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人間の価値

以前、「仕事の本当の意味」を書いた。金を儲ける為の仕事ではなく、魂を助けるのが本来の仕事の意味なんだと。ではその仕事の価値は金銭に置き換えられるだろうか?勿論出来ない。幕末の志士の仕事だって、金銭には代えられない。

もし、幕末の志士が現代にいたら、今頃テロが吹き荒れているだろう。しかし我々の時代では、幕末と同じような手段をとるべきではないのは勿論だ。我々の時代は、志士の魂を持ちながらも、殺し合いではない戦いをしなければならない。その方が高等な戦いなのだ。

そうした魂のある人材を育てるとしたら、どれほどの投資が必要だろうか?現代において、志士が育つだろうか?愚直なまでに一本気で、一言で言えば馬鹿になって、情熱を注げる人間。自身の出世や経済的繁栄を目指してではない、友の為や大義、国の為など自分以外のことに対して真剣に取り組む菩薩人間。

一朝一夕でそんな人間など出来ない。吉田松陰のように、狂気ともいえる気迫で伝えようとする人間がいなければ、魂に火がつく事は無い。人は人で磨かれる。現代のように、冷めている空気のなかで、魂を燃やす事は困難だ。

我々は、時間をかけて、一人一人に向かってきた。それでも、少し気を許すと日常に飲まれてしまう。冷静な頭が出て来て、
「そうはいっても現実をみろよ」と熱を奪い取ろうとする。

普段の生活では、人は無意識のうちにお金を基準に判断している。何をするにもお金がかかるから当然である。決してそれが悪いと言っている訳ではない。ただお金に縛られていることに気づいていない。自分が何によって判断をしているのか、まずそこに気がついてもらいたい。そこに「そうはいっても現実が…」と頭が出てくる原因がある。

今は命の危険がないため、本当に大事なことに目がいかず、どうしても世間の評判やお金の事が気になってしまう。死んでしまえば残らないものにとらわれて、魂が望んでいる事にストップをかけようと頭は動く。不安が頭の栄養である。希望や光は頭の敵なのだ。魂にとっては光が栄養である。

信念を持ち、普通の人が不安で負けてしまうような状況でも戦える人間。そうした人間の価値はいくらだろうか?そうした人間は金では転ばない。

我々の仲間は、お金で雇っている訳ではない。それぞれが自分の意志で、経済的な成功より人間的成長をつかみ取ろうと修行してきた。だからそこに上下関係など無く、同志や仲間、家族としか表現できない関係だ。その中には、資産家もいれば無一文もいる。年配もいれば若者もいる。男もいれば女もいる。インテリもいれば、シャーマンもいる。ないちゃーもいれば、うちなんちゅもいる。それぞれが自分のすべてをこの世界に賭けてきた。

それぞれが役割を全うする事で、この世界は広がって来たのだ。どんな人間にも役目がある。無駄も矛盾も無いのが我々の世界だ。

ちなみに、賭けるというのは一回で終わるものではない。常に賭け続けることで維持ができるのだ。少しでも真剣でなくなれば、すぐに真剣に仲間が教えてくれる。真剣に人に向かう事なしに絆は生まれない。絆があるから、自分の持ち場に専念できる。お互いに、尊敬と信頼なくして、共に戦う事などできない。

こうした仲間(家族)がいるから、自分も思い切り戦えるのだ。本当に大事なことは何かを問い続ける。お金に換えられない仲間がいるからこそ、本当の豊かさとは何かを堂々と訴えられるのだ。そして、仲間がいるから、自分だけではできないことも出来るのだ。

これから益々本物だけが残る時代だ。形だけの繁栄など一瞬で消え去る。本当に大事なものも、一瞬でなくなるから油断ならない。常に火を入れ続ける自転車操業だからこそ、必死になれるのだ。

心の時代では、人と人は想いによって繋がっている。

  • 2011.06.01 Wednesday
  • 知恵
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正子の愛

 白洲次郎は、海外で好きに遊ばせてもらっていた。実家はお金があったので、その資金力のお陰で次郎はイギリス人脈が出来た。そこで目を付けられ彼はある秘密の仕事に携わる事になる。そのことについては後に触れるとして、彼は好きに遊ばせてもらった代わりに、政略結婚をさせられる。

そのお相手が、樺山正子。文句なしの貴族の家柄だ。彼女は家柄も良く才女で、何も不満もないようにみえる。今でこそ、白洲次郎と正子夫妻の関係は理想の夫婦関係のように見る人が多いが、最初から良い関係であったわけではない。

正子の苦悩を語るには時代背景を理解しないとわからない。当時は、貴族というものが残っていたように、重厚長大な時代だ。戦艦であれば大和のように、でかくて重くて存在感あるものこそが素晴らしいという価値観の時代だ。人の姿形も、重鎮といったような趣きが求められていた。当時の上流階級はそういう落ち着いた雰囲気の中でパーティなどをしていたのだ。

幼い頃からパーティ三昧の正子にとって、もうパーティーは飽き飽きだった。しかし、次郎はパーティー大好きで女遊びも激しかった。はしゃぐ次郎を見る正子の気持ちがわかるだろうか?

次郎は今でこそ、ジーパンを日本で初めて履いた男などと呼ばれオシャレなイメージがあるが、それは現代の時代感覚でみるとである。重厚な時代にジーパンは軽薄なイメージだ。実際、若い頃の次郎は重厚とはほど遠い、どちらかというとヤンキー的な軽い男だった。

想像してみて欲しい。白洲次郎と正子がデートをしようとレストランに行くとする。立派な車から出てくるのは、いかにも貴族の正子とチンピラ風の次郎。ボーイは面食らう。この似つかわしくない取り合わせはなんだろう?と。下手すると、正子がジゴロの男を連れているのかと見られてしまう。

正子はそれが嫌で嫌で仕方が無かった。自分が下品な人間と見られる事は貴族としてのプライドが許さないし、そんな人間と行動しなくてはならない事が辛くてしょうがない。苦しくて苦しくて、益々趣味の世界や古寺に救いを求めていった。寺に行くにしても、正子は自分のコネを使えば有名寺にいけるのに、あえて名も無いような寺ばかりを回った。

一方、次郎は得意な英語を駆使して、欧米人の間を立ち回ったり、女性にモテまくっていた。しかし、周囲の人間はそんな次郎を認める事は無かった。どんなに彼が頑張ったとしても、その風貌や発言、仕草から、軽い人物に見られていた。女性にモテたのもよくなかったのだろう。

さて彼の秘密の仕事はなんであったか?一言で言うと、彼はスパイだった。だから吉田茂にとっても使い勝手がよかったのだ。次郎の威勢のいい話しは種がわかってしまえばなーんだとなってしまう。「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれ、連合国に楯突いたという話しがあるが、当然である。出来レースなのだから怖くも何ともない。

さて話しは正子に戻る。正子は苦悩があったから随筆家として名を残したとも言える。岡本かの子もそうであったように、苦悩があるから光を生み出せるのだ。苦悩なき偉人はいないのである。

正子は夫である次郎の事が因縁だからこそ余計に嫌でしょうがなかった。夫は正子の家柄を利用して好き勝手に遊んでいるだけではないかと。だが、ある時ハッと正子は気がついた。

いつものように、「このチンピラが偉そうに」と、次郎のことを見ている人をみたときである。いつもなら「またか」とイラつくところだが、正子はその人から目をそらし、ふと次郎の顔を見たときに、その表情に苦悩を発見したのだ。

次郎は自分がチンピラのように見られてしまう事に苛立ちがあった。イギリス留学し、秘密の仕事もしているプライドがあるのに、自分が軽く見られてしまうのが許せず、人に対して傲慢に接してしまう始末だった。そしてそれが益々チンピラぽく見える悪循環である。その事に正子は気がついたのだ。

「この人は誤解されてしまう人なんだ。私しか彼の本当の姿を理解してあげられる人はいない。私だけが理解して支えてあげよう」と。そこから本当の夫婦として歩みだすのだ。正子の愛によって、白洲次郎は自分らしく生きられたのだ。

たった一人でも、自分の事を理解して支えてくれる味方がいれば幸せだ。それだけでどんな敵とも戦えるのだ。
  • 2011.05.26 Thursday
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  • by ozeki

太郎の背景

生誕100年を祝して、つい最近まで展覧会が行われていた二人の人物がいる。岡本太郎と白洲正子。時代を超えて再評価されている二人に新時代のヒントがある。そして面白いことに、この二人の人間関係がまた似ているのだ。

岡本太郎は「職業は人間だ」と言ったが、私に言わせれば、彼の職業は菩薩だ。彼の表の歴史は調べればわかるだろうが、普通ではわからない歴史に触れていく。

以前に書いた、調べてもどうしてもわからない壁の先の話だ。

まず、太郎の絵は本当に評価されていたのだろうか?実は才能がないと学校では散々だったのだ。日本で画家として活躍することなど到底無理だと宣告されていた。

しかし、そんな太郎に入魂とも、呪術とも、念とも言える情熱を注いでいたのが母かの子である。彼女が特別だったからこそ、岡本太郎は誕生したのだ。彼女自身は夫との関係に苦悩し、精神も病むが、苦悩したからこそ魂は磨かれた。晩年は夫の一平から観音菩薩と崇められていたほどだ。彼女は仏教学者として仏教に造詣も深かった。

その狂気とも言える愛情を受けて太郎は「岡本太郎」になったのだ。

学校から才能がないと烙印された太郎を連れてパリに行く。学校の評価など気にしない。太郎には何かがあると信じ、そしてそのままパリに置き去りにするのだ。

パリでもやはり才能がないと批判されて絵も描くのが嫌だった太郎は、最初遊び呆けて暮らしていた。そして景気よくお金を使う日本人として、お金のない貧乏な画家たちのパトロンのような、道化師のようなことをしていた。さて、そのお金はどうしたのだろうか?

当時はかなりの資産がなければ、海外留学など、ましてや遊学などできるわけがなかった。皇族や華族などのエリートだけがヨーロッパでの生活を満喫できたのだ。一体そのお金はどこから?

これはどんなに調べても、その資金の出処はわからない。両親である、かの子と一平にそれほどの収入があっただろうか?普通に考えたら、ただの新聞社員の一平には到底無理である。ましてかの子の実家は元々大地主とはいえ傾いていた。実家からの支援は受けられず苦労していたのだ。

太郎はお金の力で出版や展覧会もしている。お金があるから相手にされたようものだ。結論から言うと、父の一平はただの新聞社員ではなかったのだ。

当時の一平は、大人気の漫画家であった。大衆への影響力を持つ一平を利用して、世論を誘導する目的で機密費が使われていたのだ。その機密費を一平は太郎のために流用したのだ。

いわば、国のカネで太郎を創り上げたと言える。こうして、現代では多くの人間に影響力を与えているのだから、その投資は意味があった。不思議なものである。

帰国してからも、太郎は美術界からも評価されず、逆に戦いを挑んだ。そんな彼が、いまや芸術家においては人気ナンバーワンなのだから面白い。しかし、晩年の太郎は忘れ去られていた。今のように人気がでて、再評価のキッカケを作ったのは、岡本敏子だった。

敏子は、元々太郎の母である小説家であるかの子に憧れていた。太郎との出会いは、かの子がキッカケなのだ。敏子は、太郎の中にかの子をみて、一心同体になろうとした。彼のために生きることを決意し、岡本太郎の文章は全部敏子が書いていた。かの子の霊が敏子に降りたのだ。かの子の霊は敏子に引き継がれた。

そして岡本太郎は、絵ではなく文章がキッカケで再評価され注目されるようになった。太郎の母である「岡本かの子」の文学を裏で受け継いだのが、敏子。表で受け継いだのが、瀬戸内寂聴だ。実は、太郎と敏子、寂聴は三角関係であった。それがキッカケで寂聴は出家したのだ。因縁という凄さの一端が理解できるのではないだろうか。「岡本かの子」の影響力は現代にまで続いている。

長くなったので、岡本かの子と同じく仏教研究者だった白洲正子についてはまた次回に。
  • 2011.05.16 Monday
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「魔法少女まどか☆マギカ」にみる不変の法則の仕組み

「 魔法少女まどか☆マギカ」というアニメについて解説して欲しいという要望があったので、サラッと見てみた。なるほど、これは如来と菩薩のハタラキを説明するのに良い教材だ。

ヒットするものには裏がある。そこには不変の法則が組み込まれている。その法則を知るのが如来だ。時代は変わり表現方法が変わったとしても、法則は時代を越える。そして、菩薩は如来からの信号を一つ受けたとすると、そこから何倍にも広げて意味を理解し、それを時代に適した表現にして伝えていく。如来と菩薩のタッグは最強だ。このコンビは確実に時代を創っていく。そうでなければ、ただ時代魂があって、たまたまその時だけヒットしたという一発屋になる。この製作者には如来がついているのか、はたまた時代魂なのか、菩薩なのかは、この先の結果でみえてくる。ここでは敢えて触れない。

ちなみに、菩薩でも時代魂がないと、なかなか実践する場がなくて苦労する。だから真菩薩と呼ばれる菩薩の周りに菩薩が集まるのだ。そして、時代魂だけでもいずれ失墜する。そういう法則なのだ。

アニメの世界に限らず、小説でも映画でも、登場する人物の精神的葛藤は、普通の人なら一生あるかないかのことが濃縮しておきる。普段なら有り得ないことを濃密に短時間に体験するから、物語は成り立つ。現実世界においても、それに近い体験ができるのが如来、菩薩である。以前、菩薩は生き様の強烈バージョンと書いたことだ。人より濃い体験をするからこそ、辛さも喜びも人一倍の苦悩と歓喜になる。大衆は大きな感情の波を求めている。命のエッセンスを欲している。精神が試される体験をしたいのだ。表面意識では嫌がりながらも、本当は濃い人生を望んでいるのだ。だからこうした作品にハマるのだ。

本作品も法則通り。如来的要素を持つインキュベーターという知的生命体が解説して見せたように、時代を変えたり、創ってきたのは魔法少女、それはつまり菩薩だ。菩薩は表に出て働きかけるが、如来はあくまでも陰の存在だ。如来の働きは、大衆に知られることがない。たとえ知ったとしても、そんな話は大衆の常識外のことだから信じられない。例えば、インキュベーターのことをクラスメイトに話すようなものだ。

インキュベーターは魔法少女たちに、よく状況を解説してくれていた。その視点は小さな因縁を超えた、不変の法則から見た視点だから、普通には理解しにくい。しかし真理とはそのようなものだ。小さい世界にハマっていると大きい世界から見た世界が理解できないのだ。

魔法というと、対象物そのものを変えることを想像するが、本当の魔法は、視点を変えることだ。今までの概念から解き放たれるとするならば、魔法を解除したということだ。新たな概念を入魂することは魔法をかけるということだ。特別な世界の人間は、特別な世界の魔法にかかっているようなものなのだ。だから現実をみてしまうと、特別な魔法は解けてしまう。ジョイントは、普通の世界という魔法を解くことから始まるのだ。

インキュベーター(如来)は、善悪を超えていた。そして、自分にできることに徹し、自分では直接社会と関わることができないことを知っているからこそ、菩薩(魔法少女)を必要としていた。如来と菩薩のタッグを組もうとする。お互いに必要なのだ。

如来はときおり、変化を加速させる。それを表現しているのが、インキュベーターが仕掛けて、きょうこがさやかを救おうと行動したことだ。結果、きょうこ本人にとっては死を迎えることとなり、ほむらにしてもワルプルギスの夜という最終決戦での貴重な戦力を失った。危うく、まどかも魔法少女になるところだったが、間一髪で逃れている。この間一髪が肝だ。ギリギリのところで救われるようになっている。それを救ったのがほむら。これも意味がある。

そしてここが大事なところだが、結果だけを見ると、誰も報われていない。しかし、その加速がなければ、危機に直面し進化することが遅くなっただろう。ほむらしか魔法少女がいないという状況が、まどかの内面の葛藤には必要だったし、そのままワルプルギスの夜を迎えていたら、きょうこの存在が少しだけ厄介だ。最後はほむらもきょうこも負けるにしても、その経過はまた違った意味となるし、加速しないときと比べたらクライマックスへの時間が余計にかかる。

それぞれにとって、一番魂の学びがあるのは、あのタイミングで如来が加速させた時しかなかったのだ。が、しかしここで一つの法則を忘れてはならない。きょうこは菩薩の道をそれていた。まだ完全に外れてはいなかったが、輩(やから)に近かった。つまり、菩薩でないものが如来の信号を受けると、結果(成果)にならないという法則だ。だから誰も報われなかったのだ。しかし、如来のパワーはすごいから、今までのきょうこなら絶対にしないような、自己犠牲の賭けにでてしまったのだ。そうした決断をさせてしまうパワーが如来にはある。ありえないことが起きてしまうのだ。そしてそのパワーは伝播して、まどかをも巻き込んだ。第三者への波及効果もすごいのだ。しかし、菩薩を経ないで伝わった如来パワーは、一見すごいことが起きるが、結果は何も産まないことになる法則だ。

逆に、菩薩が如来のパワーを受ければ、どんなことでも実現していく。それが最後のシーンで表されている。先を急ぎ過ぎた、少し話を戻そう。

魔法少女が魔女になることは、天使が堕天使になることと同じだ。善意や正しさに拘るあまり執着が生まれ、ダークサイドに落ちていく。菩薩からテロリストへと変わるものは多い。以前、三島由紀夫のことを書いたが覚えているだろうか?その象徴が、さやかだ。このまま続けていたら、きょうこもそうなるところだった。そうなる前に今世を終わらせてあげたとも言える。如来の愛は深い。余計なカルマを積ませないために、きょうこの今世を終わらせてあげたともいえよう。普通の概念では理解できない世界だ。

きょうこもさやかも最初は、人を救いたいという菩薩心でスタートした。それがやがて堕ちていく。ほんの些細なキッカケや試練から、自己欺瞞が始り、人の意見を聞き入れなくなり、独善へとなっていく。菩薩は光も闇も、極端な形としてわかりやすく見せるのが仕事だ。いろんな菩薩がいる。きょうこたちのように、本人が自覚していない場合も多々ある。

菩薩の道は簡単ではない。魔法少女(菩薩)として普通ではできない体験もできる一方で、常に死と隣り合わせでリスクも高い。死ぬかもしれないという恐怖を常に抱えていたお陰で謙虚に菩薩として歩んでいたが、ほんの些細な油断で死んでしまったマミ。いくら今まで頑張ってやってきたからといって、容赦はない。仲間が増えるというチャンスこそピンチだったのだ。嬉しい時こそ、気を引き締めなければならない。またマミは、選択の余地がなく菩薩の修行をさせられていた。そういう人生もある。

このアニメの世界においては、まどかによる暁見ほむらへの因縁付けがなければ、この結末は迎えなかった。その因縁を受けてほむらが、時間を戻して何度もまどかを救おうとした。逆にほむらがまどかに因縁付けをすればするほど、まどかの魔法少女としてのポテンシャルは高まった。まどかが大天使だとすると、ほむらはサタンとしての役を引き受け、寂しさや切なさを受け入れて孤独に戦っていた。この二人だけは、世界が変わったとしてもお互いを覚えている。特別な関係だ。それはなぜか?あとで触れよう。

話はそれるが、暁見ほむらの名前が面白い。暁は、あかつきといい、夜明け前を示している。暁の明星といえば、金星である。金星はビーナスともルシファーとも呼ばれている。マニアック過ぎた。興味ある人は調べてみたらいい。

最後の最後まで、まどかは特別な力があるわけではない普通の子であった。時間が戻る前は魔法少女として頑張っていたとはいえ、どちらかというと暁見ほむらのほうが修行してるように見える。しかし最後、まどかは菩薩から如来へと進化する。その答えは、ほむらにある。ほむらがセッセとまどかの為に働いて、助けていたのには訳がある。それは、空海の言う不二の思想だ。元々、まどかとほむらは、ひとつの魂なのだ。敢えて分離して、違う体験を別々の人格として積んでいた。元々同じ魂だからこそ、あれだけ信じられ、特別な関係になれたのだ。表層意識を見ただけでは捉えきれない秘密がある。究極は自作自演なのだ。本人すらも忘れてしまう自作自演が最強だ。


ここからは余談だが、このアニメは萌え絵なので普通の方には抵抗があるだろう。この萌えという言葉は時代を象徴していた。そしてその「萌え」と同じ音の名前を持つ、私の妻の「もえ」は確実に時代魂だ。萌え要素としては欠かせない天然ボケもあった。今後が楽しみだ。

そして、萌えの聖地の秋葉原を拠点としてブレイクしたAKB48。面白いことを教えよう。私の結婚式の撮影の仕切りをしてくれていたのが、今のAKBの社長だ。当時は自分でも撮ってくれていたが、写真関係の社長でまだAKBがスタートする前だ。こうした不思議な繋がりが時代魂の特徴でもある。だから時代の裏側を知ることができるのだ。



  • 2011.05.11 Wednesday
  • 映画
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  • by ozeki

研究と実践の違い

 先日、プロ野球が開幕した。その開幕の数日前に、私は沖縄で楽天野球団のオーナーである島田さんを迎えていた。ご承知の通り、開幕の楽天の勝利は、東北の復興に捧げられた象徴として報道されていた。時代のまっただ中にいる球団である。そのオーナーがこの時期に沖縄入りする、という信号は興味深いものがある。

プロ野球は昔で言えばグラディエーター(剣闘士)だ。古代ローマの剣闘士に多くの市民が熱中した。スポーツは現代のグラディエーターで、魅力的な世界だ。オーナーであれば、多くの魅力的な人間に触れている。人を見る目が肥えているのだ。

今回、普通の観光ではわからない、地元の人でも知らない沖縄の裏側に触れ、目が肥えている彼でさえも喜んでくれた。そして嬉しい事に夕食を共にした際に、彼は私の仲間に対して、
「尾関の目が忘れられない。沖縄と言えば彼しか浮かばなかった」と言ってくれたと後から聞いた。

そう、人間は目が大事。目にすべてが現れるのだ。目、雰囲気、オーラだけで、その人間の事がわかってしまう。隠す事が出来ないのだ。


菩薩は、人間の生き様の強烈バージョンである。人が人生で何度かしか味えないものが凝縮しておこる。街を歩くだけでも、誰かに遭遇する、新たな気づきがある、シンクロ信号がバンバンやってくる。

菩薩修行というと、お寺にこもっての修行を想像するだろう。しかし、寺の中で修行したとしても、菩薩道の実践はできない。私は実際に菩薩の道を歩くことで、これまで魂の器を広げてきた。自らの概念を壊し、自らを創造し、実践を通して磨いてきた。菩薩の道を歩いて、実際に人を救うことをしてきた。


我々の仲間も、ただの遊びで沖縄に来ているのではない。それぞれの仕事や大切なものを捨ててでも、人を救うキッカケを作りたいと修行しているのだ。いわゆる修行とは違う、我々には実践の場がある。

セレブである島田さんのような人間と魂の話しができる場があるだろうか?
普通に生活してたら出会う事も無いだろう。彼の周囲には居ない人間達だからこそまた価値があるのだ。

事業家でも、アーティストでも、発明家でも、偉大な人物を研究していくと壁にぶつかる事がある。突き詰めて調べていくと、どうしてもわからない不可解なことが出てくる。そういった際に、霊的な見方、スピリチュアルな見方が注目をされる。見方を変えることにより、なるほどと納得できたり、解決できたりするのだ。

なぜ彼はこんな行動をしたのだろうか?
どうしてこんなことを言ったのだろうか?

そういった不思議な事も、視点を変えるだけで何の矛盾もなくなったりするのだ。普段まわりにいる人達だけでは得られない視点を我々は提供しているのだ。
  • 2011.04.30 Saturday
  • 仕事
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  • by ozeki

311後の世界

いよいよ我々の時代がやってきた。放射能が来るかもしれないと怯えている中で、社会はどこへ向かっているだろうか?

2011年。私が如来に教えられた多くのことの中で、唯一具体的な数字として信号を貰っていたのが2011年だった。その証拠はいくつかあるが、それよりもこうした数字はただの偶然だろうか?カバラ数秘術などにみるように、数字に意味があると捉える人たちは、それを元に世界を理解する。ちなみに11は再生だ。で、9が終わり。だからNYでの911は終わりと再生と捉える。ポルシェの911だってそういう概念の影響を受けている。ちなみに11月9日に起きたベルリンの壁崩壊とNYの9月11日同時多発テロは鏡合わせの数字のようになっている。そして、ムバラク大統領退陣も2月11日。

こうした世界観をすごい信じて、日頃から本気でそればかり考えて話しているのがスピルバーグだ。そうした人間が映画などで大衆に影響を与えている。311は日本が終わる象徴とか経済が終わる象徴とか、そういうストーリーが影響力ある人間たちに伝播していく。

いま先見性のある人間たちは早々に沖縄に目を付けている。私が沖縄に関わっているからそういっているのではなく、実際に条件の良い住宅などはなくなっているのだ。放射能の影響も無く、アジアにも近く、特区が数多くあり、人口が増えており、アメリカ軍がいるし、ひょっとしたら独立しちゃうかもしれない沖縄という場所が投資先としても魅力的になってきている。

人気が沸騰してから投資するのは馬鹿だ。人気がないときに投資するからリターンがあるのだ。そして、いま沖縄に居ると全くの平和で、本土の出来事は他国のようだ。それは、これからは沖縄だと言う見込みが当たっていたからで、わからないままに本土にいたら平和では居られない。読みが当たっているからこそ、平和なのだが、逆に当たったからこそ、その有り難みも忘れてしまう。また、ノアの箱船ではないが、読みが当たっても素直に喜べない。

だから言ったじゃないか。これからは経済も変わるよ。攻めから守りになるよ。お金よりも絆が大事になるよ。信頼できる仲間、コミュニティの時代だよと。嘘だと思うなら過去の記事を読んでみたら良い。これからは沖縄だよ、ベトナムだよとずっと言っている。生死を前にした時、本当に救われるとはどういうことなのか?魂の救済こそが一番の関心ごとになるんだよと。

本当のところを言えば、日本経済なんて借金だらけで、今更原発の話しをしたって始まらないところにいる。内閣がどうしたとか、東京電力がどうだとか、部分の話しをしたって意味が無い。根幹がおかしくなっているんだから。政治なんて末期症状もいいところで、水面下では亀井静香を立てようかなんて話しもでてるくらい、もうやけくそなのだ。民主党の中では、少なくても仙石か、などとあり得ない話しが最低ラインなのだ。順当に言って仙石、まさかの亀井静香だ。どちらにしたって先が思いやられる上に、もっとすごいのが、石原慎太郎を持ってこようかと話しているのだ。都知事になったばかりの石原を総理大臣に据えようかという話しまであるのだ。もうこれくらいしないと、このどうしようもない閉塞感は抑えられないんじゃないかと感じているのだ。これが現実なのだ。とても政府には期待できない。

放射能にしたって、アメリカは80キロ避難といっているのに、日本は30キロで本当にいいの?チェルノブイリは20年以上経っても死の町だけど、本当にそうはならないの?政府は本当に情報をだしてくれるの?今や、素直に信じる人間は少ないだろう。わざとじゃないにしろ、色んな思惑が交差して、結果的に何で今更みたいな話しばかりだ。結局は原子力に対する利権が絡みすぎて、国内も世界(アメリカ、フランス)も利権の確保に走りまくっている。

余震というよりは、本震じゃないの?という規模の地震が続き、次はどこなのか?という不安がある。東北よりも危ないとされてきた、東海沖地震や関東地震が起こったらどうなるのか?東京が巨大地震に見舞われれば、それはもう日本の終わりではないか。そんな状況の先行きが不透明の中で、事業しようとか金儲けしようと長期的に考えられるだろうか?

人々はいま、真剣に人生を考える淵に立ちだしている。
いざとなったら誰が頼りになるだろうか?どこの場所がいいのだろうか?本当に救われる、または救う事ってなんだろうか?今まで私が書いてきたような事を話したいし、知りたい気分になってきたのだ。安心、安定、確実だった東電の価値が一瞬で吹き飛ぶような時代に、本当に価値ある投資ってなんだろうか?誰を信じたらいいのだろうか?嫌でも考えざるを得ない状況に追い込まれてきたのだ。

あくせく働いてきて積み上げて来たものが一瞬にして価値がなくなる。絶対だと思ったものが、土台が崩れた途端に崩壊するのをみた。今の経済は極めて脆い幻想の上に成り立っている。それを見越して活動してきたのだ。我々は、実際に本当の意味で人を救って来たし、その仲間と共に社会変革の雛形を作っている。社会がどうなろうとも航海できる船だ。いざというときに、受け入れられるように、もっともっと器を広げる挑戦を今もやっている。この文を読んで何かを感じたのであれば、ドアを叩いて欲しい。我々はいつでも歓迎する。
  • 2011.04.15 Friday
  • 仕事
  • 19:05
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  • by ozeki

希望の光

言葉では表現しがたい現実が今も進行中であるが、我が家では暗闇に光を灯すように、第二子が誕生した。長い間、お腹の中で守ってきた母親の心は本当に愛そのものだ。男も出産という経験を出来るのだとしたら、社会はもっと平和になるのではないか。一方でわからないからこそ、思いやりがうまれるとも言える。この世の仕組みに無駄はない。出産という新たな生命の誕生を通して、世界の神秘を改めて感じた。

社会の一員である私たち自身が、次の世代へどんな社会をバトンタッチするか問われている。今までの価値が逆転した今だからこそ、幸せな社会を創造する時だ。幸せは画一的でない。が、根底にあるものは同じだ。見た目は違っても、根っこの在り方は同じだ。愛があるかどうかだ。愛の表現は人それぞれ。違うからこそ美しい。

この世では、何事も完成という終わりがない。常に進化できるし、変化し続ける。自分の時代を精一杯生きて、次の世代へとバトンを渡していく。堂々と誇りを持って、次の変化、進化を願ってバトンを託す。バトンを渡したい人がいるから、責任も感じるし頑張れる。

自分と縁のある人たちとの繋がりを感じ、その繋がりに対して責任を感じる。人を救いたい、助けたいという気持ちは高貴だ。時にそれはお節介かもしれない。しかし、気持ちなんてもんは一方通行なんだ。完全な理解を待っていたら、タイミングを逃してしまう。

このような大変化の時に産まれてきてくれた子に感謝する。産まれてきてすぐに彼は仕事をしてくれた。人の暖かさ、繋がりを感じられる出来事をつないでくれたのだ。そして、産まれてくるまでにも、私たち夫婦、家族にとって、この子の存在が結びの働きをしてくれた。

まさに、ジョイントベビーだ。この時期だからこそ、破壊のあとの創造の象徴として産まれてきてくれたように感じている。愛の繋がりによる邦作りの始まりだ。







  • 2011.03.28 Monday
  • 私生活
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今の想い

 何度もBlogを更新しようと書いた。でも違和感が残り公開できなかった。
なんかしっくりこない。自分の冷静さが嫌だった。

深夜一人になると、この未曾有の出来事の前に、ただ泣くだけだった。

そんな感情の高ぶりも、情報の洪水に侵されて、非日常が日常となり、冷静になってしまう。都会にいると、感じるのが難しい。自然のなかにいれば感じられるのに。感じようと心に熱をもたなければ、頭だけのロボットになってしまう。

想いのない綺麗な言葉を書いたって、人の心には本当には届かない。
文章には限界があるけど、想いが乗っていたら伝わる。

今はただただ、とても悲しい。
理由なんてどうでもいい。この先なんてどうでもいい。

この地震のことを想うと、涙がでてくる。

もっと生きたかっただろうに。
思い出を作りたかっただろうに。

被災者でないから本当のところはわからない。
ただの自己満かもしれないが、そんなこともどうでもいい。

悲しい。今はそう感じている。

  • 2011.03.21 Monday
  • 徒然なるままに
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悪魔の誘惑

仕事においても、人生においても、美味しそうな話ほど罠がある。そのことを大体の人間は頭では理解しているが、自分だけは違うと思ってしまう。他人からみれば、あからさまに怪しい話で、一体どんな人間が信じるのかと見えるような話でもだ。だからこそ、ニュースをみると、如何にも怪しい事件で満ちているのだ。


お金が欲しいという欲からくる罠は、ここでは話題にしない。私がここで触れたい、美味しそうな話の罠とは何か?今日書きたいのは、悪魔の誘惑についてだ。霊的な成長を求めて修行をしていると、好奇心の罠、自己欺瞞の罠などに陥りやすい。


ダマされる人間、罠にハマる人間は、みなバカなのだろうか?そんなことはない。一見、悪魔の罠に見えないからこそ罠にハマってしまうのだ。知的な人間ほど陥りやすい罠でもある。情報というものは、人を簡単に魔界に連れていく。自分でハマっていることに気がつくことはほとんど出来ない。だから師匠、仲間が必要なのだ。

どんな話も、結局は自分自身の成長の材料に過ぎない。その材料を通して初めて体験ができる。ただの観念(考え)だけでは魂は成長しない。体験、実践をするために、この世があるのだ。恐れすぎても、体験から遠ざかってしまう。痛みが怖いあまりに行動できなくなってしまっては本末転倒だ。

罠を避けることが賢い生き方だろうか?その罠は本当に罠だろうか?成長のための試練と、奈落に落ちて行く罠とでは、どう違うのだろうか?

相手を変えようとするのか?自分が変わろうとするのか? 自分の価値観だけで判断するのか?相手の価値観をも理解した上での判断なのか?

各自の人生のステージに置いて、体験実践すべき課題は変わってくる。一概に言える解答などない。自分の中にしか答えはない。成長するに連れて、罠はどんどん高度になっていく。内面に向かっているようで、逃げていることもある。

痛みのない成長はない。しかし、この痛みが厄介だ。本当の成長につながる痛みは耐え難いものだ。ついつい、それを避けるために、無意識に楽の道を選ぶ。そして、それがあたかも正しいかのような理由をつける。知識があればあるほど、正しい理由をつくれる。それが当然だと思えるのだ。

世界は、知れば知るほど、裏があり、どこまで知っても切りがないように感じる。魔界に入っていれば、それが恐怖に感じる。本来、計り知れないからこそ面白いし、感謝ができるのにだ。

悪魔の誘惑はとても魅力的だ。魅力的な話に出会ったとき、心が浮ついて飛び乗りやすくなる。一度落ち着いて、話に飛び乗りたい自分の中に、嫌なことから逃げたい自分がいないか探してみる。辛い時こそ、誘惑はやってくる。

悪魔は自分なのだ。自分が誘惑を作り出す。霊的に見れば、自作自演なのだ。人間は弱いからこそ、すぐに解決に飛び込みたくなる。自分は弱いと知らねばならない。何に対して弱いのか?それを知らねば無意識の罠にハマり続ける。

逆に言えば、悪魔の誘惑の時こそ、自分を深く知るチャンスでもある。ピンチはチャンスなのだ。自分を追い込んで辛い状態の時こそ、本当の救いもある。悪魔の誘惑の救いにホイホイ乗ってしまっては、本当には救われない。救われなくてもいいと覚悟して向かうのだ。精神的切腹だ。

現代では、肉体的切腹ではなく、精神的切腹こそが武士道なのだ。勿論、自己犠牲という名の自己欺瞞もあるからこそ、自分だけで判断せず検証が必要だ。自己犠牲という名の自己欺瞞も厄介だが、これについては映画「容疑者Xの献身」でも見て深めて欲しい。
  • 2011.03.06 Sunday
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告白

私は普通の人が考えているような世界の見方をしていない。だからこそ特別な世界を伝えたいと、このBlogを書いてるわけだが、逆にいうと、普通の世界の見方が時々わからなくなる。特に、ビジネスの世界にドップリと浸かっている人からしてみると、私は有り得ないことを言っているように見える。

ビジネスの世界においても、特別なビジネスのやり方もある。私はその方が究極の錬金術だと考えているが、世間一般のビジネス書が教えているような世界とはほど遠い。であるから、普通のビジネス世界の人間と仕事をするとき、スタンスが違うために気をつけねばならない。そもそも「仕事」という言葉の意味すら違う。(参考:仕事の本当の意味

魂とか霊に全く興味がない。もしくは、怪しいと思う人達と、「仕事」に対する価値観がどう違うか?我々は、魂を成長させる、霊が喜ぶために仕事をするが、普通のビジネスマンは金を儲けるためにする。

しかし、ここであえて言いたい。本当に儲かるとはなんだろうか?
信者と書いて、儲かると書くが、この文字の意味するところはなんだろうか?
頭が喜ぶのと霊魂が喜ぶのでは、どちらが儲かるのだろうか?

今の会社のほとんどは、千年を超えて存在することはないだろう。
それに対して、キリスト教は?何年続いているだろうか?また、ヴァチカンの資産はどれほどだろうか?仏教は?イスラム教は?神道は?

神とは何か?人の本質とは何か?人類が長く追い求めてきたテーマでモノゴトを見ている人間と、四半期決算で見ている人間とでは、利益に対する見方が変わってくるのも当然だ。

違う世界観を繋げていくのは難しい。だからこそ、繋がったら価値がある。全然違うからこそ、結びついたときに共創造が起こる。どちらが良い悪いという話ではないのだ。持ち場が違うだけなのだから。

今日誕生日の岡本太郎が産み出した、太陽の塔。当時は猛烈な反発があった。しかし今や、大阪万博は知らなくても、太陽の塔を知らない人間はいないのではないだろうか。何十年たっても、その価値は高まるばかりだ。未だに生み続ける経済効果はどれほどあるだろうか?ましてや、今も人の意識に働きかける、太陽の塔の存在が持つ力を金に換算することなど出来ない。

我々は、数年で左右してしまうようなトレンドを意識していない。真に価値のあるものを創造している。それは今は理解されづらいものだ。だからいいのだ。別に理解して欲しいから書いているわけではない。理解されなくて当然だ。

しかし、一人その世界に浸り、他の世界を見下すのは器が小さい。理解されづらいからこそ、向かうのだ。どのような手段を取ってでも、社会と関わりを持つことが大切だ。そうした葛藤を通して、人間の器は広くなり、愛の実践が出来るのだ。

具体例を挙げよう。
ビジネスマンにとって、投資は投資した金額以上のリターンがあれば成功といえる。我々は、極端なことを言えば、リターンがあろうとなかろうとそれで成功か失敗かを決めることはない。お金という媒体を通して、関係性が出来たことが重要なのだ。

その関係性を通して、魂が救えるかどうかが重要だ。お金はキッカケに過ぎない。しかし、かなり強いキッカケになる。昔、私はお金の関係を嫌がっていた。金を借りることも貸すことも嫌だから、株式投資という形でリスク限定していた。が、今はお金の関係があるからこそ、お互いの人間性の本質が見えると認識している。

ドロドロしたところに、人生の本質がある。泥の中から蓮の花が咲くのだ。

関わった人間とは、いつかは一緒にその花を咲かそうといつも思っている。
その日を楽しみに私は仕事をしている。




  • 2011.02.26 Saturday
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