こんばんは。
過去の記事を振り返っています。
http://sougakusalon.blog.shinobi.jp/Entry/8/
(何に「勝利」をしたのですか?-2007/12/10記事)
今の組織では、次の「戦い」に向けて協議をしているらしいです。
要点は以下の内容だとか・・・
1)折伏の推進
2)青年部の育成
でもね、結局のところ「勝利」を目指している間は、組織は変わらんですよ。
「勝利」って一体なんですの??
活動家幹部になれば「数字だけが勝ちではない」と力説しますが、結局のところ創価学会組織は「数字」で評価されるのは変わらんでしょ?
でも人生は「勝った」「負けた」という単純なものですか?
よく考えてみてください。
地区や支部でみな討議して、「数字ではない戦い」なんて言っても、所詮は本部や圏区で潰されるでしょ?
その圏区の意向に反して活動は出来ますか?
圏区がそういった地区や支部を認めた場合、それが組織全体に波及した時には分県や総県がでて潰してきます。
で、、、結局はみなが「数字の勝利」という方向へ向かわざるを得ないでしょ。
もしそういう活動を止めたいのならば、秘訣があります。
「池田名誉会長の伝説や指導を捨て切り、否定する事」
「御書や創価学会の原点を見直す事」
です。
そして日蓮さんの仏法の原点について、御書と対峙してみてください。
おのずと進む道が見えるものです。
そういう勇気を持ったところから、組織が変わってきますよ、絶対に。
でも地区部長や支部長がそういう事したら、、、組織から切られますけどね。
本日はここまでとします。
COMMENT
昔から思っていることです。
御書と同様の扱いになって
しまいには絶対に指導が正しい扱いに
なってるんですけど、絶対に正しいって
おかしいと思いませんか。
信仰の世界で人間を絶対的な対象にしたら
オカルト宗教団体で確定です。
宗教と公明党がごちゃ混ぜになって
創価学会の職員は
国民の税金の利権を貪る
世界に通用しないダメダメ官僚と全く同じです。
信心の戦いって、師弟師弟ばかり言いますけど
どんなに信心の話しをしても
お約束の数の報告と数の成果で
まるで生保の営業のノルマのように
内部で成果が出ると盛り上がって
中身のなしなしな師弟の戦いを
いつまで続ければいいんでしょうかね。
池田先生が亡くなった後に
世襲で長男坊が名代になってしまったら
いよいよ組織も分裂しそうな感じです。
はじめまして
No Title
いわゆる目標に対しての成果であるだけの数字に「意味が見いだせない」という根本的な誤謬です。
そしてその記事に対して「多部数購読を無理強いする」とか「生保の営業のノルマのように」だとかいう事実も確認できない愚痴を呼んでますよね。
別に創価学会だけではありません
努力する前に「意味がわからない」と嘆くのはそれだけ貴殿と「広宣流布」の目標の心理的距離があるだけだと思います。
私からすれば数字という相対的な評価には「数字ではない闘い」も含まれています。
批判されているお気持ちは解らなくもないですが
「数字ではない戦い」をくみ上げるのも信徒の役割ではないでしょうか。
幹部の役割だと内心おもっているからこそ「愚痴」がでているように思いますが。
組織が変わらない という錯誤
自分自身の怠惰な感情に勝利した といえるでしょうね。そしてその経験が信仰の上で大事になります。
運ちゃんさんはお仕事でドライバーをされているようですが、会社に対してはなにかご不満がありませんか?
会社もいわゆる組織ですよね。
上司に文句だけを言えばお仕事がスムーズにいくでしょうか?
ネットで貴殿の運送会社の社員として提案なり問題提起できますでしょうか?
実に簡単な事なのだと思います。
創価学会以外での「運ちゃん」さんの社会的行動そのものを疑っているわけではありませんよ(笑)
ご自分の生活の為になさっている「お仕事」での場合、ノルマがどう とか 原点がどう とか問題提起をされているでしょうか。
なにがしかの不満をもったままでも、そのままお仕事をされていますよね。
ところがこと「信仰」においては経済的報酬があるわけでもありませんし、具体的に見返りがあるわけでもありません。
得られるのは目に見えない「達成感」だけですからね。
組織に対しての愚痴を言いたいのならば
運ちゃんさんの言われるように
※「池田名誉会長の伝説や指導を捨て切り、否定する事」 → 距離を置くこと
※「御書や創価学会の原点を見直す事」 → 納得いかない場合は動かないこと
という逃避的な発想がミソです。
ですが、その行為は御書に書かれているのでしょうか?
実に矛盾していると思いませんか?
まあさまざまありますが、、、
ハツコメさん、婦人部員さんありがとうございます。
あと、あべひさん。
僕は別に自称学会員ではなく、学会幹部だそうです。
僕は役職もいらず、一事は脱会も視野にいれていた人間ですが、まああるいみ勝手に役を付けられた感じてすからねー。
他の某掲示班で活発に一時は活動されていたこと、耳にしていますが、前提としてここで僕は論争するつもりはない事をお断りしておきます。
まず愚痴という事ですが、僕は既に組織活動からはなれて久しい事と、組織に依存はしていないので愚痴にはあたりません。
まあ批判とよばれたら、そうかもしれないですね。
あと「数字以外の意味を汲み取るのが勤め」という事をいわれていますが、会員のそういった想いを踏みつぶしているのも創価学会であると言いたいですね。
現場の地区幹部や支部幹部は数字目標に対して、別の意味をさがそうとしていますが、その多くは最終的には潰されます。
結果として、多くの人が諦めていると思いますよ。
努力する前とかいう以前に、努力した結果、不条理な言葉の仕打ちを受けた人が多いからこそ、何年経ってもあいかわらず万年人材不足なのではありませんか?
追記、あへひさんへ
僕はドライバーを仕事にしていません。
あと「御書のどこに」とありますが、この単語は過去によくつかいました。
そういった応酬する気はありませんが、一言いえば池田名誉会長は御書でいう「人師、論師」でしょ?
であれば数字に関して理論的に証明するなは僕の役目ではありません。
この理屈、よくよく吟味して下さいね。
以上です。
あべひさんへ、もう一つ追記
この場はサロンであり、討論場所ではありませんので。
教えは色々あってもいいと思います
まあ、最近は、池田大作氏の写真をみることもなく考えることもなく、平穏な毎日です。
彼を完全無欠な指導者として永遠に仰ぎたい人もいるようですから、それはそれで宗教の教祖として成立しているように思います。
ちなみに日蓮も教祖。
そこのところよろしくで違和感が私には無くなってしまいました。
あべひ
遠慮させていただきます(笑)
ネットで公開されている内容だけで結構ですので、個人的な深い話を聞いても仕方がありません。
というか内々のメールでやりとりをする必要性があるのであればブログなんて必要ないわけですし、
言いっ放しが良いのであればコメント欄の必要性もありませんよね。
矛盾しているとおもいませんか?
※僕はドライバーを仕事にしていません
てっきりHNがそうだったのでドライバーさんかなと思いました。失礼いたしました。
※まああるいみ勝手に役を付けられた感じてすからねー。
ふむふむ
本人の確認もなしに役職を「付けられる」という事は私は経験したことがありませんね。
必ず承諾をとられております。
※一言いえば池田名誉会長は御書でいう「人師、論師」でしょ?
御書で言う人師・論師というのは、宗教上の修行者である法師(僧)とは別のたてわけです。
いわば二乗の事です。
※数字に関して理論的に証明するなは僕の役目ではありません。
理論的証明なぞを運ちゃんさんに求めるつもりはありません。
役目がないからです(笑)
例えばある陸上選手の日々のラップタイムを
運ちゃんさんが理由をつけて評価する必要性がないのと同じ事です。
でもなぜ「ラップタイム」をとっておられるかは
考える余地があるでしょう。
運ちゃんさんは、なかなかいいところに気がつきかけているとおもいますよ。
なぜその活動をするのか? という大命題です。
今はやりのドラッカーのマネジメントにも
表現されていますよ。
No Title
いえいえ
それも強引ですね(笑)
「批判」をすることで「創価学会」に依存しているわけです。
いわば彼女と別れた事を「未練がない」といいつつ愚痴れるのは「意識から抜けていない証拠」ではないでしょうか。
※会員のそういった想いを踏みつぶしている・・
数字でしか評価されていないと思い込むのは勝手ですが、ご自分だって「意見に耳を傾けられない」じゃないですか(笑)
そういった矛盾を抱えたままではそりゃうまくいきません。
※別の意味をさがそうとしていますが、その多くは最終的には潰されます。
「つぶされる」とかの意味がわかりませんね。
こうやって反論されるだけでも運ちゃんさんの感情では「つぶしにこられた」と思っているかもしれませんが(笑)
自分に対しては、たった数度のやりとりですら禁忌するのに、組織に対してならネットで公開できるなんて虫が良すぎるとおもいますが、いかがでしょう。
実のところ、ある程度の距離を保てるネットのような環境ですら、自分に賛同的な話しか受け入れる事ができない自分が見えているだけじゃないでしょうか。
残念ですが「毒鼓の縁」ともいう逆説的な出会いがあるのも事実です。
私はそれが「悪い」事だけだとはおもいません。
かならず変わることはできますからね。
※努力する前とかいう以前に、努力した結果、不条理な言葉の仕打ちを受けた人が多いからこそ、何年経ってもあいかわらず万年人材不足なのではありませんか。
あはは。貴殿の地域では人材不足なんですか?
人にああいわれたこういわれた でへこむ事も瞬間ではあるでしょう。
しかし自分自身の目に見える範囲で「創価学会全体」が必ずそうであるかのような悲観的な「結論ありき」の思考で何かが変わるでしょうか。
御書がお好きなようですので以下の文言を記しておきます。
「答えて云く/人路をつくる路に迷う者あり/作る者の罪となるべしや/良医薬を病人にあたう 病人嫌いて服せずして死せば/良医の失となるか」
(撰時抄)
すべては「自分は全然悪くない」という他罰的思考こそが自分の可能性を縮小させているのだと思いますがいかがでしょう。
スイッチの掛け違い
どうせなら創価学会の存在そのものを無視して、御書と自分だけの問題にされるのであれば、もっと価値的かもしれませんが、実際にはそうではないでしょう。
批判するときだけは「まじめな教学熱心な学会員の立場」 批判された時は「非活動家」というよりも「組織の被害者」の立場。
肩書きをコロコロ使い分けられるのは、なぜでしょう。
まず「自分自身の言葉」を思索してから「他人の言」を思索されてみる事が大事ではないでしょうか。運ちゃんさん。(難しいとおもいますが)
私は「一人で思索」できるほど人間ができていません(笑)
だから地元やネットで解らない事はいろいろ尋ねて、思っている事を述べるようにしています。
今回の件でレスを返してくださってありがとうございます。
とても参考になりました。 また記事を書かれたときは寄せていただきますね。
なんかこの人すごい偉そう(笑)
あべひさんへ
何故、ブログ主催者の言葉を理解出来ないのでしょうか?
僕はそれほど懐が深い訳ではありません。
そしてあべひさんと語り合っても、僕自身得られるモノはなさそうです。
そもそも学会の活動家の方は、みな共通してますね。
まずは場を考えて貰いたいです。
ここに来ている人の多くは、既にあべひさんの様な理屈を沢山聞かされている人が多いのです。
という事で、あとであべひさんについては規制します。
No Title
彼女は、地区婦人部長になって。。いかに自分の地区が
でたらめのいい加減な啓蒙ばかりしてきたのか愕然としたそうです。。
彼女が地区婦人部長になる前は、啓蒙の目標達成のために
中身のないつじつま合わせの啓蒙で、なんとか目標を毎回クリアしてきたそうです。。
その実態を見たとき。。彼女は、池田先生に申し訳ない。。と
こころから想い。。地区に呼び掛け、成果に追われるのではなく
実のあるほんとうの意味での(マイ聖教ではなく)外部啓もうをやろうよ。。と、一人ひとりに呼びかけました。。
最初は納得しなかった地区のメンバーも、ひとり、またひとりと
真実の外部啓もうをするようになっていったそうです。。
しかし、もちろん。。いい加減な啓もうをしてきた時よりも
成果=数字は下がります。。
それが真実の成果であっても。。でも、それがその地区のほんとうの実態なんですね。。
上のほうは。。数字が下がることは認めません。
つねに数字は上昇して行かなくてはいけないんです。。
なぜなら、それが池田先生の御心に叶うからです。。
たとえ、家族のなかで部数を増やすマイ聖教ばかりでも。。
非活の部員さんの新聞を外部啓もうとして毎月細切れで
啓蒙を出そうとも。。
贈呈と称して。。読まれもせずに捨てられる新聞を投函する行動でも。。
それで。。実質的に新聞の部数の目標が達成できれば、中身なんかなくてもいいんです。。
上層幹部連中は。。
数字オンリーなんですもの。。
信心の内容も数字で換算されて行くシステムなんですから。。
それに真っ向から気まじめに取り組んだ彼女。。。
もちろん、組織で潰されましたよ。。
それが、いまの創価の真実の姿です。。
創価の信心のバロメーターは数字で測られるんです。。
すべてが信心のあるなし=数字に顕われる。。と幹部は
堅く信じているんですね。。
わたしが昔バリ活だった頃。。キリスト教の方とお話しした時言われた言葉をいまも時々思い出します。。
「創価の方は。。信仰のことを活動とか闘う。。と、おっしゃいますね。。」と。。
ほんとうの意味での信仰って。。なんなのでしょうか。。
日蓮大聖人の御書に。。ひとつでも数字達成のお話なんてあったでしょうか。。?
新聞啓もう。。
選挙のF活動。。
財務の活動。。
御書の、どの部分に書かれていたのでしょう。。??
創価の人は。。信仰心=数字を追いかける活動であり
それが闘いのすべてであるのですよね。。
御題目すら。。その数で評価しませんか。。?
上層幹部の言われた言葉を。。よく考えることもなく
鵜呑みにし。。少しも疑問を抱くこともなく、それが
信心があることだと思い込み。。
自らのハイヤーセルフに問いかけることもなく思考停止。。
創価脳まっしぐら。。
そういう人は、創価の中にいるだけで安泰であると思いこみ。。
少しでも、それから外れていく人を我高しと誹り。。
馬鹿にして。。
井の中の蛙大海を知らず。。
正直、こちら側から見ていると。。とても滑稽で気の毒にすら思えてきます。。
ほんとうの信仰に。。闘う。。とか、勝利。。とか
必要なんでしょうか。。?
日蓮大聖人の信仰と称して。。ただ池田氏の指導のままに
学会活動しているけれど。。
その活動の中身って。。ほんとうに日蓮大聖人の御心にかなうものなのでしょうか。。?
ほんとうは。。日蓮大聖人の教えなんてどうでもよくて。。
ただ、池田思想をもとに運営されている実業団体なのではないでしょうか。。??
まさに事業なのです。。信仰。。ではなく。。
会員は。。みんな、その企業のセールスマンなんですね。。
流れ星さん
誰が買っても
だから数だけが問題なんですね。
ヘンなこと
学会活動にはヘンなことが沢山ある。(と言うより基本全部ヘン)
例えば
・新聞啓蒙という名の無償営業
・選挙票取り活動への参加と投票先の指定
・選挙の連れ出しや期日前推進、投票確認
・書籍、公明パンフ、公明新聞などのノルマ購入
・民音会員権、民音チケットなどのノルマ購入
・各種展示会チケットのノルマ購入
・財務の参加と金額の煽り 等々
これらは表向き「強制ではない」と言うが、推進することがデフォルトであり、多勢に無勢の雰囲気では強要もしくは集団催眠に近い。
そして結果は全て数字、数字、数字・・・
誰が何と言おうが、これらは全て自由参加が基本である。
やりたい人がやればよい。どれをとっても宗教活動とは無関係である。
強いて言えば学会が宗教のインフラたるべきものならば、安定維持のための最小限の協力はしてあげてもよい。
・・・なんてことを会合で言おうものなら、ヘンな人にされてしまう。
みんなヘンな人にはされたくないから、ヘンだと思っても言わないで従う。
ヘンだと思っても幹部が言うように、ひょっとして福運や功徳になるかな?と思う。
ヘンだと思うのは魔のせい。信心で捉えればヘンなことはヘンでなくなると思い直す。
世間ではこれを「臭いものに蓋をする」と言うのだが。
ヘンなことを平気でやる我欲学会員は世間の顰蹙を買っていることにも気付かない。
故に学会の衰退が顕在化していく。信濃町の辞書には「反省」の文字がないから。
多くの活動家が学会のヘンな活動から意味を見出そうと努力した。
無理難題の目標設定に活動家が怯んでいると、数字は目的ではなく目安でありプロセスが大事だ、と尤もらしい指導が飛ぶ。
自身の課題を一見無関係に思える活動に重ね合わせて解決するのだと。
信仰は精神的バックボーンとして深め、課題には正攻法で挑むと主張すると、世法で解決しようと思うな、学会活動でしか解決はないと。正気か?
期限が近づくと目安の数字は突然目的に置き換えられ必達を求められることがある。
こうして何度も騙されれば組織の本音が何処にあるかは嫌でも気付かされる。
結果、まともな人材はヘンなことはヘンでありヘンな体験しか生まないと悟り、非活になり、あるいは宗教ビジネスを去る。
ヘンなことをヘンと言えない組織とは何なのか。
ヘンなことをヘンと言うことがそんなに非難されることなのか。
努力が足りない、信心が足りない、怠惰なだけ、変革を推進していない、センセイの心が分かっていない・・・バリ活からよく出る批判の言葉。うぜぇんだよな。
上から目線で自分だけ悟りを開いたようなことばかり主張する。いいかげん聞き飽きた。
信じたいものだけを信じて、見たいものだけを見て、どうぞお幸せに。
何十年も全部真面目にやってきたのに疑問を持つ人たちが大勢いる。
どう考えても、どう贔屓目に見てもヘンだから悩んでいる人たちが。
その悩みと向き合わない、解決できない、汚染を広げるだけの幹部たち。
今更、地域幹部がどうのこうのと言うつもりはない。本質は別のところにあるから。
大聖人の仏法とは、そもそも普通の人間の頭ではこれほど難解難入なのか? 違うだろ!
本当はイケダ教の破綻したこじつけ理論だから理解不能に陥るのだ。
こじつけでも何らかの訓練にはなるかも知れないが、天に唾すれば罰をもらう。
せっかく商標を取ったのだから「日蓮世界宗創価学会」の旗揚げをしてくれれば全てすっきりする。
ヘンな活動が正式に教義に組み込まれれば、少なくとも内部ではヘンでなくなる。
誰も文句は言わない。文句のある奴は出て行くから。
いつまでも正宗教学もどきを使うから話がややこしくなる。
宗教の本質は心の問題の解決にある。当たり前の話。
福運や功徳は主たる目的ではない。
少しでも悟れれば幾らでも幸せは見出せるし周囲に広げられる。
やるべきことだって見えてくる。
ヘンだと思いながらやる宗教って、その宗教がヘンなだけだ。
これだけ見せつけられてもヘンだと思わない人は、その人がヘンなだけだ。
変なことでも信じられるから強信なんですね
また良き会員は、唖然とするような教義と修行を喜んでやるサドマゾの境地を会得しているんですね。
あるできごと
昨年の頃から認知症が少しずつ進んできているようです。
久しぶりに家を訪ねた時のことです。玄関先で60歳過ぎの男性と40歳過ぎの女性に出会いました。どちらの方も顔見知りの方で、学会の方でした。二人そろっての訪問ということで、すぐさまその二人の目的を予測してしまいました。
男性の方は、伯父のすぐ近くの方、女性の方はかなり離れた土地の方で町会議員の方です。新聞啓発に来られたものと思われたので、伯父に後でさりげなく聞いてみました。購読はなんとか断っていたようでした。
認知症が進んでいるという噂が近所に広がっていたので、この機を捉えて町会議員の応援を頼みとして訪れたのでしょうか?
なんとも、気分の穏やかでないできごとでした。 もしも、新聞購読を受けていたら、次は選挙の時のF票の依頼でしょうか? 夫婦ともに年金生活でお金を持っているということを十分に知った上での訪問かと思わずにはいられませんでした。
伯父が元気な時にはやらないで、老夫婦二人だけの心細い生活になると訪問するという、なんとも姑息な許し難い
ことです。
他の学会に入っている家庭状況を見ると、病人持ちの家庭、何か家庭事情のある家が結構多く見受けられます。もちろん、新興団地の住宅で、裕福そうな家庭もいくらか見かけられますが、概ねそんな感じかと思えます。
日蓮さんの教えには、不遇な人、健康を害した人、生活苦の人などに対し、啓発と称して人の弱みに付け込み、折伏せよという教えでもあるのでしょうか?
法華教の教えにこのような実践の教えがあるのでしょうか? 創価仏法とは、こんなことをする仏法なんですか?
こんなにしてまで、新聞啓発のお金を集めることで功徳を頂くことが信仰なんでしょうか?
学会の方は、社会的弱者を救済しているとでも思っての活動、訪問なんでしょうか。どんな会話が伯父の家でなされたかは聞かなかったのですが、様々なことを想像して不安になってしまいます。
本当に親切での訪問なら、町会議員を連れて行くのでなく、ヘルパーやケアマネジャーの心配をし、採れた野菜の一つでも、駄菓子の少々でも提げて訪ね、普段の生活の様子をしっかり聴いてあげるのが、一般の常識というものではないのかなー・・・と強い憤りを感じたのでした。
F票取りに成功したら次は入信・折伏まで想定しての活動でしょうか?。功徳、罰・地獄論で師弟不二を盲信させ組織の指示どおりに活動させ、宗教を利用しての選挙活動は政教分離違反の犯罪です。
新聞拡張の強調月間では、会員さんによれば1世帯で複数部受け持っている人もあるように聞こえてくるのですが、財務の年間の納入額はどんな状況なんでしょうか。
事業に成功している方からの場合だと、それはそれとして結構なことかもしれませんが、生活の苦しい家庭のことが心配です。
お金を集める宗教、年間で何千億円もの収入の収支報告が会員になされない宗教とは、一般社会では想像もできません。使途不明のお金に疑いを持たない会員さんについて、外部の者は不思議でならないのですが ?・・・。
この巨額のお金が悪いことに使われていなければ幸いなのですが・・・。
日蓮さんの教えから随分離れてしまっているように思うのですが・・・私が間違っているのでしょうか?
激しく同意です!
激しく同意いたします。
お二人とも文章の描写が上手いですね^^。
なるほど!とよく理解できる文章だと思います。
おおらかな知性を感じます。
>ヘンなことをヘンと言えない組織とは何なのか。
>ヘンなことをヘンと言うことがそんなに非難されることなのか。
それが普通の人間の感覚ですし、当然の疑問です。
ヘンなことをそう言えば非難される。
「魔にやられた姿だ!」と批判する。
狂気の世界です。
創価学会は普通の感覚の持ち主や・普通の常識ある人たちには理解できない世界になっていますね。
もう今はめったにいないでしょうが、仮に誘われて入会した人がいても、その人は創価学会に呆れ・さらには危険を感じて必死で脱会するでしょうね。
>「創価の方は。。信仰のことを活動とか闘う。。と、おっしゃいますね。。」と。。
キリスト教の方が仰るのも尤もですね。
私も違和感を覚えます。
普通、信仰を活動とか・・まして戦いとは呼びません。
世間的な常識的な感覚でもそうだと思います。
信仰とは「実生活」そのものだと思います。
さらに言えば実生活」に息づく心の世界だと思います。
決して、どこの宗教団体に属せばいいという次元ではありません。
内なる世界の投影が現実世界です。
「辛い現実だ!変えたい!」そう思う人がいる。
「現実が転換出来るよ^^。福運がつくよ^^。」そう囁く悪魔がいる。
現実は、実が現れると書きます。
すでに内なる世界が現れた結果です。すでに「実」です。
すでに現れた「実」をいじっても、何にもならない。
その「実」はますます傷むだけです。
「実」となる前の、内なる世界を変えればいい。
すでに「実」なってることに悲しまず、現実がどうあれ内なる世界をスキップ♪的な思いに変えればいい。
その「実」はやがて顕現化する。
そんなふうに思います。
その本来の「内なる視線」が信仰だと思うんです。
その視線は神様の視線であり、仏の視線です。
みんな誰しもあります。
本来、宗教団体など必要ないのです。
もちろん創価学会は宗教団体なんかじゃありません。
腐りきった営利団体です。
日蓮利用・宗教利用してるだけのカルト団体です。
カルトや営利団体は「欲」だけ!自分たちの都合だけです。
ほら、その証拠に新聞だの選挙だの寄付金だの、それらの数字ばかりじゃないですか^^;。
押し付けるのは、池田氏の個人崇拝です。
個人崇拝を叫ぶようになれば、なんか・・・もうお終いだと思いますね。
膨大な財力で自分たちの汚辱の実態が表面化しないように、マスコミや各分野を抑えるのが精一杯でしょう。
まあ、しばらくは抑えれるとは思いますが。。。
現実になった「実」
たしかに悲惨な「実」や辛い「実」かもしれません。
でも、神様の視線や仏の視線・・・ハイヤーセルフと呼んでもいいかもしれませんが、自我以外の崇高な視線も自身にはありますし、それらの視線で捉えれば、「ハッピー♪」な事柄の因と見えることも多いです。
そう捉えたら、そうなります。
そんなふうに連鎖していきます。
現実もまた、そう確定してるわけじゃない。。。
そう見えても、それは一現象にすぎない。
現実も、以外に固くなくて・揺らいでる・・
そんな存在だと思います。
自身の見かた・捉え方で、それが確定する。
そんなふうに思います。
なので、創価学会など・そんな社会悪など抹消すべきですが、宗教自体必要ないと思います。
幸福に生きるということ
「三世永遠の幸福の軌道」なんて言ってますが、実際には学会にお金をむしり取れてるだけ…。まだ活動家だったころ、ふとこんな疑問が頭をよぎったのを覚えています。「昔のキリスト教にあった免罪符みたいだな」。
さきほど、「過程が大事。過程が人間を鍛える」的な意見が散見されましたが(言い方があまりにも高飛車でエラソーなんでナナメ読みしかしませんでした)、押し付けの正当化以外のなにものでもありません。マッチョになりたい人が、重いバーベル持ち上げ体を鍛えるのは勝手です。唄が上手くなりたいヤツが酸欠でフラフラになるまで歌うのも勝手です。その辛く苦しい過程の先には、結果という輝かしい未来が待っていることでしょう。信仰による活動も同じで、そうなりたい人がやればいいんです。なりたくないと考える人に対し人格を否定するがごとき発言なんて、何人たりとも赦されてはいないんです。「体を鍛えないなんて軟弱だ」なんて言うマッチョがいたら、「押し付けるのはやめろ!」となるのが普通なんです。
その普通が通用しないのが創価学会。もっとも、学会活動という過程の先にある「輝かしい結果」がいったいなんなのか、明確なヴィジョンがまるで見えて来ないのですけどね…。
…ところで、「招かざる客」のせいでもありますが、やはり学会ネタになると盛り上がりますね、運ちゃんさん。
良識派2割、狂信派8割?
自浄力が残っていれば、必ず池田体制後に
変化が出てくるはずです。
残っていなければ、徐々に衰退していくでしょう。急激な崩壊はないと見ています。
人の弱みに付け込んででも
お金を騙し取っても広宣流布のために使えるからいいんです。
あれ?
思い込みが強くたっていいんです
「運ちゃん」さんは運送会社のドライバーだ、に大爆笑してました。
学会話題は確かにもりあがりますね
個別にレスをしたいのですが、今回はご容赦を。
トニーさんも言っていますが、やはり学会の話題というのはコメント数が違いますね。
でも「運ちゃん」というHNでいきなり運送会社のドライバーと解釈するあたりが、想像力ないことを現していますね。
とりあえずこちらのブログでは「あべひ氏」をアク禁にしました。
ただ別の方には、一応内容を確認しながらまとめてみようと思います。
(少し物好きですね・・・・・)
場所はこちら
http://www1.ezbbs.net/03/sougaku_salon/
学会話題は確かにもりあがりますね
個別にレスをしたいのですが、今回はご容赦を。
トニーさんも言っていますが、やはり学会の話題というのはコメント数が違いますね。
でも「運ちゃん」というHNでいきなり運送会社のドライバーと解釈するあたりが、想像力ないことを現していますね。
とりあえずこちらのブログでは「あべひ氏」をアク禁にしました。
ただ別の方には、一応内容を確認しながらまとめてみようと思います。
(少し物好きですね・・・・・)
場所はこちら
http://www1.ezbbs.net/03/sougaku_salon/
No Title
勝利とは・・・。
確かに、人生は勝ち負けではありませんよね。
応援ぽち♪
無題
ネットで公開していると言う事は
異を唱える書き込みに対して「アク禁」で対処すると言うのは
創価板ではよく見られる対応であるともいえますね。
個人的には結局アンチ板も同様なのかと言った感想ですね。
ネットではよくある
いつまでもだらだら続けていることは、いいことではないと思います。
堅皇さんへ~確かに言えてますね
ただ学会と違う点が2、3あることも忘れてはならないと思います。
一つには、あべひさんの物言いがあまりにも高飛車で攻撃的だったこと。運ちゃんさんが、およそ話し合う態度ではないと判断したからアク禁にしたのは経緯から見て明らかです。
二つ目に言えるのは、運ちゃんさんが、バリ活の発言をすべて排除しているわけではないという点。僕はバリ活のブログを見たことがありませんが、反対意見を排除する傾向が強いのはいったいどちらか比較するまでもないと考えます。
三つ目。そもそもこの想学サロンには、反対意見が言える自由な気風があるということ。この点を見逃してはならないと思います。
問題なのは、個人の幸福が祈りよりも学会活動になっていること。
どうでもいいので
本題です。
今回の同時中継でも
学会活動をしようと
奨励されてましたが
創価学会の全世帯の
2割程度の人しか
各種会合で使う
大白蓮華を
購読していません。
すなわち、
大白蓮華の購読数が
活動家の数になるので
創価学会の全世帯の
2割程度の人が
学会活動をしている
のであって、
(2割が中心の努力で公明党の得票数は本当に凄いと思います)
残りの8割の人は
良くて月1の
座談会に参加するか
月1の同時中継に
参加するかサボるか
そんな感じです。
また、家族の都合で
勝手に御本尊を
持たされたり、
消息不明の
幽霊会員もたくさん
たくさん含まれてます。
これは、
学生部以上で
一度でも役職を
経験して部員名簿や
統監カードで見た
全ての学会幹部が
思うことなんですが
各組織の
部員数に対して
活動家の人数が
圧倒的に異常に
少なすぎるのです。
全世帯のたった
2割の活動家が
頑張ってるから
使命があるとかじゃ
なくて、全世帯の
8割も未活動家が
いるってことで
祈り(勤行・題目)は
大切だけども
創価学会の活動は
続かない人が多いし
創価学会の活動を
したくない人の
圧倒的な多さを
物凄く実感します。
池田先生は仏法は
勝負と言いますが
池田先生が求めて
いるものは
戦いのプロセスでは
なくて戦いの結果
すなわち成果です。
たくさんの本流を
達成した個人や
たくさんの世帯が
増えた組織の長を
本物の師弟と
認められますが
ようするに
約束の数字や
決意した数字を
達成できれば
池田先生は本物の
弟子であると
認めてくれますし、
学会活動を
頑張ればどんな人でも
必ず幸せになれると
昔から何十年も
根本的に同じことを
指導していますが、
現実問題として
創価学会の全世帯の
8割以上の会員は
池田先生や
現在の原田会長の
指導に反して
やはりと言うべきか
全く学会活動を
しようとも
思わないようですよね。
これって、
まともな役職のある
学会員なら誰でも
思っていることだと
思いますよ。
なんで会員数が
これだけいるのに
活動家がこんなに
少ないんだろうって。
無題
どう捉えられても構いません
>個人的には結局アンチ板も同様なのかと言った感想ですね。
以前の記事にも書きましたが、基本的にはアク禁は好きではありません。
でもブログが荒れたり、無為な言い争いになる事を僕は許容するほど器がありませんので、管理人としてアク禁にしました。
アンチ板とか罵詈板以前に、WEB2.0の世界の中では良くある話ではありませんか?
WEB2.0とは相互のコミュニケーションが取れるネット世界を言い表していますが、相互のやり取りであれば望まない交流というのも発生します。
望まないものを放置するか、アク禁にするかは手段の問題というだけです。
まあどう捉えられても構いませんけどね。