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[28202] 【ネタ】マーナヴァ・ホットドッグ
Name: varnodaya◆bec70452 ID:22ac90af
Date: 2011/06/05 22:17
・ホットドッグマンが女の子にホットドッグを食べさせるお話です。
・中二注意。
・おだてられた豚は木から落ちて死ぬので、過度な期待は禁物です。


~~~~
 
とある地方都市の夜。住宅街といっても、過疎が進んでいるせいか、周囲には誰もいない。世界から切り離されたような不気味さを与えている。
そのなかを一人の少女が顔をぐしゃぐしゃにしながら「それ」から逃げていた。
一目見ただけでその異形の存在感に圧倒された。そして、それの邪悪を本能的に悟った。
体躯自体はさして成人男性と変わりはない。
少し痩せ気味であり、おおむね身長も平均程度。
体躯自体は、である。
異様さの正体は体躯の上にある「ソレ」だ。

 
逃げながら少女は心の底では絶望していた。その行動が無駄であることを知っていた。
今まで見た怪物のなかでも、とびきりの怪物。テレビのなかでも、空想のなかでも、これほどの圧倒的な存在感を放つ怪物を目の当たりにしたことはなかった。
あんな化物と相対することなんてできるわけがない。――などと乱れ切った息のなかで頭は空回っていた。
息が切れてきた。足の疲労はさっきから限界に近い。もう駄目だと思った。足を止め、呼吸を整えようとする。
最後の勇気のひと欠片を振り絞って、キッと「ソレ」を睨みつける。
それは彼女の全力疾走にも関わらず、すぐ後ろに電灯の光を浴びて仁王立ちしている。


首から上がホットドックの怪物がそこにいた。見間違えは無い。
人の全身程はありそうな巨大なホットドックが横になって、首があるべきところについている。
それが生物であることを伺わせるのは、僅かにパンの部位の脇に、申し訳程度についている「目」のみ。それはあたかも何らかの魚類を思わせた。
何もかもが作り物を思わせる形態のなか、そのギョロリと飛び出ている目だけがやけに生々しく、小刻みに振動しながら中心をこちらに向けている。これがただのオブジェでないことを示していた。
こいつは危険だと、五感が告げる。
圧倒的な恐怖が全身を支配する。私の家業は妖怪退治――妖怪のできそこないの退治ならば、何度もやってきたのだ。腹をくくる。目線を外さないで、睨みつけた。
朗誦の手順を頭の中で再現する。
もしも勝てるのだとしたら――いや、逃亡ができればそれで全く構わない。お互いの手の内を知らないであろう、その一瞬のみ。持っている手札の中から一番のモノをブチ込み、その隙に逃亡するしか無い。


「僕は――」
ホットドックの怪物が話しかけてきた。理性の存在、それはかえって厄介だ。息を飲む。
「ちょっと、どうして逃げるのです。私はあなたに危害を加えるつもりはないのです」
 バケモノは両手を上げて、攻撃の意志が無いことを示そうとしている。警戒を解くつもりはない。一歩距離をとる。

「ただ、あなたのお腹が空いているようだったので、僕のホットドックを食べなさい、と声を掛けようとしたら……」
どこから声が出ているのか。口と思しき箇所は無い。念話か、魔術の類か――
奴は一歩踏み込んでくる。わずか一歩だけで、気温が一度に下がったような圧迫感を受ける。
やはりただものではない。口がカラカラになっていくのを感じる。全身の血管が収縮してゆく。血液の循環する感覚、心臓の鼓動の音が耳にまで伝わってくる。少しでも気を抜いてしまったら、一歩も歩けなくなる――圧倒的な緊張が、全身を支配した。

「さあ」
 更に敵は一歩距離を詰める。
「僕のホットドックをお食べ――」
ああ、こんな奴に攻撃なんてできるわけがないじゃないか。自分の精神に残ったものは、もはや純粋な恐怖だけだった――その時、心はぽっきりと折れた。
猛獣を、自分の力の範囲を完全に凌駕する存在に、人間はどうして立ち向かうことができようか。
最早、そのホットドッグの怪物は、全き、「死そのもの」の具現、恐怖そのものだった。そんな人間の理知の埒外にある「モノ」に対して、人間は哀れにも命を乞うしか無かった。
「い、嫌ぁ……助けて……お願い……」
更に一歩近づいてくるだけの化物を目の前に、自然と体が崩れ落ちる。
せめて、楽に死にたいと、そう願った。



取り乱した私を目にして、化物は大慌てで頭を下げ、早口で何やら弁解を始めた。
私よりも遥かに激しく動揺したそいつを見て、ひょっとすると、私の壮絶な勘違いなのではないかと、やっとそのときになって気が付いた。
とある魔女から、人間の技術を使い魔に学習させたいとの依頼があったらしく、祖父がお前ちょっと行って来てくれ、と、夜の公園で待ち合わせていたら、怪物が現われた。

「見た目は人間みたいなモノ」というように聞いていたが、全然ちがうじゃん。
その使い魔とは、実はこいつでした、というオチでした。
使い魔、魔女から魔力を供給されることによって生存する、魔女の手足――何とも奇怪な趣味をした魔女だ。

最悪の第一印象。
もちろん、お互いに、である。こちらは人間代表としての権威と威厳を早々に失い、向こうは早々に印象を悪くした。
今は少なくともこいつに権威を見せないといけない。髪の毛をつまんで、くるくるとまわしながら考えた。
もっとも、そんなもの、最早残っているかどうかも分からないのだが……

ホットドックの男と最初に遭遇した公園まで戻る。気まずい。
あいつも、私も口をきかない。そもそも、こんな奴と共通の話題なんて何が考えられるのだろうか?
あそこのケーキ屋さんが美味しくてねー、とか、あの芸人はつまんないよねー、とか……。
ムズムズする。そんなキャッキャした話題は人間同士ですら難しい私が、異形の化物相手に何を話せと?
というか、食べモノの話題なんてあいつに意味があるのだろうか。というか口はどこだ。
どこかの本で読んだ記憶をたどる。
会話のはじめに警戒を解くのは、どうでもいい話題。どうでもいいから、互いの立場が対等になる、そんな話題だ。
鞄を左肩にかけると、右手で中身を取り出しやすくなるから、そうした方がいいよ、とか、そんなことを言っていた小説の登場人物がいた気がした。
そこだけがやけに印象に残っていて、その他の場面は特に記憶が無い。
横を歩いているそのホットドックの異形に目を向ける。何かいい話題はない?――あ、そうだ。

「あんたさあ……」

「はい、何でしょう?」

奴が待っていましたと言わんばかりに勢いよく振り向く。

「あんた、さっきから喋ってるけど、口、どこにあるの?」

「ああ、口ですか――」

 そう、答えると、また前を向く。
 …
 ……
 ………
 奴は再び黙りこくった。
そもそも何も聞いていなかったかのように、沈黙に戻る。
こいつは一体何だ? 会話を成立させる気があるのか?
無いんだな、そういう人(?)種なんだな、と混乱するやらムカムカするやらする頭を整理する。
こいつに関する情報が増えたと思って納得することにした。

「僕は――」

「人間ではないので――」

「え? 見ればわかるわよ。そんなこと」

「あ、ホットドックでも食べますか?」

「唐突に話題を変えるなというかお前のセリフはそれだけなのか」

「お腹が空いているようでしたので」

確かに小腹がすいていないこともないのだが、こいつから何かを貰うということに対する抵抗の方がはるかに大きい。
というか、こいつはホットドックの妖怪のようだし、私に食べろというのは共食いを勧めるようなものなのではないだろうか。
――まあ、食べるのは私なので「共」食いではないのだけれども。

「あんたはホットドックの妖怪なの?」

「似たようなものだと考えていただければ」

「ホットドックを無限に生みだせるとか、そういうヘンな性能でもついてるのかしら?」 

「似たようなものだと考えていただければ」

……話が続かない。
ツッコミどころは山のようにあるのだが、いかんせんこいつの回答が簡潔に過ぎる。
こいつは人と話をすることがあまり得意ではないのだろうか。
そんなことを考えているうちに、あいつが最初に現れた、つまり、私の逃亡の起点である公園まで戻ってきた。
ここで、私は今日からやってくるという見学者を待っていたのだ。
祖父曰く、一目見れば分かるから、とのことで、どのような奴が来るのか見当もつかなかった。
さすがにこの事態は祖父を責めてもいいと思う。妖怪退治の見学者が妖怪だとは誰も思わないだろうから。



**ホットドッグマン**



「改めまして。私は春日りりす。D高校2年、これからあなたの先輩として、妖怪退治の基礎を叩きこむから、よろしくね」

他に人っ子一人いない公園の電灯の元、彼女は僕に自己紹介をした。
黒髪のショートで、ぱきぱきとして利発そうな印象を受ける。
しかし、彼女は少々落ち着きに欠けるようでもある。僕を見るなりいきなり逃げ出すのはちょっとショックだった。
待合場所は彼女の祖父と、僕の主人との間で連絡が取れていたはずだと聞いていたのだが。
やはり、アレだろうか。服装がラフ過ぎたのだろう。
もっといかにも「魔女の使い魔」然としたゴテゴテしい格好で登場するべきだったのだ。
夜中の公園で、普通の格好の人の若い男が少女に声を掛ける。
そうだな、確かに彼女の貞操観念などを考慮に入れるべきだった。そこは年上である僕の落ち度であろう。

僕が魔女、シャシャカさまの使い魔になってから一年弱といったところだろうか。
いきなり、人間界に行って妖怪退治の手伝いをしてこいと命令され、僅か数日の間で全てを準備し、再びここに舞い戻ることになった。
もう二度と戻ることはないだろうと思っていたのだが。
彼女の祖父と我が主とは旧知の仲らしく、最早現役を退いた彼の代わりに、その孫娘である彼女に僕のディレクターとしての白羽の矢が立ったという訳である。


「あー、聞いてると思うけど、妖怪退治と普通にいうほど、大変なことはありません。二週に一回くらいのペースで思念の溜まりやすいところを見て回る程度で、何も問題なかったりします」


彼女は髪の毛をクルクルと人指し指に巻きつけながら、あまり目を合わせないで話した。
ちらちらと目が合う度に、すぐに目線を逸らされる。ちょっとショックだ。
この風貌は、やはり他人に恐怖を与えないではいられないらしい。

「思っていたより、大変そうではないのですね」

 何とかして打ち解けなければいけないと思い、こちらから会話を振ってみる。

「ええ。切った張ったのヤバイやつなんてそもそも起こりえないのよ。妖怪っていうのは、まあ、大体死んだ人間の感情の残りカスだと考えてもらって構わないけれど、死んだ人間の感情が生きた人間に干渉できることなんてそもそも無いんだから」

「たまに強大な妖怪が出てくるとは聞きますが」

「まあ、ほんのたまに、ね。私達みたいな掃除屋が怠け続けていると、出てくることはあるかも知れないけれど、そうなったら私なんかじゃ手に負えない」

「では、どうするのですか?」

 春日さんはこっちを見据えて言った。これが一番大切なことだというように。あるいは、それが当然であるというように。

「逃げる。少数では絶対に立ち向かわない。助けを呼ぶ」

その言葉には力があった。いつもは単純作業で、基本的に安全であったとしても、根本のところで緊張を失っていないのだろう。

「私達のやることは、あくまで監視。それ以上のことはやる必要はないし、やる意味もない。自分達の存在意義を履き違えたら何の意味もないから、これだけは憶えておいてね」

さてと、と、彼女はつぶやき、姿勢を崩すと、ついてくるように促した。
これは真面目なことなのだ、と僕も気持ちを引き締め、口元をキッ、と一文字に結ぶ。これからが妖怪退治の実習だ。

「……っていうか、あんた、どこに口があるのよ……」


~~~~~


結論からいうと、あまりにもあっさりと仕事は終わった。
霊脈だか何だかわからないが、近くに妖怪が出現するとしたら、そこしかない、という場所があるらしい。
公園から徒歩5分ほどの祠である。
コンクリートで整備されていた。その祠の外には、町内会の掲示板があり、ゴミの分別をきちんとやれ、近所で近々バザーが行われる等々の極めて世俗的な色彩が踊っていた。
四畳半程度の面積しかない、小さな聖域である。
普段は景色のなかに溶け込み、誰もここだけを取り出して眺めようとはしないだろう。
かといって手入れが滞っているかと言われれば、煙草の吸殻などのゴミ一つないし、子供が遊んだところには必ず落ちているBB弾も、雑草もない。
しっかりと手入れされているのが窺える。
彼女たちの一族がきちんと整備しているのか、それとも信仰がしっかりと根付いているのか、いずれにせよ、外から見ただけでは分からない清潔感と神聖さを醸し出していた。
そこで、彼女はポケットから一枚の紙切れを取り出し、その文章を読み上げた。
意味は分からなかったが、日本語ではないようだった。
それを僕は眺めているだけで、それで終わりだった。
選ばれた家系により、家業として営まれる妖怪退治。正直な話、勇んでやってきただけに拍子抜けだった。

「お終いっ」

彼女が読み終わり、こちらを振り向く。

「いつもよりも溜まってないみたいだったわ。朗誦も簡易バージョンで大丈夫ね。」

「普段はもっと長いのですか?」

「まあ、多くて大体三十分くらいかな」

「かなり時間が違うのですね」

 そうすると、特に感情を感じさせないような声で彼女が問うてきた。

「ひょっとして、あんまし大変そうに見えないとか、ある?」

ドキリ、とした。そんなことはない、と言えば、嘘になると思った。だから、こう答えた。

「簡単ならば、それに越したことはないと思いますよ」

きょとん、とした顔で、春日さんはこちらを覗きこむ。

「別に、苦しさと正しさの間には、何の関係もありません。不必要である苦労をする必要なんて、どこにもないと思いますが」

「そっ」

彼女が笑った気がした。
チクリ、と、痛みがした。


~~~~~


近くのファミレスで私の歓迎を兼ねて時間を潰そう、という話になった。
僕は曲がりなりにも魔女の使い魔だ。
自分の姿が、春日さん以外の人にはホットドックマンに見えないようにすることくらい容易だ。
彼女は目をまるくして驚き、では一体他の人にはどのように見えるのか、と言ってきたが、実は僕もよくわからないので、今度我が主に聞いてみる、とだけ答えた。
自分がどう見られるか、ということにはあまり興味が無かったために、今までは気に止めることは無かった。
完全な憶測であるが、どのようにも見られないのではないかと思う。
街中の全ての人の顔を一々注意しないのと同様に、誰からも注意を払われない、群衆の一人として、その他の一人として普通に溶け込む魔術。
認識の操作と言えば、結構凄いものかも知れないが、この姿を取っていなかったら、かけられていたところで何の意味もない技術であったことは間違いないだろう。
その後で、少々沈黙が続いた。
僕はこういう沈黙が苦手なので、とりあえず何かを話さなければと思った。

「自分のことを特別だと思ったことはありませんか?」

「まあ、特別と言えば、特別なんだろうけどさ……」

彼女は、顎に指を当てて、何かを考えているようだった。

「非日常だって、そのなかに居れば日常なんだよね」

「刺激に満ち溢れた生活、というわけでも無いですか。やっぱり」

「刺激ね。自分が何でもないから、周りに何か特別なことが起こってほしい、ってだけじゃないの。あんまり好きな言葉じゃない。変わっていって、それで最後に何に行き着きたいのかな。私はとりわけ何になりたいっていうのは無いから」

「何か違った自分になることが『刺激』なのですか?」

「そうなんじゃないの?」

座席におっかかりながら、少し饒舌に、それでいて何でもないことのように春日さんが喋る。
それにしても、近年の教育からすれば信じられないような達観した世界観を持っている子だ。

「あなたの言っていることは難しいな……。変わっているって言われません?」

「そう? 難しいことは苦手だけど。私」

それにバカだし、と、春日さんは呟いた。

僕は取りあえず、学生時代から頻繁に利用している、一番安いドリアを頼む。
金はある程度あるのだが、そんなに重いものを食べる気分ではなかった。

「何か怖いなあ。ホットドックがウエイターさんと話してる」

「良くあることですが?」

「ある拍子に魔法が解けたりはしないのかしら」

僕のドリアが運ばれてきた。ちなみに、春日さんはドリンクバーしか頼んでいない。
僕が奢るから、と言っても、それでは歓迎にならないと言ってフラれてしまった。

「それは無いですよ。このお客さんのなかにも、実は僕と同じような使い魔がいたとしても、僕も、春日さんも気付かないでしょうね」

「じゃあ、ひょっとしたら、このなかに他にもホットドックの妖怪がいることも?」

「否定はできないかと」

うあー、と、春日さんは机に突っ伏した。



**春日りりす**



なんともゾッとしない話だ。
私は机に突っ伏しながら、自分の常識がガラガラと崩れていく音を聞いていた。
私もホットドックマン、あなたもホットドックマン。
そんなシュールな世界に住みたくない。いや、世界は望むと望まないとに関わらず、ずっとシュールだったのだ! な、なんだってー! あー、魔法ってすげえ。

正直な話――。
昔は特権意識が無かったわけではなかった。選ばれた家系、選ばれた職業。
それにも増して、他の人が知らない世界の秘密を、自分たちだけが知っているのだと思うと、いつも胸が弾んでいたものだった。
今ではそんなことはないけど。実際、代わりなんていくらでもいる。父さんと母さんも、妖怪退治をやってるわけじゃないし。
確かに妖怪退治は無駄にお金が入ってくるけれどもさ。
特権意識というモノは、周りの人間に対して、バリアーを張るらしく、私にはあまり友達はいない。
人と違うことを知っていたからと言って、別に偉いわけではないし、人に好かれるわけでもない。
知識に関しては全くの平々凡々とした人が他人に好かれることもあるように、結局のところ、性格が良ければ寂しくは無いのだ。
顔をバッ、と上げる。何か暗くなった。それは良くないことだ。これは歓迎会を兼ねているのだ。
目の前には人間ホットドックが鎮座している。奇怪な光景だ。
良く見れば、こういうのが目の前にいるなんて、ユーモラスといえばユーモラスと言えないこともないじゃないか。
そして、その妖怪の座っているテーブルの側には空になったドリアのお皿が。
食べるのが早いなあ、と感心する。これも魔法の力なのだろうか。

「……というか、口はどこ!? どうやって食べたの……??」

 彼は沈黙していた。いつもボーっとしているようだけれども、何故か、今回ばかりは雰囲気が違って感じられた。
ただ、気が付かないのではなく、もっと深刻で、重大な事柄が間に挟まっているように感じた。

「おーい、聞こえてますかー?」

どこを見ているのか分からない目には、何が映ったのか。
――まさか、他の人間ホットドックに類するモノが!?
私も周りを見回してみるが、他に仲のよさそうな、父、母、中学生くらいの子どもの3人連れの家族と、それからちょっとガラの悪そうなスーツの男たち。
少し観察してみても、別に変な感じは見受けられない。

「あっ……すみません。ボーっとしていました」

「何かあったの?」

「いえ、特には、何も……」

そういったものの、こいつの様子は明らかにおかしかった。
表情に(そもそも顔はどこだ?)動揺が現われているのを隠し切れていない。こちらにまで不安が伝染する。

「ごめんなさい、ちょっと……失礼します」

そう言うと、彼は苦しそうに席を立つ。
足元がおぼつかないように、立ちあがるとバランスを崩していた。ただ事ではないようだ。

彼は急いで会計を済ませる。その様子はやはり異様さを与えたのだろうか、家族連れの客が不思議そうに異形の方をちら、と見ていた。
それでも、私以外にはホットドックの姿には見えないようで、その点だけを少し安心する。

ふらつくようにして外に出る。冷たい風が吹いていた。空気の密度が変わったような、そんな気がした。

「ちょっと、どうしたのよ!」

彼はじっとして動かない。少し上を見て、ぼう、としているように見えた。彼の目には、恐らく何も映っていないに違いない。

「……いえ、すみません。落ち着きました」

「いや、それはいいからさ……」

あまりの雰囲気の違いに頭が混乱する。こいつに一体何があった? こいつは一体何を感じた?

「少し、用事ができたかもしれません。一人でどうにかなりますので、私はここで失礼します」

こちらに向き直り、丁寧に礼をする。自分が一人だけ取り残されたような不安を感じた。声を掛ける前に、トン、と彼は地面を蹴ると、空高く跳び上がった。

「すご……」

呆然として、あの怪人が消えて行った空をじっと見つめる。
気を取り直そう。
人間ホットドックには、人間ホットドックの理屈があるのではなかろうか?
今日は色々なことがあり過ぎた。帰って寝ることにしよう。
また二週間後にあいつはやってくるのだろう。
どうしようもないことを心配したって、どうしようもない。

ふと、気が付く。あいつは私の分までお金を支払った。
別にお金はあるので、奢る必要などないと私は言ったのだが、結果的にはあいつに支払ってもらったことになる。
借りが一つ増えてしまった。借りをいつか返さなければなるまい。
面倒くさいのは嫌なのだが、仕方ないだろう。次に会った時でも、何か奢ってやろう。



[28202] 2話 青い霧とスイカの天麩羅
Name: varnodaya◆bec70452 ID:edaa2f7d
Date: 2011/06/05 22:16
**ホットドッグマン**



疲れた。
ただ、それだけだった。
とにかく布団に倒れこみたい。今日は一五時間は寝よう、そう思った。 
ボロボロになりながら、アパートに向かう。何とかして人間界に借りたアパートだ。 カギをどのポケットに入れたか。確認したくなり、上着のポケットをあさるも、空っぽだった。ズボンのポケットに手を伸ばそうとした、その時――

ぞくり、いやな空気がした。空気の層が違う。
全く別の世界に入り込んでしまったような、そんな感覚。
本能的に危機感を感じる。生暖かい、緊張感が、まるで血液中の物質のように全身に少しずつ広がってゆくような錯覚を覚えた。
目の前に、青く光る靄が現れた。

――妖怪……!

靄は集まり、人間の形を作る。
目の前に浮かんでいるだけだが、凶悪さを感じずにはいられなかった。こちらに対する明確な敵意を隠さない。
僕はソーセージを中空より創り出す。
何もないところから、ソーセージを「取り出す」イメージ。一本、二本、三本――取り出したソーセージを中空に留め、待機させる。
ホットドックの存在にのみ許された魔術、無限にソーセージを生みだし、操作する術式――

「無限の燻製――」

ソーセージの硬度を極限にまで高め、ナイフのようにして両手に持ち、相手の出方を伺う。
更に靄が増えてゆく。
あたりが霧に包まれ、周囲の世界から隔絶しているような浮遊感すら漂う。
一体のヒトガタが飛びかかった。
さっと態勢を低くし、上段の攻撃をかわしつつ、交差する刹那にヒトガタを切断した。
手ごたえがある。
振り返る間もなく、残りの靄が襲いかかる。
こちらもソーセージを持った両手を交差させつつ、敵陣に突撃する。

――加速!

敵の大ぶりの攻撃が届くより先に、ヒトガタを次々になぎ払う。
撃破した敵を振り返ると、すでに消えかかっていた。
霧も、怪物も、先ほどまでの嫌な感覚も次第に消えてゆく。これがその「妖怪」だろうか。

しかし、どうしてこんな急に――?
春日さんの言うことが確かならば(そして実際に確かなのだろうが)、お祓いは今日行ったばかりで、妖怪が出てくることなどありえないはずだ。
今回の妖怪は弱かった。
ただ、魔女の使い魔である僕にとっては、の話だ。
僕がもしも一般人であれば、殺されていたかもしれない。

「一体、どうしてこんなことに……」 

アパートのすぐそばまで来ていたが、引き返すことにした。
一度、この町をひとめぐりして、パトロールを行うことにしよう。
眠気も、疲れも、動揺も、このときは既に治まっていた。



この街で一番高いマンションから街を見下ろす。
この目の位置は、馬のような草食動物よろしく、三百六十度どこでも見渡すことができるが、その代償として距離感を掴むことが難しくなっている。ひとつの平面を見ているような、距離間の錯覚に襲われた。
見とれている暇はない。目を凝らして観測する。
どこかに、先刻のような異変の生じる歪みが無いか――

「おい、そこな使い魔」

懐かしい声がした。懐かしいといっても、数日会っていないだけだが。空間錯覚の次は時間錯覚か。
黒いマントに、黒いとんがり帽子。金髪のロングを腰まで垂らした小学生くらいにしか見えない少女が立っている。これが僕の主である。

「人間界に御用でも? マスター」

「いや、魔力がガクンと減ったから、何かあったのかと思ってさ」

僕の魔力の多くは、この魔女から貰い受けている。
先の妖怪との戦闘で力を大分使ってしまったらしい。
大した敵ではなかったのだが、まだまだ力のセーブができていないようだ。

「さっき青い霧のようなモノ数体と戦ったのですが、おかげさまで傷一つありません」

「妖怪か? ここは春日の連中がちゃっかりやっているという話だったがなあ……」

「きっちり、では?」

「まあ、折角数日ぶりに会ったんだから、食事でも出してくれよ。食事」

目をキラキラさせながらおねだりしてくる。僕の指摘はスルーのようだ。
威厳もへったくれもあったものではないが、これでも一応大魔法使いらしい。
他の魔法使いには今まで会ったことがないので、自称というだけかも知れない。
別にそんなことはどうでもいいのだが。

「いけません。寝る前の夜食は、健康に悪いのです。何度言ったら分かるのですか?」

「別にいいだろ!別に! お前はワタシの使い魔なんだから命令くらい守れよ!」

「ダメです。これでもご主人さまの健康を考えてですね……」

「魔女なんだぞ!子供扱いするな!お前より何年長生きしてると思ってるんだよ!」

「夜食を食べて、翌朝胃が持たれて死にそうだと僕に泣きついてきたのはどこの誰ですか」

「ムグ……じゃあ仕方ないな。近くの“こんびに”とやらで買ってくるしかないな」

いい考えだろう、とでも言わんばかりに、ドヤ、という顔をしてふんぞりかえった。
僕はというと、近くのコンビニでこんな格好をした幼女が買い物をする姿を考えた。
痛い。猛烈に痛い幼女だ。それは、いただけない。
パパママはどうしたのー、知るか、ワタシは魔法使いだぞ!気安く触るな!
みたいな会話が行われることは想像に難くない。
この幼女のプライドを保つことも使い魔の使命だろう。
ここは仕方が無い。明日の朝には勝手に悶え苦しんでもらおう。

「はいはいはい……わかりました。作ればいいんですね、作れば」

「くるしゅうない」

微妙に使い方を間違えているような気がするが、放っておいた。
どうせ会話すると言っても、殆どが僕を相手にするだけだ。
情報の伝達がしっかりと行われればそれで何の問題もない。

「無限の燻製――はい、ホットドックです。さあ、僕のホットドックをお食べ」

今度はソーセージだけではない。とびきり上等なホットドックを虚空から「取り出し」、幼女もといご主人様に恭しく献上する。
ご主人様は一口に食べる量が少ない。ソーセージをちびちびと齧り、もひゃもひゃとホットドックを頬張った。

「ふむ……それにしても妙だな」

 急に真面目な顔をして街を見下ろす。

「妖怪が出たにしては、妖気のレベルはというと、安全圏も安全圏だ」

「つまり?」

「少なくとも、お前が見張る必要はこれっぽっちも無いということだけは確かだよ。それからホットドックお替り」

「でも、確かに僕は戦ったんですが。現われるところも見ましたし……」

「そうなんだよなあ。本来起こるはずのないことが起こってる。
それが無気味と言えば無気味かな。まあ、敵が弱いに越したことはない。
それからホットドックさっさと出せよ。」

「あれだけの数だったから良かったものの、もっと多かったら分かりませんよ。
それに、普通の人にとっては、脅威であることには変わりない。
不穏な予感を感じずにはいられません」

「普通の人のことなんて考えるのか? 人間でないお前が?
今回は技能を身に着けるためだけだよ。他人の事は、そのあとの二時的なことさ。
それからホットドックのお替りを無視し続けているのはあれか、反乱か。魔力切るぞお前」

無視し続けることもできなくなったようなので、仕方なくもう一つ用意する。

それにしても、一個あたり四百キロカロリー程度を見込んだとして、これで八百キロカロリー。
夜食にしては多すぎだ。これは明日の朝お腹が痛くなるフラグだな。悶え苦しめ僕は知らない。

「まあ、気楽に考えな。もしもお前でどうしようもなかったときには、強い強い魔女が助けてやる。」

「ありがとうございます。――ご主人様」

「お前は、人に迷惑をかけることを知らないといかんな」

 感謝の言葉に、むず痒そうにしながら、ホットドックを手に持ち、にっこり笑う。
まるでこちらの心を見透かしたように、魔女は優しく言葉を掛ける。

ドキリとした。
この人にはやはり勝てないのだ。だからこの人についていこうとした。

僕はこの人の手を借りることは決して無いだろう。

「じゃあ、ばいばーい」

マントを翻し、消えてゆく。彼女は彼女の世界に帰っていった。

「厭なんだよな、人に迷惑かけるのなんて。絶対に」

彼女が消えた空間を眺めながら、無意識のうちにそんな言葉が口に出ていた。

アパートに戻る途中、再び青い靄と遭遇した。
今度は効率良く退治することができた。そして、その後は遭遇することなくアパートにたどり着いた。
本来の目的どおり、万年床に背中から倒れこむ。少し僕一人には広すぎる部屋だ。男の一人暮らしにしては、清潔な部類に入るものだと思う。
明るさが全盛期を過ぎた感のある天井の電球を眺め、蒲団に寝そべりながら、あの靄のことを考えていた。

――妖怪? その線は無しではないだろうか。
プロの退治屋である春日さんが、妖気が全く溜まっていないと語り、ご主人様も、そもそも妖怪が出るような状況ではないと語った。
つまり、あれは妖怪ではない?
知らない、分からない。僕はこのことを知らない。
チクリ、と胸を刺すような痛みがした。
先刻街を俯瞰したときには、少しの異変も感じなかったということだ。それなのに、僕が通った時、突然にも霧が出現した。
ひょっとすると、あの妖怪に襲われているのは、僕だけだろうか。
そうすると、僕を狙って誰かが妖怪をけしかけているのではないか?
魔女の使い魔を倒すことで、魔女の力の一端を手に入れる。
筋は通っている。その線もありかもしれない。
しかしそうだとすると、一回一回の攻撃が弱すぎるような気もしないではない。
考えても分からない。後日、春日さんに報告しよう。
D高校と言ったと記憶している。連絡先と住所を知らないので、学校の近くで待つしかなさそうだ。

それにしても、D高校とは、何とも皮肉なものである。
もう二度と来ることは無いと思っていたのだが。
この人間の世界も、この街も、あの高校も。



**春日りりす**



家に帰ってきた。
何の変哲もない、普通の一軒家である。
「妖怪退治は勝ち組」(父談)であった時代ではないらしく、ほぼルーチンワークのマニュアル作業と化した妖怪退治を行うのは、子どもと老人の仕事で、大人になったらちゃんと普通に就職をする。
一部のとんでもなく才覚のある人が、たまに妖怪退治を専業でやるくらいだ。当然、私にはそんな才覚は無い。
今日は色々なことがあって疲れ過ぎたというのが正直な感想だ。
あいつは勝手に人を置き去りにしてしまうし。

「ただいまー」

いつもの挨拶、いつも通りの日常。いや、これは馬から落ちて落馬すると言っているようなモノか。

「あら、今日は遅かったのね」

「お母さん、何か食べるのある? ちょっと疲れちゃって」

「お蕎麦とミートソースがあるわ」

「その二つを組み合わせるのはおかしいでしょう!?」

「文句言わないの。パスタは無いけど、ソースが余っちゃったのよ。お隣さんからいただいたお蕎麦はいっぱいあるし」

「今食べなくてもいいよね!? ドリアにするとか、違う使い道あるよね!?」

「おじいちゃんもお父さんも喜んで食べてたわよ?」

「今日の夕ご飯!?」

そんなこんなで、リビングでミートソースをかけたお蕎麦をすすっていた。母は味覚センスが狂……、いや、個性的であり、こういう事態は稀によくある。
昔の記憶をたどるに、嫌そうな顔をしていた祖父や父がいたような気がしたが、どうも最近は陥落したようで、私が最後の防波堤というわけだ。

お袋の味、というが、私にとってのそれは、いつもこんな感じのアブノーマルなレパートリーだ。スイカと天ぷらの組み合わせが悪いのだとしたら、スイカの天ぷらはどうなのかしら、と言ってお皿に山盛りで登場してきたりと、話題性には事欠かかない。
発想がドリンクバーで実験をする小学生レベルだ。あ、ちなみに、父は現在も実験ドリンクバーをする。オレンジジュースと烏龍茶の組み合わせは最悪らしい。恥ずかしいからやめてもらいたい。

それでも、わりといいかな、と思っている。なんだかんだで、私は満たされている。刺激なんて要らないし、自分を変えることも思っていない。無気力な少女ですよ本当に。



そんな日常が崩れはじめていたことを、この時はまだ微塵も知らなかった。



[28202] 3話 僕は人間が分からない
Name: varnodaya◆bec70452 ID:da422243
Date: 2011/06/06 11:35
**シャシャカ**

「う~~お腹が、イタイ……」
 ちっこい魔女が机の前で溶けていた。
 彼女の使い魔の部屋とは打って変わって、本の山が部屋をこれでもかとばかりに埋めている。
壁は本に覆われて見えない。
わずかな隙間が、外へと繋がる玄関へと繋がっているだけである。
蜘蛛や口に出すのも忌まわしい人類の敵、暗く光る漆黒の、俊敏に地を這うかの昆虫が跳梁跋扈するのに相応しい湿度を保っている。
森のなかに位置しているために、たまにそういうイヤな虫が侵入してきて天地がひっくり返ったような大騒ぎになる。
あれほど忠告を受けたのにも関わらず、八百キロカロリーにも及ぶ夜食などを食べたせいである。
当然のことながら彼女の自業自得であるが、それでも彼女は自分の使い魔に責任を転嫁することを忘れない。
こうなった彼女の機嫌の悪さは素晴らしく、靴を左右逆にして靴ひもを縛っておくとか、いつも使っているシャープペンシルの芯を抜いておくとか、読みかけの本のしおりを移動させたりとか、それはもう無慈悲な鉄鎚が振り下ろされるのだが、今日はその腹いせをする対象である例の人間ホットドックはいない。

「しかたない……報復は今度にしておくか……ううー」

彼女は大量の書物を前に格闘していた。
お腹が痛いので普段の効率の半分程度も出せないが、それでも大魔法使いとなれば検索速度も、情報処理能力も並の人間の比ではない。

「うーん……これも違うか。青い靄、青い霧、靄の人間……あいつが見たものは一体何物なんだろうねえ」

ふーむ、と、シャシャカは天井をぼんやりと眺める。
蜘蛛の巣の侵食は速度を緩めていない。
数日前までは、あの使い魔と一緒に住んでいたので、これでも広く感じる。
やれ本を片付けろとか、開けた扉を閉めろとか、食事のバランスがどうのだとか、うるさいことこの上なく、自意識過剰でおまけに根暗という、ちょっと困った性格の持ち主だが、それでも大切な奴には変わりない。

「あいつ」の特異さは、その外見からも明らかだ。
生きた肉と死んだ肉。
その二つを兼ね備える魔術器。
生と死を兼ね備える存在。
生と死を乗り越える存在。
生と死という二つの相矛盾する世界を一身に体現する存在。
生の時間と、死の時間、一切の時を一身に体現する存在。

その力は、正直なところシャシャカ自身ですら測りかねるほどに異様である。
彼が使い魔になったとき、この怪物を持て余しかねないか、と自信が持ち切れなかったのも事実だ。
更に、あいつはまだ、自分の持つ象徴的な力に微塵も気付いていない。
あいつはまだまだ完成していない。

もしも完成したとしたら?
それを見てみたいという気持ちが無いわけではない。
それどころか、かつてだったら何を捨ておいてでも見てみたいと思っただろう。
あまりにも魅力的な逸材だ。しかし、もしもあいつが完成したとすると、もう後には戻れないだろう。
あいつが、あいつのままでいられる、などと甘ったるい考えは持っていない。
彼は完成し、「至り」、肉体や精神といった殻を脱ぎ捨てて、永久に還ってくることはないであろう。

「お前がいないと、わたしはちょっと寂しいぞ……」

ふう、とため息と同時に、そんなどうでもいい言葉が飛び出た。
それはどうでもいい、くだらない感傷だ。
不要な観念を頭の端っこに追いやり、書物を漁り続けた。
最初に出会った日のことを思い出していた。少しずつ、いい方向に変わり始めていると思った。

敵の目的は、端から一つしか無いだろうことは容易に予測できた。
あの真理そのものを象徴する使い魔だ。



**ホットドッグマン**



春日さんの登校時間が分からない。
何か部活をやっている可能性、その日偶然先生に朝早く呼び出しをくらっている可能性等々、無きにしもあらず。
だから僕はうんと早起きをして、校門の前で待つ、という方法が最善ではないかという結論に達した。
朝起きたら、布団のなかでごろごろとしていることなしに、すぐさまバターもジャムもつけないトーストをコーヒーで流し込む。
魔力を使ってホットドッグを取り出すのも別に悪くはないが、それよりもこっちの方が効率的だ。毎日ホットドッグでは飽きもきてしまうし。
それから、歯を丁寧に磨く。
虫歯には昔からなった記憶が無い。恐らく、なったところで魔力を使えば速やかに回復できるのだろうが、習慣となってしまっているので、これもいかんともしがたい。
まるで人間のようだ、と苦笑する。
こうやっていると、自分が人間なのか、人間でないのか、ごちゃごちゃになって分からなくなってゆくような不思議な感覚を覚えるのだった。
空を飛ぶのも問題ないのだが、人に見られるとまずい。
僕はバスを使って移動することにした。登校時間よりもずっと早い。
バスはすかすかで、ごく少数のサラリーマンが眠そうに腰かけているだけだった。
特に読むものも持ってきていない。僕は窓の外を流れる景色を見ていた。
車の通りも少ない。まるで静止してしまったかのような過疎化の進む地方都市の街並み。
それが冷たい空気のなかにおさまっており、これがこの街の「匂い」とでも言うべきものなのだな、と改めて感じた。

しばらくすると、目的地にバスが着いた。
運転手に礼を言って、お金を入れ、ステップを降りる。
昔来たことのある場所に来ると、何故か高揚感が湧きあがってくるものだが、それは一体どうしてだろうか。
そんなことを考えつつ、僕は人間よりもずっと高い視力で校門の付近を観察し始めた。
今日はいい天気だ。

生徒がちらほらと見えるようになった。主に部活動の朝練習をする学生だろう。
知識では知っていても、具体的にどのようなことを指すのかは知らない。
まあ、こんな早くから御苦労なことだと思った。

ぐう、という誰かの腹の音を聞いた。人間の耳には聞こえないくらいであろう、その僅かな腸の軋み。ホッドドッグマンにとって、それを聞きとることなど造作も無い。
聞こえた方向を見る。向こうの横断歩道に、一人の女子生徒がいるではないか。
まだあどけなさがのこる顔立ちに、吹奏楽部か何かだろうか、楽器を入れるケースを背負っていた。
この音の感じからするに、大分お腹が減っていることだろう。それはいけない。
偶然にも、今は全く人がいない。
聴覚を敏感にしても、暫くは何も来る気配が無い。
数秒であったら、この姿を露わにしても問題は無い筈だろう。
正義のヒーローとして、たまには人助けをするのも必要なことだ。
しかし、人助けをする、ということと、罪のない悪戯をするときの感覚が似ていることはどうしてだろうか、そんなことを考え、少し頬に笑みを浮かべながら、真の姿を顕現させ、その少女に駆け寄った。



**春日りりす**



朝、いつも通りの時間に登校すると、学校の目の前で白昼堂々と変質者が出現した、というニュースが流れてきた。
警察のパトカーが学校の前に止まっていたことを思い出し、この田舎も物騒になったものだと思った。
突然の全校集会が開かれ、全校生徒が体育館に集められた。

これはただ事では無いというようで、いつもはおちゃらけているクラスの男子たちも、妙に静かだった。教頭が檀上から、非常に沈痛な面持ちで話し始めた。


「えー、大変遺憾なことでありますが、本日の朝、8時少し前、わが校の女子生徒に、『僕のホットドッグをお食べ』、と、ホットドッグの被り物をした変質者が声を掛けるという大変遺憾な事件が起こり――」


吹き出しそうになった。
というか、ちょっと吹き出しました。
周囲の数人が、何事かとこちらを振り返る。



 な に を や っ て い る ん だ



そんな奴は一人しかいない。
『僕は、人間が分からない……』などとうなだれるあいつの姿が目に浮かんだ。
聞けば、先日も同様の被害にあった女性がいるとのことで、あいつは私に会う前もやってしまったらしい。
ああ、これでまた一つ都市伝説ができるのだな、と思うと、歴史の一ページが刻まれる場面に出くわしたような、といえばいささか聞こえはいいが、その内実を知っているとわりとどうでもよかった。
被害に遭った女の子の心にトラウマが残らないことを祈るばかりだ……。
話は、特に女子生徒は登下校のときには複数人で行動すること、変質者に遭ったら大声を上げること、などの教示があって終わった。
そして最後に、今日は部活動なしで、下校時刻を早くする、とのことだった。
オチが分かり切っている。謎の答えも知っている。
それなのに話を聞いていても何の優越感も特権意識も感じないのは一体どうしてだろう?
知っていてもどうしようもないことはあるものだ。

しかし、一体どうしてあいつは現れたのだろう?
あいつは私の住所を知っているのだろうか?
もしも知らなかったとすると、私に接触するために早々から校門の付近で待っていたという可能性が高い。

何のために?
何かがあったからに決まっているのだが、ある程度の緊急性があったのではなかろうか。
それを伝えるためにやってきて、いらんことをして警察を呼ばれて接触できなかった、ということだろうか。
そうすると、おそらく今日中には再び接触してくる可能性が高い。
何らかの事件、その覚悟を頭の片隅に入れておいた。



**ホットドッグマン**



「僕は、人間が分からない……」
そう言ってうなだれるホットドッグの怪物を、げらげらとお腹を抱えて笑いながら黒い服の魔女が面白そうに眺めていた。
この高校のすぐ隣には大きなスーパーがある。
そのなかにはチェーン店のハンバーガー屋が場所を占めており、放課後は学生の溜まり場になっている。
その窓際の席に、黒に身を包んだ幼女と、ホットドッグの頭を持つ珍妙な生き物が向かい合っている。
もちろん、ホットドッグの姿は普通の人間に見えるように安心安全魔術補正がかけられている。
学校の方は昼休みになったようで、昼食を買いに来る連中もちらほらと見られる。
確かこういうのは校則違反だったと思うのだが。

自身の姿は補正がかかっていても、主人の姿には補正がかかっていない。
たまに通りかかる人々がこちらをちらちらと見ているのが少々不安であった。

「あー、笑いすぎて苦しい……それにしても、そんなのワタシに聞いてくれてもよかったじゃないか。あいつの爺さんとは顔見知りなんだし。ククク」

「そうですよねー。すっかり失念してましたよ」

「もうちょっと頼ってもいいのに。ワタシはそんなに頼りないご主人様なのか?」

そんなことは、と、慌てて口をはさむ。ちゅーちゅーとほとんど氷だけになったオレンジジュースとすすりながら彼女が続けた。

「まあ、面白かったからいいんだけどなー。うん。笑ったら体調も回復した気がするぞー」

初耳だった。昨日は別にそんな様子は無かったのだが、夜食の食べ過ぎであろうか。

「それからなー。多分、お前の見たっていう青い靄の正体なんだが、分かった気がする」

「本当ですか!」

ガタッ、と身を乗り出す。昨日からそれほど時間は経っていない。
もう答えにたどり着いたというのか。さすがは我がご主人様だと、尊敬の念を一層強くする。
「うん。あれは誰かの、非常に強い魔力による、呪い――。今の段階じゃ、数も少ないし、大したことはないけれど、次第に数を増やしていくよ。生きた人間の感情だという分だけ、はるかに妖怪なんかよりも厄介だ」

「というと、誰か裏で手を引いていると?」

「その可能性は高い。あんたを最初に狙ったというのなら、恐らくは敵対する魔法関係者か、それに類する連中。その力を狙って、ね」

その力、というのが具体的に何を指すのか、僕にはよく分からなかった。
「その」とは一体何か。
思っていたよりも事態は急な方向に舵を切り始めている。そんな予感をピリピリと感じていた。
そして、いつもの厭な感覚が、胃袋から這い上がるようにしてやってきた。

「僕を狙って、のことですか」

「気にするな」

シャシャカ様は、諭すように言った。

ふと、店のなかを見ると、学生たちのなかに見知った顔があった。春日さんだ。
向こうもこちらに気が付いたようで、引きつったような、複雑な苦笑いを浮かべてこちらに手を振る。
こちらも同じような表情だったに違いない。
シャシャカ様がそれを見て、春日さんにこっちに来るように手まねきをした。
春日さんは最初それが誰だか分からないようでぽかーんとしていたが、やがて事態を納得したのだろう。おもむろにこちらにやってきた。
春日さんがジト目で僕の方を見て、呟く。


「あんた、小さい子にこんな格好させて……やっぱり……」


汚物を見るような目でこっちを見てくる。
……訂正。何か根本的に誤解されていたようだ。



[28202] 4章 とある魔女による縁起説の解釈
Name: varnodaya◆bec70452 ID:4656f7b5
Date: 2011/06/07 10:02



**春日りりす**



「ワタシはシャシャカ。こいつの主人をやっている。見ての通りの魔法使いだ」

「はあ……えっと、春日りりす、です。この高校の2年生をやって、ます」

「ああ、別に緊張しなくてもいいし、丁寧語も必要ない」

くるしゅうない、くるしゅうないと、あたかも寛大な君主を演じるように幼女が尊大な態度で話しかけてくる。
ちょっとイラッとした。見れば、机にはこのお店で一番人気のホトドッグの包み紙が置いてあった。ホットドッグ妖怪の方に。
それは共食いではないのか、という一抹の疑問を覚えながらも、もっと大問題なのは、こいつの貴重な食事シーンをまたしても見逃したということである。

「まあ、早速本題に入りたいんだが、りりす、座んなさい」

「席無いんだけど」

どうでもいいが、席が無いから座らなかったら、誰が席に座れと言った! と理不尽に怒った上官に殺されるという場面をどこかの映画で見たことがあるのを思い出した。

「そこな使い魔、レデーに席のために席を開けたまえ」

いいよ、と、私はホットドッグマンを手で制した。
ふむ、と、幼女はつぶやいたが、機嫌を害するということは無さそうだ。

「昨日、妖怪が出没した」

息が詰まった。何故?
きちんと行うべきことを行っていた。結界に綻びは無かった。
手順に問題は無かった。何を間違えた? 何を失敗した?

「あー、そう動揺するな。春日の者達の失敗ではない。今回の問題はこっちから持ち込んでしまった厄介事だ」

まあ、できれば手は借りさせてもらうがな、と幼女は続けた。

「恐らくは、ワタシの使い魔を狙っての、間接的にはワタシを狙っての犯行だ。妖怪に限りなく近い存在だと思う。青い霧状のバケモノだ」

「それで、私はどうしたらいいの?」

にやり、と笑って魔女は告げる。

「放課後、またここに来てくれ。いうちに決着をつけたい。お前の爺さんにはもう話をつけてるし、動いてもらってる」

仕事が早いことだと感心する。
有能な魔女であることは間違いないのだとひしひしと伝わってくる。

「どこかのバカのお陰で、今日は下校時刻が早くなったらしいからな。
霊脈を誘導して、学校の屋上に霧を集めて、全滅させる。
そいつの呪いの拠り所が妖怪だとしたら、この地の霊脈に霧を集めていることになる。
そいつを早いうちに全部絞り出す。ある程度広くて、ワタシが戦うにはなかなか都合がいいし、人目にも付きにくい。霊力の集まりもなかなかだからな」

うんうん、とホットドッグの怪物も頷いている。
理屈は良く分からないが、高等魔術の何かなのだろう。とにかく、何をやればいいかが分かればいい。

「とりあえず、今のところはそれだけだ。きっとうまくいく。――じゃあ、使い魔よ、お前も下準備に行って構わないよ」

「畏まりました。お嬢様」

芝居がかった大げさなお辞儀をして、彼は去っていった。
彼の背中を、ずっと魔女は見ていた。
彼が会計を済ませ、角を曲がると、再びこちらの方に顔を向け直した。
笑みを浮かべて、座んなさい、と空席を指さす。

「りりす、だっけ? 悪いねー、こっちの事情で動いてもらって」

「そこまで役に立てるかどうかわからないけどね。妖怪となんて今まで一度も戦ったことなんてないし」

「んー。春日の人間だから、大丈夫」

言っていることが良く分からなかったが、この子は春日という一族に何か過剰な期待をしているらしいということは何となく読み取れた。
ほとんどが氷になったオレンジジュースをちゅーちゅーとすする。どう見ても子供だ。

「ジュース、買ってこようか?」

お前はいい奴だなー、とキラキラした目で感謝された。
見た目からしてオレンジジュースという感じしかしなかったし、さっき飲んでいたものもオレンジジュースだったので、同じものを買ってきたのだが、正解だったみたいだ。
一口だけ口に含んでから、彼女は突然に話しかけてきた。

「なあ、お前、昨日あいつといて、何か変わったことは無かった?」

「全てが変わっていた」

考えるまでもなく即答する。
キョトン、としたのち、魔女は何かを理解したかのように、ゲラゲラと笑った。

「そーだよなー。それが一番正確な解答だよ」

「ちょっと想像が付かないセンスの怪物だけど、あんなのが使い魔にして下さい、って頼
みこんできてオーケー出しちゃうキミも相当変だと思うけどね」

魔女が、少し悲しそうな表情を浮かべた。
軽い冗談のつもりだったのだが、何か気に障ることでも言ってしまったのだろうか。

「――ああ、話してなかったのな。あいつ」

 魔女は一呼吸を置いた。

「あいつは、人間だよ」

にわかには信じがたいことを呟いた。
あれが人間? 私達と同じ人間? それはどんな高度な冗談だ。

「あいつは、今は使い魔だけど、元は人間なんだ。大きな代償を支払った者だけが、文字通りの魔法の力を手に入れることができる」

「代償?」

「忘れられることだ」

シャシャカは、どうして私なんかにこんなことを話すのだろう。
シャシャカは、テーブルに目を伏せて、どことなく辛そうにして話を続けた。

「なあ、りりす。人間とは何だと思う?」

「そんな哲学的なことを聞かれても……」

 哲学サークルの雑誌か機関誌かなんかで、良く取り上げられそうなテーマだな、などと思った。そんなことを突然聞かれても困ってしまう。

「人間の細胞は三カ月で全部入れ替わってしまうと、お前達の科学が明らかにしたように、或いは東洋の聖者が、人間を形作る色受想行識の五蘊は自我に非ず、と説いたように、自分なんてものは決して存在しないんだ」

「は、はあ……」

コスプレ幼女に哲学の特別授業を受ける。何か変な図だ。
彼女の顔は、さっきまでとは一転して、非常に真剣だった。
彼女は、私に語りかけるようでもあり、自分自身に語りかけるようでもあった。

「他者に規定されるかたちで、自我というものがあるのならば、それをさっきの聖者たちは縁起と言ったんだがね。
それから切り離されてしまったら、もう完全に、『そいつ』は『そいつ』じゃあ無くなるんだ。
――人に記憶されたい、人の目に止まりたい、そういう欲望は人間の持つ根源的な欲求の一つだ。
その為にだったら、人間は命を投げうつことだってできる。
そうまでして、自分を周りから既定してもらうことを本能的に求めるんだ。
逆を言えば、自分の身体が滅んでしまったとしても、『自我』は存在し続けることができるんだよ」

不思議な感覚がした。哲学の議論なんか、特に注意して耳を傾けることなんて今まで一度も無かった。話半分に聞いていられないような、そんな気がした。

「とある狂人がいてね、忘れられることを受け入れた。まあ、正確に言えば、自分が存在しなかったことになる、ということを受け入れた。
それに関してアレコレ言う気は毛頭ないよ。要は働きが良ければ何でもいいからな。
それ以上干渉するのは分を越えているよ」

その狂人、というのが、あの人間ホットドッグであるということは大体分かった。
そして、それ以上のことは分からない。
ともかく、あいつが普通じゃない、ということだけは窺えた。
他人の記憶を断ち切ってまで、何かになろうとした「その人間」は、紛れもなく狂人なのだろう。

「あいつが更に異常だったのは、何かになりたかったから受け入れたのではなく、何にもなりたくないが為に受け入れたということに尽きるよ。
あいつにとって、自分なんて必要ないのさ。そういうプライドもある」

少々の沈黙。淡々と話しながら、この魔女からは少しばかりの寂しさのようなものが感じ取れた。のこる疑問は――

「……どうして、こんな重要な話を私に?」

「重要な話だからだ。だから、あいつが何も言わなかった、ということを振り払ってまで、ご主人様特権で話しをした。
曲がりなりにも危険がゼロという訳ではない。そしてこの問題は、さっきも言ったとおり、こちら側の問題だ。
ワタシに手を貸す意志、あいつに手を貸すのか否か。
その判断をするのに重要な材料を渡しただけだよ。それでも狂人を助けますか? というね」

「妖怪退治は、この家系のプライドなの。あなたたちの問題だけじゃないから」

「ん。分かった。極力お前には危害が及ばないように配慮する」

――それだけか?
私にとってプライドがそんなに大切だろうか?
どうしてこうも簡単にイエスというのだろうか。
ふと思い出す。
昨日のこと、ファミレスのこと、彼が一人で支払って――
ああ、そうだった。まだ埋め合わせをしていないじゃないか。
そんなものだ。人の記憶とか、自我とか、そんな大仰なモノのために命をかけるのではないのだ。
人間が命をかけるのは、もっとちっぽけな印象のためだ。
そういうのも、アリではないのだろうか。
そう思うと、少しばかりこの哲学幼女に対して優越感のような不思議な感情が湧き上がってきた。
でも、それだけだろうか?


**追記**


「あのさー、りりす、さっき話してたの知り合い?」

教室に戻るとあの場面を数少ない友人に目撃されていたようで、こんなことを聞かれた。うん、まー、などと適当に話す。
というか、そもそも知り合いでない人間とどうやって話すのだ。

「あの金髪の女の子かわいかったなー。こんど紹介してよ」

「まあ、努力はするわ。性格にちょっと難ありだけど」

「あの……、それからさあ、もう一人いた男の人のことだけど……」

ギクッ、とする。ホットドッグには見えていない筈だ!普通の人間に見えている筈だ!

「なんか、結構かっこよかったよね」

吹き出しそうになる。お前の美意識は大丈夫か。
あいつの正体を教えてやりたい衝動に駆られた。堪えろ!耐えるんだ私!!

「ねえ、りりす。あの人と、その……付き合ってたりするの?」

とりあえず、人間は理性のキャパを越えると簡単にパンチが飛び出るのだなあ、ということを学習しました。オチ無し。



**



部活動も行われていない。
居残って勉強していく少数の成績優秀者もいない。
そんな夕焼けの学校はひどく広い空間に思えた。
当然のことながら、本来私も帰ることになっている筈だが、妖怪撃退プロジェクトの一員となって、再びこの校舎に舞い戻ってきた。
魔女の結界のために、他人からは見えなくなっているらしい。
便利なモノだ。この術は昼の話題に出てきた東洋の聖者たちの一人である、とある哲学者から教わったものらしい。
なにやらその聖者はこの術を使って若いころは色々とエロい方面で悪さをしていたとか。どんな聖者だ。
4階まで、一応警戒しつつゆく。ふと、気が付く。
決して見間違えるはずのないフォームのホットドッグ男が図書館の扉の前で立っていた。

何をするのだろう、と、隠れているわけではないが後ろから見ていた。
不用心にも鍵が開いていたようで、あいつは中に入っていく。
別に気にしなくてもいいが、まだ大分日が暮れるのに時間がある。
図書館で待機するのもいいかもしれない。
あいつがどんな本を読むのか、気にならないわけでもない。
『世界のパン図鑑』とかが順当だろうか。
いや、あのご主人様といい、以外とインテリっぽいところもあるからお堅い文学や哲学書を読むのだろうか。
パンと肉の矛盾の弁証法的止揚がどうのこうの言っているあいつの姿を想像した。肉の思想なんて言った思想家は、誰だったか。
足音を忍ばせて、そっと追跡する。
図書館にはあまり来る機会が無い。以外にも照明が暗く、すぐに眠くなってしまう。
ぶつぶつ言いながら勉強するのが癖なので、それができないのもペースを崩される。
彼は卒業アルバムのところで足を止め、迷わず一冊を取り出し、ぱらぱらとめくり、とあるページに目線を落とした。
暫くして、そのアルバムをおもむろに元の場所に戻した。
何か、大切なモノを盗み見てしまった気がした。
ここで声をかけなければ、本当にのぞきを働いたようで気分が悪いと思う。

「よっ。何してるの?」

「ああ、春日さん。お昼ぶりです」

落ち着いたトーンで返事をした。
別に解答を求める問いかけではないのだが、彼は律儀にも答える。

「僕は、この高校の卒業生でした」

シャシャカちゃんからかつて人間だったことを聞いた、ということを言うべきか、言うべきでないのか迷ったが、さっきと同様、言わなかったら秘密を盗み見たことになってしまうのではないか、そんな恐れが頭の中をよぎる。

「聞いたよ。あんたが昔は人間だった、ってことをさ」

ホットドッグの彼は、アルバムのあった本棚の方を再び向いた。

「ええ、まあ、一応」

人間であるのに、一応も何もあるのだろうかと疑問に思ったが、シャシャカちゃんの言葉を想起すると、確かに、彼にとっては「一応」なのかも知れない。

「後悔してたり、するの?」

「まさか。それが最良の選択だったと信じています。現に――」

彼が振り返る。
図書館の窓から夕日が差し込み、彼を照らす。
あっ、と、息を飲んだ。それは一瞬の錯覚。
どう見ても見間違えるはずのない、あの特徴的な姿が、その僅か一瞬だけ、人間に見えた。一人の青年の姿をとらえた、そんな気がした。


「僕は、――――だから」


一瞬経つと、やはり、目の前には道化のような、奇怪な姿をした使い魔が立っているだけだった。



[28202] 5話 あたたかい世界<回想>
Name: varnodaya◆bec70452 ID:2afeda8d
Date: 2011/06/08 21:52
**注意事項**


読者の方、もしもいらっしゃいましたら、だらだらと続く当作品にお付き合い下さり、大変ありがとうございます。

5話と6話では、残酷な描写を含みます。

読んでいて、強い抵抗感や、自分の大切なものを汚されたと感じられる方は、そっと戻るボタンを押して、感想欄に罵倒の言葉を書き込まれるなりして下さい。

なお、近日中に投稿予定の7話以降ですが、5、6話を読み飛ばしてしまっても、お話自体は繋がるようになっております。

もしも、5、6話は生理的に受け付けなくても、7話以降に興味があるという珍しい方がおられましたら、7話まで、少々お待ち下さい。

あ、それからですが、私、政治的主張はおろか、主張をもつということ自体殆どありません。ノンポリです。何も考えず、気楽に生きてます。
この作品によって、いかなる団体、個人を誹謗することも考えておりません。パン会社の回し者でもありません。ご飯党の方々に於かれましては、くれぐれもご理解、ご容赦いただきたく思います。



~~~~



**××**

本来、全然違う人間同士、それが何かの理由で一緒にいることに憧れた。
それは不自然極まりないことだとも言えるのかもしれない。
それは疑似家族や、温かい仲間などといった、僕には最もかけ離れたものだった。
僕には羨望の眼差しと共に、遠くから眺めるしかできない世界だ。
そこに自分を当てはめるなんてグロテスクなことはできなかった。
だけれども、もしも手を差し伸べられることがあったとすれば、僕は間違いなくその手にしがみつくことだろう。
そして、彼らを裏切り続けることだろう。

漠然として、極めて曖昧な、幼少期の記憶を抱えていた。
それは、近くの踏切まで、祖父に連れられて歩いた記憶、父と母が、まだ仲の良かったころの記憶、夜中喘息を起こして、病院に父の車で向かうとき、横になりながら感じた振動と、窓から見上げたトンネルのナトリウム灯の赤みの記憶、具合の悪かった僕を迎えにきた父の車のなかの人工的な匂いの記憶、近所の僅か数メートルの寺院ですら何やら巨大な迷宮に思えたあどけない記憶、その寺院になっていた木苺の甘酸っぱい味の記憶。
父と母が、病院のベッドに持ってきてくれた昼食――

それはつまり、一言で言い表すとしたら何か。幸せだったのだ。


 
自分が漠然と人よりも劣っている、ということを自覚し始めたのは何時頃だっただろうか。
父と母は僕を様々な習い事に連れて行ってくれた。
音楽教室、柔道教室、水泳教室―― 両親には非常に申し訳ないことなのだが、どれも全くパッとしなかった。
何時までたっても音符は読めるようにならず、何時まで経っても白帯で、何時まで経っても25メートルを泳ぎきることができなかった。
悔しい思いをしたのは確かだったが、それでも愛情のなかにいるということは漠然と感じていたのだろう。
母が言うことには、特に祖父祖母の愛情の入れ方は凄まじかったらしく、ちょっと目を離せばすぐに抱いて可愛がってもらったらしい。
特に問題を起こすことも無く、おっとりした少年が形成された。

小学校2年生のとき、転校をすることになった。
当時住んでいた家の老朽が酷くなったせいだ。
名残惜しさは捨てがたかった。この魚臭い通りに面した、苔のなかに立っている、アーケード街と一緒に生まれて、そして恐らくは一緒に死んでいく、そんな「我が家」に対して特別な感情を抱かなかったはずが無い。
引っ越す先にしても、それほど離れたところではない、新興住宅地だ。また帰ってこられる、そんな感傷とともに、この家を後にした。


何時頃からだったのか、僕には分からない。最初から壊れていたのかも知れない。最初から無かったのかも知れない。
新しい学校、新しい環境、新しい世界――
周りにどう思われるかということが自分の全てなのだ。
気づくには早すぎる真理を、少年は既に獲得していた。そして、その真理の操り方に関して言えば、全くの無知であった。
あらゆる○○長、と名のつく物を歴任し、てっとり早く鎧を作り上げる。

××君はすごいね、リーダーシップがあって、礼儀正しくて――
その鎧は自分を蝕んでいった。
もとより、勉強も、運動も全くできない少年。
その鎧に見合うだけの自分を維持するとなったら、全く違う「何か」、人と違う「何か」という要素で補うしか無かった。
人と違うこと、人と違うこと、人と違うこと。

少年はやがて、「個性的」と呼ばれるようになった。
鎧を手にすることができた。
少年は喜んだ。それは下手くそな絵だったり、下手くそな作文だったり、とにかく大人のふりをして、皆の知らない世界を知っているかのように振る舞った。
周囲に認められれば、認められるだけ、少年は苦痛だった。


漠然とながら、どこか歯車が合わないような居心地の悪い感覚を抱え続けた。


実力の伴わないリーダーシップ。それは、必然的に、少年に、ひとつの全く性格な自己認識を生み出すことになった。

――厄病神。
 
どうしてそうなったのかは覚えていない。家庭内に穏やかならざる空気が漂い始めた。
父方の家系と、母との関係の悪化である。
母は、結局のところ、閉鎖的な一族のなかには入っていけなかったのだ。
そこにあったのは、すでに完結した世界と、よそ者に対する、よそよそしい態度。
祖父祖母は何時まで経っても、母に丁寧な言葉を使い続けた。
母の本来の家族のあった田舎でもそうだった。
一言で言えば、母の一族は地方のエリート集団だった。
N高校という、県内で一番の高校を出て、県庁にことごとく勤めていく、あるいは教師になっていく、等々。
県内で最高の社会的ステータスたる職業を歴任する集団だった。
母は、それについていけなかった。よく、自ら自虐的に自分は落ちこぼれだから、という母の痛々しい姿を今でも思い出す。
期待される地点に到達できない人間は愛されることはない。

僕は愛に飢えることなんか全く無く育ってきたくせに、僕は勝手に母に感情移入した。
反吐が出るほどに単純で、純粋で、正義感に溢れていた僕は、お母さんを守るんだ、と、自分の面白半分やら、反抗心やら、エゴやらと、母への「愛情」をごちゃまぜにして、母の完全な味方になることを決意した。

こんな餓鬼が、正義なんてあるわけがないだろうに。
結局のところ、その餓鬼は、父と母の間で引き裂かれるのが面倒だから、何も考えないために母に過剰に肩入れし、父方の家系を毛嫌いしただけの、ただのバカなのだ。

自分の鎧を守るためだけに、分不相応なリーダーになる、周りのことをこれっぽっちも考えない、思いやりの欠片もない厄病神そのものの餓鬼に、愛なんてものがあるわけが無いじゃないか。


母は、僕と弟の前では、別にこの家族への不満を漏らすこともなかった。
僕が、率先して父方の家系の悪口を言いだした。
弟も僕の背中を見た。
母は僕たちに不満をぶちまけるようになった。
僕たちは嘲笑ってそれを聞いて、そのとおりだと囃し立てた。
そして家族は崩壊した。
中学時代以降、父と、祖父と、祖母と、まともに口をきいたことは無かった。


子供が、家族の崩壊の犠牲者?

子供が、家族の崩壊の主犯になることだってあるのだ。僕は子供が大嫌いだ。

高校時代に入ると、その餓鬼は勉強を始めた。
多少は、その鎧を意味のあるもので埋める気になったのだろう。
D高校はそれほどレベルの高くない進学校だ。
あっというまに中高一貫組を追い抜いて学年首位に躍り出た。
鎧が真に完成したとき、そいつの増長は留まるところを知らなかった。
学年首席という、その厳然たる事実を目の前にしては、もはや以前のようなリーダーシップだとか、○○長だとか、そのような鬱陶しいモノは重荷にすらなっていった。
これでその餓鬼は、安心して人を見下せる確固たる立ち位置を手に入れた。

その頃から、餓鬼は東大の法学部を目指した。
弁護士になって、母に楽をさせようと思った。
夜遅くまで学校に残り、学校でやる範囲のはるか先の勉強を行う。
受験生に混じって図書館でペンを走らせていた。
全てが充実していた。そこにあったのは、外から見ても、一人の勤勉で優秀な学生。
自己評価としては、古い家のくびきから不幸な母を解放させようとするべく必死に努力する若者。
全てが完成した世界だった。



[28202] 6話 みんなが幸せでありますように<回想>
Name: varnodaya◆bec70452 ID:2afeda8d
Date: 2011/06/08 21:54
**××**

「おーい、××、お前絵が描けたよなー」

「何の話?」

幼稚園のころから、中学にかけて、絵を描くのは好きだった。最近は殆ど書いていない。
勉強が忙しくて、筆をとる時間がなかったからだ。
結局のところ、僕の「好き」なんて、その程度のお話だった、ということだ。
一時期はそれを職業にしよう、なんて夢を持っていたが、今思うと身の程知らずも甚だしい。

「体育祭のパネルなんだけどよ、描ける奴が一人もいなくてさあ」

1年から3年までのクラスから、それぞれひとクラスずつを組み合わせて何とか組というやつを作り、その応援席には例年のように、巨大なパネルを飾る。
各クラスから2、3人ずつ徴収されて作業にあたるわけだが、どうやらこのクラスには適任がいなかったらしい。
絵を描くのは、嫌いではない。
勉強に支障が出るのは嫌だったが、気分転換も兼ねて、こういうことをやるのも悪くないかも知れないと思った。

「OK、代表。クラスのために一肌脱いでやるからよ」

「さすが××先生だな。勉強もできて絵もかけるなんて想像できねえよ。」

「まあ、そんなに上手いわけじゃあ無いのだけどな。」

今は一年だし、それほど大した仕事も押し付けられないだろう。
何だかんだ言って目立ちたがりなところが僕にはあった。
このようなイベントが嫌いといっても、結局一番ハメを外すタイプだ。
つまりお祭りが好きだということだ。

広い廊下がお祭りの前の空気を帯びていた。
いつもは屋内で部活動をやっている連中がランニングをしている廊下は、パネル製作の現場になっていた。
そのなかで、三年B組の先輩を探す。
一番向こう側にいたようで、製作の邪魔にならないように、隅を通りながら、その場所に向かう。

「あー、君、××君でしょ? 成績が何か凄いとか」

パネル責任者の3年生が第一番にかけてきた声だ。
ジャージには、向井、という刺繍がしてあった。
ちょっと太り気味の、おっとりした感じのある優しそうな人だった。ええ、まあ、とか、曖昧に濁して答える。くすぐったかった。

「あーっと、そうだな。とりあえず、今は方眼紙を張り合わせて、でっかいパネル用の紙を作ってる段階なんだけどね」

周囲を見てみると、早いところはすでにマジックで輪郭線を塗っている。
どうやら一番遅れているのは我が連合と見て間違いなさそうだった。
複数枚の方眼紙を張り合わせるという作業だけ、というように見えるかもしれないが、これが意外に難しい。
いちいち紙がずれたり、ガムテープがずれてしまったりと、結構面倒なのだ。どうやら彼も苦戦しているらしい。

「あ、ちょっといいことを思いついたんですけど、いいですか?」

「え? 何?」

「一枚一枚ずつ貼ると、多分、逆に難しくなるんです。
一々紙のズレを直したりしなきゃいけないから。
一回紙を全部並べて、それからガムテープを目一杯伸ばして張った方が、きれいに貼れると思います」

果たして上手くいった。
まずは複数枚並べた方眼紙の端にだけテープをつけて、そこは僕がしっかりと押さえる。
テープを切らないまま、先輩がガムテープの芯を回しながら、ゆっくりとバックし、テープを伸ばす。パネルの端まで行ったところでゆっくりと先輩がガムテープを下ろす。
残りの人が、その間のテープを押しつけて固定する。
一回の工程で、かなりきれいにできた。
おおー、という感嘆の声が内外から上がってくる。

「上手く行きました」

この調子で、とっとと完成させましょう、と、意気込んだ。同じような手法を使って、あっと言う間に完成にこぎつけた。

その後、作業は順調に進んだ。聞けば、向井先輩は美術部にいたらしい。
このパネルのB4程度の下絵を見せてもらったとき、その美しさに圧倒された。
学園祭のパネルとしては、異質なまでにおとなしい雰囲気を醸し出すが、それでも、決してミスマッチにはなっていない。
色鉛筆でささっと描いていただけだったが、それだけでも最早完成しているようにすら思えた。
「これ」が、巨大なパネルに描かれたら、一体、どんなものになるのだろう。
早くも心が躍った。先輩は付き合ってみると、見た目の通り、人柄も素晴らしく、近くにいるだけで心が暖まるような、不思議な空気を身に纏った人間だった。
君がいなかったら、きっと完成しなかっただろう、などと褒めてくれるときも、一片も偽ったところを感じさせなかった。

「向井先輩は、どこの大学に進まれるのですか?」

パネル製作の休憩時間、放課後の夕日を浴びる廊下の脇に座り込んで、先輩に話しかけてみた。

「んー。順調にいけば、N大の経営に推薦で行ける、いや、行けるといいなあ。あー、君みたいに勉強ができたらなー」

意外だった。こんな絵を描ける人が、地元の大学に進み、絵と全く関係のないことをする。才能の無駄だと思った。この人は絶対画家になれる人だという確信があった。

「美大には行かれないんですか?」

先輩は、寂しそうな顔をした。

「絵は、好きだけどさ。職業にはならないでしょ。だって俺、才能無いし」

ショックだった。この人からそんな言葉が出るとは思えなかった。

「本当に絵が好きな奴は、一日何時間でも勉強ができるし、それを才能というのだろうけど、そんな真似は出来ないよ」

君は? と、先輩が振ってきた。先輩は言わないが、周囲の話を聞くに、彼の家はそれほど裕福でなく、そのために美大を諦めて、堅実な道にいこうとしたらしい。

「東大の法学部に」

うひゃー、と、今どき漫画でも言わないような声を先輩は上げた。

「俺も多分君と同じように不思議だよ。君、どう見ても文学部だよね。
聞いたことがあるけど、お母さんに楽をさせたいからだってね。
そっちの方が、立派だし、かっこいいよ」

胸が痛くなった。全然違いますよ、と、言いかかる。曖昧な笑顔で濁した。
こんなでかいものを、たくさんの人と作れるなんて、最高の思い出になる、と、それから、さっぱりした顔だが、どこか翳りを帯びていた。
諦めきれないんだと、その表情が語っていたように思えたのは、僕の思い込みだったのだろうか。

「よーし、お前ら休憩お終い。ちゃっちゃと完成させよう」

先輩はおもむろに立ち上がり、良く通る声で号令した。
体育祭まで時間が無い。もう少しで完成というところまでこぎつけていた。
結局、進度としては一番遅かった。
しかし、質の点では、ひいき目に見ても頭一つ飛びぬけている。
関われたことを誇りに思っていた。まあ、向井の卒業制作には勝てないわな、とか、二位目指して頑張ろうとか、そんな声も他の三年生から聞こえてくるほどに、先輩の絵は魅力的だった。

「あ、××君、赤とってきてくれる?」

「え? 赤のペンキ切れましたよ?」

水色の、淡い色彩をベースにしていたので、赤のペンキはそれほど仕入れていなかった。
色を混ぜて作るのに必要な程度は買っていたのだが、やはり足りなくなっていた。

「あ、じゃあ、赤連合さんからちょっと借りてきます。もうほとんど終わってるみたいですし」

「あ、すまんね。じゃあ、よろしく頼むよ」

赤連合からペンキを借りてくる。単純に、赤だから残っているだろう、と思っただけなので、良く考えたら、赤だからこそいっぱい使って残っていません、ということも十分にあり得る話なのだが、運良くペンキはたんまりと残っていたらしい。
ちょっとガラの悪そうな赤連合の代表に頭を下げてペンキを分けてもらう。向井のところか、と言って快く協力してもらった。

「向井先輩、持ってきました」

ペンキのボトルを持って、先輩に手渡そうとした。
僕は、そのとき、ボトルのキャップの部分を掴んでいた。
キャップは、十分に締まっていなかった。
ペンキの重みで、キャップから、ボトルが離れて行った。
あっ、と息をのんだ。時間が、とてもゆっくりに感じられた。赤ペンキの充満したボトルが、その中身を撒き散らかしながら、パネルの絵に、落ちていった。

バシャッ、という液体が散乱する音がした。
何事かと、廊下にいる人が皆こっちを向いた。その惨状をみんなが目撃した。
パネルは、血漿のように、とりかえしのつかないほどの真っ赤なペンキによって、無残に汚された。

向井先輩は、呆然としていたが、僕を責めることをしなかった。
いっそ殺して欲しかった。
謝ることすらできなかった。
パネルは結局完成しなかった。
向井先輩は推薦でN高校に行った。
事の顛末を知る人間は、数多くいただろう。
しかし、あまりの事態に、だれもそれを語ることは無かった。
クラスにも知れ渡らなかった。ただ、何かがあった、という曖昧な形でしか伝わらなかった。


高校2年、高校3年と、更に勉強を続けた。
校内トップは無論のこと、県内トップの成績をとったことも一度や二度ではなかった。
友人と遊ぶこともなく、ゲームも漫画も読まず、ひたすらに知識を詰め込んだ。
勉強が楽しいと感じたことは無い。
しかし、気楽だった。
東大の文科一類に現役合格を果たした。
東大合格はD高校から始めてだったらしく、校舎に垂れ幕がかかるほどに熱烈に先生たちからは喜ばれた。
自分だけで掴み取った勝利だった。人生のなかで初めての勝利。
握手を求める教師たちを、内心では彼は馬鹿にしていた。
こんなちっぽけな俗物どもが、僕の心を知っているはずがないじゃないか。
結局、僕は数字でしかないのだ。僕の存在根拠なんて、そんなちっぽけなものなのだ。
東大現役合格者一名という、ただの棒一本。
それが僕だ。
ちっぽけな、僕の正体だ。
人間が数値化されるとか、抽象化による人格の排除とか、そういう崇高な社会批判をするつもりはこれっぽっちもない。
だって、その棒一本がなければ、僕の存在なんて、そもそもどこにも置き場所が無いからだ。

父方の家系には、何も言わずに、母の車に乗って、家を出た。
父、祖父、祖母などとは、この頃には一言も口を利かなくなっていた。
直前まで、どこの大学を受けるのかすら伝えていなかった。
知性も教養も、その欠片も感じられない一族を、僕は唾棄していた。

昔、祖母には絵なんか描いていないで勉強しろ、勉強しろと言われた。
じゃあ、あんたは勉強したのかよ。
俺の十分の一でも勉強したのかよ。
俺の百分の一でも何かを背負ったのかよ。
将来、金くらいは落としてやるから、もう近付くんじゃねえよ。

父は酒を多く飲むようになった。これが人間の最果ての姿なのだと、酔って真っ赤な顔で横になる父を見下した。
祖父はアルツハイマーを患った。祖父は、市役所の職員としての地位を握りしめ、天下りし、家族を支えてきた人間だから、他の二人と比べれば、それなりに尊敬はできる人間だったが、結局は官僚。
国家を、日本を食い潰す癌だと思った。日本は、大切なのだ。
家族なんかよりも大切なものなのだ。
母は、自らの家系のなかで急速に地位を上げた。
母にとっては、それはどうでもよいことだったのだが、僕にとってはこの上なく誇らしかった。

父は母との別居を嫌がっていた。
母は、胃に穴を開けるなど、深刻なストレスを感じていた。
対面を気にし、母の健康のことなど全く気に掛けないのだと、父をさらに嫌った。
僕は、どんなことからでも父を嫌悪することができるようになっていた。
僕が高校を卒業するのと同時に、両親は別居した。


大学に入った。あの世界から距離を置くと、自分を冷静に観察することができた。
気付かないふりをして生きていた。
それでも無駄だった。
友人と馬鹿な話をしているときも、勉強をしているときも、家族のことがいつも頭の片隅にあった。
そして、最も正確な自己認識が自分に付きまとい、生きているだけで心が締め付けられていた。


勝手に被害者面してるんじゃねえよ。
厄病神。
お前、何で生きてるの?
さっさと死ねよ。

ゼミに参加しても、周囲の人間の薄っぺらさを常に感じていた。
こいつは、どれだけ幸せに生きてきたのだろう。
それだけモノを考えずに生きてきたのだろう? 
いつのまにか、自分の背負っている世界を以てして、罪悪感を支えとして、自分の存在根拠とするようになった。
自分は一種の天才なのだ。
これほどまでに多くを抱えた人間が果たしてこの大学にいるだろうか。
僕は彼らとは違う世界を知っているのだと信じていた。
それは気高いことであり、誇るべきことであった。
僕は世界を見下し始めた。

ゼミで、こいつは、と思う先輩に出会った。
頭がいいし、知識もある。明確な意識も持っている。はっきり言って、この人には勝てないと思った。
聞けば、この人は政治家を目指しているらしい。
彼の保守的な国家観も、僕のものとピッタリ合致していた。彼には敬愛の感情すら抱いた。徹夜であるべき日本観について語り合っても飽きなかった。
彼の作っていた運動に参加した。僕は彼らを愛していたし、そのように振る舞っていた。
しかし、ある時、急に熱意が冷めた。

きっかけは何であったのか、よく覚えていない。
恐らく、どうでもいいことだったのだろう。
あるとき、ぷっつりと糸が切れるように、その感情が一変した。
周りの人間の何気ない振る舞いが癪に障るようになった。
彼のちょっとしたミスを見て、僕は彼を心のなかで嘲っていた。
彼らを、「客観的」な目線で眺めるようになっていた。その資格も、僕にはあるのだと思った。

だって、ここにいる連中の誰よりも僕は苦難を重ねてきたから。

彼らのなかに漠然と漂うお気楽な気分を唾棄した。
自分ほど「実存的」な人間はいないだろうと夢想した。もう学びとれるものなんて無い。彼らよりも僕の方がレベルの高い人間なのだという確信があった。
僕ほど勉強した人間なんて、誰もいないと思っていた。



僕にとって、日本など、良く考えたらどうでもよかったのだ。ただのファッション、暇つぶしだった。
そもそも、「家族」をブチ壊した張本人が、「国家」を語るという図の方がどうかしていたのだ。
滑稽を通り越してグロテスクだ。あれほどまでに親愛の感情を覚えた先輩を、もはや、わりとどうでもいいもののために奔走するプライドだけはやけに高い小人物としか見做さなくなっている自分がいた。
ああ、大変ですね。
それより、疲れません? 
まあ、僕の知ったことではないですけど。


人間の感情なんて全然あてにならないことだと知った。
言い換えれば、僕は、人を愛することはできないのだと知った。
僕はもはや抽象的なものしか愛することはできないのだと知った。

僕は観念で作り上げた「同志」を愛していたのだった。
積み重なった、現実の「彼ら」の姿と、観念上の「彼ら」との姿のギャップによって、僕は現実の「彼ら」を棄却することを選んだ。

 
自分がどうしようも無いクズだということに、どれくらいから気付いていたのだろうか。
少なくとも、高校時代あたりからは、漠然とそのような意識はあったのではないかと思う。
この言葉は非常に使い勝手がよろしくて、自分の全てを弁護できた。

僕はクズなのだ。

救いようも無い天賦のクズだから、家族だってブチ壊すし、先輩の絵だってブチ壊すし、誰も愛することができないのだ。
僕は愛なんて信じない。
愛のなかから、僕のようなクズが生まれてきた。
愛をたっぷりと受けて、僕のようなクズが生まれてきた。
愛なんて裏切られる。
感情なんてちっぽけなものだ。
根拠はここにいる化物だ。
人間の皮を被った畜生だ。

救われないことに、僕は裁かれなかった。

誰かが、僕の前に突然現れ、僕を殴り倒し、厄病神と罵ってくれたら、どれほど救われただろう。
人間のクズと罵倒されたら、どれほど自分は軽やかになっただろう。


僕の世界は分不相応に優しかった。


失敗したって、誰も僕を責めなかった。
真面目にやっていれば、失敗しても仕方がないらしい。


違うだろ。


本当は願っていた。
何か、魔法のような、不思議な力がやってきて、全てを解決してくれることを。
自分の全てを引き受けてくれる何かを。
そんな、吐き気がするほど都合のいい奇跡を、誰よりも願っていた。


~~~~


何か、すごく長い夢を見ていたような気がした。
外を見ると雨だった。薄暗い部屋のなか、蒲団に包まっていた。
今日は大学の文化祭らしい。
つまり、僕にとっては何の関係も無い、ただの休みの日である。
図書館が使えないということの方が大問題だ。友達はいないわけではない。バカ騒ぎができないわけではない。
でも、彼らと、何かズレた感覚を持ち続ける違和感だけが拭いようもなく積み上がってゆくだけだった。
時計を見ると、6時半を少し回ったところだった。早く目が覚め過ぎたと思った。
アパートの外で、足音がした。厭な予感がした。
ピンポン、と、チャイムが鳴る。
本能的に、出てはいけないと思った。
蒲団を被る。息を潜める。
もう一度、チャイムが鳴った。ドアの向こうの咳ばらいは、長く同じ屋根の下で暮らしていたのだから分かる。

父のそれだ。

蒲団を被る僕は、傍から見れば、明らかに怯える人間の姿だろう。
頭を占める感情は一つだけ。「怖い」ということだけだった。
何分経った? 時計をちらと見る。
二分、三分、父はそこに留まり続ける。「怖さ」で、全身がガチガチになる。
更に何分か経ち、数回のチャイムの音の後で、父は去って行った。
恐らく、再びやってくるだろうと本能的に感じた。
どうする? 顔を合わせる勇気があるのか? 蒲団のなかに隠れ続けるのか?
恐怖で固まった身体を起こし。靴を手に取る。

 
僕は、部屋から逃げ出した。

 
ドアとは反対側の、軒下に繋がる戸口を開け、一目散に、できるだけ人目に付かない、遠くへと、傘も持たずに、パジャマのままで逃げ出した。
息を殺し、細い道、アパートの隙間、この周辺に住んでいる人間でなければ、決して分からないような経路を通り、とにかく遠くを目指した。
行先なんてない。
ただ、必死だった。
かなり長い時間、走り続けたと思う。


――僕は、何をやっているんだろう。


薄暗いビルの裏路地で、一息付き、ズボンが汚れるのも気に掛けず、水色のゴミバケツに座ってどんよりとくすんだ空を見上げた。
雨はひどくなるだろう。
いっそ、このまま僕を押し流して、消してしまえばいい。


――僕は、何をやってきたんだろう。


「――自分なんて、なくていい」

そんな声が、自然と出ていた。
もう生きていけないと思った。生きていたくなかった。

「それ、ホンキで言ってるわけ?」

驚いた。誰かに聞かれたようだ。
我に返り、前を向くと、こんな場所に不釣り合いな、金髪で、黒いローブを着て、とんがり帽子をかぶった長い金髪の少女が立っていた。
恥ずかしいことを聞かれた、などと、最早思うことはなかった。

「君には分からないだろうけど、大人には色々あるんだよ」

ムッとしたように、少女は答えた。

「黙れ。たかだか二〇数年くらいしか生きていないガキが」

別に、全てがどうでもよくなっていた。少女の暴言も水に流してやろう。

「今、魔術の材料を探していてな」

他人の事情など知ったこっちゃないが、その痛々しい言動はどうにかした方がいいだろう、と少し心配になった。

「お前、被検体にならないか?」

見れば、その少女は雨に濡れている形跡が見当たらない。
結構な雨で、こちらはぐちゃぐちゃなのだが、一体、どういうことなのだろうか。

「代償として、ワタシに一生服従することと、お前の記憶をいただくが、お前にはとてつもない力が与えられる」

「記憶なんて要らないが、力なんてもっと要らないよ」

「記憶が要らない? お前は変わった奴だな」

少女は怪訝そうな顔で、こちらに進んでくる。

「ああ、ワタシのいう記憶とはなー。周囲の人間の記憶のことな」

「――もっと要らないよ」

「世界は、お前がいなかったことになり、再スタートする。
莫大な力はルール違反だからな。代償は大きいんだ」

「夢のある話だね。それは願ってもないことだ。
できるのならね。僕のような癌細胞は存在しない方がよかったんだ」

少女の顔を見上げる。幼い顔立ち立ちに、不思議と引き込まれるものがあった。
頭の中で、絶対にあり得ないifが駆け巡った。
もしも、自分が存在しなかったら? 
この厄病神が、人間のクズが存在しない世界があったら? 
それは何と素晴らしい世界だろう。
体のなかに、熱いものが込み上げてきた。
自分の犯してきた罪はどうなる?
そもそも罪が無くなるのだったら、それが一番じゃないか。
僕が誰を幸せにした? 僕の生に何か意味があるのか?

もしも、そんな魔法のような力があったとしたら? 
奇跡の魔女が、僕のところにやってきたのだとしたら? 
僕の眼が、少しずつ開かれていくのを感じた。
彼女の顔立ちからは、神秘的な雰囲気すら漂っていた。
服装の異様さ、この雨のなかで濡れないこと、突然現れたこと――


神様でも、魔女でも、悪魔でも、何でも構わない。

僕はグシャグシャになりながら叫んだ。





「うむ。契約成立だ」

シャシャカ――後に彼女はそう名乗った――という魔女は、にっこりと笑った。



[28202] 7話 月光のもとで、№86
Name: varnodaya◆bec70452 ID:1cde95b5
Date: 2011/06/10 22:33


**ホットドッグマン**

「――無限の燻製!!」

魔力が身体より力を奪い去ってゆく。
頭が酷く痛む。
耳鳴りで脳まで震えるようだ。
舌がカラカラに干上がる。
気をしっかりしていないと意識が持っていかれてしまう。


地面より、ソーセージが一本、二本、三本……無数に出現し、視界を埋め尽くす。
ソーセージは、ひとりでに中空へと浮遊し、四方八方を、ホットドッグの怪物の楯であるかのように取り巻いた。

「穿てッ!!」

そう叫ぶと、凶器と化したソーセージの弾丸が次々と放出される。
彼を囲んでいた霧の妖怪は次々と吹き飛ばされ、消滅してゆく。

数が一向に減らない。
一体どれほどの魔力をつぎ込めばこれだけの怪物を出現させることができるというのだろうか。
D高校の校舎の屋上は、霧の怪物で溢れかえっていた。

「ハァ、ハァ……おい!使い魔ちょっとはペースを……!!」

――自分なんて無くていい。
先刻の一斉砲撃で多少は数を減らしたと思ったが、敵の絶対数があまりにも多すぎる。
ソーセージをナイフのように指に挟む。ソーセージの属性を打撃から斬撃に切り替える。
魔力を地面に込め、蹴る! 
音速の壁を越え、最高速度で敵を蹴散らす、捨て身の特攻――
彼に触れる間もなく、霧の怪物は消し飛んでゆく。
その勢いのまま、ホットドッグマンはフェンスを飛び越え、飛行体制に移行する。
空気を強く蹴りあげる。
その強靭な脚力は、空気を足場にして、使い魔をして、天駆けるホットドッグという名の彗星たらしめる!

霧の怪物の遥か上空を制圧する。まさか、制空権を握られるとは思ってもみなかっただろう。
近代戦は、制空権を握った者が制す。魔術も又然りである。

「――無限の燻製」

ホットドッグマンの背後に、屋上のサイズほどもある巨大な魔方陣が出現した。
その平面は、さながらソーセージの祖国、Deutschlandの如し。
意志の感じられない霧の化物も、流石に動揺を隠せない、その圧倒的で無慈悲な物量。
巨大な魔法陣を埋め尽くすばかりにソーゼージが出現する――!

「――改め――無限の燻製工場!!!」

上空からの機関掃射が一瞬のうちにして敵を薙ぎ払い、消滅させる!

――なんだ、まだまだ全然いけるじゃないか――

中空より着地する。
魔力をこれほどまでに大量に使ったことは今までに無い。
全身が張り裂けるような苦痛を訴える。
ガチャリ、ガチャリ、という音が頭のなかでする。
魔力の上限が留まるところを知らず上昇してゆく。何、構う必要はない。

――自分なんて、必要ない。

足が裂けた。魔力に耐えきれず、脚から血が吹き出る。構うものか。
痛覚を遮断し、先ほどの攻撃で残り僅かとなった霧に向かい合う。
これだけだったら、魔力を使うまでもない――!

「ッツアアアアアア!!!!」

敵陣に素手で立ち向かう。
使い魔として強化された身体。
肉弾線でもこれだけだったら引けをとらない。
背中を貫かれる感覚、足を切られる感覚、神経が死滅してゆく感覚。
無意味だ。一切にして無意味だ! 
魔力がどんどん高まってゆく。

もっと、もっとだ! 何だ、何だこの手ごたえの無い連中は!? 
俺を殺すんじゃないのか? 
なあ、そうだろオイ。

近くにいた霧の頭部を握り潰し、絶叫した。


「誰か俺に勝てる奴あ居ねえのかァ!!!」


**春日りりす**

ガクッ、と、シャシャカちゃんが崩れ落ちた。

「ちょっと、大丈夫!?」

「あ……ああ、大丈夫、大丈夫……」

いつものように、にっこり笑って見せるも、明らかに無理が見て取れた。
見れば、顔が真っ青になっているし、汗をぐっしょりかいている。
シャシャカちゃんは、霧の出現を誘導する私を守り、決して離れないようにしながら、屋上の隅に結界を張りつつ戦っていた。
彼らの戦い方にはほとほと圧倒させられた。
屋上を埋め尽くしてなお有り余る霧の集団を見たときには、かなり状況がまずくなったと直感したが、不思議と恐怖は感じなかった。
彼らの存在はそれほどまでに心強かった。現にその信頼は真っ当なものだった。
さっきの空からの猛攻だ。敵を圧倒していると言ってもよかった。
シャシャカちゃんは、と言えば、巨大な獣のように変形した腕を適当に振るうだけだ。
それだけで数体の霧が跡形もなく吹き飛んだ。
こんな雑魚、もののうちに入らないのだろう。

それだけ圧倒的だっただけに、この子が急に倒れたのは予想外だった。
私たち二人の周りには、もう霧はいない。
向こうで戦っているホットドッグの彼は大丈夫だろうか。

「くそ……あの使い魔め、ワタシの魔力を持っていきやがって……」

シャシャカちゃんが苦しそうに呟く。気が付いた。魔力は無限ではない。
彼が魔力の蔵として拠り所とするのは、シャシャカちゃんなのだ。
加えて、先ほどの大魔術の連発。

原因は、あの人間ホットドッグ――。

「あの、馬鹿――!」

魔女や、使い魔は、魔力によってその生命活動を維持している。
このままではシャシャカちゃんが持たない。とっさにあのバカのところへ駈け出した。

「おい! あんた何やって……」

叫び声が、途中で途切れた。
そいつは、叫んでいた。
――自分なんて、無くていい。――俺に勝てる奴はいねえのか。――

霧の化物も恐ろしかったが、一番恐ろしい化物が、そこに、月光を浴びて立っていた。
全身は自らの血で染まり、敵を撃滅することのみしかない、化物。
昨日感じた、威圧感、不気味さ、それが、実のところ全く的を射ていたものだと知った。
こいつは、人間なんかじゃない。
こいつはその滑稽な姿とは似ても似つかない、殺戮を愉しむ正真正銘の、邪悪な怪物だった。

「ハッハッハッハ……!てめえで最後か!?退屈な勝負させやがってよお!?ああ!?」

恍惚として叫んでいた。呆然と、見ていることしかできなかった。

「無限のォ…燻製ッ!」

巨大な魔法陣を展開させていた。
まさか、こんな最後の一匹に、あの技を使う気なのか!? 
さっきのシャシャカちゃんの様子を思い出し、ゾクリした。本能的に察知する。
ここでこんな魔術を使ったら、間違いなく死んでしまう!

「あんた何やってんのよ!」

後ろからホットドッグの化物にしがみついた。殺されるかもしれないと思った。
無論、霧ではなく、こいつに。

「だあってろ!」

化物は乱暴に振り払い、私は突き飛ばされた。口が切れたのか、血の味がした。

「口を挟むんじゃねえよ!俺なんてどうなってもいいだろうがよォ!」

化物もボロボロだった。
魔力によって、そいつの傷口からは勢いよく鮮血が吹き出ている。
カッと、頭に血がのぼった。何故だか知らないが、涙が出てきた。痛くなんてないのに。真っ白な頭で、化物に向かって叫んだ。

「さっきから、自分、自分って、一体何様のつもりなのよ! シャシャカちゃんがいるのよ!? 
あなたの魔力の蔵は一体どこにあるっていうの!? どれだけあなたは自分勝手なの、少しは周りの人のことを考えてよ!」

化物の動きが止まった。
その瞳に、理性が戻ったような気がした。

「あ……」

霧の化物は、と言おうとした、先刻まで、霧が立っていたところを見ても、何も居なかった。最後の一匹に逃げられた。


作戦は、失敗した。



[28202] 8話 覚醒、完成。何もかもが遅すぎる。
Name: varnodaya◆bec70452 ID:1cde95b5
Date: 2011/06/10 22:34



**ホットドッグマン**

いつもいつも、僕がいるから世界は悪い方向に進んでいく。
かつて、自分なんていらないから、自分を「消そう」と思った。
だけれども、それで大切な人が傷付くというのなら、一体、僕はどうすればいいのだろうか。

何日目かの、憂鬱な朝を迎えた。
あの屋上の戦闘以降、シャシャカさまの力は一向に回復しない。
「向こう」に帰る程度の力も、もはや残っていない。衰弱は著しい。
人除けの結界、認識操作ももはや行うことができなくなった以上、行動は大きく限られていた。
この狭いアパートのなか、シャシャカさまと二人きりで、いつ訪れるとも知らない回復の時を待っていた。

「おーい。そこな使い魔」

今までの元気の欠片も感じさせないか細い声で呼びかけてきた。

「何ですか?」

「食べ物」

食欲が出てきたことは有難い。
暫くは、食事もまともに行うことができない状況に陥っていた。僕は頷くと、キッチンへと席を立った。

「リンゴでも食べますか?」

「……うん」

冷えたリンゴは、皮を剥くために手で持っているだけでも凍えてくる。
感覚が損なわれないうちに、さっさと剝ききってしまおうと思った。

皮肉なことに、僕の持っている魔力は、彼女の状態を嘲笑うかのように増大し続けた。
マスターから使い魔への魔力の供給は一方通行である。
そもそも、使い魔が主人よりも強大になることなど、土台ありえないのだが、その異変が、ここで確かに起こっていた。
この魔力が、逆に歯がゆかった。このうちの一部でも彼女に返還することができたのならば。

リンゴをむき終わり、細かく切って食べやすいサイズにして、ご主人様のところへ持ってゆく。
いつものような、堂々とした黒づくめの格好ではない。
水色の子供用のパジャマに身を包んだ彼女は、ただの病気の小学生の姿だった。

「ワタシたちを狙ってくるかと思ったら、今度は避けて回復に専念、か」

情勢は最悪の方向へと向かっていた。
残党が、人間を襲い始め、人間の命を使って急速に回復し始めていた。
ここ数日、この大して事件も無い街を騒がせている連続殺人事件は、霧の仕業に違いないとのことだった。
敵は未だに尻尾を出さない。妖怪退治の専門家を、多数動員して見回りを行うも、成果は芳しくは無かった。

一体一体は強くない敵のタイプからすれば、圧倒的な物量によって一斉に攻撃することを考えるだろうから、先に敵の全てを絞り出し、校舎の屋上に集めて殲滅してしまうのが一番だと、魔女は考えていた。
その為に、霊脈を操作し、強制的に妖怪と、敵の手駒を一点に集めることに成功した。
そこまでは理想的だった。
予想外だったのは、敵の実力があまりにも強大であったこと、残党を逃がしたこと、使い魔が暴走したこと――

「なあ、使い魔」

トロンとした目で、静かに、ゆっくり、彼女が呼びかけてくる。聞いていますよ、としか返答できない。

「ワタシは、これでも結構な魔法使いなんだ。使い魔に魔力を持っていかれるなんて、そんなことはあるはずもないんだ」

「ええ」

「××、良く聞け。大事なことを話す」

彼女が、意味を失った名前を口に出す。それは、かつての自分の名前だったモノだ。
もはや、指し示す対象を持たない、ただの空虚な記号になった「名前」だった。

「お前の能力は何だ?」

「ソーセージ、並びにパン類の創造と、操作です」

ふふ、と、彼女に弱弱しくも笑みが浮かんだ。

「その象徴する意味がある。気がついていないのか? 
それだけ魔力を喰わせてやったんだ。気付いてもいい頃だと思ったいたけどな。馬鹿は相変わらずのようだな」

彼女は真顔になって続けた。

「――死せる肉から、生ける肉へ。生ける肉から、死せる肉へ―― 
いいか。これがお前の真の姿なんだ。
その頭に乗っかっている肉は、死んだ肉。お前の胴体は生きた肉。
その相矛盾する世界の二つを、お前は備え持っている」

彼女は、今までのどんなときよりも真剣な目をして言った。
息を飲んだ。
パジャマに身をやつした彼女には、異界の者としての存在感は何処にもない。
それでもなお、不思議な威厳を保ちつつけていた。

「ワタシの魔力で、お前は完成する。
生の時間と、死の時間、つまり、全ての時間が、お前の身体で象徴されている。
お前は世界であり、世界とはお前だ。――お前は、間もなく真理へと至るだろう」

何時か、遅かれ早かれこうなることは分かっていた、とだけ言うと、彼女は再び蒲団を被って寝てしまった。
一つ二つはリンゴの欠片を食べてくれたようで、少し安心する。
それにしても、現実感の無い言葉だった。
魔術理論も、真理も、今の僕にはそれほどの印象を与えなかった。
頭のなかにあるのは、どうやれば彼女を助けられるのか、ということだけだ。
真理なんてくれてやっても良かった。


**シャシャカ**


今日もワタシの具合は良くならない。体力は段々と落ちてゆく一方だ。
先刻は少しリンゴを食べたが、ほとんど味は分からなかった。
感覚器官を維持するための魔力すら枯渇してきたようだった。
こいつが死にでもしない限り長くは無いだろうと覚悟した。

もしも、「少しでも、お前が死んだらワタシが助かる」と匂わせでもしたら、こいつは喜々として命を断つだろう。
使い魔を大事にしない魔法使いなんて、恥知らずもいいところだ。
プライドがある。忠誠を誓う者を粗末に出来るわけが無い。

それにしても、りりすは実によく働いてくれる。
てきぱきと指示を出し、霧の出現に抑止をかけている。祖父を遥かにしのぐ才能を秘めている。
これで春日の一族も安泰である。犠牲が出たことを非常に悔やんではいたものの、もしも彼女が指揮をとっていなかったら、こんなものでは済まなかった。
もうすぐ私の使い魔は完成する。
そうしたら、あの敵を滅ぼすなんてチョチョイノチョイだ。
まだ姿も形も見えないが、敵の大将はお生憎様である。結局、敵の覚醒を早めただけなのだから。

やり残したことを探す。心残りを探す。
最近、龍ちゃんと会っていない。
今生はどんな奴に転生したのだろうか、そういえばまだ知らなかった。
エロいし、屁理屈ばかり言うが、悪い奴ではない。手を貸してやらないと、又何かやらかしそうな気がするが、自業自得だ。

春日の末裔は見届けたし、大丈夫そう。
ワタシが死んだら、魔術師連盟の後継者争いで血みどろの戦いが繰り広げられるだろうが、ああいう連中はわりとどうでもいいので、特に問題ないだろう。

この使い魔に、まだまだ殆ど魔法らしい魔法を教えていないのも残念だ。
姿を隠す魔法とか、認識操作とか、こんなときに一番基本的で有用な技術を伝授できなかったのは本当に勿体無い。
龍ちゃん直伝の透明の術も、これで途絶えてしまうのか。
感慨深くもあるが、良く考えたら、これは本来エロい目的で作られた術だったので、永久に葬り去った方が良いに決まってる。
伝えなくてよかったよかった。

…………。
……。

うん、わりと上出来な人生ではないだろうか。
結構長く生きたと思うし、それなりに充実していた。このままだと、衰弱死という、何ともパッとしない最期になりそうなのが残念だが。
できれば英雄的で、後代に脚色されるような華麗な最期を遂げたいものだったが。

愛すべき使い魔の方を見た。
壁にもたれかかって、こっくり、こっくりと船を漕いでいる。
ワタシが倒れてから、霧を退治に行くときを除いて、ほとんど常に傍にいた。
ほとほと感心する忠犬ぶりだ。
よく考えれば、このタイプの人間はわりと変わっている。
いつか、こいつと議論をしたことがあった。

『気持ちなんて、変えられます』

『その変わった気持ちも、本物の気持ちなのか? 
どうして気持を変えようと思った? その根拠になる気持は、変えられるのか?』

そもそも、本当の気持ちなんて、一体何だー、と、グダグダになって終わった。
こいつが、ここにいる感情も、ニセモノなのだろうか。
かつての××が、作りだしてしまった感情なのだろうか。
あの無意味な議論の続きが、無性に恋しくなった。


**ホットドッグマン**


「××。起きてるかー」

半分夢のなかにいた僕は、ご主人様の呼びかけに、再びこっちの世界に引き戻された。

「はい。シャシャカ様。何か御用ですか?」

「お前、もうさ、その鬱陶しい敬語やめろよ。シャシャカでいいよ」

ちょっと迷惑そうな顔をされた。今までこんなことは無かったので、かなり驚いた。

「シャシャカ……」

呟いてみる。とても彼女の方を向いてられない。
妙なくすぐったさが全身を駆け回って行った。ちらと、彼女を見ると、意地悪そうにニヒヒと笑っていた。
この人がこういう表情をするときは、かなり機嫌がいい時なのだ。

突然、「シャシャカ」は真剣な顔になった。

「なあ、××。お前は私を愛しているのか?」

「グッブハァーー!」

「お前、日本語じゃ表現できない吹き出し方したぞ」

「文字と発音の不一致をこれほどまでに感じた日はねえよ!」

何も飲んでいないというのに、強烈にむせた。
こんな口調でシャシャカと会話するのは、最初の日以来だろうか。
顔が紅くなっていく。もちろん、僕の顔が、である。

「答えてくれ。お前は、ワタシを愛しているのか?」

「もちろん愛していますよ。ご主人様として、七回生まれ変わっても恩を返さなければならない大恩人として」

これが、模範解答だ。僕はロリコンではない。
いくら顔立ちが綺麗でも、いくら言動が可愛らしくても、いくら僕に優しくしてくれても、恋慕の情を抱くことは無い。

「いつかお前が言った言葉を思い出したんだ」

「人間熱くなった時が本当の自分に出会える、でしたっけ?」

「ふざけるな。真面目な話だ。
――なあ、気持ちなんて、変えられる、そうお前は言ったんだ。その確信は今もあるのか?」

「ええ、今もそう思っていますよ。気持ちなんて変えられる、つまり、自分なんて無いんです。熱くなっても、本当の自分には出会えません」

「お前が、ワタシの傍にいるのも、何か気持を変えたからなのか? 
生きているからには、何かを愛さないではいられない。
お前は全てを捨てて、お前の世界は、ワタシだけになった。
だから、お前はワタシを愛そうと“決めた”。結局、それだけなんじゃないのか?」

自分は、何ものをも愛することはできないのだと思っていた。
それなのに、使い魔として、忠実な僕として、シャシャカを愛すると言った。
何となく分かった。
僕は、ただ、何かを愛したかったのだ。
家族を、結局のところ愛することができなかったクズが、それで救われるのではないかと、漠然とながら感じていたのだ。

僕の忠誠心なんて、そんなものなのだ。

「――やはり、不満でしたか?」

「そんなことはないよ。お前は十分に働いてくれたし、いい奴だった。
どんな出自であっても、純粋な感情だったことは間違いないよ。感謝している。」

自然と、目が合った。あの雨の日と、同じ目だ。
どことなく、表情までも似通っていた気がした。この人を失えば、僕はどうなるのだろう。
絶対的に愛することができる対象を、再び僕は失ってしまうのだ。
ほとほと呆れかえる。僕の「愛」はなんて自分勝手な所産なんだろう。
でも、仕方が無いじゃないか。この気持ちだけは変えられない。
少なくとも、今この場では変えられない。それだけは真実だ。

自分なんていらない。自分なんていらないから、この人だけは助けて下さいと、神様に祈った。


**春日りりす**


夜の公園で、ホットドッグの化物と待ち合わせをしていた。
今までの時間も手間も殆どかからない、ややもすれば気楽な妖怪退治から事態は一変した。
周囲から同業者を集められるだけ集めて警備に当たるも、成果は芳しくない。
被害は未然に防ぎきることはできず、霧を操っている首謀者は何時まで経っても見つからない。
楽ならば、それに越したことは無い。全くその通りだった。

トン、と、地面に軽やかに着地する音がした。

「お待たせしました」

ホットドッグの化物が空からやってきた。
正直な話、屋上の一件以来、こいつのことをいまいち信用できていない。
何もかもお前のせいなんだと怒鳴りつけたい気持ちにかられることも一度や二度ではない。
そのたびに自己嫌悪に陥る。
あの作戦に乗ったのは、自分も同じだ。
あの規模を予想できなかったのも、自分とて同じだ。ああやって殲滅するしか無かったのも知っている。
そして、もしも、私が最後の一体に攻撃する化物を止めなかったら、シャシャカちゃんはここにはいないだろうが、これだけの犠牲者が出ることは無かった。
この街を守ることを第一としている一族としては、失格もいいところだ。

「シャシャカちゃんの様子は、どう?」

「昨日はリンゴを食べました」

「良かった」

「それ以来、目を覚ましません。魔力もどんどん衰えていくのを感じます」

「そう」

どうして、こんなに淡々と話すのだろうか。
お前のご主人様ではないのか。いらつく気持ちを表に出さないようにする。
こちらの主力は、この化物だけだ。
ただ、前回のように一か所に敵を集める方法は取れない。敵も、霊脈に霧を潜ませるのをやめて、街に直接放ち、人間の生命によって霧を成長させている。
夜半に現れた霧を地道に刈っていくしかない。まるで終わりのないモグラ叩きだ。

「春日さん。霧の正体が、分かりました」

化物が、呟く。
それは、この絶望的な状況にあって、最後の希望に思えた。
 
そのとき、急に、厭な浮遊感に襲われた。五感がぼやけていく。
この公園に「霧」が出現した。
私達の周りを取り囲むかのように、数十体の「霧」が出現する。
その取り囲んでいる背後に、更に霧が出現している。どんどん霧が人間の姿を取り始める。
奇襲をかけられた! とっさに朗誦を開始しようとしたところ、化物が手で制した。

「――生ける肉から、死せる肉へ。死せる肉から、生ける肉へ――」

聞いたことのないスペルだった。
まるで、敵陣にあることを感じさせなかった。
その姿は、屋上の狂戦士と同一人物であることを微塵も感じさせない。

「終われ」

風が、吹いた。咄嗟に目を瞑った。
目を開けると、そこに霧はいなかった。
化物の方をまじまじと見た。
さっきのは、こいつの仕業なのか? たった、一言で、あの敵の群れをかき消したのか?
あの魔術は、一体何だ?
光明が見えてきた。さっきの技があれば連中に勝てる、不思議な確信があった。
そんな久しぶりの開放感にも似た、明るい気持ちにも関わらず、どこかこの化物は表情が暗かった。
何日か一緒にいて、こいつの表情が何となく分かるようになった、というのも少々癪な気もするが。

「今の技は、一体何なの?」

「――あいつらを、終わらせるように世界に命じました」

急に話が大きくなっている。今までの技のレベルとは規模も、破壊力も比べ物になっていない。こいつは、一体何を習得した?

「今の僕にだったら、世界を作りかえることだってできる。
――生と死の矛盾を一身に超越する力、開闢と終焉を司る力、それが、僕の真の能力です。
今の僕は、望めば何だってできるのです」

さらに彼は、淡々と、静かに言葉を続けた。

「今日は、もう霧は出現しません。
能力が発現した今、もう霧なんて無意味なモノを持ち出さないでしょう。
さっきので、僕が完成したことは敵の目にも明らかでしょうから。
明日の朝、D高校の屋上で待っていて下さい。あなたには結末を知る権利がある。
これで、シャシャカも助けることができる」

いつでもそうだった。こいつらの話からは、いつだって置き去りにされる。
私の預かり知らないところで、答えは導き出された。
私が、世界にどれだけ関与しているのだろうか。寂しい、と、思った。
足早に帰ろうとする彼を引きとめる。

「そういえば、聞きたいことがあったんだけどさ」

「何でしょう?」

「最初の日、ファミレスで、あんたはさっさと帰ったけど、あれは一体どうして? 
やっぱり、霧か何かの気配を感じたわけ?」

まさか、と、彼は答えた。

「あそこに、家族連れの客がいましたでしょ?」

「覚えていないけど……」

「彼らは、僕が××という名で呼ばれていたときの、家族です。
僕が捨ててしまった、家族です」

こいつは、あらゆる人間に忘れられることによって、使い魔になったということを思い出した。こいつには、家族はいないのだ。

「僕のせいで、家族は壊れました。だから、僕なんていなければいいと、願いました。
それで、答えを見ました。僕がいなかったことになった世界では、家族は壊れていなかった。やっぱり、僕はいなければよかったんです」
 
こいつは、はっきり言って嫌いだ。
 
どうしても好きになれない。自己完結が酷い。
いつだって周りの人間を置き去りにしていく。彼は、人を愛せないのではない。
自分しか愛せないのだ。だけれども、どことなく、捨て置けないような気がした。

最初に、こいつと、シャシャカちゃんに手を貸そうと思ったとき、すごく漠然とした気持ちで、何の必然も無く首を縦に振ったような気がしていた。

ハイハイ関係ありませんからと言って帰ることだってできたはずだ。
どうしてそうしなかったのだろうか。
それは、自分がいつも大切にしてきたモノが、何の価値も無いものだということを黙認してしまうような気がしたからだろうか。だから意地を張るのだろうか。



「それから、もう一つ聞きたいことがあるんだけどさ」

「はい?」

「あんた、何かモノ食べてたみたいだけどさ、口は一体どこにあるの?」

永らくの疑問を、やっと問いかけることができた。

「ああ、そんなことですか。ほら、ここですよ」

「あ、あ~~! そんなところに!? な、なるほど、良く出来てるわ……」

「ね、話しているときも、動いているでしょう?」

「ほ、本当だ……永らくの疑問が解消された……」

いやー。
口だった。紛れもなく口だった。
さらに、こいつの貴重な食事シーンを見ることもできた。
テレビの動物番組を見ているときのような、素晴らしい体験だった。感動した。良かった。


**????**

人からの好意を、怪訝な目で見るようになったのはいつからだろうか。
自分がどうして愛されることがあるのだろうか。
そんなことは決してありえない。
そんな非合理で、必然性の全く感じられないことが起こるなんてことは信じられなかった。
ただの、「何となく」という好意に僕はすがってもいいのだろうか。






[28202] 9話 未来
Name: varnodaya◆bec70452 ID:6e26ac57
Date: 2011/06/11 14:24

**春日りりす**

昨日、例の使い魔が言っていた通り、他に霧は出現しなかった。妙なことだと皆が首をかしげていた。
今日で、全てが終わる。
この異変を引き起こした張本人が現われるという、D高校の校舎の屋上を目指す。
本来は事件の事情もあり、学校は全日休校。生徒は立ち入り禁止であるが、フェンスを飛び越えて侵入する。
姿を消す魔法をかけていないのでヒヤヒヤしたが、誰にもばれずに校舎に侵入できた。

普段なら授業が行われている時間帯だ。
誰も居ないのは、自分を残して世界が消滅してしまったかのような、奇妙な想像を掻き立てた。

少しでも足音を立てたら、廊下中に響き渡ってしまう。
足音を殺しながら、急いで階段を昇る。屋上に来るのは、あの日以来である。
あいつはもう来ているだろうか。
屋上へと繋がるドアを開けた。
日の光が眩しい。今日は雲一つない晴天だ。空がうんと高く感じられた。
屋上はさらに広く見える。フェンスに寄りかかって、使い魔と、それから、シャシャカちゃんがいた。

おーい、と声を掛ける。
使い魔が丁重に頭を下げる。何もそこまでする必要はないのに。まるで何かを謝っているかのようだ。

「――今回の異変は、私の責任です」

「いいから。過ぎてしまったことは仕方ないし、とっとと敵のボスをやっつけましょう。懺悔も後悔も、そのあとでいくらでも聞いてやるからさ」

彼は、頭を上げる。
フェンスにもたれかかって座っているのは、シャシャカちゃん。
最初に合ったときのような、黒いマントに、黒いとんがり帽子を被っている。
具合は、やはり良くないらしい。微笑みかけてくるも、その笑顔が痛々しかった。

――シャシャカも助けることができる

そう彼は言った。そんなハッピーエンドを、これから掴み取りに行くのだ。

「この異変の犯人は、シャシャカにも、春日さんにも、まだ言っていません。
できることならば、その予想が外れていて欲しいとも思いました。自分の能力のバグを疑ってみたくもなりました」

誰に言うのでもなく、彼は語り始めた。

「それから、この異変の犯人の目的は、シャシャカを助けることです」

耳を疑う。
シャシャカちゃんも、私も、驚きを隠せないでいた。
だって、現にこれだけ衰弱しているのだ。

「もしも、この異変が起こらなかったのだとしても、魔力は徐々に僕に吸い取られていく、その流れ自体は変わらなかった。
あの日、僕を使い魔にした時点で、もうシャシャカの命運は決まっていたのです。
――例えば、思い出して下さい。少しずつ、魔力に綻びが見え始めていませんでしたか? 
例えば、僕を、ホットドッグの姿ではないとはいえ、人間の姿として認識し始めた人間はいませんでしたか? 
僕が魔力を使うたびに、少しずつ、体調が崩れていったのではないですか?」

ふと気が付いた。
人除けの魔術は、街を行き交う通行人になる魔術。誰からも注意を向けられなくなる魔術。
こいつに合った翌日の昼、どうして、私の友達は、こいつを認知したのだろう。
こいつを「かっこいい」などと言ったのだろう。
考えもしなかった。魔術は、緩やかに破綻し始めていた。

見れば、シャシャカちゃんは震えていた。
戦闘の時でも、見せることが無かった、兇暴な眼で、自らの使い魔を睨んでいた。
この体調にあっても、少しも衰えることのない、威厳、圧倒的な威圧感――

「――おい、やめろ……」

使い魔は、それを無視して淡々と続ける。

「開闢と終焉を司る能力。これを使えば、世界だって改変することが出来る。
自分の思い通りの世界に。僕は、この能力に開眼した時点で全てを思い出しました。

――そうですよね? ××さん」

意味のない言葉、指し示す対象の無い浮いた単語、かつて使い魔が使い魔になる以前に、そうであったところのもの。
それに引き寄せられて、今まで、誰もいなかったところに、××と呼ばれた、一人の男が出現していた。

この男を知っている。

あの日、図書館で一瞬幻視した、使い魔のもとの姿、それにまったく一致していた。



「前の世界を、作り変えたのはあなたですね」



**ホットドッグマンによる回想**

 
全てを捨てて、世界の条理を踏みにじって、つまりルール違反を犯した。
僕はぽっかりと、突然に、文字通りの意味での奇跡によって救済された。
自分の抱え持っていた負債、実のところ、それが僕の存在根拠になっていたのだと気が付いたときに、もう、何をしていいのか全く分からない喪失感を感じた。

とりあえず、魔女のお世話をする。仕事が与えられていたのは幸いだった。
散らかった部屋を片付けた。ボロボロの床や、天井を張り替えた。

「お前……朝からずっとやってたのか?」
 
信じられないというような顔で、魔女は僕に訪ねてきた。そういえば、今日は何も食べていないような気がした。ええ、まあ、とだけ、魔女に返答した。

「なあ、お前、ちょっと変だよ。昨日も、一昨日もそんな感じだったよな。私はお前を酷使しようという気なんか無いんだが」

「何もしていないと、申し訳ないというか、落ち着かないというか……」
 
ぎこちない笑顔を作って、彼女に答えた。その時の魔女の表情は、どこか曇っていた気がした。
どうしてだろう。僕の仕事がまずかったからか。使い魔を酷使するというのは、彼女のプライドに反していたからか。

「辛くないのか?」

「この身体を手に入れてからは、こんな仕事、屁でもありません」
 
彼女は、何かを言おうとして、口を開いたが、語るべき言葉を途中で落としてしまったかのように、結局何も話さなかった。
そうか、とだけ言った。
 
彼女は、僕のことについて訪ねてくることはあまりなかった。
それは心地よい無関心だった。僕が人間だったときのこと、最初に会ったときの事情、僕が消そうとしたもの。
彼女は沈黙していてくれた。勿論、尋ねられれば答えよう。
僕は彼女の使い魔であり、彼女のあらゆる命令に従う。

彼女はその代わり、自分のことはよく話してくれた。
僕は人の話を聞くのは嫌いではなかったので、その奇想天外な冒険の日々を聞くのも、苦痛ではなかった。
本を読んでいるときも、食事をしているときも、シャシャカは突然に昔話を始めた。

「魔術の師匠がいてな。えらく掴みどころのないことを言う、変わった坊主だったよ。哲学についてはほとんど聞き流していた」
 
シャシャカが、本の上に横になりながら、一冊の薄い本に目を通しながら、僕に話しかけてきた。その時僕は窓を拭いていた。

「僧侶から習ったんですか」
 
振り向かないで答えた。

「うん。ワタシがまだまだ小さかった頃の話だがね。龍ちゃん龍ちゃんと呼んでいたよ」
 
今でも十分に小さいが、と思ったが、口には出さないでおいた。
彼女が口にする過去は、いつもその快活な笑顔と共にあった。
昔なら、薄っぺらな奴らめ、と軽蔑していただろうが、彼女に対してはそのような歪んだ感情を抱かずに済んだ。
 
羨ましいというよりも、ただ、純粋に眩しかった。
この笑顔と、ゆるやかに流れていく時間と、彼女がいて、僕は満たされていた。

「この名前も、龍ちゃんから貰ったんだ。奴らの言葉で、兎って言うんだと。何で兎かは分からないけどな。
自分から火に飛び込んで、行者に自らの肉を差し出す兎と、ワタシのどこに接点があるのやら。
ワタシはどちらかというと兎を食べるタイプだと思うけどね。あんたみたいな自己犠牲タイプじゃないんだ」

「僕が自己犠牲ですか?」
 
変な評価を下されている。僕はそんな崇高な人間ではないのだが。
僕は、自分の都合の為にはどんなズルだってする人間だ。現に「それ」を行った。
だから今ここにいるのだ。それでもいい。ズルの代償は引き受けるつもりだ。

「違うのか? お前みたいな人間は初めて見るけどな」
 
責められているような気がした。僕が求めているものは、称賛でもなければ、尊敬でも無かったのだ。
ただ、正当に評価されることだ。それがマイナスの方向だとしても、それはずっと気持のよいものだろう。
窓を拭く手を休め、彼女の方を向いて、僕は奇妙な「弁解」を始めた。
僕が僕だった頃の話、僕の捨ててきた過去の話を、僕は罪状の告白を始めた。

「僕は――」


~~~~~


普通は、魔法使いと一緒にいるような連中は、その力をいつ奪ってやろうかと隙を狙っているような連中ばかりらしい。
ソースは私だ、と、魔女はいつものように、とにかく近くに僕がいたから話しかけてきたというように話を振ってきた。

「師匠から力を奪おうとしたのですか?」

「何度もね。最初は何とかして力を奪おうとしていたけど、段々どうでもよくなってきたんだ。
そういうことは覚悟していたから最初は少し警戒したが、お前には気味が悪いくらいそういうところが無いからな」
 
そういえば、自分は人知を凌駕した力を手にしているのだと思い起こした。
別にどうでもいい。力を手にしたところで、別に行使して得たいものがあるわけではない。

「もう、望みなんてありませんよ」

「何か欲しいものとかは無いのか?」
 
そのとき、僕は何を答えただろうか。記憶は途切れている。どうでもいいことを言った気がする。

**存在しないエピソード**

時はゆっくりと過ぎて行った。幾つもの四季が過ぎ去って行った。
次第に、年月の感覚も薄れていった。ここは、自分にとっては彼岸の世界も同然だった。
森に住むこの兎という名を持つ魔女と、適当に話をして、掃除をして、料理を作る。
休憩するご主人様とたまにゲームでもする、気まぐれに魔術を教わる、僕は満たされていた。
他に何も要らなかった。


~~~~~


異変に気が付いたのは何時頃だったか。年月の感覚は既に摩耗していた。
少しずつ、少しずつ、シャシャカの力は衰えていた。
彼が使い魔になってから、結構な時間が経ったそのときには、体力の悪化は目に見えていた。
人間の世界の裏側で、ひっそりと生きてきた、ちいさな魔女と、ホットドッグの使い魔の二人。
ちっぽけな平和にも、終わりが来ようとしていた。
死を目前にしても毅然としている魔女に対して、使い魔の動揺は激しかった。

皮肉なことに、使い魔の力は日毎に増長していった。魔女が、使い魔に、その能力を語り明かした。

 ――開闢と終焉を司る能力――

それは、魔術史上に無い、紛れもなく最高峰の能力の一つ。
ホットドッグの使い魔は、ほとんど神のような力を手に入れかけていた。


「おい、そこな使い魔」

弱々しい声で、彼女が話しかけてきた。

「何ですか、ご主人様」

「お前さぁ、いい加減その他人行儀やめろよ。それに、もうお前の方がワタシよりも力もあるし、もう対等でいいじゃん?」
 
何年一緒にいるんだか、と、彼女は呟いた。正確な年数は憶えていない。
もとより、何千年と生きてなお平然とする者が数多く存在するこの世界。
そんな細かいことなど、とうに意識の埒外にあった。

「そういうわけにはいきませんよ。私は死ぬまでご主人様の使い魔です」

「じゃあ、もう少しじゃないか」
 
僕は、「僕が死ぬまで」、と言ったつもりだったのだが、彼女は自分のことだととってしまったらしい。慌てて訂正する。

「割とさ、幸せだっただろ?」
 
彼女が、僕に笑いかけた。昔の面影はない。

「身に余るほどに」

「そうか。良かった。――私は、お前にとって、いいご主人様だっただろうか?」

「唯一無二でした」
 
そうか、と、彼女は言った。それが最期の言葉だった。涙は出なかった。
もとよりこの身体には涙腺のような人間的なものは存在しない。
 
彼女の最後の魔力が、僕に流れてきた。温かく感じた。



そのとき、僕の能力は発現した。
情報が、脳のなかを駆け巡り、機能が急激に書き換えられる。
意識が朦朧とし、立っていられない。
認識に不純物が混ざりこむ。
見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる。必死に、意識だけは保つ。
これを手放したら、魔力が暴走してしまう! 
ここでそんなことがあってはいけない、何とかして、外に這いずり出ようとするも、全く四肢に力が入らなかった。
 
 
突然、異様な意識の暴走が収まった。
冷静に、認識ができるようになっていた。
情報の渦が、頭のなかに突然に生れたかのようだった。僕は世界の全てを知っていた。

もうシャシャカはいないのだと、思った。僕は、知ってしまった。この能力が、僕に教えていた。

シャシャカは、静かに逝った。僕に食い潰されて。

兎は、その肉を火に捧げ、僕はそれを喰らった。喰らい尽くした。


 ――厄病神


この魔力に、踏み潰されればよかったのに。
何故踏みとどまった? 自分で自分を嘲った。生き伸びてどうする?

自分の家族をブチ壊して、それを無かったことにして、魔女のところに上がりこんだと思ったら、
その親切で、優しくて、大切な魔女さえブチ殺して、それでお前はどうして生きているんだ?


シャシャカの安らかな寝顔を、もう一度見た。



――違う、解決策なら、今、この場所にあるじゃないか……



完成したばかりの自分の力。
「開闢と終焉を司る力」。これを使えば、彼女を救うことができる! 
光明が差し込んだ。思わず笑いが込み上げてきた。全力で叫んだ。



――この魔女を、殺さないでくれ――



****
 
世界は改変された。その結果、霧が出現した。
シャシャカの死は、使い魔の生存と全く同じことを意味している。
人間の意志を力に変えて蠢く妖怪に自らの感情を託した。
使い魔を殺す、霧の化物の存在が成立した。世界をやり直したことで、魔力は著しく減退した。
かつての自分を、人間界に降り立った自分を殺すための、自分の化身が、その世界に現出し、自分は消滅した。
そのために、このようなちっぽけな魔物を召喚することしかできなかったが、人間を喰らい、力を増し、この「世界」が二週目の使い魔の前に立ちはだかる。


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