なんで僕らには物語が必要なのだろうか。
なんで僕らには歌が必要なのだろうか。
立川談春の「赤めだか」では、立川談志がこんな風に言い放つ。
どんな芸能でも多くの場合は、為せば成るというのがテーマなんだな。一所懸命努力しなさい、勉強しなさい、練習しなさい。そうすれば必ず最後はむくわれますよ。良い結果が出ますよとね。
(中略)
落語はね、この逃げちゃった奴等が主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない情況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやったほうがあとで楽だとわかっていても、そうはいかない。八月末になって家族中があわてだす、それを認めてやるのが落語だ。
ここ数年、色々と周辺事情が厳しくなって、今までのように、達観したり韜晦したりもしにくくなってきた。ようするに、仕事が忙しくなって、おちおちマンガを読んでもいられなくなってきたということだ。
そして忙しくなって見ると、自分の欠点ばかりが表に出てくる。忘れ物、無くし物、勘違い。整理もできないし、スケジュールも滅茶苦茶。つくづく自分に嫌気がさしたり、気落ちしたり、そりゃあまあ、色々ある。
そして、時間と心の余裕がなくなると、心は歌と物語を忘れる。
・・・いやあ、本当に、心がストレスでひずんでいくと、物語を読めなくなっていくものなのですねえ。
こんなとき、思うのだ。
なんで僕らには物語が必要なのだろうか?
なんで僕らには歌が必要なのだろうか?
*
企業でも国家でも何でも、拡大期の成長神話は、いろいろな致命的問題を意識から隠してくれる。
昔の僕は、時がたてば自分も成熟すると思っていた。
訓練して、努力していけば、落ち着いて物事をこなせる人間にいつかはなるだろうと。
そうすれば、僕にどうにかあるらしい「奇抜な発想」という長所を生かして、何か社会のお役に立てるだろうと。
いまは、どうかなあ?、と思っている。
忙しくなって複数のタスクをこなさなければならなくなってから、失敗は、年々悪化しているように思える。一人で物を作っていたときなら挽回も可能だが、人と一緒に仕事をすると、他人に迷惑をかけてばかりだ。
奇抜な発想という、怪しげな長所についても、どれだけメリットがあるか、正直言って首をかしげるようになってきた。時間が無くなり、不安が増すようになってからというもの、文章もまとまりがなくなっているような気がする。
結局、本来の私は、スローペースでしか物事をこなせない人間だったのだ。世で必要とされる人間とは、軽く要領よく手の早い人間だというのに。
それでいて、いろいろなところに手を出しすぎる悪癖が直らない。成功に必要な素質とは、選択と集中だというのに。
そんなわけで、呻いている。
*
客席にいる周りの大人をよく見てみろ。昼間からこんなところで油を売ってるなんてロクなもんじゃねェヨ。
でもな努力して皆偉くなるんなら誰も苦労はしない。努力したけど偉くならないから寄席に来てるんだ。
『落語とは人間の業の肯定である』。よく覚えときな。教師なんてほとんどバカなんだから、こんなことは教えねぇだろう。
嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな。
談志は、こんな風に言い放つ。
まあ、本当に努力したかどうかはわからないのだが。
*
このまえ、妻と、僕の両親と、親戚の叔母で墓参りに行った。
僕が、昔からのほほんとして、プレッシャーとか不安とか感じない人間だ、というような話が出てきた。
まあ、僕は年中マイペース人間ではあるが、それは年中失敗して頭を抱えているのを、あいそわらいを巻き散らかしてごまかしているからだ。まあ、外からみて、能天気と見えるのは、擬態成功ということで喜ぶべきなのだろう。
僕は、苦笑いしながら、
「もう最近は、風呂の中で耐え切れなくなって、畜生畜生と呻いたり、悲鳴上げたりしてますよ」
と、笑いながら言い返した。
「ああ、言ってます、言ってます」
と、妻がまぜっかえした。
母が大笑いした。
「ああ、もう、お父さんそっくり」
「そうなんですか?」 と、妻。
「もう、お風呂の中で、畜生とかうめいたり、歌いだしたり」
「ああするする」
「ホント似たもの親子なんだから」
妻と母がふたりでもりあがって楽しそうに話し始めた。
僕が苦笑いすると、運転席の父も苦笑いしてブツブツつぶやいていた。
「畜生といえるときはまだ良いときで、本当に厳しくなると、呻くことも出来なくなるんだよな」
僕はため息をついた。
同じトラックを周回遅れで走っている、ということなのだろう。最近よく、父と酒を飲んでみたいと思う。
*
「落語は人間の業の肯定だ」
人間は、年とともに変わる。あきらかに。
10代の物語があり、20代の物語がある。
10代の業があり、20代の業があるからだ。
今まで書き綴ってきた「異邦人たち」の物語は、僕の20代に作った物語だ。
では、今、自分の成長の限界が見えてきたこの位置から、僕は何をもって自分の物語とするのだろうか。それは人に語れるものなのだろうか。語る価値のあるものになるのだろうか。
潰されそうな不安や、砕けたプライドや、残ったかけら。
そんなものをジグソーパズルのように集めながら、もう一度、自分の形を組みなおしていく。
まあ、それはそれで、面白いものかもしれない。
「業の肯定」
もう一度、等身大の自分と向かい合って、自分の業を肯定してやること。そして、できれば自分を許してやった分だけ、他人も許してやれるような、いつかそんな歌は歌えないもんだろうか。そんな物語は語れないもんだろうか。
最近は、よく、そんなことを考えている。
映画監督の押井守が、なかなか耳の痛いことを言っていました。
『自分の限界が見えるってことは自分の正体がわかるってことでしょ?それはいいことだと思いますよ。自分の正体っていうのは実はなかなかわかんないけれど、僕はたまたま映画を作ってるから。作品作ったり表現したりっていう人は、わりあい自分の正体に気が付く機会が転がってると思うんですよ。そうじゃないと一生わからないかもしれない。それこそ政治家なんて一生気がつかない可能性だってある。
どこかで落としどころを見つけなきゃいけない。物語や表現にかかわってる人間っていうのは、自分の正体に気づくチャンスがあると思うよ。一本や二本じゃわからないかもしれないし、一本でわかっちゃう人もいるんだろうし、そういう人は、ランボーみたいなもんで天才っていうんだろうけど、僕はただの凡人だから、そうすると、作り疲れたところに自分の正体がわかってきたというかね。それは限界といえば限界だけれど、それはいいことなんじゃないかな。それは自分でもよかったと思ってるんです。(中略)はっきりいえば。自分の中に何かがあるという幻想がある間は、自分の正体はわからない、ということなんじゃないのかな』(押井2004:p40-41)
限界を知ることが自分の正体を知ることだというのは、若輩の自分にはなかなか辛いところです。
僕はまだ何も身につけてないのに、限界も正体もないだろう、と
押井守 2004 「有機亡霊論」『押井守論』日本テレビ放送網株式会社
Posted by: 333 at May 20, 2011 10:06 PM自分の正体と落としどころってのは、ホント大事なんですよねえ・・・。僕の問題は、頭で大事だとわかっているんだけど、それが実行できないことで。
バガボンドの吉岡戦みたいに「頭が動かなくなるまで作り疲れる」ってのが、大事なんでしょうね。そこではじめて正体が出るんだろうと思います。
Posted by: 三等兵 at May 21, 2011 09:38 AM>いろいろなところに手を出しすぎる悪癖が直らない。
>成功に必要な素質とは、選択と集中だというのに。
選択と集中なんてコトを真面目にやったら
やりたくもないTODOをやったり、
やりたいTODOを断念したりしなくちゃいけないと思います。
そこまでイヤな思いして得られるのが、高々「成功」というのでは
対価として釣り合わないんじゃないですか?
成功しなくても、ヘタ踏まなきゃなんとか生きられないでしょうか。
>成功しなくても、ヘタ踏まなきゃなんとか生きられないでしょうか。
I hope so. そうですねえ。成功よりも楽しい人生はありそうですしね。
Posted by: 三等兵 at May 23, 2011 11:03 PM