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みんなで考えるJNES公開講座 対話の未来形 サイエンスコミュニケーションから見た対話の「歴史」「実践」「考察」
第2回 実践 日本初の「コンセンサス会議」への手探りの挑戦
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2-1 「日本人は議論が下手」という定説への挑戦
Q  「コンセンサス会議」という、科学技術政策に市民が発言する場を作る試みを、小林先生は日本で初めて、それもボランタリーで始められたわけですね。
A  1997年の秋に、東京電機大学の若松柾男、旧科学技術庁(現・文部科学省)科学技術政策研究所の木場隆夫、綾野博之(肩書きは当時)、そして私の4人で集まって、相談を始めました。若松さんがオランダ、私がイギリスに留学して、それぞれヨーロッパの試みを間近で見て関心をもっていたことがきっかけです。
 私は1994年にイギリスで最初のコンセンサス会議が開かれるときの準備を、目の当たりにしました。イギリスも日本と同じで、エリート官僚が政策形成をすべて仕切る世界で、一般大衆はちょっと見下されているような空気があります。そのような伝統の中に、コンセンサス会議が取り入れられていく過程を見て、これは日本でもできるのではないかと思いました。
Q  先生の著書、『誰が科学技術について考えるのか コンセンサス会議という実験』を読んでも、参加者の公募から会議の仕切りまで、暗中模索の連続で、いかに大変だったかということが、ひしひしと感じられます。
A  最初はものすごく不安でした。一般市民からパネルの参加者を募るのに、いったいどうやったら人が集まってくれるのか、どんな人が集まってくるのか、皆目検討がつきませんでした。
 それより何より、周りの反応が冷ややかでしたね。特に私は、科学哲学という人文系の学問で、実践とはおよそ関係ない、本ばかり読んでいるような世界の学者です。こんな社会的な実践活動に手を染めるのは、学者としては禁じ手、タブーとみなされています。研究者仲間に協力を仰いでも、何となく距離を置かれて、「あいつもついにヤキがまわったか」とか、「酔狂なやつだ」というような感じで見られていたように思います。
Q  そんな大変な取り組みに、あえて取り組もうと思われた原動力は何ですか。いったい何が先生の背中を押したのでしょう。
A  こんなシンドイこと、何で始めたんでしょうね(笑)。
 いや、大変なことはたくさんあったけれど、とても楽しかったんですよ。こうした試みを日本に導入すべきではないかという議論は、以前からされてはいましたが、そこでは、「日本人は西洋人と違って、合理的発想が苦手なので、議論が下手である。したがってコンセンサス会議のようなものは、日本では無理である」と、定説のように言われていました。しかし私は、「そうじゃないだろう。西洋人にできることが、われわれ日本人にできないはずがない」と思っていました。だからこの定説に挑戦し、それを覆してみたかったんです。
 いちばんの根拠になったのは、イギリスでも担当者は「どんなやつが集まってくるんだろう」とものすごく心配していて、応募してきた人たちの面接をすると言っている。その姿を見て、「なんだ、どこでも国民への不安とか不信感は同じじゃないか」と思いました。
 また、コンセンサス会議の先進国といわれるデンマークをはじめ、スウェーデン、オランダの研究者たちの話を聞いても、「結局、どんなに議論しなさいと言っても、できない人、する気がない人はたくさんいるんだよね」とあきらめたような表情で言っている。これは決して国民性の違いではない、議論のできる人間と、できない人間がいるということは世界共通なんだ、日本が特別なんてことはない、ともかくやってみようと決意しました。やってみないことには始まらないだろう、そう思ったわけです。
  「遺伝子治療を考える市民の会議」実施図
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