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児童74人死亡・不明の大川小 教員の意見割れ、40分経過

津波で多くの児童、教職員が犠牲になった大川小の校舎(左)。中央奥が児童らが目指した「三角地帯」=5日、石巻市釜谷

 全校児童の約7割に当たる74人が津波により死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小で、地震発生後に児童らを校庭に集めてから避難開始までの混乱した様子が、市教育委員会の調査で浮かび上がってきた。津波を想定した避難先が事前に決まっていなかったため、教員らが避難先をめぐって議論。迎えに来た保護者への対応にも追われ、40分が瞬く間にすぎたとみられる。保護者の多くは調査結果に納得せず、学校側の責任を追及する姿勢を強めている。

 同校と市教委は4日夜に飯野川一小で開いた保護者説明会で、児童らの聞き取り調査の結果を報告した。出席者によると、3月11日の地震発生を受けて学校にいた児童は全員が校庭に避難。午後2時52分、防災無線のサイレンが鳴り、大津波警報が発令された。午後3時ごろ、点呼を終え、教頭と教員数人が集まって避難先について検討した。
 この時点で「山へ逃げるか」「木が倒れるのでこの揺れでは駄目だ」という話をしていた。避難先をめぐって教員たちが議論している間にも、防災無線は「海岸沿いは危険ですので高台に避難してください」と呼び掛けていた。余震が続き、恐怖のため泣きだす子や「山さ逃げよう」という男子児童もいた。
 教職員は一方で、児童を迎えに来た保護者や避難してきた住民の対応にも追われた。児童を保護者に引き渡すため名簿をチェックしたり、避難してきた住民が体育館などに入ろうとするのを制止したりする必要があったという。
 市教委は説明会で「迎えにきた保護者が(自分の子の)友達を連れて帰ろうとしても認めなかった先生もいた。『今帰ると危ないのでここにいた方がいいですよ』と話す先生もいた」と報告したという。
 地震から約40分後の3時25分ごろ、市河北総合支所の広報車が「長面の松林を津波が超えてきました」「高台に避難してください」と伝えているのを聞き、ようやく新北上大橋のたもとの三角地帯と呼ばれる小高い場所に逃げることを決め、避難を開始した。山沿いの裏道を進み、三角地帯に続く県道に出ようとしたところで、左前方から津波が襲ったという。


2011年06月06日月曜日


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