三江学院
毕业设计(论文)报告
题 目 黑泽明的电影
日语 系 日语 专业
学 号 B02111016
学生姓名 任迎
指导老师 曾田康载
起讫日期 2006年3月— 2006年4月
设计地点 三 江 学 院
日本語学部日本語学科
卒 業 論 文
題 名 ‗‗‗‗‗黒沢明の映画‗‗‗‗
論文作成者 ‗‗‗‗‗‗‗任迎‗‗‗‗‗‗‗‗‗‗
指導教官 ‗‗‗_曾田康載‗‗‗‗‗‗‗‗‗
日付 2006 年4 月 26 日
概要
电影的表现形式超越了民族,文化,被认为是世界共通的语言 .导演通过胶片,把自己的主张和想法传达给世界.日本的电影给世界电影界带来了很大的影响.其中最著名的导演是黑泽明.他作为日本新生代导演的代表人物,促进了日本电影的进步.
本篇论文简单介绍了黑泽明的生平,列举了他的代表作品,介绍了他电影的特点和表现方法.黑泽明的功绩和在电影界的地位已被世人所认可,对他也有一些自己的想法要陈述.他的电影,特别要说明《罗生门》。
黑泽明的电影充分展现了他的创作才能.其中我最喜欢的电影<<罗生门>>于1950年获得了威尼斯国际电影节金狮子奖.论文中将详细的分析<<罗生门>>,并阐述自己的想法.
黑泽明的这部电影当初在日本也曾经受到非难和批评,但世界早已经认可了他的才能。好的作品迟早会受到社会的认可.黑泽明给世界电影界带来了很大的影响.我相信他的作品将永远留在电影爱好者的记忆之中.
关键字: 黑泽明 电影导演 完美主义 罗生门 事件真相
概要
映画という表現は、民族や文化を超えて、世界共通の言語と言われている。監督たちはフイルムを通して、自分の主張やメッセージを世界へ伝える。日本の映画は世界の映画界に大きな影響を与えている。その最も有名的な監督は黒澤明である。彼は日本の新しい監督の代表的な人物として、日本映画の進歩を促した。
この論文は黒澤明の生涯を簡単に紹介し、彼の代表的な作品をとりあげる。彼が撮った映画の特徴や表現の方法を紹介する。黒澤明の功績、映画界の位置は人々に認められているが、ここで私は自分の考えを述べてみたい。彼の映画、時に「羅生門」について、である。
黒澤明の映画には、彼の創作の才能があふれている。私の最も好きな作品である「羅生門」は1950年、ベネチア国際映画祭、金獅子賞を受賞した。論文では、この「羅生門」を詳しく分析して、自分の考えを説明する。
黒澤明のこの作品は当初日本では非難、批判を受けたが、世界はいち早く彼の才能を認めたのである。いい作品は遅かれ早かれ、社会に認められる。黒澤明は世界の映画界に多大な影響をもたらした。彼の作品は映画愛好者の記憶にいつまでも残り続けていると私は信じる。
重要な言葉:黒澤明 映画監督 完全主義 羅生門 事件の真相
序論
アメリカのある有名な映画監督は「黒澤明は映画界のシュークスピアだ」と言う。われわれ中国人は黒澤明の映画から、日本映画に興味を持ち始めた。黒澤明は単に日本の代表的な映画監督ではなく、アジアの映画を世界に知らせた第一人者だと思う。黒澤明は世涯には三十一作の映画を撮った。ヨーロッパ、アメリカの映画が世界に氾濫しているのに、なぜ一人の日本の映画監督が世界に注目されたかのという疑問が頭の中に残っている。
全世界に自分の映画を理解させるのは難しい挑戦だが、黒澤明が彼の思想を映画作品にどのように表現したのかという問題は研究する必要があると思う。
黒澤明の映画は三十一作あるが、代表的な「羅生門」を選び、ここで詳しく述べてみた。この映画は1951年ベネチア映画祭の金獅子賞を受賞した。アジア映画が世界的な評価を受けたのはこれが初めてのことだった。映画の中のすてきな場面、よく吟味されたセリフは深い意味を含んでいる。「羅生門」という映画は黒澤明が自分の独特な考えと表現技術にようって、芥川龍之介の原作とは違う「羅生門」を観客の前に示した。
自分は黒澤明の映画に個人的な考えを持っている。学生としてみる映画は大人に比べて、正確に理解できないかもしれない。しかし、「羅生門」に対する考えを詳しく発表したいと思う。黒澤明の表現技術を紹介し、彼の映画の特色を総括する。
本論
一、映画技術について
映画という表現形式は、実演であれアニメであれ、物語であれドキュメンタリーであれ、民族や文化を超えて、世界共通語となりうる可能性を持っている。歴史上最新の総合芸術であり、表現メディアではないかとおもう。
世界国々から、そしてキャリアと年代を超えて、既成の価値観と既成の文脈を超えて、力強く、あるいは繊細な、そして何より新しい作品が数多く作られて,観客がいい映画を見られることを私は願っている。日本の映画が世界から注目されるのは、溝口健二、伊丹万作たちからであるが、黒沢明によって、日本映画が大きく注目されるようになった。
二、黒澤明の略歴
黒澤明は東京でうまれた。1936にPCL(東宝の前身)にして以来、五十五年間映画作りに傾倒し、世界の映画芸術界に大きな影響をもたらした。
世の中に新風を吹き込み、既成の秩序を破って新しい価値を創造する人たちは決まって誤解やあらぬ誹謗を受けて、異端者あつかいされることが世の常である。黒澤明ほど高い栄誉を受け、成功を収めた人でも。生涯を通して映画批判家との軋轢は続いた。いまだに彼の仕事の本当の価値は、理解されていないといっても過言ではないのである。
1943年、「姿三四郎」で監督デビューした。主な作品に「羅生門」(1950年、ベネチア国際映画祭金獅子賞など)、「生きる」(1952年、ベルリン国際映画祭ドイツ陪審賞など)、「七人の侍」(1954年、ベネチア国際映画祭銀獅子賞など)、「デルスウザーラ」(1975年、モスクワ国際映画祭金賞など)、「影武者」(1980年カンヌ国際映画祭パルムドール賞など)がある。1985年に文化勲章を受賞した。1990年には米アカデミー賞、特別名誉賞受賞、その他多数受賞した。
黒澤明は生涯に三十一作の映画を撮った。その中で下記の映画を私たちはよく知っている。
1943 姿三四郎 東宝映画
1945 続姿三四郎 東宝映画
1946 わが青春に悔なし 東宝映画
1948 酔いどれ天使 東宝映画
1949 野良犬 東宝映画
1950 羅生門 大映東京
1951 白痴 松竹映画
1952 生きる 東宝映画
1954 七人の侍 東宝映画
1955 生きものの記録 東宝映画
1957 蜘蛛の巣城 東宝映画
1958 隠し砦の三悪人 東宝映画
1961 用心棒 東宝映画=黒澤プロ
1963 天国と地獄 東宝映画=黒澤プロ
1985 影武者 東宝映画=黒澤プロ
1985 乱 東宝映画=黒澤プロ
1990 夢 東宝映画=黒澤プロ
1991 八月の狂詩曲 東宝映画=黒澤プロ
1993 まあただよ 大映画=電通
三、 黒澤明の映画の特徴
黒澤明は典型的な男性の芸術家である。彼の映画はよく日本の武士を描いている。「七人の侍」は空前絶後の作だと言われる。これほど貪欲で、これほど作者の内発的なイメージが死守され、そこに溢れるようなエネルギーが注がれた作品は稀有である。映画美と映画精神に溢れ、観る者を激しく圧倒する。
彼はアメリカ映画を模倣して、新しい映画技術を工夫しながら、既成の秩序を破って新しい価値を創造するべく頑張った。その後も一作一作、彼は従来の日本映画にはない映画を目指し、それを大胆に試み続けていくのであるが。「七人の侍」はおよそこれまでの時代劇映画にはみられない激しい戦闘場面に満ちて、また滑稽でもある。この映画にはユーモアもたっぷりある。そして深い思想がある。アメリカ西部劇に負けない活劇シーンも撮った。
ルーカスとスピルバーグは、黒澤明の映画をほとんどそろえていて、新しい映画を作る時は、エネルギーをかきたてるために、黒澤映画を全部見るということを聞いた。 黒澤映画を見ながら自分たちの考えをまとめる。つまり、黒澤明の映画の中には、映画が基本的に持っていなければならない。何かがあるとこの二人は考えている。小説でもなければ、演劇でもない、映画精神、映画美、映画的感覚といったものが画面からビンビン伝わってくる。そのシャーワを浴びて、映画とはこういうことではないかという出発点に戻ってアイデアを吟味する。黒澤明は日本人としては珍しい才能を持っている。厳密で論理的な考えと深遠な思考である。
十代から二十五歳くらいまでの若い人たちが新しい映画に非常な関心を持っている。そういう人たちの中から次の映画を担う人がとび出してこなければならない。黒澤明にはそういう願いが感じられる。若者にむかって映画を作ったのである。
四、「羅生門」――私の最も好きな作品
黒澤明の映画の中で、最も好きなのは「羅生門」である。この映画には非常に重い哲学がある。象徴的な表現を用い、簡潔なセリフにより、一つの状況における、それぞれの人間のエゴイズムを浮き彫りにしていきながら、事件を描く。この映画は事件をわかりやすく解説しているのではなく、観客自身にいったい何が真実なのか考えさせるように迫ってくる。
1 あらすじ
「羅生門」という映画の中の本物の殺人者は誰か。盗人多襄丸であるか。婦人は殺人者なのか。武士は自殺したのか。いいえ。殺人者はこれらの人ではない。殺人者は人間ではない、観客が注意を向けない涼しい風だ。多襄丸は自分の殺人の動機を述べて、「すべてあはその涼しい風」といった。しかし、微風が殺人犯人であるという話は観客に深い印象を残さないが、よく考えてみると、この話は物語の土台になっている。この涼しい風がなければ、すべてこの物語は起こりえなかった。
2 事件の人物と起因
この物語の全面的な構造から見ると、疑いえないことは多襄丸がキーであり、必要人物である。多襄丸本人と彼の活動がなければ、武士夫婦、樵夫と行脚たちはこの事件にまきこれないで、自分たちの生活をつづけている。樵夫と行脚僧も大雨の午後、ぼろぼろになった羅生門の下に集まって、この物語の不確実な真実に困惑することはない。
蒸し暑く、風もない午後、多襄丸は木の陰の下でまどろんでいる。武士夫婦に気がつかないで、ただ閉じた目をちょっと開けた。しかし、武士夫婦が彼の前を歩いている時、思いがけない涼風が吹き、婦人のベールと着物の裾をめくり、彼女の優雅な姿及び美しさをあらわにした。全くぐうぜん、この一瞬が多襄丸の目に入り、彼は女性の美しさに驚かされ、眠ることができなくなる。この涼風は多襄丸の欲望の扉を開けた。この時にはこの婦人を手に入れ、武士は殺さないほうがいいと考えた。
3 「事件真相」について
多襄丸の述べる話は樵夫に伝えられる。多襄丸は自分の罪を否認しない。武士は自分に殺された。どうするか別に意見はない。彼は自分の罪を述べ初めて、「その涼しい風がなければ、多分武士は多分死ななかった」と明確に言った。
ところが、婦人が行脚僧に伝えた話はこのようだ。多襄丸は自分を強姦して、満足してにげさった。彼女はこんな大きな屈辱に耐えられない。彼女を責める夫の薄暗い目にも耐えられない。短刀を見つけて、夫に自分を殺すよう哀願してから、気が遠くなって倒れてしまった。彼女が目覚めると、短刀が夫の胸につき刺さっていた。深い悲しみに耐えられない彼女は、自殺を試みるが、思いどおりに死ぬことができない。
そして、行脚僧は武士の話を伝える。妻は強姦された後、予想に反して、多襄丸に武士を殺すことを頼む。多襄丸は彼女の言うことを聞かない。武士は自分の妻が許しがたい、悪い女だったとは、と。彼女を罵倒するが、妻は消え去ってしまう。憤慨して彼は短刀で、切腹をした。しかし、まもなく短刀は誰かにこっそり引き抜かれる。
樵夫は武士の話を否定してから、口を開く。自分が自分の目で見たままの全体のプロセスを言う。彼が裁判官の前でそれまで証言しなかった理由はこの事件にかかわりたくなっかたからである。多襄丸は婦人を暴行した後、婦人の前にひざまづいて、彼女に詳しを請う。しかし、婦人は「自分は女性だから、何も決定することはできない」と言う。そこで彼女は夫を縛っているひもを解いて、夫と多襄丸に自分たちでこのことを解決させようとする。この時、夫はこのような女に命をかけたくないので、「どうして、おまえは自殺しないのか」と彼女を責める。しかし、多襄丸は婦人がかわいそうだと思うので、武士を非難する。最後に、婦人は男が実に利自的、意気地のない人だと悟る。夫に武士として、とうして、自分を守れないのかと聞くだけでなく、悪名高い多襄丸に「人々を欺く強盗」と冷やかに言う。婦人に強く刺激されて、二人は彼らの剣を抜きそうな様子をする。最後に、多襄丸は武士を殺したが、婦人は彼を嫌ったので、多襄丸は気落ちして、婦人から離れざるをえない。
4 私の考え
なぜ婦人の話と樵夫の述べた「事実」がくいちがっているのか、というところに私はとても興味を持った。婦人がこのような話を言ったのは妻として純粋な貞節を守るためであった。もし、婦人が述べたことが真相であれば、なぜ樵夫は事実をゆがめたのか。このかわいそうな婦人に対する同情からか。あるいは、妻のほうが貞節を守るために、事実をゆがめているのかもしれない。私は女性として、特に、妻の証言に興味を持ったのである。
もう一つは人間のあり方の問題である。
最初映画は羅生門の下で、雨宿りをしている二人の男をとらえる。彼らは起こった問題によって、とても困惑しているのである。行脚僧にしてみれば、この事件は毎年の水害、戦争、伝染病などよりも大変なテロリストの問題だ。彼にしてみれば、真相がただ一つであるべき事件が意外にも、異なった視点から経験した人によりそれぞれ異なった事実が、述べられたことである。彼は最後に「人間は人間を信じないと、人間は何を信じることができるか」と考えるに至る。
既に起こったでき事件の真相は何か。訴訟当事者、目撃者の証言は真相は事実かどうか。すなわち、私たちが最大限真実に近づくことができるかどうかは目撃者が誠実であるかどうかに関っている。毎年毎年の戦争、飢饉に見舞われた民が絶望的な状態になり、道徳の価値が崩壊してしまう。この時、一番不安なことは人間の間の信頼感が弱くなってしまうことである。ある状況におかれて、誠実の上に成り立っているお互いの信頼がどの程度残るかという問題を私は考えさせられた。
5 当時の国民に対する、黒澤明のイメージと彼のメッセージ
黒澤明はその時代を背景にして、「羅生門」を作った。1950年は、まだ敗戦の影響も厳しいものがあった。8千万の人口が37万7800平方キロメートルの土地で生きなければならない。乏しい物質はものすごい勢いで値上がりし、賃金の上昇は物価の上昇にとても及ばなかった。大衆は欲求不満に陥った。まったく絶望的な状態だった。日本人すべてが、明日の自分はどうなるのかとても不安だった。このような状況は、人が最も堕落しやすい。国からは何の保障もないので、誰も生きるために、私欲を膨大させ、勤労意識、労働意識はかなり低下してきている。「羅生門」という映画の中の農夫のように、赤ん坊の衣類さえも奪う人になりやすい。黒澤明はこの時期の暗闇をつかんで、映画「羅生門」を創造した。観客はこの映画を見て、自分の人生、自分の生き方を考えるようになる。「羅生門」は娯楽映画であるだけではない、悲観、退廃しやすい、この時代の人々に対する、厳しい戒めであろう。この時代の人々へのこのようなメッセージが放たれていると思う。
結論
黒澤明は完全主義を追求する監督であるだけでなく、自らも脚本執筆に参加し、映画完成に至るまでのその豪腕振りから天皇と呼ばれた。武士の化身である黒澤明は五十五年の映画生涯に、三十一作映画を撮って、欧米の映画が世界の映画界を独占していた状況を突き破ったアジアの監督である。
四十年代から六十年代まで、彼の作品の多くは、物語の筋が複雑で場面はすばらしく、結末は不明確だった。しかし、年を取ってから、彼の作品は「老人問題」をめぐって、年寄りの生活状態、心理的な状態、を明確に表現した。
中日文化の違いは大きく、物事の考え方もかなり違うので分からない場面やセリフもがあるが、監督が言いたいことは大体理解できる。映画という世界共通の言葉をメディアにして、人間のやさしさをたたえたり、ヒューマニズムを唱えたり、平和を祈り希望を世界に伝える。映画を見る時、私たちはすばらしい場面に賛嘆するだけでなく、監督が伝えたいことをよく考えてみる必要がある。映画の鑑賞はいたずらに知識を重ねることでも、単なる娯楽でもない。作品の中に籠められている、監督の主張に火を点ずることであり、そのことによって自分の中に眠っている新しい生命を目覚めさせることである。
この論文を書くことにより、黒澤明の映画に籠められた深い意味をさらによく考えさせられた。
参考文献: <<黑泽明>> 张滨 辽宁美术出版社 2004-01
<<黒沢明ーー人間と芸術>> 山田和夫 新日本出版社 1999-08
<<黒沢明 音と映像>> 西村 雄一郎 立風書房 1998-11
<<黒沢明と「七人の侍」>> 都築政昭 朝日新聞社 1999-09
<<黒沢明「夢は天才である」>> 文芸春秋 1999-08