、国内外のメディアから取材が殺到、品切れとなっていた著書も続々と復刊されている。東京都内の自宅兼仕事場を訪ねた。【大槻英二】
<白いゴムガッパのような服着て、防毒面(全面マスク)をし、万年筆のようなもん(ポケット線量計)と、バッジ(フィルムバッジ=被ばく放射線量測定器)、音の出るもん(アラームメーター)を首から吊(つ)り下げて、まるで、宇宙人のようじゃった>
これは34年前、樋口さんが福島県浪江町で取材した、福島第1原発内で放射性物質を拭き取る作業をしていて体調を崩し、病床にふせていた佐藤茂さん(当時68歳)の話だ。著書「闇に消される原発被(ひ)曝(ばく)者(しゃ)」(御茶の水書房、近く八月書館から増補新版を刊行予定)に収録されている。証言はこう続く。
<熱い蒸気がパイプから吹き出して、まあ、凄(すご)い所だった。熱くてよ! 苦しくてよ! それこそ、面なんかつけてちゃ、前が曇って見えねえんだ。二○分位で交替だったが、その前に音が鳴りっぱなしでよ。放射能は下に沈んでるから、それを取り除けと言われた。わしも負けん気の方だから、若けえもんに負けられねえ、メーターの音も気にせんで働いたさ、面も外したままだった。(中略)被曝量が高くなると首にされると仲間に聞いてたんで、メーターを床にたたきつけてこわしたこともあったものだ>
いま福島第1原発では、事故収束のため1日約2700人の作業員が復旧に携わっているというが、その現場のすさまじさをほうふつとさせる。「原発は中央制御室のコンピューターで電力会社のエリート社員が動かしていると思わされてきたけど、なーに、下請け労働者が中に入って作業しないと動かないんです。今回のような大事故のときだけ作業員が必要なんじゃなくて、年に1回行う定期検査のときにも労働者は被ばくしているんです」と樋口さん。
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「宇宙人のよう」という言葉に触発された樋口さんは、原発内部をカメラに収めようと決意。福井県の日本原子力発電・敦賀原発に1週間通い詰めて交渉したが、「企業秘密」「NHKですら入れてない」と断られた。「うちは安全第一でやってますから」という相手の言葉を逆手にとって「その安全なところを撮りたい」と申し出て、1時間だけの取材が許された。
敦賀原発では内部の撮影は初めてという77年7月14日。レンズの部分を除いてビニール袋に包まれたカメラを渡され、フィルムは20枚撮りカラー1本、撮影可能な場所が10カ所程度列挙された誓約書にサインさせられた。防護服に着替え、職員に前後を挟まれる形で内部に案内された。ドライウェルと呼ばれる原子炉格納容器の入り口にさしかかると、厚さ約50センチもあるふたが開いていた。内部から機材を運び出す作業員らの姿をとらえた。それらの写真はアサヒグラフに掲載され、当時大きな反響を呼んだ。
3カ月後、佐藤さん宅を訪ねると、すでに帰らぬ人となっていた。佐藤さんは原発で働き始めて約1年後、体中に湿疹ができ、せきやたん、足腰の痛みや黄だん症状がひどくなり寝込むようになった。医師に死因を尋ねると、胃がんの悪性腫瘍が骨髄に転移したとして、被ばくとの因果関係は認めなかった。
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今回の原発事故で作業員の被ばくが問題になるとともに、樋口さんのもとには、写真誌や女性誌、週刊誌、国内外のテレビ局などからコメントや写真の提供を求める取材依頼が相次いだ。東日本大震災から1カ月たった4月11日には、米ワシントン・ポスト紙の国際面トップで「改めて脚光 反核の使者」として紹介された。16年前、英国のテレビ局とともに制作したドキュメンタリー番組「隠された被曝労働」がユーチューブにアップされ、延べ41万人以上が視聴。91年に出版し5刷で品切れとなっていた著書「これが原発だ」(岩波ジュニア新書)は事故後6、7刷を重ね、「原発被曝列島」(三一書房)も近く改訂版が出る。大学などから講演依頼も相次ぐ「売れっ子」ぶりだ。
「これまで被ばく労働の実態はなかなか表に出ることがなかったが、今回の事故で世界から注目を浴びることになった。国策のもとで闇から闇に葬られてきた人たちへの鎮魂の思いを込めて、取材や講演依頼には応じることにしています。私の写真を多くの人に見てもらうことで、警鐘につながれば」と話す。
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99年の茨城県東海村のJCO臨界事故のとき、翌日から現場周辺で取材した。その数年後、突然鼻血が出るようになり、血液を調べると白血球数が激減、被ばくが疑われた。今回は現地に行くまいと思っていたが、3カ月たって、いても立ってもいられなくなった。今月7、8日、福島に入った。南相馬市の20~30キロ圏の海岸や計画的避難区域に指定された飯舘村に残された牛たちを撮った。「俺も長野の農家出身。青々とした稲が水面から顔を出すいい時期なのに、荒れ果てたままの田んぼを見て、シャッターを押しながら涙がこぼれてきました」。これらの写真も加え、原発取材の集大成となる写真集「原発崩壊」(合同出版)を7月に出す予定だ。
樋口さんはこれまでに約150人の原発労働者を取材。がんなどで死亡したケースには、国が定める原発作業員の被ばく放射線量の上限年間50ミリシーベルトを下回る人たちもいたという。政府は今回の事故を受け、緊急時の特例として上限を年間250ミリシーベルトに引き上げた。しかし、関電工の作業員が放射能汚染水につかって大量被ばくしたり、東京電力の社員2人が緊急時上限の2倍以上の被ばく量に達していたことなどが明らかになっている。
「私が撮影してきた被ばく労働者の姿は、いまの原発作業員の5年後、10年後の姿かもしれません。事故は収束させなければなりませんが、このような被ばく者を生み続けて、まだ原発を動かし続けるつもりでしょうか」。日本の高度経済成長の裏側で、犠牲を強いられてきた民衆の姿を追い続けてきた「反骨」のフォトジャーナリスト、樋口さんの問いかけは重い。
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■人物略歴
1937年、長野県生まれ。上京して工員をしていた24歳のとき、ロバート・キャパの作品展をみて、写真家を志す。ぜんそく被害にあえぐ三重県四日市市に7年通い続けて撮りためた写真集「四日市」を72年に発表。現在、日本写真芸術専門学校副校長。
毎日新聞 2011年6月14日 東京夕刊