臨済宗   円満山    広徳寺
  
     えんまんさん     こうとくじ

  住所:練馬区桜台6丁目   最寄り駅:西武池袋線練馬駅
                          都営大江戸線練馬駅
2004/11
圓満山廣徳寺
大徳寺派の禅宗にして、始め相州(相模国・現神奈川県)小田原にありしを天正19年(1591)江戸に移され神田にて地を賜う。(昌平橋の内にありしなり)。その後寛永の末今の地に移る。開山を希叟(きそう)宗かん禅師といへり。
江戸名所図会
江戸期大名家の墓が集まる寺
下谷北稲荷町(現台東区東上野)
臨済宗広徳寺は京都大徳寺末。初め相模国にあった。開基は天正10年(1582)没の武蔵岩槻城主太田源五郎(北条氏政次男)で、源五郎は広徳院殿という。文禄2年(1593)神田で寺地1万坪を拝領して移り、寛永12年(1635)同所が御用地になったので下谷に移った。寺領はなく蔵米50俵。品川東海寺、渋谷祥雲寺とともに大徳寺派の江戸3刹とよばれる。塔頭も徳雲院、宋雲院、桂徳院など、10院1庵を数えた。表門には左甚五郎作の水と犀が彫ってあり、七度まで類焼を免れるという伝説があった。また広徳寺の総門は寸尺足らずの門とよばれて有名であった。
文化元年(1804)には三笑亭可楽が門前の水茶屋で夜講を開き、3題噺で人気を集めた。関東大震災後下練馬(現練馬区)へ墓地と塔頭円照院が移転、昭和46年(1971)には本坊も移転した。桂徳院は昭和38年に移転。
日本歴史地名大系
東京都の地名
練馬村
臨済宗大徳寺派の広徳寺と塔頭の桂徳院がある。広徳寺はもと下谷にあり、江戸屈指の大寺院であった。大正12年(1923)の関東大震災後、当地に塔頭の桂徳院と円照院(現埼玉県両神村)が移り、墓地も移転した。墓地には剣法の柳生宗矩父子、筑後柳川城主立花宗茂など近世大名20余家の墓がある。
同上
廣徳寺
廣徳寺は臨済宗大徳寺派のお寺で、台東区東上野にあったのが、大正2年の関東大震災を受けたあと、この地に2万坪の(約6万6千u)の土地を求めて移ってきた寺である。最初塔頭の円照院と墓地が移り、別院としたが、戦後、桂昌院や本寺も移ってきた(別院の円照院は秩父に移る)。この寺は元亀・天正(1570-92)の頃、岩槻城主北条氏房が義父太田三楽の菩提を弔うため小田原に建てたものを、徳川家康が神田に、後に下谷に移されたもので、諸大名、旗本の帰依するものが多く、塔頭も15を数え、「ビックリ下谷の広徳寺」と言われるほどであったが、幕末動乱と関東大震災で塔頭も桂徳院など4院に合併され少なくなった。寺の墓地には、柳生、前田(大聖寺)、小堀、織田、立花、小笠原、秋月、細川(谷田部)、市橋、関、松浦、真田(松代)、桑山、滝川、松平(会津)などの大名の墓が並んでいる。
練馬を往く
練馬区教育委員会
近くを取材に行きたまたまである。門前に「広徳寺・大名の墓」の説明板を見つけた。拝観しようと思ったが中の山門のところに「拝観お断り」と書いた板が置いてある。お坊さんが庭の掃除をしていたので拝観のお願いをしたところ、了承してくれた。少数の拝観者は受け入れているが、大勢の場合は断っているというのだ。立派な寺だから維持に苦労しているらしい。「墓の拓本取りなどしないで下さい」と言われた。
一番手前の柳生家の墓。奥に多くの大名家の墓が見える。
広徳寺  下谷絵図 (1862)
中央を東に走る道が現在の浅草通り
2万坪の敷地を持つ広徳寺は東京の寺では最大級である。現在の寺院の規模では浅草寺が約3万坪、芝増上寺が1万6千坪。
前田家墓地から奥に見える大名家墓石群
左:小笠原家墓地
下:説明板
江戸時代の墓の多くは指定文化財になってる。こちらは指定という記録が無いのでお坊さんに「文化財指定になっていないのですか」ときいた。「指定の話は持ち込まれていますが、すると一般公開しなければならなくなり、墓所、寺が荒れるので断っている」とのこと。それもいいことと思う。
江戸時代広徳寺のあった場所。現在は台東区役所他が建っている。
中央の通りは「浅草通り」
広徳寺の移転
現在の広徳寺
弁天通商店街の道を石神井川まで行くのがわかりやすい。車通行可。
立花家墓地
広徳寺総門