序文
幻想郷がこのような姿となって久しい今日、人と妖怪の在り方も随分と変化した。
妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治する。
古来よりずっと受け継がれてきたこの単純かつ絶対の法理は、今や名目上だけの形骸化したものと成り果てた。
人間も、妖怪も、本気ではないのだ。
あらかじめ定められたルールに則り、安全かつ安易に決闘が繰り広げられている。昔のように夥しい血が流され、死んだり不具なったりする者も滅多にいない。
もっともこれは幻想郷の中の住民に限った話で、外来人は相も変わらず食い散らされ続けているが。
無論、このような今の幻想郷を批判するつもりなど、私には毛頭無い。
平和―――なのだろう、これこそが。見方によっては、今こそが人間にとっても妖怪にとっても理想的な最良の時代と言えるやもしれない。
人間の里に存在する妖怪退治屋の中でも特に抜きん出た実力と歴史を有する三家、通称「御三家」の一角を担う羽倉家の現当主たるこの私も、ほぼ同意見だ。
畑を耕し、家族を愛し、趣味に没頭し、時たま入る依頼をこなす。その内容も下級妖怪を相手にするのが大半なので、余程油断していない限りまず負けはしない。
変わりばえのしない、平穏な日々の繰り返し。私はそれでいい。ちっぽけな私の器は、それで十分満たされている。
が、御三家の残りニ家、中原家と藤川家はそうではなかった。
藤川の当主である逢之助(あいのすけ)は数百年前の人間が墓から甦ってきたかのような激烈な妖怪絶滅主義者であり、時代の流れを許さず、認めず、一族を率いて奔走した。
そして、中原の当主である源一郎は時勢を認め、己がもはや時代遅れの遺物であると知りながら、それでもなお逆境の中にその身をさらし、己が一分を貫き通さんと立ち続けた。
今となっては、真実彼らを理解しているのは、少なくとも人間の中には私しかおるまい。
源一郎には
「上手く時流に乗りおおせた利口者」
と言われ、逢之助には
「話にならぬ怯懦」
とのそしりを受けたこの私しか。
逢之助は私を嫌っていたようだが、私は彼等が好きだった。
だからこそ今横行している、殺戮嗜好所持者だとか、脳を膿んだ誇大妄想屋だとか、そうした単純に彼らを悪とする風評には我慢がならぬ。
されど、私には生活がある。家族がある。声を大にして否定の言葉を叫ぶのは、それらを崩壊せしめかねない危険な行為だ。とても出来たものではない。
仕方あるまい、繰り言になるが、私は小器量者なのだ。そうでなければここまで生き残れてはいまい。とうの昔に彼らと共に屍を晒していただろう。
故に、こうして文章にして紙面に書き起こすだけにとどめるのだ。もし仮に完成してきちんとした形に整えても、それを世に出す気はさらさら無い。秘伝として、我が血筋の者に代々伝えてゆく心算だ。
言ってしまえばこれは、私の心の膿を少しでも排出する、ただそのためだけの行為。自己満足以外の何物でもない。
逢之助が聞けば、顔を真っ赤にして私の惰弱さを責めるだろう。
源一郎が聞けば、お前らしいと苦笑しながら言うだろう。
済まぬな、だが今更別人にはなれんのだよ。お前達がそうであったようにな。
第四十九代羽倉家当主 羽倉文蔵