① ロム男氏は、『第四回 大善生活実証録』に収録されている「石黒英彦氏訪問記」をもって「国家諌暁の証」とされているが、そもそもこれは、当時の学会青年部長・神尾氏、幹事・片山氏、そして同じく幹事の辻氏が昭和16年11月初旬に石黒氏宅を訪問し、その内容を報告書としてまとめ上げたものであり、牧口氏が石黒英彦氏に面会し諌暁したものではない。これを以てロム男氏は「牧口氏、国家諌暁の証」としている。
画像 ① 参照されたし
画像 ② 参照されたし
② 次に、ではこの三名が「何を第一義」として訪問したのであろうか? それは「今夕訪問の目的は大善生活の提唱」と書かれているよう、日蓮正宗の信徒として諌暁したものではない。日蓮正宗における諌暁とは「大聖人の仏法を以て相手の邪義を破折し、折伏すること」は当然である。
③ 現在の創価学会の文献、また公式サイトを検索しても、牧口氏の具体的な行動を示す情報は得られない。なぜか? 諌暁など一切していないからであり、また牧口常三郎の行動に興味を持つ会員が増えることを恐れているからである。特に東南アジア、米国などの会員に牧口研究が深く入り込むと、「戦争を賛美、大東亜共栄圏賛美、天皇賛美の実態」が世界に広く知れ渡り、「世界平和の教団」という表向きの顔にドロが付くからに他ならない。
以上、
【参考資料】
【学会員側資料 価値[再]創造より抜粋】
① 牧口先生の失業の法華経誹謗の罪は深く、仏勅(ぶっちょく)のほどはきびしかったのでありましょう
(中略)
ちょうど、牧口先生のなくなったころ、私は二百万遍の題目も近くなって、不可思議の境涯を、御本仏の慈悲によって体得したのであった。その後、取り調べと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦とで毎日暮らしたのであった
(1951年 戸田城聖『創価学会の歴史と確信』)
② 戸田城聖 戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つと言っていた。教線が延びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結び付きは考えた。
(『宗教と信仰の心理学』 P36)
③ 牧口先生は<失敗会長>であられて、<判っていないのに会長に成ればどう成るか>という見本が眼前にある。牧口先生は生命論も十界論も一度も説いていない。牧口先生が正宗の信仰の会長として失敗会長であられた事は、石田が勝手に気づいたものではない。戸田先生に教えられて判った事である。先生は石田には『(牧口)先生の行き方――仏法へ価値論が入ってしまう事。価値論での信仰生活指導を指す――でやれば、仏法ではなくなる。ここに戦前の失敗が在った。価値論は九重の劣たから捨てた。だから(戸田は)生命論と十界論から説くのだ』と明示しておられたし、幹部一般に対しては『戦前は、一つには組織が無いために潰(つぶ)れた。もう一つには教学が無くて潰れた』と表現して教えておられた。弟子として露骨(ろこつ)に師を<失敗会長>とは表現できないから、大勢に対してはこういう言い方で教えておられた。(石田次男 『内外一致の妙法――この在るべからざるもの』)