なおむし室長の嫌な事は、極力上書き保存

室長が想いのままに。

そして、好き勝手に書いております。読んでいただけると幸いです。

【日記】近況&夢

2011年04月27日 00時53分02秒 | Weblog
こんばんは室長です。おひさしぶりですね^^

先週の木曜日、妻が入院しました。

左扁桃腺周囲炎 潰瘍・膿瘍の疑いです。

先週月曜日から食事が殆ど取れず、水も痛くて飲めなかった。

市内の総合病院に入院して、めでたく明日退院となります。


僕の方は、今月から急性期病棟に配属になりました。

毎日〜仕事とお勉強の両立で忙しい毎日を過ごしております。

ここ数日、不眠に悩まされとうとう睡眠薬に頼る生活に戻りました。

3年ちょいと前はしこたま薬を飲んでいた僕ですが、流石に体から



不規則な生活を送って来ていますので睡眠コントロールにはちょいと

良い量です。

あと朗報です!!

僕自身のガンは小さくなりました!!!

なんで小さくなったかはお医者さんも

「わんがんねぇ〜」と話していました^^

今では、ほぼ日常生活・仕事には支障がないぐらい調子がいいです。

これも皆々様のおかげだとこころのそこから思いますし、今まで支えてくれたことに感謝します。

この場をおかりしまして、

「ありがとうございまた。そしてこれからもよろしくおねがいします。」



釧路は遅い春を迎えようとしつつあります。

体力が戻って来たので、今シーズンは色々とチャレンジしたいと思っています。

釧路湿原でのカヌー・道内原付バイクの旅・ちぃーと太ったのでダイエット
などなどです^^

マイミクのあっ君と北海道ファイターズの試合も見てみたい^^

相変わらずお金はあんまりないですけど^^

必ず約束した皆さまには、釧路の名産送りますので、もーしばらくお待ちくださいね。


室長が自宅からの更新でした。


それではみなさま、またmixiでお会いしましょう。


なおむし室長

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ひさしぶり

2010年01月03日 01時29分39秒 | Weblog
しばらく更新できませんでした。

さぼっていました。すみません。
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躁病 mania

2009年01月24日 22時14分04秒 | Weblog
 躁病についての研究は少ない。
 だいたい、躁ってのは見かけが楽しそうであんまり深刻そうには見えないせいか、不当に軽視されているようだ。


実際、分裂病やうつ病の研究は山ほどあるし、うつ病がメインで躁には申し訳程度に触れただけの論文も掃いて捨てるほどあるんだけど、躁病に焦点をあてた研究ってのは非常に少ない。だから、代表的な論文を20本も読めば、躁病に関しては全貌が見渡せてしまうといってもいいくらいだ。


 まあ、実際純粋な躁病というのは少なくて、双極性の躁うつ病の10分の1か5分の1しかないようなんだけど(いちばん多いのは単極性のうつ病で、アメリカ人の15%が一生のうちに一度はかかるという)。


 そういう事情のせいか、DSM-IVでは、「単極性うつ病以外はすべて双極性」という定義が採用されているので、単極性の躁病は「双極I型」という分類に入ることになっている。なんだか理不尽だよなあ。

 陽気でとにかくしゃべりまくっているのだけれど、内容は支離滅裂でよくわからない。笑っていたかと思ったら急に怒り出したりする。

そんなおばさんが、心配そうな家族に連れてこられたとすれば、だいたい「これは躁状態だな」と診断することになる。

たいがい、こういう人は自分は絶好調で入院なんか必要ないと思っているので、入院させて薬を飲ませるのはけっこうたいへんである。

 分裂病の幻覚妄想状態も、躁状態も、興奮してよくわからないことをしゃべっている点は同じで、確かに見分けがつきにくいこともあるのだけれど、やっぱり違いはなんとなくわかることが多いですね。冷たく非人間的な印象のある分裂病患者に比べ、躁状態の人の方が「人間的」なのだ。

ひとことでいえば「プレコックス感がない」ってことになるかな。
 そして、軽快したあとも、躁状態の人はなんだか人当たりがよくて人を惹きつける魅力のあるタイプが多い。外来でも、気楽に肩の力を抜いて話せるような患者さんが多いのですね。


 こういう性格を、うつ病の研究で有名なテレンバッハはマニー型と名づけている。森山公夫は「両極的見地による躁うつ病の人間学的類型学」という論文の中で、こんなふうに描写してますね。


 負けん気が強く、強気で、鼻っ柱の強さの陰に小心さがかくされており、積極的・活動的である。物事に熱中しやすく、一度やり始めるととことんまでやらないと気がすまない。常識的である反面、理想を追い求め、正義感が強く、潔癖で非常に気をつかい、几帳面である。


いい人じゃないですか。親しみやすい性格、といってもいいんじゃないかなあ。
しかし、岡本透は、「躁病ゲームについて」という論文の中で、
躁病者は相手のゲーム、周囲のゲームに対して「立法者」ないし「法の番人」としてふるまう傾向があるといえよう。躁病者は、「私がルールブックだ」とかつて宣言したあの高名なアンパイアにどこか似ている。


と、書いている(どうでもいいが、全然論理的じゃないですな、この論文)し、藤縄昭は森山論文を受けて、「几帳面」「活発で精力的」「自己中心的な攻撃性」「秩序との同一視についての疑惑、あるいは両価性」とマニー型の特徴をまとめている。こうなると、あんまりいい人っぽくないですな。

最後のはちょっと解説が必要かな。仕事熱心で几帳面なんのだけれど、実は組織に対しては反抗的とか、そういう性格ということらしい。こういう人が、「秩序」の担い手になったときに躁状態になることが多い、ということのようだ。


 このように、躁病は、マニー型の人に何かの負荷がかかったときに発病する、という例が多いのですね。うつ病では「昇進うつ病」とか「引っ越しうつ病」というパターンが知られているが、これが躁だと(名前は悪いが)「葬式躁病」とか「水害躁病」、阪神大震災のときには「ボランティア躁病」(!)なんてのも報告されてたりしますね。

これは、神戸の複数の病院の先生方が学会で報告しているもの。「災害躁病」という報告で、保坂卓昭はこんな事例を紹介している。
震災の惨状をテレビで見て、北関東から神戸に駆けつけた29歳のA氏、泊まり込みでボランティアをしていたが、トラブルを起こして一旦は家に帰る。

しかし震災16日目に再度神戸を訪れるが、またも暴行事件を起こし、翌日には川に飛び降りる行為を繰り返し、とうとう入院になってしまった。入院後も攻撃的で暴力があったけれど、治療によって鎮静化、入院20日目には退院して帰省することができた。しかし退院して16日後、またも軽躁状態で神戸を訪れ、5日間入院。
テレビの中の廃墟の風景を見て、不謹慎にもわくわくしてしまう気分はわかるのだが、なんともはた迷惑でお気楽としかいいようがない。


 さらに被災者の中にも躁状態になる例が多く、神戸大学精神科では、震災の影響を受けた入院事例では、精神分裂病よりも躁うつ病の躁転が多かったそうだ。兵庫医科大学でも、躁うつ病の通院患者53名のうち、震災後1ヶ月の間に12名が躁状態になったが、前年の同時期では3名にすぎなかったという。こちらは、震災のショックからの防衛機制という要素が強いようだ。

 性格的には、「ボランティア型」は共感性、正義感が強く熱中巻き込まれ型(マニー型に近いかな)、「被災者型」は几帳面、まじめな性格が特徴的だったそうな。



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AC アダルトチルドレンについて僕の考え

2008年12月07日 22時32分48秒 | Weblog



以前僕が書いたものをまとめ&僕なりの解釈入りで書き直ししましたぞ^^まともな事書いているので疲れるかも知れませんけど^^
興味がある人読んでね^^

 アルコール依存症で困っている患者さんの社会復帰のお手伝いをしているケースワーカーが、それらの患者さんをとりまく家族関係を見ていたら、どのケースにも共通する特徴があるということに気が付いたというところがアダルトチルドレンの起源です。
 どのような事に気が付いたかというと、

 1、アルコール依存症患者は、決まって親が同じようにアルコール依存症であったり、なんらかの依存症であったり、育ってきた家庭が不全な状態であった過去がある。

 2、患者を献身的に世話をしている家族がいる。そして、配偶者や家族に激しい暴力、浪費、徹底的な甘えなど散々な行動を毎日しているアルコール依存症患者(客観的に見たら、そんな人と早く別れればいいのにと感じる患者)が軽快した際、今まで献身的に世話をしていた家族が役割喪失感を抱き精神的におかしくなる。そして再び患者がアル中になると家族はむしろ生き生きとして、「早く治って欲しい、社会復帰して欲しい、心配だ」などと言いながも献身的に世話をする傾向がある。

 3、2のような構造を共依存と言いますが、この共依存の関係が、現在の患者の家族の代だけでなく、親の代の頃の家族関係にも同じような構造が存在していた。さらに言うならその前の代にも。そして、患者(夫)が良くなる→妻が悪くなる→夫が悪くなる→妻が元気になり献身的に世話をする→・・・といった事を繰り返す。
 
つまり、アメリカのアルコール依存症患者を頻繁に扱うケースワーカーがぁ〜。

 アルコール依存患者は家族に子供のように甘えている(依存している)だけではなく、その介護者も患者に依存しているかのような状態があり、彼らの前の代(親)にもそのような同様の構造がある。
そのために、いったん患者が軽快したとしても、家庭内で別の病理(患者が軽快して介護者ががうつ状態になるなど)が発生したり、また再び同じように再入院してきたりするぞ、 というように、患者の家族背景や予後(また再び入院してくるぞなど、将来の様子)をケースワーカーが間違いなく予測できるようになってしまった。


ケースワーカーの仲間うちでは、そういうアルコール依存症患者をアダルトチルドレンと呼ぶようになった。


つまり、ケースワーカ仲間の間では、「あの今度退院する患者さんどう?」「あ、あれはアダルトチルドレンだね。また、きっと再入院してくるよ、奥さん、患者さんがが退院だというのに、なんとなく表情さえないもんねぇ〜」など
といった具合のコミュニケーションが成り立つようになっていったわけです。


その狭い社会の中でのコミュニケーション用語が、医療職の人々にも広がっていき、一般の人にも広がっていったというわけです。
つまり、「萌え〜とか、ORZ」 みたいなものです。

 つまり、アダルトチルドレンというのは、診断名でもなければ、うつ状態(落ち込んだ様子)とか、不隠状態(落ち着きがなくおだやかでない状態)などというような、その人の様子がどんなもんかという状態像を示しているものでもなんでもありません。

本来の意味は、「アルコール依存症の親を持つ家庭で育って大人になった人」なのです。

しかし、このような共依存の関係は、アルコール依存だけでなく、薬物にしろ、幼児虐待にしろ、ギャンブルにしろ、様々な機能不全家族のもとで育った大人達にも同様の構造がみられる、ということに気が付いてきて、

現在では意味が広義にとらえられ、「機能不全家族のもとで育った大人」をアダルトチルドレンと呼ぶようになったわけです。

 つまり、医療職の人々が作った言葉でもなく、学者が作った言葉でもなく、診断名でも状態像でもない用語です。

わかりやすく言えば、自覚概念みたいなもので、
「私、アダルトチルドレンなんだ〜〜」=「私、機能不全家族のもとで育ったんだ〜〜、だからその影響でなんとなく今でも何か生きづらさがあるんだ〜」

という用い方で使われるのが妥当なわけです。
 
 AC関連の相談を持ちかけている方々のほとんどは、
まさに、「僕もAC、私もAC」「本を読んでいたらACだと思ったんですけど、僕は本当にACなんでしょうか?」「ACってどうやって治すの?」「ACとうつ病を併発しています」などといったような感覚であり、そのような状態で自分の生きづらさと向き合っていくなどというのは遥か遠い道のりだと思います。


 例えば3歳児がエロイという言葉を覚えたら、頻繁に使用するようになります。6歳にもなると、自分がどうしてエロイのか、エロとは何か・・いいのかわるいのかなどを雄弁に語るようになるかもしれません。しかし、エロイという用語の意味の理解など絶対にしていません。


なをも継続してエロとはということを社会の様々な場面で語ることでしょうが、意味がわかるのは、早くて12歳、16歳にもなればだいたい多くの方が理解すると思います。ここで同じエロイがいいか悪いかという議論をした場合に、6歳の頃の人がする議論と、16歳の頃の本当の意味を理解した人がする議論は全く異なることは用意に想像がつき、もしそれらの人々が同時に議論をしても、シンクロしようがないと思います。


 ということで、ACを議論していくためには、ACとはいったい何?ということをある程度はっきりさせておく必要がある。

 そういうことで、つまり、ACっていうのは、医学用語でも医療用語でも心理学用語でもないということがお分かりいただけたと思います。
 で、そのACを自覚することが有意義か無意味かという点ですが、無意味とは到底いいがたいような気が私はいたします。

 ACだという事を自覚して、「僕がこうなったのは親の愛情が足りなかったからだったんだ」というふうに捉えて、その後一生その思いのまま停滞してしまったのであれば、あまり意味がないでしょう。

しかし、ACで悩んでいる方は、まさにこの部分で停滞しているからこそ、「ACっていったい何なのだ?」「ACっていったいどういうこと?」というふうに感じておられるのでしょう。


先に出したエロイの例で、3歳とか6歳の用語理解度の方は、これ以上の感じ方はできないでしょう。なぜなら、ACの背景を全く知らないからです。さて、はたして、ACという自覚概念を持った方のほとんどがこのような感じ方をするのでしょうか?そんな事は全く言い切れません。

 ACの理解度がエロイの例で16歳の方はどういうふうに感じるのでしょうか?

 「お父さんやその家族も、機能不全家庭の中で育ち、生きていくのに必死でがんばってきたんだな。今振り返れば、そんなつらい人生の中で、お父さんお母さんは、あんなこともこんなこともしてくれたな・・・。

そういえば、お父さんはクリスマスには私を喜ばそうとツリーに一生懸命だったな、すごい笑顔で・・涙涙・・お母さん、お金ないのに、立派なケーキ買ってきてくれてたんだなぁ〜。決して私への愛情がなかったわけじゃない、この難しい世の中でお父さんもお母さんも生きるのにせいいっぱいで、余裕がなかったんだ。あんなに余裕がなかったのに、あんなこともこんなこともしてくれたんだ・・・。
必死に生きているのは私だけじゃなくて、お父さんもお母さんも同じなんだな・・・」

とACを知ることによって親も酒ばっかり飲んでる時もあるけれど、ほんとはやさしいかけがえの無い親なんだと(対象恒常性確立)感じて前進しようとがんばろうとする人がいないと言い切れるでしょうか?

むしろ、ACを深い理解をされているのであれば、こっちの方向性の感じ方をする人ってかなり多いのではないかと主観的には思います。


こう感じた人は、様々な相談所で、冒頭に挙げた「ACってどうやって治すの?ACの薬ってなに?」的な質問をしてくるはずがありません。結局の所、我々が目にするのは「僕もAC、私もAC」などという人ばかりに必然的になってしまうのです。


※かなりの切り口で書きw&分かりやすく書いたつもりです。
 異論・反論あると思いますがまずは、僕の考えはこんなものです。


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葛藤と解離

2008年06月25日 03時29分24秒 | Weblog
さて、ちょいと解離のお話しでもしましょうかね

その前に葛藤のお話しを


葛藤とは、相反する2つの思いがあり、その動機や感情または、欲求などが存在してそのいずれかを選ぶか迷う事です。

真夜中、甘いもの食べたいな〜と思ったとしましょう

冷凍庫あけて、アイス発見!!よ〜し食べちゃお^^と思い、手を伸ばしたが、ああ、最近ちょいと太り気味なんだよなぁ・・・私。

と伸ばした手を引っ込め様とした経験ありませんか?

そうです、それが葛藤です。

食べようか?それとも食べまいか?

も〜相反する動機や感情と欲求のですな、まさしく。

こんな風に日常茶飯事に、しかも無意識に、僕らの心の中ではこのような作業が行われているのです。


一方解離の方です。

解離とは簡単に言いますと、この無意識に僕らが行っている葛藤を心の中で行わないんです!

むしろ葛藤すると言った概念が存在しない心が解離です。


解離はこのアイスを食べる^^いや、太るから我慢する。と言った心の中の2つの思いの摩擦が無いわけです。

ですので、1人の心の中に相反する2つの思いが何時も存在するわけです。

アイスを食べちゃう私と。

食べないで我慢する私。

でも室長、そんな事良くある事だとおもいませんか?と言う質問がよくある。


ですが、人間体は一つアイス食べるw口も一つなわけです^^

一方ではあ〜んとお口を開けてアイスを食べる自分。でも、もう1人は、我慢して食べない自分がいるわけですから、お口が2つ無いと
この思いなり、行為は成立しないわけです。

でもそれを可能にしてしまうのが解離です。

解離とは、起きた出来事から認知の枠組みにとらわれ、それに合致しない場合、感情や観念を無意識的に切り離す為に起こる現象といわれております。

そう、僕たちが無意識に心の中でしている葛藤は無く、無意識に切り離す事をしているのが、解離とも言えるでしょう。

葛藤は2つの事柄の摩擦です。この摩擦している時、人は思い悩むと思います。しかし思い悩む行為が心のストレスとなり、無意識に2つにパックリ切り離してしまい、心の中の整理してしまうのが解離の作業です。

体も2つに切り離れる事が出来るなら先ほど述べたとおり、アイスを食べる自分と食べない自分が存在できるでしょう。

しかしながらそれは物理的に不可能であり、一般的には自分以外の人を自分とは違う他人と認識するのが心の働きです。

また、その他人に自分とは違うオリジナルの人格があるはずです。

このように一つの体に2つの人格が存在させているわけです。

すなわち2つの人格ですから、自分と別な他人が一つの体に存在する状態ともいえます。

2つの人格が存在させるわけけですので、一方のアイスを食べたい人格が働きアイスと食べている時は、我慢する人格は心のどこかでお休みしていると考え、逆に我慢している人格が働いている時、食べたい人格はお休みしているわけです。2つの人格は同時に一つの体は使えないといっても良いと思われます。


これがいわゆる多重人格を説明する基本的な考え方です。




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