小林信彦さんと私

text by Eiichi Ohtaki

(1996年8月13日)



 1972年12月。ベルウッドからリリースされたファースト・アルバム『大瀧詠一』の歌詞カードには“PRODUCED BY EIICHI OHTAKI”という文字列が見られます。これは今考えて見ると、ミュージシャンが自らをプロデュースし更にそれを“クレジット”した、日本に於るミュージシャン・プロデューサーの第一号だったようです。 (自ら“クレジットした”というのがミソですね)

 この直後に〈はっぴいえんど〉が解散。私はプロデューサーの道を歩みはじめたわけですが、自分以外の“プロデュース第一号”は伊藤銀次率いるごまのはえでした。

 彼等は72年、シングル「留子ちゃん」でベルウッドからレコード・デビュー、「アルバムのプロデュースは大瀧に依頼したい」というメンバーからの申し出があり、当時ベルウッド・ディレクターの三浦光紀氏(現フォノグラム役員)と共に大阪へ飛び、初対面のその日に意気投合し、銀次君の“こ綺麗な”アパートへ招待されたのでした。(後日談では、グループ内では細野にするか大瀧にするかの会合が開かれたとのことです)



『日本の喜劇人』『世界の喜劇人』
中原弓彦著(72.5|73.2 晶文社)

 1973年春、〈ごまのはえ〉が上京、FUSSAスタジオの近辺に合宿します。数ヶ月後、リーダーの伊藤銀次が吉祥寺の喫茶店で偶然に聞いた自費出版のレコードが“山下達郎”のものだった、というエピソードはナイアガラーなら知らない人はいないでしょう。

 しかし、伊藤銀次が私に持ち込んだのは山下君だけではありませんでした。

 ある日、「大瀧さんにピッタリの本を見つけたよ!」と言って“御注進”してくれたのが、中原弓彦著(小林さんの当時のペン・ネーム)の『日本の喜劇人』でした。

 この中の《クレージー王朝の治世》という項を読んだ時、“目からウロコ”“鼻からドジョコ”状態でした。

 「そうか!自分は自分でいいのか」、と思ったのです。(当たり前に聞こえるかもしれませんが、70年代初期は“まじめ”な時代で、特に音楽に於ては“笑い”の許容範囲が狭い時代でした。更に“グループ”を常に念頭に置いた活動でしたから、他のメンバーもそうだったでしょうが、極端に“自分”を出すことは控えていた時代でもありました)

 ここで“大瀧ボックス”の蓋が開けられ“ナイアガラ”の出発となったのです。ナイアガラ・サウンドは『サイダー』から始まりましたが、ナイアガラの基本精神はこの『日本の喜劇人』(『世界の喜劇人』込み)から始まったと言っても過言ではありません。

 “クレージー趣味”も“アキラとジョー趣味”も、同じ様に感じる人が世の中に他にもいたのかぁ!と、僭越な言い方ではありますが、それが偽らざる実感でした。

 “人生で一冊”と言われたら、躊躇なく私はこの『日本の喜劇人』を上げます。本に限らず、人生を変えてしまうものにはそう出会えるものではありませんが、“サイダーCM”“伊藤銀次”“山下達郎”“小林信彦”と、この1973年は私にとって当たり年でした。(“サッチモー!”のムスコも、この年に生まれました)

 この時に「三文ソング」から「趣味趣味音楽」、「ナイアガラ音頭」から「レッツ・オンド・アゲン」までのレールは敷かれました。

 ところが、少ないながらも少しはいたファンの人は、当然ながら〈はっぴいえんど〉からの大瀧しか知りませんから、このような“変化”に戸惑ったようです。(“ファンを辞めた”と言った人もいましたし、或は“『ファースト』命”というカタチでその戸惑いに対抗した人もいたようです。『ナイアガラ・ムーン』を発表した時に、一番聞かれた質問は「いつ、又松本隆と組むのか?」というものでした)

 しかし、この《アミーゴ・ガレージ》で以前、『野球と私』『相撲と私』『演芸館』で披瀝したように、私には音楽以前の“歴史”があり、それが伊藤銀次の登場と、彼が紹介してくれた『日本の喜劇人』との出会いで一気に

“爆発!”

したのです。

 その前に“私にとっての”小林信彦さんはどういうものだったのか。どんな関り合いをして来たのか。それを発表しておきたいと思います。



『東京のロビンソンクルーソー』『われわれはなぜ映画館にいるか』
小林信彦著(74.6|75.2 晶文社)

 『日本・世界の喜劇人』に出会ってからというもの、中原弓彦名義と小林信彦名義ものを全て読みました。『オヨヨ大統領シリーズ』から『東京のロビンソン・クルーソー』『ドンキホーテ』、そして『われわれはなぜ映画館にいるのか』(『映画を夢見て』と改題され、95年に再発)はページがバラバラになるほど読み込み、ここから本格的に“映画”にのめり込むことになります。

 いつかは御本人お会いすることも、一応は音楽界に身を置いているので、一般人よりはその可能性があるとは思いつつ、小林さんのあらゆる方面への膨大な知識量と感性に、かなりの準備が整ってからでなければ直接会うことは出来ないと強く感じておりました。



『植木等と藤山寛美』
小林信彦著(92.3 新潮社)

 小林さんと私の“最初の出会い”については『植木等と藤山寛美』に「ぼく(小林信彦さん)が初めて大瀧詠一と会ったのは82年11月1日で、午後3時から11時すぎまで話しをした」と書かれてあります。

 私としては73年から“9年越し”の想いが“ついに、ようやく”叶った、という感じでした。(このあたりは「ポップスは天然色」のインタビュー時の健太君のようなものだったのでしょうか)

 そして“私の人生を元通りにしてくれた”あの『日本(世界)の喜劇人』の“初版本”『喜劇の王様たち』中原弓彦著(63.6 校倉書房)を頂いたのでした。



『唐獅子源氏物語』
小林信彦著(82.12 新潮社)

 小林さんの本に“ナイアガラ”が登場したのは初めて出会う数ヶ月前、『小説新潮』の82年6月号『唐獅子源氏物語』です。須磨組の大親分の書斎の“唐獅子マーク入り”のスピーカーから“妙な歌が流れた”というのが「ナイアガラ音頭」で、子分の原田が一生懸命“大瀧詠一”を親分に説明する、という設定でした。(ナイアガラーならかなり笑えます)

 小林さんのものは東京新聞の切り抜きまでも持っている“コレクター”でしたから『小説新潮』などの月刊誌の見出しも注意深く見ていました。

 これを読んだ時は「そろそろかな」、と思ったものでした。



『TVの黄金時代』
小林信彦責任編集(83.5 キネマ旬報社)

 83年5月、“初仕事”がキネ旬の小林信彦責任編集『テレビの黄金時代』という別冊の編集協力でした。

 当時レギュラー放送されていたTBSの『ゴー・ゴー・ナイアガラ』では毎週クレイジー・キャッツをかけていましたが、活字でも盛り上げようという話からこういう企画になったと記憶しています。

巻頭で谷啓さんが《正しいガチョーン!のやり方》を写真で解説しています。

 あの伝説の雑誌『ヒッチコック・マガジン』の編集長だった小林さんが20年振りに編集を担当。後記には「編集後記を書くのが嬉しくってしょうがない」とあります。クレイジーだけでなく“TV”を中心テーマに置いて、その中でのクレイジーの存在という、小林さんならではの視点です。こういう“アッサリ”とした出し方の方が、重厚なものよりも中味は濃いことがあるものです。(逆に言えば、このタイプは見逃しやすいともいえます)



『いちど話してみたかった』
小林信彦対談集(83.6 情報センター出版局)

 続いて“対談”が企画され、83年6月に出版された『いちど話してみたかった』ではトップを飾るという“名誉” を授かりました。これは小林さんが聞き手で、私が自分の音楽体験を語るという、今読むと少し恥ずかしいのですが、音楽雑誌からは得られない“ナイアガラ情報”が書かれてあります。



『ゴー・ゴー・ナイアガラ/もう一度話してみたかった』
大瀧詠一編集(84.7 自由国民社)






 翌84年7月、私の『ALL ABOUT NIAGARA』に続く書籍第二弾である『ゴー・ゴー・ナイアガラ』をシンプ・ジャーナルの別冊で出版、ラジオ番組の“活字化”でした。

 そして巻頭インタビューが小林さんで、『もういちど話してみたかった』とタイトルを“いただいて”の《ナイアガラ対談》でした。

 当時のラジオ『ゴー・ゴー・ナイアガラ』はアメリカン・ポップスが中心だったラジ関時代とは違って坂本九・弘田三枝子を中心とする日本の'60Sポップスをかける番組に変身していました。小林さんは“九坊”や“ミコ”の番組の台本を書いていたこともあり、今回は私が聞き手となって当時の話しを伺いました。(この対談が収められたのが『道化師のためのレッスン』(84.12 白夜書房)です)

 更に同年、ニッポン放送開局30周年記念の“一日中音楽をかける”《ティーンズ放送局》と銘打たれたイベントが企画され、“総合プロデューサー”という役割を依頼されました。

 山下君や佐野君等のミュージシャンDJ番組がメインでしたが、私の個人担当はラジオ・ドラマ『マイケル・ジャクソン出世太閤記』でした。

 ドラマのアイディアはニッポン放送のディレクターが、この年のグラミーを総なめにしたマイケル・ジャクソンを“秀吉”の出世物語に見立てたらどうかというものでした。そのあらすじを小林さんに依頼したところ、「ガチョン侍」というコントを下敷きに、マイケルのWけんじのようなあの踊りは日本に来て修行した結果身についたものだという筋立てにし、藤井青銅脚色・片岡鶴太郎主演、谷啓・由利徹・ビートきよし客演で制作しました。

 聞き所は鶴太郎のマイケルと谷啓さんの“我嘲禅師”との《ガチョンの修行》でした。(6分ぐらいあります)

 『テレビの黄金時代』の巻頭で谷啓さんの“正しいガチョーンのやり方”の連続写真が掲載されていましたが、その“実践版”をこのドラマで行ったことになります。(この『マイケル・ジャクソン出世太閤記』は、オールナイトで短縮版が、更にAMのステレオ化の記念番組としてステレオにリミックスされて再放送されました。ラジオ・ドラマが“ステレオ・リミックス”されたのって“世界初”じゃないかネ?)

 『Let's Ondo Again Special』に収められている片岡鶴太郎の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』はこのドラマの挿入歌です。

 この放送に関することは小林さんの『コラムは笑う』(89年刊)の34「裏テープ」の項に書かれてあります。



『映画に連れてって』
小林信彦対談集(85.12 キネマ旬報社)

 85年12月にはキネ旬(上旬号)で『バック・トゥー・ザ・フューチャー』について対談。小林さんと紙面上で初めて“映画”について話しをしました。と言っても私の担当は音楽部分で、ウエスト・コーストのエンジニア出身プロデューサー“BONES HOWE”(エルヴィスのサントラでアシスタント・エンジニアをしていた人で、後にアソーシエイションなどのウエスト・コースト・サウンドを作り出した一人です)の名前が例のギター・シーンのスーパーバイザーとしてクレジットされていたことをどこかで語りたかったので、非常に良い機会を頂きました。

 この対談は『映画に連れてって』に収録されました。

 その一ヶ月前の85年11月30日。池袋スタジオ200で『第4回小林信彦ライブ』が行われ、ゲスト出演。主催は白夜書房、司会は『道化師のレッスン』『出版幻想論』の藤脇邦夫氏でした。

 この時御一緒だったのが、あの青島幸男さんでした。(翌年「実年行進曲」で“共作”することになるとは、この時全く予想も出来ませんでしたし、更に“都知事”になることも...多分御本人も...)

 この日の対談はホーム・ビデオで録画されていて、上の写真はそのビデオから私と小林さんが青島さんを囲んでいる所をキャプチャーしたものです。

 この日の出し物は「シャボン玉ホリデー」と「植木等ショー」。当時としては“世の中に無いもの”と言われていて(現在ではLDで発売されています)客席には高田文夫さんや三宅裕司さんの顔もあったとのことです。

 更に映画評論家の森卓也さんはこの時の模様を御自身の著書『アラウンド・ザ・ムービー』の〈キネコで見ようピーナッツ〉という項に“詳しく”お書きになっておられます。(私が“大遅刻”をしたことまで・・・)

 追加:また更に奇遇なことに昨年(2001年)、アキラCDの発売の際にお世話になった日活の石原さんは、当時西武におられてこの時の担当だったそうで、「随分遅刻されましたよね、車が到着するのを外で待ってましたよ」と、16年経って、また言われてしまいました・・・。

 まだまだ小林さん関連のことはあるのですが、95年に一挙に飛びます。



『笑いごとじゃない』
小林信彦著(95.12 文春文庫)

 95年12月に『笑いごとじゃない』(ユーモア傑作選)が文庫で出ましたが、これにはあの『唐獅子源氏物語』や『ちはやふる奥の細道』『サモワール・メモワール』『オヨヨ大統領・虚名戦争』と盛沢山で、これが一冊で読めるのは出血大サービスです。

 解説はラジ関時代の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』への投稿者、更には“開隆山と西園寺”でお馴染みの泉麻人氏。(ナイアガラーは、この解説から読むのがよろしいかと)



『喜劇人に花束を』
小林信彦著(96.4 新潮文庫)

 96年4月には『植木等と藤山寛美』を増補改題した『喜劇人に花束を』が文庫で出版されましたが、それに伊東四朗を加えたこの本は『日本の喜劇人』の第二部と言えるものです。

 『日本の喜劇人』でのクレイジーは離れた位置から。この本ではクレイジーとの距離がはかなり近い所から書かれたのがその違いであるとのことです。

 解説は『江戸前の男』の著者・吉川潮さん。(バウバウ松村の“ダロ”の本人)



『〈超〉読書法』
小林信彦著(96.5 文藝春秋)

 続いて5月に出たのが週刊文春の書評を集めたものに書き下ろしが追加された『〈超〉読書法』。これには私と山下君の名前が数回出て来ます。

 小林さんの本を一冊も読んだことのない人は、少なくても『日本の喜劇人』と『世界の喜劇人』は現在文庫で手に入りますので“持つ”べきです。これらは未だに私のバイブルであり、すぐに手の届くところに常に置いてあります。(これらは一冊“500円以下”ですから、これに比べると1500円の私の選書シリーズなどはかなり“高い”と言えます。この二冊が文庫になった時は「これは“ボランティア”だ!」と思ったものでした。しかも文庫版は、初版や定本版と一部の写真が別でしかも珍しいものという“バージョン違い”でもあるのです)

 レコードが再発された時、「持っているからいいか」と買いそびれると後でエライ目にあうのがナイアガラものです。1500円の方が3000円のものより内容豊富で音質抜群だったりしますからね。私も小林さんの本は、頂きもの、読書用、文庫版と同じものが何冊もありますが、これは決して“同じ”ものではないのです。

 ここで取り上げたのは、小林信彦さんの数ある著書の中で“ナイアガラ関連”だけを集めました。このような取り上げ方は小林さんに対してはなはだ失礼とは思いますが、《アミーゴ・ガレージ》への初登場ということで御了承頂きたいと思います。

(1996年8月13日)



『小林旭読本』
小林信彦責任編集(2002.2 キネマ旬報)








 83年の『TVの黄金時代』を出した後、小林さんと「次は“アキラ”だね!」と話していたものでした。『日本の喜劇人』が私のバイブルであり、クイジーと日活アクションは“両輪”のようなものでしたからすぐに取りかかれるもの、と当時は思っておりました。

 また偶然にその翌84年、AGFコマーシャルの話が舞い込み、「熱き心に」でアキラさんご本人と御一緒出来るという幸運に恵まれ、チャンス到来とばかりに85年に、当時の日活とコロムビアに働きかけたのですが、両者とも全く乗ってくれませんでした。

 この時に私がビデオ機器をフル稼働させて、アキラ版“ザッツ・エンターテインメント”のようなビデオを作りました。

 構成は『クレイジー・デラックス』のようなものでしたが、小林さんのコラム集『コラムは笑う』の76「ビデオ“クレイジー・キャッツDeluxe”の構成」の最後に「ところで大 瀧さん、次に、小林旭をやりますか?やるなら、ぼくも、やぶさかでないです」とあります。

 また『コラムの冒険』(96年刊)では3「小林旭の伝説」、21「小林旭と“にっかつ”倒産」とアキラについて。他にも西河克己や川島雄三、更に57の「香港映画と日活アクション」とかなり《日活》についての記述があり、『人生は五十一から』(99年刊)の「アキラ映画の予告編集」ではアキラCDを熱望している旨の記述があります。(98・8・6)

 このように小林さんも私もアキラに関しては行動を起こす準備を常にしていたのです。

 そして時は過ぎて2000年、毎年恒例の山下達郎君との『新春放談』。小林旭についてはこの年だけでなく時々ふれてはいたのですが、その放送を聞いたコロムビアの金子さんから「小林旭のCDを編集して欲しい」という依頼が来ました。この秋が日本コロムビアの創立90周年で、それを記念して各分野のCDが企画され、その一環でアキラも、というようなお話しでした。(実際には金子さんの知り合いのライター・中村さん─ナイアガラーらしいですが─という人の話からヒントを得た、とのことでしたが)

 早速3月末に、名月赤坂マンションの側のコロムビア本社へ数年ぶりに出かけました。最初に録音部に顔を出しましたが“力うどん”が好きだった後藤技師、カッティング担当の時枝技師など、懐かしい顔がそこにはありました。「何?今日は?」。もうコロムビア時代からは22年以上も経っているのですが、まるでそれが昨日だったような会話です。「いや、またコロムビアに帰って来ることにしたんだよ」「またまたぁ」というような、いつもの調子の会話が交わされました。制作担当の森さんとテープの保存状態などを確認しました。

 しかし小林さんと私とで、温めに温めて来た企画ですから半年ぐらいで実現させたくはありません。最低でも一年は欲しい、と返事をしました。(この時の一年後は《2001年の3・21》。私にとって記念すべき日ですからね。それとの兼ね合わせもこの頃は考えていました)

 また同時にクラウンものも一緒にやれたらいいと思い連絡したところ、「ホルモン小唄」当時のアキラ担当の方がまだ残っておられて、「それでは一緒にやりましょう!」ということになりました。(レコード業界的には、過去の移籍騒動で、コロムビアとクラウンの“仲”はあまりいいとはいえないのが通説となっていましたが、時が過ぎて雪解け状態になっていたようで、今回は“恩讐”(笑)を越えて、夢の共闘が実現しました)

 ジャケットは、東京ビートルズ橋幸夫トニー谷でお世話になった平野甲賀さんに久しぶりに依頼してみようと思い連絡を取りました。最初は「一枚ぐらいなら出来るかもしれない」というようなお返事でしたが、アキラのオリジナル・アルバムのジャケットをお見せしたところ、一気に「これなら全部出来る!」となりました。

 ところが肝心の“全音源”というのがなかなか簡単に揃わないのです。リストにはあるがテープが見当たらない、とか。(特にクラウンさん。でもそのおかげで「駐車違反」のような未発表ものを見つけることが出来ました。今回のようなことがなければ、一生オクラのままだったかもしれませんよ、あの音源)結局2000年は音源を揃えることで精一杯でした。

 2001年を迎えて、恒例の『新春放談』では「今年はアキラをやるよ!」と堂々と宣言しました。(「俺に逆らうな!」をかけて、「遅くても年内発売!」なんて言ったと思います)




「日本のアクション映画」裕次郎から雷蔵までと改題されて社会思想社(現代教養文庫)から再刊。(1996)
 小林信彦さんには既に「ようやく“時”至れり!」の連絡は入れていて、「本はクレイジー同様、今回もキネ旬がいいでしょう」ということで、CD・本の同時発売、時期は2001年12月を目標として、まずは『アウトローの挽歌』西脇英夫さんと小林さんと私の“対談”を行なって大体のガイド・ラインを掴もうということになり、3月22日に一回目の三者対談を行ないました。(一回では物足りないということで、9月5日に二回目を行ないました)

 またこの頃、ニッポン放送『ラジオ・ビバリー昼ず』にゲスト出演した際、高田文夫さんから「今度文芸座でオールナイトを仕掛けようと思うんだけど“大滝詠一の選んだ3本”という企画で参加してくれないか」という依頼がありました。私は即座に“アキラの3本”を選び、これが上映されるなら参加します、と返事をしました。

 2001年3月24日・土曜日、池袋文芸座の内容は『銀幕同窓会』(高田文夫著・白夜書房刊)に詳しく、当日の写真つきで掲載されています。

 文芸座で久しぶりに『東京の暴れん坊』を大型スクリーンで見て、もっと多くの人にもこの映画を見てもらいたいと思い、やはりここは“日活さん”にも参加して頂けないかと、5月に本社へ参上。そこで元西武の石原さんと再会となったわけです。(池袋スタジオ200『第4回小林信彦ライブ』の項、参照のこと)

 また、この日に日活の衛星放送部門・NECOの若手諸君とも知り合い、その後数回会合を持ちました。驚いた、というのはプロに対して“失礼”な言い方ですが、本当に映画好き、そして“日活”をこよなく愛している若者が大勢いたんです!盛り上がりましたよ、春原政久とか吉村簾の話題で!

 6月には毎年恒例の“旅行”に出かけましたが、岩手・松尾温泉の岩風呂で“ラジ関”『ゴー・ゴー・ナイアガラ』の復活!を思いつき、7月25日に懐かしの“ラジ関”へ。橋渡しをしてくれたライターの櫻井隆章さん(初対面でした)、そして75年当時の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』を担当していた荒木さん、今井さんと再会。このアイディアの真の狙いは“アキラ特集”の再放送で、上記のような流れになっていなければ出て来なかった発想でした。

 アキラの歌に関しては文章よりもやはり“耳”で聞いてもらうのが一番。また『ゴー・ゴー・ナイアガラ』だけでは足りないのでニッポン放送に《アキラ大研究》のラジオ番組の企画を持ち込みました。アキラを中心に戦後歌謡史を、以前にNHK−FMで放送した『日本ポップス伝』の番外編的なものをという目論見でした。

 8月末にニッポン放送の森谷BS編成局長、檜原ディレクターと会合。そのような内容は地上波では無理、ということでBSラジオでの放送が決定。(森谷さんとは1998年秋に『SHOWAベストヒットコレクション』を共同プロデュース。その後BSラジオが始る時に亀渕社長からも助力を依頼されておりました。もっともその後のゲスト連の顔ぶれから、経費の“助力”をしてしまったようですが・・・)

 事実上は『ポップス伝』の後続ですが、今回はインタビューが中心の構成なので以前の『スピーチ・バルーン』という番組名も復活させ、船村徹遠藤実星野哲郎の“大御所”のブッキングを開始しました。(10月からスタートさせたのは12月が当初のアキラCDの発売予定だったからです)

 またこの頃、船村・遠藤・星野の御三家へのインタビューについての御助言をということで音楽評論家の池田憲一さんと会食。その際に池田さんがニッポン放送のディレクター時代に島倉千代子に童謡を歌わせた秘話を聞き、アキラの童謡もその流れの一環で作られたことを知りました。

 さて、ラジ関の再編集、大御所へのインタビューと久々に忙しい日々が続きました。82年以来でしたね、こんなに忙しいのは。(当時は信濃町スタジオで徹夜、明けて新幹線で大阪へ行って『スピーチ・バルーン』の収録、帰ってきてすぐに信濃町に戻ってスタジオ・ワーク、などと寝ずに働いておりました。それ以来の忙しさでしたね、この時は)

 ラジ関へはCD−Rで搬入。LFX488へはネット送信。どちらも編集は“いつものように”自分でやりました。また“いつものことながら”、ラジ関へは放送日の二日前、LFXへは当日の午前中、などということがしょっちゅうでした。(ミナサン、よく待ってくれました。ワタシと関ったのが“因果”です・・・)

 しかしここで本の編集が、キネ旬側の社内事情、担当の交代などがあり、どうしても12月には間に合わなくなったのです。そこで止むを得ず年明け(2002年)の出来るだけ早い時点で出来あがり次第すぐに出す、ということになりました。




 丁度この11月、新潮社からアキラさんの半生を書いた『さすらい』という本が出版されるという連絡があり、ゲラが届けられました。(3月に『シシド』が出てましたね)こちらとしては足かけなら12年、具体的には2000年の春から動き始めていましたから、ようやく業界内の人も気づきつつあるのかな、というのが偽らざる気持でした。(もちろん新潮社としては彼らなりに以前から企画を立てていたのだとは思いますが)どちらにしても、この動きへの参加者は多いほどいいですから喜ばしい出来事ではありました。(更に、丁度その頃、BSらじおでアキラの歌と“民謡”との関連性を邦楽の本條秀太郎さんと話していた時で、「お母さんが民謡・小唄のお師匠さん」という記述を読んだ時は“我が意を得たり!”でした)

 このような紆余曲折があって遅れに遅れた発売日も、CDが2月21日、本が3月12日に決定。(CDは既に年内、マスタリングは済んでいましたが、本の発売に合わせて遅らせたのです。レコード店へは“12月発売”で予約を開始しており、急遽変更しましたが、間に合わずに少しニュースが漏れました)

 出来あがって来た本は見事なもので、特に西脇さんのは“入魂”の文章でしたね。またキネ旬の前野君の編集が素晴らしく(最終日は印刷所に詰めての大奮闘でした)、使用されている写真の選択が“分かっている”人であることを証明しています。巻末の資料編は急いだこともあって抜け落ちているものがあるようですが、ここまでまとまった資料というのはアキラ関連では初めてです。これから追加補足していく“土台”としてはよく出来ているといっていいでしょう。

 小林信彦さんの日活映画の文章に出会わなければ私もこれほどのアキラ・マニアにはなりませんでしたし、いずれアキラに関する本は世には出たかもしれませんが、これほどの密度を持ったものにはならなかったでしょう。それほど、アキラに関しての各人の“熱情”が込められた素晴らしい本です。

(2002年8月22日)




BACK