わが家にあった《ステレオ》の写真を探したのですが、写っているのがコレしかなかったのであります・・・。コレも“photo by yayoi”モノですが、こんな写真を撮る母親も母親です・・・。(“親”って、子供のヘンな写真を取るのが好きなんですよね。親になってみるとその気持がわかります)
この写真の後ろに、ほんの少ししか写っていませんが、これがわが家の《電蓄》(電気蓄音器)でした。 右端に見える“丸い”部分がチューニング・メーターで(マジック・アイ?とかいったような・・・)蝶々の羽根のようにピタリと合えば完全チューニングを示す、というもので緑の色でした。
これ以前には“蓄音器”があり、母が歌謡曲好きだったのでいろいろな歌手のSPレコードがありました。未だに記憶に残っているのが三橋美智也さんの「男涙の子守唄」、童謡の「せむしの仔馬」です。忘れられないのが、母親が忘年会で踊りを踊るというので、それの稽古のために何度もネジを巻かされた「梅にも春/梅は咲いたか」でした。これを歌っていたのが“藤本ニ三吉”さんで、その後出会った三味線の本條秀太郎さんはこの方のお弟子さんだったと聞きました。ワタシの“だーーーい好きな”因縁バナシに持ち込みたいネタではあります。
さて。このステレオが我が家に来たのがいつのことだったのかハッキリは覚えていないのですが、小学校五年生か六年生の頃だったことは確かです。
というのも、小学校五年生(1959年)の時に(最初の)“転校”を経験しました。その転校先の先生がラジオ・マニアで(母親もそこの教師だったので)ステレオを作ってくれることになったのです。
ステレオが完成した時に、母親からレコードの購入を依頼されたことは覚えていました。その曲は当時大ヒットしていた「太陽がいっぱい」と「バリ・ハイ」。
調べて見ると「太陽がいっぱい」がヒットしていたのは1960年。となると我が家のプレーヤーが“電気仕掛け”になったのは《1960年》のことだったようです。
しかし、この頃もまだ音楽よりも“いなり寿司”の方が好きだったんですね。