海外レポート/エッセイ
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冷泉 彰彦(れいぜい あきひこ)   作家(米国ニュージャージー州在住)
1959年東京生まれ。東京大学文学部、コロンビア大学大学院(修士)卒。
著書に『911 セプテンバーイレブンス』『メジャーリーグの愛され方』『「関係の空気」「場の空気」』。
訳書に『チャター』がある。
最新刊『アメリカは本当に「貧困大国」なのか?』(阪急コミュニケーションズ)
第520回 「東京の闇、仙台の光、アメリカの陽光」
配信日:2011-06-04
 一週間で日本列島を駆け足で巡った後に、ニュージャージーの空港に降り立つと、サマータイムの関係もあって夕刻にもかかわらず世界は光に満ちていました。空港駅から夕方の通勤電車に乗ると、そこには家路を急ぐ人々の日常がありました。暗かった東京や成田の雰囲気とは明らかに何かが異なっていました。

 では、日本全国が沈んでいたのでしょうか? 今回は、北は岩手や仙台の被災地から、大阪、更には鹿児島まで足を伸ばしたのですが、町が暗く沈んでいたのは東京だけだったように思います。例えば、岩手の被災地ですが、今回、私は岩手県庁の方々と一緒に、盛岡から陸前高田、大船渡を駆け足で回りました。

 その被災地では、まだ瓦礫の片付けが終わらない一方で、真新しい電柱を多く見かけました。また、電柱の復旧作業を行っている東北電力や関連企業のクルマも見ました。電気というものが明らかに復興への希望である、そのことを痛感させられる光景でした。

 岩手の内陸部は津波は勿論、地震の被害も少なかったのですが、3月11日以降の大停電、また4月7日の余震時の東北地方の一斉停電の被害は大きかったという話を聞きました。盛岡地区では、停電の影響に加えて、県の沿岸部が壊滅したことから深刻な喪中・自粛ムードが起き、一時期は地域経済が完全に麻痺したそうです。ですが、今はそうした流れを乗り越えようと、必死になっているということも聞きました。

 事前に「仙台は東京より明るい」という噂を聞いていたのですが、それは本当でした。仙台に行ったのは、台風2号崩れの低気圧が接近して大雨が降りだしていた時期でしたが、駅ビルには週末とあって、人があふれていました。昼食時には、かなり客単価の高い設定の店でも行列ができていましたし、人々の表情には明るさがありました。

 ホテルはどこも満杯で、全国から復興作業の援助に相当な人が入っている印象でした。作業服にバックパックを背負い、早朝から現場へと出掛ける人の姿を多く見ました。夕方に地元の人々で賑わう寿司店に行く機会があったのですが、丁度プロ野球の交流戦で「楽天対阪神」のデーゲームが終わったところで、地元の楽天ファンと、東京からやってきたらしい阪神ファンが仲良く盛り上がっていました。その様子を見て周囲の客も、店員さんたちも楽しそうにしていました。

 気がつくと、仙台では特に節電はしていませんでした。コンビニは看板の電気をつけていましたし、駅の表示板などで消灯することもしていませんでした。多くの建物で、壁面が崩れたり、雨漏りがしたりしていましたが、応急措置がされている中、改修工事も進んでおり、そうした光景を含めて社会が前へ進んでいるというムードが強く感じられたのです。

 今回の出張目的には、東北新幹線の「はやぶさ」に使用されているE5系電車への試乗ということがあったのですが、これは予想を上回る素晴らしい車両でした。JR東海・西日本・九州のN700系とほとんど同等のスペックながら、空力特性がより向上しているのか静粛性に優れ、素晴らしい乗り心地でした。

 私の乗った時点では、那須塩原以北では路盤の改修工事が完了しておらず、徐行運転を余儀なくされていましたが、鮮やかな緑のカラーリングを施された勇姿は、紛れもなく東北復興の象徴と思えました。このE5系だけでなく、現在の東北新幹線車両には「つなげよう、日本」と「がんばろう日本、がんばろう東北」という丸い大きなステッカーが貼られ、復興への気概を感じさせます。

 東北新幹線の次は、九州新幹線です。東京での仕事をはさんで、大阪に宿を取り、始発の「さくら」で一路鹿児島を目指すことにしました。この九州仕様の車両は、東海道・山陽のN700系と同型車を8両編成にしたもので、基本的に同じ車両ですが、白藍色の外装、和のテイストを取り入れた内装は素晴らしく、新大阪から鹿児島中央の900キロを一気に乗っても疲れはありませんでした。

 ちなみに、同じN700であっても全電動車仕様として登坂能力を高めているだけあって、博多駅を過ぎたあたりから筑紫山地を越える長い上り坂をグングン加速しながら登っていく際の迫力はなかなかのものでした。

 それにしても、九州の大きさ、そして美しい風光は印象的でした。大牟田のあたりから始まる、有明海と不知火海の様々に変幻する風景、そしてその間に広がる田園地帯と、熊本という大都市の存在感など、車窓の眺めには躍動感がありました。鹿児島県に入ると地形の関係からトンネルが多くなるのは残念ですが、最後は眩しいまでの光に包まれて鹿児島中央駅に滑りこむエンディングはドラマチックですらありました。

 鹿児島では、商工会議所やシンクタンクを駆け足で訪問したのですが、関西地区だけでなく岡山や広島エリアからの観光やビジネスでの人の行き来が拡大したことなども含めて、経済効果は大きいようです。特に、5月の連休には関西圏・中国圏から多くの観光客が新幹線を利用して鹿児島を訪れ、原発事故懸念で客足の遠のいているアジアからのインバウンドの落ち込みを埋めて余りある結果となったそうです。

 九州全体としては、これで縦の軸が通ったわけで、例えば八代から宮崎へは高速バスを充実させるなど今度はヨコの軸を通してゆくことが課題になると思います。佐賀、長崎への軸をどうするのかは、新幹線かスーパー特急かという問題を含めて難題になっていますが、こちらも何とか答えが出るよう祈りたいと思います。

 鹿児島では「新大阪が九州新幹線の始発駅になったのは画期的で、東京一極集中の終わりを意味するもの」という声を聞きましたが、その大阪へ戻ってみると、特に梅田の変貌ぶりには驚かされました。JR大阪駅は、その全てがアーチ状の大屋根で覆われ、その下には巨大なコンコース(3F)と「時空の広場」という巨大な空間(6F)が出来ています。

 そして、その南北の両端には大丸と、三越伊勢丹の新店が集客を競うということで、従来のJR大阪駅のイメージは全く残っていません。その百貨店には、平日にも関わらず多くの客で賑わっていました。ひっきりなしに到着する中距離の快速列車はどれも満員でしたし、自粛や節電のムードはここでも皆無でした。

 東北から九州まで駆け足で見て回ったわけですが、確かに日本列島の大きさとか可能性を感じた一方で、改めて強く感じたのは東京の「暗さ」でした。多少は改善されたとはいえ、まだ多くのエスカレータやエレベータが止められ、案内板や駅の照明、町の看板やネオンの照明は落とされています。

 そのエスカレータですが、多くの駅などでは丁寧に黄色いロープをかけてそこに「節電のため停止中、ご迷惑をおかけしております」というような表示があるわけです。その一方で、あるオフィスビルでは、地下から2階までの直通エスカレータが動いていて、そこには「他に階段がありませんのでやむを得ず運転しています。ご理解ください」とか「停止した状態で階段として使用しますと危険なので運転していますが、ビル全体としては節電に努めています」などという「動かしていることへの言い訳」が書いてあったりするわけです。

 たぶん、そのあたりに東京の「闇」があるのだと思います。地方から人材も資金も吸い上げて肥大化した挙句に、動きが取れなくなっているのです。震災という例外的な事態に対して、柔軟で機動的に行動するための知恵も原則もないまま、横並びでビクビク萎縮している、東京という街全体に何か病的なものが取り付いているとしか思えません。

 考えてみれば、地方が疲弊しているから価格破壊のニーズがあるだろうと、激安居酒屋やネット販売のビジネスホテルを怒涛のように地方に持ち込んだのも「東京」ですし、人件費を削減しないと国際競争に勝てないと地方の工場を閉鎖して中国に持っていったのも「東京」なわけです。その一方で、「自分たちは被災しなかった」から申し訳ないと自粛してみたり、迷走の結果「闇」に閉じこもりつつあるのが「東京」なのでしょう。

 今回の政争に関しては、余りにバカバカしくて話にもなりませんが、例外的な事態における決定能力の欠如ということでは、政治の低迷の背景には「東京」の低迷があるように思います。エスカレータを止めては「すみません」と謝り、動かしても「すみません」と謝る、その虚しさは、「首相の退陣時期を明確化するために冷温停止の再定義をする」などという政治のバカバカしさに比べれば、まだ理由は分かります。ですが、こんな無原則で萎縮した状態のままで、夏場に深刻な電力危機が起きたらどうするのか、事態は深刻だと思います。

 もしかしたら、今回の震災を契機に本当に東京一極集中がジワジワと崩れていくのかもしれません。そんな中、関空とニューヨークを結ぶ直行便が就航したというニュースは明るい話題のように思います。ただ、運行しているのはJALでもANAでもなく、台湾の中華航空だというあたりが、現在の日本の状況を象徴しているのかもしれません。
村上龍RYU'S CUBAN NIGHT