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検証・大震災:福島原発事故3カ月(その1) 国の避難指示、被災地を翻弄

 東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発の事故で、福島県の自治体は住民の避難をめぐってどう判断し、動いたのか。国に翻弄(ほんろう)され続けた軌跡を追う。

 ◆3月12日夜、福島県庁対策本部

 ◇「本当に20キロですか?」

 3月11日の東日本大震災発生後、首相官邸地下の危機管理センター別室に詰めていた菅直人首相は海江田万里経済産業相らと協議し、午後9時23分、第1原発から半径3キロ圏内に避難指示を出した。12日未明には、1号機の格納容器内の圧力を下げるため、弁を開けて放射性物質を含む水蒸気を逃がす「ベント」実施の必要性が生じるが、午前3時、これを発表した枝野幸男官房長官は記者会見で「(半径3キロの)避難指示の内容に変更はありません」と2度繰り返した。

 ところが直後に事態は急変する。午前5時、仮眠中の枝野長官は海江田経産相の「ベントをまだやっていない」という叫び声で起こされた。「格納容器が破裂する恐れがある」という班目春樹・内閣府原子力安全委員長の助言を受け、範囲をいきなり「半径10キロ」まで拡大する方針を決め、午前5時44分に発表した。

 官邸での鳩首(きゅうしゅ)協議では「住民がパニックになる」との声も上がったが、「やり過ぎてもいいから避難させよう」という枝野長官らが押し切った。

 12日午前6時前。福島県大熊町役場に泊まり込んでいた渡辺利綱町長に、細野豪志・首相補佐官から電話が入った。町には第1原発がある。「総理から原発の10キロ圏内に避難指示が出されました」。原発はどんな状況なのか。渡辺町長は細野補佐官に聞きたかったが、説明はなかった。「いろいろあるでしょうが、安全確保のために協力してください」。細野補佐官はそう言って短い電話を切った。

 大熊町など原発周辺自治体は、事故を想定した訓練を毎年実施している。「原発の注水ポンプが故障して格納容器の圧力が高まり、放射性物質が漏れる」とも想定していたが、町内の体育館へ集合して訓練は終わる。原発が爆発したり、町民が町外に逃げ出さなければならない事態は「想定外」だった。

 12日朝、福島県内だけでなく茨城県や東京都のバス会社から避難用バスが続々と町へ到着した。国土交通省旅客課は、最初の避難指示より1時間以上も前に官邸から「当座100台のバス確保」を命じられていた。混乱はあったものの、自主避難を除いた約8000人が県内約30カ所の避難所に向け出発した。

 最後の1台が出たのは12日午後2時ごろ。町役場に残った鈴木久友総務課長は、北東約4キロにある原発から「パーン」という爆発音を聞いた。午後3時36分、1号機での最初の水素爆発だった。

 「ああーっ」。爆発の映像が官邸のモニターで流れた瞬間、班目委員長が頭を抱えてうずくまった。衝撃を受けた官邸は午後6時25分、避難指示の範囲を「半径20キロ圏内」に拡大した。

 原子力安全委の防災対策指針は「防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲」(EPZ)の目安を「原発から半径8~10キロ以内」と規定。これ以遠では「避難や屋内退避などの防護措置は必要ない」ということだ。「半径20キロに根拠はない。エイヤッ、と決めた数字だった」と、決定過程に関わった文部科学省幹部は振り返った。

 ◇葛尾村事前準備

 爆発が起きた時、葛尾村役場1階の災害対策本部は、不思議な静けさに包まれた。村はほぼ全域が半径20キロ圏外にある。職員の視線は壁際のテレビにくぎ付けになり、爆発を伝える実況中継だけが庁内に響いていた。2階にいた松本允秀村長が下りてきた。「テレビ、見たか?」

 村役場は原発から西北西に約25キロ。松本村長に松本静男・住民生活課長(現災害対策担当課長)が耳打ちした。「ここも避難区域に入るかもしれません。最悪のシナリオを想定しましょう」。松本村長は「まだ動く時期ではない」と返しながら、村民約1600人の避難準備を了承した。

 その夜、避難区域が10キロから20キロ圏まで広がったことを、松本村長はテレビのニュース速報で知った。国や県から連絡はない。松本村長は「連絡がないのはまだ安全だからではないか」と思った。

 同じ12日夜、福島県庁の災害対策本部で、片寄久巳・原子力安全対策課主幹は衛星電話に向かって怒鳴るような大声を上げた。「本当に20キロですか?」。相手は政府の窓口、経済産業省原子力安全・保安院の幹部だ。

 「原発事故に巻き込まれるはずがない」区域。どれほどの数の県民を、どのように避難させるのか。県の担当職員らはコンパスで20キロの線引きを始めたが「中心点は原発か、敷地境界か」と議論になる有り様だった。

 「万一に備え受け入れ可能な市町村を紹介してほしい」。葛尾村のそんな要望も、県は「20キロ圏以上の避難指示は出ていない」と突き返すしかなかった。村役場には「県に何を言っても無駄だ」とあきらめが広がった。

 原発から10~40キロほど北に位置する南相馬市にも国からの連絡はなかった。大谷(おおがい)和夫・市長公室長は、避難区域が10キロから20キロ圏まで広がったことを、やはりテレビで知る。「困ったことになった」。市内の小高区(旧小高町)は大半が20キロ圏内で、約1万4000人の住民がいる。だが、市にも10キロ以上の避難を想定した防災マニュアルはない。

 市は独自の判断を迫られた。「とにかく20キロ圏外に逃げてください」。防災無線を流し、広報車を走らせた。

 ◇「決め手ほしい」

 葛尾村は避難に向けた準備を着々と進めた。13日朝から村民や村外からの避難者に聞き取りをして約150人に移動手段がないことを把握。村営バス5台を準備し、同日夕にはドライバーや誘導役として村営バスの運転手ら15人を指名した。

 原発に関する村の情報源は国や県ではなく、東電やその協力企業の社員を家族に持つ村職員や村民のネットワーク、それに広域消防だった。

 14日午前11時1分、今度は3号機が爆発した。「報道されているより深刻」「東電の社員が原発から撤退し始めた」。松本村長は、職員の話から事態の悪化を感じ取っていた。

 情報交換のため松本村長は午後6時半、原発までの距離がほぼ同じ川内村の遠藤雄幸村長と協議した。「うちは自力で逃げる準備をした」。そう告げる松本村長に、遠藤村長は「こっちは沿岸自治体の避難者を預かっている。動くことは考えていない」と応えた。この会話を最後に防災無線は使用不能になる。葛尾村は孤立し、村独自で避難するかどうか判断するほかなかった。

 午後9時前、災害対策本部のテーブルを村幹部が囲んだ。「国の避難指示は20キロから30キロに広がる可能性もある」。職員の報告を松本村長は腕組みをしながら聞いていた。「決め手がほしい」

 その時、防護服姿の地元の消防職員が息を切らしながら飛び込んできた。「消防無線で聞いたんですが……」。原発事故対策の拠点である大熊町のオフサイトセンターまでが撤退を始めたというのだ。

 「避難すっぺ」。松本村長は即座に判断した。もし避難が空騒ぎに終わったら、責任を取るしかない。腹をくくった。「国や県よりずっと情報は少ない。しかし、一か八かの賭けではない」

 予定通り村民ら約150人を乗せたバス5台が午後10時45分、村役場を出発した。翌朝、2号機と4号機が相次いで爆発。北西に吹く風に乗って放射性物質が村に降下したのは、すべての村民が避難を終えた後だった。

 ◆3月15日、南相馬市対策本部

 ◇「食料、明日には尽きる」

 福島第1原発2号機と4号機で爆発が起きた15日の午前11時。菅首相は原発から半径20~30キロ圏の住民に屋内退避を求めると発表した。南相馬市は市役所のある市の中心部、原町区(旧原町市)がその20~30キロ圏にあたる。だが、この時も国からの連絡はない。

 同市は比較的原発に近い10~20キロ圏も抱え、市への「風評」は既に広がっていた。大手運送業者は市内への物資搬送を拒んだ。屋内退避は原子力災害対策特別措置法に基づく「指示」ではないものの、内外にいっそう「30キロ圏内は危ない」と印象づけた。

 同市は沿岸部で4600戸以上が津波で破壊され、死者・行方不明者が700人を超えた。それでも大熊町などの被災者を受け入れ、約30カ所に避難していたのは約1万人。15日の市災害対策本部会議で市幹部は「多くの避難所で暖房用の灯油が底をつき、提供できる食料は明日には尽きるような状態だ」と報告した。

 桜井勝延市長は「もう被災者を支えきれない」と覚悟した。市外に2次避難させることを決め、夜のNHKニュースで全国に窮状を訴えた。「原発事故で汚染地域扱いされ、物資が届かない。国は指示するが情報はくれない。何とか助けてほしい」

 翌16日朝、新潟県の泉田裕彦知事から「被災者は何人でも受け入れる」と申し出があった。桜井市長らは市内7カ所の避難所などで説明会を開き「ここを維持できない。新潟に行っていただきたい」と頭を下げた。

 だが、新潟県の用意したバスも30キロ圏内には入ってこない。市の手配したバスで30キロ圏境まで住民を運び、そこから先で乗り換えてもらった。

 16日夜、計80キロリットルのガソリンを積んだタンクローリー4台が突然、経済産業省資源エネルギー庁の手配で市に到着した。市幹部は「NHKで桜井市長の話を聞き、慌てて飛んできたのではないか」と推測した。タンクローリーは15日夜、菅首相が原発周辺自治体へガソリンを提供するため経産省に指示したものだった。

 17日には国土交通省の津川祥吾政務官が初めて市を訪れた。「必要なものを言ってほしい」。津川政務官は市長にそう伝えた。震災7日目のことだった。

 ◇人口の7割脱出

 南相馬市立総合病院の小沢政光事務部長は液体酸素の確保に苦しんでいた。震災2日後にも、貯蔵タンクの液体酸素が切れるのを知らせる赤い警報ランプが点灯し、半日から1日で入院患者の人工呼吸器が止まりそうになった。いわき市の取引業者と連絡が取れず、市役所の災害電話を使ってNTTの交換手を経由しながら別の業者とやり取りし、ぎりぎりで補充できた。

 15日になっていわき市の取引業者と電話がつながったが、今度は「屋内退避」が壁になる。業者は「そちらへの立ち入りが制限されているので、市から緊急要請の文書を出してもらわないと」と言う。小沢事務部長は「ここは放射線量も低いので大丈夫ですから」と頼み込み、やっと納品してもらった。

 約250人いた病院スタッフの3分の2は14日の3号機の水素爆発で避難し、200人以上の入院患者を支えきれなくなっていた。自衛隊の支援で全員転院できたのは、20日になってからだった。

 ガソリンがなければ住民生活を守れない。タンクローリーが届けたガソリンは、市内のほとんどの車がガス欠だったためすぐに底をつく。市はエネルギー庁が残していった空のタンクローリーを使うことにした。だが、誰でも運転できるわけではない。大型免許と危険物取扱免許を持つ人を探した。

 宇都宮市の備蓄基地から往復16時間をかけてガソリンを運んだ。21日には物資の倉庫を北隣の相馬市に開設。そこへ市内の業者が取りに行くようにした。ようやく市の生涯学習センターや「道の駅」でカップ麺や米を配ることができた。

 被災者の2次避難も並行して続けた。連日数百人から1000人以上がバスで群馬や新潟に向かった。秘書課の星高光係長は市庁舎からバスを繰り返し見送った。「屋内退避」のはずの住民がなだれを打ってふるさとを離れていく。切なかった。

 市を脱出したのは約7万人の市民のうち5万人を超えた。

 ◇続く「風評被害」

 南相馬市の風評は依然、収まらない。地震後数日で市街地のライフラインはおおむね復旧したが、コンビニエンスストア、スーパー、金融機関は閉店を続けた。市外からの物流は回復しない。市外に本社を置く民間企業は社員を退避させ、全国紙やテレビの記者も一時姿を消した。「我々は見捨てられた」。市長と市職員は失望した。

 24日夜、市役所3階の応接室。少しやつれた表情の桜井市長は、カメラに向かって語りかけた。「市民は今、兵糧攻めの状態です。人は助け合ってこそ人なんだと思います。ご支援をお願いします」

 撮影された11分間の訴えは、市長の友人が動画投稿サイト「ユーチューブ」にアップし、英語の字幕とともに全世界に広がった。

 市長は宮沢賢治にあこがれ、岩手大農学部で学んだ。家業の農業に専念した後、近くの産業廃棄物処分場建設計画に反対したのを機に8年前、政界に身を投じる。市議を経て昨年1月、市長に初当選した時には想像もしなかった事態に直面した。市には外国メディアが押し寄せ、のちに米タイム誌が「世界で最も影響力のある100人」の1人に選んだ。

 桜井市長は25日夕、セブン-イレブン・ジャパン本社に電話をかけ、面識のない井阪隆一社長に直接頼んだ。必死だった。「市内の店舗を営業再開させてください」。同社はすぐに応じ、流通経路を工面して26日夜、原町西町店を再開させた。

 星係長は「あれが大きな引き金になった」と振り返る。金融機関や他のコンビニも後に続き、市街に物資が入り始めた。国から常駐の連絡役が市に派遣されたのは、状況が好転し始めた26日になってからだった。

毎日新聞 2011年6月10日 東京朝刊

 

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