大熊の南方・北方御社宮司社 諏訪市湖南 21.3.28

 諏訪には多くの御社宮司社がありますが、枝郷を率いる親郷にあるのが御頭御社宮司社です。親郷は15ありますが、「大村である上金子村だけが御頭をローテンションの中で2回勤めた。そのため、村内に北方・南方と御頭御社宮司社を二社造り交互に奉仕した」とあります。
 一方、親郷である大熊(おぐま)村にも南方・北方と二社の御社宮司社がありますが、いずれも「御頭」が付かない御社宮司社です。なぜ、という素朴な疑問ですが、この事に触れた資料を見つけることができません。
 明治期に、南大熊から南・北御社宮司社合併の申し入れがあったそうです。北大熊の猛反対でその話はなくなりましたが、(そのしこりで)村内すべての神社を南北に分ける事態にまで発展したそうです。祭神・鎮座地を無視した「くじ引き」で分けたと言いますから、神社合併が、逆に分村に近い騒ぎに至ったことになります。
 そのことから、村の南部と北部には古くから主導権争いがあったことが想像されます。それを収めるために御頭御社宮司社を二社造り、御頭の主導権(仕切り)を交互に果たす方法に落ち着いたのでしょう。上金子村の南・北御頭御社宮司社と違い、これはあくまで村内の事情なので、南北それぞれが御頭の年に奉仕する御社宮司社を、(対外的に)「御頭御社宮司社」と称したと思われます。御頭の年以外では固定しない「御頭御社宮司社」ですから、それが「ただの御社宮司社」として今に続いているのでしょう。

南方御社宮司社

南方御社宮司社 大熊公民館から山に続く道をたどると、初対面は、余りの急坂ゆえに「アゴの先の南方御社宮司神社」となりました。
 古社に不似合いな新しい碑を読むと、何と、「ここに移転した」とあります。本の紹介で初めてここに来ましたから、かつての鎮座地がどこにあるのか想像もできません。
移転由来
 ここに移転復元された南方御社宮司神社は以前この地から約二百メートル南東の地にあって、緑の木立の中に氏子の心の寄りどころとして静かに鎮座されていましたが、昭和四十一年七月国土開発幹線自動車道路法による中央自動車道西宮戦の決定により神社の移転が要請されたのであります。
 爾来(じらい)遷座先の位置、神社の復元計画等関係者の努力が続けられた結果、地主の協力を得てこの場所が選定されたのであります。
 昭和五十一年二月、神社移転について地元から依頼を受けた市長は、神社の尊厳を具現するための構想を基に地元から選出された建設委員と共にこの計画の推進を図り、市内を一望に見渡すこの地に南方御社宮司神社の新築等遷座を終了したのであります。
 郷土の限りない繁栄と恒久の平和のためにご加護をこい願い、ここに神社移転の由来を記して後世に残さんとするものであります。
 境内に「大正橋」があります。もちろん空川ですから、旧鎮座地にあったものを移転したのでしょう。その他“一族郎党”引き連れての引越ですから、同じ境内に、新しい拝殿や社務所と年代が大きく隔たった石祠も同居していることになります。
 境内の左奥に小さな標柱がポツンとあり「御社宮司社」と彫られています。これも移転したものでしょう。傍らの碑には「南方80mから移転」とありますから、入口の碑「南東200m」とは、双方の位置を差し引いても大きく食い違っています。こちらは、「社標の原位置から」と解釈すべきでしょう。
南方御社宮司社
 左下が南方御社宮司社です。鎮座地の文字描写より、この写真の方が一目瞭然でしょうか。ここでは中央自動車道と御社宮司社の話ですから、左方の八ヶ岳は大幅にカットしました。

北方御社宮司社

 上り下りはありますが、中央道に沿った道をのんびりと進みました。遠目ではお寺の御堂に見えたのが、北方御社宮司社の参集所(舞屋)でした。
北方御社宮司社 前回訪れた時に目にした「日参」の木札は見当たりませんでした。「札」の持ち回りで、各戸が必ず参拝(見回り)するシステムと聞きましたが、この一年の間に廃れたのでしょうか。
 拝殿に向かうと、上部から車の走行音が伝わってきました。「古社の雰囲気があります」と書くと、半分「荒れて寂れた」というイメージになりますが、拝殿右の石祠は、反っくり返ったりお辞儀をしたり、果てはバランスを取るために石を差し込まれたりと末期状態の姿です。整備された南方御社宮司社を参拝した直後ですから、地元北方の氏子にとっては、強制収用を免れたことは不運と見るべきでしょうか。
北方御社宮司社 拝殿の左側から、本殿が一番よく見えるように撮ってみました。三方は石垣で囲われていますが、諏訪湖を囲む標高750mラインにある神社の例に漏れず、拝殿の後ろの斜面に押し込めたような窮屈さでした。
 この先は、習焼神社・蓼宮神社・千鹿頭神社・小坂鎮守神社・小坂御頭御社宮司社と、諏訪明神以前からあったと言われる古社が続いています。習焼神社はやや離れていますが、いずれも中央自動車道のすぐ下に位置しています。しかし、「諏訪大社」目当てに参拝に来る人には“興味外”の神社でしょう。

南・北方御社宮司社遠望

 市街地を挟んだ足長神社から、中央自動車道下にある南・北方御社宮司社を撮ってみました。
北方御社宮司社 上部の構造物が中央自動車道です。南方御社宮司社の旧鎮座地は、写真では左一杯に寄った高速道路の下辺りと思われます。
 国土地理院の地図では、現在の南方御社宮司社のすぐ下が標高800mラインです。遙か昔はその下50mが諏訪湖面だったと言いますが、まったく想像できません。
南方御社宮司社 中央上が北方御社宮司社の舞屋の屋根です。地図では標高約810mです。
 因みに、諏訪大社本宮が約770mで前宮本殿が約800mです。改めて地図を見ると、中央自動車道は諏訪大社上社を避けて平地側へ迂回しているのがよくわかります。