日蓮宗 妙祐山 幸龍寺
みょうゆうざん こうりゅうじ
加藤清正を祀る寺
住所:世田谷区北烏山寺町 最寄り駅:京王線烏山駅
2008/05
当山の由緒は、天正7年(1579)徳川家康公いまだ浜松主の時、正心院殿日幸尼(大姥の局、2代将軍秀忠公の乳母、岡部氏)の願いを入れて城外「しんどう」に堂宇を建立、玄龍院日x聖人を開山に招き、徳川家の祈願寺としたことにはじまる。
家康公は東海三国を領有し、居城を駿府に移すと当山を伴って城外の「さきのみや」に移転、江戸入府後の天正19年には、再び当山を神田湯島の地に移した。
2代将軍秀忠公は御正室解任の折、継嗣の出生と安産の祈願を当山に命じ、無事に男子(3代将軍家光公)が誕生すると鬼子母神・十羅刹女を造立の上、朱印50石を寄進した。
その後、当山は浅草田圃の新谷殿(順正院殿、お夏の方、家光公室)公邸八千坪を拝領の上、江戸城拝礼席次「白書院独礼」の格式を賜った。
5代将軍綱吉公は当山寺地を拡大、境内10350坪とし、朱印も150石に加増、順正院殿日圓大姉の霊殿うを設け、大規模な造営を行った。これより当山は、徳川家香火院に列し、東都蓮門江戸五山の随一と謳われた。その後29世日慈聖人代に関東大震災により現在地に移転。
本尊は大曼荼羅、祖師像は江戸十大祖師の一。
山門
寺宝として前期の鬼子母神・十羅刹女像の他、光明皇后御筆写経、加藤清正公筆軸、長谷川雪提筆清正公出陣の図等多数を所蔵する。
建築物のうち、山門(松本伊豆守寄進)・清正公堂は浅草より移転した江戸天保年間のもの、大書院は細川公爵家から移築したものである。
幸龍寺略由緒
清正公堂
山門(正面)
扁額
山門(裏面)
本堂
江戸時代の幸龍寺の位置
今戸箕輪浅草絵図 (1853)
現在の広隆寺の位置
京王線烏山駅で降り寺町通りを北へ、旧甲州、甲州、高速下を通り過ぎてまもなくのところにある。江戸時代浅草で屈指の巨刹であったそうであるが、現在でも寺町にある寺の中では最も大きなお寺のようである。
幸龍寺
幸龍寺は同町十六番地にあり。妙祐山と号す。
日蓮宗にして京都本国寺末なり。天正19年日春上人之を湯島に建設し。寛永年中現地に移れり。
当寺は浅草屈指の巨刹にして。徳川家歴世将軍の帰依深く。朱印150石を領せり。もと遠州国に在りしを。家康公の移したるものなりといふ。
境内に肥後熊本より奉祀せる清正公又柏原という結縁の神ありて花柳界の信仰するところたり。
東京名所図会 睦書房
「江戸名所図会」には掲載されていない。明治期に出来た「東京名所図会」に見ることが出来た。
「清正公大神祇」について「東京名所図会」に熊本より奉仕祀と書いてあるが寺の略由緒では触れられていない。そこでお寺のお坊さんに尋ねてみたが、由緒などは不明であるとの回答であった。
「清正公大神」、「柏原大明神」共に江戸時代は寺内の神社であったものが、明治初期神仏分離令が発令された際「南無」を付けて仏様として引き継がれたのではないだろうか。現在お堂の中を見ると鏡と清正公像が祀られているようである。
江戸時代、幸龍寺は浅草寺の西側にあった。今の浅草ビューホテル位置である。浅草地域の大半は町名が付いておらず、「浅草田圃」と呼ばれていた。
手洗い桶には加藤清正家の家紋「桔梗」と「蛇の目」が描かれている。