◆3月20日午後11時、飯舘村
飯舘村は震災当日、震度6弱の大きな揺れに見舞われたものの建物に大きな被害はなく、南相馬市などから1300人以上の被災者を一時受け入れた。
原発からは北西へ28~47キロの内陸部にあり、当時は大半が屋内退避(20~30キロ)圏外。だが、相次ぐ原発の爆発で吹き飛ばされた放射性物質が風に乗り、折からの雪で村に降っていた。それを約6200人の村民や被災者が知るのはしばらくしてからだ。
3月20日午後11時。文部科学省から飯館村役場への電話はあまりに突然だった。「明日午前7時から全水道の摂取制限をしてほしい」。村にある滝下浄水場から965ベクレルの放射性物質が検出された。大人の暫定規制値(300ベクレル)の3倍、乳児の規制値(100ベクレル)の10倍近くに達していた。
門馬伸市副村長は耳を疑った。水道が使えない。しかも、あしたからとは。「時間がない」。県の災害対策本部に村民1日分のペットボトルを届けるよう要請し、村民に翌朝、一斉に広報するための人集めやビラ作成に夜通し追われた。
早朝から職員が総出でペットボトルを各戸に配った。翌日、自衛隊から水を供給され、ようやく落ち着く。
「国は簡単にできると思っているのか、電話1本で。そんな態度なのか」。門馬副村長は「この仕打ちは忘れない」と憤った。
のちに「全村避難」をめぐる村の国への不信は、この時生まれた。
「水騒動」から10日後の3月30日、追い打ちをかける衝撃的な発表が海外であった。
国際原子力機関(IAEA)は飯舘村を名指しして、測定の結果、村の土壌汚染がIAEAの避難基準の2倍に相当すると指摘した。
事実上、日本政府に避難指示圏の見直しを求める勧告だ。前日の29日、世界貿易機関(WTO)の非公式会合で、食品輸入禁止や工業製品まで含めた検査強化に対し、過剰反応をしないよう日本政府が要請した直後だった。
31日、原子力安全・保安院の平岡英治次長が役場を訪れ、IAEA勧告について菅野典雄村長に「現時点で新たな避難などの措置を取る必要はない」と説明した。
村長は安心した。ところが同じ日、枝野官房長官は官邸での記者会見で「人体に影響を及ぼす可能性が長期間になりそうなら、退避等を検討しなければならない」と述べた。「国はやはり我々を村から追い出そうとしている。そうなれば村民の仕事はなくなり、生活していけない」。菅野村長は警戒した。
勧告2日後の4月1日、IAEAは追加測定の結果、避難基準を下回ったと発表したが、菅野村長は「先手」を打つ。妊婦と乳幼児らを村外に退避させることにし、5日に菅首相宛ての「提言書」を作成して送った。
「さまざまな機関が調査した情報が村に事前の報告・相談なしに一方的に公表されるとともに、単に『数値が高い』ことのみ強調され、『世界の飯舘村』になってしまったことによる村民の不安と心労は計り知れない」。提言書には、全村避難だけは避けたいとの思いがにじんでいた。
一方、村のEメールボックスには東京や大阪から「避難をのばして村民をモルモットにする気か」と抗議が殺到した。
◆4月6日
翌4月6日、内閣府原子力安全委員会が、政府に伝えた防災指針変更の内容を発表する。「年間の累積被ばく放射線量が20ミリシーベルトを超える可能性がある住民に、避難などの措置を講じる」。これまでは10~50ミリシーベルトで屋内退避、50ミリシーベルト以上で避難だったが、基準はより厳しくなった。
会見した安全委の代谷誠治委員は「防災指針は事故の長期化によって実情に合わなくなった」と説明した。
このころ、日本の農産物の輸入規制は欧米やアジアだけでなく中東や南米にも広がっていた。菅野村長は「国としてしっかりやっている、と言うために『世界の飯舘』を標的にするつもりだ」と不信感をいっそう募らせた。
同じ6日。飯舘村の広瀬要人(かなめ)教育長に、文科省の前川喜平総括審議官から電話が入った。「すぐに避難の準備をしたほうがいい」
面識のない相手からの突然の連絡に、広瀬教育長は戸惑った。「なぜ私に電話をしたんですか」。前川審議官は、鈴木寛副文科相の指示だと答えた。広瀬教育長は「村長に直接言えば、正式な通知になってしまうからだろう」と推測し、避難に向けての政府の「地ならし」と受けとめた。
同様の電話は同日夜、のちに飯舘村全域とともに「計画的避難区域」に一部が指定される川俣町の神田紀(おさむ)教育長にもあった。「今、官邸サイドでやっているが、これから川俣町の一部が場合によっては避難指示のようなことになる。対応は可能か」。そう尋ねる前川審議官に、神田教育長は「大変なことになる」と反発した。
「これから官邸に出向いて伝える。この件については町長にもマル秘(秘密)として取り扱ってほしい」。前川審議官が口止めしたことが神田教育長のメモに残されている。
飯舘村の広瀬教育長は「近く避難区域に指定される」と予感し、すぐに菅野村長に報告した。菅野村長は翌7日に急きょ上京し、官邸で福山哲郎官房副長官に説明を求め、2日前に送付した提言書を直接手渡した。だが、その場で福山副長官は新たな避難区域の指定には明言を避けた。
4月10日、福山副長官は飯舘村、川俣町の首長2人を訪問する。用件を察した菅野村長は混乱を避けるため、面会場所を報道陣の待ち受ける村役場ではなく、福島市内の県知事公邸に指定した。
「おおむね1カ月以内に全村民の避難をお願いしたい」。そう切り出す福山副長官に、菅野村長は思いのたけをぶつけた。
「会社もつぶれる。生活のリスクを少なくしながら避難させないと大変なことになる。もっと柔軟に考えてもらわないと『はい』とは言えない」
議論は3時間に及んだ。しかし、「全村避難」という政府の方針が変わることはなかった。
◆4月11日午後4時、官邸
4月11日、枝野官房長官は、20キロ圏外で新たに避難を要請する「計画的避難区域」の指定を発表した。あわせて20~30キロ圏内で幼稚園や小中学校を休校としながら緊急時に自力で避難できる人は区域内にとどまれる「緊急時避難準備区域」の指定も明らかにした。指定に伴い、20キロ圏内は立ち入りが禁止される「警戒区域」になる。
飯舘村は全村が「計画的避難区域」の見通しとなった。この日、村役場で開かれた事業者向け説明会。菅野村長は「この(全村避難の)場面がとうとうやってきてしまった。(国に)負けるか分からないが、本気で頑張る」とあいさつした。たとえ全村避難でも村民の生活を崩壊させないよう国に迫る「闘争宣言」だった。
菅野村長は温厚な人柄と評されるが、決断すると徹底して闘う一面もある。隣接する旧原町市(現南相馬市)などとの合併協議が進んでいた04年、「合併して市になれば中心部以外は取り残されてしまう」として突如、離脱を表明。直後の村長選では合併推進派との激戦を制し、効率化と一線を画す行政を進めた。
5日後の4月16日、飯舘村を訪れた福山副長官に、菅野村長は三たび相まみえた。その場で菅首相宛てに提出した「要望書」には8項目の柱を並べた。
焦点は「牛の移動や補償」「工場の操業継続」「帰還のための土壌改良」。翌17日には枝野長官が村役場を訪問する。この間、政府側は村にひそかに約束したと明かす。
「安全に影響のない限り、(村の提案は)すべてのみます」。村が正式に避難区域に指定されたのは、5日後の22日のことだった。
政府との激しいやりとりで、村の要望のいくつかは実現した。それでも菅野村長は何度もやりきれなさを感じた。避難先として「ある県には数百戸の部屋がありますから、どうか」と持ちかけられたことがある。
「部屋が空いていれば、何のこだわりもなく岐阜でも長野でもどこにでも行けというのですか」。村長はさらに続けた。「だから心の通わない政治をしていると言われるんですよ」
村の計画的避難が始まったのは5月15日。村民は5月末時点で1427人にまで減った。
南相馬市は新たな避難区域の設定で4分割されることになった。警戒区域は1万4259人、計画的避難区域は10人、緊急時避難準備区域は市の推計で約4万6000人。指定のない場所には約1万人がいるとみられる。
いつ指定するかの情報をもたらしたのは、やはり国ではなかった。4月15日、南相馬署から市の災害対策本部に「来週、警戒区域が始まるようだが、どこの道を遮断すればいいのか」と連絡があった。
対策本部は「福島第1原発事故に伴う警戒区域の設定について」と題するA4判の紙を作成。立ち入りには罰則があることを含めた説明を載せ、該当地区とみられる各戸に職員が配布した。正式な連絡は、枝野官房長官による22日の発表とほぼ同時刻に国の災害対策本部から送られてきたメールだけだった。
原発事故から1カ月以上たった時期での立ち入り禁止に、住民の反発は大きかった。「なぜこの時期なのか」「これまで入れたのに、どうして」。市役所の窓口では1時間も居続けて抗議し、つかみかかってくる男性もいた。市職員は「総理の命令だから」と繰り返すほかなかった。
同時に20~30キロ圏内の屋内退避が解除され、屋外活動に制限のない緊急時避難準備区域に変更された。避難していた5万人以上の市民は次々と戻っているが、今も2万人近くが市外に避難する。
原発が最初に爆発した3月12日、政府の早い対応で住民が避難した大熊町。その後、官邸が、役場の知らない発表をするたびに役場のコールセンターには町民からの問い合わせ電話が殺到した。
菅首相と松本健一内閣官房参与が4月13日の会談で、原発周辺地域に「10年、20年住めない」とやり取りしたと報じられると「町も知ってて隠してるのか」「ちゃんと国と連携しろ」と町民から抗議の電話が相次いだ。
町は今、会津若松市に役場機能を移転し、町民は市内の旅館やホテルに入居する。入居期限は7月末。仮設住宅の建設が遅れれば、行き場を失う人も出かねない。
ふるさとにはいつ帰れるのか。警戒区域の中で、3キロ圏内に家がある町民は現在も一時帰宅さえ認められていない。
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この特集は杉本修作、山本将克、伊澤拓也、柳澤一男、浅野翔太郎、神保圭作、関雄輔、尾中香尚里、高塚保、西川拓が担当しました。(グラフィック 日比野英志、編集・レイアウト 深町郁子)
毎日新聞 2011年6月10日 東京朝刊