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[28013] 【習作】羽倉文書【東方 オリ主】
Name: 楽変化◆a6e0f359 ID:894f6c72
Date: 2011/05/27 13:23
序文

幻想郷がこのような姿となって久しい今日、人と妖怪の在り方も随分と変化した。
妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治する。
古来よりずっと受け継がれてきたこの単純かつ絶対の法理は、今や名目上だけの形骸化したものと成り果てた。

人間も、妖怪も、本気ではないのだ。

あらかじめ定められたルールに則り、安全かつ安易に決闘が繰り広げられている。昔のように夥しい血が流され、死んだり不具なったりする者も滅多にいない。
もっともこれは幻想郷の中の住民に限った話で、外来人は相も変わらず食い散らされ続けているが。

無論、このような今の幻想郷を批判するつもりなど、私には毛頭無い。
平和―――なのだろう、これこそが。見方によっては、今こそが人間にとっても妖怪にとっても理想的な最良の時代と言えるやもしれない。
人間の里に存在する妖怪退治屋の中でも特に抜きん出た実力と歴史を有する三家、通称「御三家」の一角を担う羽倉家の現当主たるこの私も、ほぼ同意見だ。
畑を耕し、家族を愛し、趣味に没頭し、時たま入る依頼をこなす。その内容も下級妖怪を相手にするのが大半なので、余程油断していない限りまず負けはしない。
変わりばえのしない、平穏な日々の繰り返し。私はそれでいい。ちっぽけな私の器は、それで十分満たされている。

が、御三家の残りニ家、中原家と藤川家はそうではなかった。

藤川の当主である逢之助(あいのすけ)は数百年前の人間が墓から甦ってきたかのような激烈な妖怪絶滅主義者であり、時代の流れを許さず、認めず、一族を率いて奔走した。
そして、中原の当主である源一郎は時勢を認め、己がもはや時代遅れの遺物であると知りながら、それでもなお逆境の中にその身をさらし、己が一分を貫き通さんと立ち続けた。

今となっては、真実彼らを理解しているのは、少なくとも人間の中には私しかおるまい。
源一郎には
「上手く時流に乗りおおせた利口者」
と言われ、逢之助には
「話にならぬ怯懦」
とのそしりを受けたこの私しか。

逢之助は私を嫌っていたようだが、私は彼等が好きだった。
だからこそ今横行している、殺戮嗜好所持者だとか、脳を膿んだ誇大妄想屋だとか、そうした単純に彼らを悪とする風評には我慢がならぬ。
されど、私には生活がある。家族がある。声を大にして否定の言葉を叫ぶのは、それらを崩壊せしめかねない危険な行為だ。とても出来たものではない。
仕方あるまい、繰り言になるが、私は小器量者なのだ。そうでなければここまで生き残れてはいまい。とうの昔に彼らと共に屍を晒していただろう。
故に、こうして文章にして紙面に書き起こすだけにとどめるのだ。もし仮に完成してきちんとした形に整えても、それを世に出す気はさらさら無い。秘伝として、我が血筋の者に代々伝えてゆく心算だ。
言ってしまえばこれは、私の心の膿を少しでも排出する、ただそのためだけの行為。自己満足以外の何物でもない。

逢之助が聞けば、顔を真っ赤にして私の惰弱さを責めるだろう。
源一郎が聞けば、お前らしいと苦笑しながら言うだろう。

済まぬな、だが今更別人にはなれんのだよ。お前達がそうであったようにな。

第四十九代羽倉家当主 羽倉文蔵



[28013] 第一話
Name: 楽変化◆a6e0f359 ID:894f6c72
Date: 2011/05/27 13:27
その男が妖怪退治屋の看板を掲げた時、近隣住民はそろって、
「いったい何故」
と首を傾げた。

退治屋は危険な職業である。なんと言っても人ならぬ妖怪変化の類を相手にせねばならないのだ。
自然、この職に就くものは、身内を殺されるなどして深い恨みを持っていたり、余程己の武や術に自信を持っている者に限られた。
しかしながら、男、中原甚左衛門(じんざえもん)はそのいずれの例にも当て嵌まらなかった。
両親は既に他界しているとは言え、死因は病魔。別段武芸に秀でているわけでもなく、術に至ってはそも字の読み書きさえ出来ない始末。
当然、甚左衛門の友人達はこぞって彼の暴挙を止めようとした。

「考え直せ、甚左。おぬし如きが妖怪退治など出来る筈がなかろう。首をもがれて蹴鞠に使われるのがおちぞ」
「阿呆、何故やる前から出来ぬと決め付けるのじゃ」
「阿呆はうぬよ、狂ったか、甚左。妖怪というものを、おぬしは甘く見すぎておる」
床を強かに叩きながら叫ぶのは、甚左衛門の幼馴染で六平太という青年である。彼が飛ばした唾を袖で拭いながら、甚左衛門は静かな声で反論する。
「甘く見てなどおらんわ。妖怪共の恐ろしさ、ようく分かっているとも。事によっては、俺などいとも簡単に殺されてしまうやもしれぬ」
「分かっているのなら―――」
「だが」
出頭を抑えるように、甚左衛門はぴしゃりと言った。
「それでも俺はやらねばならぬ。六平太、俺はな、悟ったんじゃよ。俺がこの世に生まれ落ちた意味というものをな」
(やはり狂っておる)
六平太は泣きたくなった。
一体この幼馴染になにがあったというのだろう、川原で転んで頭を打ちでもしたのだろうか。
「生まれ落ちた意味、だと?」
先程までとは打って変わって、慎重な口ぶりであった。
もし本当にきちがいを相手にしているとすれば、下手に刺激するのは危険であろう。
そんな六平太の態度の変化など意に介した気配もなく、甚左衛門は
「うむ」
と重々しく頷くと、
「妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。どうやら俺は、この摂理に殉ずる為に生まれたらしい」
瞳をぎらつかせながら、堂々とそんなことを言ってのけた。
「………」
訳が分からないのは六平太である。
彼は目の前の友人が何を言っているのか、それに対し自分はなんと答えればよいのか、そもこの男はこの前まで自分が親友だと思っていた男と本当に同一人物なのか、総てが分からなくなった。
そのまま幽鬼のような表情で甚左衛門の家を後にした六平太は、いつの間にやら己の家で、先月娶ったばかりの妻がつくった飯を食んでいる自分を発見した。
忘我とはこういうことを言うのであろう。
「あいつはもう、駄目やもしれぬ」
そんな言葉が勝手に口から零れ落ちた。

一週間もすれば、村の中で
「中原甚左衛門が発狂した」
という噂を知らないものはいなくなった。
そうなると、お調子者というやつはどこにでもいるもので、
「ひとつ、気狂いの妖怪退治を見物してやろう」
とたくらむ者達が現れた。
好都合と言うべきか、この村の近くには妖怪が住むと言われている洞穴がある。彼等は一芝居打ち、自分で自分達を浅く傷付け、
「助けてくれえ」
と叫びながら甚左衛門の下へ駆け込んだ。

彼等が説いたのは、
「家宝の珠をうっかり誤って洞穴の中に落としてしまった。取り戻そうと中へ入ったら、妖怪に襲われこのざまだ」
などという、誰が見ても作り話と見抜けるであろう陳腐な嘘。
もしこんなものに乗ってくる奴がいるとすれば、ものの道理が分からぬまでに錯乱している狂人か、名目などどうでもいいからとにかく妖怪と闘いたい、やはり狂人だけだろう。
それを見極めるという意味も込めて、敢えてこのような粗悪な芝居を打ってみたのだが、
(話が違うではないか)
彼等は早くも後悔していた。

噂によれば甚左衛門は脳を梅毒にでも犯されたかのような阿呆面を晒し、緩んだ口元からは涎と共にとんちんかんな妄言が飛び出し、妖怪退治の依頼が入るや否や、褌一丁で行き先も知らずに走り出す狂人だったはずである。
多少の誇張が為されているとは分かっていたが、大方そのようなものだと彼等は合点していた。
ところが現実はどうだ、甚左衛門は以前と全く変わらぬ巌のような面立ちで唇を真一文字に引き結び、相槌も打たずに冷たく彼等を見据えるのみ。
加えて、何かを決意した男に宿る尋常ならざる迫力が絶えず彼等を圧迫し、単なる木の床を針のむしろに変えていた。
これでは話が違うと思うのも無理はないだろう。藪をつついたら腕ほどの太さもある蛇が出てきたようなものだ。

「あい分かった。では、俺が請求する報酬だが」
一拍おいてから甚左衛門がふっかけてきた額に、一同仰天した。目玉が飛び出んばかりの、途方も無く法外な値だったのである。
(やはり、見抜かれておる)
そう思う他あるまい。
しかもどうやら甚左衛門はこの悪戯がひどく気に入らなかったようで、
「払えんのか。それでは仕事は出来んな、疾く失せよ」
と、突き放すように言った。反論などあろうはずもなく、彼等は一礼すると逃げるように足早に立ち去った。

「ありゃあ、やるかもしれねえな」
帰り道、手を頭の後ろで組んだ男が言う。
「おお、昔っから何考えてるのかわかんねえとこのある奴だったけんどよ」
「たったこれしきの間に、あんなにおっかなくなるたあな。なんつうんだろうな、鬼気迫るっつうのか」
「ひょっとしたら、ひょっとするかもしれねえぜ」
「賭けっか?」
「応ともよ!」
この現金さ、いかにもお調子者の集まりということだろう。この後、彼等によって村にはびこる風評は、
「甚左衛門は存外やりそうだ」
に塗り替えられていった。

それからしばらくして、遂に村の誰もが心の何処かで待ち望んでいた日がやって来た。甚左衛門の下に、妖怪退治の依頼が舞い込んだのである。
出現場所は、近くのちょっと大きな町とこの村とを結ぶ街道。様々な不幸が重なって夜分遅くにここを通ることを余儀なくされた依頼人は、いやな予感を抱えつつも歩いていた。

案の定、出た。

夜だったのではっきりとは見えなかったが、妖怪は一匹。全身毛むくじゃらで、鋭いかぎ爪が淡い月光を受けてぎらりと輝いていたという。
それが振り下ろされた瞬間、依頼人は錯乱した。
荷物を放り出し、手足をめちゃくちゃに動かし、気付いた時には村の入り口で膝をついていた。
なんとか命はとりとめたものの、大事な荷物は失い、左肩をざっくり斬られ、せっかくの着物も血で汚れてしまった。このままでは腹の虫がおさまらないし、なによりあんなものがいたのでは、安心して町にも帰れない。
「かくの如き次第で、ここの暖簾をくぐったのであります。どうか」
「承知仕った」
即答であった。
本来報酬の相談を先にするはずなのだが、この時の甚左衛門の頭からはそんなもの、どこかへ吹っ飛んでしまっていたらしい。
落ち着いたふりを装いつつも、内心この時を誰よりも心待ちにしていたというわけだ。

その夜、甚左衛門は腰帯に太刀をぶち込むと、一人目的の場所へと向かった。
その足どりは軽くもなく、かと言って鈍重なわけでもない、心に気負うものが全く無い、自然体そのものの歩調だったそうだ。

結局、夜の内に甚左衛門が帰ってくることはなかった。
彼を最初に発見したのは、早朝、村の入り口付近の畑で鍬をふるっていた男である。
「ひいっ―――」
甚左衛門の姿を視界に捉えた彼は、鶏が首を絞められたかの如き素っ頓狂な声をあげた。

一言で言うなら、なます斬り。これに尽きる。
全身を数十箇所に渡って斬り裂かれた甚左衛門は、噎せ返るほど濃厚な血の臭いを撒き散らしながらも一歩一歩大地を踏みしめるように歩き、その右手には人と鼠を混ぜ合わせたかのような醜悪な化け物の頭が握られていた。
甚左衛門は、依頼をやり遂げたのである。

この後彼は悲鳴を上げてすっ飛んで来た六平太に支えられ、自分の家に入った途端、ふっと気が抜けたのか意識を失った。
次に甚左衛門が意識を取り戻したのは、不幸にも医師が傷口を消毒しながら縫合している真っ最中であった。それでも一言たりとも悲鳴を上げぬ彼に驚いて、
「いったいどうなっとるんじゃ、おぬしは痛みを感じぬのか?」
と、医師が半ば本気で尋ねた。
「馬鹿を言え」
甚左衛門はぎょろりと眼球を動かし、医師を睨みすえる。
「感じているとも、これが痛くないわけなかろう。ただ俺は、これよりもっと辛い責め苦を知っておる。だから耐えられる。それだけのことよ」
それは何ぞ、と医師は興味津々で尋ねたが、甚左衛門は遂に黙して語らなかった。

傷口は塞いだとはいえ、いかんせんあまりにも血を流し過ぎていた甚左衛門。
その為ただでさえ意識が混濁気味だというのに、間も無く高熱が出て、本格的に生死の境を彷徨うはめに陥った。
「あの野郎、さては俺が死ぬのを待ってやがるな」
傷口は黄色い膿を吐き、そこから立ち上る悪臭が充満した部屋の中で、時折あらぬ事を口走るのを見舞いに来た六平太等が目撃している。
「なんだと? 誰が待っていると言うんじゃ、甚左」
「蜘蛛よ。おぬしの頭の倍ほどもある大蜘蛛が、あそこの梁の上に張り付いて、こちらの様子を窺っておるわ」
「えっ」
六平太はぎょっとしてせわしなく首を動かすも、どこにもそんな怪物は見当たらない。
「おらんではないか」
「そんなはずはない。察するに、あれはきっと幽冥界の住人であろう。故に健康体であるおぬしには見えんが、死後の世界に片足を突っ込んでいる俺の目には確と映っておる」
「よせ」
いよいよ気味が悪くなってきた六平太は、半ば叫ぶように言った。
(これは本当に、そう永くないやもしれぬ)
そうも思った。
これはなにも六平太に限らず、甚左衛門を見舞った全ての者が―――医師さえ含めて―――抱いた考えである。
むしろこれだけやられて生き延びられる方が不思議だ、と。

ところが、その不思議が起きてしまうのだから人の世とは面白い。
幾度となく彼岸を彷徨いはしたものの、甚左衛門の容態は次第に好転し、三ヶ月も経つ頃には日常生活程度ならば問題なく営めるまでに回復してのけたのだ。

「おぬし、何で生きておる?」
驚愕のあまり、ついそんな事を口走ってしまう者もいた。それに対する甚左衛門の返答は、いつも決まって
「運だ」
であった。実に単純極まりない。

「流石にこれで懲りたろう、甚左」
ある日、たまたま道端を歩いていた甚左衛門をつかまえた六平太は、だしぬけにそんなことを言った。
「……」
「まだ夢から覚めていないのならば、はっきり言ってやろう。おぬしに退治屋稼業は無理だ」
「何故かね」
「そんなざまを晒しておいて、何故も糞もあるまい」
六平太は苦虫を百匹まとめて噛み潰したかのような顔をした。
「いいか、以前おぬしが討ち取った妖怪の格は、精々下の中程度が関の山な手合いだったそうだ。そんな雑魚と言うべき相手に死にかけるほどの傷を負ったのだぞ。どう考えても、実力不足以外の何物でもなかろうが」
事実、その通りであった。
中原甚左衛門いう男は凡庸な、それこそ何一つとして突出した才能を持たぬ男なのである。畑仕事や日々の鍛錬によって練り上げた腕っ節はなかなかのものだが、所詮は人間の中ではの話。到底人外の怪物達に抗し得るほどではない。
「ふむ、反論の余地もないな」
その動かし難い絶対的な事実は、甚左衛門とて認めていた。
「だが、六平太。おぬしはどうも、何か勘違いをしておるようだな」
「勘違い?」
「然り。俺の実力の程と退治屋を営むこと、この二つにさしたる関連性はあるまい」
「はあ?」
(この男、また妙なことを言い出しおった)
六平太の眉間に刻まれた皺が一層深いものとなる。また頭が痛くなる会話を展開せねばならぬかもしれないが、やむをえまい。ここで自分が止めねば、この男は死ぬとさえ思っていた。

「滅茶苦茶なことを言うでない、口を開く前によく言葉を吟味しろ」
「なに、何処が滅茶苦茶だ」
「全部よ。おぬしの力量と退治屋稼業、この二つが無関係な筈があるか。切っても切れぬ堅固な縁で結ばれておるわ」
「錯覚だ」
「ではない」
「ならば根拠を述べてみよ」
そう言われて、六平太は一瞬答えに窮した。
「そ、それは―――そも、依頼が来ないだろう。誰がおぬしのような頼りない退治屋に依頼を持ち込むか」
「どうかな、分からぬぞ。目下、この辺りで退治屋を営んでいるのは俺一人だ。おまけに値段も安いときている。ならば本当に窮した時は、駄目で元々、藁をも掴む思いで俺の下に来るのではないか」
それに、傷のお陰でただでさえ迫力のあった外見がいよいよただならぬものとなり、何があろうと動じない態度と合わさって、対面する者はもうこれだけで呑まれてしまい、
(これは)
と思うであろう。
依頼に関して心配する必要は、実の所あまりないと甚左衛門は読んでいた。先に結果を述べてしまうと、後年この読みは見事に的中することとなる。

「それだけか?」
「否、まだあるわい。おぬしの言う通り、仮に依頼が来たとしよう。だがな、おぬしの実力がそれで変動する訳ではないのだぞ。分が悪すぎるのは変わらないのだ、今回は九死に一生を得たからいいものの、きっと次は無い。死んでしまうのだぞ、それでもいいのか、甚左」
「いいとも」
「馬鹿な!」
今度こそ六平太は絶叫した。
つい今がした自分で言ったくせに、吟味するも何もあったものではない叫びであった。
目の玉が飛び出んばかりに瞼を引ん剥いて、狂うたか、狂うたかと連呼する六平太。
彼にとって、仕事とはあくまで生きる為に必要な糧を得る為に行うものである。なるほど、そうした価値観からすれば、仕事によって命を落とそうが何ら構わないとする甚左衛門の思考回路は狂っているとしか言いようがないであろう。
「頭を冷やさんかい。俺は至って正常だよ」
「いいや、間違いなく血迷うておる」
白熱する六平太と冷静に言葉を重ねる甚左衛門。端から見れば六平太の方こそが狂乱しているように映るであろう。

「まあ、とりあえず聞け。六平太よ、おぬしは自分がこの世に産まれてきた意味を考えたことがあるか?」
(何を言いやがる)
僧侶に怪しげな説法でもくらったのか、と六平太は歯軋りする。
「その顔つきからすると、無いらしいな。なら丁度いい機会だ、教えてやろう。俺達はそれぞれ、なにかしらこの浮世で果たすべき役割を抱いて産まれて来たのだよ。それは一人一人によって異なるから、誰に教えてもらうこともできない。自分で気付く他無い」
そして、と言った甚左衛門の口調にはどこか熱っぽいものが含まれていた。この熱を、あるいは陶酔と呼ぶのかもしれない。
「己の使命がなんたるかに開眼し、それを全うすべく歩み出した瞬間からこそ、人は生の喜びを獲得できる。生きている喜びを実感できる」
「抜かすな。そんなものを見付けずとも、俺は十分幸せじゃわい」
「否だ。おぬしは自分でも知らぬうちに己の使命に目覚めていただけよ。羨ましいな、嫉妬すら覚える。そこをいくと俺などは不幸なもので、産まれ落ちてから二十余年、ずっと『仮』の生を送らなければならなかった」

空気は肺腑まで落ちていかない。
目に映る景色はどこかくすんで色褪せている。
腹の奥底に秘めた情念は発散すべき場所を得られず、ただ腐っていくだけ。
口を開けばその腐臭に鼻が曲がりそうになった。
(地獄だった)
甚左衛門は己の過去をそのように定義している。
あの苦しみに比べれば、肉体を苛むだけの痛みなど物の内ではない。
「最近になって俺はようやく気付けたのだ。俺が為すべき事とはすなわち、妖怪を退治するものとしてかの摂理に殉じる、これであると。この大義に向かって進んでいるのならば、例え道半ばで屍を晒すことになろうと満足だ。そも、生きるだの死ぬだのに一々拘っているようでは大事は為せまい」
「大事」
六平太は笑った。笑うしかなかった。
「大事と出たか、驕り高ぶりもここまで来れば滑稽じゃな。ぬしァ何時からそんな大層な男になった」
「理解できぬか、まあそれも致し方なし。俺の正しさは俺のみが知っていればよいだけの話よ。ふむ、だが、しかし」

いくら死ぬことは問題ではない、要は己の美徳を貫くことよと信じている甚左衛門でも、負けるのはやはり悔しかった。
いかなる大妖怪を相手にしようと、ものともせずに勝利してみせる―――そんな少年の夢を具現化したような存在に、なれるものならば誰だってなってみたいに決まっているではないか。
(が、俺では無理だ)
繰り返すが、甚左衛門は非才の身なのだ。彼では例え千年修行を積もうとも、到底そんなものには届かぬであろう。
こればっかりは諦めるしかない、と誰もが思うだろう。「通常」ならば。

「ああ―――そうだな、これはいい。俺で駄目ならば我が子に受け継がせよう。子で駄目ならば孫に、孫で駄目ならば曾孫に」
どうも甚左衛門の頭には、絶望とか諦観とかいった概念が決定的に欠けていたようである。
諦めないだの不屈だのと言えば聞こえがいいが、一歩間違えればそれらは容易く妄執に変ずる恐れがあるのを忘れてはなるまい。甚左衛門の眼は、既に六平太を見てなどいない。

「継がせて継がせて継がせて継がせて、研ぎ澄まし、磨き上げ、進化を絶やさず―――いつの日か、至高の頂に登り詰めるまで。完成品ができるまで」
ざりっ、と砂をこする音がする。
反射的に足元を見た六平太は、自分が無意識の内に一歩後ずさっていたことに気がついた。

「永劫、歩み続けようではないか」

この一連の言葉が、以後千と数百年に渡って続く中原一族の在り方を決定したと言っていい。

中原甚左衛門はこの後も妖怪退治屋を続け、計十回程度の依頼を引き受け、その全てを成功させている。
だが、その度に重症を負い、度々生死の境を彷徨ったが為に、世間からの評判はいまひとつのままであった。

結局彼は三十四歳の時、妖怪退治に失敗して返り討ちにあい、絶命している。
が、種はしっかりと蒔いておいていたようだ。妻の名は不明であるが、息子である中原丹右衛門(にえもん)が数年後、父の意思を受け継いで妖怪退治屋を再興させているのである。

全ては甚左衛門の言葉通りに。
中原の血を受け継ぐ者達は皆、遺伝子の領域でそうと刻み込まれているかのように、「初代」と全く同じ狂念を胸に抱いていた。

ある時。
いっそ呪いとでも呼ぶべきそれを明文化し、はっきり目に見える形として残した事で、その効力をより確固たるものとした男がいた。
第九代中原家当主、中原正利(まさとし)その人である。




<あとがき>
未完結作品ほっぽりだして何やってんだクズと言われてしまいそうですが、新作です。
相も変わらぬ亀更新となることが予想されますが、「月下美人」ほど長引かせずに終わらせる予定ですので、何卒しばしのお付き合いを願います。



[28013] 第二話
Name: 楽変化◆a6e0f359 ID:894f6c72
Date: 2011/05/30 10:48
「では、今更ではあるが我々中原の者達が代々受け継ぎ、厳守してきた信条・理念・その他諸々一切合切を書にしたためておきたいと思う。異存のある者は?」

元旦。
一年の始まりであるこの日ばかりは、数にゆとりが出てきた為各地に散らばっていた中原一族が一堂に集う。
それを利用して、一通りの儀礼を終えた後、中原正利というまだ齢若い当主はこのような提案を切り出した。

「別段反対する理由は見当たらないが」

腹の底にまでじいんと響く、重く低い声を発したのは中原熊五郎。
名は体を表すとはよく言ったもので、この男は熊と見紛わんばかりの巨躯を誇っていた。
五体そのものが既に凶器。その上得意とする樫の棍を手にした日には、生半可な妖怪の頭など卵のように叩き割ってしまうに違いない。

「かと言って、賛成する理由も見当たらん。何故わざわざそのような真似をせねばならぬ?」
「理由か。子細多しと言えども、最大のものはこれよ。中原冬秀」

その名が正利の口から放たれた瞬間を境に、場の空気が一変した。
熊五郎のように彼の発言をいぶかしんでいた者、面白そうだと微笑していた者、興味がないとばかりに眠そうな顔をしていた者、全員が今や全く同じ表情を呈していた。
即ち、息をするのも忘れたかのような、能面のようにのっぺりとした表情を。

「敢えて確認するまでもない、我が一族最大の恥部。あの男の一件が此度の最大の理由だ」



冬秀という男は、人よりも二倍も三倍も感情の起伏が激しいという、中原一族にしては非常に珍しい型式の男であった。
そのせいか、妖怪退治を依頼に来た者達がその動機を話すと、まるで我がことのように嘆き、悲しみ、滝のように涙を流して、遂には、

「許せぬ」

と、依頼人にとって大切な誰かを奪った妖怪に対し、烈火の如き激しさで怒り狂うことさえ度々あった。

「何故一族の者達は自ら進んで妖怪退治に赴こうとしないのだ。依頼されるのを待つのでは遅すぎる、先手を打ってこちらから妖怪を討っていけば、それだけで後に生まれる数多の悲劇を潰せるというのに」

こんなことを平然とのたまうあたり、かなりの命知らずだったようでもある。もし中原の誰かが聞いていれば、間違いなく即座に殺し合いに発展したであろう。
が、幸いにしてこの文句を聞いていたのは彼の兄、秋秀だけであった。

「そんなことを言ってはならないよ、冬秀。中原の根幹を成す理念に真っ向から喧嘩を売っていると取られてもおかしくない」
「兄上、しかし―――」
「後生だ、聞き分けてくれ。私はお前を斬りとうないし、お前に斬られるのもいやだ」
「そりゃ、俺とて」

心底敬愛する兄にここまで言われてしまっては、さしもの冬秀も為す術がない。
これほどの激情家がこれまで暴発せずに生きてこられたのも、ひとえにこの兄のお陰であったと言えよう。

ところが、その兄が死んだ。否、正確に言うと殺された。

初代当主・中原甚左衛門と同様、妖怪退治に失敗して逆に殺されてしまったのである。
兄弟の血の繋がりから理屈を越えて、誰よりもそのことを早く察知した冬秀は、たちまち顔面の毛穴という毛穴から血を噴かんばかりのすさまじい形相と化した。

「野郎、ぶち殺してやらあ」

怨嗟の叫びを上げると、彼は猛烈な勢いで駆け出した。

珍しい事ではない。
才能がある者も無い者も、ただ男でさえあれば皆が皆退治屋となる中原一族である。そんな彼らにとって家族の死は日常茶飯事だし、死んだ者がやり遂げられなかった仕事を誰かが引き継ぐのも、これまた当然のことであった。
だからこの時点までに於ける冬秀の行動にはなんの問題もありはしない。問題が発生したのは、標的であり秋秀を殺した妖獣を討ち取ってからだ。

この一匹をしとめただけでは冬秀の憤怒と憎悪は到底収まりきらず、死体を徹底的に切り刻んだ後、妖獣がその入り口に陣取り、決して通すまいと必死になって守ろうとしていた巣穴の中にまで踏み込んだ。
そこに居たのは妻らしき雌の妖獣と、まだ幼い子供達。

「私はどうなろうとかまいませぬ。どうか、どうかこの子達だけは」

と雌は必死に懇願したが、残念ながら冬秀には一切聞こえていなかった。いや、耳は正常に働いているのだが、脳の方にその音を言語として理解するだけのゆとりが無かったのだ。

「おおおおおおおおおォ―――ッ!」

かくして母の願いも虚しく、その巣の中にいた生物は獣のように吼え猛る冬秀により、挽肉状になるまで斬り潰されてしまった。
惨劇と言う他ない。

この事件の報は中原一族全員に、野火の如くあっという間に燃え広がった。

「あの若僧めが、なんたることをしてくれた」

彼等の反応は皆同じ、冬秀への激怒である。
とは言え、その理由は彼が行った情け容赦の欠片も伺えない苛烈な殺戮劇そのものではない。
真に許し難いのは、冬秀が感情に振り回されて度を失い、標的とされていた以外の妖獣までをも殺してしまったことである。

「妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する」。
これを絶対の法理として肯定するということは、即ち妖怪が人間を襲って食らうのをも肯定するということだ。
そうして食われた者の遺族なり友人なりが怨みや憎しみを晴らすべく、依頼を持ち込んでくることによって初めて中原は剣を抜く。憎悪に代表される感情は依頼人の段階で止めてしまって、中原の者達は透徹した殺意のみを胸に宿して粛々と使命を全うするのだ。摂理に殉ずるとは、こうでなくてはならない。
だから依頼された以外の妖怪を殺すなどもってのほか、ましてや妖怪と見るや問答無用で虐殺しにかかるなど、嫌悪のあまり吐き気すら催す行為である。
そんなものは摂理の後半、人間にとって都合のいい部分しか見ていない最も唾棄すべき愚か者共が唱える戯言にすぎない。
―――これが中原一族の共通認識であった。

ところが今回、あろうことか身内であるはずの冬秀が真っ向からそれに背いてしまったのである。その拒否反応は筆舌に尽くし難い。
嫌悪は殺意にまで昇華され、血の気の多い若者達は実際に殺害すべく彼の家を急襲した。その中に、熊五郎の姿もあった。

「来おったな、きちがい共め」

こうなることは薄々感づいていたのか、彼等が踏み込んだ時には既に冬秀も刀を抜いて待ち構えていた。

「たわけが、気狂いはうぬであろうが」
「いいや、貴様等に相違無い。違うと言うなら何故人を守ろうとせぬ。何故妖怪が人を食うのを黙認する」
「狭い、狭い。物事はもっと高い所から見んかい。ぬしァ世の一側面だけを切り取って、それが全てだと信じ込んでおる餓鬼じゃ」
「言うたなあ、人情を解さぬ人非人の分際で!」

叫ぶや否や、冬秀は猛然と斬り込んだ。
よもや数で勝る自分達が攻め込まれることはあるまい、とたかをくくっていた馬鹿が頭を割られて即死した。
その体が崩れ落ちるよりも前に、隣にいた男の手首が宙を舞う。
瞬く間に二人を倒した冬秀。だが、返す刀で熊五郎に打ち込んだ三撃目は、巨体の割りに存外素早い彼の動きによって避けられ、逆に棍の一撃をその胴に食らってしまった。

「うごお!」

ばきべきぼきと、飴細工のように楽々あばらが粉砕される。それでも上半身と下半身が千切れなかっただけ大したものだ。日々の鍛錬を真面目にしていた成果と言えよう。

棍が振り抜かれ、冬秀の体が宙を舞う。

(しめた)

血反吐を噴射しつつもんどりうって倒れた冬秀であったが、不幸中の幸いと言うべきか、飛ばされた場所がよかった。
近々改修せねばならぬ、と思っていた傷んだ壁を渾身の力で蹴り破り、逃走を開始する。

「臆したか、腰抜けぇっ」

雷鳴の如き、割れんばかりの大声を出したのは熊五郎である。
彼等も慌てて駆け出したが、普通ならば激痛で指一本ろくに動かせない筈の冬秀に、どうしたことか追いつけない。

(死ねぬ)

この時、冬秀の脳内ではある壮大な絵図が描かれようとしていた。理想、と言い換えてもよい。

(中原がやらぬと言うならば、俺がやるしかあるまい)

それは、つい今がした熊五郎たちに叫んだあの文句。
彼は人間を愛していた。別段深い理由は無い、同じ種の生物を愛するのは本能的に当然のことだろうとさえ思っていた。
だからこそ、妖怪達が許せない。日々を必死に生きている人間達を指差して滑稽だと笑い、努力している者を見れば無駄なことをと嘲り、時には面白半分に人を殺して食ってしまうあの連中を心底憎悪し、一匹残らず殺さねばならぬと固く信じていた。
そして、悪く言ってしまえば唯一の足枷であった兄が死に、更にはこのような仕打ちまで受けた以上、冬秀が猶も中原一族に留まり続ける理由は一切無い。
ならばこの際、いっそのこと出奔して新たな旗を立てるべきではないだろうか。

(その為にも、今は死ねぬ)

理想を叶えようとする熱意。それが冬秀の五体にかつて無いほど力を漲らせ、折れた骨が肺に突き刺さる激痛さえも麻痺させているものの正体だった。

とは言ったものの、こんな状態がいつまでも続くわけが無い。やがては酔いが醒めるように元の状態に戻るのは明らかだ。そうなってしまえば最後、未だ追いかけ続けている後ろの連中に捕まり、なす術なく殺されてしまうだろう。
それは冬秀とて重々承知している。だからこそ、この方角へ逃げているのだ。

「南無三―――!」

残った力を総動員し、冬秀は跳躍した。その体が落ちる先にあるのは、ごうごうとうなりを上げる長大な川。
どぼん、と一際大きな水柱が上がり、冬秀の体はさながら木の葉のように流れに呑まれていった。

「畜生めが、ここまで来て逃げられてたまるものかよ」

やや遅ればせながら、追っ手の一人が服を脱ぎ捨て褌一丁という格好になり、川へ飛び込んだ。必死に水をかき、前を行く冬秀へと追い縋る。

(打てる手は総て打ち切った。後は運を天にまかせるのみよ)

あれに追いつかれれば死、よしんば追いつかれなかったとしても結局は水死する運命やもしれぬ。
が、もし万一生き延びられたならば。見事この窮地を脱せられたならば。

(その時は、天が俺に生きよと、生きて事を為せと言っているのだ)

正しく一世一代の大博打と呼ぶに相応しい。
そう考えるとこの激情家はえも言われぬぞくぞくした快感が皮膚の上を這うのを感じ、自然と口元が緩み、その表情のまま意識を失った。



その後、冬秀がどうなったかを知る者はいない。後を追い、水中に飛び込んだ男もまた杳として行方知れずのままである。
ただ、現在より更に数年後、藤川冬秀と名乗る世に類稀な妖怪絶滅主義者が現れ、その腕前と弁舌を以って次々に傘下の者を増やし、後の藤川家の基礎をつくっている。
これを見るに、どうも冬秀は賭けに勝ったと考えるのが妥当であろう。

「奴の生死はともかく、中原一族からあんなものを出し、かつあれほどの年齢まで生き永らえさせてしまったのが最悪の汚点だと私は考える。断じて第二、第三の冬秀をつくってはならない」

が、「今」と言う檻の中にいる正利がそんな事を知る由も無い。ただ同じ失敗を繰り返す愚行は演じてはならぬと集まった者共に呼びかける。

「だからこその明文化、というわけですな」
「そうだ。今まで暗黙の了解しか無く、かつそれだけでも円滑に回ってしまっていたからこそ異物が生じた際に対処が遅れ、結果不十分に終わってしまったのではなかろうか。更に付け加えるなれば、この国は古来よりの『言霊の幸ふ国』ではないか。されば我等の胸の奥に秘めるのみであったこれらを取り出し、言の葉に乗せて形にすれば、より一層強固に、より一層崇高なものになるとは思わんかね」
「違いない」

小柄な老人が、しわくちゃな顔を子供のように無邪気にほころばせて賛成した。
されど騙されてはならない、中原の家に生れ落ちながらこれほどの高齢に達するまで生き永らえているということは、それだけでもう相当な実力者、歴戦の勇士に他ならないのだから。

「異議なし」
「私もだ」

それにつられたかのように、他の者共も次々に賛成の意を示す。

「よろしい、では全員一致で賛成と見てよいな。では早速内容の協議に移ろう。先ず第一に刻むべきは―――」



以後半日以上に渡ってあれやこれやと意見が飛び交い、あるものはそのまま採用され、あるものは若干改良を加えられ、またあるものは淘汰されなどして、遂にそれは完成をみた。
その内容は当主の決定方法やら報酬額の設定方法など、とにかく多岐に及んだが、特に見逃してはならないものを三つ選び、口語訳したのものが以下の三条である。

一・一度妖怪退治の依頼を受諾した以上、必ずや敵手を討ち果たし使命を全うせよ。どうしてもそれが叶わぬ事態に直面したら、一族郎党皆悉く死に果てるべし。
一・私的な理由で妖怪を殺傷することを禁ずる。ただし自衛に於いてのみこれを例外とする。
一・中原の血を薄めてはならない。他家の者とのまぐわいの一切を禁ずる。子は必ず一族内の相手となせ。

最初の一つは言うに及ばず、残る二つも破れば斬首。
最後の一つは、冬秀に流れる中原の血が比較的薄かったことから付け加えられた。

―――ひょっとすると、中原以外の血を入れてしまうと遠くは甚左衛門の代から受け継がれてきた中原の信条までもが濁り、終には消滅するのではないか?

その昔にありがちな血統への信仰。それが中原一族にも存在していたことを、この一文が如実に物語っている。

「出来たな」

正利は万感の吐息と共に、そう言葉を吐き出した。
こうして完成したものを眺めていると、それがなにやら内から光を放つ神々しいものにでも見えてくるのだろう。この時の彼の心境は、作品を完成させた芸術家のそれに近い。

第九代当主中原正利は、妖怪退治の実績よりもこの掟を制作した一事によって末永く讃えられることになる。
が、まさか自分たちが丹精込めてつくり上げたこの掟こそが、遥か遠くの千年後、最後の当主・中原源一郎をして破滅へ一直線に進ませることになろうとは、まさか夢にも思わなかったに違いない。




<あとがき>
このSSは、拙作「月下美人」における設定(茨木童子が女で、酒吞童子と夫婦だとか、長屋王が怨霊化しているとか)を受け継いでいます。
よって、「月下美人」で登場させたオリキャラ達を再登場させることもあるので、どうかご了承くださいませ。



[28013] 第三話
Name: 楽変化◆a6e0f359 ID:01134f83
Date: 2011/06/11 10:45
中原一族を語る上で、どうしても避けて通ることのできない大妖怪が一匹いる。

真実燃え盛っているかのような紅蓮の髪に、人外であることを如実に物語る両の側頭部より突き出た角。
金熊百香(かねくまももか)という赤鬼は、荒々しさと妖艶さが互いを損ね合うことなく絶妙なバランスで融合した類稀なる美貌の持ち主であった。
酒呑童子を頭に据え、栄えに栄えていた頃の大江山では星熊勇儀と並んで男達の人気を独占したという。
なお、茨木童子も美麗なことは美麗であったのだが、彼女の情念は悉く酒呑童子に注がれていたため他の男など木偶か案山子位にしか思っておらず、更に、

「我々ではとてもあの愛を受け止められそうにない」

という理由から特別扱いされ、番付からは除外されていた。
そこをいくと勇儀、百香の両名には決まった相手などおらず、また過去にいたとする話も聞いたことがない。
自然と、

―――あるいは、未通女か

といった噂が流れ、男衆の本能を大いに刺激した。これでは人気が集中するのも無理のない話であろう。



「ふむん」

ある晩の酒席にて、しこたま酔った鬼が酒の勢いを味方につけて百香に思いの丈をぶつけたことがあった。
誰も彼もが固唾を呑んで注目する中、百香はいかにも興味深げに告白者をしげしげと眺め、やがて言った。

「あい分かった、私に惚れたと、故に抱かせて欲しいと。何の飾り気も無い純粋で実直な君の思い、確かに受け取ったとも。ああ、いいぞ。これだけの衆目の面前でありながら一切の恥じらいを差し挟まぬ度胸といい、華やかさなど欠片も無い無骨な告白内容といい、実に私好みだ。故に体の一つや二つ、好きにさせてやりたい所なのだが、しかし」

ゆらり、と百香が腰を上げる。その体から立ち上るのは、あろうことか本物の戦意。
つい今の今まで遅れを取った己の不甲斐無さを呪いつつも、取ってしまった以上は仕方あるまいと割り切って、告白者へと応援の念を送っていた群集は訳も分からず混乱し、互いの顔を見つめ合うばかり。
最も哀れなのは告白した鬼である。この男は、混乱を通り越して真っ白になった。

(な、何ぞ? 何処だ、何処で間違えた?)

かろうじて浮かべられた思念は、そんなものに過ぎなかった。
途中までは確かに手ごたえを感じていたのだ。百香の反応も決して悪いものではなく、

(これは、あるいは)

と、人間の感覚で言うならば極楽浄土に舞い上がるかのような法悦の中にいたはずである。
が、たったの数秒で全ては反転し、今や無間地獄を目指して落下し続ける罪人の有様だ。
元々玉砕覚悟の挑戦ではあったとはいえ、それはあくまで「思い」がの話である。よもや肉体を千々に砕かれようとは夢想だにしていなかった。

「立てい」

鋭く飛来した百香の声に反応し、男の体が彼自身も驚いてしまうほどの速さで跳ね上がる。

「残念ながら、君はまだ私を抱くための最低にして絶対の条件を満たしていないのだ」
「そ、それは?」
「なあに、至極簡単な話。これから私は全身全霊を以って君を撃滅しにゆく。君はそんな私を返り討ちにし、押さえ付け、無理矢理組み敷き然る後に思いを遂げてしまえばよい。要は雄としての本領を発揮すればよいだけのことだ、簡単だろう?」

冗談ではない。
それは事実上の死刑宣告。この言葉を受けた鬼は、群集が

(おや、あやついつの間に青鬼になったんじゃ)

と錯覚してしまうほど急激に顔色が変動した。

(終わった)

神経が焼け爛れていくかの如き感覚を味わいながら、この鬼は全てを覚悟した。
遊びや油断といった、おおよそ付け入るべき隙と呼べる一切のものを殺した金熊百香と渡り合える者など、この鬼の山を見回してみても片手の指で数え切れるほどしかいまい。その折られる指の中に己が入っていないことは、当の彼自身が一番よく分かっていた。
向かっていけば確実に死が待ち構えている。ではどうする、この窮地を脱する効果的な手は無いものか。
例えば先の告白を撤回し、平身低頭して何度も何度も心をこめて謝ったとしよう。それで眼前の鬼神が情けにかられて許してくれたりするものだろうか。

(有り得ぬ)

むしろ豚でも見るかのような目で、たちどころに踏み潰されるのがおちであろう。仮に彼が百香の立場であったとしてもそうするに違いないから、これは確信を持って言い切れる。そんな軟弱者は鬼に非ず。
背中を向けて一目散に逃亡する、というのも同様に論外。
到底逃げ切れるとは思えないし、よしんば奇跡が起こって逃げ切れたとしても一生臆病者のそしりを受けるはめに陥るのは目に見えている。そんな鬼にとっては死ぬよりも辛い恥辱を味わいながら生き永らえて、一体何になるというのか。

(やはり、詰んでおる)

鬼はすっかり観念し、半ば自棄のようになっていた。が、

「おやおや、どうしたのかね、そんな世界の破滅を告げられたかのような顔をして。小動物がやるのならばまだ絵にもなろうが、君の如き無頼漢かやっても滑稽にしかならず、失笑を買うだけだぞ。君はこれから何をする? 闘争に臨むのだろうがよ、ならばもっとそれらしい顔をしたまえ。それともなにか、臆病風に吹かれたあまり心が萎縮して、表情を取り繕う余裕すらなくしてしまったのではあるまいな。だとすれば詰まらぬ事この上無い、なんとも醒めさせる男よのう」
「―――っ!」

あんまりといえばあんまりな百香の嘲弄が、鬼の自尊心を深くえぐった。
血という血が一滴残らず逆流し、顔色は再び真紅のそれへと戻る。

「まさか。ええ、いいでしょうとも、委細承知仕った」

台詞だけを見るのならば丁寧だが、その声色は実に荒々しいものであった。
一息に上着を引き千切り、襤褸切れと化したそれを放り投げる。

(あやつ、死ぬ気か)

そう、正にその通り。
だがただで死ぬ気は毛頭無い。例え敵わぬにしても、せめてこの居丈高で生意気な女に一矢報いて華々しく死んでやろうと男は決意したのである。
最早彼の体の何処を探しても恐怖などは見付かるまい。代わりに百香へ対する憤怒が次から次へと湧いてきて、ともすれば皮膚をぶち破って爆裂してしまいそうですらある。

(冗談ではない。何が悲しゅうて男の俺がこうまで侮辱され、脅かされねばならんのだ。如何に絶大な力を有するとは言え、所詮あやつは女ではないか)

見下されると、特にその目線が女性からのものであった場合、「なにくそ」と猛烈な反骨精神を抱くのは人でも妖でも変わらぬものらしい。雄である以上当然備わっている本能、とでも考えるべきか。

(お望み通り、無理矢理組み敷いて存分に陵辱し尽くしてやらあ)

鬼の牙が噛み締められ、ぎりぎりと耳障りな不協和音をかき鳴らす。
今や彼の顔は全く鬼相としか言いようの無い有り様で、それを見た百香は実に満足気に、これ以上ないほど蟲惑的な笑みを浮かべ、彼を呼んだ。

「よし、来やれ」
「応よォーッ!」

烈昂の気合を以って誘いに答え、鬼は引き絞られた矢の如く最短距離を一直線に突貫した。

この挑戦の顛末は、敢えて詳しく語るまい。ただ当然の事が当然に起こり、推移し、そして終わった。それだけである。
世の中気合で何でも解決出来たら誰も苦労はしない。そんなものではどうにもならない壁も、確かに存在するのだ。
ただ、ほんの僅かな幸運は舞い降りた。回復に数年の時を要しはしたものの、男はかろうじて一命をとりとめたのである。
永い昏睡状態から覚醒し、敗北という現実を認識した男はがっくりとうなだれ、たいそう気落ちしたそうだが、仲間の鬼達は誰一人としてそんな彼を嘲笑(わら)わなかった。
どころか、あの百香に臆せず果敢に立ち向かった勇気を賞賛さえしたそうな。

さて、これがもし人間社会に於ける出来事だったならば以後一切百香に言い寄ろうとする者は現れぬであろう。
ところが鬼の社会に於いては全くの逆で、むしろ彼女に夜這いをかける男が続々現れたというのだから面白い。
どうも単なる情欲だけが動機となっているのではなく、ある種の度胸試しといった側面も備えていたようである。当の百香も迷惑がることなく、

「なんとも愛すべき馬鹿共ではないか。たまらんなあ、おい」

と、むしろこの風潮を喜んで受け入れていた様子であった。もっとも、だからと言って彼女が手心なんぞを加える筈も無く、結局誰一人として体を許させてはもらえなかったのだが。



記録を俯瞰して見るに、百香の寝室から帰還出来る確率はおおよそ五割と以外に高い。さしずめ外したら死ぬ丁半博打といった所か。

「なあ百香、ちょっと節操に欠けてやせんか」

が、中にはこうした風潮を快く思わない者も当然存在する。
星熊勇儀はその筆頭たる存在で、彼女は百香と差しで呑んでいる時にこうして遠慮なく苦言を呈したりもした。

「やっぱり、あの、なんと言うか、そういう行為はちゃんと思いを通じ合わせた者同士でするべきだよ。ましてや初めてともなればなおのことだ」

至極もっともな、女性の鏡と言ってしまっても差し支えの無いであろう発言である。そこをいくと百香などは強姦されたがっている痴女の如くで、とても比べものにならない。

「くく、くくくくくく………」
「な、何さ」

明らかに何かよからぬことを考えています、と言わんばかりの忍び笑いに思わず勇儀は身を固くする。

「いやいや、君は本当に可愛らしいとね。なんとも純情なことだ、余りの眩しさに目を焼かれてしまいそうだよ。困ったなあ、余りに可愛らし過ぎるものだから思わず滅茶苦茶にしてやりたくなってくる」
「………」
「おいおい、ちょっとした冗談ではないか。そう本気になって警戒してくれるなよ」
「とてもそうは聞こえなかったけどねえ」

冗談として片付けるには先程の目はあまりに剣呑過ぎた。

「耳が悪くなったのではないか。つんぼになっては事だぞ、こまめに耳を掃除するよう勧める。なんなら私がしてやってもいいが」

そう言って百香はぽん、ぽんと太腿のあたりを叩く。
そこは程よく引き締まった、世の男にしてみれば垂涎の楽土に他ならない。そんな桃源郷へ招待するという誘いを、勇儀は首を左右に振ることであっさり拒否してのけた。

「むう、つれない奴め。幼少の時分はお互いによくやったではないか」
「何百年前の話をしてるんだい。せめてあの頃と同じくらい清らかな心になってから出直しな」
「おっと、これは異な事を。こう見えて定期的に世俗の塵芥を洗い落とすよう努めているのでね、私の心は当時となんら変わらぬ、限りなく透き通った水晶の如し―――だよ」
「嘘をつけ」

一体誰がそんな戯言を信じるというのか。
じろりと百香をねめつけながら、勇儀は言った。

「あんたは以前にも増してますます話が長ったらしく、かつまだるっこしくなったし、なによりふしだらになったよ」
「前者は穢れたのではなく成長、進化の領域に位置すると思うのだがな。後者にしたって、別段三百六十五日四六時中常に股ぐらを濡らして着物をおっぴろげ、男を誘っている訳ではないのだ。そこまで言われる筋合いは無いと思うぞ」
「同じようなもんだろう、私を抱きたければ四の五の言わずに無理矢理押し倒してしまえ―――なんてさ」

勢いよく突き付けられた勇儀の言葉に、百香はふむ、と相槌を打って一度酒で唇を濡らす。
勇儀が朱塗りの杯を使用しているのに対し、百香の手にあるのは粗末な木製の一升枡であった。

「言い訳染みた事を言うのは趣味ではないのだがね。ひとつ聞かせてもらいたいんだが、勇儀、君は自分よりも力が劣り、かつその境遇に甘んじている男に恋慕の情を抱けるのか?」
「あん?」
「大事なことだ、想像力を働かせて一寸考えてみておくれ」

そう言われれば、勇儀の人(?)柄からして無下に断るなんて事が出来よう筈もない。目を閉じ、腕を組んで彼女はじっと思索に耽る。

「……。……。……う」
「どうかな、その顔色から察するに、無理だったろう?」
「んん、確かに一寸嫌かな」

せめて高みへ登りつめんとする気概くらいは見せてくれないと、という勇儀の言葉に百香もうんうんと頷き、同意を示す。

「で、あろう? 我々が鬼だからなのか、そんな事は知らないが、私も同意見だ。いや、むしろそうした思いは君より数段強いのかも知れぬ。なにせ私ときたら気概だけでは飽き足りんのだからな。難儀な話だが、やはり私よりも強い男でなくては、到底慕情を抱けそうにない。ああ、無用と思うが万が一にも誤解をまねかぬように言っておくと、『守って貰いたい』などという笑止な願いが源泉となっている訳では断じてないぞ」
「本当に無用だね。あんたがそんな可愛らしいタマか」
「ふふ、理解があるようで何よりだ」

―――とは言え、まあ、私を打ち倒そうと闘争心を剥き出しにした男達の表情には惹きつけられざるを得んがね。

付け加えられた百香の言葉を聞き、勇儀は何故彼女が一々男性諸氏を嬲るが如き発言をするのか分かったような気がした。

「なるほど、それを見たいがためか」
「大方それで正解だ。だからこそ態々ああやって、高慢で図に乗った風な女を演出しているのだ。全く連中ときたら本当にいい男達ばかりでな、少しでも自尊心を傷付けられればたちまち溶岩の如き怒りをまとって突撃して来る。そんな彼等にこうまで思われる私は幸せ者だよ、本当に」
「しかしそうなると、狭き門だなあ。世の男の九割九分九厘は通れまい」
「うむ。今の所、通れるのは御大将くらいのものか」
「わあ、馬鹿っ」

慌てて百香の口を塞ごうとする勇儀。

「奥方様に殺されるぞ」

と、言うのである。



実は少し前に、こんなことがあった。百香に関する噂を聞きつけた酒呑童子が、

「ほほう、そいつはいかんなあ」

と、いかにも好色そうな笑みをたたえて腰を上げたのである。

「いかんいかん、どっからどう見ても男というものをなめていやがる。百香程の実力者ともなればそれも致し方無いのやもしれぬが、こうも大っぴらに広言されては、なあ。ようし、見ておれ。ここは一つこの俺がお前達に代わり、あの女を調教してくれよう」

流石は鬼の頭領、なんとも頼もしい言葉ではないか。
己こそが百香を、と狂わんばかりに思い焦がれていた鬼達も、

(御大将なら仕方ない)

として、やんややんやと囃し立てて酒呑童子を送り出そうとした。
が、その矢先。

「げっ」

じゃらり、と酒呑童子の巨躯に蛇の如く巻きついた鎖が不穏極まりない音を立てる。
取り巻きはおろか、酒呑童子本人でさえ一体いつこの鎖がこうまで彼の体に絡みついたのか分からなかった。
まるで虚空からなんの脈絡も無しに湧いて出たかのような不可思議極まりないこの現象を、しかし誰がどうやって起こしたのか知らぬ者は誰一人としてこの場にいない。

「聞いてやがったのか、待て、いばら―――」

最後まで言い切る猶予も与えられず、ぴんと鎖が引っ張られ、酒呑童子の肉体はその場から消失した。



この一件以後、「奥方様は地獄耳である」というのが新たな常識として鬼達の間にすっかり浸透している。であるが以上、百香がそれを知らぬはずがないのだが。

「ふむ、確かにそれはちと困るな。奥方様を弑し奉れば御大将を手に入れられると言うならまだしも」
「おいお前、ひょっとしてわざとやってないか?」
「生憎と、かような真似をしてよしんば成功したとしても、憎しみを買うだけだろうよ。故にやらぬ、やりたくない。愛であろうと憎悪であろうと、その者の心を独占出来るのならば構わないと思える程に私は達観してはいないのだ」

こうして君と杯を酌み交わす日々を気に入ってもいるしな、と、ぱちんとこれ見よがしに片目を瞑ってみせたりする百香。勇儀は深々と溜め息をついて、杯に残っていた酒を一息に飲み干してしまった。

「御大将と奥方様ほど似合いの夫婦はあるまいよ、比翼連理とはあの御二方の為にある言葉だ。そこに間男や女狐の入り込む隙は砂粒一つ分たりとて無い。私の理想とする男女関係とは少々趣を異にするが、だからと言って文句を付ける気など皆目ないよ。美しいものを素直に美しいと認められぬほど、偏狭な輩になったつもりはないのでな」
「ああ、そうかい」

多少辟易したような風情で勇儀はぞんざいな答えを返す。それに苦笑で応えつつも、内心百香は滝のように冷や汗を流していた。

(危なかった。やはり旧知の仲とは油断がならぬな、ふとした拍子にこぼしてはならぬものがこぼれ落ちてしまう。もし先の失言を突かれていたらどうなっていたことか)

失言とは、即ち「私の理想とする男女関係云々」の下りを指している。もしも勇儀が

―――じゃあ、あんたの理想とする男女関係ってどんなさ

と聞いてきたならば、百香はそれこそ絶対絶命の窮地に追い込まれていただろう。
実のところ、百香には旧友たる勇儀にすら語っていない秘密がある。と言うよりも、語れないのだ、あまりにも醜物に過ぎて。

(薄情と思ってくれるなよ、仕方が無いのだ。今に至るまで営々築き上げて来た勝利を根本から崩壊させてしまいたいなどと、叩きのめされ、屈服させられ、矜持も尊厳も何もかもを剥奪されてどこどこまでも堕ちてゆき、唯一匹の雌として完璧に支配されてしまいたいなどと―――言えるわけがないだろう)

現代に生きる我々は被虐嗜好という性癖が存在することをしっかり理解しているから、百香の正体が如何なるものかもしかと見抜くことが出来る。
つまりは真性のマゾヒスト。肉体的苦痛であろうと精神的苦痛であろうとお構いなしに性的興奮を覚えられる筋金入りだ。

(ふむ、だが仮に暴露したとしたら、こやつは私をどんな眼で見るのだろうな。事によっては―――例えば蔑みと嫌悪に満ち溢れた視線だったならば―――それはそれで、いささか興奮せずにはいられない)

あまりに極まり過ぎていて、生半可なサディストでは持て余すこと確実である。
が、当時の百香がそんな知識を有している筈も無い。

(まったく、何なのだろうな、私は)

百香の渇望はある意味で鬼の在り方とは正反対と言える。
鬼とはつまり恐怖の権現。絶対的な暴力を以って他者を蹂躙し、思うがままに行動する制御不能な災厄の一種だ。
当然百香とてそこは理解しているし、鬼とはかくあるべきだという信仰に近い理念を抱いてもいる。
が、どうしたわけかそれとは対極的な渇望までをも備えているというのだから当の百香本人にも己の心がさっぱり理解できない。この板ばさみに、彼女は大いに苦悩した。

(敗北など、屈辱的なだけのはずなのだがな。いざそれを想像してみると、どうしてこれほどまでに血が煮え滾るのだろう。胸が躍り狂うのだろう)

一寸考えてみるに、百香のこれは自殺願望に近いものもあるやもしれない。
誰だって高所に登れば飛び降りてみたくなる。列車が迫れば線路に身をおどらせてしまいたくなる。剃刀を見れば手首を裂いてみたくもなるし、短刀を握れば腹を切ってみたくもなろう。
どれもこれもその先に待ち受けているのは「死」という明らかな破滅。それは重々承知しているのだが、それでもなおどうしたわけかやってみたいという思いを禁じ得ない。
否、むしろ死ぬからこそ余計にやってみたくなるのか。
少々理解し難いのであれば、完成間近のパズルをバラバラに叩き壊してみたいとか、水中に電子機械類を投げ込んでみたいとか、そんなものでもよろしい。これだって程度は下がるが、破滅という禁忌を犯してみたいからこそ起きる欲求であろう。
こうして見ると、破滅への衝動とはある一定以上の知性を有する生命に宿命付けられた機能と思えてはこないだろうか。いわんや百香ほどの強大な生命ならば、である。

とはいえ、当の百香からしてみればたまったものではない。
この醜悪極まりない渇望を抹殺せんと、彼女は膨大な年月を孤軍奮闘し続けてきた。

(が、いくらやっても一向に勝てる気がせぬ)

それどころか相手は年々肥大し、より一層けがらわしくなっていく始末。

(やめた。これはもう、どうしようもないよ)

と、百香が白旗をあげて降伏の意を示したのも仕方の無いことであろう。人間とて、持って生まれたサガには逆らえないと言うではないか。

付け加えておくと、先に語った百香の男性の趣味等も、たどっていけば全てこの秘めたる渇望に端を発しているのが見てとれる。
己よりも強い男にしか慕情を抱けない―――それはそうだろう、この女が求める愛とは相手をいたわり、慈しむようなそれではなく、互いが互いの肉を貪り喰らい合うかの如き凄惨なものなのだから。
しかも最終的には食い尽くされてしまいたいと言うのだから、当然相手の男は百香よりも強くなくてはなるまい。

高慢で図に乗った風な女を演出するのもまた同様。
そうして男性諸氏を煽れば煽るほど、彼等は百香への気遣いとか情けといったものを失い、徹底的に犯し抜くことしか考えなくなるだろう。
その事がはっきり窺える表情を目にする度に、彼等が思い浮かべている情景が百香の脳裏にも鮮やかな色彩を以って描かれ、体の芯がどうしようもなく熱くなるのだ。それはもう、叫びを上げて身悶えしたくなるほどに。

常識、道徳、信念。
そうしたものである程度は湧き出す情念を押さえ込むことも出来ようが、結局の所は後手に回ってしまっている。
要するに、心が何事かを思う。これ自体はどうやったって止める術は無いのだ。

(だが、もし出来る者が―――心を完全に支配下における者がいるとすれば、そやつはきっと何事かを超越した存在なのだろう)

愛用の一升枡になみなみと注がれた酒。百香はその水面に浮かぶ己の顔を一瞬見詰め、ぐいっと呑み干した。



<あとがき>
「月下美人」を執筆中に設定だけは作ったものの、ついに登場させる機会を与えてやれなかったのが今回出てきた金熊百香という女性です。
元ネタは言うまでもなく金熊童子。
「きんくま」なのか「かねくま」なのかで迷いましたが、結局は後者を選択致しました。


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