2010年12月24日

リチャード・ドーキンス『神は妄想である』(早川書房)

神は妄想である―宗教との決別論  旨
 キリスト教による神を徹底的に排除、いかにキリスト教的な価値感に支配されているのかを自然科学的、社会学的、あるいは道徳論的に検証していきます。そして神によらない道徳観を作り上げようという野心的な著作です。
 9・11テロをきっかけにキリスト教批判、イスラム教批判を押し進めていきます。というのもあの奥には唯一絶対の神しか認めない一神教独自の価値感があるのです。
 本書では神の定義を「超自然的な」ものだけとしています。

アメリカの価値感
 日本人には解らないかもしれませんが、アメリカで無神論者と公言することはかなり勇気のいることです。それは道徳観念と強く結びついているからです。例えて言うなら「私は人殺しが大好きで、盗みも大好きで……」と言っているようなものです。
 理由は簡単で、宗教と道徳がセットになって語られることが多いからです。日本では考えられないことですが、アメリカ人は進化論を教えない学校がほとんどなのです。
 そしてその考え方はアメリカだけでなくイギリスでも見られます。最近まで「多神教に非課税の待遇を与えない一方で、一神教の普及を目的とするチャリティは簡単に許し」ていました。

ドーキンスの定義
 神を超自然的なもののみとして「超自然的な神」、つまり、世界の設計者としての神を否定しています。つまりヤハウェは七日間で世界をつくったりしたのではありません、と。
 「神はサイコロを振らない」というアインシュタインの言葉も、実はキリスト教的な人格神ではなく「自然そのもの」という汎神論的な側面が強かったのではないかとドーキンスは指摘します。
 「神は老獪なれど悪意はない」や「神はサイコロを振らない」や「宇宙を創造するとき神は選択肢はあったのか?」(中略)は、どう考えても(中略)汎神論的であり、まちがっても有神論ではない。「神はサイコロを振らない」は「すべての事柄の核心に偶然性が横たわっているわけではない」と翻訳されるべきである。
 つまりアインシュタインの神とキリスト教における神はかなり意味合いが異なるのです。
 さてここで僕なりに調べたことをまとめますと、有神論は人格を持った神を認める立場。これはヤハウェなど極めて素朴な考え方です。
 汎神論はスピノザが『エチカ』において体系化した考え方。無神論とごっちゃにされそうですが、自然の中に神を見出す考え方です。有神論は違いは自然は神が作ったとするのに対し、汎神論は素朴なギリシャ神話*1のように木なら木そのものを崇める考え方です。
 理神論は「超自然的な知性を信じているが、その活動は、そもそも最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定され」、「それ以後のことには一切干渉」しません。例えば万有引力の法則を産み出しただけで、潮の満ち引きや月が地球の周りを周って周っている、などということはそのルールの結果、生まれたものにすぎない、というのが理神論のいうところなのです。代表的な哲学者にヴォルテールやディドロなどがいるそうです。
 また人格神が多数いるという考えに基づくものです。例えば多くの神話に出てくる神々は、人格を持っていて、たまに戦争をしたりします*2。

迷信・非科学的なこと
 ドーキンスは特定の神を攻撃するのではなく「超自然的なものすべてを攻撃している」と言います。このことから考えるに年末特番のUFO、幽霊などの超自然的な現象をも含んでいると僕は考えます。
 現に祈っても病気はよくなりませんし、そのような科学実験が冷笑を受けることも解りきっています。しかし、この間の
 山口市で昨年10月、頭蓋(ずがい)内出血を予防するビタミンK2の代わりにホメオパシーと呼ばれる民間療法の特殊な錠剤を投与された乳児がビタミンK欠乏性出血症で死亡した問題で、同市の母親(33)が市内の助産師を相手取り、約5600万円の損害賠償を求めていた訴訟が21日、山口地裁であり、助産師側が女性に和解金を支払うことで合意した。和解には「内容を口外しない」との条件があり、母親の弁護士は「コメントしない」としている。(毎日新聞 2010年12月23日朝刊)
という事例にもあったようにドーキンスの定義する「神」の影響が色濃く残っています。
 「科学的にものごとを考えよう」……。このホメオパシーのような事例を見てみると、ドーキンスの著書の狙いは日本人の目から見ても、一見すると正しいような気がします。またアメリカの9・11テロにはイスラムとキリストの対立構造も窺えます。
 しかし、この著書は科学教という新しい「宗教」を産み出してしまう可能性があります。旧約聖書でユダヤ教の一部を否定*3したんです。そして、この著書もまた、科学至上主義という新たな価値感にとらわれているという点でキリスト教と大差がありません。
 一神論の最大問題は「●●こそが唯一絶対である」として、他の価値感を一切認めないことなのです。「ヤハウェこそが唯一絶対」「白人こそが唯一絶対」「金儲けこそが唯一絶対」「オフラインの人間関係が絶対的な価値」「健常者こそが絶対的な価値」……などといった枠組にしがみついている以上は一神論と変わりはありません。僕にとって学問とはそういった「絶対的な価値」を疑うことなんです。だから、二次元の嫁でもいいじゃないか!
 そしてこのドーキンス自身、一神論と同じ構造、つまり科学こそが唯一絶対である、という構造に陥っているのです。しかもそれは本人はあまり自覚していないのです。
 ポストモダン哲学にも言及していましたが、ポストモダンの特徴の一つに絶対的な真実なんてあるんだろうか? と疑問を投げかけているところにあります。それから哲学は他の学問とは違い、「当たり前だと思っていることをとことん疑ってみる」という姿勢にあります。デカルトの「cogito ergo sum(われ思う、ゆえに我あり)」*4という命題はその点において哲学の姿勢を現わしてる、ともいえると思います。

宗教と倫理
 さっきも書いたように、ヨーロッパ各地で宗教と倫理や世界観は強く結び付いています。それはこの本にも紹介されている事例ですが、無神論者と告白したことで恋人とケンカしたり、神がいないとしたら天が落ちてきやしないかと考える人がいるようです。このように日本人には理解しがたいことですが、西欧各地ではキリスト教と倫理観は強く結びついています。
 日本人はクリスマス*5も祝えば、結婚式は神前で、お墓は仏前、またお賽銭も神社・お寺さんも関係なくあげて、おまけに支持政党は公明党……という人もいると思います。しかし、僕らは礼儀正しい国として知られています。
イタリアで日本と言えば、親切な人々、お寺、テクノロジー、そして生魚が有名だけど、東京に到着してすぐに、これらのすべてが本当だとわかったけど、それだけじゃないことも感じたよ。
(中略)日本について紹介されたいくつかの本で読んだから、日本では、いかに親切さやホスピタリティが重要かは知っていたけど、まさかここまでとは驚かされた。スーパーマーケットに入れば、笑顔でお辞儀をされる!たどたどしい英語で道を聞けば、答えに自信がない人は、わざわざ連れて行ってもくれるんだ!(イタリア人の見た日本【前編】)

 またアメリカ人からも「困っているとすぐに助けてくれる人が現れる」などと言われています*6。というように僕らは「神様が八百万もいることも驚いたけど、日本人は宗教観がとても柔軟なんだ」*7というように信仰心と道徳とは全く関係がないのです。
 僕は人に親切にする時に「神様が見ているから」とかそういうことを意識していません。神のための道徳ではなく、まさにカントの言う道徳のための道徳なのだと思っています*8。

哲学として見た時
 神と「知」を切り離した人はドーキンスが最初ではなく、19世紀〜20世紀にすでに行なわれていました。それはニーチェです。彼の中心テーマは絶対的な理性からの解放です。例えば『悲劇の誕生』では、理性/欲望の価値転換を行ないましたし、『アンチ・クリスト』ではまさにキリスト教を否定しました。
 注意して頂きたいのは、この本は先達がいたから価値が損なわれるということではありません。ディドロやヴォルテール、トマス・アクィナスなどの哲学者には言及していますが、ニーチェには言及していません。彼こそ、まさに「神は妄想である」と言った人で、全部ニーチェの解説にしてもおかしくありません。
 にもかかわらず、です。それは恐らくニーチェが神だけではなく自らの信ずるところの科学も否定してしまうからだと推察します。つまりこの人は科学という宗教を信仰しているのです。
 とは言ってもこれからの宗教の指針を示すのは役に立っています。特にドーキンスの示している十戒の内容は日本人にとってみたら当たり前のことですが、アメリカ人にしてみれば当たり前ではないのでしょう。
 

*1 ソクラテス以前のギリシャ神話(wikipedia「汎神論」の項目)
*2 ここに実例をあげれば本当に数限りがないが、ネプチューンやアテネなど。ゾロアスター教はどうなんだろうか? アフラ・マズダーを信じる一神論的な性格が強いけど多くの神様が登場するので、多神論か?
*3 本書にも述べられているが、イエスは安息日を人のために作られたものだとした。これはユダヤ教の神のために作られたという価値感を否定したものである。
*4 徹底的に自分を疑ってみるという考えにもとづいて出された結論である。
*5 最近、中止になったらしいですお。
*6 アメリカ人が感じる日本のびっくりベスト3
*7 イタリア人の見た日本【後編】
*8 『実践理性批判』参照

参考文献
[1]MADCONNECTION


書誌情報
著者:リチャード・ドーキンス
著者:ドーキンス
タイトル:神は妄想である
出版者:早川書房
国籍:アメリカ

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1. 賭博と国家と男と女 ??人は利己的に協調する  [ 投資一族のブログ ]   2011年02月03日 21:11
人間に数の能力を進化させたものは何だろう。なぜ人間は数を厳密に数える必要に迫られたのか。私は以前、 人間が人間になる過程で大変重要だった現象として"浮気"を考えた。人間は夫が妻と子を残して狩りに出 かけるという、どの類人猿にも見られない全く常識はずれの婚姻...

コメント一覧

9. Posted by 有沢翔治   2011年06月11日 16:39
いや、まぁ、絶対の理由なんて存在しないと思います。

>多分、人になる過程で動物にも心があることを忘れてしまった人類
うーん、ミクロのレベルはペットを飼うことからも解るように、そんなに変わっていないのではと思います。
ただし、人類全体というマクロなレベル的で見たら、異教徒さんの言うことは正しい。

でもそれだって目に見えるような大きな目標さえあれば違う。
東日本大震災でヤシマ作戦とかで自主的に計画停電を呼びかけて、節電(つまり我慢)しようとしたのが証拠だと思うんだ。
で、ヤシマ作戦になんでみんな乗っかったかっていうと3つの要因があります。少なくとも僕は以下の要因で乗っかってました。
1.眼に見えるような大きな目標
2.手軽さ
3.自分よりも大変な人がいるという事実

ただ1の問題が見つけにくくなってきているのが問題なのでは? それこそ「宗教に由来しない」問題、世界中の誰が見ても納得する問題が必要でしょうねー。

8. Posted by 異教徒   2011年06月11日 12:05
>僕はむしろ、今年は獲物が多く見つかりますように、とかそういう要因で「神」を作る必要もあったのかなと考えています。

そーだね。それを忘れてたっていうか、気付かなかった。それも神が必要とされた絶対の理由の一つだ。

>心を見出せるか

なるほどね。多分、人になる過程で動物にも心があることを忘れてしまった人類に、それが出来るかが問題ですね。それは、本当に難しいことだと思う。


私は自分の意見が変化することに期待して、有沢さんとお話できれば良いなと思ってます。ですので、遠慮なく、違うと思ったら言って下さい。
7. Posted by 有沢翔治   2011年06月11日 11:28
>日本人に当てはまらないような気がするんです
要するに僕たちは宗教なんて小難しいこと考えなくても殺人はおかさない。それどころか地震のときはちゃんと並ぶ、という世界的に見たらすげーことをやってのけることを言いたかったんでしょうか。

DNAレベル
なるほど、僕は片面だけしか語っていなかったわけですねー。
思い付きですが、生命の目的としてはできるだけ自分の種族を残したいというものがあるような気がします。もしかしたらそのDNAレベルのことをはっきりと意識させるために宗教があるのかも……?

だとしたら政治としての宗教はますます教義としての宗教とかけ離れてくようなww

実はレヴィ=ストロース以降の哲学の課題はいかにして西洋中心主義から脱するかにあります。
人類学者であった彼はアマゾンの奥地を探索する中しています。
キリスト教と全く違う倫理観(公然とセックスを行なう、とか)で
「なんじゃこりゃああああ」
と思いましたが何やら一定の規則があるみたいでした。
そしてそのことをとりまとめた紀行文『悲しき熱帯』を読んだ哲学者たちが
「し、視野が狭かったよ。ママン」
と恥じ入ったわけです。

僕は単にマンガ、ゴルゴ13の冒頭で引用されてて、その台詞があまりにも「カッコイイ!」という厨二病的な理由でした。
そんな切なさを感じながらもコメントありがとうございました
6. Posted by 有沢翔治   2011年06月11日 10:48
長々とありがとうございました。

>動物に心があるか
いや、実際にあるかどうかは問題ではなく、心を見出せるかが問題になってくるかと思うんですよね。
例えば趣味で園芸なんかをやってる人は、植物にも心を見出すようになってくると思います。

>神/宗教
神と(つまり神秘体験によって語られるような神と)、道徳の基礎づけである宗教と分けて考えているんですね。
1.(文献に現われる前の)多神論
2.(文献記述後の)多神論
3.一神論
の三つの段階があることに気がつきました。
まぁ、文字があるってことはしっかりとした統治が発達してきたということを示す何よりの証拠ですから。
実際、ゼウスが浮気性なのは、みんな各部族がギリシャと縁を結びたかった。つまりゼウスの子供と認めて欲しかったという経緯があるようです。
ここまでが上の2になります。

うーん、僕はむしろ、今年は獲物が多く見つかりますように、とかそういう要因で「神」を作る必要もあったのかなと考えています。
ラスコーの壁画はこんな獲物が見つかったよーとコミュニケーションを取るための側面もあるでしょうが、それなら伝言として誰かに託せばいいことだと思うんですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ラスコー洞窟

でも、異教徒さんの説は否定されたことにはならず、他にも例えば統合失調症などの精神疾患や痛み止めのコカの葉を過剰摂取したりしても神秘体験が得られますよね。
5. Posted by 異教徒   2011年06月11日 00:39
>結論からいえばあらゆるものが「宗教的な意図」をもって語られている、という僕は考えです。

そうですね。やっぱり、人間は宗教的思考から離れられない。欧米の無神論者も日本人も、アボリジニもインディアンも宗教的意図の網に囚われている。個別の小さな共同体の中の宗教と一神教(主にキリスト教)的思考が上書きされた社会で、世界が「宗教的な由来」で語られている。

私がキリスト教に興味を持った理由は、有沢さんの言われる「宗教的な意図」に気付いたからです。日本人であっても、アボリジニであっても、ライオンやシマウマ、木や森、昆虫であっても、キリスト教の価値観からは逃れられない。簡単に言えば、「世界はキリスト教的価値観で回っている」。
一神教がもう少し自然に敬意を払っていれば、世界はもっと違った景色があったんじゃないか? 多神教が主流の世界があれば、もっと多様で共存できる社会が存在したんじゃないのか? 夢想しているうちに、でもキリスト教のことほとんど知らね。んじゃ、聖書を読んでみよ、で、読んだら、「何じゃ、こりゃ!」と、なっちゃて。でも、無学の私では自分の直感と経験からしかキリスト教を分析できない。で、「ここが変だよ」で、書き込んだけど、キリスト教徒と無神論者(キリスト教から離脱した無神論者と言う名の宗教を信仰してる)の不毛な戦いにウンザリしてたんです。で、まったく違うアプローチをしてきた知性を感じる有沢さんに、「おおおおおおお、この人面白い」って。で、やっぱり、ブログ読んでも面白い。「ここが変だよ」でも色々と話が出来ればもっと面白いと思うんだけど。残念です。
4. Posted by 異教徒   2011年06月11日 00:36
>なんで人を殺したらいけないのか? という問いに答えるのは科学ではなく宗教なんですよね、

これに関しえ言えば、概ね同意です。100%でない理由なんですけど、道徳で殺人がいけないこととして育った日本人に当てはまらないような気がするんです。日本人の無自覚的深層心理に潜む神道と仏教が道徳的規範を産み出しているから、日本人が殺人を悪とする。だとしたら、やっぱり宗教が理由で殺人を悪としていますね。あれ、結局同意してる・・・・

いやいや、私の心がちょっと違うと言うから頑張って反論してみます。
宗教が理由で殺人を犯さないなら、宗教を持たない動物は同族殺しを頻繁に行っているはずです。ですが、動物も同族殺しをあまりしない。人間よりは同族殺しをする動物もいるけれど、ほとんどしない種族もいる。そう考えると、宗教も同族殺しを抑える作用があるけれど、宗教以外の道徳的要素も存在するはずじゃね? 

「殺人を悪とする考えは宗教からきているの?」は宗教全般で共通するかと言えば100%YESです。ただ、宗教以外の、全生命の共通理念である自己保全、DNAレベル、もしくは子孫繁栄レベルで、生命は同族殺しに嫌悪する感情が組み込まれているような気がします。

3. Posted by 異教徒   2011年06月11日 00:34
>妄想 

私は動物も殺される(食される)寸前には、「神さん、助けて!」ってなるんじゃね?って考えるんですよね。もちろん根拠なんて一切なく、人として育った過程で神という概念があるから、動物も神にすがるかも?ってぐらいの発想ですから、「お前は間違っている!」って言われれば反論しようがないんですけどね。ただ、動植物が「妄想」してるとしても、やっぱりただの妄想です。でも、私は妄想だと切り捨てて道徳心を無くすよりは、妄想だけどひょっとしたらいるかもねって考えるんですよ。でも、いたとしても、いなくても、結局は私も妄想してるんですけど。

>神は人間が欲望をコントロールする為に産み出した装置

これに関しては、一神教だけを見ると同意です。私はモーゼが教祖だと思ってますから、放浪のユダヤ人をまとめる為に、唯一の神を守護神とした宗教を必要だったと思うんです。ですから、同意です。

ただ、世界中の神々が人間の欲望をコントロールする為に産み出されたかと言えば、ちょっと違う。一神教以外は「人間は神を妄想し、宗教が人間の欲望をコントロールする為に産み出した装置」だと思うんですよ。なぜ、主語の相違があるかと言えば、シャーマニズムのような宗教の原型を見ると、幻覚作用の植物を食して神を妄想することが、人間をコントロールするために産み出されたとは思えないからです。いや、シャーマニズムも人間の欲望を抑える為の作用はあるんですけど、初めて人間が毒キノコを食った時(宗教や言語が誕生する以前の猿と人間の間ぐらい)、「うわ〜、なんじゃこれ?じゃlhふぉいあへいphじゃいp・・・・・・ララー。時が見える」みたいな経験で人類が神を初めて意識したんじゃない?って考えるんですよ。


2. Posted by 有沢翔治   2011年06月10日 00:52
いや、まぁあの人が家庭の事情をキリスト教という敵を作ることで慰めていることは感じてましたが(笑)
まさに「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」という言葉を投げかけてやりたいですねー。


宗教について。
面白い宗教観です。汎神論と理神論、多神論の合体という印象でした。素朴なアニミズムで今の日本でこそ、つまり地震による原発問題で揺れる今だからこそその考えは大切だと思います

1.いわゆる「神」について。
神はいます。ただし2chというところに!!
というのは冗談ですが(w

妄想。でも必要な妄想という立場です。
というのも人間が欲望をコントロールするために産み出した装置だと思っているからです。


2.宗教について
ただ「宗教」の本質を考えるとまた違います。
結論からいえばあらゆるものが「宗教的な意図」をもって語られている、という僕は考えです。

ここで「宗教的な意図」とは「価値感」と同じです。

某所で書いたように例えば、なんで人を殺したらいけないのか? という問いに答えるのは科学ではなく宗教なんですよね、実際。

ちょっと話が逸れてしまいましたが、要するにみんな資本主義(カネ)、異性愛者、健常者がいい……という宗教を信仰してるのです。
なんでこういうことを考えたかといいますと、これらのものが宗教だと自覚することで少なからず救われる(宗教的な言葉ですがw)人がいると思うのです。あるいは働けない人に無理に資本主義の価値感を押しつけたら辛いと思います。

えと、こんな感じでいかがですか? 答えになっているか不安ですが。
答えになってねぇ、ということがございましたらコメント下さると幸いです。
1. Posted by 異教徒   2011年06月09日 23:33
>ここで提案なのですが、教義がいかに歪曲されていったかを調べて行ってみては? from ここが変だよキリスト教

残念ながら、あそこではこの提案が承諾されることはないと思います。桃栗さんは『キリスト教憎し』で固まって、テーマとかけ離れた話をすると機嫌を損ねるんです。で、出来ればここで色々と話が出来れば嬉しいです。

私からの質問なのですが、有沢さんはニーチェのように「神は妄想である」を信じているのか? それとも神道の800万の神派? いやいや、仏教でしょ! それとも、神、いるんじゃね? いなくてもいいよ? なのか、どの立場で考えてます?

ちなみに、私は「ビックバーンが神の仕業なら、神、いるんじゃね? 800万の神や多神教の頂点に唯一の神いてもいいよ。でも人格なんてあるわけない。 唯一の神より自然崇拝宗教がいいよね」です。だから宗教関連のハンドルネームは「異教徒」です。

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