text by Eiichi Ohtaki |
私の“自慢”(笑)は小学・中学で9回、学芸会で“主役”を続けたことです。 (“ポップス元年”の中学2年の時に連続記録が途切れました。「演劇部」に所属していなかったんですね。翌中3の時には演劇部に所属、《部長》までやらされるハメに陥り、最後は“二つ”の出し物に同時出演・主演してしまいました。よって“合計”9回、となります) 《小学校 1年生》 全部の写真がないのが残念ですが、下の写真(1)は小学1年の時の“こぶとりじいさん”役で、ポーズを取っているのはこれが“舞踊劇”だからです。(最初のステージは“ミュージカル”だったのですネ。“花咲じいさん”の原型はこの“こぶとりじいさん”にあったようです) 《小学校 3年生》 「お巡りさん」役の小学3年生の時は、学芸会で良い出来だったので敬老会に持ち出され、二度同じ劇を演じました。この時に大受けしたのが“客の前で演じる快感”を覚えた最初ではなかったか、と今にして思います。(子供が大人びたセリフを言うので、おじいさん・おばあさんには格別面白かったのでしょう) 《小学校 4年生》 小学校4年の時は、前年転校して来た“初恋の娘”が相手役で、楽しいリハーサルを続けていたのですが、前日に突然彼女が高熱でダウン、代役の娘と猛烈なリハーサルを行なって何とか当日に間に合わせましたが、気苦労と初恋の娘と共演出来なかった思いとが混じって、終わった時は複雑でした。(明けた翌春、今度は自分が転校することに・・・) 因みにこの時の“出し物”は宮沢賢治の『貝の火』だったことを、担任の先生と後年に再会した時に聞かされました。 《小学校 5年生》 下の(2)は小学校5年の時の“パック”です。(右端)『カレンダー』に入っている「真夏の昼の夢」のクレジットを“パック大滝”としているのは、この個人的な背景があってのことでもありました。この時も好評で町内の敬老会か何かで再演され、私は当時流行っていた“まぼろし探偵”からヒントを得て、メガネとマント姿で“パック”を演じました。(その時の写真がないのが残念) 転校する、ということは、その土地の人間ではないので、《転校即→主役》というのは珍しいケースだと思うのですが、最初は“通行人”の役が割り当てられていたのです。しかし演出をしていた先生が突然「主役を変える!オマエ、やってみろ!」と指名され、その後“寒風”に向かって発声練習をさせられたり、かなり“本格的”にやろうとしている先生でした。題材も“シェークスピア”ですからね。ひょっとすると、ここで“演出”の面白味を知ったのかもしれません。 《中学3年生》 中学で想い出に残っているのは3年の時に『夕鶴』の“よひょう”を演じたことです。放送劇を舞台で行うという、中学生としては斬新な企画だったと思います。演劇部には二人の先生がいて、各々別の出し物で競っていたのですが、私は両方の主役を務めたのでした。 最初は一つだけの予定で、そちらは自分で“演出”も担当していました。やはり「やってみたかった」んでしょうね。《ヒテレツ・千葉》君も共演していて、普通の劇に当時の流行語を散りばめ、“コメディー仕立て”の演出を試みた、というモノでした。 一方の『夕鶴』は、これも“突然”、もう一人の先生から「オマエしかいないから、二つやるのは大変だろうけど、どうしてもやって欲しい」と頼まれたものでした。つまり《代役》だったんですね。(“おつう”役の女性は大変ウマイ人でした)(ここで《代役人生》が確定したのではないでしょうか(笑))(欠落している“年度”は、「主役を務めた」という記憶はあるのですが、題目はスッカリ忘れました) 今にして思うことばかりですが、この“中学三年生”の時が《我が演劇人生》最良の日でしたね。ここで燃え尽きました! 《高校 1年生》 下の(3)は高校1年、《私の演劇生活最後》(笑)の“ジャンバルジャン”(左端)です。これは“英語劇”でした。ナゼか顔が真っ黒で、ラッツ&スターよりも以前に“黒塗り”をしていたのですね。(“みすぼらしさ”を演出しようと自分で考えたのだと思いますが、“演劇”というよりも《演芸》チックになるのがワタシの性癖のようです) この高校には“一年”しかいなかったのですが、1964年の学校誌の写真のコーナーには、しっかりとこの“ジャンバルジャン”が載っています。 以上が《演劇と私》の一部始終ですが、4つの学校を転々としながらのこの“実績”はナカナカなものではないでしょうか。(自分で言っていれば世話はなひ) こういう“歴史”を考えて見ると、自分では将来《演劇》方面に進むのではないか・・・という、漠然とした思いが当時あったのではないかと、これまた“今にして”思います。 つまり、現在“職業”となってしまった《音楽》ですが、中学・高校時代は“聞くもの”であって、歌うことや演奏することはファースト・オプションではなかったようなのです。これは最近気がついたのですが、中学2年にテープ・レコーダーを購入していながら、自分の歌、あるいは声すらも録音してなかったのです。これは自分でも驚きました。つまり“音楽方面(歌手・ミュージシャン)”への強い志向はなかった、ということを意味しているのではないかと思うのです。自分の歌を吹き込んだのは高校二年生の時で、テープ・レコーダーを購入してから三年後のことでした。 時間軸で整理してみると、高校一年が《演劇生活》の最後で、自分の歌を吹き込んだのが高校二年、となっていますので、中学生から高校生になったあたりが“演劇”から《音楽》へのターニング・ポイントだったようです。やはり中学三年の時に“おつう”を見送った時が“演劇との別れ”だったのではないか・・・なーーんて思ったりしたりして。(その後、ジャンバルジャンとなって流浪の身に・・・。そうか!あれは《おつう探し》に旅立った“よひょう”であることを隠すための黒塗りだったのか!(笑)) 以前、ノージさんのページで私の70年代の《演劇生活》(笑)がスッパ抜かれたことがありましたが、その証拠物件がいよいよDVD化されるとかいうウワサを耳にしました・・・。(この「一度だけのあやまち」を体験した後で、「やはりこの分野に進まなくて良かったなぁ・・・」と思ったのでした。コレ以降、この分野には一切“手出し”してないですからネ。“演劇好き”ではなく《学芸会好き》なんですね。『カレンダー』は“ナイアガラ学芸会”だったんだねぇ・・・) |