ナイアガラ図書館



ここではナイアガラ関連が登場する文献、
及び大瀧推薦の本などを取り上げます。




『はっぴいえんど伝説』
萩原健太著(シンコー・ミュージック)


はっぴいえんど伝説
83年版(八曜社)


はっぴいえんど伝説
92年版(シンコー・ミュージック)

 最初に登場するのはこの《アミーゴ・ガレージ》のディレクター萩原氏のデビュー作です。私と健太君の初対面は81年4月30日。私は定刻よりも“30分遅れて”行ったらしいのですが、それは全く記憶にございませんです。場所は新宿だったこと、初対面の健太君の印象、これはハッキリと覚えています。いかにも“早稲田らしい”骨太な印象を受けました。(って書くと“慶応がヤワ”と言ってるミタイですが...それとも“大柄”だったと...)

 それが宝島7月号(81年)の『ポップスは天然色』という記事になり、務めていた早川書房に退職願を出したのはインタビューの翌日だった、という話しを後で聞きました。

 ここから本格的に音楽評論家・萩原健太のキャリアがスタートし、そして彼の“念願”であった〈はっぴいえんど〉に関する本『はっぴいえんど伝説』が出版されたのは83年6月1日。出版社は『地平線の階段』(細野)『ALL ABOUT NIAGARA』と同じ八曜社でした。デビューから13年目で“初めて”本にして頂いたあのグループもシアワセものです。

 彼が“新しい評論家”であったポイントの一つは、この本で〈自らの原点〉を明らかにしたことです。いわゆる“評論家”には、こと音楽に限らず、戦後民主主義が徹底したせいか“不偏不党(=平等と考える)”の方々が多い。その中で健太君はデビュー時に“自らの立脚点”を明らかにした。このような“フェアーな”評論家はこの国では少ないのです。

(Written by 大瀧 in 1996)





『J−ROCK ベスト123』
篠原章著(講談社)


春よ来い
 篠原章君はラジ関時代の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』で〈ナイアガラ浪人サークル〉(というものがあったのですヨ、当時)の“初代会長”だった人物です。彼が“迷声”を得るに至った経緯は「72年の中津川フォーク・ジャンボリーでのアンコールの際、二番目に「春よ来い!」と叫んだ者だ!」という投書でした。

えーどえーど

 因みに、この〈春よ来い〉と発せられる直前の「はいからはくち」のエンディングで“エード、エード”と叫んでいるワカモノがいたのですが、それは島根からギターを背負ってはるばる岐阜の中津川までやって来てステージの最前列に陣取った若き日の“佐野史郎”さんだったそうです。(御本人の申告です。篠原章君と佐野史郎君は、この時、同じ時空間内にいた、ということですね)

佐野史郎さんHP
http://www.kisseido.co.jp/contents.html


J-ROCKベスト123
 篠原君の葉書が読まれてからすぐ、「従弟の葉書が読まれたので私も黙ってはいられない!」と登場したのがNHKソリトンでお馴染みの“サエキけんぞう”君です。 当時のペンネームは“コロッケ5円の助”で、葉書は、その年のお正月に使わなかった年賀状でした。サエキ君は中学生の時、はっぴいえんどの事務所に長文のファンレターを書いた人物で(ミミズのような文字でしたが)メンバーで廻し読みした記憶があります。

 先日、そのサエキ君と本屋でバッタリ出会ったのですが、その日は篠原君の“出版記念パーティー”の前日でした。そのパーティーの司会がサエキ君、主賓にはこの本で篠原君と対談している細野晴臣さんだったそうです。

 因みに、この本の中で「ぼくの『大瀧詠一伝説』」を書いている斉藤純君は、一度岩手・一ノ関の《ベイシー》で会ったことがあるのですが、このような文章を書いていることは本を受け取るまで知りませんでした。(彼は85年頃FM岩手でディレクターをしていたそうです。御存じの方は御存じでしょうが、彼は“作家”です)

 篠原君は現在とある大学で教鞭を取っているとのことですが、75年12月がナイアガラ・デビューですから“苦節20年”。いかにも〈初代浪人サークル会長〉らしく、ゆっくりながらも着実に、という感じです。

(Written by 大瀧 in 1996)
篠原章さんのHP
http://www.daito.ac.jp/~akirashi/



『幻の東京カッブス』
小川勝著(毎日新聞社)


幻の東京カッブス
 93年にスポニチ特派員として宮崎キャンプに行きましたが、その時に同行したのが当時スポニチ記者だった小川さんで、《長嶋論・ナイアガラ風味》を新聞原稿として味付けしてくれたのも彼でした。(私は小学校5年の夏に“将来は新聞記者になりたい”という作文を書いているくらい“ブンヤさん”に憧れていたのです。もっとも、当時NHKテレビで『事件記者』というドラマが大ヒットしていたのが原因だったのですが)

 小川さんにとってのこの本は三冊目で、94年8月の『プロ野球 助っ人三国志』がデビュー。(スポニチに連載されたものを単行本化)続いて95年5月の『イチロー主義』が二冊目。(書き下ろし。こんにちのメジャー・リーガーとしてのイチローの姿を逸早く予見していました)この『幻の東京カッブス』もまたスポニチに連載したものを96年4月に単行本化されたものです。

 この本は読売巨人軍より前に“プロ野球”を興そうとした人物がいたという話です。一般的に“日本プロ野球の父”は正力松太郎というのが“定説”ですが、その定説は正しいのか?その前の人物こそ“父”と呼ぶに相応しい人物ではなかったのか?というのがテーマです。

 彼も93年から仕事の関係から“止むを得ず”ナイアガラーにならざるを得なかったのですが、「兄がはっぴいえんどのファンだった」という世代の人です。

(Written by 大瀧 in 1996)


プロ野球
助っ人三国志



イチロー主義



『和菓子屋の息子〜ある自伝的試み
小林信彦著(新潮社) 8/20/1996

『小林信彦さんと私』では、以前のペンネームの中原弓彦的世界といいますか、芸能評論的なものを中心に紹介しましたが、小林さんのレパートリーは、言うまでもなく、アレだけではありません。(作家は“レパートリー”とは言わないのか?“出し物”?でもないし)

 アレだけで小林さんを理解するということは、〈はっぴいえんど〉や『ロンバケ』もなしで、70年代中期の作品だけでナイアガラを理解することと同じですからね。

 『東京のロビンソン・クルーソー』(74)にも小林さんの生まれ育った“下町”のことを書いた文章がありましたが、そのテーマを追求したのが『私説東京繁盛記』でした。(中央公論/84・8)写真は“アラーキー”こと荒木経惟。彼が撮るのは“ヘヤー”だけではないのです。(我々の世代にとってのアラーキーは、こういうタイプのものを撮る写真家という印象が強い)

 それが92年8月に筑摩書房から“新版私説東京繁盛記”となって改訂され、更に続編的な『私説東京放浪記』が10月に出版されました。

 その“下町”をテーマにした“決定版”ともいえるものが今回の作品です。江戸から九代続いた老舗の和菓子屋を、十代目の小林信彦さんが潰す(跡を継がない)という“実話”が中心なのですが、描かれているのは“(近代に於る)下町”がどういうものだったのか、ということです。(「いわゆる“べらんめえ言葉”は職人や河岸の言葉である。商人はあんな言葉は使わない。品物を売ってお金をいただく商人が、喧嘩口調でものを言うはずがない。生まれてから二十歳で両国を離れるまで、ぼくは“べらんめえ言葉”を耳にしたことは一度もない」という文章は、落語や“江戸弁”を誤解している人への“釘さし”ですね)

 この本は成瀬巳喜男の映画を見ているように読める本ですが、今週号(96・10・3号)の「週刊文春」のコラムでも、川本三郎さんの『荷風と東京「断腸亭日乗」私註』を取り上げているのはこの流れからだと思います。(川本さんの『ETV特集』での成瀬研究は“保存版”にしています)

 更に娼婦が主人公の映画『リービング・ラスベガス』と『AV女優』(VZでお馴染みのヴィレッジ・センターの出版(^_^))から、話は“コギャル”にまで及ぶ所が小林さんの小林さんたる由縁夏腹ハウンドドッグです。

 「『荷風と東京』でつくづく思ったのは東京における私娼の多さである。コギャルが援助交際を求めてけしからんと識者は言うが、彼女たちは(世が世であれば)公娼・私娼で稼ぐ人たちで、たまたま中学や高校に行っているだけなのだ」はけだし名言ですナ。(この“けだし名言”という言葉は、70年代中期に山下・銀次・大瀧の間で流行したものです)

 ヴィレッジ・センターの家頁にはこの小林さんの、『AV女優』に関してだけの文章をピックアップして載せています。




『週刊ヱビスランチ』
泉麻人著(文藝春秋社) 9/1/1996


 我が《アミーゴ・ガレージ》では『開隆山と西園寺』というエピソードでオナジミの泉麻人君の単行本。これまた「週刊文春」での名物連載コラム。「イチローのビタミン」という項で彼の少年時代のコレクション《仁丹野球ガム》の野球ガムカードを取り上げていて、ナントそこには既に西園寺の名前も出ていたのですネ。(このコラムも殆ど読んでいたつもりでしたが、この回は見逃していたようです)

 出てるね、出てるね。坂崎・本屋敷・根来・十時・毒島!この頃までは、各々贔屓のチームはあるものの、基本的には全員野球のファンだったんだよね。だから贔屓でもなく別に好きでもないチームの選手にも詳しかった。(昨今、自分の贔屓以外のチームの話で盛り上がるというケースが、巷では、少いのでは?)

 彼は「二枚あるから」ということで貴重な野球カードを一枚送ってくれました。それが大洋ホエールーズの近藤和彦選手のもの。あのバットを寝かせてグラグラさせる独特の打撃フォーム。(あれで3割打ちましたからネー。今ならコーチに直されるでしょうナ)当時の大洋には“近藤”が昭仁と二人いたので「和彦の方は“ドンコ”と呼ばれた」なんて当時のエピソードを思い出しました。

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